錬金術師の密室

【100ページまで公開!】反響続々のファンタジー×ミステリ長篇、紺野天龍『錬金術師の密室』本文試し読み

2月20日刊行のファンタジー×ミステリ長篇、紺野天龍『錬金術師の密室』を、なんと本文100ページまで無料公開!(全8章のうち3章の途中まで)
新鋭の意欲作、ご期待ください。
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・図版は省略いたしました(書籍版には入っています)

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(以下本文)

第1章 水銀と水の交わり

       1

 高速蒸気列車からプラットフォームに降りたエミリア・シュヴァルツデルフィーネは、降り注ぐ陽光に思わず顔をしかめた。とっさに左手を掲げて庇(ひさし)を作り、急をしのぐ。
 指の隙間から覗く高い蒼天は、数時間まえまで見ていた鈍色(にびいろ)のものとは打って変わって軽やかで清々(すがすが)しい。
 暦の上では春もまだ半ばというところだったが、約一カ月ぶりの王都エテメンアンキは、早くも夏の様相を呈している。北部はまだ肌寒い日が続いていたので、いつものように厚手の軍服を着てきてしまったことを、彼は早々に後悔し始めていた。
 呆然と立ち尽くす彼を尻目に、列車は甲高い汽笛を鳴らして動き出す。まるで彼を田舎者(いなかもの)と笑うかのようなそれに、げんなりして独りごちる。
「……まあ、実際問題、今の僕は本当にただの田舎者なんだけどね」
 自虐するように笑ってみるが、まったく面白いことはなかった。群青色の絵の具をぶちまけたように悪趣味なほど青い空へ、真っ白い蒸気をもくもくと噴き上げながら走り去る列車を見送ってから、彼は歩き出す。
 駅舎を抜けると、目的の第三合同庁舎はすぐ目の前に立っていた。軽く見上げる程度に背の高い煉瓦(れんが)造りの厳(いか)めしい建物だった。ところどころ煉瓦が欠け落ちたり、壁面に蔦(つた)が這(は)い上っていたりしてあまり小綺麗には見えないが、役所なんてどこもそんなものだろう。
 それよりもエミリアの意識は、もっと他のところに向いている。
 ここに──目的の人物がいるのだと。
 そう考えると緊張して手足が戦慄(わなな)く。エミリアは慎重に歩を進めながらも、緊張を和(やわ)らげるために一週間まえに起こったことの顛末(てんまつ)を思い出す。

 エミリアが配属されたザグロス山脈の奥地にあるアワン前哨基地へ、アスタルト王立軍情報局局長のヘンリィ・ヴァーヴィル中将は冬の嵐のように突然やって来た。
「査察に来た。指揮官と二人だけで話をさせてほしい」
 情報局のトップ直々による抜き打ちの査察という異常事態に、前哨基地の軍人たちは震え上がった。
 そもそもアワン前哨基地は、実質的に何の価値もない、軍内では密かに流刑地とさえ呼ばれているほどの場所だ。ますます軍のお偉いさんが足を運ぶ理由がない。
 指揮官──つまり、アワン前哨基地責任者であるエミリアを呼びに来た補佐官のコリン軍曹はどこか楽しげに、「いったい何をしでかしたんですか、少尉。ひょっとしてバアル帝国のスパイだったとか?」と笑っていた。周りに雪しかない山奥なので、きっとどんな些細(ささい)な出来事でも娯楽になってしまうのだろう。
 当然エミリアも、何故ヘンリィが突然やって来たのか見当もつかなかったが、呼び出された以上従うしかない。開墾(かいこん)作業を放り出して急いで呼び出しに応じる。
 応接室で待っていたヘンリィは、エミリアを見るなり顔をほころばせた。
「久しぶりだな、エミリア。突然押し掛けてすまなかった」
「ご無沙汰しております、中将」
 敬礼をして、エミリアはヘンリィの向かいのソファに腰を下ろす。ヘンリィ・ヴァーヴィルは、ロマンスグレーの髪を撫でつけ、ひげをたくわえた上品な紳士である。軍学校時代からヘンリィには色々と目を掛けてもらっていたが、こうして改めて向き合うとどうしても緊張してしまう。軍人となり階級差を意識してしまったからかもしれない。
 部下が運んできた熱い紅茶を啜(すす)りながら、ヘンリィはどこか懐かしむように言う。
「それにしても……半年ぶりくらいか。卒業式にも任官式にも出られなくてすまなかった」
「そんな、滅相もないことです」手にしていたカップを慌ててソーサごとテーブルに戻してエミリアは答える。「中将がご多忙であることはよく存じ上げております。自分も早く中将のように女王陛下のお役に立ちたく思い、日々研鑽(けんさん)を積んでいるところです」
「それは結構。しかし、無理をしているようにも見える。少し、痩(や)せたのではないか?」
 上手く答えられずエミリアは曖昧(あいまい)に微笑みだけ返す。ヘンリィは申し訳なさそうに口角を下げた。
「きみの現在の任務に関しては、私も少なからず責任を感じている。私にもう少し力があれば、跳ねっ返りどもを抑えつけられただろうに」
「そんな! 中将の責任ではありません!」慌ててエミリアは否定する。「自分がもう少し上手く立ち回れていれば……」
 そこまで言って失言だったと悟り、口を噤(つぐ)む。
 現在エミリアに与えられている任務は、アワン前哨基地の防衛だ。戦時下ではないが、バアル帝国との国境も近く、書類の上では重要拠点の一つとされている。しかし、如何(いかん)せん雪深い山奥にあるため、わざわざ攻め込んできたところで不要な遭難者を出すばかりで戦略上の価値はないとみなされていた。また補給路にも乏しく、自給自足を余儀なくされるため、この前哨基地での仕事と言えばもっぱら開墾作業だった。
 もともと頭脳労働を得意として、情報将校となるために軍学校を卒業したエミリアの落胆は大きい。閑職を充てられ、飼い殺されているようなものなのだから。
「すまない。きみを責め立てるつもりではないのだ。ただ、きみの現状に私も胸を痛めていてね。きみの名誉を回復すべく、ある特殊任務の話を持ってきた」
「……特殊任務、ですか」話の方向がよくわからず、エミリアは困惑する。
「そうだ」大仰に頷き、熱い紅茶を一口啜ってからヘンリィは言った。
「──確かきみは、《錬金術》に造詣が深かったね?」

 ──錬金術。
 世界に遍(あまね)く物理法則を無視した、人類最後の神秘。
 二千年まえ、《神の子》ヘルメス・トリスメギストスにより授けられた神の叡智(えいち)。巨大なエメラルドの板に刻まれたそれは──紛れもなく世界を一変させた。
 卑金属を貴金属に変え、魂を自在に操り、不老不死を実現し、果ては宇宙さえも創造しうる、文字どおり神の叡智。
 しかし、それゆえに常人には理解することさえ困難な秘術でもあり、現状それを多少なりとも理解できているのは、世界に七名しか存在しない錬金術師のみとされている。
 ヘンリィの問いに、エミリアは慎重に言葉を選んで答える。
「─厳密に申し上げますと、自分が知っているのは《錬金術》ではなく《変成術》です」
「失礼、そうだった。正直に言って、私はあまりそちらの方面に明るくないものでね」
 興味もなさそうにヘンリィはそう言うが、直感でそれが嘘だとエミリアは見抜く。いくら彼が軍内でも有数の神秘否定派の人間であるとはいえ、情報局の局長という立場である以上、一般人よりも多くの知識を持っていることは容易に想像できる。だからこれは、対外的な神秘否定のアピールなのだろう。
 変成術は、錬金術の下位互換である。どちらも大気に満ちた《エーテル》と呼ばれるエネルギィを利用して、物質の状態に干渉する点では同じだが、それがもたらす結果には決して超えることのできない壁がある。
 一般的には、卑金属を貴金属に変えることができるのが錬金術で、できないのが変成術、というように表現される。簡単に言うと、錬金術とは物質の組成を元素レベルで変更する技術だ。鉛を金に、あるいは金を鉛に。人類が長い年月を経て育(はぐく)んできた科学では到達し得ない次元の奇跡を再現する──それが錬金術である。
 対して変成術にできるのは、《エーテル》を利用して物質の形状や状態、温度などを変更すること、あるいは物質を破壊することまで。変成術でできることは、すべて錬金術でも再現可能である。
 無論、それだけでも十分に有用な技術なので、変成術師はどこも引く手数多(あまた)なのだが。
「知っているとは言っても、あくまでも知識だけで、自分は変成術を実際に行使できません」
 エミリアは慎重に答える。変成術にせよ錬金術にせよ、《エーテル》に干渉する能力は、生まれつきの才能に左右されるものであり、才能のないものがどれだけ努力をしたところで後天的に《エーテル》干渉能を獲得することはない、と言われている。
「重要なのは知識だ」ヘンリィはエミリアを見定めるように尋ねる。「変成術に詳しいということは、錬金術にもある程度の素養があるのではないか?」
「まあ……一般の方よりは多少。そのことが中将のお話と何か関係があるのですか?」
「大いにある。きみにはその錬金術の知識を生かして、十日後メルクリウス・カンパニィで行われる錬金術の式典に参加してもらいたい」
 意外な言葉に、エミリアは首を傾(かし)げる。
 メルクリウス・カンパニィといえば、世界中に支社を持ち、総従業員数は二千を超える世界有数のエネルギィ関連企業だ。主に独自の高密度エネルギィ結晶《エーテライト》を生産、販売することで莫大な利益を上げている。
 この《エーテライト》は、従来の化石燃料と比較してエネルギィ効率が桁(けた)違いに優れていたため、蒸気機関の性能を飛躍的に向上させた。《エーテライト》の普及により、汽車や船舶、航空機などの移動手段だけに留まらず、工業機械にまで蒸気機関を導入させるという世界的な産業革命を巻き起こした。
 確か、人類の至宝である錬金術師を一人、顧問として招き入れて研究に従事させていたはずだ。そのせいで、人類の至宝を私物化しているとの批判が絶えないとも聞き及ぶ。
「錬金術の式典なんて突然どうしたのでしょう? 宗旨替えでもして、《エーテライト》生成技術の一般公開でもする気になったのでしょうか?」
「少なくとも宗旨替えではないな」ヘンリィは苦笑する。「今回もまた金儲けのためのプロモーションだろう。何でも──《魂の解明》に成功したとか」
 エミリアは目を丸くする。
《魂の解明》──それは、神に通じる《七つの神秘》の一角だ。
《神の子》により与えられたエメラルド板には、神の領域に至るための七つの段階が示されていた。人類が神域へ至るためには、段階的にこれらの扉を一つずつ開いていかなければならない。
 まず卑金属を貴金属に変換する奇跡《第六神秘・元素変換》。現在、世界で七名の錬金術師のみがこの神秘を再現可能とされている。錬金術師の最終目標は《七つの神秘》の段階を上り詰めて《神》に至ることだが、変成術師の最終目標はこの《第六神秘》を実現して、錬金術師となることである。
 続けて《第五神秘・エーテル物質化》。これは先の《エーテライト》生成技術のことで、今のところ件(くだん)のメルクリウス・カンパニィの顧問錬金術師のみが再現可能な奇跡だ。
 そして続く《第四神秘》が《魂の解明》──。
 つまり、もしもそれが事実なのであれば、《七つの神秘》のうち二つをメルクリウス・カンパニィが独占することになる。
「にわかには信じがたいですね。この百年、世の錬金術師たちが生涯を賭(と)して研究を続けてそれでも為し得なかった奇跡を、たった一人の錬金術師が二つも再現してしまうなんて」
「国の上層部も同意見だ。無論、メルクリウス側もその反応を予想していたみたいだな。わざわざ向こうから、式典……公開式に《アルカヘスト》の派遣を要請してきた」
「アルカヘスト……」エミリアはその単語を繰り返す。「確かこの春、新たに情報局に設置された特務機関、ですね? 勉強不足でして名前くらいしか知らないのですが……」
「そう、女王陛下とアスタルト王国全体を他国の錬金術関連技術から守護するための超法規特務機関、軍務省情報局戦略作戦部国家安全錬金術対策室─通称《アルカヘスト》だ」
 どこか忌々(いまいま)しげに名前を告げるヘンリィの様子に違和感を抱きながらも、エミリアは別の部分で引っかかる。
「失礼ながらお話がわかりかねるのですが……。その《アルカヘスト》が錬金術関連の特務機関なのであれば、当然メルクリウスの要請どおり式典に派遣してその真偽を確かめるのでしょう? それで何故、その式典に自分まで参加する必要があるのでしょうか?」
「そこできみの任務の話が出てくるのだが……」
 一旦言葉を切り、ヘンリィはエミリアを見据えながら声のトーンを落として告げる。
「きみには、《アルカヘスト》室長に同行し、その素行を内偵してもらいたい」
「……はい?」
 予想外だったので間の抜けた声を上げてしまう。しかし、その反応も予想済みのようで、ヘンリィは淡々と続ける。
「《アルカヘスト》は、特務機関でありながら、現在室長一名しか在籍していない。室長は、些(いささ)か性格に難のある人物で、部下や同僚を持つことを極端に嫌うらしい。もちろん、本来であればそんなわがままを許す軍部ではないのだが、これが困ったことにどういうわけか女王陛下の覚えが良くてね。我々としてもあまり強くは出られないのだ。しかし、その素行の悪さにより他部署からのクレームが殺到しているので、検討の末、式典のお目付役を口実に、内偵をつけることと相成った。錬金術の式典に同行するとなれば、ある程度錬金術に素養のある人物でないと不自然になるが、軍に在籍する変成術師をそんな茶番に関わらせる余裕はない。そこで錬金術の知識があり、かつ知恵も回り優秀なきみに白羽の矢が立てられたというわけだ」
「ま、待ってください。少々、飛躍しているように思うのですが……そもそも内偵というのはいったい何をするのでしょうか?」
「文字通り内偵だ。なるべく近くで室長を観察し、王国の代表として恥ずかしくない行動を取っているか確認し、見たありのままを報告してくれればいい。期間は式典開催の二日間のみ。それが終わったら──今回の特別任務の功績として、現在の北部戦線拠点防衛任務を解き、私が責任を持って中央できみを預かろう」
 中央でヘンリィが預かる──それはつまり、軍の中枢、情報局のトップ直下で本格的に様々な任務に当たることができることを意味する。エミリアにとって願ってもない好機だ。
 だが、同時に不安材料も残る。そんな極めて都合の良い条件での任務ならば、何か良からぬ落とし穴があるのではないか、と。無論、ヘンリィのことは信用しているが、上層部の思惑も絡んでいそうな案件なので、慎重になりすぎるということはないはずだ。
 例えば、これまで変成術の国家研究は教務省の管轄で行われていたはずなのに、その実質的上位機関である《アルカヘスト》を、教務省とそりの合わない軍務省に設置した理由などは政治的な臭いがするし、さらにその《アルカヘスト》の室長を同一省内の情報局が内偵するというのは、明らかにきな臭いと言える。
 だが、飼い殺し同然の現状を変えるには、多少不安はあったとしてもこの機を逃す手はないし、何よりヘンリィがわざわざこんな辺境までエミリアを頼って来てくれたという事実が嬉しかった。できることなら彼の期待に応えたい。
 もちろん、そんな単純な思考など、情報局局長ほどの大人物ならばはなからお見通しなのかもしれないが……。それでもエミリアは、決意を固めて答えた。
「わかりました。その任務、謹(つつし)んで承(うけたまわ)ります──」

「──シュヴァルツデルフィーネ少尉?」
 不意に声を掛けられ、エミリアは埋没していた思考を無理矢理現実へと引き戻した。
 目の前では、合同庁舎の受付嬢が不思議そうに彼の顔を見つめていた。正式な庁舎職員ではないエミリアが、自由に庁舎内を歩き回るための許可証をもらうために立ち寄ったのだった。
「すみません、庁舎に来たのが初めてだったので緊張してしまって」
 エミリアは笑って誤魔化す。受付嬢は不思議そうに首を傾げながら、許可証を差し出す。
「こちらが許可証となります。お帰りの際に、またこちらでお返しください」
「わかりました、ありがとうございます」
 許可証を受け取り、エミリアは目的の場所へ向かい歩き出す。通路を歩きながら、再びヘンリィとの秘密の話し合いを思い出す。
 面会の最後、エミリアはどうしても一つだけわからなかったことを尋ねてみた。
 そもそも何故、室名にわざわざ変成術ではなく錬金術を標榜(ひょうぼう)しているのか。
 錬金術の研究などしたところで、錬金術師でもなければ理解も行使もできないのだから意味などないはず。
 その室長というのは何者なのか、と。
 するとヘンリィは、不愉快そうに顔をしかめてこう答えた。
「──《アルカヘスト》室長は、世界に七人しかいない錬金術師の一人だ」

       2

 国家安全錬金術対策室は、合同庁舎の地下にあるらしい。
 エミリアは薄暗い廊下を一人、歩く。数メートルおきに設置された燈火が申し訳程度に足下を照らしている。その何とも言えない心許(こころもと)なさが、どうしようもなく不安を煽(あお)るが、それ以上に彼の心中は別の感情により穏やかではなかった。
 錬金術師といえば、人類の至宝だ。
 神の叡智を自在に操る超越者。人々は皆、神の使いの如き彼らに溢(あふ)れんばかりの尊崇(そんすう)を向ける。ある意味において、彼らは人間社会における特異点と言える。例えば、国家であれば本来はその元首──アスタルト王国であれば、エンヘドゥアンナ・オブ・アスタルト女王が人々の尊敬や憧れを一身に集めるのが正しい姿であろう。しかし錬金術師という存在は、そんな人間の勝手な決め事などお構いなしに衆目を集めてしまう。結果、国家元首よりも価値のある人間、という評価になりかねず、社会秩序を保つ上でどの国もその扱いに困っていると聞く。
 だが、同時に錬金術師という存在は、強大な武力の象徴でもある。錬金術師によって得手不得手はあるようだが、石ころから無限の弾薬を生み出したり、生体錬金術により負傷した兵士を一瞬で回復させたりと、戦争における錬金術の価値は無限大だ。
 つまり大国間のパワーバランスを保つ上で、錬金術師はある種の抑止力としても有用であり、それゆえに各国上層部は可能な限り錬金術師を手元に置いておこう、とあの手この手を使い錬金術師を自国に住まわせようと躍起(やつき)になっているらしい。
 現在、バビロニア大陸の二大国家、アスタルト王国と神聖軍事帝国バアルでそれぞれ一人ずつ錬金術師を擁(よう)することで、パワーバランスの均衡が上手く保たれていたはずだったが……どうやらエミリアが山奥へ追いやられ情報を遮断されている間に情勢が大きく動いていたようだ。
 これまでは、アスタルト王国、バアル帝国の他に、海上移動共和国ヤムと宗教国家シャプシュがそれぞれ一人ずつ錬金術師を有していて世界のバランスが保たれていた。もっとも、錬金術による武力行使を前提としたいがみ合いをしていたのはアスタルトとバアルだけで、貿易国家であるヤムとセフィラ教会の総本山であるシャプシュは基本的に静観していたのだが。
 そして国家が抱える四名以外の錬金術師は所在不明とされてきたが……このたび王国が迎え入れたのは、残り三名のうちの一名ということなのだろう。
 情報将校を目指していたはずが、いつの間にか世界から取り残されてしまっていたことに気づき軽く落ち込むが、今はそれどころではない。
「まさかこんなに早く錬金術師と対面することになるとは……」
 王立軍に入れば、いつかは錬金術師と巡り合う機会もあるだろうと期待していたが、ここまで早く実現するとは思ってもいなかったので、心の準備もままならない。
 おまけに相手は、人間嫌いの問題人物であるという。
 果たして上手く立ち回ることはできるだろうか、と不安ばかりが増大していったところで──エミリアは自然に足を止めた。
 薄暗い廊下の果てで、異様に堅牢な扉に突き当たった。おそらくここが目的の場所だろう。ヘンリィ曰く、ここは昔、軍規に反した者を一時的に収容しておく懲罰房だったらしい。そんな事前情報のせいか、目の前の扉がやたらと禍々(まが まが)しく見えてしまい、思わず唾(つば)を飲む。一応扉には、『国家安全錬金術対策室』と書かれた真新しいプレートが貼り付けられているが、その不自然さが逆に恐ろしく思えてしまう。
 はっきり言ってこんな怪しい所、今すぐにでも回れ右をして逃げ出してしまいたかったが、鋼(はがね)の自制心でそんな弱い心を抑えつけ、エミリアは意を決して扉をノックする。
 見た目どおりの重厚な音が薄暗い廊下に反響する。しかし、しばらく待ってみたが中から反応はない。再び、今度は強めにノックをする。それでも反応はない。不在かと思って試しにドアノブを捻(ひね)って扉を押してみると──ゆっくりと開いてしまった。
 瞬間、臭覚を刺激する甘ったるい芳香に、エミリアは顔をしかめる。
「何の臭いだ……? 薬品……いや、アルコール……?」
 軍服の袖で口元を覆(おお)いながら、室内に足を踏み入れる。
 部屋は意外にも広々としていた。しかし、一見して本が多く、壁際の本棚に収まりきらなかった書物があちこちに散乱していることもあり、圧迫感と乱雑な印象が強い。足の踏み場を探すのも一苦労だ。
 家具らしい家具といえば、部屋の奥に置かれている革張りのソファと、中央に置かれている猫脚のテーブルくらい。あとは巨大な蒸留器や坩堝(るつぼ)、金属融解用の特殊な反射炉(ろ)などの実験器具が設置される、イメージどおりの錬金術師の研究室という装いだった。ただ天井からは金属製の拷問器具がぶら下げられており、ここが元はどういう用途で使用されていた部屋なのかを申し訳程度に表していた。
「なんというか……すごいな……」
 物珍しさも手伝ってついキョロキョロと辺りを見回して歩いてしまう。そんな注意散漫な状態だったこともあり、突然ソファの上の布の塊(かたまり)がもぞもぞと動き出したものだから、飛び上がりそうになるほど驚いてしまった。
 逸(はや)る心臓を何とか抑え込み、観察する。再び、問題の物体はもぞもぞと動いた。その形や動作からどうやら人間らしいということがわかった。そしてこの状況で考えるならば彼こそが──人類の至宝である錬金術師。
 緊張で生唾を飲み込んでから、それでもエミリアは意を決して一歩ずつソファに近づいていく。しかし、足の踏み場がないほど床が散らかり放題だったこと、そしてソファの上の錬金術師に意識を集中しすぎていたことが災(わざわ)いした。疎(おろそ)かになった足下に転がっていたブリキのバケツを蹴っ飛ばしてしまい、盛大な騒音を立ててしまったのだ。
 血の気が引く。そして、それは当然のように錬金術師の安眠を妨げた。
「……うーん……なんだぁ……?」
 ソファの上の誰かがのっそりと身体を起こす。状況がわからないのか布を被ったままもぞもぞと動いていたが、やがて緩慢な動作で布をぞんざいに振り払った。
 布の下から現れたのは──予想外の人物だった。
 髪は黒くて長い。おそらく腰のあたりまではあるだろう。寝起きのせいか多少乱れてはいるが、玉虫色の光沢を放っており元来の質の良さを窺(うかが)わせる。大きな目、スッと通った鼻筋、花弁を散らしたような小さな唇と、顔の造形は恐ろしいほど整っているが、どこか人形のような無機質さが垣間(かいま)見え、不気味な印象を感じる。一見して手足が長く、背も高そうだ。
 そんな世の女性を虜(とりこ)にするほどの美貌に男性用の軍服を纏(まと)いながら──しかし、服の下から大きく押し上げられた胸元が、決定的に何かを否定していた。
 そう。
 予想外なことにそれは、とても美しい──女性だった。錬金術師と聞いただけで、無意識に男性を想定していたエミリアは焦る。特に不可抗力とはいえ、年若い女性が一人で眠る部屋に無断で入り込んでいる今の状況ではなおさらだ。
 しかし、そんな彼の焦りなどお構いなしに、目の前の女性はあくまでもマイペースに頭を掻(か)き、おもむろにエミリアを見上げた。
「……きみ、すまないがそこの水差しから水を注いでくれないか。頭が割れそうに痛い」
「えっ、あ、その……はい、わかりました」
 激しく動揺しながらも、言われるままに水を用意してグラスを手渡す。受け取るや否や、女性は一気にそれを呷(あお)り、深いため息を吐(つ)いた。漏れ出たそれは酷く酒臭いものだった。どうやらこの女性は、あろうことか勤務中に酒を飲み、酔い潰れていたらしい。真面目(まじめ)が服を着て歩いているようなエミリアからしたら信じがたいほどの蛮行である。階級章から大佐であることがわかったが、この上官には一欠片(ひとかけら)の敬意も抱けなかった。
 顔をしかめそうになる彼をよそに、まるで意に介した様子もなく、女性は「沁(し)みるなァ……」などと呟き、再びグラスを差し出してくる。お代わりを要求しているようだ。大変不服ではあったが、何も言わず大人しく水差しからまた水を注いでやる。
 再び一気にそれを呷り、盛大なため息を吐いてから、ようやく女性は改めてハスキィな美声で尋ねる。
「……で、きみはなんだ? 私のラボに不法侵入しおってからに」
「その、ノックはしたのですが、お返事がなかったもので……」
 勤務中に酔い潰れていたことを非難したかったが、何とか我慢する。すると女性は鼻で笑い飛ばした。
「ハッ! ノックをして返事がないなら『取り込み中だからあとにしろ』の合図だろうが、この大たわけ。下々(しもじも)の凡骨(ぼんこつ)は、常に偉大なる我が意思を尊重するのが務めであろう」
「…………」
 あまりの言い草に言葉も出ない。女性は追い立てるようぞんざいに片手を振る。
「用がないならさっさと出て行きたまえ。私は急がしいのだ」
「恐れながら申し上げますが、お酒を飲んで酔い潰れていたのは……?」
「痴(し)れ者が。蒸留酒は、我が黄金色の脳細胞を十全に活性化させるための霊薬であるぞ。そして酔い潰れていたわけでもない。錬金術的思索に身を委(ゆだ)ねていただけだ」
 そこまで言ってからハタと気づいたように、女性は懐中時計で時間を確認する。
「そんなことはどうでもいい。とにかく私はこれから人と会う約束があるのだ。邪魔だからさっさと消えたまえ」
「いえ、自分も大佐にお話が……」
「うるさいうるさい。先ほども言ったが、きみのような凡夫は常に偉大なる我が意思を尊重するのが務めなのだ。私が去れと言ったら疾(と)く去れ。そして百年後くらいに出直してこい」
 とりつく島もないとはこういうことを言うのだろうか。人間嫌いの問題人物と聞いていたが……まさか満足なコミュニケーションもとれないとは思っていなかった。
 どうしたものかと考えあぐねるが、これ以上この錬金術師の機嫌を損ねるのは明らかに得策ではない。出直せというのであれば、そうせざるを得ないだろう。
 やむなくエミリアは、踵(きびす)を返す。錬金術師は追い打ちをかけるように言う。
「次に来るときは、蒸留酒の一本でも持参したまえ。そうしたら一分くらいは話を聞いてやろう。……まったく、男の軍人ってやつはどいつもこいつも朴念仁(ぼくねんじん)で気が利かない。やはり軍人は、上品で気が利いて丁寧な女性に限るな。ああ、早く来ないかなぁ、エミリアちゃん」
 エミリアは思わず足を止めた。そして胡乱(うろん)な顔で振り返る。
「……その、今なんとおっしゃいました?」
「まだいたのか匹夫(ひっぷ)めが。きみのような鈍才に費やす時間など私にはないのだ!」
「……失礼ながらその、今、エミリアとおっしゃいませんでした……?」
「言ったがどうした、きみには関係あるまい! さあ、我が錬金術で、そのミニマム脳みそを海綿に変えられたくなければ疾く失(う)せよ!」
 牙を剥(む)いて怒りを示す女性だったが、逆にエミリアはどんどん冷静になっていく。
「その、勘違いでしたら申し訳ないのですが、ひょっとして待ち人の名前は、エミリア・シュヴァルツデルフィーネではありませんか?」
 すると女性は急にきょとんとした顔をする。
「──なんだ、私の憐(あわ)れなエミリアちゃんを知っているのか。ひょっとして、きみは彼女の使者か何かか? 急に来られなくなった旨を伝えに来たとかそういう?」
「……いえ」
 渋い顔で首を振る。なんと声を掛ければ良いのかわからず言葉に詰まるが、早く訂正しないとますます酷いことになりそうな予感がしたので、意を決して真実を告げる。
「実は自分がエミリア・シュヴァルツデルフィーネです」
「…………は?」
 衝撃を受けたのか、女性が手にしていたグラスが床に落ち、甲高い音を立てて砕けた。
 錬金術師は瞳孔を限りなく小さくし、惚(ほう)けたように呟く。
「きみが……エミリアちゃん……? だって……きみは……男だろう……?」
「男ですね。その、家庭の事情で女性名を付けられただけで、今も昔もずっと男です。ええと、期待を裏切るようで申し訳ありません」
 謝罪をするのも違うとは思ったが、一応頭を下げる。
「ど、どういうこと……?」彼女は動揺する。「じゃあ、偽名……? 『黒いイルカ(シュヴァルツデルフィーネ)』なんてふざけた名前だとは思ったけど……?」
「正真正銘、本名です。ふざけた名前で申し訳ありません」
「え、待って、じゃあ、公開式に同行するのは……?」
「自分ですね。今日はその挨拶に参りました」
「帰れよぉ!」何故か悲痛な声で錬金術師は叫ぶ。「騙された! くそう! 局長のヒゲおやじめ! この私を言葉巧みに言いくるめおって! せっかく若い女の子と過ごす楽しいバカンスが待ってると思ったのに! 許せん……許せん!」
 頭を抱えて落ち込んだかと思ったら、すぐに顔を上げ、すごい形相でエミリアを睨(にら)む。
「きみもきみだぞ! いいように使われおって! 些か同情するが、私はそれ以上に傷ついた! 同行の話はなしだ! さっさとあの凶悪ヒゲおやじの元へ帰れ!」
「まあまあ」
「『まあまあ』じゃないが!? 逆にきみは何をそんなに落ち着いておるのだ!?」
 言われてみればそのとおりだった。世界に七人しかいない錬金術師の一人を前にして、「まあまあ」はさすがにない。彼女が期待していた錬金術師ではなかったこともあり、ついうっかり気を抜いてしまった。目の前で熱くなられると逆に冷静になってしまう性格なのである。
 しかし、このまま引き下がっては任務にならない。成否はともかくとして、エミリアは何をしてでも任務を続行しなければならない。
「──とにかくもう決まったことですから諦めてください。同行の件は、情報局だけでなく軍務省全体で決定したことです。つまりこれは女王陛下のご意思でもあります。陛下が良しとし、軍務省全体に認知されたそのご意思を、個人的事由で反故(ほご)にして、陛下のご威光に泥を塗るおつもりですか?」
「そ、それは……」
 錬金術師は、目に見えて狼狽(うろた)える。女王陛下の覚えが良いせいで誰も口出しできない、と聞いていたので、逆に言うならば女王陛下のご機嫌を損ねては錬金術師の立場も悪くなるのではないか、と当て推量をしてみたが、どうやらそのとおりらしい。錬金術師は、忌々しげにエミリアを睨みながら恨み言を漏らす。
「世紀の大天才であるところの私を脅すとは……きみはろくな死に方をしないぞ……」
「心得ています。軍人になると決めた時点で、安寧(あんねい)な死への幻想など捨てています」
 にっこりと笑みを返すと、錬金術師は鼻白む。それから何かを諦めたような深いため息を吐いて、彼女は投げやりに言う。
「……わかった。きみの同行を許可しよう。だが、初めに言っておく。きみと馴(な)れ合う気はない。あくまでも同行を許可するだけだから勘違いしないように。元より私は、同行者が女性だと思ったからこの話を受けただけなのだ。私は、男も小うるさいやつも大嫌いだ。つまり、私はきみが嫌いだ」
 そのストレートな物言いに、思わず笑みをこぼしてしまう。軍学校時代も軍人になってからも、彼の周りには本音と建前を上手く使い分けて自分に都合良く立ち回る人間が多かったので、ここまで感情的に、本能に忠実に動く人物はとても珍しかった。
 どうやら軍規や礼節も気にしないようだし、元より敬意など抱けそうもなかったので、エミリアも気にせず本音を返すことにする。
「奇遇ですね。僕も目的は任務遂行、ただそれだけです。あなたに興味はありません。元より僕は、勤務中に酔い潰れるようなだらしのない人は嫌いですし……何よりも錬金術師が嫌いです。つまり、あなたのことが嫌いです」
「ほう……言うじゃないか」錬金術師は、どこか楽しげに片眉を吊り上げる。「神の寵愛(ちょうあい)を一身に受けるこの私を嫌うことができる人間がこの世に存在したとはな。いいだろう、二日間だけだが私と行動を共にすることを許そう。そうして私の魅力でメロメロに落としてから──最後はボロ雑巾のように捨ててやる」
 不敵に笑い、錬金術師は手を差し出してくる。なんであれ、任務が続行できるのであれば構わない。エミリアも含みをもたせた笑みを返し、その手を握り返す。それから大切なことを聞き忘れていたのを思い出す。
「あの、今さらで申し訳ないのですが、あなたのお名前を教えていただけませんか?」
「むっ」錬金術師は不服そうに眉をひそめる。「まさかきみはこの私を知らないのか? 世界最高の錬金術師であるところの、この私を」
「……不勉強ですみません」
「──まあ、いい。無知蒙昧(もうまい)なきみに、特別に教えてやろう」
 そう言って、男装の麗人たる錬金術師は握手を解き、胸元に手を添えて朗々と告げる。
「私は、テレサ・パラケルスス。真名をテレサフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム。至高にして極限にして神域の錬金術師である!」

       3

 合同庁舎食堂のテラス席に座る錬金術師──テレサは、異様に人目を引いていた。
 無造作に足を組み、長い黒髪を風に揺らしながら涼やかな視線でメニューを眺めているだけなのだが、何故か宗教画のような神々しいオーラを放っている。事実、行き交う給仕の女性陣が熱い視線を例外なく彼女へ向けている。まるで向かいに座るエミリアのことなど見えていないかのように。それを妙に腹立たしく思いながら、エミリアも黙ってメニューに目を向ける。
 あのあと、馴れ合わないとは言ってもせめて最低限の情報共有は必要だと提案したエミリアに対して、ならば腹が減ったのでランチを取りながらにしよう、と一方的にテレサは言い放ち、彼は半ば強引にこの場へ連行されてしまった。
 本来であれば機密情報なども絡むため、周囲の目を気にしなくても良い密室での打ち合わせがベターなのだが……こうなってしまえば不可抗力だ。後々秘密漏洩の疑いを掛けられてもこの身勝手でずぼらな錬金術師にすべての罪を着せてしまえば良かろう、とエミリアは割り切る。
「やあ、ジェシカ。今日も可愛いね。今日は……そうだな。ローストビーフとマッシュポテトと彩り野菜の盛り合わせにしよう。あといつもの樽出し蒸留酒をダブルのロックで」
「お酒はダメです」
 給仕の女性に色目を使いながら注文するテレサに、エミリアはすかさず待ったを掛ける。テレサは不快感をあらわにする。
「私が何を頼もうが私の勝手だ。馴れ合うつもりはないと言っただろう」
「それとこれとは話が別です」エミリアは冷静に言葉を返す。「式典が終わるまでお酒は控えてください。あなたは国の代表として式典に参加するのですよ。それなのに当日お酒の臭いを振りまいていたら、モラルを疑われます。別にあなたの評価など知ったことではありませんが、引いては女王陛下のご威光に傷を付けることにも繋がりかねません。それでもよろしければ、どうぞご自由に──」
「ええい、小うるさいやつめ!」テレサは忌々しげに牙を剥く。「わかったよ、じゃあ紅茶にしてやろう! セカンドフラッシュをストレートで、滅法(めっぽう)熱くしてくれ!」
 投げやりにそう言うと、テレサはメニューを給仕の女性に渡す。状況がわからずおろおろしている女性に、エミリアは笑顔でスモークサーモンのサンドウィッチを注文した。
 女性が立ち去ってから、テレサは急に不安そうな顔で身を乗り出す。
「で、でも、さすがに式典当日はいいだろう? おめでたい席だしきっといい酒が振る舞われるはずだ。おそらく参加者は皆、その酒を楽しむことだろう。周囲との円滑なコミュニケーション実現のためにも、これは必要な措置ではないか? 第一、アルコールと錬金術には深い関係が……」
「ダメです」きっぱりとエミリアは提案を撥(は)ねつける。「あなたが普段真人間なのであれば何も問題はありませんが、ただでさえ素行に問題のあるあなたにお酒など与えたら、公(おおやけ)の場でどんな失態をしでかすかわかったものではありません。無駄なリスクを回避するためにも、やはりお酒は厳禁です。あなたは今の地位を守るため、僕は任務を遂行するため。これもすべてお互いのためですので諦めてください」
「悪魔のような男だなきみは!」
 今にも泣き出しそうな顔で天を仰ぐテレサ。ちらちらとエミリアたちの様子を窺っていた給仕のお姉さん方から、槍(やり)のような鋭い視線が飛んでくる。状況としてはあまり良くない。今後、この軍務省情報局で健やかな軍人生活を送るためにも、女性陣の反感を買うようなことは控えたい。少しくらいは妥協をしておこう、とエミリアは苦笑を浮かべる。
「まあまあ……たった数日の辛抱ではないですか。式典が終わったら、上等な蒸留酒を差し入れしてあげますから今は我慢してください」
「ただの小うるさい朴念仁かと思っていたが意外といいヤツだな! 許す!」
 けろりと表情を変えて、運ばれてきた水に浮かんでいた氷をガリガリと噛み砕きながらテレサは快活に笑う。気難しいだけの人間かと思っていたが、意外と御(ぎよ)しやすいのかもしれない、とエミリアは評価を改める。
「ところで、パラケルスス大佐」
「大佐はやめろ。軍人ごっこは性に合わん」ぴしゃりとテレサは訂正する。「『テレサ様』、もしくは『先生』と呼べ」
「……では、『先生』」出鼻を挫(くじ)かれたが気を取り直して本題に戻る。「──その、失礼ながら錬金術師というと老獪(ろうかい)な賢者、というイメージなのですが……先生はまったく真逆の印象ですよね。正直申し上げると、先生が人類の至宝たる錬金術師だとはにわかに信じられないのですが……」
「証拠を見せろって?」テレサは意地が悪そうに口の端を吊り上げる。「どいつもこいつも口を揃えて同じことしか言わないな。まったく創造性というものがない。第一、私が錬金術師であることは明白な事実だ。一度、女王陛下とその他有象無象(うぞうむぞう)の目の前で私は錬金術を行い、石塊を黄金に変えて見せた。つまり、女王陛下自身がその証人というわけだ。まさかきみは、女王陛下が嘘を吐いていると、そう言っているのか?」
「い、いえ、そうは言っていません」思わぬ反論にエミリアは慌てる。「しかし、たとえ事実であっても、直感的にそれを信じられないことはあります。惑星の自転や重力が、長らく認知されていなかったように……」
「なるほど、自分の目で見たもの以外は信じられない、というアレだな。愚才らしい想像力の欠如だ」
 にやにやと、テレサは試すような視線をエミリアに向ける。その人を人とも思っていない侮蔑(ぶべつ)的な視線に、本能的な嫌悪感を抱く。
「しかし、今きみの目の前で錬金術を行使したところで何になる? きみの偏見を解いて、私を錬金術師だと認めさせたところで、私にどんなメリットがある? そう、現状何も変わらない。きみはただ興味本位で、自分の好奇心を満たすためだけに、私に錬金術を見せろ、と言っているに等しい。それはあまりにも、私を尊重していないのではないか? ごくごくシンプルな言い方をすると──とても失礼だ。喩えるならば、きみは女性名だし、顔つきもやや女性的だから、男性を自称していてもとても信じられない。だから男性であることを証明するために今この場でズボンと下着を脱いで男性器を見せてくれ、と言っているようなものだ。──違うかね?」
 刺すような錬金術師の言葉に、エミリアは黙り込む。確かにエミリアの一連の発言は、テレサという特異な存在を軽んじるものと捉えられても仕方がない。彼女がそれを拒絶するのも、機嫌を害するのも、当然のことかもしれない。エミリアは素直に頭を下げる。
「……すみません。行き過ぎた発言をしました。申し訳ありません」
「なに、慣れたことだ、気にするな」
 何でもないことのようにテレサは嘯(うそぶ)く。頭を上げると、テレサはまた悪趣味な笑みを顔に貼り付けていた。
「そうは言っても、愚鈍の輩(やから)に見くびられるのも、それはそれで気に食わない。特別に今回だけ、きみにとっておきを見せてやろう」
 おもむろにテレサは、テーブル越しに身を乗り出してエミリアの顔を覗き込む。エミリアは突然のことにたじろぐ。真面目な彼は、あまり女性慣れしているほうではないし、ましてテレサほどの美貌の持ち主はこれまで見たこともなかったので、彼の鼓動は自然と速まっていく。視線を奪われるように、彼は二十センチと離れていない至近距離でテレサの黒瑪瑙(め のう)のような双眸(そうぼう)を見つめる。人間性は最悪だが、やはりこの錬金術師は格別に美しい──霞(かす)む思考でそんなことを考え始めたとき、変化が起こった。
 テレサの双眸──その右眼だけ、虹彩(こうさい)がルビーのように鮮やかな緋色(ひいろ)に変化したのだ。そして、色彩の変化が完了すると漆黒の瞳孔の奥からふわりと黄金色の紋様が浮かび上がってきた。鋭角的な直線で描かれた『*(アスタリスク)』のような不思議な模様だった。
「──《神印(ディンギルいん)》」
 この世のものとは思えない光景を前にして、エミリアは惚けたように呟く。
《神印(ディンギルいん)》とは、神の御使いであることを示す印だ。すべての錬金術師は、身体のどこかにこの不思議な紋様を持って生まれてくると言われている。《エーテル》を自在に操り、神の御業(みわざ)である《元素変換》を行使できる天賦(てんぷ)の才──人を超越した存在であることの証明とも言える。
 また錬金術師は、全世界に同時に七名しか存在しないことがわかっており、錬金術師が死ぬとだいたい同時期に世界のどこかで《神印(ディンギルいん)》を持つ新たな錬金術師が生まれてくる。
 これらはすべて先天的なものであり、後天的に発生することはない、と言われている。錬金術師の欠員、入れ替わりなどもない。世界で常に七名のみだからこそ、錬金術師は極めて希少価値の高い存在となっている。
 エミリアの理解を察したのか、テレサは満足そうに微笑むとまた背もたれに寄りかかるように座り直した。もう右眼は元どおりの黒瑪瑙に戻っている。
「どうしても錬金術を見なければ信じられないというのであれば、今この場で披露するのもやぶさかではないがね。私は作るよりも壊すほうが得意だから、例えばこのテーブルを黄金錬成したあと、木っ端微塵にしてみせよう」
「……いえ、もう十分ですので」
 エミリアの心臓はまだ早鐘(はやがね)を打っていた。目の前にいる女性が、理外の存在であるということを改めて思い知らされたからだろう。
「なら結構。そんなことよりも、もう少し建設的な話をしよう。きみは最低限の情報共有を望んでいるようだが……何が知りたいのだ?」
 テレサは話題を変える。エミリアは心境の変化を悟らせないよう、努めて冷静に尋ねる。
「先生は……今回の一件を、どのようにお考えですか?」
「《魂の解明》のことか?」
「はい。国の上層部は、懐疑的な姿勢を見せていますが……専門家の意見を伺いたいと思いまして」
「そうだな……」テレサは口元に手を添えて考える。「──曲がりなりにも国に専門家の派遣を要求してくるくらいだから、まったくの嘘ということはないはずだ。だが、《第五神秘》に続いて《第四神秘》まで一人の錬金術師によって再現されたとはさすがに考えにくい」
「……つまり、嘘であると?」
「嘘とまでは言わないが、牽制(けんせい)の意図はあるだろうな。春から軍務省が設立した錬金術関連機関である《アルカヘスト》への」
 そういう考えもあるのか、とエミリアは感心する。これまでは、国内唯一の錬金術師がメルクリウス・カンパニィに所属していたことから、外交的なパワーバランス調整のため、国が税金や流通などの面でメルクリウスに色々と便宜を図っていた。しかし、テレサの登場により国に存在する錬金術師が二人に増え、わざわざメルクリウスのご機嫌伺いをする必要がなくなったことから、将来的にこれまで与えられてきた特権の数々を取り上げられる可能性が出てきた。
 そこで国に対して自社の錬金術研究の先進性を主張することで有用性を示そうとした、というところか。興味深い考察だ。
 ちょうど話題が一段落したタイミングで料理が運ばれてきた。先ほどの給仕とは異なる女性に、テレサは「やあ、マリアンヌ。今日も美しいね」などと声を掛ける。エミリアと会話をしているときの嫌らしさは微塵も感じさせない、それはそれは爽やかな笑顔だった。
 給仕の女性は、恥ずかしそうに目を伏せると頬を染め足早に去って行く。その後ろ姿を眺めながら、可愛いなあ、などとテレサは呟く。おそらくお世辞や社交辞令ではなく、本気でそう思っているのだろう。この調子だと軍務省の、否、第三庁舎に勤めるすべての女性職員に手を出していそうだ。昼間から酒を浴びていることも含め、素行不良で方々からクレームがくるわけだ、と半ば呆れながら運ばれてきたサンドウィッチを食べ始める。
 しばらく黙って食事に専念する。テレサは横柄(おうへい)な言動とは裏腹に、とても上品な仕草で料理を口元に運んでいた。育ちの良さが窺える。こうして黙っていれば、見た目だけは完璧なのに、と少し残念な気持ちになる。
「ところで」食後に給仕された紅茶を啜りながら、テレサは口を開く。「メルクリウス・カンパニィの本社ってのはどこにあるのだ? 国内とは聞いているが、船で行くとかなんとか」
「ご存じないのですか? 水上蒸気都市トリスメギストスを」
「なんだそれ?」
「プラル湖という巨大な湖に浮かぶ人工都市ですよ。三十年まえ、《エーテライト》の実用化とともにメルクリウスの錬金術師が大出力の新型蒸気機関を開発して、湖に浮かぶ人工都市を作り出したんです。なんでも《エーテル》の結晶化には、冷却のため大量の淡水が必要なんだとか」
 件の顧問錬金術師は、錬金術だけでなく工学や化学の分野でも活躍しており、王立大学から特別に博士号を送られていると聞く。
「ふん、トリスメギストスねえ……」テレサは不機嫌そうに鼻を鳴らす。「自ら《神の子》を名乗るとはメルクリウスもずいぶん大きく出たな。そういえば、《メルクリウス》というのもヘルメスの別名だったか。セフィラ教会はクレームの一つも入れないのか?」
「さすがに多少のいざこざはあったようですけど……相手は世界一の大企業ですからね。王国の庇護(ひご)もあり、そのままなし崩し的に許されたみたいです」
 テレサは面白くなさそうに、また鼻を鳴らす。
「新型蒸気機関と、石炭に代わる新たなエネルギィ資源の開発で、ずいぶんと儲けているみたいじゃないか。メルクリウスの錬金術師……確か、フェルディナント三世とか言ったか。齢(よわい)六十を過ぎていると聞くが、ずいぶんと世渡りの上手そうなやつだな」
「そうですね」テレサの皮肉にエミリアは頷く。「顧問錬金術師のおかげで、メルクリウスは莫大な収益を上げています。そして王国に対し巨額の税金を納めることで、トリスメギストスは実質的に独立した都市国家として認められています」
「──なるほど。王国に所属していながら独立自治を認められ、《エーテライト》技術を握っている上に、お抱え錬金術師までいるから誰も逆らえないというところか」
 独り言のようにそう言ってから、テレサは唐突に話題を変えた。
「そんなことよりエミリアちゃん、きみ、何をやらかしたんだ?」
「……『ちゃん』はやめてください」エミリアは嫌悪感をあらわにする。「やらかしたって、急に何の話ですか……?」
「決まってるだろう。北部送りの件だ」アルコール禁止の意趣返しのつもりか、テレサはしたり顔のまま上機嫌に言う。「事前にきみの簡単な情報は聞いてたからな。王立陸軍士官学校を首席で卒業してるのに、何故か直後に辺境の最前線に送られている。よほど上層部の不興を買わないとこんなデタラメな人事はありえん。ましてきみは、ヘンリィ・ヴァーヴィルの秘蔵っ子だったのだろう?」
 試すような視線を向けられてたじろぐが、どうしても譲れないところではあったのでエミリアは毅然として答える。
「──答える義理はありません」
「つれないこと言うなよ。二日間だけとはいえ、一緒に旅をする仲じゃないか」
「馴れ合わない、とおっしゃったのは先生のほうでしょう?」
「私は人の隠したがっている秘密を暴くのが好きなのだ」
「……最悪な性格ですね」
「よく言われる」テレサは何故か自慢げに胸を張る。「だが、どれだけ最悪であっても私は許されるのだ。何故なら、人類の至宝だからな」
 嫌らしく笑ってから、祝杯をあげるように手にしたティーカップを掲げて彼女は言う。
「ふむ、ではここらで一つ、私の天才的な頭脳の片鱗(へんりん)でもお目に掛けておこうか。きみが上層部の不興を買った理由──それはおそらく、きみ自身が原因ではなく、誰か他の人間を庇った結果だろう」
 虚を衝(つ)かれ、エミリアは息を呑む。
「その反応だと当たりのようだ」テレサはしたり顔を浮かべる。「小一時間ほど接してわかったが、きみ自身は真面目の権化(ごんげ)のような人間だ。このクソ暑いのに軍服をしっかりと着込んで、襟元を緩めもしないことからもそれは明白だ。きっとこれまでも規律に従い上官の命令をよく聞き、愚直に生きてきたはず。そんな人間が、独力で王立軍上層部の不興を買えるとはとても思えない。そしてきみはただ馬鹿真面目なだけでなく、誠実そうにも見える。品がある、とでもいえばいいかな。上昇志向の強い人間が多い軍人には向かないタイプだ。だからきっと、クソつまらない蹴落とし合いに巻き込まれて、結果すべての不興を背負うことになったのだろう」
 エミリアは何も答えない。いや、答えられなかった。
 テレサの口から発せられる無責任で何の証拠もない言いがかりが、どうしようもなく真実だったから。
「となると気になるのはその内容だが、これはなかなか難しい。未だ軍人の資格を剥奪されていないところを見ると、それほど大それたことをしたわけではないのだろう。だが、それにしては戦略上まるで重要じゃない山奥の前線拠点の開墾なんて、罰が重すぎるようにも思える。言ってしまえばただの飼い殺しだな。このことから、中央には置いておきたくないが、駒としては貴重なので手放したくはないという上層部の強い意思が垣間見える」
 テレサは静謐(せいひつ)な黒瞳(こくどう)でエミリアを見据える。すべてを見透かすような視線を向けられ、エミリアは落ち着かない。顔を背(そむ)けたくなるが、半ば意地になってその鋭い視線を受け止める。
「──なるほど、よくわかった」テレサは満足そうににやりと笑う。
「ずばり女だな。そしておそらくは──スパイだったのだろう」
「──っ!」
 声が漏れそうになるのを必死に堪(こら)える。だが、そんなささやかな努力もテレサには見抜かれてしまう。彼女はにっこりと微笑んだ。
「きみは女性に対して苦手意識のようなものを抱いているね。おそらく過去に女性関係で痛い目を見たのだろう。だが、真面目一辺倒のきみが学生時代、恋愛沙汰にうつつを抜かすとは考えにくい。だからきっとその女性は成績優秀者──それもきみとトップを争うような関係だったのではないかと予想する。しかし、そんな優秀な女性士官が今年入隊したという話は聞かない。ならばその女性は軍学校を卒業できなかったのだろう。何故か。いろいろ考えられるが、ここで一番しっくりくるのは、その女性が他国の──それもおそらくはバアル帝国のスパイであることがバレたから、というパターンだろう。戦争が終結してしばらく経つとはいえ、隣国のバアルは依然として最大の脅威だからな。そしてそのスパイとトップの座を争っていたきみも、やっかみからかスパイの疑惑を掛けられてしまった。おまけにきみは、情報局局長の秘蔵っ子。ヘンリィ・ヴァーヴィルは辣腕(らつわん)で優秀な人間だ。あの若さで情報局のトップに上り詰めたのだから、敵も多いことだろう。だからやつへの圧力の意味も兼ねて──きみは僻地(へきち)へ飛ばされたのだ。スパイの疑いのある人間を中央に置くわけにはいかないとかなんとか言いがかりをつけられて、な」
 テレサは再び紅茶を啜り、口を湿らせてから改めてエミリアを見やる。
「──以上が状況証拠と簡単な観察に基づく私の推理だ。当たらずといえども遠からずというところだろう?」
 勝ち誇ったように、テレサはしたり顔で笑う。
 人のことなど道ばたの雑草程度にしか思っていないような態度に、どうしようもなく嫌悪感を抱いて、エミリアは席を立った。
 そして白眉(はくび)の美貌に嫌らしい笑みを貼り付けたテレサを見下ろして告げる。
「──まったく、これっぽっちも掠(かす)っていない妄想ですね。耳を傾けるだけ貴重な時間の無駄遣いでした。もうあなたに伺いたいことは何もありません。当日の予定はまた追ってお知らせします。代金は僕が支払っておくのでご心配なく。それでは失礼いたします」
 一息に言い切り、テレサの返事を待つことなく彼女に背を向けて歩き出す。
 内心でひどく腹を立てながら、エミリアは確信した。

 やはりあの錬金術師は────どうしようもなく嫌いだ、と。


第2章 ホムンクルスは笑わない

       1

 王都エテメンアンキを日の出とともに出発したエミリアたちが、水上蒸気都市トリスメギストスへ到着したのは昼もすぎた頃だった。
 王都からプラル湖まで、高速蒸気列車に揺られること六時間。さらにプラル湖の湖岸から蒸気船に乗り換えて三十分という長旅であった。
 航空機を利用すれば二時間ほどで行ける距離ではあるのだが、テレサがどうしても空は嫌だというのでやむなく陸路で行くことになったのだ。
「だいたいあんな金属の塊が空を飛ぶこと自体おこがましい! 人間は地べたを這いつくばっていればよいのだ!」
 声高にテレサはそう主張していたが、心なしか声が震えていたのでたぶん航空機が怖いのだろう、とエミリアは勝手に判断する。
 一昨日の別れが最悪だったこともあり、いけ好かない錬金術師との長旅は大した会話もなかったが、それでもテレサは特に気にした様子もなく上機嫌だった。きっとエミリアのことなど小うるさい羽虫程度にしか思っていないのだろう。
 外部との唯一の連絡口であるトリスメギストス港に降り立ったテレサは、その顔を好奇に染めて興味深げに街の様子を窺っていた。
 トリスメギストスは、周囲を高さ十メートルほどの壁で囲われた直径二キロメートルほどの円形の都市だった。機密保持と防衛の観点からこの設計にされたらしい、とお喋りな蒸気船の船長は嬉しそうに説明してくれた。
 港からは真っ直ぐに目抜き通りが伸び、その先には白亜の建造物──メルクリウス・カンパニィ本社が、天を衝くように高々とそびえ立っていた。全高はおそらくアスタルト城よりも高いだろう。なかなかに威圧的、かつ効果的な設計である。
 中央に立つ細く長い建物と、それを取り囲むように配置された背の低い塔のようなものが六つ、正面から覗いている。塔の側面からはいくつもの太いパイプが束になり、地面に伸びていた。パイプの所々からは、絶え間なく白い蒸気が噴き出ている。
 まるで建物全体が一つの巨大な実験装置のようにも見える。実際ここですべての《エーテライト》を生産しているのだから、あながち間違った表現でもないだろう。テレサ曰(いわ)く、塔のようなものは《エーテル炉》と言って、大気中の《エーテル》を集めて濃縮する装置らしい。
 水上蒸気都市、というだけあり、街の至る所から白煙が立ち上って見えるが、空気は王都とは比べものにならないほど澄んでいた。この街では、蒸気機関により発電した電気も積極的に利用しており、信号機なども完全に電気で動いている、と先の船長は自慢げに話していた。王都でもまだ電気信号機は少なくほとんどが手旗なので、大したものだ。
 街並みも美しいし、さすがは世界最先端の人工都市だ、と感心する。湖の上に浮いているはずなのに、揺れる感じはまったくない。もしかしたら、風や波による揺れを制御する機構が備わっているのかもしれない。
「なかなか良い所ではないか。あの《エーテル炉》も近くで見たいし、早く行くぞエミリアちゃん。何をぼさっとしておるのだ!」
 まるで子供のようにはしゃぎながら、テレサは待機していたメルクリウスの蒸気自動車に乗り込んだ。エミリアは呆れながらその後を追って車に乗る。
 蒸気自動車は、ゆっくりと慎重に走り始めた。

       2

 メルクリウス本社の長い昇降機で六十階までやって来たエミリアたちは応接室に通される。応接室は、中に水を溜めればイルカが飼えそうなほど広く快適な部屋だった。
 大きく取られた窓からは、弧を描く外周に囲まれたトリスメギストスの街並みと、日の光を乱反射するプラル湖の穏やかな水面が望めた。目を凝らせば遠くの地平線まで見えそうな、地上六十階ならではの絶景だ。
 応接室には二人の男性が待っていた。
「やあ、お二方! ようこそ遙々お越しくださいました!」
 背の高いほうの男性が大げさに両手を広げてエミリアたちを迎え入れる。年の頃は四十代前半あたりか。柔らかい短めの金髪が特徴的な、優しげな印象の男性だった。男性は、爽やかな笑みを浮かべてテレサに手を差し伸べる。
「初めまして、メルクリウス・カンパニィの代表を務めますダスティン・デイヴィスと申します。このたびは、突然のお声がけにもかかわらずお越しいただけてとても光栄です、パラケルスス大佐、シュヴァルツデルフィーネ少尉」
 微妙に顔を引きつらせながらもテレサは握手に応じる。エミリアも続いたところで、もう一人の白衣を着た男性が頭を下げた。
「……技術戦略研究グループ所属エネルギィ技術開発部長のジェイムズ・パーカーです。……よろしくお願いいたします」
 ぼそぼそとした独特の間のある喋り方をする、よれよれの白衣に分厚い眼鏡といかにも技術者然とした男だった。黒髪に白いものがだいぶ交じっているので年齢は五十代くらいか。
 姿勢を改め、エミリアは口上(こうじょう)を述べる。
「──軍務省情報局戦略作戦部国家安全錬金術対策室室長テレサ・パラケルスス大佐、並びにエミリア・シュヴァルツデルフィーネ少尉、ただ今到着いたしました。本日はよろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、お手柔らかにお願いいたしますね」まったく嫌味のない穏やかな口調で、デイヴィスは頷いた。
 促されるままエミリアたちはソファに座る。すぐに秘書と思しき女性が紅茶を運んできた。信じられないくらい薫り高いものだった。
 こうした状況に慣れていないエミリアは緊張しながら紅茶を飲むが、視界の端のテレサは普段どおりの横柄(おうへい)さで足を組んで胸を張り、ふんぞり返って紅茶を啜っていた。上流階級の対応に慣れているのか、あるいは何も考えていないのか判断に迷うところだ。
「──しかしそれにしても」向かいのソファに腰を下ろした社長のデイヴィスが大仰な仕草で語り始める。「まさかこれほどまでに若く、そして美しい女性が王国の錬金術師だったとは……驚きました」
 女性の扱いに慣れている様子でデイヴィスは微笑む。その嫌らしさを一切感じさせない完璧に計算し尽くされた表情は、これまで数多の女性を虜にしてきたであろうことが容易に想像できた。しかし──。
「すまないがカーテンを閉めてもらえないだろうか」会話の流れを無視してテレサは言う。「馬鹿と煙は高いところが好きらしいが、私は天才なので高いところが嫌いなのだ」
 あまりの言い草にデイヴィスと開発部長パーカーの顔が引きつる。しかしさすがは百戦錬磨の社長、すぐに穏やかな笑みを浮かべ直して頭を下げる。
「……失礼いたしました。弊社自慢の眺望をご覧いただきたいと思い、この応接室を用意したのですが、ご迷惑だったようですね。申し訳ありませんでした」
 慌てた様子でパーカーが立ち上がり、急いでカーテンを閉めて戻ってくる。ご苦労様です、と部下を労(ねぎら)ってから、デイヴィスは気を取り直した様子で話題を戻す。
「ではまず、今後の予定をお伝えしておきましょう。お二方には、まず本日十八時から開催される前夜祭に出席していただきます」
「前夜祭?」エミリアはおうむ返しする。
「はい。正式な《第四神秘》公開式は明日九時からとなります。本日はその記念すべき式典への期待を十分に高めるための催しが行われます」
「それ必要か?」テレサは不愉快そうに顔を歪める。「わざわざこの私をこんな田舎くんだりまで呼びつけておいて……私の貴重な時間をなんだと思ってるんだ?」
 稀有(けう)の美貌に睨(ね)めつけられて口ごもるが、それでもデイヴィスは笑顔を絶やさず答える。
「おっしゃるとおり、ご多忙のパラケルスス大佐のお時間を頂戴してしまうことには心より謝罪申し上げます。しかし──なにぶんこれは世紀の大発見です。誰も為し得なかったあの《第四神秘》の再現に成功したのですから……多少大げさに騒ぎ立てるのもやむを得ないこととご理解ください」
 上手い言い回しだ、とエミリアは感心する。メルクリウスの錬金術師以外は、まだ《第六神秘》で足踏みをしている状態だ。そんな彼らにとって《第四神秘》の再現とは、一般人が考えるそれとは比べものにならないほど重要な意味を持つはずだ。多少勿体(もったい)をつけられたところで……本来であれば気にするものではないのだろう。
 事実、テレサも反論はないようで、不承不承(ふしょうぶしょう)という様子ではあるが黙っている。
「とにかく、本日はあくまでも前夜祭ですので、お二方にお願い申し上げる事柄はございません。どうぞお気兼ねなく、イベントをお楽しみください。お料理もお酒も十分にご用意してございます。少しでも長旅の疲れを癒やしていただけましたら幸いです」
 相変わらずテレサは不機嫌そうだ。きっと肝心の酒が飲めないからだろう。
「そして明日ですが、公開式の場にて弊社の顧問錬金術師が皆様の目の前で《第四神秘》を再現してご覧に入れますので、パラケルスス大佐にはそれがトリックや巧詐(こうさ)ではなく、真正の錬金術であることを確認していただきたいのです」
 テレサは拗(す)ねて黙っているので、エミリアが代わりに、わかりましたお任せください、と返事をする。さすがのテレサも本来の目的である《第四神秘》の成否確認を嫌とは言うまい。
「──一つだけ確認をしたい」テレサが面白くなさそうな顔のまま口を開く。「おたくの顧問錬金術師のフェルディナント三世が至った《第四神秘》というのは、いったいどこまでの話なのだ?」
「どこまで、とおっしゃいますと……?」意味がわからないのかデイヴィスは首を傾げる。
 テレサは面倒くさそうに、それでも丁寧に話し始める。
「《エメラルド板》に刻まれた錬金術における《七つの神秘》。これは《第六神秘》から《第零神秘》まで段階的に表現される。人類が神の領域に至るために上らなければならない、踏み飛ばせない階段のようなイメージだな。だが、より正確に表現するならば各段階における神秘もそれぞれにいくつかのステージに分けられるのだ。そして……最新研究において《第四神秘・魂の解明》には三つのステージがあると考えられている」
 テレサは、細くて長い人差し指を立てた。
「第一段階。解明するまえに、まずは《魂》というものを理解しなければならない。今は『人間だけが持つ叡智の根源』という抽象(ちゆうしよう)的な理解をされているが、解明するためにはそのものずばりがどういうものか理解する必要があるだろう。《魂》とはいったい何なのか? 意識なのか、記憶なのか。また何故人間にのみ、そのようなものが存在するのか。極めて基本的なことではあるが、とても大切なことでもある」
「《魂の解明》の第一段階として《魂の定義》が必要なわけですね」エミリアは相づちを打つ。「でも、先生。ほかの動物、例えば犬や猫なんかも一見して意思があるように見受けられます。それは《魂》とは別のものなのですか?」
「広義の意味では《魂》に類するものなのだろうが、錬金術的には別の概念と考えるな。錬金術で言う《魂》というのは、《叡智の根源》だ。あらゆる生物の中で、人間だけが高等な思考を持ち得た、その起源とも言えるものが《魂》だ。だから、動物から観察できる意思のようなものは、あくまでも生命活動の延長線上の現象なのだ」
 エミリアの質問に少しだけ気を良くした様子でテレサは続ける。
「第二段階は、《魂》の操作が問題になる。例えば、二人の人間の《魂》を入れ替えたり、あるいは死者の《魂》を現世に呼び戻したり……。どの程度のことができるのかは、あくまで想像だが、とにかく《魂》自体に手を加える、というのがこの第二段階だ」
「なるほど。錬金術が万物の理解を標榜している以上、《魂》だって自在に加工できなければなりませんからね」デイヴィスはどこか余裕の表情で頷いた。
「《魂》を自在に操作できるようになったら、最終段階は《魂の錬成》だ。術者が己の力だけで《魂》を作り出す。人造人間、とでも言えば良いだろうか。これは生体錬成も絡んでくるから、もし実現するならば並大抵の技術じゃない」
「つまり、その領域に至ってようやく《魂の解明》が完了する、というわけですね」デイヴィスは腕を組み何度も頷く。「そしてパラケルスス大佐は、メルクリウスの研究がどの段階にあるのかをお尋ねになっておられる、と」
「そうだ」テレサは大仰に頷く。
 あまりにも偉そうな態度なので、エミリアは端で見ていてはらはらしてしまう。
 しかし、デイヴィスは気にした様子もなく、それどころか自信すら滲(にじ)ませて答えた。
「我々が成功したのは──《第四神秘・魂の解明》の完全再現です」
 完全再現……それはつまり、《第四神秘》の最終段階である《魂の錬成》に成功したということか。
「……馬鹿な」テレサは訝(いぶか)しげにデイヴィスを睨む。「不可能だ。《第五神秘・エーテル物質化》の再現からたった三十年だぞ。神の叡智である《七つの神秘》がそんな簡単に、しかもたった一人の錬金術師に暴かれてたまるか。そもそも生体錬金術の絡む《第四神秘》は、セフィラの姫御子(ひめみこ)の研究が一番進んでいたはずだ」
 セフィラの姫御子──世界最大の宗教勢力セフィラ教会の総本山、宗教国家シャプシュの代表であるテオセベイア・ルベドのことだろう。テオセベイアは、シャプシュの錬金術師としても有名だが、それ以上に死後も人格や記憶を保持したままセフィラ教会関係者の元に転生する異能者として畏(おそ)れ敬われている。同一の《魂》を再利用し続けるという性質から、これまでは最も《第四神秘》解明に近い存在とされてきた。
「彼(か)の無極(むきょく)転生者であれば、やがていつかは神の叡智のすべてを再現できることでしょう」デイヴィスは同情するように告げる。「しかし今代においては──我らが顧問錬金術師フェルディナント三世の研究が優ったと、そういうことなのでしょう」
「……ずいぶんと、自信があるようだな」気持ちを鎮めるためか、テレサは紅茶を一息に飲み干す。「あるいはきみらもフェルディナント三世に謀(たばか)られているのかもしれないぞ?」
 しかし、そのあからさまな挑発にデイヴィスは乗らず、ただ意味深に微笑むだけだった。代わりにパーカーがそのあとを引き継ぐ。
「……その、実はそのあたりのお話に関しまして、一つお願い事がございます」
「お願い事?」エミリアは首を傾げる。「改めて何です?」
「フェルディナント博士が、パラケルスス大佐との特別面会を希望しているのです」
「特別面会だ?」今度はテレサが顔をしかめて尋ねる。
 不愉快そうな表情を向けられ冷や汗を拭(ぬぐ)いながら、パーカーは何とか言葉を紡ぐ。
「……その、今回の公開式はすべて博士たっての希望で執(と)り行われることが決まったのです。そして王国の錬金術師パラケルスス大佐との特別面会もその一環でして……」
「待て待て意味がわからん。フェルディナント三世が何だって私に用なぞある。会ったこともないし、そもそも錬金術師は研究成果の自慢をするほど低俗ではないはずだ」
「用向きの内容まではさすがに……しかし、我々も博士には逆らえませんので……」
 申し訳なさそうにパーカーは頭を下げる。ある意味このメルクリウス・カンパニィは、顧問錬金術師によって生かされているとも言えるので、きっとその言葉は絶対なのだろう。
 テレサはデイヴィスにも視線を向けてみるが、彼もまた首を横に振る。おそらく誰も知らないということなのだろう。ここでごねたところで仕方がないと判断したのか、テレサはため息を吐いてから至極面倒くさそうに言う。
「……わかったよ。業腹(ごうはら)ではあるが、付き合ってやる。元々文句の一つでも言ってやるつもりだったからな。私は嫌なことはさっさと終わらせるタイプなのだ。今から行くぞ」
 言うや否やテレサは立ち上がる。つられるようにエミリアたちも腰を上げる。
 やや危うい場面はあったが、どうにか話し合いは双方の納得いく形で終了したようだった。目に見えてホッとした様子でデイヴィスは爽やかな笑みを浮かべた。
「──それでは、大変申し訳ありませんが、私はまだ仕事が残っているのでここで失礼いたします。以後は、こちらのパーカーにすべてを引き継ぎますので、お気兼ねなく何でもお申し付けください。どうぞ思う存分、このイベントをお楽しみくださいませ」

       3

 見晴らしの良かった上階の応接室から一転、昇降機は緩やかな浮遊感を伴いながら下へ下へと降り、エミリアたちは地下一階までやって来た。先ほどまで至る所に過剰なほど設置されていた窓がこのフロアには一切見当たらないため、圧迫感と閉塞感が強い。内心で辟易(へきえき)するエミリアだったが、対照的にテレサは少し機嫌を持ち直していた。
「おお、ここはいいな。やはり広々としたところは落ち着かない。私はできれば一生こんな穴蔵の中で過ごしたい」
「モグラみたいなことを言わないでください」
 エミリアたちはパーカー開発部長に連れられて狭い通路を進んでいく。通路は薄暗く、申し訳程度の明かりが揺らめいているばかりで、数メートル先も満足に見えなかった。地下階とはいえさすがに度が過ぎるのではないか。
「……ここは開発部の中でも極秘中の極秘。許可を取った者以外、足を踏み入れることができない特別なフロアです」パーカーはぼそぼそと独り言のように語る。「通常の開発部は上階にいくつかフロアを持っていますが、ここはフェルディナント博士専用の研究フロアとなります」
「地下一階が丸々ですか?」エミリアは尋ねる。
「……そうです。十分に博士に満足いただける研究施設を用意したらこうなりました。博士の研究は門外不出のため、セキュリティの面から考えても理に適(かな)っていると思います」
 三人は黒い扉に突き当たる。二メートル四方程度の大きな金属製の頑丈そうな扉だ。昇降機を降りてから真っ直ぐ一本道だった。距離にして二十メートルくらいだろうか。
 パーカーは扉横に設置された装置に右手を当てた。すると甲高い電子音が鳴り響き、固く閉ざされていた扉が白い蒸気を噴き上げながら開いていく。
「おお、すごいな。ハイテクだ」テレサは子供のように目を輝かせる。
 扉の先は、五メートル四方程度の小部屋になっていた。先ほどまでの薄暗い通路とは打って変わって明るいが、ただそれだけであり、ある意味、殺風景な感じはより極まった印象だ。壁も床も天井も白く、何もない。それなのに部屋の奥には青い警備服を着た屈強な男性が二人、二メートルほどの距離を空けて並んで立っていた。少し異様な光景だった。
 パーカーは何も言わずに室内へ足を踏み入れる。テレサもまったく物怖(もの お)じしない様子でついていくのでエミリアもその背中を追う。
 どうやら部屋の奥にはもう一つ扉があるらしい。表面が白く塗られていたために気づかなかった。警備員の背後には先ほど同様の装置も設置されていた。そちらへ歩み寄るとパーカーは再び装置に右手を押し当てる。扉はまたしても蒸気を噴き上げながらゆっくりと開いていく。その先はまた五メートルほどの狭い通路になっており、今度は煌々(こうこう)と赤い光が灯されていた。目眩(め まい)がするほどの警戒色にエミリアは顔をしかめる。
「……なるほど、《賢者の石》のセキュリティってわけか。老人らしい信心深さだな」テレサが独り言を呟く。
「賢者の石?」エミリアは聞き返す。
「なんだ、知らないのか。錬金術の悲願の一つである《第三神秘・賢者の石》は、最初に黒い石が、次いで白い石が、最後に赤い石ができて完成と言われているのだ。工房へ向かうセキュリティはその工程を表している」
 テレサは淡々と説明する。やはり一応は錬金術師なのだな、と感心したところでパーカーが口を開いた。
「……この先がフェルディナント博士の工房となります。私はここで失礼いたしますが、面会が終わる頃に案内の者を待機させておきますのでご安心ください」
「パーカーさんは一緒ではないのですか?」エミリアは尋ねる。
「……ええ。王国の錬金術師とその同行者以外の何者も、工房に入ってはならないと厳命されていますので」
 パーカーは気弱げに答える。おそらくこの程度のわがままはよくあるのだろう。
「わかりました。ここまでありがとうございました」
 礼節と常識をどこかに捨ててきた隣の錬金術師に代わり、エミリアは礼を述べる。パーカーは疲れた微笑を浮かべてから白い部屋のほうへ戻っていった。扉が閉まってから、赤い通路を進むと赤い扉に突き当たった。重厚な金属製の扉で、これまでで一番頑丈そうに見える。これを物理的に破壊するのは、軍の最新兵器を使っても手間が掛かるのではないか。そしてそれほどまでに価値のある存在が──この中にいる。
(二人目の錬金術師……もし彼だったなら……上手く対応できるだろうか……)
 不安が募(つの)る。何とか逸る鼓動を鎮めようと試みるエミリアの隣で、傍若無人の錬金術師は微塵も緊張を感じさせない普段どおりの様子で不満そうに声を上げる。
「何だよ使えないなあの眼鏡……せめてどうやって扉を開けるのかくらい説明してから帰ってくれよ……。このパネルか? おーい! 早く開けてくれよー!」
 無遠慮にパネルをバンバンと叩く。壊しやしないかとエミリアが自分の緊張そっちのけで心配していると、天井から声が漏れ聞こえた。
『──すぐに開く。待っていたまえ』
 それは老熟した男性のものだった。おそらくは──フェルディナント三世本人。
 緊張感がいやが上にも高まる中、《赤の扉》が蒸気を噴き出しながら開いていく──。

       4

 扉の先、まず目を引いたのは、部屋の奥のドームだった。
 煉瓦造りで高さは二メートルほど。ちょうど目線の高さには覗き窓のようなものが設(しつら)えられ、中では目映(まばゆ)いばかりの火が赫奕(かくえき)と燃えていた。ドームの上部からは直径十センチほどの管が天井へ向かって伸びている。排気用のダクトだろう。おそらくテレサのラボにもあった金属融解用の反射炉なのだろうが、これほどまでに大きなものはエミリアも初めて見た。この規模のものなら一五○○度くらいまでいけそうだ。鉄も簡単に融かせる。
 そんな巨大反射炉の前に、二名の人間が立っていた。長身の男性と小柄な女性だ。
「ようこそ、我が工房へ。遙々の来訪、心より歓迎しよう。王国の錬金術師よ」
 長身で黒髪の男性が、どこか芝居がかった大げさな仕草で腕を広げてエミリアたちを出迎えた。彼こそがメルクリウス・カンパニィ顧問錬金術師のフェルディナント三世なのだろう。状況的に考えても、それ以外にはありえない。
 だがそれでも──エミリアは目を疑った。
 齢六十を超えているはずの老錬金術師は、どう見ても二十代後半くらいにしか見えなかった。髪は黒々としており、顔には皺(しわ)一つない。切れ長の双眸は鋭く理知的な光を宿し、しかし、そのわずかにしゃがれた声だけは年相応に老熟したものだった。
 不可思議なミスマッチ。脳が目の前の光景を上手く処理できない。
 そしてもう一人、男性の傍(かたわ)らには、小柄な女性が無表情で控えていた。エミリアよりも頭一つ分ほど背の低い女性だった。黒を基調とした古めかしい女性用給仕服、いわゆるメイド服に身を包み、柔らかそうな黒髪のショートカットの上にはホワイトブリムが飾られている。人形じみて整った顔立ちはとても美しいのだが、無表情で立ち尽くしている姿は不気味にも見えてしまう。
「……さすがに若作りが過ぎるのではないか、メルクリウスの錬金術師」テレサは美貌を歪めてため息を吐く。「人を謀って反応を楽しむというのは些か品がない趣味に思うが」
「なにぶん、この穴蔵に籠(こ)もって久しいものでね。来客が恋しくて仕方がないのだ。許してほしい」あくまでも余裕の表情を崩さず、男性は口の端を吊り上げる。
「……すみません。一応確認させていただきたいのですが」エミリアは声の震えを抑えられないまま尋ねる。「あなたが……メルクリウス・カンパニィ顧問錬金術師のフェルディナント博士なのですか……?」
「いかにも」壮健の美丈夫──フェルディナント三世は大仰に頷く。「我こそがフェルディナント三世である」
 そうは言っても、目の前の男は明らかに若い。とても半世紀以上を生きて老成した男性とは思えない。
 フェルディナント三世は緩やかに歩み寄り、エミリアの前に立つと彼の頭をまるで子供にするように優しく撫でる。両手には白い布地の手袋をしており、何やら複雑な紋様が刻まれていた。
「どうやら凡百の輩(ともがら)が紛れ込んでいるようだ」エミリアの思考を読んだかのように、フェルディナント三世は朗々と語る。「王国の錬金術師はすぐさま思い至ったようだが……まあ、気に病むことはない。非才の想像力とは羽を毟(むし)られた鳥に等しい。飛ぶことを強いられたところで、みすぼらしい翼を不器用にはためかせるだけ。醜悪の極みであるからして、然らば初めから無駄に足掻くこともなく大人しく脳を休めていれば良いのだ」
 ものすごく迂遠(うえん)に馬鹿にされていることはわかるが、事実そのとおりなのでエミリアは黙っている。
「我は《第四神秘・魂の解明》に成功した。そして、老いの正体が《魂》の劣化から来るものであることも理解した。《魂》と《肉体》は表裏一体。ゆえに《魂》を修復すれば《肉体》もまた修復される。我は自身の身体を用いてその事実を証明してみせた。──今から一年ほどまえの話だ」
「ありえない……」無意識にエミリアは強い言葉で否定する。「それでは擬似的な不老不死を獲得したことになる」
「非才の身にしては理解が早いな」愉快そうにメルクリウスの錬金術師は笑い、エミリアに背を向けて離れる。「だが事実だ。我は神域に手を伸ばしたのだ」
「……失礼ながらそんな詭弁(きべん)信じられません」声が震えないよう意識して、エミリアはフェルディナント三世の背中に告げる。「それよりも、あなたがフェルディナント博士ではない別人である、と考えるほうが幾分常識的でしょう」
 黙って様子を窺っていたテレサがくつくつと笑みを漏らす。
「これは凡才に一本取られたな、メルクリウスの錬金術師。その詭弁を押し通すには、きみが本物の錬金術師であることを証明するしかあるまい?」
「──閣下。お戯(たわむ)れが過ぎます」
 突然、それまで黙って控えていた傍らの女性が口を開いた。不気味なほど感情の伴わない平坦な声色だった。整った顔立ちといい、その無表情といい、本当に人形のようだ。
「お客様の貴重なお時間を無駄にするべきではありません。早々に必要な手順を踏んだ上で、本題に入るべきかと愚考いたします」
「……それもそうだ。許せ、アルラウネ。なにぶん娯楽に飢えた身なのだ」
 男はあっさりと女性の言葉に同意を示すと、再びエミリアたちに向き直る。
「さて、諸君。我が真のフェルディナント三世ではないと、そう疑っているようだな。その疑問はもっともだ。ゆえに、その愚直な疑問に解を示そう」
 メイド服の女性が音もなく歩き出し、部屋の隅に置いてあった高さ五十センチほどの銅像を軽々と持ち上げて、フェルディナント三世の前まで運んできた。細身で小柄なのにずいぶんと力持ちだ。おそらく二十キロはあるだろう。
 よく見ると銅像のモチーフは、《神の子》ヘルメス・トリスメギストスのようだった。錬金術師の研究室ならばあってもおかしくないものではあるが、これからいったい何をするつもりなのか。
 様子を窺うエミリアたちの前で、フェルディナント三世はおもむろに、虚空にかざした両手を小刻みに動かし始めた。空中に何かを描き出そうとするような動きだ。
「馬鹿な……!」
 不意にテレサが声を上げる。彼女の右眼はいつの間にか緋色に染まっていた。おそらく《エーテル》の流れを目で追っているのだろう。それはつまり、現在何らかの《エーテル》干渉が行われていることを意味する。
 両手の動きを止めたフェルディナント三世は、最後に右手を鳴らす動作をする。手袋をしているので当然、何も音は鳴らない。
 しかし、現実ではそれ以上の変化が起こる。
 右手の先の銅像。それが足下から目映い光を放ちながら、少しずつ黄金色に変わり始めたのだ。《マグヌス・オプス放射光》と呼ばれる錬金術特有の発光現象だ。
 ものの数秒もかからず銅像は頭のてっぺんまで黄金色の輝きを放つようになった。
「……黄金錬成」
 ぽつりと、テレサは放心したように呟いた。自らも錬金術師であり、《エーテル》を視認できるテレサが認めたということは、やはりこれはそうなのだろう。
 錬金術師にのみ可能な、卑金属を貴金属に変える神の御業──《第六神秘・元素変換》。
 変成術師では──人の身では決して為し得ない神の叡智。
 つまりどうあっても認めざるを得ないということだ。
 目の前の男──フェルディナント三世が本物の錬金術師であるということを。
 術式を終えてから彼は、おもむろに左手の手袋を外す。手の甲には錬金術師の証である『*(アスタリスク)』のような形をした《神印(ディンギルいん)》が刻まれていた。
「──ご理解いただけただろうか? 我が成し遂げたもの、その真の意味を」
 盛年の美丈夫は、まるで悪戯に成功した子供のように微笑んだ。

       5

 エミリアは室内を改めて見渡す。
 テレサのラボが異常に散らかっていたこともあり、錬金術師の研究室というものは乱雑なものなのだと先入観を持ってしまっていたが、室内は意外なほど片付いていた。
 大小様々なガラス製の実験器具と思しき物体は、複数ある実験台の上に整然と並べられているし、たくさんの本は几帳面(きちょうめん)に本棚へ収められている。さすがに物は多いが、雑然とした印象は皆無で、床に物が溢れて足の踏み場がないということもない。窓のない室内も照明に照らされて必要十分に明るい。壁際にはベッドも置いてあり、すでにメイキングは済んでいた。
 メイド服の女性は、また黄金像を軽々と持ち上げて、ベッドの反対側へ運ぶ。そこはちょっとしたワークスペースになっていて、大型の工作機械類が並んでいた。隅には布を掛けられた高さ一メートルほどの縦長の何かが覗いている。
「百歩譲って、きみが《第四神秘・魂の解明》の部分再現に成功したことは認めよう」
 王国の錬金術師テレサ・パラケルススは、フェルディナント三世を睨みながら腕を組む。
「だが、きみは先ほど《魂》の修復をすることで《肉体》を修復し、若返ったと主張した。正直信じられないが、しかし仮にそれが事実だとしても、現存する《魂》を加工しているにすぎないのではないか?」
 テレサの鋭い指摘に、エミリアは危うく納得しかけていたことを自戒する。
 彼が錬金術師であること、そして錬金術を使って若返ったことと、《第四神秘》を完全再現したことは等価ではない。テレサの言うように《魂》の修復とやらは、《第四神秘・魂の解明》の三つある段階の内の第二ステージ《魂の操作》の範疇(はん ちゆう)と考えることができる。つまり、もしも本当に《第四神秘》を完全再現したというのであれば、その証拠として第三ステージである《魂の錬成》そのものを示してもらわなければならない。
「ふむ。王国の錬金術師──パラケルススと言ったか。貴君の言うことはもっともだ」フェルディナント三世は手袋を填(は)めながらもあくまで余裕の表情を崩さない。「我も長年の研究を、天才だの奇跡だのと凡百のつまらぬ一言で片付けられるのは面白くない。我に比肩しうる才ある者の最上の賞賛こそが、我が栄誉に相応(ふさわ)しい」
「意外と俗物なのだな。天才が聞いて呆れる」テレサは鼻で笑う。
「若い頃ほど孤独の価値を実感できるが、年を取ると次第に孤独に飽きてくるのだよ、パラケルスス」フェルディナント三世は過去を懐かしむように瞳に愁(うれ)いを浮かべる。
 その何気ない仕草に、エミリアは昔見た演劇に登場した憐れな老人を想起する。老いさらばえ、不治の病に冒された孤独な老人……。確かあのときの老人が、同じような瞳をしていた気がする。そこでようやくエミリアは、この若々しい美丈夫がその実、齢六十を超える老人なのだということを理解する。信じがたいが……信じないわけにもいかない。
「だが──今、貴君の望みに応えることはできない」意外にもフェルディナント三世はテレサの指摘を突っぱねた。「勿体をつけているわけではないが……《第四神秘》の完全再現には少々準備が必要でな。明日の公開式、衆目の前でそれを実行する準備はとうに済んでいるが、今この場では無理なのだ。申し訳ないが、明日まで我慢したまえ」
「……ペテン師特有の逃げ口上だな。この調子では、明日の本番も期待できそうにない」
「安い挑発だ。勢いはあるが、若さだけで深みがない。その程度では我をやり込められないぞ?」
 攻められているはずのフェルディナント三世は鷹揚(おうよう)な態度だが、反対に攻めているはずのテレサにはいつもの余裕が見られない。錬金術師という同じ天才同士であったとしても、倍以上も経験を重ねているフェルディナント三世相手では、さすがのテレサも分が悪そうに見える。
 しばし無言のまま視線を交差させる二人。気を揉(も)みながらエミリアは様子を窺う。
「──閣下。何度同じことを言わせるのですか。お戯れが過ぎますと」
 突然、アルラウネと呼ばれた女性が沈黙を破った。
「今この場で《魂の解明》の証明をお目に掛けることができなかったとしても、閣下には《魂の解明》の成功を証明できる術(すべ)があるのですから、パラケルスス様にも早くそれをご提示差し上げるべきです。これ以上の時間の浪費はご迷惑になります」
 淡々と告げられ、フェルディナント三世は大げさに肩をすくめる。
「……手厳しいな。だが真理である。非礼を詫びよう、王国の錬金術師よ。我は貴君を蔑(ないがし)ろにするために呼びつけたわけではないのだ。誰よりもまず我以外の錬金術師に見てもらいたいものがある」
 フェルディナント三世は、控えていたアルラウネを呼びつけて自身の前へと立たせる。何が始まるのか想像もできないエミリアはただただ成り行きを見守る。
 フェルディナント三世は、後ろからそっとアルラウネの肩を叩く。
 それを合図に──アルラウネは身に着けていた純白のエプロンドレスを脱ぎ始めた。
 驚きのあまりエミリアは固まる。
「ま、待て、何をしているお嬢さん!」
 テレサも慌てて止めようとするがアルラウネは取り合わず、脱いだエプロンドレスをフェルディナント三世に手渡した。漆黒のロングワンピース姿になった彼女は、続いて襟の後ろのホックを外して、流れるような動作で背中のファスナを引き下ろした。
 するりと、脱皮をするように纏っていたワンピースが重力に従って床に落ち──エミリアたちの目の前に、彼女の肢体が晒された。
 目を逸らそうとした次の瞬間、エミリアは裸体のアルラウネから目が離せなくなった。
「馬鹿な……まさか……信じられない……」
 隣のテレサが放心したように何かを呟いている。
 そのとおりだ、とエミリアも思う。彼自身、自分の目に映ったものの正体を、脳が正確に認識できていないのだから。
 目の前のアルラウネは、裸体をエミリアたちの前に晒しながらも表情一つ変えずに立ち尽くしている。まるで人形のようだ、と思った女性の第一印象が──その実、ただの事実であったということを思い知らされる。
 女性の首から下──本来であれば柔肌が覗くはずのその箇所は、剥き出しの金属で覆われていた。リベットで打ち合わされた無数の金属板を矮躯(わい く)に纏い、所々に覗く小さな歯車は、今もゆっくりと動いている。そして何より、本来であれば心臓が拍動しているはずの左胸は炉のように青い光を放っていた。
 紛れもなく──その身体は、人間のものではない。
 そしてフェルディナント三世は会心の笑みを浮かべて朗々と告げた。
「──これが我が長年の研究の結晶にして最高傑作。《魂の錬成》に成功した世界で唯一のホムンクルス。その名も《アルラウネ》である」
 ホムンクルス──《エメラルド板》に記された神の叡智の一つ。人工的に生み出された人ならざる存在の名だ。
 ほとんどおとぎ話のようなものだとばかり思っていた存在が突然目の前に現れて、エミリアは現実を受け入れることができない。
 テレサは一糸まとわぬアルラウネに歩み寄り、そっと両手でその小作りの顔に触れる。
「……瞳の奥に絞りが見える。これは精巧な光学センサか。肌も近くで見なければわからないほど滑らかだが……質感が人間のそれではないな。髪が熱を持っている……そうか、髪の表面積を利用して一部排熱しているのか。胸の《エーテライト》から考えると蒸気が動力だとは思うが……。よく見ると身体中至るところに排気口が隠されているな。定期的に全身から圧力の高まりすぎた蒸気と熱を逃がしているわけか……」
 ぺたぺたと無遠慮に女性の身体を触りながら、テレサは独り言を呟く。それから十分に満足したのか、テレサは床に落ちた彼女のワンピースを着せてやる。機械の身体とはいえ、女性が服を着ていない状態をよしとしなかったのだろう。
「手荒く扱ってすまなかった、可愛らしいお嬢さん」アルラウネの手を取り、甲に口づけをしてテレサは立ち上がる。「大したものだ。感服したよ、フェルディナント三世」
「お褒めに与(あずか)り光栄だ」フェルディナント三世は尊大に頷く。
「この娘は、からくり人形の類(たぐい)ではなく、自身で思考をして行動しているのか?」
「錬成された《魂》による自我で思考し、動作している。残念ながら『器』のほうがまだ完全ではないので、人間と同じように、とまではいかないがね」
「だが、いわゆる《エメラルド板》に示された普通のホムンクルスではないな」
「我の……否、少なくとも現代の技術では、完全な人工生命体であるホムンクルスを作ることはできない。アルラウネは全身機械パーツで構成された、言うなれば錬金術と科学の融合したハイブリッド・ホムンクルスだ」
「脳は? 生体パーツではなく何で代用している?」
「水晶(クォーツ)を加工して光子の複雑な乱反射を可能とする素子を作り出した。さらにそれを一万個並列に繋げることにより、混沌(カオス)的な思考を可能としている。演算能力だけなら我の頭脳にも匹敵しよう」
「ふうん……大したものだな」
 再びそう言うと、テレサは勝手に何かを納得して黙り込んでしまった。何もわからないエミリアはほとんど置いてきぼりであったが、二人の会話が超越者同士のものであることだけは理解できたので、まるで天上の幻想を見ているかのような心持ちで錬金術師たちを眺めていた。
 フェルディナント三世は、慎重な手つきでエプロンドレスをアルラウネに着せる。
「貴君を呼びつけた理由が……このアルラウネだ。我はまず、凡百の有象無象よりも、他の錬金術師にこのアルラウネを見てもらいたかった。我が成し遂げた奇跡の意味を十全に理解できるのは、この国では貴君だけだ」
「……まあ、そうだろうな」テレサは苦笑する。「正直に言って、最初こんな田舎くんだりまで私を呼びつけた馬鹿者をどやしつけてやるつもりだったが……彼女を見てそんな考えは吹き飛んだ。来て良かったとさえ思える。礼を言おう」
 エミリアは、テレサがここまで正直に自分の気持ちを表明しているところを見るのが初めてだったので大層驚いた。
「礼を言うのはこちらのほうだ、王国の錬金術師よ」フェルディナント三世は笑う。「ここまで来てくれて、そして我の偉業を知ってくれて感謝する。やはりどれだけのことを成し遂げたとしても、誰にも理解してもらえないというのは寂しいからな」
「理解してもらえないと寂しい、という感情は私にはわかりかねるが……力になれたのであれば何よりだ」
 テレサは嫌味なく柔らかく微笑むと、エミリアに向き直った。
「何をいつまでも惚けておるのだ。ほら、用は済んだからさっさと帰るぞ」
「え、あ……もういいんですか……?」展開の早さについて行けずエミリアは確認を取る。
「いいも何も、もうやることもないだろうが」テレサは呆れたように言う。「アルラウネちゃんを鑑賞することが私に課せられた仕事だったのだ。そしてそれは今終わった。ならば、さっさと用意してもらった部屋に戻って休むしかなかろう。私は長旅で疲れておるのだ。さあ、行くぞ」
 半ば強引にエミリアの手を取ってテレサは歩き出す。
 足をもつれさせて歩きながら、後ろ髪を引かれるようにエミリアは振り返った。
 無表情にエミリアたちを見送る女性の瞳が、何故かとても印象に残った。

第3章 賢者の石の密室

       1

 広いホールでは、五十名ほどの男女が穏やかに談笑をしていた。
 皆、佇まいに品があり、身なりも派手すぎない程度に華美であることから、おそらく上流階級の集まりであることが窺える。
 ノンアルコールの葡萄(ぶどう)ジュースが満たされたグラスを片手に、エミリアとテレサは所在なくホールの壁際に立ち尽くしている。会話もなく、空気は重い。きっとテレサが不機嫌でずっとしかめ面をしているからだろう。先ほどから何人も参加者が挨拶をしに彼らの前へやって来たが、テレサの発する不穏なオーラにより、何も言わないままそそくさと立ち去って行った。パーティ全体の雰囲気を悪くする最悪のマナーだが、当の本人がそんなことを気にするはずもないので、お目付役かつ内偵が仕事のエミリアはただ黙って様子を窺っている。
 テレサがひたすら不機嫌な理由はシンプルで、要するに酒が飲めないからだ。他のみんなが酒を片手に楽しそうに談笑している中、自分だけが大好きな酒を飲めないという状況がひどいストレスになるのだろう。せめて彼女の不機嫌を和らげようと、エミリアもノンアルコールにしているが、緩和効果は皆無で機嫌は悪化するばかりだった。そもそもそのエミリアがテレサにアルコールを禁じているわけだから、それも致し方ないと言える。
 一度ジュースを飲んで気を取り直してから、エミリアはホールの全体を眺めてみる。
 当然と言えば当然だが、この前夜祭の主役はフェルディナント三世であった。彼は、若々しくハンサムな外見と、人間離れした頭脳から繰り出される巧みな会話、そしてときおり披露される簡単な錬金術によって、老若男女問わず参加者全員を魅了しているようだった。どうやらテレサとは異なり、ちゃんとコミュニケーション用の人格を用意しているらしい。人生経験の差なのか、やはりフェルディナント三世のほうが一枚上手(うわて)のようだった。
 反対に、常にフェルディナント三世の後方に控えているアルラウネは、無表情のままだった。そのせいで人々から不気味がられている様子が見て取れて、エミリアは少し気の毒に思う。どうやらアルラウネがホムンクルスであることは、今はまだ伏せられているようだ。メイド服で全身を覆い、唯一露出している顔と手は限りなく人間のものに近いので、よほど注意して見なければ彼女が人間ではないと見抜くことはできない。
 ホールに点々と設置されたテーブルの上には、世界各地の料理が立食形式で並んでいる。いくつか摘まんでみたがどれもとても美味だった。普段、物資に乏しい山奥で慎ましく暮らしているエミリアは、それだけでもう十分にこの前夜祭を楽しめている。
 せっかくなのでもっと他のものも食べてみようか、と考え始めたところで二人の男性が近づいてきた。一人は社長のダスティン・デイヴィス、もう一人は初めて見る顔だった。
「大佐に少尉、探しましたよ。まさかそんなところにおられるとは」
「──デイヴィス社長」エミリアは慌てて壁から背を離し姿勢を改める。「失礼しました。こういった社交の場には慣れていないもので……。何かご用でしたか?」
「いえ、重要な用向きというわけではないのですが……」デイヴィスは、傍らの筋肉質な男性を手で示した。「こちらは、ウォーレス警備部長です。フェルディナント博士の工房の警備責任者でもあります」
「アイザック・ウォーレスです! お目にかかれて光栄です、パラケルスス大佐、シュヴァルツデルフィーネ少尉!」
 浅黒い肌の筋肉質な男性は、見た目のとおり豪快な動作で右手を差し出す。しかし、テレサはそれを一瞥(いちべつ)しただけで応じようとしない。慌ててエミリアが、代わりに握手に応じる。
「エミリア・シュヴァルツデルフィーネ少尉です。本日はお世話になります」
「はあ……その、よろしくお願いします!」
 困惑を示しながらも、ウォーレスは対象をエミリアに変えて手を握った。巨体に相応しい力強い握手だった。五十代くらいに見えるが、もう少し若いのかもしれない。
「素敵な催しですね。お料理も美味しいですし、大佐共々とても楽しんでいます」
 不機嫌な空気で周囲を威嚇するテレサを無視して、エミリアは柔和に微笑んで二人に感謝を述べる。ホッとした様子でデイヴィスも微笑んだ。
「お褒めに与り光栄です。どうぞお気兼ねなくお二人ともお寛(くつろ)ぎください」
 表面的な会話で、二人を適当にやり過ごす。やがて男たちはその場を立ち去って行った。
「……あの、せめてもう少し国の代表として恥ずかしくない態度を取れませんか?」
 さすがに目に余るので、エミリアは不満を述べる。しかし、当のテレサは子供のように口を曲げて反論してくる。
「私からすればきみのような八方美人の態度こそ恥ずかしく見えるがね。まあ、凡夫同士仲良くやるがいい。私は一人でも生きていける」
「そういう問題ではなくてですね……」
 先日の一件以来、心の奥底に無理矢理封じ込めていた、この錬金術師への本能的な嫌悪感が再び湧き上がってくる。自分がただの内偵であると割り切っていても、あまりの身勝手さに苛ついてしまう。
 エミリアも他者とのコミュニケーションは得意ではないが、社会の一員である以上は、ある程度我慢をしてそれを行うべきだと考えている。そういうささやかな個々人の思いやりのようなものが、集団である社会を円滑に動かすための潤滑油になるのだ。
 だからこそ、徹底した個人主義で他者を路傍の石のように扱うこの傲慢な錬金術師が許せなかった。
 改めてエミリアは再認識する。やはりこの錬金術師のことがどうしようもなく嫌いだ、と。
 このままでは口論になりかねないので、彼は口を閉ざす。
 そのとき、唐突に会場が暗くなった。そしてホール前方にある高さ一メートルほどの壇上がライトアップされ、その中央には、彼(か)のメルクリウスの錬金術師──フェルディナント三世が一人で立っていた。
 何かが始まるらしい。ホールから拍手が起こる。近くのテーブルにグラスを置いてエミリアも拍手を送る。
 壇上の錬金術師は、しわがれた、しかしとてもよく通る声で語り始める。
「──錬金術の歴史とは人の歴史そのものである」
 どうやら公開式へ向けての意気込みを語るようだ。傍らのテレサが、軽蔑するように鼻を鳴らした。
「……よくもまあ、恥ずかしげもなく愚鈍な大衆におもねられるものだ。いくら天才といえども、年を取ると人は愚かになるものなのだな」
 唾棄(だき)するようにそう言うと、テレサはエミリアに背中を向けて歩き出す。
「ちょっと先生、どこへ行くんですか」
「帰って寝る。こんな茶番に付き合ってられるか。私の脳細胞は錬金術的思索に忙しいのだ」
 一方的にそう告げると、テレサは振り返ることもなくホールから姿を消してしまった。どこまでも身勝手な人だ、と腹を立てるが、逆にこれ以上一緒にいたら本当に口論になりかねない状況ではあったので、もしかしたらこれで良かったのかもしれない。
 テレサがいなくなって、気が楽になったのは確かだ。フェルディナント三世の演説は続いているが、錬金術や変成術の歴史について語っているだけで、多少知識のあるエミリアが耳を傾けるほどのものでもない。せっかくなのでこの空いた時間にもっと料理を食べ歩こうかと思い始めたところで、今度は意外な人物が彼の前に現れた。
「──エミリア様。ごきげんよう」
 それは科学と錬金術の融合したホムンクルス、アルラウネであった。彼女は上品にカーテシー──ロングスカートを摘まみ上げ、礼をする。近くで見ても、やはり人間にしか見えない。
 アルラウネは、その人形のように整った顔を向けてくる。人間ではない、とわかっていても女性慣れしていないエミリアは少し緊張してしまう。先ほどまでフェルディナント三世に付き従っていたようだが、その主は今演説の真っ最中なので、もしかしたら暇をもてあましているのかもしれない。
「お食事があまり進んでおられないようですが、お口に合いませんでしたか」
「あ、いえ……。ちょっとタイミングを逸していただけです。これから思う存分いただきますよ。僕のような庶民からすればすべてご馳走ですから」
「そうでしたか、それは安心しました」アルラウネはまるで安心した様子を見せずに淡々と話す。「せっかくですので、お話のお相手を務めさせていただきます。こう見えて私はお喋りなほうです」
「……フェルディナント博士の演説を聴かなくてよいのですか?」
「わざわざ耳を傾けるほどのものではないでしょう」錬金術師の従者は、きっぱりと言い捨てる。「些か派手にやりすぎです。こんな茶番、見ているこちらが恥ずかしくなります」
「感情があるのですか?」意外だったのでエミリアは少し驚く。
「当然でしょう」エミリアを見上げ、アルラウネは氷の視線を向けてくる。「感情とは《魂》に起因する思考の揺らぎです。一般的な、愛情と呼ばれる感情も理解できます。もっとも、私の場合は男女間のそれではなく、生みの親である閣下への愛情──いわゆる家族愛に近いものですが。表情筋が実装されていないので表には出ませんが、どちらかというと私は感情豊かなほうです」
「……それは失礼しました」
 一応謝るが、たとえ表情筋があったとしても、この女性は何事にも動じない鋼の精神を持っていそうな気がする。
 だが、アルラウネの言うこともわかる。確かに今はフェルディナント三世の演説も熱を持ち、呼応するように聴衆の熱気も高まってきている。それがエミリアには、無知な大衆を不必要に煽っているように見えて、少しだけ残念な気持ちになる。メルクリウス・カンパニィの広告塔としての振る舞いであることは理解できるが……。
 せっかくの機会なので、気を取り直してこのホムンクルスの女性に色々と尋ねてみる。
「その、こういうことを聞くのは失礼かもしれませんが……アルラウネさんは、人間と同じように思考し、人間と同じように感情を持つのですよね。それらはすべて《魂》から生じるのですか?」
「はい。《魂》によって脳に投影されるものがパーソナリティ、つまり思考や記憶です。そして脳に刻まれた思考や記憶は、情報として《魂》にフィードバックされます。言ってみれば、《魂》とパーソナリティは等価なのです。個人の才能なども同様です。錬金術や変成術の才能は、皆生まれつきのもので後天的に得ることができませんが、それは《魂》に規定された情報だからです」
 話を聞いていて疑問が浮かぶ。
「《第四神秘》の第二ステージである《魂の操作》で、それらの才能を加えたりすることはできないのですか?」
「できますが……あまり意味があるとも思えません」
「何故です?」
「昼間閣下がおっしゃったように、《魂》と《肉体》は表裏一体で不可分だからです。《魂》の情報は《肉体》へ、《肉体》の情報は《魂》へとそれぞれフィードバックされます。それなのに《魂》に余計な情報を付与したら《肉体》がその負荷に耐えきれず廃人になります。《魂》とはそれほど繊細なものなのです。《魂の操作》を駆使すれば、エミリア様とテレサ様の《魂》を入れ替えることもできるでしょう。その場合は、エミリア様の《肉体》でテレサ様の《魂》が、錬金術を行使することも可能です。しかし、当然《肉体》はその負荷に耐えきれず、即座に廃人となるでしょう」
「では逆に、大佐の《肉体》に入った僕の《魂》はどうなるのです?」
「それもまた拒絶反応が起きて廃人になると思います。なので、テレサ様の悩ましげな《肉体》に入り込んで破廉恥(はれんち)なことをしようという邪(よこしま)な考えは、妄想だけに留めておいたほうがよろしいかと」
 そんな妄想は断じてしていない。
「とにかく」アルラウネは話をまとめる。「《魂》の入れ替えなどは、机上の空論で行う意味のないものです。あるいはまっさらで何の情報も存在しない《肉体》が存在すれば話は別ですけれども、そんな都合の良いものはありませんし。《魂の操作》でできることは、ただ操作そのものであり、せいぜい《魂》の綻(ほころ)びをわずかに修復して《肉体》を若返らせたり、あるいは《魂》そのものを消し去ってしまうことくらいです。元より《第四神秘》は、《魂の解明》がその本質であり、結果を求めるようなものではありませんので」
 ちょうどそこで、フェルディナント三世の演説が終了したようで、割れんばかりの拍手が巻き起こった。アルラウネは、壇上を気にするように目を向けた。そろそろお喋りの時間も終わりだろう。最後にもう一つだけ、どうしても気になったことを尋ねてみる。
「あの、先ほどの面会でフェルディナント博士は、大佐を呼びつけた理由として、理解してもらいたかったから、というようなことをおっしゃっていましたけど……本当にそうなのでしょうか?」
「──質問の意図がわかりかねますが」
「何というか、天才らしくない気がするんです。天才なら他人の理解や評価なんて求めないと言いますか……。実際、大佐は他人のことなど何とも思っていません。天才に相応しい傲慢な人です。だからフェルディナント博士の言葉に違和感を抱いてしまって」
 アルラウネはじっとエミリアを見つめる。それは意外な質問を繰り出されて驚いているようにも見えた。しかしすぐに一度目を閉じてから、改めてエミリアを見やり、告げる。
「──年を取ると人恋しくなるそうです。特に閣下は天才で……理解者がいませんでしたから。ですから、パラケルスス大佐という無二の理解者を得られて嬉しいのです。あのとき工房で閣下が語った言葉……あれはまぎれもなく閣下の、フェルディナント三世の本心です」

       2

 軍服のまま用意してもらったベッドに寝転んで、ぼんやりと白い天井を眺める。
 火照(ほて)った頭が少しずつ冷えていく。この一日で蓄積した疲労と、思う存分ご馳走を詰め込んだ満腹感から、思考はぼやけているが、脳の奥のほうは妙に冴えていて不思議な気分だった。
 さすがに今日は、色々なことがありすぎた。たくさん乗り物に乗ったし、たくさんの人に会った。春から軍人になったエミリアだが、任務で軍人以外の、それも社会的地位のある年上の人々と会う機会などなかったので少々気疲れしてしまった。
 そして──二人目の錬金術師、フェルディナント三世との対面。圧倒されたと言っていい。その容姿に、その才能に、何よりもその精神に、エミリアは感動すら覚えた。
 これで彼の任務は半分ほど終了したことになる。あとは明日一日、テレサの面倒を見れば、ヘンリィ・ヴァーヴィル局長の下で働ける。そうすればまたいつか今回のような錬金術師関連の任務にも携(たずさ)わることができるはずだ。
(そうしたらいずれ、あの男に──)
 逸れかけた思考を慌ててエミリアは打ち消す。今は余計なことを考えるときではない。
 明日も早いのでもう寝てしまおうか、とも思うが、テレサの様子も気掛かりといえば気掛かりだった。一応自室へ戻るまえ、隣のテレサの部屋をノックしてみたが何も反応はなかった。午後十時を過ぎていたこともあり、眠っていたら悪いかな、とそれ以上は干渉しないでいたが、あまり顔を見たくなかったというのが正直なところだった。
 そんなことを考えつつ、うつらうつらとし始めたあたりで、ドアがノックされたような気がした。半分寝た頭で時刻を確認すると、午前零時を少し過ぎたところだった。
 再びのノック。今度は先ほどより少し強めにドアが叩かれた。エミリアは重たい瞼(まぶた)を擦りながら身体を起こしてドアに向かう。
 鍵を開けると廊下には、開発部長のパーカーと警備部長のウォーレスの二人が立っていた。陰気なパーカーと体育会系のウォーレスという組み合わせは意外だった。二人とも何やら深刻な顔をしている。
「何かありましたか?」エミリアは寝起きの掠れ声で尋ねる。
「……お休みのところ本当に申し訳ありません、シュヴァルツデルフィーネ少尉」パーカーは籠もった声でそう言って頭を下げた。「実は折り入って少尉にご相談がございまして……」
「相談?」
「その……フェルディナント博士の工房で何やらトラブルが発生しているようでして」
 心底申し訳なさそうに眼鏡の奥の瞳をさまよわせながら話すパーカーに代わり、ウォーレスがエミリアに詰め寄る。
「自分が説明します。ご存じかとは思いますが、博士の工房は厳重なセキュリティで保護されています。これは外敵から博士を守るための措置なのですが、裏を返せば工房内で何かが起こった場合に博士が簡単に逃げられないということでもあります」
「それは……そうでしょうね」展開が読めないエミリアは曖昧に同意する。
「そこで有事の際、外部に知らせるための緊急警報が設置されていて、今はその警報が作動しているのです。しかも状況を確認するために工房内の博士に通信で連絡を取っているのですが、応答がありません」
「……それはまずいのでは?」事態の深刻さに気づきエミリアは急速に覚醒していく。「中で事故か何かが起きているってことですよね? すぐに助けに行かないと」
「そうなのですが、事はそう簡単ではないのです」
「どういう意味です?」
 勢いよく喋るウォーレスに代わり、パーカーが答える。
「……緊急警報が作動したのはこの三十年で初めてのことでして」パーカーは、自信なさげに答える。「博士が超人で、天才であることは我々も重々承知しています。そんな博士にも手に負えないトラブル……最悪の場合、錬金術の暴走ということも考えられます」
 問題の大きさに思い至りエミリアは黙り込む。錬金術とは神の叡智を、人智をもって再現する技術である。人の身にはあまりにも強大すぎる力であり、使い方を誤ると暴走してしまうこともあるという。最悪の場合、この惑星そのものが崩壊しかねないとも。
「そこで少尉にご相談が……」ようやく本題に入ったらしいパーカーは、しかしとても言いにくそうに眉を寄せる。「これから我々は工房へ向かいますが、その際、是非ともパラケルスス大佐にもご同行いただきたいのです」
「──ああ、なるほど」そこでようやくエミリアは彼らの真意を理解する。
 万が一工房内で錬金術の暴走が起こっていた場合、それを止められるのは現状、錬金術師であるテレサだけだ。しかし強引に呼びつけた手前、メルクリウス側の人間からテレサに協力は仰ぎにくいし、それ以前に彼女はあまりにも取っつきにくい。そこでエミリアから何とかしてテレサを説得してもらいたいのだろう。少々迂遠ではあるが、この状況では是非もない。
「わかりました、すぐに行きましょう」
 寝間着には着替えていなかったので、ハンガに掛けてあった上着を引っ掴み、エミリアは廊下に飛び出す。テレサの部屋はすぐ隣だ。ドアに飛びつき強めにノックをする。
「先生! エミリアです! 緊急事態です、起きてください!」
 パーカーたちが気を揉んだように状況を窺う中、エミリアは気にせずノックを続ける。
 やがて──。
「ああもう、うるさいなあ!」突然ドアが開き、テレサは不機嫌そうな顔を覗かせる。寝間着を着ているかと思いきや、彼女もまだ軍服を着ていた。「こんな夜更けにレディの部屋に押し掛けて何のつもりだ! 夜這いなら焼いて捨てるぞ!」
 明らかに怒っているが今はそれどころではない。早口でエミリアは状況を説明する。聡明なテレサはすぐに事態の深刻さを理解したようだったが、面倒くさそうに顔をしかめる。
「──発動済みの他人の術式に介入なんてできないから、私が行ったところで役には立たんぞ。第一、勝手に大騒ぎしてるがちょっとしたボヤ程度なんじゃないのか? ならこんなところで無駄な時間を費やしてないでさっさと助けに行ってやれよ」
「何でもいいから一緒に行きましょう。仮に暴走じゃなかったとしても、錬金術師である先生がいれば百人力です。それにもしかしたらアルラウネさんの身に何かが起こったのかもしれません。先生はあの美人の危機を静観できるのですか?」
「──ああもう! 相変わらず小うるさいやつだな、きみは!」
 テレサは廊下を駆け出していく。慌ててエミリアたちも後を追う。少しだけこの厄介な錬金術師の扱い方がわかってきた気がする。
 昇降機に乗り込んだ一同は、地下一階に到着する。フロアは昼間来たときと変わりなく静寂に満ちていた。ただ空気だけが妙にピリついている。
 薄暗く閉塞感の強い通路を駆け、《黒の扉》にたどり着く。ウォーレスが扉横の装置に手のひらを押し当てると、高圧の蒸気を噴出しながら扉が開いた。
 次の瞬間、耳をつんざく不愉快な警告音が鳴り響き、エミリアたちは思わず耳を塞(ふさ)ぐ。
 視界に飛び込んでくるのは狂ったような赤と白の明滅。警報音に連動して照明が赤く明滅しているらしい。
「うるさくてかなわん! 止めてくれ!」テレサが顔をしかめながら両耳を塞いで叫ぶ。
「緊急警報です!」テレサに聞こえるよう大声で警備部長が答える。「音も光も、一度工房の扉を開けて中を確認するまでは止まりません!」
 異常な出迎えに、堪(たま)らずエミリアたちは《白の扉》の前まで走る。扉を守る警備員二人も苦痛に顔を歪めながら耳を塞いで立っていた。昼間の二人とは違う警備員だ。
「ここも開けてないのですか?」大声でエミリアは尋ねる。
「まだです!」ウォーレスが大声で叫ぶ。「パーカーさんからの指示で、絶対に開けるなと言われたもので!」
「何でもいいから早く開けてくれ!」テレサが悲痛な声を上げる。「こんなところにいたら頭がおかしくなる!」
 この場にいる全員が同じ意見だったろう。パーカーの指示により直ちに《白の扉》が開け放たれる。しかし、その先に続く《赤の扉》までの通路もまた同様に警報と赤い光の明滅が続いていた。パーカーが駆け出して《赤の扉》の隣に設置されたパネルに飛びつく。
「博士! パーカーです! 返事をしてください!」必死に呼びかけるが返事はない。
「昼間来たときは中から博士に開けてもらったのですが、外からは開けられないのですか?」視覚と聴覚の暴力的な刺激に頭痛を覚えながらエミリアは問う。
「……この《赤の扉》だけは特に厳重で、基本的には博士の許可がなければ開けられません」必死にパネルを操作しながらパーカーが答える。「ですので、今から緊急措置を行います」
「緊急措置?」
「……ええ、管理者権限により実行できる裏コマンドです。通常は内側からしか開けることのできない《赤の扉》を、外から無理矢理開きます。緊急措置の実行には、二名以上の幹部クラス権限が必要になります」
「幹部クラス……つまり、パーカー開発部長とウォーレス警備部長の二人ですね」一瞬で状況を察して、エミリアは確認する。
「……よし、緊急措置実行待機完了です。あとは幹部認証だけです。私は済みましたので、ウォーレス警備部長お願いします」
 ウォーレスが飛びついて右手を押し当てる。
 天井のスピーカから解錠を告げる甲高い電子音が鳴り響いたかと思ったら、固く閉ざされていた《赤の扉》が蒸気を噴き上げながら開かれていく。
 そして、エミリアは扉の先に広がっていたものを目撃する。
 室内は昼間訪れたときからあまり変わっていなかった。
 大小様々なガラス製の実験器具はテーブルの上に整頓され、無数の書物は本棚へきっちりと収められている。壁際には整えられたベッドが置かれている。奥のドーム型の炉は今も動作しているようで、覗き窓からは深紅の炎が揺らめいて見えた。
「まさか……博士……」ウォーレスが放心したように呟く。
 この部屋の主である錬金術師は、最奥の壁にもたれ掛かって立っていた。
 ──否。立たされていたというのが正しいか。
 彼はその胸に、巨大な黄金の剣を突き立てられ、そのまま壁に縫い止められていた。
 人間が戦闘に用いる一般的な両手剣の倍以上はある、とても大きな剣だった。
 錬金術師の目は虚ろに何かを見つめ、力なく下げられた両手は、ズタズタに破壊され原形さえ留めていない。そう──。

 ──フェルディナント三世は死んでいた。

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錬金術師の密室

紺野天龍『錬金術師の密室』
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(担当編集:小野寺真央

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