今こそ読んでおきたい「核問題の今」。『核クライシス――瓦解する国際秩序』試し読み
ウクライナ侵攻を機に核使用をちらつかせるロシア、保有核弾頭を倍増させる中国、ミサイル発射を繰り返す北朝鮮、核大国アメリカの弱体化と混迷……核はなぜなくならないのか? 唯一の被爆国・日本を取り巻く混沌とした核情勢に出口はあるのか?
核問題に精通し、外交の最前線を長年取材してきたジャーナリストによる『核クライシス――瓦解する国際秩序』(太田昌克、ハヤカワ新書)より本書「はじめに」を特別に試し読み公開します。
『核クライシス』はじめに
太田昌克(共同通信社 編集委員兼論説委員)
「今や我は死なり、世界を破壊する者なり」
1945年7月16日、アメリカ合衆国の西部ニューメキシコ州アラモゴードの平原に立ち昇った巨大なきのこ雲を仰ぎ見たJ・ロバート・オッペンハイマーの脳裏を、こんなヒンドゥー教の聖典の一節がかすめた。
それは人類が核と共存を始めた瞬間だった。その3週間後にあった広島、そして長崎への原爆投下からやがて80年になる。
この筆を執っている今、核の恫喝を振りかざすロシアの独裁者ウラジーミル・プーチンはウクライナの大地を侵略し続け、核使用のリスクは米国とソ連が一触即発となった1962年10月のキューバ危機、いや79年前の広島、長崎への核攻撃以来、最も高まっているのかもしれない。
「冷戦期に垂れ込めた核の暗雲が再び忍び寄っています。そして一部の国々は、再び無謀にも、破滅の道具である核兵器の使用の威嚇を行っています」
国連事務総長のアントニオ・グテレスは2023年8月6日の朝、78回目の「原爆の日」を迎えた被爆地広島に切迫感あふれるメッセージを送った。
核リスクの震源は欧州にとどまらない。核実験と弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮は2023年11月、軍事偵察衛星の打ち上げに初めて成功したと宣言した。在韓米軍や韓国軍、さらには朝鮮有事で後方支援を担う自衛隊の動向を上空監視する「目」は今後、確実に鋭さを増すだろう。軍事偵察衛星は戦いの準備を徹底的に整える上で極めて大きな意義を持つアセットであり、北朝鮮の国防五カ年計画に則って「目」の数は将来、間違いなく増える。
その北朝鮮と血盟関係を結ぶ中国は、戦争を続けるロシアの国営原子力企業から高濃縮ウラン燃料を輸入し、近く本格稼働するとみられる高速増殖炉でこれを燃焼する。そうすることで核兵器級のプルトニウムが増産可能だ。米国防総省は中国の核弾頭が2035年には現在の3倍に相当する最大1500発に達するとの見積もりを22年に示しており、世界の核専門家の間では「2035年問題」を巡る論議がかまびすしい。
北朝鮮の核軍拡に危機感を募らす韓国では2020年代に入り、独自核武装の議論が再燃、半数を超える市民が核保有を支持する世論調査データも出始めた。半世紀前から「核燃料サイクルを開発する日本に倣え」と言わんばかりに独自の核燃料サイクルを模索してきた韓国は、同盟国米国からの自律性を高めることで己の「核主権」の確立を急ぐ。
強大化する中露朝の核戦力、そして独自の動きを見せる隣の韓国。日本を取り巻く東アジアは核のリスクが集中する「ホットスポット化」の兆候を見せる。こんな地政学的状況が「核」を媒介とした未曾有の危険なダイナミズムを創出し、さまざまなプレーヤーの思惑と利害、加えて疑心暗鬼が交錯することで制御不能とも呼べる領域を作り出しつつある。
半世紀近い冷戦の間、「先に核攻撃を仕掛けた側が相手の大量報復で死滅する」という相互確証破壊(MAD)に根差した「恐怖の均衡」の下、ソ連との間で軍備管理・軍縮を模索してきた核超大国・米国の足元も実に覚束ない。内政の分断がその大きな理由の一つだが、大統領の座に就くことを再び目指す「あの男」、つまり「私の机の上にはもっと大きな核のボタンがある」と北朝鮮トップの金正恩にかつて言い放ったドナルド・トランプが政権トップに返り咲けば、さらにリスクは増大するだろう。バラク・オバマが2009年にチェコ・プラハで「核なき世界」を訴え、そんな米国の指導力に憧憬の念を国際社会が覚えたのは今や遠い昔である。
米国とロシアがいわば「二大株主」であり続けた現下の国際核秩序も目下、その土台すら侵食されかねない巨大な嵐に見舞われている。米ソが呉越同舟の末に1970年発効にこぎ着け、数多ある国際法の中でも最大規模の加盟国数を誇る核拡散防止条約(NPT)の締約国会合(再検討会議)は近年二回連続で決裂、ウクライナの戦争を後景に「二大株主」が核使用リスクの低減を目指した話すらできない状態が続いているためだ。
核保有を米露英仏中の「五大国」にのみ特権的に認めるNPTの下で核軍縮が一向に進まぬ中、不満を募らせた非核保有国は、核の開発や保有、使用、実験を全面的に非合法化した核兵器禁止条約(TPNW)を国連で採択、2021年に発効させた。これは、核の国際秩序にもう一つの「極」が形成されつつある現実を見せつける動きだ。
核保有国、「核の傘」の下にある同盟国、抑止力を含めた核を全面否定する非核保有国……核との間合いや核への思考様式が違う多様なプレーヤーが織りなす潮流が激しくぶつかり合う。また、力の象徴である核の温存を図るという意味では本来同じ立場にあるはずの核保有国の間でも米露、米中の確執は深まり、修復不可能にすら見える。
現在、80年近く続いてきた人類と核の歴史は重大な岐路に差しかかっている。ここまで概説してきた核を巡る国際情勢が反転しなければ、その先に待っているものは何か。それは恐らく、核軍拡に歯止めがかからず、核使用のハードルがぐっと下がり、相互不信が増殖することで核のカオス状態が深まる近未来図である。そしてその先にあるのは、いずれは人類史上三度目の核使用に行き着く「核クライシス」、ひいては第二次世界大戦後の国際秩序の瓦解ではないだろうか。
本書は筆者が2022年秋から23年末まで、共同通信社が加盟新聞社に配信してきた核問題連載企画「核カオスの深淵」の記事計33回分に加筆・改訂を施したものだ。その主たる狙いは、ヒューマニズムの対極にある核兵器が現在から未来に差しかける暗い影を見つめながら、人類がいかにして「核クライシス」に向かう現況を超克していけるのか、その道標の一助たることだ。
第1章では米露両国に中国がいずれ加わるであろう「三匹のサソリ」が暗示する核リスクの将来を見据える。第2章から第5章は「プーチンの戦争」の源流を追いながら、核を手放したウクライナが核大国ロシアによって侵略された戦略的な含意と代償を考える。第6章では2022年にあったNPT再検討会議が決裂した内幕をできるだけ克明に綴るよう努めた。ストーリー各回に取材後記であるコラムを掲載し、巻末には「核の用語集」を収録した。
文中の敬称は省略させていただいた。ご容赦を賜りたい。
この続きは本書でご確認ください(電子書籍も同時発売)。
著者略歴
太田 昌克(おおた・まさかつ)
1968年富山県生まれ。共同通信社編集委員兼論説委員。早稲田大学客員教授、長崎大学客員教授。早稲田大学政治経済学部を卒業後、1992年に共同通信社入社。広島支局、外信部、政治部などを経て、2003~2007年ワシントン特派員。2006年度ボーン・上田記念国際記者賞を受賞。2009年に第15回平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。日米欧の核政策研究で博士号を取得(政策研究大学院大学)。『核の大分岐』など、核問題についての著書多数。
本書目次より
第1章 うごめくサソリたち 二匹から三匹へ
――アメリカ・ロシア・中国。にらみ合う3国の相互不信の向かう先は。
第2章 ウクライナ侵攻の源流
――「核の剣」を振りかざすプーチンの論理と心理の原点に迫る。
第3章 侵略された「核を諦めた国」
――ソ連解体後、核をあえて手放したウクライナの思惑と誤算とは。
第4章 ドキュメント「ブダペスト覚書」
――ウクライナの安全を保障するはずだった覚書。見込み違いはどこに。
第5章 侵略の代償
――ロシアによる核恫喝に対し、西側諸国はなぜ無力なのか。
第6章 瓦解する核秩序
――核拡散防止条約(NPT)会議は決裂。「核の傘」に頼る日本はいずこへ。
*巻末に「核の用語集」を掲載
記事で紹介した書籍の概要
『核クライシス――瓦解する国際秩序』
著者:太田昌克
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2024年8月21日
本体価格:1,100円(税抜)