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悪夢はまだ、終わっていなかった。殺人ウイルスの次なる標的は……『ホット・ゾーン』第2章「伝染」全文公開

第1章「森の中に何かがいる」の全文公開が阿鼻叫喚を巻き起こし、発売2週間で2万部を突破した『ホット・ゾーンーーエボラ・ウイルス制圧に命を懸けた人々』(リチャード・プレストン/高見浩訳)。本記事では第2章「伝染」を全文公開します。恐怖はまだ、終わらない。

*まずは第1章からお読みください↓↓↓

伝 染
1980年1月15日


看護師やアシスタントたちがストレッチャーを押して駆けつけた。急いでモネをストレッチャーにのせると、彼らはナイロビ病院の集中治療室に運び込んだ。医師を呼ぶアナウンスが院内に流れる。至急集中治療室にきてください、出血している患者がいます。シェム・ムソキという若い医師が現場に駆けつけた。

ムソキ医師は温かいユーモアのセンスを持った精力的な男性で、院内のだれからも若手ではピカ一の内科医と見なされていた。彼は深夜まで働くことが多かったから、緊急事態に対処する術は心得ていた。ストレッチャーに横たわるモネを見たとき、一瞬、どこが悪いのか、彼にはわからなかった。明白なのは、何らかの大量出血が認められることだった。とにかく、いまはその原因を詮索している暇はない。モネの呼吸はしだいに荒くなりつつある。彼は呼吸困難に陥っていた──そしてほどなく、呼吸が停止した。血を吸い込んだために、呼吸が停止してしまったのだ。

ムソキ医師は脈をさぐった。弱々しく、遅滞があった。看護師が走って、気道を広げるための喉頭鏡をとってきた。ムソキ医師はモネのシャツの前を引きちぎって、胸が上下しているかどうか調べた。それからストレッチャーの頭部に立つと、モネの顔の上にかがみ込んで、頭のほうから彼の目をまっすぐ見下ろした。

モネは赤い目でムソキ医師を見あげた。が、眼球は停止したままで、瞳孔もひらいたままになっている。脳の障害の徴候だ。この男の精神は空き家になっているらしい。鼻も口も、血まみれだった。気道を広げて喉頭鏡を挿入しやすくするために、ムソキ医師はモネの頭を手前に傾けた。彼はそのとき、ゴム手袋をはめてはいなかった。その裸の指で、彼は患者の舌の周囲をさぐり、壊死した組織片を口中から取り除いたり、血まみれの粘液をかきだしたりした。両手はたちまち黒い凝乳状のものでベトベトになった。患者は吐瀉物と血の臭いを放っていた。が、ムソキ医師にとって、それは初めての体験ではなかった。彼は自分の仕事に熱中した。モネの顔からわずか数インチのところまで顔を近寄せ、モネの口中を覗いた。それからモネの舌の上に喉頭鏡をすべらせると、舌をわきにどけた。そうすれば、喉頭蓋の奥の気道、肺の奥に通じている黒い孔を覗き込めるはずだった。彼は喉頭鏡をその穴に押し込んで、中を覗いた。突然、モネが体を突っ張って、もだえた。

モネは嘔吐した。

喉頭鏡の周囲から黒い吐瀉物が噴出し、黒と赤の入りまじった液体が空中に飛んだ。それはムソキ医師をも襲った。彼の目に、その液体は飛び込んだ。白衣にも飛び散って、黒斑のまじった赤い粘液が彼の体を覆った。一部は彼の口にも飛び込んだ。

患者の頭の位置を直すと、ムソキ医師は自分の指でモネの口中から血をぬぐいとった。ムソキ医師の二の腕から手首、指の先までが、モネの血に覆われた。血は至るところに飛び散った。ストレッチャー、ムソキ医師、それに床の上まで血まみれになった。集中治療室にいた看護師たちは目の前の光景が信じられず、どうしていいかわからないまま背後のほうでウロウロしていた。ムソキ医師はモネの気道を覗き込み、喉頭鏡をさらに深く肺に押し込んだ。気道の中も血まみれになっているのが見えた。

ゼイゼイという音と共に、モネの肺に空気が通った。モネは呼吸を再開していた。

彼が大量の失血によるショック状態にあるのは明らかだった。あまりに多くの血を失ったため、脱水状態に陥りつつあるのだ。血は彼の体の孔という孔から流れつつあった。循環するに足る量の血が残っていないため心拍も遅くなり、血圧はゼロに近づいていた。彼は輸血を必要としていた。

看護師が全血の袋をもってきた。ムソキ医師は袋をスタンドにかけて、針を患者の腕に刺した。が、モネの血管には異常があった。針の周囲から血が噴きだしてしまうのだ。ムソキ医師はモネの腕の別の箇所に針を突き刺して、血管をさぐった。またしても、失敗。さらに多くの血が流れ出てくる。血管はさながら茹でたマカロニのように壊れて、血が流れ出てしまうのである。モネの腕に流れた血は、凝固する気配もない。このままでは腕にあいた小さな孔からも血が流れ出て失血死につながるかもしれない。ムソキ医師は輸血を断念した。その間にも大腸からの出血はつづき、その血はいまやコールタールのように黒く変色していた。モネの昏睡は深まって、とうとうそのまま意識をとりもどすことはなかった。彼は早朝、集中治療室で死亡した。ムソキ医師は最後まで彼のベッドに付き添っていた。

いったい何がモネを殺したのか、彼らにはさっぱりわからなかった。死因の見当がまるでつかない──不可解な死、というほかなかった。モネは検屍のために解剖された。まずわかったのは腎臓が破壊され、肝臓も壊死していたことだった。モネの肝臓は死亡する数日前からすでに機能を停止していたのだ。それは黄色く変色しており、融解した部分もいくつかあった──全体として、死後三日を経た死体の肝臓にそっくりだった。モネは死ぬ前からすでに死体に変わっていたかのようだった。臓器の内層が剥離するのも、死後三日ほど経た死体に通常見られる特徴の一つである。いったい、正確な死因は何だったのだろう? それを断言するのは不可能だった。考えられる原因がたくさんありすぎたからである。モネの体内ではすべてが、ありとあらゆる組織が異常を呈していたのだ。そのどれ一つをとっても致命的だったろうと思われた。血栓、大量出血、プリンのように変質した肝臓、それに血が充満した臓器。モネの症状に当てはまる適切な言葉も、範疇も、用語も欠いたまま、彼らは結局それを“劇症肝不全”と呼んだ。彼の遺体は防水の袋に納められ、ある証言によれば、地元のどこかに埋葬された。数年後に私がナイロビを訪れたとき、その墓の正確な場所を記憶している者は一人もいなかった。
 
モネという患者の吐血を目や口に受けてから九日後、シェム・ムソキ医師は腰痛を覚えはじめた。彼はもともと腰痛持ちではなかった──事実、腰痛を覚えたことなど、それまで一回もなかったのである。が、彼もそろそろ三十になろうとしていた。自分も、腰痛に悩む年頃になったのかな、とムソキ医師は思った。それまでの数週間、彼は車を運転して動きまわることが多かった。心臓疾患を抱えている患者の治療で、ほとんど徹夜したこともあった。そしてその翌日、どこか北部からやってきて異常な出血症状を見せたあのフランス人の介護にあたったのである。だから、数日間というもの、ほとんど寝ていなかったことになる。

あの奇妙な患者の吐瀉物を体に受けたことについて、彼はその後あまり深く考えてはいなかった。痛みが体中に広がったときも、まだそのことには考えが及ばなかった。そしてふとしたときに鏡を見たとき、両眼が赤くなりかけていることに気づいた。

赤い目──マラリアにかかったのだろうか? それに熱もある。きっと何かに感染したのだろう、とムソキ医師は思った。腰痛の範囲はかなり広がって、体中の筋肉が激しく痛みはじめていた。で、マラリアの錠剤を服用しはじめたのだが効果がない。抗マラリア薬の注射をしてくれないか、と彼は看護師に頼んだ。

看護師はムソキ医師の腕に注射をした。その際、彼は異様な痛みを覚えた。注射をされて、それほどの痛みを覚えるのは初めてだった。忘れられないほどの異様な痛み。簡単な注射を受けただけで、どうしてこんな痛みを覚えるのだろう? そのうち彼は腹部にも痛みを覚えはじめた。ひょっとすると、チフスにかかったのかもしれない。で、ムソキ医師は抗生物質を1クール分服んだのだが、やはり効き目がない。その間も患者たちを診る必要があったので、彼は病院で働きつづけた。胃と筋肉の痛みは耐えがたいまでになり、黄疸の症状が出はじめた。

自己診断のできぬまま激痛に苦しみ、とうとう仕事をつづけられなくなって、ムソキ医師はナイロビ病院の同僚である女医、アントニア・バグショーの診断を仰いだ。彼女はムソキ医師のいくつかの症状に注目した。高熱、赤い目、黄疸、そして腹痛。だが、これという決定的な診断を下すことができず、結局、胆石を疑った。ふつう、胆嚢が何らかの機能障害を起こすと、高熱、黄疸、それに腹痛という症状をもたらすことがあるのだ──赤い目に関しては、彼女も説明できなかったのだが──で、彼女はムソキ医師の肝臓の超音波検診を命じた。その映像は、肝臓が肥大していることを示していた。が、それ以外の異常は何も認められない。彼女は依然として胆石を疑っていた。そうこうしているうちにムソキ医師の病状は一段と悪化したため、二十四時間看護の個室に移された。彼の顔が無表情な仮面のように変貌しはじめたのは、その頃からだった。

もし胆石による発作だとすると致命的にもなりかねない。そう考えて、バグショー医師は、ムソキ医師に試験開腹を施すことを勧めた。ムソキ医師はナイロビ病院の中央手術室で、イムレ・ロフレル医師の率いる外科医チームによる開腹手術を受けた。彼らは肝臓の位置の皮膚を切開し、腹筋をわきによけた。ムソキの体内は、なんとも不可解で奇怪な様相を呈していた。彼の肝臓は赤く肥大し、とても健康には見えなかったが、胆石はまったく見当らなかったのである。そうしている間も、出血は止まらなかった。

ふつう、どんな外科手術を行なう場合でも、血管を切ってしまうことがある。その血管からはしばらく血が滲み出るが、そのうち凝固してしまうものだ。仮に出血が止まらない場合は、外科医がゲル状止血剤を血管の上にまぶして血を止める。が、ムソキの血管からはいつまでも血が滲出しつづけた──彼の血はいっこうに凝固する気配を見せないのだ──そう、まるで血友病者にでもなったかのように。医師陣は彼の肝臓表面全体にゲル状止血剤をまぶしつけた。ところが、そのゲル状止血剤を通り抜けて、血が滲み出てきてしまう。さながらスポンジのように、彼は血を流しつづけた。医師陣は多量の血を吸引する必要に迫られた。ところが、そうして血を汲み出すそばから、血はどんどん溢れてきてしまう。それは地下水系の上に穴を掘るのに似ていた。いくら血を汲みだしても、あとからあとから血が湧きだしてくるのだから。医師たちの一人は後に、手術チームはみな“肘まで血に漬かっているような”状態だったと語っている。彼らはムソキの肝臓の一部を楔状に切り取り──いわゆる肝生検だ──その切片を固定液の入った壜の中に落して、可能な限り素早くムソキの腹を閉じた。

試験開腹後、ムソキ医師の容態は急速に悪化し、腎臓の機能も衰えはじめた。彼は死にかけているかに見えた。そのとき、アントニア・バグショー医師が海外に出張する必要が生じたため、ムソキの介護はデーヴィッド・シルヴァースタインという医師に任されることになった。ムソキ医師の腎臓機能が低下し、人工透析が行なわれることが確実になったことで、病院には危機感がひろまった──同僚たちはみなムソキ医師を好いていて、彼を失いたくなかったのである。シルヴァースタイン医師は、ムソキが特異なウイルスに感染しているのではないかと疑いはじめた。彼はムソキの血液を採取して、血清を分離した。血清とは、血液から赤血球が除去された後に残る、透明な琥珀色の液体である。シルヴァースタイン医師は血清を凍結させてから二か所の研究所に送って、検査を依頼した。二か所の研究所とは、南アフリカのサンドリンガムにある国立ウイルス研究所と、アメリカのジョージア州アトランタにあるCDC(疾病対策センター)だ。それから、シルヴァースタインは結果が出るのを待った。

(第2章 了)

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