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「映画のセックス革命」の負の遺産『あなたの名はマリア・シュナイダー 「悲劇の女優」の素顔』解説

映画『ラストタンゴ・イン・パリ』(1972年)は性表現に革命を起こした作品と言われるが、その撮影裏では何が起きていたのだろうか。
映画研究者の鷲谷花さんが、『ラストタンゴ・イン・パリ』の性表現の革新性と撮影過程における犯罪性について論じた、『あなたの名はマリア・シュナイダー 「悲劇の女優」の素顔』の解説文を特別公開します。

解説「映画のセックス革命」の負の遺産

 鷲谷花

 第二次世界大戦後のアメリカ合衆国でもっとも信頼された映画評論家のひとりポーリン・ケイルは、ニューヨーク国際映画祭のクロージング作品として『ラストタンゴ・イン・パリ』が上映された1972年10月14日は、「映画史上に残る記念日となるだろう」と、『ニューヨーカー』(72年10月20日号)に掲載された名高い映画評に記している。ケイルにとって、この「記念日」の重要性は、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスが、イゴール・ストラヴィンスキーの新曲『春の祭典』を、ヴァツラフ・ニジンスキーの振付によりパリ・シャンゼリゼ劇場で初演し、斬新すぎる音楽、衣装、振付にショックを受けた観客が騒乱を引き起こしたとされる1913年5月29日に匹敵するものだった。『ラストタンゴ・イン・パリ』は、クラシック音楽史及びバレエ史における『春の祭典』同様に、画期的な手法によって強烈なエロティシズムを表現したモダンな芸術作品として絶賛された。

『ラストタンゴ・イン・パリ』の完成した1972年の時点では、公的な映画検閲制度のあるフランス、教区の映画館を統制するカトリック教会が実質的に映画検閲の権限を掌握していたイタリア、NGOによる映画検閲が行われてきた英国をはじめ、多くのヨーロッパ諸国の映画産業は、官もしくは民による検閲・規制を受け、とりわけ性表現に対する制約は大きかった。一方、ハリウッド映画産業では、性、犯罪、暴力等の表現の許容される範囲を厳密に定めたガイドライン「プロダクション・コード」に基づく業界内自主規制が、1930年代から長らく実施されてきたが、「プロダクション・コード」は1960年代には徐々に有名無実化して68年に廃止され、観客の年齢によって鑑賞制限を設けるレイティング制へと映画規制システムが切り替わった。「プロダクション・コード」からレイティングへの移行期に、ハリウッド映画はかつてなく大きな表現の自由を獲得したはずだった。にもかかわらず、「プロダクション・コード」末期からレイティング初期に公開されたハリウッド映画の大半は、いまだに直接的なセックス描写には及び腰だった。同時代のハリウッド映画のベッドシーンでは、「事前」と「事後」を強調し、性行為それ自体の描写は省略するか、あるいはベッドの中の男女の裸の上半身の一部のみを映しながら、印象的な音楽(たとえばマイク・ニコルズ監督『卒業』〔1967〕のサイモン&ガーファンクルの楽曲など)を流して観客の注意を散らし、いわばフィルターをかける形で行為を表現する手法が主流を占めてきた。

 したがって、『ラストタンゴ・イン・パリ』のセックス場面は、直後に興隆したハードコア・ポルノ映画のように「本番」を見せるのではなく、あくまでも疑似的な演技を見せるものだったにもかかわらず、1970年代初頭においては突出して革命的だった。貸しに出ているアパルトマンの空室をそれぞれに見に来た客同士として、たまたま顔を合わせたアメリカ人のポール(マーロン・ブランド)とフランス人のジャンヌ(マリア・シュナイダー)は、部屋を借りるかどうかについてのごく短いやりとりを交わした後に、一切の前置き抜きに、唐突にセックスを開始する。同時代の映画のベッドシーンの定番だった情緒的な音楽のかわりに、ポールがジャンヌの下着を引きちぎる音と、ふたりの荒い呼吸とあえぎ声だけが響く。ふたりは窓際で立った姿勢で絡みあい、窓を背にしたジャンヌに覆いかぶさる姿勢になったポールの腰の動きと、ポールの身体に絡みつくジャンヌの両腕と両脚の動きを、カメラはつぶさに捉え続ける。やがてふたりは床に倒れこみ、ジャンヌがポールから離れて画面手前側に転がってくると、一瞬、むき出しになった下半身が見える。「事前」と「事後」ではなく、性行為そのものの始まりから終わりまでを、生々しい音響と肉体の動きとして直接的に視聴する体験は、当時の映画観客の大半にとっては空前のものだった。

『ラストタンゴ・イン・パリ』のセックスは、恋愛及び結婚のプロセスからは完全に切り離され、映画の性描写を更新した先行作品のひとつであるイングマール・ベルイマン監督『処女の泉』(1960)の場合のように犯罪行為の一部でもない。セックスのみを唯一最大の内容および目的とするポールとジャンヌの関係は、従来の商業的物語映画における男女関係の通常のパターンとは一線を画していた。悪名高い「バターのシーン」で、ポールは「家族の秘密を教えてやる……。聖なる家族、善良な市民の教会、そこでは意志は抑圧によって打ち砕かれ、子どもは嘘をつくまで責められ、自由は圧殺される」とジャンヌに語りかけ、うつ伏せに押さえつけられて泣きじゃくるジャンヌに、家族と教会への呪いの言葉を共に唱えるよう強要する。家族の再生産に資するセックスのみを許容する既存の性制度に対する反逆行為として、「バターのシーン」のアナルセックスは実践された。

 しかし、本書の記述するように、『ラストタンゴ・イン・パリ』による「セックス革命」は、出演者に多大な負担を強いながら実践された。「バターのシーン」の段取りは、監督ベルトルッチとポール役のマーロン・ブランドの間だけで取り決められ、バターを使ったアナルセックスが演じられることは、ジャンヌ役のマリア・シュナイダーには事前に知らされずに撮影が強行された。このシーンのマリア・シュナイダーの怒りと恐怖の涙と叫び声は「本物」であり、それこそが監督の求めたものだった。ポーリン・ケイルは、当時過激な性と暴力の描写を売り物にしていた「エクスプロイテーション」映画の、「機械的で物理的な刺激のみのセックス」に対し、『ラストタンゴ・イン・パリ』の「強烈な感情」に満ち満ちたセックス描写の画期性を称賛したが、その「強烈な感情」は、少なくとも部分的には、一方的なだまし討ちによって搾取されたものだった。

『ラストタンゴ・イン・パリ』は、ニューヨークでの上映時には絶賛を受けた一方、フランスでは検閲により成人指定作品となり、イタリアではカトリック教会の激しい抗議を受け、ボローニャの高等裁判所は、監督、配給業者、主演ふたりを執行猶予付き懲役刑に処し、プリントの破棄を命じる判決を下した。公開直後の紛糾と多方面からの攻撃、加えて行く先々で「バター」を引き合いに出してからかわれるという「精神的暴力」が、シュナイダーの心身に計り知れないダメージをもたらしたことは、本書でも克明に語られている。

 本書の後半部分でも言及されるように、2016年の秋以降、芸術家の過去の創作現場における性加害についての告発が相次ぎ、その過程で、『ラストタンゴ・イン・パリ』の「バターのシーン」が、マリア・シュナイダーの合意抜きで撮影されたことの犯罪性が、今更ながら広く認識されるに至った。2017年に、ハリウッドの大物プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタインによる性加害の被害者たちが告発を開始したことを機に、インターネット上で性被害を告発し共有する#MeToo運動が世界的に高揚すると、過去に映画における性表現の制約を突破した革命的な成果とされてきた作品の数々が、製作現場において若く無防備な出演者に過度の負担を強い、その後のキャリアや人生に破壊的な影響を及ぼしていたことの暴露がさらに加速した。たとえば、ルキノ・ヴィスコンティ監督『ベニスに死す』(1971)は、男性の美に対する男性の憧憬と欲望を直接的に描き、従来の主流映画において支配的だった、「能動的に視る主体としての男性」と「受動的に視られる客体としての女性」の組み合わせを、唯一可能な性愛の関係として扱う異性愛主義を揺るがす重要なきっかけを作ったともいえる作品だが、主人公の初老の作曲家アッシェンバッハ(ダーク・ボガード)の執着する美少年タッジオを演じ、「世界一美しい少年」と称されたビョルン・アンドレセンは、2021年にサンダンス映画祭で上映されたドキュメンタリー映画『世界一美しい少年』The Most Beautiful Boy in the World(クリスティーナ・リンドストロム/クリスチャン・ペトリ共同監督)をはじめ、近年のいくつかのインタビューで、『ベニスに死す』に出演した15歳の当時、製作から宣伝に至るプロセスで、たえず性的客体として扱われた体験の苦痛を語っている。

 アメリカ合衆国におけるラディカル・フェミニズムの草創期の指導者のひとりシュラミス・ファイアストーンは、ニューヨークでの『ラストタンゴ・イン・パリ』プレミア上映の2年前の1970年10月に刊行された著書『性の弁証法』で、生殖器の形状によって搾取する側とされる側が階層化される「性の階級制」の問題を存置したまま、「セックスの解放」だけが進められたとしても、家父長制のもとでの女性と子どもに対する性的な抑圧と搾取は解決されず、かえって苛酷化すると警告した。1970年代の映画における「セックス革命」の最大の成果のひとつとされる作品に出演したことで、一方的に負わされたダメージと戦い続けなければならなかった女性の痛ましいサヴァイヴァルを綴る本書は、ファイアストーンの予見には鋭敏な洞察が含まれていたことを、半世紀近い歳月を経て示唆したともいえる。

 2021年3月

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