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アイスランドの小説は、暗いものだけじゃない。孤独な旅の果てに見つけた希望と、ちょっぴり変わった家族の物語『花の子ども』訳者あとがき(神崎朗子)

アイスランドを代表する作家オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルによる小説『花の子ども』を4月14日に早川書房より刊行します。

アイスランドの小説というと、日本でも人気のアーナルデュル・インドリダソンによる、暗く重厚な作品が思い浮かぶかもしれません。じっさい、そう思ったという読者モニターの方々の感想も届いています。

いっぽう、『花の子ども』は、光が印象的な小説です。
ひとりの青年の成長をとおして、家族のありかたを温かく見つめ直す本作は、美しい風景、穏やかな修道院の暮らし、おいしそうな料理を堪能できるロードノヴェルでもあります。
その読みどころと、本作が生まれたアイスランドの社会について、訳者の神崎朗子氏が語ります。

書影_花の子ども

花の子ども
オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティル
神崎朗子訳

訳者あとがき

神崎朗子

本書『花の子ども』は、アイスランドの作家、オイズル・アーヴァ・オウラヴスドッティルの小説Afleggjarinnを英語版(The Greenhouse)から翻訳した全訳である。アイスランド語の原著(2007年刊行)は数々の文学賞を受賞し、北欧理事会文学賞にもノミネートされた。24か国で翻訳され、フランスでは40万部のベストセラーとなるなど、国内外で高い評価を獲得している。著者の生い立ちや経歴、著作、受賞歴、また本作品の書かれたアイスランドの社会的背景等については、在レイキャヴィークの新進気鋭のアイスランド文学研究者、朱位昌併氏の解説に詳しい。オイズル氏(多くのアイスランド人の名前に姓はなく、ファーストネームに父称〔まれに母称〕を付ける。すなわち、父親〔あるいは母親〕の名前の属格に、娘を表す「ドッティル」か息子を表す「ソン」を付けるのが一般的であるため、ここでは著者のファーストネームを用いる)の著作は33か国で翻訳されており、日本語に翻訳されたのは今回が初めてとなる。

物語は北の最果の島国から始まる。主人公のアルンリョウトゥル(愛称ロッビ)は22歳。1年半ほど前に母を亡くし、高齢の父とのふたり暮らしだ。自閉症の双子の弟ヨセフは、施設で暮らしている。高校を優秀な成績で卒業したロッビだったが、その後の進路を決められず、悶々とした日々を送っていた。父からはたびたび大学への進学を勧められるが、ロッビは漠然と園芸を仕事にしたいと思いつつ、具体的な目標を見つけられずにいた。ラテン語と園芸にだけは自信があるが、それをどうやって将来に生かせばいいかわからない。最愛の母を亡くした悲しみを胸に秘め、とうとう行き詰った彼は、漁船でアルバイトをしてお金を貯め、母が遺した希少な「八弁のバラ」をもって、ヨーロッパのどこかと思しき、修道院の名高いバラ園を目指して旅に出る。ところが、旅はのっけから波乱に満ちていた。機内で腹痛に襲われ、着陸後には手術入院。それから2000キロもの道中、深い森をさまよいながら、ようやく崖の上にそびえ立つ修道院にたどり着いたと思ったら、庭園はかつての栄光を失い、荒れ果てていた。庭園を甦らせる仕事に着手した矢先、思いがけない連絡が舞い込む。かつて一夜をともにし、彼の子どもを産んだ女性が、しばらくのあいだ子どもを預かってほしいというのだ――。

このロードムービーのような物語には、国名も地名も出てこない。いつの時代かもはっきりとせず、インターネットは存在しない。携帯電話は一度だけ登場する(亡き母が死の直前に使い始めた)ものの、主人公をはじめとする登場人物たちは、誰も使っていない。家族や友人との連絡手段、思いを伝える術は、直接の会話、電話、手紙、贈り物、そして料理だ。この物語には、オイズル氏のほかの小説と同じく、料理や食事のシーンがよく登場する。寒冷地らしい素朴な食卓で、ラムや仔牛やコダラなど地元の食材を自分たちで料理して食べる。

また、色彩や光の描写がじつに絵画的で、映像がまざまざと浮かんでくるのも、特徴のひとつだろう。美術史の専門家であり、カトリック教徒でもある著者の深い造詣がうかがえる。光と闇のコントラストも重要な意味をもっており、ロッビとアンナの一夜の交わりによって生まれた娘、フロウラ・ソウルは、御子イエスにそっくりの、まわりを光で照らすような子どもだ。詳しくは解説に譲るが、婚姻にこだわらずに子どもを産んで育てることや、年齢に縛られない生き方がポジティブに描かれている。著者自身、パートナーについて明らかにはしていないが、結婚はしておらず、娘がふたり、孫娘がひとりいる。

物語の語り手はロッビで、22歳の彼の頭のなかは、死、身体(=セックス)、植物の3つのことでいっぱいだ。ひょろっとした赤毛の青年で、かっこいい弟にくらべて、容姿では引け目を感じている。これまで6人の女性と寝たことがあるが、ステディな関係になったことは一度もない。だが彼の姿から感じられるのは、ずるさや冷淡さではなく、自信のなさと恐れだ。そんな頼りないロッビが、おかしな妄想を膨らませては肩透かしを食らったり、壁にぶつかったりしながらも、やがて成長していく様子が、ユーモアをまじえた飄々とした文体で描かれている。初めての外国での旅路も、女性との関係も、けっしてロッビの思うようにはいかないが、そんななかで、彼のもつ優しさやつよさが引き出されていくところに、著者の厳しさと温かさ、そして真摯な眼差しを感じる。


さて、アイスランドになじみのない読者も多いと思われるので、ここでアイスランドに関する基本的な情報をご紹介したい。アイスランド共和国は北欧5か国(フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、デンマーク)のひとつで、北欧5か国の人口は合計約2730万人。そのうちアイスランドの人口は約36.4万人で、5か国中5位だ。面積は約10万3000平方キロメートルで、5か国中4位、北海道よりやや大きい。北極圏に近いアイスランドは「火と氷の国」とも呼ばれ、世界有数の火山国でもある。過酷な自然環境にありながら、豊富な水力と地熱を発電に利用し、「再生可能エネルギー大国」としても知られる。公用語はアイスランド語で、人びとは義務教育において英語を第一外国語、デンマーク語を第二外国語として学ぶ。首都レイキャヴィークの近郊へ足を延ばせば、氷河や滝や間欠泉など、雄大な自然に触れることができる。アイスランドにも四季はあるが、冬が1年の半分近く(11月から3月)を占め、冬の日照時間は最短で4時間ほどしかない。逆に、夏の6月から7月は白夜となる。8月下旬から4月半ばまでは、運が良ければ旅行者でも、夜空を彩る幻想的なオーロラを眺めることができる。

北欧5か国はいずれも福祉国家で、世界幸福度ランキングの上位を占め、ワークライフバランスの良さでも知られる。さらにアイスランドは、ジェンダーギャップ指数において11年連続世界1位(2020年、日本は153か国中121位)、世界平和度指数ランキングにおいて13年連続世界1位に輝いている(2020年、日本は163か国中9位)。また民主主義指数においても、アイスランドは世界1位のノルウェーに次ぐ2位(2020年、日本は167か国中21位)となっている。このようにジェンダー平等、民主主義において、アイスランドは長年にわたり世界をリードしてきた。

じつは、アイスランドの民主議会は、世界で最も長い歴史を誇る。九世紀、ノルウェーの圧政を逃れてアイスランドにやってきた人びと(ヴァイキング)は、王による統治ではなく、民主的な合議による自治を目指し、930年、民主議会「アルシング」を設立した。13世紀半ば以降はノルウェーの属国となり、その後数世紀にわたってデンマークに支配されたが、属国となったあともアルシングは続行された。やがて、1904四年に自治権を獲得し、1944年、ついに共和国として独立した。

ただし、アイスランドがジェンダー平等において世界のトップへと躍進したのは、過去半世紀ほどのことだ。1975年10月24日、アイスランドの女性たちは、職場における男女格差や、性別による役割分担に抗議の声を上げ、「女性の休日」と呼ばれるストライキを決行。仕事も家事も育児も放棄し、国会議事堂前広場を埋め尽くした。全国の9割の女性たちが参加したこのストライキは、社会に多大な影響を及ぼし、その5年後の1980年、世界初の民選の女性国家元首として、ヴィグディス・フィンボガドッティルが大統領に就任する。さらに2009年には、ヨハナ・シグルザルドッティルがアイスランド初の女性首相として就任し、同性愛者であることを公言した世界初の国家元首となった。2010年には、クオータ法(51名以上が常勤し、4名以上の役員がいる企業では、男女それぞれの役員の割合が40パーセントを下回ってはならない)が制定され、同性婚が合法化された。性的マイノリティの人びとの権利や平等の推進、障害者の自立支援にも力を入れている。

このようにアイスランドの人びとは、明確な理念のもとに民主主義やジェンダー平等を推進しながら、すべての人にとって生きやすい、成熟した社会を目指し続けている。これについても、朱位昌併氏による示唆に富んだ解説をご参照されたい。こうした背景を踏まえて『花の子ども』を読み返してみると、アンナやロッビの生きる社会や、ふたりがつくろうとしている家族は、日本のものとはかなり異なることに気づかずにはいられない。

首都レイキャヴィークがユネスコの「文学都市」に認定され、世界で最も本に親しむ国とも呼ばれるアイスランドでは、読書が非常に盛んであり、近年の日本の作家では、村上春樹、小川洋子、東野圭吾、川上弘美、多和田葉子などの作品がアイスランド語に翻訳されている。近年のアイスランド文学で、すでに日本で紹介されている作品としては、アーナルデュル・インドリダソン著『湿地』(東京創元社)、ラグナル・ヨナソン著『喪われた少女』(小学館)、イルサ・シグルザルドッティル著『魔女遊戯』(集英社)や、オラフ・オラフソン著の短篇集『ヴァレンタインズ』(白水社)などがある。オイズル氏の著作はいずれも、身近な人の死や喪失体験、戦争などが、主人公の人生に暗い影を落とすことはあっても、孤独や苦悩の道のりの果てにひと筋の光を見出し、希望が芽生えるところや、素朴な温もりやユーモアを感じさせるところが、大きな特徴と言えるだろう。

アイスランドから届けられたこの物語が、バラの挿し穂のように、日本の人びとの心に根を下ろし、花を咲かせることを、訳者として願ってやまない。

◉解説

◉試し読み

◉作品概要

awabooks.com/n/n169fef228b2b

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