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村山由佳さん推薦! 英米ベストセラー第1位『三人の女たちの抗えない欲望』試し読み

 米《ニューヨーク・タイムズ》、英《サンデー・タイムズ》ベストセラー第1位! ブリティッシュ・ブック・アワード受賞! 話題沸騰の傑作ノンフィクション。

「女性のエクスタシーが肉体的快楽によってのみもたらされるものなら、どんなに楽だろう。あやうい性を手がかりに自らの尊厳を希求する、魂の旅路。」ーー村山由佳(小説家)

2人の子を持つ主婦で、夫との冷め切った関係に悩む「リナ」は、SNSを通じて再会した初恋の相手とダブル不倫に陥る。女子学生「マギー」は、高校時代に恋愛関係にあった教師を、未成年者性的虐待で告発する。裕福なレストラン・オーナーの「スローン」は、夫に従い、夫婦以外の第三者を招いた乱交生活を続けていたが、ある男性との出会いをきっかけに、その生活は一変する――。
 実在する3人のアメリカ人女性を8年越しで徹底取材し、これまで語られてこなかった女性たちの欲望や苦悩、社会との軋轢を描いた『三人の女たちの抗えない欲望』(リサ・タッデオ著、池田真紀子訳)。この記事では、3人の女性の1人である「スローン」にスポットを当てた節を公開します。



スローン

 スローン・フォードの髪はとても長くて美しく、栗色に輝いている。作り物のように暖かいトーンの濃い茶色だが、染めているわけではない。スローンは痩せていて、年齢は40代初めなのに、顔はまるで社交クラブに属している女子大学生のようで、どことなくコケティッシュな雰囲気がある。ママ友とランチに行くより、ジムにトレーニングに行く回数のほうが多い。何かと陰口を叩かれそうな女性と見える反面、そういうタイプには見えなかったりもする。少し狡猾なところはあるが率直な人物らしく、たとえばこんな発言をする――サービスにおける政治学に惹きつけられるの。スローンが言いたいのは、レストランでの食事とは、少なくとも数時間のあいだは基本的にどちらか一方がもう一方に奉仕するという合意のもと、いつでもその空間にいる人とそうではない人が交流するための小宇宙であるということだ。
 スローンは他人の視線に気づいていないように見える。光の具合によっては自信に満ちあふれて見えて近づきがたく、周囲は彼女を怒らせないよう気を遣う。しかし、ふだんのスローンはもの柔らかで、いまにも折れてしまいそうにも見え、友人たちは彼女を泣かせないよう気を遣う。その二つの組み合わせが独特の個性を醸し、誰もがスローンに惹きつけられる。
 スローンの夫はリチャードといい、スローンの美しさと並ぶと外見では見劣りする。娘が2人おり、どちらも母親に似て、馬のようにほっそりとしてエネルギーにあふれている。加えてもう1人、リチャードと前妻の子のライラもいる。結束の固い家族である一方、風通しはよく、互いに干渉しない程よい距離感が保たれている。
 一家の住まいはロードアイランド州ナラガンセット湾に面したニューポートにある。岩だらけの海岸沿いにはジョージ王朝様式の豪邸が並び、フォード家がある通りには、夏の別荘族がブルーフィッシュのパテとカーズのクラッカーやロブスターを買いに集まる魚市場がある。リチャードとスローンは、たくさんのボートがのんびりと波に揺られているマリーナから内陸へ数ブロック入った一角でレストランを経営している。リチャードがシェフで、スローンは接客を担当している。その役回りにスローンは理想的だった。足首まで届く丈のドレスを着ても、ドレスに着られている印象を与えない。
 この島で暮らす人々はみなそうだが、夏のあいだ、店は忙しい。夏は文字どおり書き入れ時だ。寒い季節には収入が途絶える。1月と2月、住民は入口を閉ざし、夏のあいだの稼ぎとともに屋内にこもり、作り置きしたケールのペーストで食いつなぐしかない。
 寒い時期は、子育てに注力する季節、子供の日課や学校につきあい、発表会やスポーツ大会を見に行く季節でもある。しかしスローンは、子供を話題にするタイプの女性ではない。少なくとも、子供の予定がすなわち自分の予定であるような一部の母親とは違う。
 スローンがその場にいないとき、人はスローンの噂話をする。小さな町では、ベビーリーフの売り場で世間話に興じる回数よりも、ジムでトレーニングに励む回数のほうが多いというだけで目立つものだ。ただ、スローンがとかく噂にされやすい理由はそれではない。
 よく取り沙汰される話、ゴシップの種は、スローンは夫が見ている前で別の男性とセックスをするらしいという噂だ。この町で、あるいは別の島で別の男性と寝てそれを録画し、あとで夫に見せるという噂。夫がその場にいなければテキストメッセージで一部始終を実況中継する。場合によっては別のカップルと3Pをする。
 この噂から逃れるのは簡単ではない。スローンは四季を通してこの土地で暮らしている。そのこと自体がまず珍しい。似たような構成の家族はだいたい夏季に2週間ほど滞在するだけだ。夏のあいだずっと島で過ごす家族もいるにはいる。母親だけが島に残り、父親は週末だけくるという家族もいる。しかし年間を通してここで暮らしていると、冬を越えるころには精神的に追いつめられかねない。ここには気晴らしに行くようなショッピング・モールや大型店は一つもない。島の外に出る日は、外界で片づけたい雑用を端からリストアップしてから行く。
 スローンのおとなへの道の出発点は、父親のボスの自宅で開かれたクリスマス・パーティだった。ボスはニューヨーク市でもっとも裕福な人物の一人だ。ニューヨーク市の北側、ウェストチェスター郡に建つ屋敷には、大きな円柱やペルシア絨毯、金の縁取りが施されたクリスタルの食器が並んでいた。女性たちはローヒールの靴を履いていた。
 庭の木々の枝は樹霜に覆われていた。通りはきらめいていた。父親がスローンを誘い、スローンはボビーという青年を誘って出かけた。スローンのデート相手は美形ぞろいで、ボビーも例外ではなかった。このときスローンは22歳、外食産業から少し距離を置いている時期だった。ショービジネスの世界に関心を抱いていた。スローンが外出しない夜はなく、社交カレンダーはさまざまなイベントで埋め尽くされていた。じめじめしたライブハウスでぬるいビールを飲むこともあれば、こういったお金持ちの屋敷できんと冷えたマティーニを楽しむこともあった。
 その夜、父親のボスの奥さん、セルマという取りすました銀髪の女性が言った。
 キースとスローンならお似合いなんじゃないかしら。
 セルマは、ボビーにも聞こえるところでそう言い出した。まるで天啓に打たれたかのような調子だった。キースというのはボス夫婦の息子のことだ。そしてスローンは、ボスの右腕の娘で、美人で、育ちがよく、ほっそりした体をしている。2人とも神々しいほど美しく、2頭の馬のように繁殖に向いた年齢に差しかかっている。しかも互いの家は2ブロックしか離れていない。どうしてこれまで誰も思いつかなかったのだろう!
 スローンはお金にさほど興味がなかったものの、キース青年はうなるほどお金を持っていた。アート界のさまざまなプログラムの大半に、スポンサーとして一家の名前が印刷されていた。
 数週間後、スローンはキースとデートした。父親のためならと喜んでそうした。スローンの性的なエネルギーが何らかの形で父親の仕事を後押しできると思うと、大きな力を手に入れたようだった。
 デートでどこに行きたいかとキースに訊かれて、スローンは答えた。ヴォン(かつてニューヨークにあったタイとフランスのフュージョン料理店)。次に行きたい店や場所はたくさんあって、いつでも即答できた。
 偶然だね、あの店の支配人は僕の親友なんだ、とキースは言った。
 当日はオリーブ色のタートルネックにベルベット素材のシガレットパンツ、足もとはブーツという装いで出かけた。二人は店で一番よい席に案内された。奥まった位置にある半個室だ。6人掛けのテーブルだったが、その夜は2人のために確保されていた。スローンは特別扱いに慣れている。その夜は小さなイヤリングを着けていた。話題のレストランで活気に満ちていた。急ぎ足で動き回るホール係は、半数くらいは幽霊なのではないかという身軽さでテーブルのあいだをすり抜けていく。料理はどれも独創的だった。野菜のピラミッドのてっぺんに、なめらかな甘い薄茶色のソースをからめた白と灰色の長方形の魚の切り身が載っていた。店内は酢のにおいと熱気で満ちていた。光熱費を惜しむ様子もなく暖房が効いていた。
 キースの親しい友人だという支配人がテーブルに来て、シェフがメニューには載っていない料理をお出しするそうですと告げた。キースとスローンは食事の前にマリファナたばこを吸っていた。スローンはどんなドラッグを使うときもかならず必要充分な量をやる。その量がすなわち過剰摂取であることがないわけではないが、その場合でも量を減らすことはない。たとえばアルコールがそうだ。少々酔っ払っているくらいがちょうどいい場面もある。
 5皿のコース料理が運ばれてきた。1皿ごとに料理はいっそう独創的になっていった。しかしスローンがどの料理より感心したのは、デザートの直前に出された最後の一品だった。濃厚な黒豆のソースで和えた一六ささげを添えた、ブラックシーバスの尾頭つき。スローンはキースに何度も言った。これ、すごくおいしい。キースは微笑み、スローンと、テーブルのあいだを行き交うウェイターやウェイトレスを交互にながめていた。この世界の目まぐるしさをおもしろがっているようだった。キースのような若者にとって、スローンとのデートは、いつものようにきれいな女の子を連れて、ちょっと豪華なディナーを楽しむだけのことにすぎない。いつの日か彼は、ビリヤード台を備えた地下室と葉巻と息子を持つことだろう。ブラックシーバスはカレイや焼き目をつけたマグロになるだろう。スローンはクリスティナやケイトリンという名の女の子に変わるだろう。しかしこのときのスローンは、いや、たいがいの場面でのスローンは、周囲で波立っている水とは違っていた。スローンはキースの手首にそっと手を置いて言う。このブラックシーバスは最高においしいわ! 本当においしい! スローンにとって料理は、つねに別の世界との橋渡しの役割を果たしてきた。その別の世界では、美人でなくてかまわないし、冷静沈着でいる必要もない。食べ物の汁が顎を滴り落ちてしまっても許される。
 スローンとキースがブラックシーバスを食べ終えるころ、シェフが挨拶に来た。魚の骨は皿の端にきれいによけてあった。2人は満腹を抱えて満足げに笑っていた。スローンは、どの料理もすばらしかったとシェフに伝えはしたが、褒め言葉を並べ立てたわけではなかった。マリファナでまだ頭がぼんやりしていたからだ。たとえば、魚料理が気持ちまで温めてくれたことは言わなかった。その気になれば視線一つで相手を魅了できるとわかってはいても、きらめく瞳をシェフに向けただけだった。
 シェフは白いコック帽をかぶっていたこともあって、さほど強い印象を残さなかった。しかし笑みを絶やさず、ひとなつっこい雰囲気だったし、スローンは彼の料理が気に入った。その晩のディナーは初めから終わりまで理想的で、キースと一緒にいると、自分の人生はこういう楽しみのためにあるのだと思えた。
 厨房に戻ったシェフはデザートを用意した。日本酒とベリー類を使ったソースを添えた、チョコレートムースと生姜風味のクッキー。キースとスローンはコーヒーと食後酒を頼んだ。スローンには、同年代の女性ならまず食べないもの、20代後半や30代前半になって婚約するまでは食べる機会のなさそうなものを自分が食べているという自覚があった。
 店を出る前にスローンはキースに向き直って言った。またレストランで働くことがあったら、ここみたいな店にするわ。
 キースはその晩の食事のあいだに、スローンにレストランで働いていた過去があることを初めて知った。〝過去がある〟という言い方は、いうまでもなく大げさに過ぎる。その言葉を使うのは、スローンのような若い女性がレストランなどで働くのはなぜかと疑念を抱かざるをえないという現実を裏づけるようなもの。スローンはニューヨーク市郊外の上流階級の家庭に生まれ育ち、未来の州知事や州司法長官が通うホレイス・マン・スクール(ニューヨークにある全米トップクラスの名門私立校)を出た。服やリップグロスを買うお金に困っていたわけでもないのに、15歳のとき、ウェイトレスとして働き始めた。紙一枚の応募書類に記入し、職務履歴には父親の事務所でしたファイリングの仕事や、近所の子供のベビーシッター経験などを書きこんだ。
 スローンがレストランに惹かれるのは、レストランの雰囲気が好きだからだ。それに給仕の仕事も好きだった。黒いパンツに白いオックスフォードシャツを着て、担当した客のその店での経験を取り仕切る仕事というのがいい。テーブルからテーブルへと動き回るほかの若いホール係は、退屈そうな顔、苛立った顔、緊張した顔をしていた。いやいや働いているからだろうとスローンは思った。自分が演じている役に身が入っていない。給仕の仕事は〝役〟だ。ウェイターやウェイトレスは進行役だ。担当するテーブルの客の臣下であり、厨房からフロアに派遣される代理人でもある。もちろんお金も魅力だった。うしろにダッシュ記号をつけて書きこまれたチップの額。スローンの仕事ぶりを数値で評価する美しい整数。現金で支払われる場合もある。男性ばかりのグループが帰っていったあと、折りたたまれた20ドル札数枚がロックグラスの下に思わせぶりに置かれていたりもした。
 スローンは初め、適切な進路を歩もうとした。ハンプシャー・カレッジに願書を提出し、合格し、学生寮に入り、ニューイングランド地方のキャンパスの氷の張った池や石垣の際を乗馬ブーツで歩き回った。デートもしたし、女子学生クラブの会員にもなった。
 やがてハンプシャー・カレッジを中途退学し、のちに復学した。そしてふたたび退学した。かならずしも確たる考えがあってのことではなかった。スローンは若く、将来を決めていなかった。ゲイブという名の兄が1人いたが、兄もやはりそんな感じだったから、2人のうちどちらかが正しい道を歩んでいるあいだ、もう1人は安心して足を踏み外せた。両親は一方については胸をなで下ろし、もう一方の心配をしていればよかった。
 スローンは、レストランで働きながらいくつかの授業に出ていたが、集中できたためしがなかった。教室のほかの学生の様子を観察した。きちんと聞いている学生ばかりなのが不思議だった。その精神状態は、自分には手に入りそうになかった。忙しく働いているときのほうが気分が落ち着いた。それもあって、いつもかならずにぎやかなレストランに、グラスがぶつかり合う音のするフロアに戻った。
 それでも、この晩は特別に思えた。磁力で引き寄せられているかのようだった。ウェイトレスの仕事を辞めて数年がたっていた。復学し、ダウンタウンの劇場に関心が向いていた。もしかしたら自分は演劇や展覧会のプロデュース業に向いているかもしれないと思った。人と話すのは得意だ。暇を持て余した裕福な人々を説得して新しい何かに関心を持ってもらうにはどうしたらいいかも知っている。たとえば父親の知り合いだ。相手の目をまっすぐに見て、誰それの展覧会の、あるいは誰それのゴルフ・ウェア・ブランドのスポンサーにならないなんてどうかしていると売りこむ。自分の髪と笑顔、そして自分の立場を利用した。スローンは決して無視できる存在ではなかった。
 その夜、スローンは父親のボスの息子のキースと一緒にいた。父親は心の底から喜ぶだろう。母親もだ。イニシャルの縫い取りが入ったシーツ。レンジローバーのトランクにはピクニック・バスケット。ピーターパン・カラーのおそろいの服を着た双子。生成り(エクリュ)というハイソな響きのある言葉。セントジョン島。アスペンの高級スキー・リゾートで過ごすクリスマス。テルライドの高級スキー・リゾート。
 またレストランで働くことがあったら、ここみたいな店にするわ。
 もしかしたらスローンの声はこのとき、店の支配人の耳にも届いていたのかもしれない。



 

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