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ミステリ界の巨匠の‟裏ベスト”! エラリイ・クイーン『フォックス家の殺人〔新訳版〕』飯城勇三氏によるnote版解説 全文公開!

フォックス家の殺人_帯

現在大好評発売中のハヤカワ・ミステリ文庫のエラリイ・クイーン新訳版4部作。それぞれの巻に収録された。クイーン研究家・飯城勇三氏による巻末解説を全冊分順次公開いたします! note版だけでしか読めない新しいトピックをそれぞれ書き下ろしていただきました! 今回はライツヴィルもの第二弾である『フォックス家の殺人』です!

解説 クイーンの裏ベスト

エラリイ・クイーン研究家 飯城勇三

その刊行──ライツヴィル再び

 一九二九年に『ローマ帽子の秘密』でデビューしたエラリイ・クイーンは、その後も『フランス白粉の秘密』『オランダ靴の秘密』『ギリシャ棺の秘密』『エジプト十字架の秘密』『Xの悲劇』『Yの悲劇』と書き継ぎ、謎解きミステリの頂点を極めました。そのクイーンが大きく作風を変えたのが、一九四二年の『災厄の町』。架空の町ライツヴィルを舞台に、文学性とパズル性を両立させたこの長篇は、クイーンのファンやミステリのファンだけでなく、文学のファンにも好評を博したようです。
 その好評を受けて、再びライツヴィルでエラリイが謎に挑むのが、本書『フォックス家の殺人』。初刊本のカバーでも、「エラリイ・クイーンが、『災厄の町』で驚くべき体験をした小都市ライツヴィルに帰ってきた」と謳
っていて、続篇であることをアピールしています。では、その〝続篇〟とは、どのような作品なのでしょうか?

その魅力──アンチに薦めたいクイーン作品

 一流作家の宿命として、クイーンにもアンチが数多くいます。彼らが批判する点はいくつもありますが、どうやら、クイーン作品に顕著な〈人工性〉を嫌う人が、一番多いようです。「読者への挑戦」や「読者が書き込む余白」といった趣向やフェアプレイ宣言、それに作中に盛り込まれた数々の仕掛け──主流文学にはあり得ないこういった人工性を嫌う人は少なくありません。『災厄の町』では、こういった人工性は減ってはいますが、それでも、〝配達されない三通の手紙〟の不自然さや、祝祭日ごとに事件が起きることや、ジムの「ちくしょう、憎らしい妻」という台詞や、ある本に関するミスリードなどに、人工性を感じてしまう人は少なくないでしょう。
 そんなアンチに薦めたい作品が、一九五四年の『ガラスの村』、そして、本書『フォックス家の殺人』なのです。
 おそらく、本作から人工性を感じる人は、ほとんどいないはずです。特に第一部は、〝文学作品〟以外の何ものでもありません。戦場でトラウマを負ったデイヴィーと家族三人の姿は、みなさんの心に深く刻まれるはずです。
 そして、驚くべきことに、第二部でエラリイの捜査が始まっても、この雰囲気が変わることはありません。エラリイもまた、他の作中人物と同じように、物語に自然に溶け込んで、捜査を行うのです。
 その捜査の軸になるのが、関係者の内面に入り込むこと。関係者が隠している十二年前の内面を次々と浮かび上がらせ、最後は被害者ジェシカの内面まで明らかにするエラリイ。その姿は、本格ミステリの名探偵というよりは、ジョルジュ・シムノンのメグレ警視を彷彿とさせます。特に、関係者への聞き込みをしながら、エラリイが漏らす述懐──「はたしてこの男は、残酷にも罠にかけられた犠牲者か、それとも卓越した演技力を持つ俳優か」とか、「それならなぜ、声に興奮混じりの勝利の響きがあるのか教えてくれ、ベイヤード」──は、メグレそっくりではありませんか。
 しかし、さらに驚くべきことは、本作は本格ミステリとしても優れているのです。
 事件の状況は、ベイヤードが犯人ではないとしたら、完璧な〈不可能犯罪〉だし、書斎の机から盗まれた品物が何かわかった時点で泥棒の正体とその目的まで暴き出す推理も見事だし、『ギリシャ棺の秘密』を思い出す水差しの手がかりからの推理も鮮やかだし、最後に明らかになる犯人の正体もまた、初期作を思い出します。
 私が特にクイーンらしいと思ったのは、第17 章のデイキンの「結局のところあいつは、有罪判決を受けて十二年間服役した男をまた同じ罪に落とそうとしただけだ! なんとも妙な状況じゃないか」という台詞。クイーンは、こういったパラドキシカルな状況がお気に入りなのです。例えば、「シャム双生児の一方が殺人を犯したら処刑できるのか?」などがそうですね。
 つまり本作は、クイーンのファンにとっても、アンチにとっても、面白く、楽しく、魅力的な作品なのです。
 では最後に、ファン向けの小ネタを四つ。
〔その1〕本作のキーワードである「Fox」は、「狐」だけでなく「狡猾な人」という意味も持っています。つまり、「THE MURDERER IS A FOX」という原題には、「殺人者はフォックス家の一員」と、「殺人者は狡猾な人」の二つの意味があるわけですね。また、「Fox」と結びついた語も多く、作中に登場する「きつねの手袋(Foxglove) =ジギタリス」以外にも、「空飛ぶきつね(Flying Fox) =大コウモリ」、「きつねの手(Fox Paws)=過失」などがあります。「きつねの話(Tale of the Fox)」は「きつねの尻尾(Tail of theFox)」のもじりで、「きつねとぶどう」はイソップ童話からでしょう。
〔その2〕第3章に出てくる〈断崖(Suspicion)〉は、フランシス・アイルズの『犯行以前』(一九三二年)を原作とする映画で、監督はアルフレッド・ヒッチコック。実は、この映画と原作小説は、「夫が借金まみれで妻が良家の娘である夫婦」が主人公で、妻が「夫に殺されるのではないか」と疑い、そこにミステリ作家がからむ、という話なので、『フォックス家』よりも、『災厄の町』にぴったり合うのです。この映画の公開は一九四一年なので、『災厄』に組み込むのに間に合わなかったクイーンが、遅ればせながら、
『フォックス家』に入れたのではないでしょうか?
〔その3〕クイーンの犯罪実話集『エラリー・クイーンの国際事件簿』(創元推理文庫)に収録されている「絞殺されたオランの花嫁」は、「戦争神経症の夫が眠っている間に妻を絞め殺す」という話。つまり、デイヴィーのような症状は、現実にもあったわけです。
〔その4〕第14章に登場する〝指紋採取道具の入った箱〟は、『フランス白粉の秘密』など、いくつもの作品で活躍する〈探偵道具箱〉です。「ライツヴィルもののエラリイは〈国名シリーズ〉のエラリイとは別人ではないか」と言う人がいますが、この道具箱を見ると、同一人物なのでしょうね。

その舞台──年代記のはじまり

 
 当たり前の話ですが、「シリーズもの」と呼ばれるには、まず、二作目が出なければなりません。言い換えると、本作によって、初めて〈ライツヴィル年代記〉が幕を開けたわけです。
 本作はその幕開けにふさわしく、冒頭から、『災厄の町』でおなじみの面々が登場します。さらに物語が進むと、前作の主要人物たちのその後も描かれ、おなじみの地名やおなじみの建物も登場。『災厄の町』の読者は、懐かしい気分に浸ることができるでしょう。
 ただし、物語的に重要なのは、前作と同じく〝町の悪意〟。妻を殺したと見なされたベイヤードに向けられる悪意、その子デイヴィーに向けられる悪意、夫が従軍中だというのに遊び回るリンダに向けられる悪意……。こういったものが積み重なり、デイヴィーを追い込むのです。おそらく、ニューヨークでは、リンダの行為などは、誰も批判しないでしょうね。
 また、この舞台はミステリ的にも重要です。関係者が十二年後も同じ場所に住み、十二年前の出来事を覚えているなんて、ニューヨークでは、まずあり得ないでしょう。その上、犯行現場が十二年間も保存されているなんて──。おそらく、この事件がニューヨークで起きていたら、エラリイは解決できなかったはずです。
 物語的にもミステリ的にも、ライツヴィルという舞台は有効でしたが、一つだけ問題がありました。それは、エラリイの年齢。
 一九二九年の処女作『ローマ帽子の秘密』では、本の刊行時点で、クイーン父子はイタリアに移住したと書いてありました。警視は引退し、エラリイには妻と子供がいます。しかし、一九三二年の『エジプト十字架の秘密』あたりから、作者はエラリイの年齢をぼかすようになりました。シリーズが長期になるのを見越して、いつまでも若いエラリイが活躍できるようにしたかったのでしょう。
 ただし、この狙いは、〈ライツヴィル年代記〉とは相性が良くありません。『災厄の町』の時に生まれた赤ん坊が、『フォックス家』では「あのちっちゃなノーラも、とても大きくなりました」ということは、エラリイもそれだけ歳を取ったということになりますからね。しかも、ニューヨークを舞台にした『九尾の猫』などでも、作品間のつながりから、〈ライツヴィル年代記〉とは別の流れにすることができなくなってしまいました。
 おそらく作者は、こういったデメリットはわかっていながら、それでもライツヴィルものを書き続けたかったのでしょう。いや、逆に、エラリイが歳を重ねる作中人物に変わったからこそ、文学作品の主人公をつとめることができたのかもしれません。
 なお、新訳版『災厄の町』と同じく、本書にも原書にはないライツヴィルの地図が付いています(一九五〇年の『ダブル・ダブル』の地図を流用して編集部が作成したもの)。第8章を読む際などは、ぜひ参照して、〈ライツヴィル年代記〉を味わってください。

その来日──狐の眼が光る「災厄の町」の殺人!!

『災厄の町』の初訳は、妹尾アキ夫訳で《宝石》誌一九五〇年三月号に一挙掲載。そして、本作の初訳は、同じ《宝石》誌の──わずか四カ月後の──七月号と八月号に『フォクス家殺人事件』という題で分載されました。訳者も同じ妹尾アキ夫。さらに、この翻訳は一九五七年に『フォックス家の殺人』と改題されて妹尾韶夫名義でポケミスに収められました。
 訳文は、チェッカーを「将棋」、駅のプラットフォームを「歩廊」と訳したり、訳者がわからない単語を飛ばしたりしていますが、当時としては、きちんとした訳でした。いくつかのシーンがカットされていますが、ポケミス版にはあるので、雑誌の編集者がページ数を調整するためにやったのでしょう。
 一九八一年には、青田勝訳でハヤカワ・ミステリ文庫から刊行。これは立派な訳ですが、インターネット等で容易に海外の情報が手に入る現在では、物足りないところがあります。
 例えば、本書第5章でデイヴィーが『アーチーとメヒタベル』を朗読する場面を見てみましょう。本書では、最初に出てくるデイヴィーの「……いつも陽気に(トウジュール・ゲ)、が座右の銘、いつも陽気に(トウジュール・ゲ)……」という台詞は朗読している本の一部で、この章の終わりに出てくる
「……いつも陽気に(トウジュール・ゲ)よ、デイヴィー、いつも陽気に(トウジュール・ゲ)」は、リンダがそれを真似たのだとわかります。しかし、旧訳では、最初の台詞は「いつも朗らかっていうのが、あたしの標語(モットー)よ。いつも朗らかよ」と訳され、リンダの座右の銘になってしまいました。次の台詞も当然、リンダが自分の言葉をくり返したことになっています。これは訳者の力量の差ではなく、単に、時代によって、情報へのアクセスの容易さに差が生じているに過ぎません。ですが、読者としては、新訳の方がありがたいですね。
 時代による違いはもう一つありますが、これは、訳文を並べるだけでわかると思います。
 〔原文〕「Jap crates」
 〔新訳〕「日本軍のおんぼろ戦闘機」
 〔旧訳〕「敵機」
 
 ところで、新訳版『災厄の町』を読んだ人は、旧訳では「妹」と訳されていた女性が、「姉」と変わっているのに気づいたと思います。原文は「sister」だけなので、どちらの訳が正しいかはわかりません。──が、クイーン・ファンとしては気になったので、アメリカの熱烈なクイーン・ファンにして、リーとダネイの創作をめぐる往復書簡集『エラリー・クイーン 創作の秘密(仮)』(国書刊行会より二〇二一年刊行予定)の編者にして、舞台版『災厄の町』の脚本家、ジョセフ・グッドリッチ氏に意見を聞いてみました。氏の回答は──「私は、彼女は『姉』だという感じを受けます」。
 どうやら、新訳版の方がふさわしい訳語のようです。越前氏の原典の理解度はすばらしいですね。
 そのすばらしい訳者により、『フォックス家の殺人』は、新たな命を吹き込まれました。既に旧訳版で読んだクイーン・ファンも、あらためてこの新訳で読み直してみてください。そうすれば、これまで以上に、ライツヴィルの町が浮かび上がり、三組のフォックス夫妻の内面が浮かび上がるに違いありません。しかも、次は『十日間の不思議』の新訳が、みなさんを待っているのです。

その後継――ライツヴィルは永遠に

 本作で幕を開けた〈ライツヴィル年代記〉は、作者自身によって、書き継がれていきました。長篇は『十日間の不思議』、『ダブル・ダブル』、『帝王死す』、『最後の女』。中短篇は『クイーン検察局』の「ライツヴィルの盗賊」と「GI物語」、『クイーンのフルハウス』の「ライツヴィルの遺産」と「ドン・ファンの死」、『クイーン犯罪実験室』の「結婚式の前夜」と「菊花殺人事件」、『間違いの悲劇』の「結婚記念日」。
 しかし、これだけではありません。ライツヴィルの魅力に惹かれた作家たちが、この町を舞台とするクイーン贋作を書くようになったのです。まず、ジム・ハットン主演のTV版『エラリイ・クイーン』の「黄金のこま犬の冒険」というエピソード(一九七五年放映)。脚本が『ミステリの女王の冒険』(論創社)で訳されています。お次はE・D・ホックの贋作「ライツヴィルのカーニバル」(二〇〇五年)で、邦訳は『エラリー・クイーンの災難』(論創社)に収録。デイル・C・アンドリュースの贋作「LITERALLY DEAD」(EQMM二〇一三年二月号)や、アーサー・ヴィドロの「THE MISTAKE ON THE COVER OF EQMM#1」(クイーン贋作アンソロジー『THE FURTHER MISADVENTUREDS OF ELLERY QUEEN』収録。二〇二〇年)にも、ライツヴィルは登場します。残念ながら、ニューヨークを舞台にした贋作よりは数は少ないですが、これからも、ライツヴィルは書き継がれていくことでしょう。


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