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【試し読み】『同志少女よ、敵を撃て』冒頭第一章を全文無料公開!

大好評発売中の今年度アガサ・クリスティー賞大賞受賞作、逢坂冬馬『同志少女よ、敵を撃て』。独ソ戦を舞台に、女性だけの狙撃小隊の物語を描いた本作は、新人離れした筆力の高さが評価され、史上初、全選考委員から5点満点がつけられました。
今回は、冒頭の第一章を先行掲載。書籍にお寄せいただいた推薦コメントとともに公開いたします。

◎推薦コメント

とうてい新人の手とは思えなかった。まず、文章表現には不利な戦闘シーンの描写がうまい。これは想像力と語彙の豊かさによってもたらされているのだが、だとすると作者は天賦の才を与えられている。
(「オール讀物」3・4月号より)──浅田次郎(作家)

アクションの緊度、迫力、構成のうまさは只事ではない。──北上次郎(書評家)

これは武勇伝ではない。狙撃兵となった少女が何かを喪い、何かを得る物語である。──桐野夏生(作家)

復讐心に始まった物語は、隊員同士のシスターフッドも描きつつ壮大な展開を見せる。胸アツ。──鴻巣友季子(翻訳家)

多くの人に読んで欲しい!ではなく、多くの人が目撃することになる間違いなしの傑作!──小島秀夫(ゲームクリエイター)

今だからこそなおさら読むべき本。一人の少女の視点を通して、戦争が人を壊していく様子がものすごい熱量で描かれている。人間とはなんなのか。敵と味方とは。この本を読んだあと、今の世界の姿が変わって見えた──為末大(スポーツコメンテーター)

衝撃的な結末にこの物語のすべてが詰まっている。──法月綸太郎(作家)

戦争は女の顔はもちろんのこと、男を含めたあらゆる性別の顔もしておらず、つまり人間の顔をしていないのだという事実を物語ろうとする、その志の高さに感服した(「オール讀物」3・4月号より)──三浦しをん(作家)

第二次世界大戦時、最前線の極限状態に抛りこまれたソ連の女性狙撃手セラフィマの怒り、逡巡、悲しみ、慟哭、愛が手に取るように描かれ、戦争のリアルを戦慄とともに感じさせる傑作である。読者は、仇をとることの意義を考えさせられ、戦争の理不尽さを思い知らされ、喪失感と絶望に襲われながらも、セラフィマとともに血なまぐさい戦場を駆け抜けることになるにちがいない。──沼野恭子(ロシア文学研究者)(巻末「推薦のことば」より)


同志少女よ、敵を撃て【書影】

逢坂冬馬
『同志少女よ、敵を撃て』


 プロローグ

一九四〇年五月

 薪割りの音が、春の訪れを告げる暁鐘(ぎようしよう)のように、小さな村に響きわたる。
 お隣のアントーノフおじさんは風邪が治ったんだ、と十六歳の少女セラフィマは安心した。肩まで伸びた髪をお下げに結(ゆ)わえると、壁に掛けてあったライフル銃を手に取った。
「行ってくるね」
 卓上の写真に言葉をかける。写っているのは、椅子に座る痩身の母と、その傍らに立ち、めいっぱい厳(いか)めしい表情を作る父──自分のいない家族写真。
 家を出ると、写真の姿とは違い、がっしりとした体に簡素な外套をまとう母、エカチェリーナが待っていた。
「行くわよ」
「うん!」
 答えて、二人並んで村を歩く。草木の芽吹く香りと水車の回る音。それに薪割りの音。ささやかな活気が、小さな農村を満たしていた。イワノフスカヤ村。村人がたった四十人の村は、春の訪れとともに、それぞれの家庭が、それぞれの営みを快活にこなしていた。
 小屋の脇で薪割りをしていたアントーノフさんが、息を整えてから声をかけた。
「おや、セラフィマにエカチェリーナさん、また狩りですか。ご精が出ますな」
「ええ、今年は越冬した鹿が例年より多いみたいなんです」
 母が答えると、近所のボルコフ家の娘、十二歳のエレーナが、村を流れる小川を跳び越え、勢いよく駆け寄って来た。
「セラフィマ、必ずやっつけてね。兄さんが言ってたの。畑が荒らされて、コルホーズに出荷できなくなったら、この村、他(よそ)と合併されて引っ越ししなくちゃいけないかも知れないんだって」
「大丈夫だよ!」と彼女の頭を撫でた。「そうなる前に仕留めるからね」 
 額の汗を拭ったアントーノフさんが、微笑んだ。
「母子(おやこ)ともに頼もしいことだ。感謝しているよ」
 鋤(すき)をかついでそこを通りかかった村人、ゲンナジーさんが笑いかけた。
「皮が要るときは、俺に言っておくれよ! 手袋でも防寒着でもつくってやる」
 はい、と答えると、遠くから声がかかった。
「フィーマ!」
 その者の姿を見て、セラフィマも声を弾(はず)ませた。
「ミーシカ」
 エレーナの兄、ミーシカことミハイル・ボリソヴィチ・ボルコフ。
 豊かな金髪にアイスブルーの瞳をした彼は、心配そうにセラフィマの顔を覗(のぞ)き込んだ。
「フィーマ、大丈夫かい。最近は熊がうろついてるって、学校で聞いたよ」
「大丈夫だよ。それに熊が出たら、それこそ危ないから私が仕留めないといけないし」
 セラフィマが答えると、ミハイルは、少し恥じるようにうつむくと、うん、と言った。
「待っててね。そのうち僕も銃を覚えて、一緒に狩りに行けるように頑張るから」
 薪割り小屋から、アントーノフさんの妻、ナターリヤさんが顔を覗かせて微笑んだ。
「二人とも偉いわあ、やっぱり将来の村を背負う夫婦ね」
「僕らはそういうんじゃありませんよ」
「まだそんなこと言ってるの? この村で最初に学問を修めるのはあんたたちなんだから、将来は出世して、ここを引っ張っていってよ」
 ミハイルは、村で唯一同い年の男の子だ。村では兄と妹のように育った。
 学校へ通う町で同年の男の子と出会ったとき、その粗野で下品な言葉遣いに驚いたが、しばらくしてミハイルが特別に優しいのだと気付いた。そのうえ町へ出て行くと男女を問わず皆に好かれる人気者で、セラフィマはいつも隣にいた少年が特別であると知らされた。
 村の誰もが、ミハイルとセラフィマは将来結婚するのだとなぜか決めつけていた。
 当の二人はキスもしたことはないし、そんな話をしたこともないのだが、なんとなく、そういう空気を感じてもいた。
 ミハイルが生真面目に再度否定すると、セラフィマの胸元で、エレーナが尋ねた。
「でも心配なのは熊だけじゃないわ。人食いキーラも出るかも知れない!」
 周囲を見渡す。大人たちは微妙な笑顔を浮かべて、適当な相づちを打っている。
 ミハイルがそっとささやいた。
「エレーナは、まだ信じてるんだね」
「私たちは十歳で気付いたのにね」
 セラフィマとミハイルは、くすくすと二人で笑った。
 夜に外をうろつくと、悪いことをすると、山奥にいる「人食いキーラ」に殺される。大人たちが子どもを脅すのに使う、村の言い伝えだ。
「行くわよ、フィーマ」
 エカチェリーナが歩を進めていき、セラフィマもそれに続いた。
 裏山へと続く道を登る途中、ふと、村を見下ろした。
 離れて立つ小屋の煙突から、ちらりほらりと煙があがり、粉挽きの水車はゆっくりと回る。コルホーズに供出される畑では、芽吹いた作物が日の恵みを浴びている。
 薪の束を作っていたナターリヤさんが、こちらに手を振っている。
 水車小屋から粉を運ぶボルコフ夫婦。それを手伝っていた息子、ミハイルは、軽く目を合わせると、気恥ずかしそうに下を向いた。
 村の外れでは旧式トラクターと農耕馬が、並んで畑を耕している。
 見知った家族のように親しい人たち。慣れ親しんだ村。イワノフスカヤ村。
 この場所からは、それが一望できる。
 ここにいると、人の姿を見ることができる。この光景が好きだった。
 きっとこんな日が、いつまでも続くのだろう。
 十六歳の少女、セラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤは、そう信じていた。


***

 対立する二つの世界観のあいだの闘争。反社会的犯罪者に等しいボリシェヴィズムを撲滅するという判決である。共産主義は未来へのとほうもない脅威なのだ。われわれは軍人の戦友意識を捨てねばならない。共産主義者はこれまで戦友ではなかったし、これからも戦友ではない。みな殺しの闘争こそが問題となる。もし、われわれがそのように認識しないのであれば、なるほど敵をくじくことはできようが、三〇年以内に再び共産主義という敵と対峙することになろう。われわれは、敵を生かしておくことになる戦争などしない。

アドルフ・ヒトラー 一九四一年三月三〇日(引用者註)
(大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』より)

***


第一章 イワノフスカヤ村


一九四二年二月七日

 照準線の向こうに獲物を捉えたとき、心は限りなく「空(くう)」に近づく。
 単射式ライフルTOZ-8を構え、T字照準線のむこうに鹿を捉えたとき、十八歳になった少女、セラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤは、これまでに何度も経験した、その境地にいた。
 距離は百メートル。無風。
 山林の中だが、目標と自らの間に枝葉なし。ほぼ理想の形に近い。
 冬の夜空に煌々(こうこう)と輝く満月が星々の光をかき消すように、雑念の消え去った内面を、「狙え」というただ一つの意志が強固に貫く。やがてその意志もまた消え失せ、限りない無念無想の境地に達したとき、彼女は呼吸をも支配下に置き、それがもたらす銃身の震えを止めた。あとはただ引き金を静かに絞るのみとなった、そのとき。
 照準線と獲物の間に、新たな存在が見えた。
「あ……」
 声が漏れた途端に、照準がぶれた。澄み切った意識が濁る。
 深い雑草の間から、そこに寝転んでいたのであろう子鹿が起き上がった。
 子鹿は乳離れして間もないのか、しきりに母鹿の足下をうろつき、その愛を求めるようにじゃれついた。母鹿はそれに応え、子鹿の顔を舐(な)めてやった。
 再び雑念を消すため、セラフィマは相応の努力をした。考えるな、と考えてはいけない。ただいつもそうしてきたように、心を研ぎ澄ますのだ。
 息を整え、母鹿の頭に狙いを定めた。
 引き金を絞ると、銃身が跳ね上がり、拡大された視界から獲物が消えた。
 いつもは惜しく感じられるこの瞬間が、今日は与えられた慈悲であるように思えた。
 スコープから視線を外したとき、心の内から除外されていた光景が、思い出したように目に入った。木々の枝に残る雪と、その向こうの澄み切った冬の空。
 昨年、突如として始まったドイツによるソ連侵攻を経てもなお、イワノフスカヤ村とその暮らしに変わりは無い。
「当たったね!」
 隣から優しい声がして、セラフィマは、母エカチェリーナがそこにいたことを思い出した。
「うん……」
「どうしたの?」
 母が不思議そうに首をかしげた。いつも獲物を仕留めたときは必ず笑顔を見せるから、無理もないとセラフィマは思った。母からは子鹿が見えなかったはずだ。
 説明すべきだろうかと迷っていると、母が言った。
「フィーマ、撃つ前に歌っていたね」
「私が?」
 セラフィマは目を丸くした。まったく記憶になかった。
 ええ、と母は答える。
「カチューシャ、小さい声で歌っていたよ。驚いたわ、いつもあんなに集中するのに」
 そう、とセラフィマは曖昧(あいまい)な返事をした。
 自らの倒した鹿の姿を見る。一撃で脳を撃ち抜かれた鹿は、体を震わせることもなく、四肢を伸ばして即死していた。
 不思議だ、と彼女は思う。なぜ死骸は、生きているときと姿形は変わらないのに、一目でもはや命がないものと分かるのだろう。
「よかったね、フィーマ」
 獲物に向かって歩き出すとき、母はいつものようにつぶやいた。
「これで村のみんなにお肉を食べさせてあげられるし、畑を荒らされなくて済むよ。偉いよ、フィーマ。とても立派よ」
 仕留めたときは、必ずこう言ってくれる。それが、村一番の狩人であるセラフィマと、彼女に射撃を教えた母エカチェリーナの約束であるかのように。
 事実、セラフィマが自らの楽しみや腕試しのために狩猟をしたことは一度も無い。彼女の暮らす農村イワノフスカヤは、常に野生動物による食害に苦しみ、食肉が不足していた。
 ──だから、誰かが鹿を撃つ必要があるのだ。そう実感することが、彼女には必要だった。
 そう思ったとき、母と何度も話し合った心配ごとが、セラフィマの口をついて出た。
「お母さん。私がモスクワへ行っちゃったら、一人で狩りができる? 農業も、生活も。本当に、私がいなくなって大丈夫なの?」 
 セラフィマは、高校教育課程で優秀な成績を収めたため、秋が来ればモスクワの大学へ入学することが決まっている。近郊とはいっても、村からモスクワへは歩いて二日もかかるため、一人で寮に暮らし、長期休校以外に会う機会はない。その間も狩りは必要だ。けれども銃を撃てる男は既に村にいないので、自動的に三十八歳の母がその役割を担うことになる。
 母はたくましい体を揺らして、気丈に笑った。
「平気に決まっているでしょう。あなたに狩りを教えたのは私だし、それに見てごらん、私はあなたよりずっと力持ちなの、やせっぽちさん!」
 エカチェリーナは、自らの体重と同じく八十五キロはありそうな鹿の体をベルトにつないで、ずるずる引っ張り始めた。慌てて母より三十キロほど軽いセラフィマがベルトをもう一つつなぎ、銃を抱えたまま鹿運びを手伝う。
「フィーマ、周りの人たちを見てごらん。村の人も町の先生も、みんなあなたがモスクワの大学へ行くことを誇りに思っているでしょう。村初めての大学生よ」
「うん。でも町のマトヴェイ神父さんは、このあいだ帰り道で会ったとき、モスクワへ行っても共産党のいいなりになるな、って言ってたよ。スターリンは恐ろしい独裁者で、ちょっとした批判をしただけでも処刑して、何十万人もの人を殺してるからだって」
「マトヴェイ神父さんがそんなでたらめを言ったの? そのことを誰にも言ってはだめよ」
「どうして?」
「そんなでたらめを言ったと知られたら、神父さんが殺されてしまうからよ」
 返事に困った。母が冗談を言ったのか、それともある種の批判をしたのかが判然としなかった。
 鹿を引いて林を歩くと、その後ろに二人の靴と、口紅のような鹿の血が跡を残して行った。
 深くは考えなかった。ソヴィエト連邦で冗談と批判はそう明確に違うものではない。そしてそれがどちらであるにせよ、何を言っていいか、悪いかは決まっている。地区会議(ソヴイエト)で当局者に生活の不平やノルマへの不満を述べることはできても党そのものを批判することはできない。役人への不平不満を新聞に投書することは推奨されるが、そこに最高指導部への批判を書こうものなら即逮捕。母も心得ていて、話題を切り替えた。
「だから銃の撃ち方なんて忘れて、勉学に励んでちょうだい、秀才さん。娘が大学へ行けるなんて、誇らしいわ。町の先生たちも、あなたなら大丈夫、って言ってたもの。大学を卒業して、学んだドイツ語を活かして外交官になるんでしょう」
「ええ」
「でも、今どきドイツ語なんて勉強していてファシストの手先だと思われないかしら」
「そんなことないよ、お母さん。フリードリヒ先生は党の人たちとも親しい、らしいし」
 セラフィマが教育を受けた高校は、イワノフスカヤ村から徒歩で一時間ほど歩いた町にあり、そこでは亡命ドイツ人で元ドイツ共産党員のフリードリヒ先生がドイツ語を教えていた。独ソ開戦後、先生は自分の立場に不安を覚えたのか、ことあるごとにソ連の対独戦争は自己防衛であるとともにドイツ人民を圧政から解放する聖戦だ、と生徒たちに話すようになり、セラフィマが大学進学を決めると、「モスクワへ行って私の話が出たら、フリードリヒ先生はいつでも母国の解放のため、ナチ・ファシストと戦う覚悟ができていると伝えてほしい」と真剣な顔で頼んだ。
 それを告げると、エカチェリーナは、
「ふうん」と、どこか冷めた口調で答えた。「ドイツ人も大変ね。自分でヒトラーを選んで、私たちに襲いかかっておいて」
「それは違うわ、母さん」
 思わずセラフィマは抗弁した。優しくドイツ語を教え、自らの語学力を褒(ほ)めて伸ばしてくれたフリードリヒ先生が言っていたことと、彼女の信条がそうさせた。
「ヒトラーが総統になったのは、選挙で選ばれたのではなく軍人のヒンデンブルクが彼を首相にしたからだし、それ以来ドイツ人もファシスト政権には逆らえないようになったの。今望まずして戦争に参加しているドイツ人民も、ファシストの犠牲者なのよ。戦争が終わったら、きっと両国は仲良くなれる。人民を苦しめるのはいつも、圧制者だもの」
 そうね、と母は優しい顔で笑った。
「昔あなたが好きだった演劇のように」
「うん。戦争が終わったら、必ず外交官としてドイツとソ連の仲を良くするの」
 十年以上前、村に来た公共教育演劇団が見せてくれた演劇が、彼女と「ドイツ」の出会いだった。演劇団は、これは第一次世界大戦のとき、ドイツ軍と帝政ロシア軍との間に実際に起きた出来事だという前口上に続いて、演劇を村人たちに見せた。
 あらすじはこうだ。皇帝(ツアーリ)のため、望まずしてドイツとの戦争へ行った人々の間に、レーニンらの革命戦争が伝わり、最前線の塹壕(ざんごう)内に厭戦(えんせん)気分が漂い始める。主人公のロシア人兵士は、無益な戦争をやめようと周囲の兵士たちに呼びかける。彼らは銃や大砲をあさっての方向に撃つようにサボタージュをはじめ、ドイツ語の手紙を伝書鳩につけて向かいの塹壕に飛ばし、俺たちは撃たないからそっちも戦いをやめようと勧める。仲間は次々と集まり、戦争をやめて革命軍に加わり、皇帝を倒すことで戦争を終わらせよう、と語り、集団脱走の計画を練る。しかし、計画実行の前夜、裏切り者のコサック兵によって上官に計画が漏れ、肩に金モールをつけた将校が、主人公を撃ち殺せ、と兵士たちに命じる。兵士たちはそれに従おうとしない。それならば敵に撃たせてやれ、と将校は怒鳴る。
 塹壕を越えて主人公はドイツ軍の的(まと)にされる。
 主人公は殺されてしまうのだ、とセラフィマは目をつぶったことを覚えている。
 しかし、銃声はしない。やがて片言(かたこと)のロシア語が答える。
「撃たないぞ、同志!」
 計画を知っていたドイツ人兵士たちは、彼を解放するために塹壕を越えてやってくる。そして兵士たちが銃を捨てて抱き合い、金モールの将校と裏切り者のコサック兵が連れて行かれる。
 両国の兵士が、お互いの国での革命を誓い別れるところで終幕を迎えた。
 幼いセラフィマは、立ち上がって、手が痛くなるほどに拍手をした。
 ──今にして思えばやや教科書的な筋書きであるし、史実という展開には若干の誇張もあろうが、セラフィマは劇が終わった夜は眠れないほどに興奮した。
 それは、会ったことのない父の姿を、その演劇に見いだしたからに他ならなかった。
「母さん、お父さんもああだったんでしょう? ドイツとの戦争から逃げてきて、それで、今度は白軍との戦いに行ったのよね」
「そうだよ」
 母の答えは短かった。そしてその戦いのせいで命を落とした、という言葉が、続く沈黙のうちに聞こえた気がした。父は内戦終結後、一九二三年に帰還し、翌年に死んだ。この短い間に撮られた一葉の写真でのみ姿を知る父。彼のことを思うとき、そして今の祖国を思うとき、彼女はやはり懸念を抱く。
「それなのに私は、大学へ行くなんて、本当にそれでいいのかな。私は銃を撃てるし、同い年のミーシカだって戦争へ行ったのに、戦わなくていいのかな」
「あなたは女の子でしょ」
「でも、リュドミラ・パヴリチェンコだって女性なのにクリミア半島で戦っているよ」
「ああいう人は特別でしょう、もうドイツ兵を二百人も殺してるのよ。フィーマ、戦うといっても、あなたに人が殺せるの?」
 何度か投げかけられた問いに、セラフィマは同じように答えた。
「無理」
「それじゃあだめよ、フィーマ。戦争は人殺しなのだから」
 どさりと鹿を置いて、母は真剣な顔で答えた。
「あなたのお父さん、マルクは、戦争はこりごりだと言って脱走兵になり村へ帰ってきた。そしてレーニンの『平和に関する布告』に感動して、白軍がやってきたとき、今度はソ連を守るために戦うんだと言って自ら戦争へ行ったのよ。私が止めるのも聞かずにね……内戦が終わって帰ってきた彼は、寒冷地での戦いですっかり肺を患(わずら)っていた。あなたの顔を見ることもなく死んだ」
 セラフィマはうつむいた。その母を、今度は自分が戦場へ行って、一人にすることができるだろうか。
「そしてフィーマ、あなたが生まれた。マルクが守ろうとしたソ連はたしかに、帝政ロシアとは違った。読み書きもできなかった私が、巡回学校のおかげで新聞も読めるようになった。この村の子も教育が受けられるようになって、あなたは大学へ行ける。それには感謝している。コルホーズは大変だけど、それであなたの学費は払えるし」
 ほう、と一つ白い息を吐いて、ともかく、と母は言った。
「マルクが戦ったのは、生まれてくるあなたを兵隊にするためじゃない」
「うん……」
 結局は、自分に戦争へ行く覚悟などないのだ、という結論を、いつもと同じく認めた。
 先月まではこの村も疎開か否かの瀬戸際にあった。撤退すべからずの命令が下り、村人たちは砲声を遠くに聞きながら日常を送った。南北には自分たちよりも東にドイツ軍が進出している土地もあるなかで避難できないことに不安もあったが、それよりも安堵の声が多かった。今ソ連がおこなう避難とは焦土作戦の一環だ。疎開が決まれば家を全て燃やし、数少ない家畜を殺し、何もかもを捨てて国の指定する場所へ逃げなければならない。
 要衝都市トゥーラとモスクワの間にあり、小さいながらも中継地点であるこの村は、モスクワを攻め落とそうとするドイツにとって戦略的に攻略されることはないであろうし、モスクワ防衛後には輸送地点としてそれなりの価値を持つため、疎開はないと決まった。
 幸い、モスクワ防衛軍は東部方面からの応援も得てドイツ軍を撃退した。今年に入ってからはソ連軍の冬季反攻が始まったので、皆、ひとまずは安心していた。
 二人は林から出て、山道を歩く。途端に鹿を引くのが楽になった。
 じきに、村を見下ろすことができる場所へさしかかる。
 あの場所からイワノフスカヤ村を見下ろすのが、セラフィマは好きだった。
 いつもあの場所へ行くと、アントーノフおじさんが薪を割る音が聞こえる。その奥さんで、小麦粉を運ぶナターリヤさんは、必ず手を振ってくれる。昔、町で調理人をしていたゲンナジーさんは獲物を上手に捌(さば)いて、肉の部位と毛皮をつくってくれる。ミハイルの妹エレーナは、その肉をあげると、お返しに、町で男の子にもらった甘いお菓子を分けてくれる。
 長男のいなくなったボルコフ家は寂しそうだけれど、三人で彼の帰りを待っている。
 父に憧憬(どうけい)はあれど、二人きりの家庭を寂しいと思ったことはない。皆が家族のようなこの村があるからだ。
「ごめんね母さん。私、必ず大学へ行って、帰ってくるから。ここから逃げずに済んで、よかったね……」
 エカチェリーナはほっと安堵の息を漏らすと、すこし意地の悪い笑顔を見せた。
「そうよ。それにミハイルが帰ってきたとき、あなたがいなかったら困るじゃない」
「母さん、ミーシカと私はそんなんじゃないってば」
 ミハイルもまた一緒に大学へ通うはずだった。しかし彼は、戦争が始まると志願兵となり戦争へ行ってしまった。以来、両親と妹のエレーナは彼の帰りを待っていて、セラフィマは相変わらず婚約者のように扱われていた。
「ともかく、戦争は男どもに任せておきなさい。あれは男が始めて、女はその陰で犠牲になるのよ。せっかくモスクワが守られたのに、わざわざ大学へ行く機会を……」
 そう言ったとき、言葉が途絶えた。セラフィマも異変に気付いた。
 アントーノフおじさんが薪を割る音がしない。子供の遊ぶ声も聞こえない。
 生活の気配が消えた静寂の中に、異質な物音が聞こえた。自動車のエンジン音だ。トラクターではない。
 村に自動車を持つ人など一人もおらず、外からやって来ることも滅多にない。
「赤軍の人たちかしら」
 母がつぶやいたとき、村の方から叫び声が聞こえた。
 猛獣の威嚇のように高圧的で乱暴な叫びだった。
 母はその言葉が聞き取れず、ただ何かを察して、恐怖に怯えた顔をセラフィマに向けた。セラフィマは、反射のように頷いて答えた。
「ドイツ語だ。並べって言ってる」
 短く答えてから、その意味するところに気付いて、セラフィマは全身が痙攣(けいれん)するように震え出すのを感じた。異常な震えに自ら驚くと、恐怖はあとから自覚した。
 ドイツ語で並べと叫ぶものが、村にいる。
「母さん……」
 母はただ呆然(ぼうぜん)としていた。もう一度ドイツ語が聞こえた。
 並べ、早くしろ! 片言のロシア語がそれに続いた。
「伏せて」
 エカチェリーナはそう言って、自らも伏せた。そして腹ばいのままじりじりと前進し、村を見渡せる山道のカーブに向かって行った。
 この場所を恐ろしいと初めて思った。セラフィマもまた這いつくばって彼女の後を追った。何を思うでもなく、ただ母から離れたくなかった。
 小高いカーブに顔を出すと、イワノフスカヤ村が見えた。雪が浅く積もった村の中央、建物がない、少し開けた場所。
 アントーノフおじさんが、ゲンナジーさんが、そこにいた。皆両手を挙げていた。
 ミハイルの両親も不安そうに身を寄せ合っていた。
 四十人の村人のほとんどすべてが、そこにいた。アントーノフさんの奥さんナターリヤさんと、ミハイルの妹エレーナの姿だけが見えなかった。
 そして、彼らの目の前に、ドイツ軍の兵士たちがいた。
 彼らの着る制服は、全てが薄汚れ、だらしなく着崩されていた。ドイツ兵らは遠目にも判るほど異常に殺気立ち、銃口を人々に向け、話しかけようとする村人を小突き、伝わるはずのないドイツ語で好き勝手に怒鳴り散らしていた。
 やがて、通訳兵がつたないロシア語で叫んだ。
「この村落に、ボリシェヴィキのパルチザンがいるとの情報を得た。我々は、違法なパルチザンとその同調者を処刑する権利を与えられている。大人しく奴らの居場所を言え!」
 全員が呆然としていた。やがてアントーノフおじさんが、両手を挙げたまま答えた。
「ドイツ人さんたち。一体何を言っているんですか? ここは見ての通り、避難する必要も無い小さな村ですよ。いるのは農家と粉挽きだけです。大体、占領されたこともない村に、パルチザンなんているもんですか。落ち着いて。それより、妻に会わせて──」
 はっきりとした口調は静寂の中、セラフィマのいる山道にも聞こえていたが、その声が途絶えた。銃声にかき消され、人々の悲鳴がそれに続いた。
 通訳兵のそばに立っていた軍人の一人が、アントーノフおじさんの言葉を最後まで聞くこともなく、彼の頭を撃ち抜いたのだ。
 セラフィマは震えが止まるのを感じた。限界を超えた恐怖が、声もなく涙を流させた。
 村人の絶叫と悲鳴に対して頭上に拳銃を乱射し、通訳を介して軍人は怒鳴った。
「もう一度聞く、パルチザンの居場所を言え、言わなければ全員処刑する!」
「母さん」
 セラフィマは、涙を流しながら母に尋ねた。
「殺されちゃう……みんな、私たちも殺されちゃうの?」
 母は蒼白となった顔をセラフィマに向けて、やがて一言だけ言った。
「銃を貸して」
 TOZ-8。狩猟用の単射式ライフルを、エカチェリーナはセラフィマから受け取った。
 セラフィマは母に銃弾も手渡す。母さん、と祈るようにつぶやきながら。
 エカチェリーナは深く呼吸を整えて、伏せた姿勢のまま銃を構えた。
 母さんは、きっとあの悪い兵隊たちを撃ってくれる。セラフィマはそう信じた。距離は直線で百メートル未満。難しい距離ではない。自分に射撃を教えてくれたのは、母だ。
 きっとあの悪い兵隊たちを次々と撃って、村のみんなを救ってくれる。
 祈るようにしてそう思った。
 けれど、母の銃が火を噴く気配はなかった。構えとその方向を確かめる。あの指揮官を狙っている。先ほどアントーノフおじさんを殺した指揮官を。通訳を介して、お前たちも全員パルチザンだ、お前たちもボリシェヴィキの手先だと分かった、と叫んでいる指揮官を。
 明らかに照準に捉えている。けれど、母はその姿勢のまま動かない。
「母さん、お願い」
 お前たちを処刑する、と指揮官が叫ぼうとしたとき、その途中で銃声が響いた。
 予期せぬ発砲にドイツ兵たちが逃げ惑い、遮蔽(しやへい)を求めて散り散りになる。
「母さん!」
 撃ってくれたのだ、と歓喜したセラフィマは、母の方を見て凍ったように動きを止めた。
 スコープが破壊されたTOZ-8が、真っ先に目に入った。
 そしてうつ伏せになった姿勢のままの母は、頭から血を流していた。
 その意味が即座に理解できてしまった。
 死の姿。獣たちがそうなるように、生物であった母は、既に屍(しかばね)と化していた。
「撃て!」
 ドイツ語で叫びが聞こえて、直後に幾重にも銃声が響いた。
 眼下に目をやる。逃げる必要がないと悟ったドイツ兵が、一斉に発砲していた。村に整列させられていた人々もまた、音とともに死体と化した。
 ボルコフ夫妻もゲンナジーさんも頭から地面めがけ飛び込むように倒れ、苦しみながら倒れた村人にはさらなる銃弾が浴びせられ、念を押すように銃剣が刺突される。村人たちの体から血が溢れ、村に積もっていた雪が赤く染まってゆく。
 不意の銃声に対する怒りを転嫁するように、ドイツ兵は村人を滅多刺しにした。
 セラフィマは時間が経つのを感じなくなった。
 思考することもできず、ただ無為に母の死体と、村人たちの死体を交互に眺めていた。
 気付けば、再びドイツ語の会話が聞こえるようになった。今度は間近から。
「イェーガーのやつ、びびらせやがって、マジかよ、こんなところに敵の狙撃兵だって」
「本当にパルチザンがいるとは」
「おいおい、俺たちは正しいんだから当たり前だろ、つまりあの連中もパルチザンだ!」
 笑い声がした。今何十人もの人を殺(あや)めた者たちの笑い声には屈託がなかった。
 ドイツ語の会話の声が近づいてくる。セラフィマはそれを聞きながら、逃げ出すことができなかった。体が恐怖で凍りつき、立ち上がることができない。足に力が入らない。
 三人組のドイツ兵が山道を上がってきた。
「ただの猟師のばばあだ」
 ドイツ兵の一人がそう言い捨てると、セラフィマと視線を合わせた。
「おやおや」
 下卑(げび)た笑いを見せて、ドイツ兵たちが近づいてくる。セラフィマは逃げようとしたが、仰向けになるのが精一杯だった。足が震え、まるで神経を失ったように立ち上がることができない。叫ぶことも逃げることもままならない彼女の頭を、大きな手が乱暴につかんだ。
「いい見っけもんだぜ!」
「ここでいただくか?」
「みんなに分けなきゃな」
 死の恐怖と嫌悪によって、セラフィマは吐き気を催した。
 三人のドイツ兵はとても陽気に笑い、談笑しながらセラフィマを銃剣で小突いて歩かせ、TOZ-8を奪い、エカチェリーナの死体をゴミのように引きずって歩いた。
 村に着くと、そこに地獄があった。
 水車小屋といくつもの家がすべて戸を壊され、家畜がトラックに乗せられている。
 雪上に倒れた三十数名の死体からはおびただしい血が流れ、その血からもうもうと湯気が上がっていた。時折うめく声がすると、ドイツ兵は念入りに銃弾を撃ち込んだ。
 セラフィマは一軒の家へ連れて行かれた。そうと知っているわけではなかろうが、それは彼女の自宅だった。母と二人で暮らしていた家に、ドイツ兵たちは我が物顔で上がり込み、略奪した食料を食べ、秘蔵の酒を呷(あお)っていた。
 そこへ、引きずられて来た母の死体が、銃とまとめて無造作に投げ出された。
「イェーガー、お前の言う通りだったぜ。狙撃兵ってほどのものでもないが、猟師のばばあと、この娘がいた」
 イェーガー、と呼ばれた男は、家の隅に椅子を置いて、ただ一人座っていた。
 妙に暗い雰囲気をして、ライフルを抱くような格好で座る、顔に傷のある男だった。
 年は若そうだが、耳の辺りから顎先、口元に至るまで髭で覆われている。
「人間を狙う猟師は狙撃兵であり、俺はそれを撃った。その娘のことは知らん」
「相変わらず陰気な野郎だ。なあみんな、こいつ、どうする?」
「どうするもねえだろ、順番にいただくんだよ」
「さっきもさあ、ちゃんと分け前をよこせって言ったのに、たった三人で殺しちまった」
 兵士の一人がそう笑って、ほら、と視線をやった。視線の先に、先ほどはいなかった二人、アントーノフおじさんの奥さんナターリヤさんと、十四歳のエレーナが、死体となって転がっていた。二人とも衣服の全てを剥ぎ取られていた。頭と、それから足の間から、激しい出血の痕があった。
「しょうがねえだろ、途中で銃声がしたんだ。こいつはそのぶんもみんなでさ」
 セラフィマの体が再び震え出したとき、髭の男が言った。
「女への暴行は軍規に反するし、劣等人種たるスラヴとの性交は犯罪だ」
 セラフィマの頭をつかんでいる男が声を上げて笑った。
「そりゃ占領地で性病にならねえための決まりだろ。だれもこいつに妊娠して俺の子を産めなんて言ってねえし、お偉方にこいつが泣きつくなんてことも考えていねえよ、とっとと終わらせて、撃って終わりだ、いつもそうだろ」
 別の男が答えた。
「いや、連れて行こうぜ。長く楽しみたいし、ほら、例の宿もあるだろ」
「ああ、それもいいかもな。こいつなら見た目もドイツ人とそう変わらないし」
「まあまあ、諸君。私の立場を考えてくれ、後腐れなく殺すに限るよ」
 セラフィマの目の前に立ったのは、先ほどの指揮官だった。
「まずは私と彼女を二人にしてくれ、話はそれからだ」
 はい、と周囲の兵士たちがつまらなそうな顔で答えた。
 自分はドイツ語を覚えた。優しいフリードリヒ先生に習って、いつか外交官になるために。ドイツ人民や、人民兵士たちと仲良くなり、両国の平和に貢献するために、ドイツ語を覚えた。そのことが、もうすぐ終わる自分の人生で最大の後悔すべき事柄なのか、と不意に思った。
「おい……娘。お前、これを見ろ」
 不意に髭の男が自分に声をかけた。
 そして、それに対して視線を向け、目が合ったとき、セラフィマはさらなる後悔に気付いた。髭の男は周りに言った。
「こいつはドイツ語を理解しているぞ」
 周囲の兵士たちの顔色が変わった。突如として、にやついた笑みは消え、猛禽(もうきん)のごとき獰猛(どうもう)な視線が彼女に浴びせられた。
「バカどもが……」
 髭の男はそう呟いて、裏口から家を出て行った。
 視線を集めながら、セラフィマはドイツ語で言った。
「殺さないでください。私を行かせてください」
 突如として、兵士たちの表情に恐怖のようなものが生じた。意味が理解できなかった。しかし、その奇妙な恐怖はすぐに怒りに変わり、目の前の士官が拳銃を抜いた。
「ドイツ語を話すな、この薄汚れたパルチザンの豚娘が! ……全員、外へ出ろ!」
 額に銃口が突きつけられた。これが人生の終わりなのか、という諦観が、どこか安堵のように彼女の思考へ覆いを被せた。
 間も置かず銃声が響いた。
 自分の死。感じるはずもないことを意識していると思ったとき、彼女は目を開けた。
 目の前に、ドイツ軍士官が転がっていた。その周囲には細かく砕けたガラス片が散らばっていて、セラフィマの頬に、熱い旋風が掠(かす)めた余韻があった。
「ガッ……」
 腹から血を流し、臓物をこぼれ落とした彼は、そのまま血を吐いた。
「外からだ!」
「敵襲ー!」
 ドイツ兵全員が武器を手に、一目散に家を飛び出す。
 再び銃声が響いた。士官を抱えて逃げようとした兵士が、頭に穴を開けて倒れた。
 さらなる銃声が次々と聞こえた。セラフィマはうずくまり、頭を抱えて叫んだ。
 絶叫の間に、腹を撃たれた士官と目が合った。彼はまだ生きていた。その姿に悲鳴を上げた。種類の異なる銃声が幾重にも交錯したのち、地面を揺るがす爆発音が轟(とどろ)いた。
 トラックのエンジン音が遠くへ消えていき、やがて、静寂が訪れた。
 その中に残ったのは、血まみれでのたうち回るドイツ軍士官のうめき声だった。
「大丈夫か!」
 部屋に銃を抱えた男たちが入ってきた。ドイツ兵ではない。赤軍の兵士たちだった。
 安堵などなかった。麻痺しきった彼女に、殺気立った赤軍兵士たちの、怒号のような質問が浴びせられ、その声がただただ木霊(こだま)のように聞こえた。
 おい、怪我はないか。君の名前は、君はなんていう。
 生き残ったのは君だけなのか、なぜ君は無事だった。
 そこのTOZ-8は君のものか。君はなぜ銃を持っていた。
 おい、聞こえているのか、おい、しっかりしろ……。
「無駄だよ、今のこいつは生きる屍だ」
 摩耗しきったセラフィマに、その言葉だけが、奇妙にはっきりと聞こえた。
 女性の声だった。とても澄んだ、綺麗な声色(こわいろ)だった。
 声の主が家に入ってきた。ライフル銃を傍らの兵士に預け、彼女が室内を見渡すと、姿勢を正す赤軍兵たちが、一様に緊張したのが分かった。
 カーキ色の軍服を見事に着こなし、制帽(ピロートカ)を被った、黒髪の女性だった。
 瞳の色も黒く、肌は対をなすように白い。精悍(せいかん)な顔立ちに、細身の体。それでいて屈強な兵士たちに比べても遜色(そんしよく)ない長身の、おそろしく美しい女性だった。
 彼女はセラフィマと目を合わせてから、のたうち回っているドイツ軍士官を一瞥(いちべつ)した。
「こっちに聞け。臓物をしまって止血しろ。手下の死体の制服を裂いて包帯に使え」
 部下が意外そうな顔をして答えた。
「尋問ですか。この深手じゃ耐えられませんし、どうせすぐに死にますよ」
 息も絶え絶えの士官の指先を、彼女は踵(かかと)で踏みつけた。骨が砕ける音がした。
 獣の断末魔のごとき悲鳴を聞きながら、彼女は部下に微笑みかけた。
「だったら長引かせてやれよ……」
 兵士は頷いてドイツ軍士官の襟首をつかみ、屋外へ引きずっていった。
「さて!」
 周囲の空気もろとも自分の思考を切り替えるように、彼女は大声を出した。
 そしてセラフィマの襟首をつかんで壁際に引っ張り上げた。
「目が覚めたなら答えろ。敵はどこから来て、どこへ行った。あれは、どの部隊か分かるか。記章か胸章になにか特徴は無かったか。素性の分かる兵士はいるか!」
 何一つとして答えられなかった。
 味方の女性がいたわりの言葉ひとつかけてくれないことに、遅れて気付いた。
 周囲の兵士たちがざわめき、彼女に声をかける。
「そんな、可哀想ですよ、同志上級曹長。いまこの子の家族と村人が死んだばかりですよ」
「ああそうかい、じゃあ質問は一つにしよう……」
 ふう、と一つ息をついて、彼女はセラフィマに尋ねた。
「戦いたいか、死にたいか」
 兵士たちが困惑の表情を浮かべた。セラフィマも意味が分からなかった。
 頬を張られた。ざらついた手袋の感触が、鋭い痛みを与えた。兵士たちが制止するのを聞かず、襟首をつかんで彼女は叫んだ。
「お前は戦いたいか、それとも死にたいかと聞いている!」
 セラフィマは答えた。
「死にたいです」
 それが本音だった。目の前には母の死体が転がっている。村人は皆死んだ。そして自分は、生きながらにして地獄を見た。その自分に、誰と、どう戦えと言うのか。
「そうか」
 女性兵士は一つ呼吸を入れると、振り返って食器棚の方へ向かった。
 そして無造作に棚を開けると、そこに入っていた食器を取り出して、床へたたきつけた。
 去年の秋に母さんが買ってきてくれた皿。
 アントーノフおじさんが行商から買って分けてくれたカップ。
 いつ買ったとも思い出せないほど小さな頃から慣れ親しんだコップ。
 数少ない、そして思い出の食器が次々と床にたたきつけられ、打ち砕かれた。
 セラフィマは、気付けば叫び声をあげて女性兵士に走り寄っていた。
 彼女にしがみついて止めようとすると、あっさり壁へ押し付けられた。
「やめて!」セラフィマは叫んだ。「なにをするの!」
「どうした。なにをしようと気にすることはない。お前は死ぬのだから。お前の家族は死んだ。そして村人も死んだ。したがって我々はここで焦土作戦を展開する。もはや守るべきものが存在しない村落は潜在的にドイツ軍の収奪の対象だ。不要なものを奪取されることを防ぐために、家具も家屋も、すべてを破却しなければならない」
 女性兵士はすらすらと答えた。
 そんな馬鹿な。なぜドイツ軍と戦うために私の食器を壊す必要があるのだ。
「やめてください。思い出とともに死なせてください」
「どのみちその後にすべてを壊す。いいか、死者は存在しない。そしてお前が死ねば思い出とやらも消えてなくなる。どのみちこの家には、さしたるものもないだろう」
 思わず視線が動いた。自分のいない家族写真。卓上のそれを見やったとき、女性兵士がその目の動きに気付いた。
「ほう」
 彼女はセラフィマを離して机に向かった。彼女に組み付こうとして、セラフィマは足を払われ、簡単に転んだ。
「写真か。これがお前の思い出か?」
 返してください。そう叫ぼうとしたとき、彼女はそれを思い切り投げ捨てた。
 割れた窓ガラスの向こうに、写真が飛んでいった。
「やめてください!」
「頼めば相手がやめると思うか。お前はそうやって、ナチにも命乞いしたのか!」
 女性兵士の叫びに、セラフィマの心臓が跳ね上がった。
「そのようだな。この戦争では結局のところ、戦う者と死ぬ者しかいないのさ。お前も、お前の母も敗北者だ。我がソヴィエト連邦に、戦う意志のない敗北者は必要ない!」
 床に這いつくばるセラフィマの肩を、女性兵士のブーツが蹴り上げた。
 視界が歪む。そして歪む視界に、さらなる絶望が見えた。
 ひっくり返るセラフィマを残して、女性兵士は母の亡骸(なきがら)に向かい、その背中を思い切り踏みつけた。
「そこの兵卒、ガソリンの携行缶を持ってこい」
「い、いや、しかし」
 抗弁する兵卒を女性兵士が一睨みすると、彼は屋外へ飛んで行った。
 ものの二分で戻ってきた男から缶を受け取り、中の液体を母の遺体にかける。
「ドイツに殺された母にも、お前にも、死後の安寧もなければ、尊厳も必要ない!」
 マッチを擦り、彼女は母の遺体にそれを落とした。
 母の亡骸は炎に包まれた。焼かれてゆく母が微動だにしないことに、ひどく恐怖した。
 我が家が、母の遺体とともに燃やされていく。
 セラフィマは視線を周囲に巡らせた。
 もはや、生への渇望とも死への逃避とも異質の衝動が、彼女を突き動かしていた。
 赤軍兵の男たちは呆然と自分たち二人を眺めている。彼らは関係ない。
 部屋の中央、置き捨てられたTOZ-8。単射式の、弾が込められたライフルがある。
 セラフィマは走って行ってその銃を拾った。男の兵士たちがやめろ、と叫ぶなか、ボルトを引いた。そして女性兵士に向けようとした瞬間、彼女は足を蹴り上げ、ブーツのつま先がセラフィマのみぞおちに入った。
「ぐ、う……」
「それでは軍用犬にもならんな敗北者め! ドイツに負け、私にも負けて死ね!」
 銃を拾い高らかに笑った女性兵士は、もう一度叫んだ。
「お前は戦うのか、死ぬのか!」
「殺す!」
 這いつくばったまま、セラフィマは答えた。
 生まれて初めて口から出た言葉だった。
「ドイツ軍も、あんたも殺す! 敵を皆殺しにして、敵(かたき)を討つ!」
 静寂が突如として訪れた。床を焦がす炎が壁に移り、徐々に大きくなっていった。
 女性兵士は、笑みを消して答えた。
「それならば、有用だ。今は殺さずにおこう。それで、改めて聞くが、お前、敵兵について何か気付かなかったか」
 セラフィマは記憶をたぐった。部隊など分かるはずもない。全員が同じ制服を着たドイツ軍人だ。見分けなど……ふと、唯一印象に残った男のことを思い出した。
「顔に傷のある、髭面の男がいました。スコープつきの銃を持ち、イェーガーと呼ばれていました」
 兵士らの何人かが、視線を女性兵士に向けた。
「そういう死体はありませんでした」と兵士の一人が言った。
「それが、お前の母を撃った狙撃兵だ。お前が殺す相手さ。お前、見たところ銃の扱い方は一応知っているな」
「……はい」
「一般軍事教練(フセヴオーブチ)は修了しているか」
「学校で必修でしたから、終えました」
 そう、と答えて彼女が退出すると、赤軍兵士たちが全員続いた。
「上級曹長、まさか、彼女を例の……」
 兵士に何か問われたが、女性兵士は無視して答えた。
「焦土作戦開始だ。全家屋と遺体にもガソリンをかけて燃やせ。何一つ残すな」
 本当にやるのか。セラフィマが途方に暮れていると、二人の兵士に腕をそれぞれ掴まれ、なかば引きずられるようにして燃えてゆく我が家を出た。村には、先ほどのドイツ軍の数倍の赤軍兵たちがいて、死体を一カ所に集める作業を始めていた。家族のように接した村人たちは、薪木の如く無造作に積み上げられていた。
 そして目の前に、あの腹を撃たれたドイツ軍士官の死体があった。
「死ぬ前に、何か言ったかい」
 女性兵士の問いに、尋問していたらしい血まみれの赤軍兵士は肩をすくめた。
「小隊規模で敗走して、道を間違えてここになだれ込んだと、それだけ言って死にました。フリッツの死体の数と合いませんから、何人かは逃げていますね」
「そいつの認識票と階級章は回収しろ。NKVD(内務人民委員部)にでもくれてやれ」
 兵士たちはものも言わずにトラックに分乗し、そのうちの一台にセラフィマも乗せられた。荷台に座り込んでしばらく待つと、イワノフスカヤ村の家屋が一斉に煙を上げ始めた。木造の簡素な家が、次々と炎に包まれてゆく。
 そして家から出てきた兵士たちは、残されていた村人たちの死体を埋葬することもなく、手持ちのガソリンを上からかけて、無造作に火を放った。
 生まれ育った村と村人たちが炎に焼かれてゆく姿を、セラフィマは見つめていた。
「イリーナ・エメリヤノヴナ・ストローガヤ」
 助手席に入った女性兵士が、振り向いて言った。彼女の名前であるらしい。
「君の名前は?」
「セラフィマ・マルコヴナ・アルスカヤ」
 ふ、と女性兵士、イリーナは笑った。
 鬼畜が、こんな優しい顔をするのか、と苛立った。
「よろしくね、セラフィマ。今日から君は、私の教え子だ」
 周囲の兵士たちがその言葉に顔をこわばらせた。明らかに不吉な反応だった。
 しかしセラフィマは動じなかった。いまさら何を恐れることがある、という、どこか開き直った心根でいた。
 けれど村を離れるとき、そして自分の家が焼け落ちるのを見たとき、悲しみが胸を打った。
 母は、その家とともに火葬された。
 敵(かたき)を討つ。
 その言葉に自らの悲しみが収斂(しゆうれん)してゆくのを感じた。ドイツ兵を殺し、あのイェーガーなる男を殺し、そして、自らと母の亡骸を侮辱したイリーナを殺すのだ。
 悲しみが怒りへ、そして殺意へと変わってゆく。

***

続きは現在好評発売中の書籍でお楽しみください。

バナー写真Ⓒすずきたけし
書籍装画Ⓒ雪下まゆ

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