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「数学テーマは苦手……」と迷っている方にもおすすめ。ノヴァ・ジェイコブス『博士を殺した数式』訳者あとがき公開

「数学テーマは苦手……」と迷っている方にもおすすめ! 本書のあらすじと読みどころを紹介している、訳者の高里ひろさんによるあとがきを公開します。

博士・カバー

     博士を殺した数式ノヴァ・ジェイコブス/高里ひろ〈訳〉好評発売中!

    訳者あとがき

 高里ひろ


 数学者であるということは、数学に内在する美はいうまでもなく、虹の形や色彩、犬の歩調の正確なリズムといった日常世界の数学的な美しさに出会うことだと、数学者のイアン・スチュアートは語っています(『若き数学者への手紙』[ちくま文芸文庫]原題Letters to a Young Mathematician)。自分のまわりの世界を数学というあらたな目で知ることができる、そんな人たちにたいして数学者ではない人間は憧憬、そして羨望を禁じえません。そしてもし自分以外の家族がそんな数学者ばかりだったら、気おくれを感じてしまうことでしょう。
 世界的に著名な数学者であった祖父アイザックの葬儀に参列した、本書の主人公ヘイゼル・セヴリーもずっとそう感じてきましたが、それは数学が苦手だったからということだけではなく、彼女と兄グレゴリーが、優れた頭脳をもつエキセントリックな人間ぞろいのセヴリー一族の養子だったからでした。
 ヘイゼルは、祖父アイザックが亡くなる直前に彼女に書いた手紙を受けとり、その内容に驚愕します。「ほかの人間に見つかる前に」自分の研究を廃棄し、方程式をある人に届けてほしいという謎めいた指示が書かれていたからです。ヘイゼルは自分を信じてくれた祖父の願いにこたえようと、シアトルに戻るのを延ばして謎解きと宝探しに乗りだします。「警察官には通報してはならない」とされているので、ロサンゼルス市警警察官のグレゴリーに相談することもできません。
 いっぽうアイザックの長子で素粒子物理学者のフィリップには、亡き父の最後の研究を欲しがるあやしげな組織が接触してきます。
 アイザック・セヴリーの最後の方程式とはなんなのか? いったいどこに隠されているのか? 物語は謎に牽引されて進み、ヘイゼルはアイザックが周到に準備した不思議な謎解きの冒険へ、ほかのセヴリー家の人々は、まるで見えざる手に導かれているかのようにそれぞれの運命へと引き寄せられていきます。
 
 本書『博士を殺した数式』はタイトルからもわかるように、数学を背景とするミステリです。登場人物たちが著名な数学者や物理学者だったり、アカデミックな世界の事情が描かれていたり、手掛かりに数学が使われていたりして、数学周辺のカルチャーが好きな人にはきっと楽しんでいただけるでしょう。もっとも、本書を楽しむのに数学の知識は必須ではありません。著者ジェイコブスがあるインタビューで語ったとおり、タイトルになった数式は”マクガフィン″──物語を動かす一要素ではあるが、それである必要はないもの──でした。なんといっても、謎ときの主役は数学が苦手な、でも論理的思考力の持ち主であるヘイゼルです。読者は彼女が迷い、間違い、つまずきながらすすんでいくのをはらはらと見守りながら併走することになります。
 フィリップとグレゴリーのストーリーもそれぞれ展開しますが、ふたりはヘイゼルと違って心に重苦しい闇をかかえています。
 本書の冒頭にフランスの数学者・天文学者ピエール=シモン・ラプラスの言葉が記されています。ここで説明されている存在はラプラスの悪魔と呼ばれ、「超越的存在。ある瞬間におけるすべての原子の位置と運動量を知り得る存在がいると仮定すると、物理法則にしたがって、その後の状態をすべて計算し、未来を完全に予測することができると主張。ニュートン力学に基づく古典論的な世界観における、全知の存在と見なされる。20世紀以降に進展した量子論的な世界観では、不確定性原理により原子の位置と運動量は確率的にしか知ることができず、ラプラスの悪魔は存在しないと考えられている(デジタル大辞泉)」のだそうです。本文をお読みになった読者のみなさんにはもうおわかりだと思いますが、このラプラスの悪魔が、本書のテーマのひとつを暗示しています。
 アイザック・セヴリーは数学者で専門はカオス理論および非線形力学、長子のフィリップは素粒子物理学者で専門は超弦理論、どちらもカリフォルニア工科大学(カルテック)の教授(アイザックは名誉教授)です。数学と物理は同じテーマを違う角度から扱っている面があるそうで、カオス理論のような力学系を数学的に研究している数学者もいるし、素粒子や超弦理論では数学的技術を使います。しかしふたりの立ち位置は大事な点で異なっていました。本文の一部を引用します。

父とフィリップとはまったく違う科学者だということがあった。ふたりとも同じ数学的言語を使いこなし、相手が何をしているか理解できたが、素粒子物理学──とくに超弦理論──の本質はアイザックの非常に確固とした計量可能な世界とはまったく違った。カオス理論の不透明な深みで、父は規則性、均一性、パターンを見つけた。もしアイザック・セヴリーがモットーをもっていたとすれば、それは「宇宙は知り得る」だろう。フィリップの、そして量子を扱っている研究者全員のモットーは、「宇宙は知り得る、ある程度までは」だ。フィリップの考えでは、すべてが宇宙が誕生した瞬間にあらかじめ決められたわけではない。実際、父の世界と決定論への恐怖が、彼が素粒子物理学者を志した理由のひとつだった。

 ちなみにカリフォルニア工科大学は、日本での知名度はそれほど高くありませんが、英国の教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」による世界大学ランキングで毎年のようにトップ争いをしている名門大学です。

 本書『博士を殺した数式』原題The Last Equation of Isaac Severyは、2018年3月に出版され、2018年〈ウォールストリート・ジャーナル〉ベスト・ミステリーズに選ばれています。2019年には、エドガー賞の最優秀新人賞にノミネートされました。

 著者ノヴァ・ジェイコブスは、ジョージ・ルーカスやジョン・カーペンターら著名な監督を輩出した南カリフォルニア大学映画芸術学部出身で、映画芸術科学アカデミーが才能ある若手脚本家に授与するニコル映画脚本フェローシップを受けました。子供のころから、物語に手掛かりが隠されていて、読者がそれを見つけて謎を解くミステリ本が好きだったと語っています。ロサンゼルスに移ったのは大学で映画を学ぶためでしたが、カルテックの創造的な世界と厳しさに惹かれ、数学を背景にした殺人ミステリのアイディアをだいぶ前から温めていたそうです。

 2020年3月


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