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英国在住の作家が、愛してやまない東京を描く紀行エッセイ『追憶の東京』訳者あとがき

追憶の東京

『追憶の東京 異国の時を旅する』
アンナ・シャーマン、吉井智津訳
好評発売中

書評情報

毎日新聞(2020年12月26日)書評(若島正氏・京大名誉教授)
サンデー毎日(2020年12月27日号)書評(川本三郎氏・評論家)
日刊ゲンダイ(2020年12月4日)書評(北上次郎氏・評論家)
週刊新潮(2020年12月3日号)書評(大竹昭子氏・作家)
北海道新聞(2020年11月29日号)書評(橋本幸士氏・大阪大教授)

訳者あとがき

《この本は、わたしの東京への恋文です──》

2019年の春、日本の編集者のもとにとどいた1通のメールは、こんなふうに始まっていました。送り主は英国在住の作家アンナ・シャーマン。2000年代はじめの十年余りを東京で過ごし、そのときの体験をもとに書いた本書が日本で翻訳刊行されるにあたって、ほかでもない日本の読者にとどけることのできる喜びと期待がそこには込められていました。遠く離れた場所にいる作家の心に浮かぶ東京は、出会った人々との思い出が詰まった場所であり、〝時間〟について思いをめぐらしたとくべつな場所でした。時の鐘が知らせるゆるやかな時間、時を表わすことばの数々、街を行き交う人それぞれの固有の時間──

本書『追憶の東京──異国の時を旅する』(原題:The Bells of Old Tokyo: Travels in Japanese Time)は、作家がかつて暮らし、見聞きし、心にとどめた東京の姿を詩情あふれることばでつづる、街歩きの記録であり、タイトルが示すとおり、街と時間をめぐるエッセイです。

東京で暮らしはじめ、仕事のかたわら日本語を勉強していた「わたし」=著者は、ある日の夕方、東京タワーの近くで耳にした増上寺の鐘の音に心惹かれ、引き寄せられるようにして〝時の鐘〟を訪ね歩きます。〝時の鐘〟は、時計がまだ一般的でなかった江戸時代、町に時を知らせていた古い鐘で、十カ所あまりが幕府公認とされていたというもの。訪ねていく先に鐘はあったりなかったりするのですが、書物をたよりに歩く道すじで、時の流れのなかで失われたものと、時がのこしていったものとがともにかたちづくる東京の風景を〝再発見〟してゆきます。

好奇心旺盛で勉強熱心な「わたし」は、あるときには人と会う機会をみずからつくり、お寺を訪ねては住職の話に耳を傾け、現役の和時計職人がいると聞けば会いにゆきます。またあるときには、日本文学に描かれた浅草や隅田川を思いながら街を眺め、地図にない街と都会の超プライベート空間の今昔を思い、自分たちの世代が戦っていない戦争と向きあい……。鐘をめぐる旅はやがてさまざまな時代にこの地を訪れ、暮らし、通りすぎた人々がのこした街の記憶をたどる旅になっていきます。

各章の終わりで「わたし」が立ち寄る〈大坊珈琲店〉は実在のコーヒー店で、1975年から2013年12月まで南青山の雑居ビルの二階にありました。ビルの取り壊しとともに閉店となり、これもまたいまはもうそこにない風景となってしまいましたが、なにもかもがせわしなく変わりつづける東京で、いつも変わらぬ佇まいで、相手がだれであっても分け隔てなくお客さんに接する店主、大坊勝次氏の姿勢が、よその土地からやってきた「わたし」の心をほぐし、とまり木のような場所を与えていたことが印象にのこります。

著者のアンナ・シャーマンは、米国アーカンソー州リトルロック出身で、米国ウェルズリー大学と英国オックスフォード大学でギリシア語とラテン語を学び、2001年に来日しました。その後日本と香港に長く滞在し、現在は英オックスフォードで暮らしています。大学卒業後は学術系出版の編集職などを経て、2019年、英国の出版大手パン・マクミラン社のインプリントであるピカドールから刊行された本書で作家デビューしました。

本書の刊行時、『源氏物語』の完訳で知られるロイヤル・タイラーは「歴史書でもガイドブックでもない。それは瞑想、街と時間についての散文詩だ」と賛辞を送り、また、日本社会を題材に小説を書いている作家のデイヴィッド・ピースが「東京について今世紀に書かれたもので、知るかぎり最高の本」であると絶賛するなど、これまでの日本研究や日本文学に通じた識者にも、新鮮さをもって受けいれられたことがうかがわれます。また、本書を「感動的な瞑想」と評した英国の書評誌タイムズ・リテラリー・サプルメントをはじめ、「瞑想」ということばで紹介されることも多く、外国人目線で東京を案内する実用性をそなえた街歩きのノンフィクションであると同時に、静けさや落ち着きといった内面世界の充足をもたらす読み物としての質も評価されています。

そうした評価を裏付けるように、英国の伝統ある旅の書店スタンフォード主催で、その年の優れた旅の本と作家に贈られるスタンフォード・ドルマン・トラベルブック・オブ・ザ・イヤー賞の2020年度最終候補に選ばれ、おなじく2020年度の王立文学協会オンダーチェ賞の候補にも選出されました。今年5月には英国の公共ラジオ局BBC Radio4が5回のミニ・シリーズとして本書の朗読を放送し、こちらも好評だったようです。

執筆を進めるうえで、文体と構成にかんしてもっとも影響を受けた作品として、W・G・ゼーバルトの『土星の環──イギリス行脚』とピーター・マシーセンの『雪豹』をあげているシャーマンにとって、やはり旅は書くことへの情熱をかきたてるもののようで、現在は、中国を舞台に「唐代の首都であった西安から中央アジアのオアシス都市群へ向かう西遊の途」を描く『河西(かせい)』(仮題)という作品に取り組んでいるとのこと。

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◉著者紹介
アンナ・シャーマン Anna Sherman

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photo: Zed Nelson

作家。アメリカ合衆国アーカンソー州出身。オックスフォード大学にてギリシア語とラテン語を学び、2001年に来日。仕事のかたわら日本語を勉強しつつ、十年余りを東京で過ごす。そこでの体験をまとめた本書を2019年に刊行。『源氏物語』の英訳者であるロイヤル・タイラーなど、日本研究や日本文化に通じた識者から高く評価され、英国の伝統ある旅行専門書店によるスタンフォード・ドルマン・トラベルブック・オブ・ザ・イヤー賞の最終候補、王立文学協会オンダーチェ賞の候補に選出された。2020年5月、BBC Radio4にて本書の朗読を放送し好評を博す。

◉訳者略歴
吉井智津 Chizu Yoshii
翻訳家。神戸市外国語大学英米学科卒業。訳書にムラド&クラジェスキ『The Last Girl イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』、バーガー『インビジブル・インフルエンス 決断させる力』、レーナー『こじれた仲の処方箋』などがある。

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