【8/21発売】木戸孝允も食した!? 明治二年「鳥やきそば」とはいかなる料理だったのか。塩崎省吾『あんかけ焼きそばの謎』まえがき~プロローグ
カリッと焼いた中華麺や揚げ麺に、具材豊かなアツアツの餡を絡めて食す「あんかけ焼きそば」。その発祥と伝播はソース焼きそば以上に謎に満ちている。探究の旅は戦前の東京から始まり、横浜・長崎を経てアメリカへ――。
大好評を博した『ソース焼きそばの謎』に続き、世界屈指の焼きそば研究家が最高熱度で放つ濃厚歴史ミステリ第二弾、塩崎省吾『あんかけ焼きそばの謎』(8月21日発売)。この記事では本書のまえがき・プロローグを公開します!
まえがき
私は焼きそばの食べ歩きを趣味にしている。
「焼きそば」と聞いて読者の多くはきっと、むせ返るような香りで食欲を刺激する、あのソース焼きそばを思い浮かべると思う。私の前著『ソース焼きそばの謎』が好評を博したのも、ソース焼きそばが日本国民にとってそれだけ身近な料理だったからだろう。
だが、焼きそばの世界は広い。あなたの近所の中華料理店に入れば、きっとソースで炒めるかわりにアツアツの餡をかけた「あんかけ焼きそば」がメニューにあるはずだ。
焼きそばというとストリートフードのイメージが強いが、例外的にごちそう寄りなのがあんかけ焼きそばだ。カリッと焼かれた中華麺に、風味豊かな中華餡を絡めて啜る。麺の部位による食感のコントラストや、色とりどりな具材の味わいが、最後の一口まで楽しませてくれる。
実はこのあんかけ焼きそばが、ソース焼きそば以上に謎に満ちた存在なのだ。
その「伏線」は、すでに前著の中にあった。
お好み焼きは元々、和洋中様々な料理のパロディであり、ソース焼きそばもまたお好み焼きの一種として──具体的には、支那料理(中華料理)の「炒麺」のパロディ料理として誕生した。それでは、その「炒麺」とはどのような姿だったのか。
ここで浮かび上がってくるのが「あんかけ焼きそば」である。ソース焼きそば以前、焼きそばといえばあんかけ焼きそばだった。それだけなら意外性は薄いかもしれない。だがそのあんかけ焼きそばが、あんかけ○○焼きそばだったとしたら。しかも、その○○の発祥は中国ではないとしたら。一体なぜ、どこから、どのように日本に伝来したのか。
いや、先走りすぎた。ともかく、あんかけ焼きそばは焼きそばの歴史におけるいわばミッシングリンクであり、それを埋めることが本書の目論見である。前著を読んでくださった方には自信を持っておすすめできるし、本書を先に読む方も問題なく楽しんでいただけるように心がけた。なお、本書に掲載している写真は、とくに断りのない限りは筆者自身が撮影したものだ。
あんかけ焼きそばの謎は、まるで揚げ焼きにされた麺のように複雑に絡み合っている。中華餡のようなアツアツの熱意を注いで、じっくりと粘り強く、その謎を解きほぐしてみよう。
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プロローグ 明治二年の「鳥やきそば」
明治二年(一八六九年)、春。開港からもうすぐ一〇年を迎える横浜港で、美濃国大垣藩の藩老・小原鉄心は、李遂川という清国人と酒を酌み交わしていた【注1】。
大垣藩の方針を佐幕から勤王へと転換させ、戊辰戦争で功をあげ、明治新政府にも重用された小原鉄心。彼は漢詩を得意とする詩人でもあった。三年前の慶応二年四月に、同郷の友人を通じて横浜在住の清国人たちと面識を得た際も、漢詩や筆談を通じて交流を深めた【注2】。
彼は李遂川との再会を祝し、一詩を詠んだ。
大政奉還に戊辰戦争、そして二度にわたる天皇の東京行幸【注4】。この三年間で日本は大きく揺れ動いていた。また小原鉄心の立場も二転三転した。それを振り返って覚えたであろう感慨深さが、彼の詩から読み取れる。
数カ月後の同年八月。明治維新の立て役者の一人、木戸孝允も横浜で清国人・李遂川と面会した。おそらく懇意にしている小原鉄心から紹介されたのだろう。
版籍奉還の勅許を得る大仕事を同年六月に成し遂げて、ようやく一段落ついた木戸孝允は、長年患っていた痔を療養するため、箱根へ湯治に赴くことにした。八月一日に東京を出立して品川に宿泊。翌日に横浜へ着き、伊勢文という料理店へ泊まった【注5】。その翌日(日記の日付に混乱があるが)、李遂川と会った日の出来事を、木戸は次のように日記に書き残している。
淡々と事実関係のみを記述しており、小原鉄心の漢詩に比べるとそっけない印象も受ける。日記なのでこれで必要十分なのだろう。ここで着目したいのは「清国人の料理店」という記述だ。原文では《清人の料理楼》と書かれている。
明治二年の横浜で同じ清国人・李遂川と会ったことを考えると、木戸のいう《清人の料理楼》は小原鉄心が詩に詠んだ《会芳亭》と思われる。《会芳亭》と呼ばれる《清人の料理楼》。すなわち、横浜最初の中華料理店とされる「会芳楼」と考えて間違いないだろう。会芳楼については本書の終盤で詳述するが、奇跡的なことに当時のメニューが現存している。そのメニューには、「ぶたそば」や「ぶたまんぢう」に混じって、「鳥やきそば」という料理が載っていた。私が知る限り、中華料理の「炒麺」に対して「ヤキソバ」という和訳が用いられた最古の例だ。木戸孝允や小原鉄心が味わったかはわからないが、江戸時代から明治時代へと変わった前後には、すでに「炒麺」が日本へ伝来し、「ヤキソバ」と呼ばれていたことになる。
ここでひとつ、本書での約束事を決めさせていただく。「焼きそば」と表記した場合、中華料理の「炒麺」の和訳なのか、あるいはソース焼きそばを含む総称としての「焼きそば」なのかがわかりにくい。そこで本書では便宜的に、中華料理の「炒麺」の和訳としての「焼きそば」は「ヤキソバ」とカタカナで表記させていただく。違和感があると思うが、両者を区別する必要があるのでご了承願いたい。ただし特定の店の商品名はその限りではない。できる限りメニュー表記を優先する。
明治二年【注7】に横浜の会芳楼で提供されていた「鳥やきそば」は、一体どのような料理だったのだろう? それを知るには、数多くの資料をひもときながら、地道に時を遡るしかない。まずはソース焼きそばの誕生にも関わる時代、明治末期から昭和初期にかけての東京近郊で、支那料理屋が提供していた「ヤキソバ」の実態から探ってみよう。
注
▶この続きはぜひ本書でご確認ください
本書の目次
著者略歴
塩崎省吾(しおざき・しょうご)
焼きそば研究家。1970年生まれ。静岡県出身。ブログ「焼きそば名店探訪録」管理人。国内外1000軒以上の焼きそばを食べ歩く。テレビ、ラジオなどメディア出演多数。本業はITエンジニア。前著『ソース焼きそばの謎』(ハヤカワ新書)は数多くのメディアで紹介され話題を呼んだ。
書籍の概要
『あんかけ焼きそばの謎』
著者:塩崎省吾
出版社:早川書房(ハヤカワ新書)
発売日:2024年8月21日
税込価格:1,320円
【刊行記念イベント開催のおしらせ】
塩崎省吾×シュウマイ潤「“明治中華”をひもとく! 焼きそばはどこから来たのか」
著者・塩崎省吾さんと、塩崎さんとも交流の深いシュウマイ研究家・シュウマイ潤さんにご登壇いただき、あんかけ焼きそばとシュウマイ、それぞれの発展の歴史をひもときながら、オススメの食べ方やお店まで、縦横無尽にお話しいただく予定です。帰りにはあんかけ焼きそばとシュウマイを食べたくなること間違いなし。濃厚な食文化トーク、ご期待ください。
【日時】
2024年9月1日(日)19時~
【主催・会場】
本屋B&B(世田谷区代田2-36-15 BONUS TRACK 2F)
※本イベントはご来店またはリアルタイム配信と見逃し視聴(1ヶ月)でご参加いただけるイベントです。
▼ご予約は下記リンクから