【冒頭試し読み公開!】50年に1度起こる凄惨な殺人事件。真犯人は尊き神か、恐るべき鬼か? 西式豊『鬼神の檻』
2022年に『そして、よみがえる世界。』で第12回アガサ・クリスティー賞を受賞しデビューした西式豊氏。その受賞第一作『鬼神の檻』を8月21日(水)にハヤカワ文庫JAより刊行いたします。本作は、三世代の謎が絡み合う因習村ミステリ。第一部では伝奇ホラー、第二部では見立て殺人、そして第三部ではSF――と各ジャンルの魅力マシマシに仕上がりました。本欄では、その冒頭60枚の試し読みを公開いたします。
西式豊『鬼神の檻』
第一部 大正十二年 北白真棹
夜半から、暗闇の中を舞い続けていた雪は、払暁を前に降りやんでいた。
日の出といっても、太陽の姿はない。厚い雲がたれこめた空全体が、弱々しく明るむだけだ。この季節の秋田では、晴天に恵まれる方が稀だった。
冬は、風景から色を奪う。
根雪に覆われた水田。里山の鬱蒼とした樹々。遠くのぞむ鳥海山の美しい稜線。いまはそのどれもが、白から灰色にかけての濃淡の違いでしかなかった。
すべてが無彩色の景色の中で、一本の煙突だけが、鮮やかな赤褐色で存在を誇示している。北白酒造の煉瓦煙突だ。
御荷守と呼ばれるその村で、北白家は、江戸時代から続く肝煎(地方によっては〈庄屋〉とも呼ばれる大地主のこと )として知られていた。小作経営のかたわら、先代の当主が造り酒屋をはじめたのは日清戦争当時のことだが、いまでは副業に収まらない規模にまで成長している。
御荷守と名のつく土地にいれば、どこにいても必ず目に入る、村一番の高さを誇る建造物である煉瓦煙突は、その成功の象徴でもあった。
敷地内には酒蔵と隣接して、北白一族の居住する屋敷が横たわっている。母屋自体は宝暦年間の建築だが、増改築を繰り返した現在は、板葺き屋根の連なる長大な外観になっている。
その屋敷の北の端。台所土間の脇からあがった二階の奥に、北白真棹の私室があった。
六畳一間の真ん中に布団をしいて、たっぷりと綿の入った夜着を口元までひきあげた真棹は、もどかしげに眉をひそめながら、ゆっくりと目を開けた。
利発、聡明、勤勉。女学校の教師たちからは、そんな風に評されることの多かった真棹は、それゆえに十七歳という実年齢よりも、大人びて見られた。けれどもいま、無防備に横たわったその面差しには、世界の中に納得のいく居場所を見つけられない少女のような、心もとなさが感じられた。
おかしな夢だった。
天井の木目をぼんやりと眺めながら、真棹はいまだに意識の片隅に残る、目覚めの感覚を反芻していた。
自分は確かに、この部屋に寝ている。そのことをしっかりと認識しながら、一方でここではないどこかにも、同時に存在しているような、不思議な気分だった。
そのどこかは、キラキラと光を放つ、真っ白い壁に囲まれた部屋の中で、何人もの女性たちが真棹の周囲に集って、心配そうに見守っている気配がした。
けれどもそれらの感覚は、まるで、ラジオのスイッチが切られたかのように突然消え去ってしまった。その瞬間に真棹は、目を覚ましたのだ。
いまいる場所が現実だという実感を得ることができずにいる間、これと同じような夢を、以前にも何度か見たことがあると、真棹は思い出していた。
この屋敷を離れて、秋田市内の高等女学校で寮生活をはじめるようになってからは、ついぞ忘れていたものだ。
夢に現れた女性たちは、もしかすると姫だったのかもしれない。
真棹は漠然と思った。
この村の長い歴史の中では、自分より前の時代にも、姫と呼ばれた何人もの女がいた。
その誰もが例外なく、御台として選ばれる日が来るのを待ち望んでいたと、真棹は聞かされて育った。
なぜならば、御台になることこそが、姫にとっての最高の栄誉であり、生家の恩に報いる最大の孝行とされていたからだ。
けれども真棹は、今日という日が到来してもなお、確信を持てずにいる自分に気がついていた。
過去の多くの姫たち自身は、本当に心から、それを望んでいたのだろうか、と。
こうして真棹は、北白の屋敷で過ごす最後の朝を、迷いの中で迎えることになった。
真棹はあと数時間もしないうちに、村の祭神、御荷守明神の貴神様の元へ、御台として嫁ぐことが運命づけられていた。
御荷守村。
それが、真棹の生まれ育った土地の呼び名だった。
秋田県のほぼ中央。宿場町として知られた刈和野から歩いて小一時間。大きく蛇行した雄物川沿いに拓けた、全周六里ばかりの山間の盆地である。東南の丘陵地に、陸軍の演習場が広大な敷地を構える以外は、ほぼ全域が水田で占められ、県下屈指の米どころとして知られている。
その名はもともと、村の北端の山すそに位置する、御荷守明神からとられたものだ。
この村に生を享けた子供たちは、寝物語にその成り立ちを聞かされて育つ。
貴神様と四人の姫にまつわる昔話だ。
佐竹の殿様が出羽国を治めていた江戸時代の中頃。この地は常に貧しさと隣り合わせだった。
雄物川が鉤の手に曲がった地形のために、ひとたび雨が続けばとたんに水流が滞り、田も畑も家も洪水に呑まれてしまうためだ。
度重なる水害に加えて、おりからの凶作によって、ひと月以上も食うや食わずに追い込まれた村人たちは、最後の救いを天に求めた。村の東西南北を代表した四人の若者が、みなの乏しい貯えをかき集めて、旅の修験者に水災除去の祈願を願い出たのだ。
村の境遇に心を痛めた修験者は、寝食を忘れて三日三晩祈りを捧げた。そしてその夜、満月の輝く雲ひとつない天空に雷鳴がとどろき、まばゆい光の衣をまとった神様がお姿を顕された。
名前を持たないこの神様は、そのやんごとなきお姿から、ただ貴神様と呼ばれることになった。
貴神様が澄んだ鈴のようなお声で命じられると、川は見る間に穏やかな流れへと姿を変えた。それ以来御荷守の地は、二度と洪水に見舞われることはなかったという。
村人たちは大いに喜び、貴神様にこの土地にお住まいになられるよう懇願したが、偉大なお力を持つが故に、現世に長くとどまることが許されぬ天界の理で、貴神様は貴重なお荷物のいくつかを残したまま、五十年後に再びこの地を訪れることを約束して、空の彼方へとお帰りになられた。
修験者は、これらの荷物をお守りする役目という意味で、自ら御荷守と名乗り、貴神様が降り立った山中の某所に社を設けた。
現在に続く御荷守明神と、宮司御荷守家の発祥である。
洪水を克服した村は順調に発展を遂げ、修験者に祈祷を依頼した四人の若者が、農民たちを束ねる役目を担うこととなった。
村の東西南北、それぞれの土地を統べる肝煎として、名字帯刀を許された彼らこそが、東峰、西練、南瀬、北白。総じて〈四家〉と呼ばれる、村の有力者たちの始祖である。
最初の来訪から五十年が過ぎた享保八年。貴神様は再びこの村にご顕現なされた。
宮司御荷守家の設けた盛大なご歓待の宴に、四家の長は、美しく着飾った自分たちの娘を饗応役として送り込んだ。贅を尽くしたご馳走が並び、技巧を凝らした歌舞音曲が次々と披露される様子は、おとぎ話の竜宮城もかくやという絢爛豪華さだったと伝えられている。
その宴のさなか、貴神様は四家の娘のうちの一人と相思相愛の仲になった。天界の理ゆえに、夜が明ける前には現世を離れざるを得ないと伝える貴神様に対して、娘は「いつまでもおそばに置いていただけるのであれば、人であることをやめても構いません」と答えたという。
こうして娘は、神と人との間で契りを結ぶ輿入れの儀を行い、二人そろって空の彼方へと旅立ち、幸福に暮らし続けたと言われている。
これ以降も、貴神様は宮司御荷守家の求めに応じて、五十年に一度この地を訪れ、その都度新たな御台を迎え入れることと引き換えに、様々な有難いお言葉を託して、村を災厄からお守りくださり続けた。
これこそが御荷守明神の秘祭。五十年に一度行われる〈貴神様の嫁取り〉の縁起である。
貴神様に嫁いで〈御台〉となるには、享保八年に饗応役となった四家の娘の血を引くことが必須の条件とされた。
御台の候補である娘たちは、いつしか〈姫〉と呼ばれるようになり、四家の当主は、決してその血筋を絶やすことがないように、また、五十年ごとの祭にあわせて年頃の娘に育つようにと、腐心を重ねることになった。
姫の血筋の女たちは、例外なく美しい容姿を持っていた。なかでも貴神様の元へと嫁いで御台と名乗ることが許されるのは、抜きんでた美貌と気品の持ち主として認められた証とされ、男たちからは賞賛を、女たちからは羨望を集めた。
幼い頃の真棹も、姉の真琴と一緒に、そんな話を毎晩のように母から聞かされて育った。
そうして母チセは、そのたびにこんな言葉で、昔話をしめくくった。
「真琴は姉ちゃだから、次のお祭で御台さ選ばれるこどがお役目だ」
それを聞くと真棹は、いつも身の置き所がない気持ちになって、問いかけずにはいられなかった。
「おれにはお役目はないのが?」
「もちろん、あるど」
母は少しの曇りもない大きな瞳で、真棹を見返して言った。
「元気のええ婿さん迎えて次の姫を産むこど。そいが真棹の立派なお役目だ」
北白本家の当主は征松という名の男で、醸造所を興した先代とひき比べて、なにかと小物扱いされることの多い人物だった。
富裕な商人の家から嫁いできた八重との間には、年が明ければ数えで十になる娘の佳津江がいるが、いまだ跡取りに恵まれないことを大いに気に病んでいるという。それがために夫婦仲がギクシャクとして、かえって子宝が遠のくばかりだと、口さがない村人たちの間では噂されていた。
身支度を終えて、深紅の花嫁衣裳に身を包んだ真棹は、征松を筆頭に本家の家族三人が居並ぶ二十畳の本座敷で、深々と指をついてお辞儀をしていた。
「旦那様、奥様、お嬢様。今日まで長い間、お世話さなりました」
打ち掛けも襟も帯も、高島田の上の角隠しも、すべてが紅く染め抜かれている。御荷守でも一般の婚礼には白無垢を用いるが、輿入れの儀に姫がまとうのは、紅無垢と決められていた。
「真棹ちゃん、しったげ(本当に)きれいね」
尋常小学校四年生の佳津江は、うっとりと上気した顔でため息をついた。
「おれも五年早く生まれてたば、御台様になれだのに……」
天真爛漫なわが子の言葉に、母親の八重は露骨に眉をひそめた。
「おめには、秘伝の舞を受け継ぐ立派なお役目があるだ。御台になどならんで十分だ」
「まんず目出度いこどだ」
今日も朝から軽く引っかけているのだろう。既に赤ら顔になった征松が、面倒くさそうに妻の言葉を遮った。
「こいであくせく酒造りなどせんでも、北白の家は盤石だ」
真棹の前ではいつも仏頂面しか見せない征松だが、今日ばかりは上機嫌だった。
「どうだ真棹、御台さなるのはさぞや良い心地べ?」
花嫁衣裳の頭から足元まで、旦那様のねぶるような視線が注がれるのを、真棹は意識した。
「まだ実感がわきません」
「なにを情けの無いこどを。もっと誇れ! もっと喜べ! 姫の血筋さ生まれて、こいほどの誉はねえど」
「もともと御台になるこどは、私の役目ではなかったので」
征松は、合点がいかぬように首をひねるばかりだった。
「あんなことさえなければ、この場にいるのは姉ちゃでした」
畳の上から顔をあげず、真棹は答えた。
「真琴か、あいも可哀そうなこどをした」
征松は思い出したように言った。
「おめが〈御見立の儀〉を競わずして、御台さ選ばれたのもそんおかげだ。んだども、このままでは次の姫がおらんこどになってしまうのが困りものだ」
征松はそこで、次の間に控えていた真棹の母に声をかけた。
「んだがら、チセ。おめには、もうひと頑張りしてもらうこどになるべ」
北白の屋敷の中で、姫の血筋は分家と呼ばれ、征松を筆頭とする本家と比べて、なにをするにも一段低い扱いに甘んじていた。
チセの着ている着物ひとつとっても、八重の豪奢な黒留袖とは、比べようもない簡素な代物だ。仮にも同じ北白の姓を名乗りながら、まるで下働きのように扱われる母の姿は、いまだ衰えぬその美貌ゆえに、真棹の目にはこのうえなく痛々しく感じられた。
「婿に先立たれてもう何年だ? そい年でも一人寝の夜はもてあますべ?」
自分の言葉に自分で高笑いする征松を、八重はしかめつらでたしなめた。
「佳津江の前です。お控えたんせ」
「心配するなチセ。とびきりイキのいい若い衆をおれが見繕ってやるがら」
おかまいなしで続ける征松に、恐れ入ったように礼を言うチセの声が聞こえた。
おそらくその顔には、媚びるような微笑みが浮かんでいるに違いない。そんな表情を目にしたくないばかりに、真棹は今一度本家の人々に向かって、高島田の頭を深々と下げた。
正午過ぎ。御荷守明神から迎えがやってくる頃合いとなり、北白家の屋敷内は、にわかにあわただしくなっていた。真棹が出発した後に開かれる祝宴の準備で、女は料理と配膳に、男は来客の応対にと、使用人たちは大わらわだった。
御台となる当の本人である真棹は、家中の喧騒からただ一人取り残されて、控えの間で物思いに沈んでいた。
「東峰様のお越しです」
玄関口から、大声で報せる声があがった。
「おお、東の。よぐ来だな」
けたたましく廊下を踏み鳴らして、征松が迎えに出た。
「まだ祝儀の膳の準備をしている最中だがら、ちょっと待っていでぐれ。おいお前、お客様を一の間さ案内しれ」
征松が使用人に言いつける声を聞いた真棹はつと立ち上がると、女たちでごったがえす台所の脇を通って、慎ましい自室へと戻った。文机の引き出しに手を伸ばして、一枚の絵封筒を取り出す。夢のように美しい図柄は京都さくら井屋の品で、この手紙を宛てた相手と、かつておそろいで購入した、真棹の宝物だった。
封をした表書きには、青い万年筆のインクでこう記されていた。
東峰幸子様。
今日のこの日に至るまで、ポストに投函しようか、墓前に捧げようかと、何度も悩んだあげくに、結局はどちらも果たせずにきたものだった。
東峰のおじさまにこの手紙を託して、幸子様のお部屋の片隅にでもお捧げくださいとお願いすれば、郵便や墓前よりも確実に、お姉さまのおそばにいられる心持ちがするはずだ。
そう思うと真棹は居ても立ってもいられず、封筒を手にして一の間へと向かった。
家人たちはそれぞれの仕事に追われており、屋敷表はかえって人の行き来がなかった。それがために花嫁衣裳の真棹は、誰にも見とがめられることなく、賓客の部屋へとたどり着くことができた。
襖の前に正座をして「失礼いたします」と声をかけようとしたところで、部屋の中から甲高い男の声がこぼすのが聞こえてきた。
「酒さ博打さ女さと、道楽者の北白ごときが、こいで労せずしてご褒美をせしめるんだがら、なんとも業腹だや」
四家の一角、南瀬家の当主、俊彦のものだった。
〈ご褒美〉とはなんのことだろう、と真棹は引き手に伸ばしかけた手をとめた。
「こいばかりは詮無いことや。世界中で流行しだ伝染病が、こん日ノ本でも猛威を振るい、ひいてはこい村の営みにまで影響を及ぼすのだから、国際化も考えものだ」
しわがれた声で言うのは、四家の中でも抜きんでた土地持ちとして知られる西練嘉右衛門だ。その豪壮な屋敷は、もっぱら〈御殿〉と呼ばれている。カツンと音が響いたのは、煙管を火鉢に打ち付けた音だろう。
どうやら真棹の知らないうちに、西も南も既に到着していたようだ。
有力者である四家の長は、村で大きな冠婚葬祭のあるたびに顔をそろえる。表向きは互いを尊重するように振る舞ってはいるが、裏に回れば悪口ばかり言いあっていることは、周知の事実だった。
明神の大事な祭礼である輿入れの儀とあって、顔を出さないわけにはいかないものの、過去に例のない顛末で北の姫が御台に選ばれたことに対して、内心では憤懣やるかたない様子がうかがえた。不調法と知りながら、真棹は彼らのやりとりに耳をそばだてずにはいられなかった。
「私も医師のはしくれとして、内心忸怩たるものがあります」
東峰郁蔵の声だ。村はじまって以来の帝大出で、唯一の診療所を開き、使う言葉も標準語で通している。
「よもや四人の姫が、残らずこの世を去ってしまうとは思いませんでした」
三家の長が話題にしているのは、数年前に大きな被害をもたらしたスペイン風邪のことだ。病魔が最も猛威を振るった大正八年には、秋田市内だけで罹患者二万人以上、死者百名以上という記録が残されている。人口密集地のない県内陸部では感染爆発こそなかったが、医療機関の少なさゆえに重症化の割合はかえって深刻だった。この病魔の死亡率は若年層ほど高く、真棹の姉の真琴を含め、次々と発症した四家の姫たちは、必死の手当ての甲斐もなく、世を去ることになったのだ。
同じ頃真棹は、御荷守を離れ秋田市内の高等女学校で寄宿舎生活を営んでいた。彼女が微熱ひとつ出さずに済んだのは、寄宿舎生たちにはあえて帰宅を許さず、外界との連絡を極力避けて暮らすという学校側の防疫対策が、幸いにも功を奏した結果に他ならなかった。
「私はいまでも、あれは宮司の軽率さが原因だったと思っていますよ」
東峰の口にしたその噂ならば、真棹も小耳に挟んだことがあった。スペイン風邪が大流行している最中だというのに、御台を決めるための〈御見立の儀〉の舞台となる神楽殿の改築にあわせて、予行演習と称して姫たちを集め、本番さながらに舞を踊らせた。その際に、神主の一人が発症していたことを見過ごしていたのが、今回の悲劇の原因だというのだ。
「軽症だからと油断していたのでしょうが、せめて私に一言相談があればと、悔しくてなりませんよ」
「そいはあぐまでも噂に過ぎん。確証がないうちから、人を悪く言うのは止した方がええ」
西練に諭されて恐縮する東峰に代わって、南瀬がたずねた。
「もしも確証があったら、西の大尽はどうしなすったす?」
「もちろん、許しはせん。宮司の決めだこどに儂らの口挟みは許されずとも、早く息子の卯之助に代を譲ってはどうか、くらいの嫌味は言うたかもしれぬ」
「まんず今回の一件では大損でしたからな。豪華な着物に、お茶だお花だと、姫一人育て上げるのにどいだけ銭っこがかかったものか」
南瀬の嘆きは冗談とは思えぬ悲痛なものだった。今は秋田市内で両替商を営んでいるこの男は、チリ紙一枚の無駄でも使用人を叱りつける並外れた吝嗇家として知られていた。
「祭にあわせて年頃になるよう、難儀して仕込んだ姫を失って、こちらは泣きの涙だというのに、予備の弾がある北白だけは高枕でしたな」
東峰もそう言って話に乗ってきたので、南瀬はいよいよ声高になった。
「北白のやつ、真琴が床に臥せっている時分がら、そいだら真棹を姫にするまでと、薄ら笑いを隠そうともしながったと言うでねか。まったく腹が立つ話だや」
「もともと姫の血筋の女は、酷い難産と決まっていますからね。続けての子産みは禁忌、もしも二人目を産ませるのならば、大事をとって中五年は空けるが常道。それを北白では、とにかく数を産ませろと婿をけしかけたというんですから」
真棹は聞くに堪えかねてその場を後にしかけたが、こちらに向かってやってくる足音を感じて、奥の空き部屋へと避難をした。
「待たして悪がった」上機嫌な声は征松のものだった。「皆さん楽しげに、なんの話だ?」
「なんも。東の新しい屋敷の趣向を聞いていだところだ。随分と凝った造りになるとか」
西練は平然と言ってのけた。
「ていうと、またからくりだな? なんだて物好きな先生だ」
村一番のインテリとして知られるこの医師が、からくり細工の愛好家であることは、御荷守の隅々まで知れ渡っていた。
「完成の暁には、まっさきにお三方をご招待しますよ。特にクルクル回る仕掛けは、ちょっとした見ものですからね」
室内には、童心に帰ったかのような、男たちの和やかな笑い声が満ちた。
嘘で固めた世界。そんな言葉が真棹の心に浮かんだ。
予定された刻限になると、北白家の一族郎党と客人たちは、屋敷の前の路上に出て、御荷守明神からの迎えの到着を待った。
やがて、白から灰色への明度差だけが織りなす世界に、ぽつりと血のような紅が差した。今日のこの日にあわせて、真っ赤な斎服に身を包んだ神主たちだ。
周囲の人垣から、声にならないため息が漏れた。話には聞いていた伝説の光景が、目の前で実際に繰り広げられているという事実に、誰もが感銘を受けていたのだ。
けれども、真棹の心は千々に乱れていた。
そもそも御台というものが、実際にはなにをする役目なのか、本家の旦那様はおろか、誰ひとりとして具体的な事実を教えてはくれなかったからだ。というより、教えようにも本当のことを知る者などいないらしいと、村内の誰彼なくたずねまわったあげくに、思い知らされたからだ。
佳津江のように幼い娘ならば、貴神様の実在を信じ、姫を唄った数え歌の類を、疑いもなく口にもしよう。けれども真棹ほどの年齢となれば、伝説を事実としてそのまま受け取ることは不可能だ。誰も知らない御台の役目。その真相は、明神ゆかりの神職の嫁になるのか、あるいは修道女のように一生を神職に捧げるのか、そのいずれかであろうと見当はつけていた。
嫁ぎ先の事情はおろか、夫の顔さえも知らずに婚礼を迎える娘さえ珍しくないことを思えば、相手が神様であろうと人であろうと、女の立場に変わりはない。たとえ苦労の多い人生になろうと、耐えて生きねばならないものと自分に言い聞かせていたが、それでも微かな胸の震えは、おさまる気配を見せなかった。
そうこうするうちに神主の列は、北白家の前まで到着してしまった。
「御台様、登ったんせ」
真っ赤な装束の一群の中から、ひときわ高い烏帽子をかぶった宮司が進み出て、よく通る声で告げた。
「登ったんせ」
数人の神主が復唱しながら真棹を取り囲むと、空の駕籠を示して乗るように促した。
重くて窮屈な花嫁衣裳に難儀しながら、真棹がようやく駕籠の中におさまると、旦那様が大声で叫んだ。
「御荷守明神、万歳ーっ!」
「万歳ーっ! 万歳ーっ! 万歳ーっ!」
詰めかけた人々の万歳三唱と共に、駕籠はふわりと地を離れ、赤い斎服の行列はゆっくりと御荷守明神の参道へと向かった。
こんなにも急にことが進むと思っていなかった真棹は、心の準備はおろか、群衆の中に母の姿を探す余裕さえなく、造り酒屋の煉瓦煙突を後にすることになってしまった。
酒蔵の東の道を北の山へと向かうと、御荷守明神へと至る。
正式にいえばそこは〈里宮〉と呼ばれるお社で、ご神体である貴神様のお荷物を実際に祀っているのは、かつて貴神様がこの地に降り立った山中のいずこかに建立された〈奥宮〉と呼ばれるお社の方だった。奥宮へ行くことを許されるのは、明神の神職以外には御台しかなく、それゆえに山ひとつ全体が、禁足地とされていた。
花嫁行列は鬱蒼とした森の中の参道を進み、とうとう里宮の鳥居をくぐった。玉砂利の境内はすっかり根雪に覆われ、真っ赤な壁の拝殿が、平素にも増して威容を誇示しているように、真棹には感じられた。
駕籠が拝殿の裏に回ると、いきなり側面の戸が開けられ、五十がらみの宮司が、無言のまま降りるよう手振りをした。
命じられるがままに立ち上がった真棹は、駆け寄ってきた数人の屈強な神主に四方から抱えあげられ、声をあげる余裕さえなく、直径二尺、高さ三尺ほどの樽のようなものへと押し込められた。
狭い空間にはまった身体は、逃れようにも身動きひとつできない。そうこうしているうちに、今度は頭上で蓋が閉められ、目の前が真っ暗になった。
「あの、もし……。なにゆえこのような目にあわねばならぬのでしょうか?」
勇気を振り絞って口にした言葉があまりにもか細くて、その意気地のなさに、真棹はかえって泣きそうになった。周囲にいるはずの神主たちからは、なんの反応も返ってこない。
ほどなく樽ごと自分が浮き上がる感覚があった。やがて身体の傾きが、急な勾配を知らせた。
いよいよ禁足地へと分け入り、奥宮へと向かっているのだ。
前後に幅のある駕籠では、急な坂道は難渋するので、こんなものに乗せ換えたのだろう。真棹はこの状況をそう解釈したが、これ以上恐ろしい考えが湧き起こらないために、強いて良い方に受け取ろうとしていることも、自覚していた。
「空元気、大いに結構じゃありませんこと」
ふと、快活な少女の声が、耳元で響いた気がした。
こんな時に一番に思い出すのは母ではなく、ましてや幼い頃に死別した父親でもなく、やっぱり幸子お姉さまの面影なのだ。そう思うと真棹は、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
スペイン風邪で命を奪われた四家の姫のうち東峰幸子は、真棹の母校秋田県立高等女学校で、三級上にあたる先輩だった。
真っ暗な視界の中、記憶の中に蘇ってきたのは、寄宿生たちの演じるお芝居で主役の座を与えられて、すっかり萎縮していた自分に、幸子がかけてくれた言葉だった。
「いいこと真棹さん。困難を前にした時こそ、勇気をもって突き進む気概が肝心になりますのよ」
暗闇の中で真棹は、記憶の中の声にすがるように「勇気、気概」と、何度となくつぶやき続けた。
大正十二年十二月二十三日。
帝国陸軍歩兵第十七連隊第五中隊所属の一等卒、志賀吉次は、中隊付き教官、鷹藤恭平少尉の当番兵として公務に同行する予定になっていた。
公休日の日曜にもかかわらず、私用外出もままならない志賀の境遇に同情的だった内務班の戦友たちは、その行き先を知った途端、手のひらを返したようにやっかみはじめた。なぜならば、鷹藤の向かう先は、秋田高女こと秋田県立高等女学校だったからだ。
先年行われたシベリア出兵において、秋田駅前に本部を置く第十七連隊が大陸に派兵された際に、秋田高女も学校ぐるみで慰問の品々を送り届けた縁があり、以来折に触れての交流が行われるようになっていた。
その背景には、なにかと軍縮の叫ばれる昨今、いずれは名家に嫁してひとかどの令夫人となるであろう女性たちに、十代のうちから軍隊に対する好印象を大いに刷り込んでおくべしという、連隊上層部の方針があった。
鷹藤の目的は、寄宿舎で行われる催しに招待されたことにあわせて、連隊長殿の名代として校長あての歳暮を届けることにあった。
口さがない連中は、土日返上で新兵器の練度向上訓練に臨んでいる軽機関銃分隊の加沢中尉を引き合いに出して、鷹藤との出世の違いが任務にも表れているなどと揶揄していたが、当の本人は至って気に掛ける様子もなかった。
「教官殿、お車の用意ができたそうであります」
将校室の入り口で、直立不動の志賀が告げると、鷹藤は気軽な調子で返事をした。
「車を出すまでもないだろう。久しぶりに雪もあがったことだし、旭川沿いを歩いていこう」
長身で肩幅の広い鷹藤は、ことのほか将校服がよく似合った。当番兵である志賀にとっては、公務のすべてに随行し、補佐雑役を課せられた相手ではあるが、温厚篤実な人柄もあって、これまで少しの苦労も感じたことはなかった。
鷹藤の生家は市内八橋にある石油商で、中学を卒業してから士官学校に入ったという経歴も、幼年学校あがりの軍人子息とは違った親しみを感じられる理由だった。
農家の次男坊である志賀は、小学校を卒業すると一人前の労働力とみなされ、以来二十歳になるまで農作業一筋で生きてきた。徴兵検査で甲種合格となり、郷土の誇る歩兵第十七連隊に入営を果たしたのが昨年一月。見るもの聞くもの勝手が違う軍隊生活には大いに戸惑うばかりだったが、残り僅かな現役期間を、信頼のおける鷹藤の元で過ごせることは、志賀にとっても大きな喜びであった。
「知っているか志賀。銀座の中心部では、主だった店が軒並み営業を再開して、歳末商戦でにぎわっているらしいぞ」
鷹藤は、まるで級友同志のように話しかけてきた。
この年の九月、帝都は未曾有の大震災に襲われ灰燼に帰していた。
志賀たちの連隊からも、第一大隊が命を受け災害救援に出動しており、火災のために焼野原と化した風景の痛ましさは、任務を終えて帰還した戦友たちから、志賀もたっぷりと聞かされていた。
あれからわずか三月が過ぎたばかりだというのに、歳末商戦などという言葉が出るほど街が活気を取り戻しているなど、にわかには信じられない話であった。
「三越、松屋、服部、明治屋。パンの木村屋も大繁盛だそうだ」
士官学校時代に帝都での暮らしを経験している鷹藤は、懐かしそうに遠い目をした。
この年になるまで、軍務で派遣されたシベリア以外は一歩も県外に出たことのない志賀は、市内の広小路を数十倍立派にした目抜き通りの光景を頭に描いてみたが、いまひとつピンと来なかった。
「類を見ない速度の復興だ。日本人の底力、ここにありといった感じだな」
「底力でありますか?」
「どんなに過酷な天命にさらされようと、きっとそこから這い上がってくる不屈の魂。そんな大げさなものではなく、踏まれても踏まれても生えてくる雑草のような生命力とでも言った方が実情に近そうだが、自分はそういう図太さこそが、我が民族の誇る最大の美点だと心底思っているんだ」
すこぶる愉快と言わんばかりに、鷹藤は笑った。
こんな風に物を考える男には、今まで出会ったことがなかった。
快活な歩調で進む鷹藤の背中を、志賀はまぶしげに見つめていた。
秋田県立高等女学校は、明治三十四年に開校した県内初の女学校であり、創立二十余年を数える。市内を南北に流れる旭川のほとりに堂々とそびえる白亜の二階建て。いくつもの球技場と百メートルの徒競走コースを備えた広大な敷地は、少女の集う場所らしい華やかな空気に包まれていた。
その一角にある寄宿舎は、通学困難な遠隔地出身の生徒のために設けられたもので、収容人数は全校生徒の四分の一、約百五十名にも達している。長期休暇の時以外は、生家に帰ることのできない寂しさを紛らわすために、寄宿舎では毎月のようになんらかの催しが行われていた。
特段宗教的な背景があるわけではないが、今月は十二月ということで、クリスマスにちなんだ企画がなされていた。ツリーに飾り付けをしたり、近隣の子供たちを招いて寸劇や合唱を披露したりと、少女の身の丈にあった微笑ましいものだ。
初老の校長の案内で、それらを見て回った鷹藤は、階段の踊り場に飾られた一枚の油絵の前で、ふと足を止めた。
「校長先生、あの絵は生徒の手になるものですか?」
「ええ、なかなかの大作でしょう」
校長は我が事のように誇らしげに、ご立派なカイゼルひげを震わせた。
カンバスは高さ四尺、幅三尺はあろうかという大きさだ。どうやら寄宿舎生活を題材にしたものらしく、背景に本棚が並んだ川沿いの部屋で、楽しげに語り合う二人の少女が描かれている。中央に置かれたテーブルには、紅茶のカップや少女雑誌に交じって、いままさに勝負の最中なのか、盤面一杯に黒白の石が並んだ、折り畳みの碁盤が広げられていた。
描かれた少女たちの顔を一目見た志賀は、この二人には見覚えがある、と感じていた。
「この絵は、作者自身と、既に卒業した先輩をモデルに描かれたものだそうです。作者の方は鷹藤さんも面識がおありのはずですよ。〈シベリア出兵凱旋報告会〉の折にご挨拶を差し上げた、寮長の北白真棹という生徒です」
その言葉を聞いた志賀は、やはりそうだったのかと納得していた。髪の長い方が北白の姫で、肩でそろえた断髪の少女が、今は亡き東峰の姫だ。
「北白さんは、ご家庭の都合とやらで退校なさってしまったのです」校長の解説は続いていた。「来年の三月には卒業だから、せめてそれまで待ってはどうかと親御さんを引き留めたのですが、一族の進退に関わることだからと、頑なにおっしゃられて。北白さんご自身も、そのことを随分と寂しく思われていたようで、楽しかった女学校時代の思い出を形にしたいと、こうして作品を残していかれたのです」
「たいした画伯ですね。てっきり本職の筆だと思っておりました」
鷹藤が如才なく答えると、校長はいよいよ得意げに続けた。
「本人は東京にある女子専門の美術学校に通いたいと希望しておりましたが、そちらもご家庭の都合で断念されたそうです。これだけの才能がありながら、もったいない話です。もっとも、この碁盤の描写はいただけませんな。碁石の並べ方がなっちゃいません。よく調べもせずに想像だけで描いたんでしょう。そういうところは女学生の限界ですかな」
「確かに、こいつは看過できませんな」
鷹藤はそっけない表情で相槌を打った。
女学校を辞去した鷹藤は、来る時とは打って変わって、沈黙を通していた。よもや自分が無自覚に不始末をしでかして、機嫌を損ねてしまったのではないかと、志賀は気が気でなかった。
「志賀一等卒」
「はい、なんでありますか」
ようやく呼びかけられた志賀がその場に直立不動になると、振り返った鷹藤は真剣極まりない表情で迫ってきた。
「お前の故郷の祭の話、もう一度詳しく教えてはもらえまいか?」
狭い樽の中に押し込められて、長いこと揺られていた真棹は、とうに時間の感覚を失くしたところで、ようやく外へと引き出された。
そこは広々とした板の間だった。いつの間にか奥宮の本殿の中に入っていたらしい。十数人いたはずの神主の姿はなく、目の前には祓串を手にした年かさの宮司がいるだけだった。
宮司は真棹には一言も話しかけず、内陣に向かって祝詞を唱えはじめた。
せめてこれからどんな風に儀式が進むのか、それを教えてくれるだけでも、どんなにか不安が軽くなるのに。そう思って唇を噛んでいると、祝詞を終えた宮司が、目の前に盃を差し出してきた。ここでも宮司は無言のまま、朱塗りの銚子からお神酒を注いだ。
いわゆる三三九度の杯とわかったが、誰からも作法は教わっていない。仕方がないので、口をつける真似事だけしていると、宮司の強い叱責が飛んだ。
「全部飲め」
真棹は言われるがままに盃を干した。お酒を口にすること自体がはじめてだった真棹は、あまりの不味さに顔をしかめそうになった。宮司はなおもお神酒を注いでくる。三三九度というくらいだから、最低三回は飲まねばならぬのだろう。そう思って必死に盃を重ねていると、三杯目に半分ほど口をつけたところで、ふっと目の前が暗くなった。
気がつくと真棹は座敷牢の中にいた。
これまで実際に座敷牢など見たことはなかったが、二寸角の木材を等間隔に並べた引き戸や、寝具以外は何もない手狭な間取りは、そう呼ぶのが相応しい場所に思えた。
どうやら三三九度の盃に眠り薬が盛られていたようだ。いまだにふらふらしている頭の感じから、真棹はそう直感した。
いったいどれくらいの時間が経ったのだろうか?
窓一つない室内が真っ暗ではないことに気づいて、真棹は天井を見上げた。そこには煌々と電球が輝いている。
近年は秋田でも電力会社の開業が相次いでいるが、御荷守村で電灯を使用しているのは四家を筆頭に数えるほどだった。これほどの山奥まで電線を引いてくるには、常識外れの手間と労力がかけられているはずだ。
裸電球のまわりには、太い針金で作った網が被せられている。この場所に閉じ込められた人間が、電球を割ってガラス片を作り、逃亡や自殺に利用するのを防ぐためだろう。
そう思いついた途端、自分の置かれた状況の異常さを改めて思い知って、真棹は取り乱した。窮屈な花嫁衣裳をいつの間にか脱がされて、簡素な着物姿になっていたことも、動揺を倍加させた。
「安心しろ。おめの服を着替えさせたのはおれだ」
牢格子の向こうから、しわがれた声が響いた。
暗がりの廊下に、猫のように背中を丸めた老婆がちんまりと座っていた。真棹が気づかなかっただけで、意識を取り戻す前から、ずっとその場にいたようだ。
「おめがどんなにめんこくても、御台様に手を出す度胸のある人間の男などいるはずがね」
乱杭歯の隙間から空気が漏れるような声で、老婆は笑った。
「おれがおめの御側役だ」
「お名前は?」
「とうになぐした。ばばとよべばええ」
「ばさま、教えてください。どうして私はこんなところに閉じ込められているんですか? 私だって貴神様に一生を捧げる覚悟はできています。このような扱いを受けるいわれはありません」
「覚悟だど? そったらたいそうな口が叩けるのも今のうちだ」
老婆の声が熱を帯びた。真棹はそこに、怒りとあきらめの奔流を感じた。
「これからどんな運命をたどるのかを知れば、おめだって一目散に逃げ出したぐなる。かくいうおれもこの有様だ」
暗がりからいきなり身を乗り出した老婆は、牢格子を握って皺だらけの顔をさらした。
真棹は小さな悲鳴をあげた。爛れたように変形したまぶたの下に、あるべき双方の眼球はなく、しなびた果物を連想させる小さな肉片が、わずかにのぞいているだけだった。
「若げ頃に、自分がら木の枝で両の目をついたんだ。なしてだがわがるか?」
真棹は声を出すこともできず、首を横に振った。
「先代の御台様へのむごい仕打ちを毎日のように目にするのが苦痛だったがらだ。こんな仕事にはもう耐えられね、やめさせでけれと懇願しても、決して聞き入れではもらえねがった」
老婆はそこで、自嘲的に口をゆがめてポツリと吐き出した。
「おれはな、こう見えても御荷守の嫁なんだ」
「宮司様のお母様、ということですか?」
「んだ。御荷守家の決まり事で、御台様の御側役は代々の嫁がするものと決まっておるんだ。そんたことなど露知らず、自分のような下々の女が御荷守の家に嫁げると大喜びをしてだのが、我が事ながら哀れでなんね。この奥宮から一歩も外に出ることが許されねという意味では、おれもおめと同じ囚われ人なんだよ」
そう言われてみれば、村の集まりでも、御荷守家の妻女の姿はついぞ見たことがなかった。真棹はいまさら凍える空気を感じたかのように、身体の芯が震えているのを意識した。
「代々ってことは、今の宮司のお嫁さんはどうしているんですか?」
「こんな汚れ仕事、おれ一人で十分だ。幸いおれは目がこの有様。どんな地獄も見ねですむ。身体が続くまではおれがこの役目を続けるつもりだ」
老婆の語る言葉の意味はわかっても、その背景にある事実にはさっぱり見当がつかなかった。そのことがもどかしくて、真棹は牢格子にすがりついた。
「ばさま、御台になった私はこれからなにをさせられるんですか? むごい仕打ちって、どういうことですか?」
必死で問いかける真棹に、老婆はとってつけたように笑った。
「いかんいかん、ついつい話をしすぎだ。おめは決して恐れることなどねえぞ。御台様ご自身はなにも知らず、なにも感じね身の上だ。貴神様どいづまでも幸福に暮らし続けることになるべな」
「貴神様って、本当に実在するんですか?」
「なにを言うか。貴神様がいねば、誰がこんな苦労をするものか。寅之助の話では予定より目覚めの時間が遅れているらしいがの」
「寅之助?」
「おれの息子、今の宮司の名前だ。この分では初夜のお床入りは明日の晩になるべや。そいまではせいぜい、今の自分を楽しんでおげ」
「どういう意味ですか?」
怪訝そうに首をかしげた真棹から、老婆は避けるように目を伏せた。
「おめの身体がおめのものであるのは、今夜が最後になるということだ」
夕餉の支度をすると言って姿を消した老婆は、小一時間ほどしてから戻ってきた。
猫の子一匹やっと通れるほどの小さな隙間から差し出された膳には、白飯と味噌汁に加え、鯉の甘露煮と青菜のおひたしが並んでいた。調理は宮司のお嫁さんが、日中に奥宮にやってきて済ませているそうだ。てっきり腹も満たせぬ粗食が出るものとばかり身構えていた真棹は、充実した献立に拍子抜けしてしまった。
その疑問を口にすると、老婆は寂しそうに笑った。
「御台様はたんと栄養をつげねばならね。たとえ国をあげての飢饉になろうと、御台様のお食事だけは三度三度ご用意する。それがここでのしきたりだ」
老婆が膳をさげると、真棹は完全にひとりになった。時間の経過を知るすべはなかったが、寒気が身に染みることからも、陽が落ちてからだいぶ経っていることがわかった。
不安ばかりをかきたてて要領を得ない老婆でも、身近に他人がいる間はまだ良かった。会話をする相手がいなくなると、頭の中では出口のない思考がぐるぐると回り続けるばかりだった。
なによりも気になっていたのは、先ほど老婆が口にした言葉だった。
自分の身体が自分のものであるのは今夜限り。
一体どういう意味だろうか?
生まれた時に与えられ、命がつきるその日まで、なにがあっても他人から奪われることのない、唯一のもの。身体とは、そういうものであるはずだ。
それが自分のものではなくなるのだとすれば、命を奪われるのも同じではないか。
もしかして御台とは、生贄かなにかの言い換えなのだろうか?
けれどもそれなら、もってまわった言い方をする必要はないはずだ。
だめだ、いくら考えても埒が明かない。
真棹は深いため息をついた。
空元気もわいてこないとなれば、自分にできるのは〈考えない〉ことだけだ。
姫と呼ばれる身分は名ばかり。村人たちの目につく場所でこそ、ひとかどの令嬢のように振る舞ってはいるが、一歩家の中に戻れば、分家として一段低く見られ、本家の人間のなすがままに支配される日々。まるで姫という血を残すことそれ自体が生きる目的であるかのような、自分の立場がわかるにつれて、真棹は次第に〈考えない〉という技能を身につけるようになっていた。
旦那様の下品なからかいや、奥様の高飛車な物言いにさらされても、口答えひとつすることなく、曖昧な笑みを浮かべて従う母の姿を見るたびに、真棹は考えることをやめて、空想の世界や過去の楽しい記憶に意識を飛ばすようになった。
幼い真棹が絵を描くようになったのも、もとはといえば考えずに手を動かして、頭の中の光景に没頭するためだった。
御台になっても絵を描くことさえできれば、心の充実は得られるだろう。これまでは漫然と、そんな風に考えていたが、この調子では画材ひとつ手に入れられそうになかった。
考えないでいるつもりが、またしても未来への不安に押しつぶされそうになっている自分に気づいて、真棹は無理にでも過去へと意識を飛ばすことにした。
どうせなら、とびきり楽しかった頃の記憶がいい。
そう思って目を閉じると、自然と脳裏に浮かんでくるのは、ただ一カ所しかなかった。
秋田県立高等女学校。
夢見がちな人、人見知りな人、姉御肌の人、笑い上戸の人。御荷守暮らしでは絶対に知り合うことのできなかった、様々な個性を持った寄宿生たち。なかでも最も忘れがたきは、他でもない幸子お姉さまだ。
この当時、尋常小学校から女学校への進学率は、ようやく一割強に達しようかという水準だった。それも都市部を含めた全国平均の数値であり、北国の片田舎に過ぎない御荷守では、東峰幸子がはじめての女学生だった。
女に学など与えてもろくなことにならない。誰もがそう口にする土地柄にあって、村一番のインテリとして知られる医師の東峰だけは、自らの肩書に釣り合った学歴を姫にも求めた。
真棹が女学校進学を許された理由も、東峰家に対する征松の対抗意識にすぎなかった。姉の真琴の時には進学の話など露ほども出なかったのに、妹の自分にだけはそれが許されたことからも、その思惑は明白だった。
女学校出と釣書に書いておけば、婿をとるにも農家の倅風情ではなく、軍人だの役人だのと、少しはマシな男から選べもできよう。さすれば北白の姫の血も、ますます磨き抜かれようというもの。
そんな思惑を隠そうともしない征松に、女学校に行かせてもらえるという喜びが一気に色あせてしまったことを、真棹はいまでも忘れてはいなかった。
けれども実際にはじまった秋田高女での生活は、それまで真棹の心の中で使われずに眠っていた様々な感情を鮮やかに揺り動かす、未知の体験の連続だった。
尋常小学校とは比べようもないほど幅広く専門的な学科の授業。教養溢れる良家の子女たちが交わす、書籍や音楽や演劇についての興味深い話題の数々。そしてなにより、真棹の心を惹きつけたのは図画の授業だった。東京の美術学校を卒業なされた年配の男性教師は、絵画に対する真棹の筋の良さと情熱にことのほか目をかけて、素描の基礎から油絵の具の扱い方まで、みっちりと指導をしてくれた。
さらに加えて、真棹の女学校時代を充実させたのは、生徒たちの自主性を最大限に尊重する寄宿舎での毎日だった。入学当初、はじめての集団生活に気おくれするばかりだった真棹を、なにくれとなく導いてくれたのが、当時の四年生で、寮長を担っていた東峰幸子に他ならなかった。
もちろん真棹は、姉の真琴と彼女が、御台の座をめぐって争う関係であることは知っていた。だからこそ最初のうちは、寮長という立場を笠に着て意地悪でもされたらどうしようか、と身構えていたが、実際に顔をあわせた幸子は、家同士の諍いなどおくびにも出すことはなかった。
女学生といえば、ほとんどが庇髪かお下げと決まっている中、幸子だけはまるで少女雑誌のグラビアページに出てくる東京のご令嬢のように、横分けの断髪に目の覚めるような青い髪留めをして、その姿は嫌でも人目を惹いた。かといってお洒落にうつつを抜かしている軽薄さは少しもなく、勉強も運動もとびきりの一番で、常に礼節を失わず、巧みに標準語をつかいこなす様子は、全校生徒たちの憧れの的でもあった。
真棹ははじめて幸子と会話を交わした時のことを、いまでも鮮明に記憶していた。
秋田高女には〈三く一ろの訓〉と呼ばれる教育標語があった。らしく、明るく、強く、がひと揃いで三つの「く」。それにまごころ、の「ろ」を加えたものだ。
入学して間もない頃、真棹はその内容について、なんの気もなく幸子にたずねたことがあった。
「明るく、強く、まごころ、は言葉通りで理解できますが、らしく、というのはどういう意味なのでしょうか?」
「常に周囲から期待される存在であれ、という趣旨よ」
「期待される存在?」
「臣民らしく、女性らしく、学生らしく。義務、貞淑、勤勉、そう言い換えたほうがわかりやすいかしら」
幻滅めいた気持ちを押し隠すことができずにいた真棹に、目敏く気づいた幸子は、共犯者めいた微笑みを浮かべながら、冷たい手のひらを重ねてきた。
「不思議ね。私らしく生きていいとは、誰も言ってくれないんだもの」
そんなやりとりがあって以来、真棹は日々の生活の中で釈然としないことがあったり、自分がなにをしたいのかわからなくなると、幸子に相談を持ち掛けるようになった。
今にして思えば子供じみた真棹の悩みを、幸子はいつも真剣に受け止め、じっくりと耳を傾け、けれども結論を急ぐことはなかった。
「焦らずに、時間をかけて考えてごらんなさいな。その過程はきっと、真棹さんがこれからを生きていく力になってくれるはずよ」
そんな風に声をかけてもらえるだけで、真棹はどれほど心強く感じたかわからなかった。
寄宿舎という閉じた空間だけに、二人きりで話ができる機会はそれほど多くはなかったが、その代わりに真棹と幸子は、朝な夕なに手紙をしたため、頻繁なやりとりを繰り返した。
そのほとんどは、毎日の生活の取るに足らない報告に過ぎなかったが、綴られた言葉の選び方や、ちょっとした出来事に対する感想が、互いの心の内を言い当てたように一致する経験を重ねるうちに、自分でもびっくりするほど二人の親密さは深くなっていった。
真棹が二年に進級すると同時に幸子は卒業してしまったために、二人で過ごした寄宿舎生活は、ほんの一年しかなかったが、真棹にとってそれは、とっておきの記憶を封じ込めた、宝箱のような時間になった。
なかでも一番の思い出は、一年生の秋に行われた、寄宿舎生徒主催による演劇祭だった。
流行りの少女歌劇を真似た三幕一時間ほどの力作で、既存のクラシック音楽に皆が知恵を出し合って詩をつけたものに、音楽の先生がピアノで伴奏をしてくれるという本格志向だった。
臆病で人見知りな深窓の令嬢が、ひょんなことから出会った実直な陸軍少尉に心惹かれる過程で、親に決められた富豪の息子との婚約に逆らって、自分らしく生きる道を探していくという他愛のない内容だったが、今考えてみればそれは、観客を含めた生徒全員の内なる憧憬を、物語の姿へと昇華させたものに他ならなかった。
最初に決まった配役は少尉役で、その凜々しい印象ゆえに、満場一致で幸子が選ばれた。主役のお嬢様に真棹があてられたのは、幸子のたっての要望だったとも、舞台の上で二人が心を通わす姿を誰もが見たがったからだとも言われていた。
夕食後から就寝までの短い自習時間を、まるまる一カ月間も稽古にあてた甲斐あって、たった一度きりの舞台は大盛況のうちに幕を閉じた。
なかでも全篇のクライマックス、親の手によって外界との連絡手段を絶たれたお嬢様が、少尉殿から教わったモールス信号を駆使して、部屋の電灯を明滅させることで駆け落ちの日取りを伝えるシーンは、真棹の切々たる歌唱とも相まって、万雷の拍手を浴びたものだ。
けれどもいま、こうして目を閉じた真棹の脳裏に蘇ってくるのは、華々しい喝采ではなく、練習のためにこもった自習室で、幸子と二人だけで過ごした時の記憶だった。
「少尉殿とお嬢様が羨ましいわ」
唐突な幸子の言葉に真棹が小首をかしげていると、こちらが戸惑うほどの距離にまで顔を近づけてきたお姉さまは、切実な表情で訴えた。
「いっそのこと、あたしたちも駆け落ちしちゃいましょうか。姫とか四家とか嫁取り祭とか全部忘れて、東京に出て二人で暮らせたら、どんなにか素敵でしょうね」
真棹は二の句が継げずにいた。
それこそは、自分自身が密かに願って止むことのなかった、理想の未来絵図に他ならなかったからだ。けれども幸子は、度を越した喜びがもたらした真棹の沈黙を、別の理由だと受け取ってしまったらしい。
「あらいやだ。真棹さんのお顔ったら、鳩が豆鉄砲を食らったみたいよ。もちろん冗談に決まっているわ。本気になどなさらないでね」
演劇祭が終わると秋田には長い冬が訪れ、ようやく春の声を聞く頃に卒業した幸子は、姫としての役目を果たすため、御荷守へ帰ることになった。スペイン風邪が猛威を振るい、四家の姫たちが次々と命を落としていったのは、その年の秋から冬にかけてのことだ。
幸子が死んだという知らせを受け取った真棹は、茫然自失してしまった。
実を言えば、卒業が決まるや唯々諾々と運命に従った幸子に対して、少なからぬ幻滅を感じていたのは事実だった。けれどもこれで彼女と二人で歩んでいく未来が完全に途絶してしまったという事実は、傷心とは別次元の絶望感をもたらしたのだ。
陽の光を浴びて輝く肩揃えの断髪。切れ長の凜々しい瞳。それ以上に魅力的なのは、己の美意識と価値観を貫く高潔な魂そのものだった。
目を閉じればいまでも、こんなにも鮮やかに面影が浮かぶのに、その人は既にこの世にいないのかと思うと、切なさはかえってひとしおに感じられた。
幸子お姉さまがお亡くなりになったと知った時、私の心も死んでしまったのだ。
長い間真棹は、そんな風に感じていた。
旦那様の言われるがままに姫となり、他に候補者がいないことから自動的に御台に選ばれることになっても、その運命にあえて歯向かおうとしなかったのは、本当の自分が死んだも同然だったからに違いない。
それなのに……。
いざ輿入れの儀となって、数々の不穏な出来事にさらされたいま、こんなにも平凡な毎日を恋しく感じるのは、いったいどうしてなのだろうか……。
真棹がまたしても思考の渦に引き込まれそうになった時、凄まじい悲鳴が聞こえてきた。
その悲鳴はむしろ、野獣の咆哮と言った方が相応しいほど、猛々しく容赦のないものだった。にもかかわらず、高い声質が明らかに女のものだと感じさせることに、真棹は心底から震撼していた。
長く尾を引いて木霊した悲鳴は、力尽きたように唐突に終わった。
真棹の心臓は早鐘のように打ち鳴らされていた。音の出所は畳の下のようだ。そう言えば、禁足地の山の地下には、ひとたび足を踏み入れたら最後、二度と出られないほどの広大な鍾乳洞が存在するとの噂を聞いたことがある。けれどもいまは、あの叫びが驚愕や恐怖の発露ではなく、もっと原初的で動物的な反応に思えたことのほうが、より深刻な問題だった。
拷問、という言葉が真棹の脳裏に浮かんだ。
いっそのこと、この場を逃げ出してしまおうか。そう考えて真棹は首を振る。無理だ。万に一つの幸運でこの座敷牢を抜け出せたところで、御台の出戻りなど、征松が許すとも思えなかったからだ。
「真棹どのーっ! 北白真棹殿はおられるかっ? 聞こえていたら返事をしてくださいっ!」
その時真棹は、壁の外側から大声で呼びかけられていることに気がついた。
「教官殿。本殿の扉は中から閉ざされております。案内を乞うても返事ひとつありません」
「いかんな。先ほどの悲鳴が真棹殿のものでなければ良いが」
二人の男の緊迫したやりとりが聞こえてくる。すっかり怯えきっていた真棹は、親身に自分を気遣っているその声に自然とすがりついた。
「ここです、真棹はここにおります!」
精一杯の声を振り絞ると、二人の足音がこちらに駆け寄ってくる気配があった。
「真棹殿、ご無事ですか?」
壁越しに男の声がかかった。
「今のところは無事ですが、座敷牢に囚われております」
「なんと痛ましい。しばらくの辛抱です。すぐに助けに参ります」
壁の向こうの気配が消えて、真棹は一気に心細くなったが、本殿と思しき方角から板戸を打ち壊す物音が響いてきたかと思うと、軍服の外套を着こんだ二つの影が牢格子の向こうに駆け付けてくれた。
「ああ良かった、間違いなく真棹殿だ」
少尉の肩章をつけた軍人が、こちらを知っている様子と見て、真棹は思わず小首をかしげた。
「あなた様は?」
「お忘れでしょうか? 歩兵第十七連隊の鷹藤恭平であります」
にこやかに名乗るその顔に、真棹はこの春行われた〈シベリア出兵凱旋報告会〉の折に、秋田高女を訪れた将校の一人であることを思い出した。
その間にも、鷹藤の命を受けた志賀は、持参した手斧で手早く牢格子を粉砕していった。
「志賀、真棹殿はまかせるぞ」
「了解であります。姫様、どうぞこちらに」
志賀はその場に腰を下ろして、真棹に背中を向けた。
「真棹殿、遠慮なく御乗りください。人里までこの兵卒に背負わせます」
鷹藤が告げた。
「姫様、お急ぎを。追手が来ます」
志賀の言葉通り、暗い廊下の先にある本殿から、ばたばたと人の集まる気配がした。躊躇している余裕はないと悟った真棹は、「失礼します」と断りを入れて、志賀の背中に身を預けた。
「行ってはならね。貴神様のお怒りをかうぞ!」
座敷牢を後にしようとした三人の目の前に立ちふさがる者がいた。御側役の老婆だった。
「御老女、止め立てなさるなっ!」
鋭い声で志賀が命じた。
「貴神様はお前ら風情が太刀打ちできる相手ではね。尻尾を巻いて逃げ出すならいまのうちだぞ」
「それ以上軍人を侮辱すると、老女とはいえ捨て置かぬぞ」
そう言って腰の軍刀に手をやった鷹藤は、目の見えぬ相手に脅しは効かないことに気づいて実力行使に出た。
「御免っ!」
鷹藤があて身を食らわすと、皺だらけの小さな身体は数尺ほど背後の廊下に吹き飛んで、苦し気にうずくまった。
「ばさま!」
思わず真棹は声をあげたが、活路を拓いた鷹藤は、志賀を引き連れて大股に廊下を進んでいた。
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