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小川楽喜『標本作家』第二章④ ウィラル・スティーブン 二十世紀のSF作家



小川楽喜『標本作家』(四六判・上製)
刊行日:2023年1月24日(電子版同時配信)
定価:2,530円(10%税込)
装幀:坂野公一(welle design)
ISBN:9784152102065




(第10節はこちらの記事に掲載しています。)



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 ウィラル・スティーブン。二十世紀のSF作家。
 彼は、サイエンス・フィクションという分野の創始者ではありませんし、二十世紀においてより著名な「ビッグ・スリー」と呼ばれるSF作家たちのひとりに数えられているわけでもありません。──が、SFの全史を語る上では欠かせない、偉業をなした人物だということに異論をはさむ者は少ないのではないでしょうか。
 彼の代表作〈第十八期人類へと至る道〉は、人間という種の生誕から二十億年にわたって築かれる文明社会のありようをあらわした、きわめて壮大なスケールの物語です。途中、いくども絶滅の危機に瀕しながら、そのたびに文明の力で、もしくは生物的な退行と進化をくりかえすことで人類は生き残り、多種多様な文明形態を地球上に──最終的には、移住先である海王星にも──興していく、その繁栄と衰微の終局までを描いています。
 この物語のなかには、その後、細分化されていくSFのテーマのほとんどすべてが網羅されています。最終戦争。エネルギー資源の枯渇。文明の荒廃。異星人の侵略。未知のウイルス。人工知能。ミュータント。超能力。サイボーグ。脳改造。新人類と旧人類の闘争。ロボット工学。ネットワーク社会。タイムトラベル。宇宙開発。異星への移住。超科学技術。──等々、この作品の発表時期が一九二〇年であることを考えると、驚嘆すべき先見性にあふれたものでした。後世のSF小説は、いうなればこの作品の各要素を切り分けて、それぞれを拡充・深化させていったものという見方もできます。将来的に展開されるSFのさまざまな世界観の、その見本市のような物語だったのです。
 この作品内における人類は、爛熟らんじゅくした文明がもたらす破局や自滅といった内的要因、自然災害や異星人の干渉などといった外的要因、その双方でたびたび──といっても、個々の出来事には最大で数億年の時差があります──絶滅の危機に直面して、ときにはたった数十名という数にまで人口が減少するほど追い込まれますが、そこからまた気の遠くなる時間をかけて復興し(多くの場合、衰亡から復興までの期間があまりにも長すぎるのと、衰亡の影響によって生物的に退行し、知能が猿のそれよりも低下している時期を経ているので、復興後の新人類は、旧人類のことを、その存在自体、忘れています)、過去のそれとはまた違った形の文明を築き上げる、というサイクルをくりかえします。それらの文明のなかには、サイバーパンクのような世界、超能力者やミュータントが闊歩する世界、超知能が統制するディストピアのような世界もあります。物語の後半では、膨張していく太陽から逃れるため、火星、木星、海王星へと移住先を移していく宇宙航行時代の世界観も提示され、途方もない時間と空間を乗り越えていく人間という種の可能性と限界を示しました。
 こうした人類の文明社会の変遷を語る上で、はじめの人類を第一期人類とし、その次に繁栄したものを第二期人類、さらに第三期、第四期……と区分していった果てに、肉体的にも精神的にも神のごとく成熟した〈第十八期人類〉にまで到達する歴史を追っています。それぞれの期の人類は、過去の人類と同じ過ちを犯すこともありますし、同時期に複数の人類が存在し、生存権をかけて戦争をくりひろげることもあります。第四期人類は、機械と融合したサイボーグ体です。第六期人類は、飛行能力をもっています。第九期人類は、脳髄だけの存在です。第十期人類は、肉体をとりもどし、テレパシー能力を有しています。肉体も精神も、科学技術や突然変異によって進化していき、そのときどきに発生した危機に対応するのですが、一方で愚かな所業にもおよんで、逆戻りしてしまうこともあるのです。
 それでも、少しずつ人類は洗練されていきます。その最終形である〈第十八期人類〉は、宇宙の真理を「音楽」として捉え、それを心から愛するようになりました。そして彼らもまた、逃れられない滅びの運命にしたがって衰微していくのです。これまでの人類がそうであったように──
〈第十八期人類へと至る道〉は、発表当時、SFという枠にとどまらない高い評価と支持をえました。ラダガスト・サフィールドの〈第一の音楽の物語〉とともに、二十世紀文学の最高峰ともいわれています。しかし、後年においては本作の各要素をさらに充実させた小説が次々と発表されたため、文学的には重要な位置にあるものの、その認知度は低くなってしまいました。ただ、ウィラルにとっての後輩にあたる「ビッグ・スリー」にも影響を与えたので、その精神やテーマ性は受け継がれているといっていいでしょう。
「……後輩よりも、威厳がないのだけれど」
 ソフィー・ウルストンが、〈終古の人籃〉にやってきたウィラル・スティーブンを見かけ、そのような言葉を洩らしたことがあります。「あの人は……作品のイメージと、全然ちがうのね……」
 二メートルを越える、四十代後半の、巨漢なのでした。いかつい顔で、筋肉も相応にあるのですが、だというのにソフィーの言のとおり、威厳はありません。その内面の気弱さ、穏やかさが、にじみ出ているのです。
 見た目にそぐわず、〈終古の人籃〉でもっとも小心で、謙虚な人です。他者にやさしく、そのせいでふりまわされ、しかしそれを苦とも思わない気性の持ち主でした。そのあまりの腰の低さが災いして軽んじられそうなものですが、彼の功績と才能を正しく理解している者たち──特に同分野のSF作家たち──からは慕われ、尊敬されつづけています。
「あの方は、まわりが持ちあげないと、まったく偉そうに見えないのだよ」
 ラダガストがそう論評したのも忘れられません。周囲から敬意をはらわれても決しておごらないウィラルは、〈終古の人籃〉にて自作の改稿作業をすすめています。それは自己満足ではなく、元来のやさしさからくるものでした。
〈異才混淆〉に協力する見返りとしてウィラルが求めたのは、人類の全情報の宇宙的拡散です。
 いつの日か、人間という種が、ふたたび復活するために。その布石として、人類を構成するエッセンスを、宇宙そのものに溶けこませようというのです。──それは、〈第十八期人類へと至る道〉のラストシーンでも語られた、悲劇と希望のいりまじった行為でした。もはやこれ以上は存続できぬと判断した〈第十八期人類〉は、海王星の環境を壊してまで生き延びることをよしとせず、滅びを受け入れ、そのかわりに人類のそれまでの全情報を記録した〈種子〉を、太陽系の外側へと散布したのです。いつか、どこかの星で、その〈種子〉が芽吹き、人間というものが再来するのを夢見ながら──
 この作品が人類の暗い未来を語っているにもかかわらず高い評価を受けているのは、このラストシーンに一縷いちるの希望が込められているからだという批評もあります。人類滅亡の余韻にひたりつつも、ほんのわずかに救われたような気持ちになる読後感は、たしかに稀有なものでした。ウィラル・スティーブンについて、「作品のイメージと、全然ちがう」とソフィーは述べましたが、私は、作品のイメージどおりの人だと感じています。心から平和を愛する〈第十八期人類〉のありようも、終局に〈種子〉をばらまくことで光明をみいだそうとする結末も、作者であるウィラルの、その人柄が反映されているように思えて仕方ないのです。
 しかし現実には、ウィラルが構想したような未来にはなりませんでした。
〈第十八期人類へと至る道〉で語られたような歴史はつむがれず、〈第十八期人類〉はおろか、第二期人類にさえ到達しえなかった私たちは、いま、こうして、館のなかで標本化されています。
 作中の未来予想図の、その一部は実現したともいえるでしょう。しかし、とうとう最後まで地球という惑星から旅立つことはできませんでした。異星への移住など、SF作品のなかでしか起こらなかったのです。
 ならば、せめて〈第十八期人類へと至る道〉のラストシーンだけは実現したい──そのようにウィラルは考えたのではないでしょうか。玲伎種の技術力なら可能だろう、と。人類の〈種子〉を、この宇宙に溶けこませて保存してくれるだろう、と。
 玲伎種は、ウィラルのこの高遠な願いにも応じました。ただしその条件として、〈第十八期人類へと至る道〉の改稿を求めました。
 ストーリーや基本設定は変えなくてもいいのですが、作品内の科学技術や人類の進化の描写について、その誤謬ごびゅうを減らすようにいってきたのです。そして、その内容の無謬性に応じて、宇宙へと散布する〈種子〉の量が増減する、ともいいそえました。
 ──要は、科学考証の出来次第で、ウィラルの願いがどの程度叶えられるかが変わってくる、ということでした。
 作中のサイボーグひとつを例にとっても、それがどういう原理で動作するのか、どういった素材を採用し、どういう構造をしているのか──じっさいに設計図を書きおこせるレベルでの無謬性を求められました。科学的な理論の厳密さを重視するハードSFならば本懐やもしれませんが、ウィラルの作品は、そういったものではありません。むしろ発想の奇抜さやスケールの大きさを優先するので、科学考証それ自体はおろそかになりがちです。そもそもウィラルは、そうした科学考証は(SF作家としては)不得手でした。
 時代的にも不利な側面がありました。〈第十八期人類へと至る道〉が発表されたのは一九二〇年です。その当時の科学知識ではどうしても誤謬が多くなります。特に地球規模での自然現象の変異や、太陽の変化とその影響に関しては顕著です。本作を科学的になるべく無謬であるように修正するには、とてつもない労力と、一流の科学者以上の知見が必要なことは明白でした。
 そうして、数万年におよぶ改稿作業がはじまったのです。
 不老不死であるがゆえの業といえるでしょう。ウィラルは、この難題にとりくみました。少しでも人類が復活する可能性を高めるために。宇宙へと拡散する〈種子〉を増やすために。
 科学的にどうあっても実現不能な事象や技術も多くふくんでいるので、完全に無謬にすることはできません。が、誤謬を減らしていくことはできます。玲伎種は、その無謬性に応じて、、、、、、、、、種子、、の量が増減する、、、、、、、、といいました。間違いが多いよりは、少ないほうが、ばらまく〈種子〉は多くなる──と告げているのです。
「その条件で、玲伎種が履行してくれると思いますか」
「ああ……」専門書から目をはなして、ウィラルは答えました。「思って、いる、よ」
 私はあずかり知りませんが、彼は、確信にいたる何かをえているのでしょう。コンスタンスをはじめ、複数の玲伎種と接触しているところを見たことがあります。
「不死、に、なったから……、学習する時間は、たくさん、ある。異星人の生態も、人工知能の構造も、どこまでも詳細に、誤謬をなくして、創作しなおす、ことができる。それで……、それで、〈種子〉を、……」
 そこで言葉が詰まりました。彼は、とぎれとぎれに話をする癖がありました。また、思いつめると会話の途中でも思索の旅に出てしまうこともあります。悪気はありません。相手に、自分の意思を伝えようという誠意が強すぎるため、そうなってしまうだけなのです。
 その発言どおり、ウィラルは、ひたむきに、健気けなげに、自作を改稿するための努力をつづけていました。専門知識の吸収。科学理論の研究。各種実験。既存の科学を超越するための永い思索。……それだけのことを積みかさねても、やはり彼は科学考証が苦手だったので、〈終古の人籃〉に在籍する他のSF作家の手も借りて、ことに当たっているのでした。
「皆に手伝ってもらって、いる、のは、ありがたいこと……。それに応えるため、にも、よくできた作品、に、していきたい……」
 彼は本気なのでしょう。本気で、〈第十八期人類へと至る道〉の誤謬を極限まで減らして、極限まで〈種子〉の量を増やしたいのでしょう。彼のおこないが報われるときは、くるのでしょうか。不死固定化処置は、永久に完遂できない作業へと、彼を陥れたのではないでしょうか。彼の作品のなかで滅びていった人類と、作品の外で、滅びることができずに執筆しつづけている彼とでは、いったい、どちらのほうが恵まれているのでしょう。二十世紀最高のSF作品は、もはや原型をとどめないほど改稿され、なお修正されていっています。……

 (以下、第12節に続く)

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