髙崎さんヘッダー

ジェンダーギャップ指数で読み解く『三つ編み』。110位の日本ではどう読まれるか? 解説/髙崎順子氏

(書影・リンクは、Amazonにリンクしています)
三つ編み』レティシア・コロンバニ/齋藤可津子訳/早川書房

境遇が異なる3人の女性たちを描く『三つ編み』。フランスで書かれたにもかかわらず、実は、フランス人もフランスという国も出てきません。それはなぜか? そして、他の国が選ばれたのはどうしてか? 
フランス在住のライター、髙崎順子氏による解説を公開します。

ジェンダーギャップ指数で読み解くベストセラー

髙崎順子(ライター)

フランス人は夏に本を読む。短くとも2週間、長い人では1カ月にも及ぶ夏のバカンスでは、陽光のもとでのんびり読書に耽るのが定番だ。休暇明けの職場での会話は、旅行先の見聞と読んだ本の感想で彩られる。畢竟、ベストセラー商戦も夏に加熱する。

そんなフランス出版界の夏の陣、2017年の戦を制したのは、少々異色の1冊だった。「髪」をモチーフに、三人の女性が自由と自立を勝ち取る過程を描いた、いわゆるフェミニズム小説。舞台はインド、イタリア、カナダの三大陸に渡り、フランスは出てこない。作品のタイトルは『三つ編み』とごくシンプルだ。おまけに著者のレティシア・コロンバニは映画監督で、小説はこれがデビュー作となる。それが出版直後から書評で絶賛され、口コミで評判が広がり、85万部を売り上げた。今では世界32カ国での翻訳が決定しており、そのうち16カ国では、本国での出版前に翻訳契約が締結されたという。

どうしてこの本は、かような成功を収めたのか。

優れた物語の力は言うに及ばず、一読すればあなたもすぐに納得するだろう。加えて筆者は、この小説には「フランスだからこそ編まれ得た」特色があると感じた。そしてその特色ゆえに母国フランスにとどまらず、女性の自由と自立の機運が高まる世界各国で広く読まれ、多くの人々に励ましと力を与えるのではないか、と。

かくいう筆者は2000年よりフランスに在住し、フリーライターとしてこの国の文化・社会について日本メディアへ寄稿している。フランス女性の生き方やそれを支える制度は日本の読者の関心が高く、筆者もこれまで取材を重ねてきた。その視点で『三つ編み』という物語を俯瞰しつつ、なぜこの作品がフランスで生まれ社会現象となったのかを、解きほぐしていこうと思う。

当事者の視点、非当事者の距離感

「これは私の物語。
 なのに、私のものではない。」

『三つ編み』の「プロローグ」で、著者コロンバニはそう記す。この2行こそが、本書の成功を読み解く上での最大のカギではないかと、筆者は考えている。

物語は、3人の女性主人公の人生を交互に語り進行する。インドのスミタは最下層身分「不可触民」に生まれ、過酷な生活を強いられながら、娘により良い人生を与えるために出奔する。イタリアのジュリアは伝統的な男女・家族観の強いシチリアで、突如危機に陥った家族経営の毛髪加工会社を立て直すべく奮闘する。カナダのサラは三児の母、弁護士として社会的成功を収め多忙な毎日を過ごしているが、ガン罹患が発覚したその日から、人生が一転する。一見何の繋がりもない3者の生き方を、「髪」をモチーフに交差させ、編み込んでいくストーリーだ。

3人の女性を主人公に女性作家が記した本書は、どこからどう読んでも「女性の物語」、つまりコロンバニ自身が当事者の「私の物語」と言える。一方、主人公たちの置かれた環境や生き方は、著者自身のそれと一致しない。書かれたエピソードはどれも、コロンバニにとって「私のものではない」。

その不一致は、主人公たちと著者の生きる4カ国を並べてみると、すぐに理解できる。インド、イタリア、カナダ、そしてフランス。この各国では、女性の置かれた社会的な位置や生きやすさが、大きく異なっているのだ。

分かりやすい比較材料として、「グローバルジェンダーギャップ指数レポート」を挙げよう。2006年より世界経済会議が調査・発表しているこのレポートは、約150カ国を対象に、教育・経済・健康・政治の4つのカテゴリーで男女格差の度合いを計り、経年変化を観察している。指標の設定や算出方法に異論はあるが、「男性と比較した際の、社会における女性の不自由度」を概観するには相応に参照できるものだ。

2018年度のこのランキングで、『三つ編み』にまつわる4カ国は以下の順位にある。

  フランス 12位
  カナダ  16位 
  イタリア 70位
  インド  108位

著者コロンバニのフランスは、4カ国中最上位。物語の舞台のどこよりも女性の社会的地位が高く、不自由度が低い。男女差別がないわけではないが、他の3カ国での女性の生きにくさや苦しみの原因は、今日のフランス社会ではほぼ「過去の遺物」と言っていいものだ。

常に生命の危機を孕むスミタの凄惨な暮らしは、インドの伝統的な身分差別制度と女性蔑視によるもの。若々しく朗らかなジュリアの毎日を脅かすのは、イタリアの家父長主義や女性性の固定観念だ。先進国で成功者となったサラは、ダブルスタンダードの男性的能力主義に追い詰められていく。だがフランスの女性たち、特にコロンバニの属する芸術分野に生きる人々は、そのどれからも自由だ。

女性を生きづらくするそれらの要素は、フランスでは「改善すべきもの」との社会的な認識がある。政府は過去10年で男女格差是正の政策を急速に整備しており、前述のランキングでもその経過は明白だ。2006年の70位、2013年の45 位、そして昨年の12位と、着実に順位を上げてきた。そんな社会でコロンバニは「非当事者」の視点から、3つの国の女性たちを客観的に描く距離感を獲得している。同じ女として、その苦しみは鋭敏に捉えられる。しかしそれを語る彼女自身は、冷静な傍観者の立場にいられる。

その二重性によって、コロンバニはこの物語に独特の魅力を与えている。目を覆いたくなるような不条理や不快な場面も、シンプルかつ静かな筆致で流れるように語られ、読者をスルスルと導いていく。それは映画監督でもある著者の、視覚的な描写力と構成力によるところが大きいだろう。しかしそれと同じくらい、物語に対する当事者性・非当事者性の絶妙な塩梅が貢献しているように、筆者には思える。

コロンバニ自身もこの3カ国の選択には意識的で、「3つの物語を、3つの異なる大陸で書きたかった」と語る。インドは構想当初から決まっていた。「髪」をモチーフに物語を書こうとしたきっかけが、インドで髪を神に捧げる人々を取り上げたドキュメンタリーだったためだ。シチリア(イタリア)も、上質なかつらの産地として早い段階で選んだ。最も悩んだのがサラの生きるカナダ。着想の元であった親友の闘病がフランスで行われたこともあり、当初はフランスを舞台にすることも検討したそうだ。

「でも、地理的にイタリアと近過ぎるように感じたんです。アメリカも考えましたが、映画や文学であまりに取り上げられすぎていた。カナダはアメリカとフランスの間にあって、一番適切だと思ったんです。女性が男性と同等の権利をもっているように見えながら、実はそれが表面上だけという、欧米の自由社会をよく表しているところだと」(コロンバニ談、筆者訳)

登場人物へのフラットな視線

フランス人作家コロンバニならでは、と思える特徴はもうひとつある。それは登場人物、特に男性たちへのフラットな視線だ。

女性が自由と自立を勝ち取る物語においては、男性が対立項として想定されることが多い。舞台設定の定石が男性優位社会なので、分かりやすい構図と言える。が、コロンバニはその分かりやすさを用いていない。因習や伝統を象徴する男性も登場するが、物語で重要な役割を占めるのは、主人公たちに寄り添おうとする男性、そこで連携・共闘せんとする男たちだ。

「明らかに女が好きではない」とスミタ自身が考える国で、彼女の夫は妻の意思の強さに理解を示し、娘に教育を施そうとし、庇護する。男性社会の企業戦士たるサラの家庭を守るのは、家事育児に秀でた男性ベビーシッターだ。そして男女の連携が最も美しく描かれているのは、ジュリアのパートだろう。伝統的な家族観が根強いシチリアで、代々男性の家主が受け継いできた技術を惜しみなくジュリアに授けたのは、父親だった。そしてジュリアのパートナーたるカマルは、スミタと同じインド亜大陸の出身ながら、男女平等を旨とするシク教徒の設定をもつ。イタリアでは異色視される移民の身で、堂々と胸を張りジュリアに人生航路を示した彼が、「相棒であり、
相談相手でもある」と表現される箇所は象徴的だ。

そして著者のフラットな視線は、女性登場人物にも同じように向けられる。男性的な競争社会でサラを陥れるのは男性の同僚ではなく、「信頼し・自ら選び採用し・毎朝微笑みかけてくれる・特別に目をかけていた」女性の部下。ジュリアを旧態然とした価値観に押し込めるのは彼女の母と姉だ。その一方、旅路のスミタと「インドに生きる女性」の苦しみを分かち合うのは子連れの寡婦で、結婚の幻想についてジュリアに警鐘を鳴らすのは、同じ工場で働く年上女性の友人である。

コロンバニの人物造形は男女とも、ステレオタイプに陥らない。人が善人であり悪人であるのに、男女の差は関係ないと明確に謳われる。結果、女性が意思を貫く希望の世界に、男性たちにも公平に、自然なあり方が許されているのだ。

ここで筆者は、前述のジェンダーギャップ指数ランキングを思う。女性の解放の物語を紡ぐのに、男性を悪役にする必要はない。両者がフラットに存在する世界で、女性が自由と自立を求めることは可能なのだとコロンバニは示す。それは比較的男女格差が少なく、個人の多様な生き方が認められているフランスだからこそ、もち得たスタンスではないだろうかと。

たとえばフランスは、男性の育児参加を国を挙げて推奨している。子どもの誕生時に二週間与えられる「父親休暇」は国庫が財源で、対象男性の約七割が取得する。この制度の意義を管轄省庁に取材したときの答えはこうだ。「男性にも、父親として子と関係を築き、幸せを感じる権利があるんです」。フランス政府は親としての男女格差をなくすため、女性だけではなく、男性側も公平に眺めている。またこの国では同性婚が異性婚と同等に法制化され、子の六割は結婚していない男女から生まれてくる。登場人物をフラットに扱う著者の姿勢の前提には、多様性を当たり前とする社会があるのだ。

この「フラットに登場人物を扱う」という観点からは、もう一つ、別の面白さが見えてくる。それは主人公三人が、まったく異なる「属性」を備えていること。そしてコロンバニがそれぞれを彩り豊かに、優劣なく描いていることだ。

スミタは「母」であり「妻」であり「信者」であり「旅人」である。ジュリアは「20代」兼「恋人」兼「友人」兼「家族」兼「雇用主」で、サラは「40代」と「サラリーマン」と「保護者(スミタの〝母〟とは違う)」と「闘病者」と「自営業者」と「シングル」の属性を備えている。3人の共通点は「女」であることだが、それを除けば重なる点はほとんどない。ざっと挙げただけで、10種類の以上の属性が3人に与えられている。その多面性・重層性は、現代女性のとてもリアルなあり方だ。読者は必ずなにかしら、共感を寄せるフックを見つけることができるだろう。

コロンバニはどの属性に対しても、ネガティブなメッセージを込めていない。三者三様の力強い戦いぶりを丁寧に描き、結末ではその3つの物語で、見事な「三つ編み」を縒り合わせてみせる。異なる属性をもつ誰もが否定されず、明るい未来を示唆されている物語。その公正さと希望に満ちた読後感は、コロンバニが読者に手渡す最大の贈り物だ。

共和国の子らが愛する、人類愛の物語

「フェミニズム小説」とカテゴライズされながら、幅広い層に読まれた『三つ編み』。前述したような作品の特徴が、性別や属性を問わず、読み手を魅了したことは想像にかたくない。だが85万部もの大ヒットとなった理由は、作品の力だけではないだろう。それが託されたフランス社会の方にも、この物語がフィットする要素があったと筆者は思う。

フランス政府が男女格差是正策を積極的に進めている事実は、先に記した。この時点で「フェミニズム小説」が受け入れられやすい土壌は、他国に比較して整っていたと言える。

加えて現代フランスは、市民革命の基盤の上に成り立っている社会だ。1789年、絶対王制の抑圧に市民が抗ったフランス革命を皮切りに、「法の前に万人が平等である社会」を勝ち取った共和制国家である。この国では抑圧は打ち破るものであり、権利は勝ち取るもの。それはいまも市民の意識に強く刻まれている。2018年秋、低所得者層が生活苦を訴える「黄色ベスト」デモの激化は、読者の記憶にも新しいだろう。この原稿を執筆している2019年3月現在も、その運動は粘り強く続いている。

そんなフランス社会にとって『三つ編み』の物語は、血湧き肉躍る現代の革命譚でもある。この国の人々は、抑圧と戦い自由を手にする人物が好きだ。勇猛果敢に人生に挑み勝利する物語は、共和国の子らを興奮させる。そのフィールドが現在国を挙げて取り組んでいる男女格差問題で、しかも物語は文学的にも良質とくれば、もはやヒットは必然と言えるだろう。

フランス社会がそうしてこの物語を受け入れたさまは、書評にもよく表れている。数本を拙抄訳でご紹介しよう。

「我々の世界はもっと公平で、友愛に満ち、人間味のある場所になれるのではないか?」(ポール゠アンリ・マイエ/ラ・パリジェンヌ誌) 
「この物語には悲惨や苦しみ、不治の病の不幸がある。だが同時に、あらゆる人類の共通善である愛と希望も描かれている」(セバスチャン・デュボ/ラ・デペッシュ・デュ・ミディ紙)
「本書は我々の社会のぎょっとするような面、痛烈な不平等と不公平、友愛の欠如にも触れている。しかしそれは、よりよく希望を編むためだ」(ピエール・ヴァヴァシュール/ル・パリジャン紙)
「ヒロインたちは皆まったく異なる存在に見えるが、各人が自分の選んだ道を生きるための強烈な熱意をもっている。どんな対価を払っても、自由を得るために」(レティシア・ファヴロ/ル・ジューナル・デュ・ディマンシュ紙)

フランスの読者にとって、『三つ編み』は単なる「3人の女性のお話」ではない。より普遍的な、人類愛の物語として読まれたのだ。

そして今世界ではまさに、女性と人類愛を巡る動きがこれまでになく活発化している。アメリカに端を発した#MeToo 運動は、先進諸国で様々な議論とムーヴメントを巻き起こした。それを受け、これまで「当たり前」と見過ごされてきた性差別・性ステレオタイプ的な言説は、広告やエンタテインメントの世界でも厳しく是非を問われるようになっている。本書が本国発売前か
ら他国に注目され、次々に翻訳が決まっていった経緯も、そんな世界の潮流を象徴していると言えるだろう。抑圧に異議を申し立て、自由を得るための闘いは、フランスに限った現象ではない。全世界の全人類が、分かち合うものなのだから。

「三つ編み」の舞台が、日本なら

そして今『三つ編み』は、日本の読者に届けられる。齋藤可津子氏の翻訳力と文章力のおかげで、原著の魅力をそのまま堪能できることにまず賞賛と感謝を送りたい。

この本を、日本の読者はどう読むだろう? フランスの読者や筆者と同様、引き込まれるようにエピソードを追い、希望に満ちたラストに心を震わせるだろうか。

その興味と同じだけ、筆者には気になることがある。もし『三つ編み』の一篇が、日本を舞台に書かれていたら。日本女性はどんな抑圧の下にあり、それをどう打破すると描かれただろうか。

そう考えてしまう理由は、前述のジェンダーギャップレポートのランキングにある。2018年の日本は、110位。物語中最も過酷に描かれる、スミタのインドよりも下に位置しているのだ。

インドと日本がもつそれぞれの社会問題は、並べて語れる類ではない。前述したように、このレポート自体にも賛否両論がある。たとえばこのレポートは「男女の格差」に焦点を当てているため、男女ともに人権意識や発展が遅れていたとしても、それが指標に現れにくい。両性含めての開発度を見る「国連人間開発報告書」では日本は19位、インドは130位だ(2018年、全189カ国中)。しかしこのジェンダーギャップレポートでは、明らかに大きな男女格差のある国が、ランキング上位に上ることはない。その点で一つの目安であることは確かだ。

『三つ編み』に登場する三カ国と比べ、日本で最も格差の開いているのは「政治参画」である。参考までに順位を紹介すると、フランス10位、インド19 位、カナダ21位、イタリア38位、日本は125位だ。日本で『三つ編み』が描かれたとしたら、この分野を取り上げるのは必然だろう。主人公の女性はどんな属性をもち、どんな闘いを生きることになるのか。彼女と連携する男性はどんな人物だろう。彼女ら彼らの物語は、日本社会で、どのように受け止められるだろうか。

本書の明るく力強い読後感に浸りながら、私はそれが気になっている。そしてぜひ日本の読者にも、この小説との出会いをきっかけに、考えてみてほしいと思う。

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髙崎氏が聞き手となった著者レティシア・コロンバニ氏へのインタビュー「「人間が好きならフェミニストなはず」フランスで100万部突破「三つ編み」の著者、日本を思う。」(ハフポスト)も公開中です。

また、髙崎氏の連載「フランスに探る男女連携社会の作り方」はこちらから読むことができます。


■著者紹介

写真:(C) Celine Nieszawer

レティシア・コロンバニ Laetitia Colombani
フランス・ボルドー生まれ。映画監督、脚本家、女優。監督作品に、オドレイ・トトゥ主演『愛してる、愛してない…』(日本公開2003年)などがある。初の小説である本書は、刊行前から16言語で翻訳権が売れて話題をあつめ、
2017年春の刊行後にはまたたく間にベストセラーとなり、フランスで85万部を突破、32言語で翻訳が決まった。著者自身の脚本・監督による映画化が進められている。

■訳者略歴
齋藤可津子(さいとう・かつこ)
翻訳家。一橋大学大学院言語社会研究科博士課程中退。訳書に、ジャン=イヴ・ベルトー編『マドモアゼルSの恋文』、タハール・ベン=ジェルーン『アラブの春は終わらない』、サルワ・アル・ネイミ『蜜の証拠』がある。

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◎著者インタビュー
フランスで100万部「女の生き辛さ」わかる小説 『三つ編み』が描いた女性の葛藤と強さ」(東洋経済オンライン2019年6月7日)
「人間が好きならフェミニストなはず」フランスで100万部突破「三つ編み」の著者、日本を思う。」(ハフポスト2019年4月24日)

◎レビュー
佐々涼子「日本では、強い女の子は圧倒的に損なのだ。なぜか?
河出真美「抵抗する者たちの物語

◎本書の紹介・抜粋記事
黙らなかった女性たちをつなぐ物語(あらすじ紹介)」
怒りと祈りが私たちをつなぐ(冒頭の試し読み)」
フランスで100万部、女性たちにエールを送る小説『三つ編み』(レティシア・コロンバニ、齋藤可津子訳)訳者あとがき


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