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【発売即重版!】サブカルチャーは資本主義批判になり得るか? 『反逆の神話〔新版〕』解説:稲葉振一郎

反資本主義商品はなぜ儲かるのか? 現代世界のカラクリを哲学×経済学の見地から暴いたジョセフ・ヒース&アンドルー・ポター『反逆の神話〔新版〕「反体制」はカネになる』(栗原百代訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)。発売1週間で重版が決まり大きな話題を呼んでいます。私たちは本書をどう読むべきか。稲葉振一郎氏(明治学院大学教授)の解説を全文公開します。

反逆の神話(新版)_帯

『反逆の神話〔新版〕』解説 稲葉振一郎(明治学院大学教授)

本書の著者であるジョセフ・ヒースとアンドルー・ポターの言わんとすることは実にシンプルで、本書を読まれた方には一目瞭然であろう──というのは言いすぎかもしれない。しかしわたしには非常に──理屈以前に体感的なレベルで腑に落ちるものであった。ヒースの邦訳書第一弾の『資本主義が嫌いな人のための経済学』(NTT出版)を一読したとき、マルクス主義的な批判理論の位置づけから、正統派の新古典派経済学、そしてケインズ政策の意義について、太平洋を挟んでほぼ同時期に同じようなことを考え、書いている人物がいたということに驚嘆し、励まされもした。わたしのこのような感慨については、拙著『経済学という教養』(ちくま文庫〔増補〕)や、あるいは拙文「何故しぶとく生き延びるのか ゴキブリとマルクス」(『諸君!』2005年8月号 https://shinichiroinaba.hatenablog.com/entry/20080618/p1 )をお読みいただいた方ならおわかりいただけるだろう。実際『資本主義が嫌いな人のための経済学』にせよ本書『反逆の神話』にせよ、他人とは思えないような違和感の無さである。そのような立場の人間が本書を紹介し解説することは、かえって対象に対する距離が取れなくなる──ヒースたちの紹介と論評をしているつもりが、ついつい自分語りをしてしまうおそれもなしとはしない。そのへんを頭に入れた上で、本文を読んでいただきたい。

本書の説くところをわたしなりに大幅に換骨奪胎してまとめるならば、以下の通りである。

・ポップカルチャー、サブカルチャーは資本主義への批判でもオルタナティヴでもなく、その一部である。

・にもかかわらずそのように錯覚されてしまったことには理由があり、それは20 世紀後半の西側左翼の直面した困難からくるものであり、またそれ自体がその困難をより深めてもいる。

・西側左翼の陥った困難とは、西側先進資本主義社会の労働者を含めた一般大衆が、資本主義の秩序を、階級支配を受け入れてしまったという事実とどう向かい合うか、という難問である。正統派マルクス主義者はこの問題の所在自体を受け入れないことによって自己の正しさに閉じこもる一方、修正主義者、社会民主主義者は大衆の選択をそのまま受け入れ、よって資本主義それ自体を拒否することはなくなってしまった。

・西側左翼は労働者を含めた大衆の選択が自発的であることを認めつつ、その選択を導く社会認識自体が歪んでいる、誤っていると考え、人々を誤った社会認識へと導く資本主義社会の文化を批判し、文化のレベルでオルタナティヴを提示することが必要だ、と考えた。かくして20世紀後半の西側左翼においては、政治経済問題よりも文化を重視する、文化のほうが政治や経済を規定しているとする「文化左翼」的潮流が影響力を持つようになった。

・しかし実際には支配的な文化に対する批評も、またオルタナティヴな創作活動も、資本主義社会の中では、支配的な文化同様に、商品として作られ、流通し、消費されることに変わりはない。別にそれ自体が悪いわけではないが、資本主義を批判しそのオルタナティヴを探究するのであれば、政治経済の実態分析と、具体的な制度構想・政策立案こそが必要である。

わたしの解釈では、ヒースとポターは本書でここまでは言っている。西洋左翼におけるこうした誤解と自己欺瞞の構造を暴く彼らの筆致の容赦なさはどこから来るかと言えばもちろん、自分たちの過去についての反省、古い言葉から言えば自己批判でもあるところから来ている。要するに本書の分析の全体は著者たちによる自己総括でもあるのだ。そしてそこには面白さと同時に危うさもある。

更に2019年末以来のCovid-19 によるパンデミックの状況下についても、本書の洞察からは学ぶべきものがある。

ローリー・ギャレット『崩壊の予兆』(河出書房新社)によれば、少なくとも世界の一部で、平均寿命の低下、乳幼児死亡率の増加、栄養水準の悪化、致死的感染症の拡大、といった健康水準の絶対的な悪化が、20世紀末以降明らかに見られる。

これが絶望的な貧困と政情不安の中に置かれた最貧国だけの話であれば、そう不思議なことではない。ザイールのエボラはそれに当てはまるかもしれない。あるいは体制移行の混乱の中でのロシアにおけるエイズ、結核、諸々の性病、薬物中毒、そして近年ようやく持ち直してきたものの、一時期大きな関心を呼んだ、男性平均寿命の低下現象もそうかもしれない。しかしグローバル化の波に乗ってようやく飛躍を遂げようとしているインドのペスト禍は違う。先進諸国の大病院における院内感染の激発もそうだ。そしてトランプ現象以降のアメリカでも、ロシアに類似した「絶望死」ともいうべきアルコール、薬物依存による自殺の増加が話題となっている。

注意すべきは、これは単なる量的な問題ではないらしい、ということである。保健医療政策研究の勉強をしていると、近代化と保健医療の発展に伴い、人類の健康に対する主たる脅威、保健医療のメインターゲットの歴史的な段階論の図式によくお目にかかる。(たとえば広井良典『遺伝子の技術、遺伝子の思想』中公新書、『日本の社会保障』岩波新書、など。)そういう図式によれば、少なくとも先進国にとっては感染症が主たる脅威である時代は過去のもので、今やガンや生活習慣病などの慢性疾患、そして高齢者ケアが主たる課題である、となる。たしかに大勢としてはそうだ。しかしその一方で、明らかに世界規模で「感染症の逆襲」とも言うべき現象が起こっており、目下世界中を巻き込むパンデミックとなったCovid-19 も、長い目で見ればその一環に過ぎない。

しかもこの「感染症の逆襲」があぶりだしたのは、先端医療やバイオ技術の高度化の裏で、ごくごく基本的な公衆衛生のインフラストラクチャー ――清潔な水、空気や医療現場における殺菌消毒の徹底などといった本当にプリミティブなそれが、途上国でも先進国でも危機的状態にあるらしい、ということである。

一概に一般化はできないが、あえて先進国に注目して言うなら、医療の高度化がかえって公衆衛生を危機に追いやるという逆説があるようだ。たとえばHIVワクチンは当分実用化されないとしても、発症を押さえ込む薬なら、高価で途上国では気軽に使えないとしても、実用化されている。しかしそのことがかえって人々の間でエイズへの恐怖を薄れさせ、感染そのものを防ごうとする公衆衛生政策の私生活への介入をいとわせ、かくして(先進国に限っての)エイズ死亡者の減少の裏で、実は確実に(先進国でも)HIV感染者は増えていた。そこにこのCovid-19 である。Covid-19 はエイズと裏腹の感染力の強さと死亡率の低さ、治療法の未確立と予後の不良さ等々、HIVとはまた異なったかたちで、しかしより一層大規模なかたちで、我々の時代の公衆衛生政策のバグを突いてきている。

ここで山形浩生『たかがバロウズ本。』(大村書店)を読み返してみよう。山形によれば本書の、そしてウィリアム・バロウズ自身のテーマは「自由」である。20世紀後半のオルタナティヴ・カルチャーのヒーローの間違いなく最重要の一人であるバロウズは、終世自由を求め、その作品においても内容のみならず技法面でも、大胆に自由を追求した──という巷の評価はまあ間違ってはいないが、その自由とは単なるゆるゆるのだらしなさに過ぎなかったのかも知れず、それがある程度の成果、文学的革新としてまとまりえたのも、単なる幸運のならしめるところだったのかもしれない。山形はこう淡々と突き放す。

ラリッたあげく誤って妻を射殺したバロウズは、ギャレットが報告している、現代のアメリカで公衆衛生当局を「セックス警察」と軽蔑し、コンドームなしのセックスにあえて興じる「ベアバッカー」なる一部のゲイたちのある意味先駆者である(バロウズはゲイを公言していた)。しかしこのベアバッカーのイキがり(それはある意味フーコー的な権力への抵抗であるのかもしれないが)は馬鹿げてはいないだろうか? そしてバロウズの「自由」もそういうただの愚行ではなかったのか? それは(高価な薬を利用できるがゆえにエイズを恐れなくなったベアバッカーと同じく)所詮は金持ちのお坊ちゃんゆえに可能だった愚行であり、しかもそのイキがりでさえ、実はただのだらしない成り行きまかせを、あとから「理由なき反抗」として劇的に潤色したに過ぎないのではないか? と。

そして今回のCovid-19 は、このようなバロウズ=フーコー的抵抗のまさに弱点を突いてあざ笑うかのような振る舞いを見せている、と言っては言いすぎだろうか? 本書のサブカルチャー批判は、そのような観点から読み解くこともできるだろう。

そして、彼らがここではっきり言っていないが、暗黙裡に本書に含意されていると思われること、そして本書以降の状況を踏まえて彼らが考えているであろうことについて、踏み込んで書かせてもらうと――

・資本主義も科学技術も近代合理主義もそれ自体としては良くも悪くもない。資本主義・科学技術が道徳的、政治的に中立な道具で、それを使う者次第だというわけではなく、資本主義も科学技術も特定の社会的なコンテクストの中で使われるしかない、ということだ。

・マルクス主義以来左翼は、資本主義であれ科学技術であれ近代合理主義であれ人間の社会の全体を支配する原理を追い求め、それ自体を総体として悪しきものとして否定し、部分的改良ではなく、総体の革命によって克服せねばならない、という強迫観念に取り憑かれてきた。

・「厳密に言えば世界の中のあらゆるものは他のあらゆるものと関係し合っている」という全体論的発想は、マルクス主義がヘーゲル哲学などから受け継いだ重要な視点だが、そこから「世界全体を把握できるしそうすべきだ」「社会を変えるのであればその全体の変革が必要だ」と推論しようとしたのであれば、それは誤りだ。

――と、この程度のことまでは言えるだろう。英語圏において分析哲学の伝統を踏まえつつ、しかしユルゲン・ハーバーマスらフランクフルト学派の批判理論(まさにこの潮流が20世紀における西洋左翼、西洋マルクス主義の知的な代表選手であったわけであるが)のモチーフをも継承しようとするヒースの問題意識に鑑みるならば(意欲のある方は邦訳されているヒースの『啓蒙思想2.0』、更に理論的主著『ルールに従う』〔ともにNTT出版〕をご覧いただきたい)。更にトランプ以後を踏まえるならば、

・現代のポップカルチャー、サブカルチャーは資本主義の批判やオルタナティヴなどではなく、その一部である。実際ポップカルチャー、サブカルチャーが本来的に体制批判的だという幻想はポスト・トランプの時代にはとうに崩れ去っている。だからといってそれではポップカルチャー、サブカルチャーは資本主義の一部として悪だ、というわけでもない。ポップカルチャー、サブカルチャー自体は、資本主義それ自体が良くも悪くもないのと同様に、良くも悪くもない。

というところまでは、彼らの議論から汲み出すことはできるだろう。

ではそこからどこへ向かうのか? 

大まかに言って本書の受け止め方には二通りあろう。ひとつは「文化批評やサブカルチャーに余計な期待はせず、社会批判をしたければ政治経済の実態分析や政策提言に的を絞ろう」というメッセージとして本書を読むというやり方。しかし本書はそんなふうにあっさり読みすてるにはあまりにも、西洋マルクス主義の思想史や文化研究、あるいは20世紀後半以降のロックやSFなどのサブカルチャーへの愛憎半ばする厚い記述に満ち満ちている。「言い逃れの達人」ミシェル・フーコーには(今持って放つその絶大な存在感に対抗するためか)かなり辛辣だが、今ではあまり顧みられることもない『脱学校の社会』『シャドウ・ワーク』『ジェンダー』のイバン・イリイチへの意外な高い評価など、驚かされるところも多い。となれば読者としてはつい「文化左翼の骨をひろうとしたら?」とか「よいポップカルチャーとは?」という問いかけを著者たちにせずにはいられないだろう。

さてそう問われたとき著者たちはどう答えるだろうか? 「もういい加減そのへんの話はやめにして、経済学や法律学をやろうぜ」と終わらせるのか、それとも……?

 2021年8月6日

本書の序章全文を▶こちらで公開中




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