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読む力は本能なのか? マーク・チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号』序章

大ヒット『ヒトの目、驚異の進化』の理論神経科学者が人類誕生と「聴覚系」の壮大な謎に挑んだ、マーク・チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号――言語と音楽、驚異の起源』。Amazon「神経科学」カテゴリでベストセラー1位となるなど、刊行直後から早くも話題を呼んでいます。この記事では、本書の序章「読む力は本能なのか?」を全文公開します!

〈脳と文明〉の暗号_帯

序章 読む力は本能なのか?

認知心理学者のスティーブン・ピンカーは、著書『言語を生みだす本能』の冒頭で、言語能力のすばらしさをこんなふうに説明している。

(言語の)能力はごく自然に使いこなせるようになるので、どれほど奇跡的な能力なのかを忘れがちだ。そこで、あらためて実感してもらうために、ちょっとしたことを試してみよう。いまから少しのあいだ、わたしの言葉に想像力をゆだねてほしい。言葉の力で、あなたの脳裏には、くっきりとしたイメージが浮かぶだろう。

・雄のタコが雌を見つけると、ふだんは灰色がかっている体に突然、縞
模様が現われる……。

・白いスーツにチェリー・ソースをこぼした? 祭壇を覆う布に赤ワインを垂らしてしまった? 急いでソーダ水をかければ、染みにならないはず……。

・ドアを開けたディキシーは、タッドが立っているのを見て唖然とした。てっきり死んだと思っていたからだ……。

このように、ほんの短い言葉を見聞きしただけで、わたしたちの脳は心の中の広大な世界のあちこちへ連れて行かれ、あらたな情報を植えつけられる。「死んだはずのタッド」のくだりはテレビのメロドラマ『オール・マイ・チルドレン』に出てくるエピソードで、個人的には前から知っていたけれど、みなさんはたぶんご存じなかっただろう。けれどもいまは違う。数少ない単語がそれなりの順序で並んでいるのを眺めただけで、ある事実を把握することができたわけだ。

この種の脳力は偶然生まれたわけではない、とピンカーは主張する。古くからの社会科学者の説では、「人間はきわめて順応性に富んだ、まっさらな石板のような脳を持つ」とされてきたが、その程度の脳では、現実のわたしたちのように言語を学んで使いこなすことなどできそうにない。言語は気が遠くなるほど複雑だ。その証拠に、現代の技術ではまだ完璧な音声認識装置をつくれない。ところが、人間は不思議なほどやすやすと音声を認識できる。子どもたちは苦もなく短期間で言語を習得する。べつに努力をしなくても、みんないつのまにか言葉を理解できるようになる。言葉はわたしたちの生活を覆い尽くしていて、汎用の脳の機能ではとても対応できるものではない。どうやら脳には言語をつかさどる特定の部位があるらしい、とだいぶ前からわかっている。世界のあらゆるところに言語があり、いろいろな言語に多数の共通点がある事実から見ても、人間はもとから言語の本能を持っているのではないか?

ピンカーはこの推論を音楽にまでは広げようとしていない(音楽をほんのおまけと見なし、「聴覚のチーズケーキ」と呼んだのは有名な話だ)が、一部の研究者たちは、音楽も同じ性質を持つのではないかとにらんでいる。たとえば、『歌うネアンデルタール』の中で、著者のスティーヴン・ミズンは、複雑なはずの音楽を人間がなぜか巧みに処理していること、脳内には音楽を処理する特定の部位があるらしいこと、音楽は世界のほぼいたるところに存在し、基本的な特徴が共通することなどを指摘している。

つい勘違いしがちだが、人間の脳は何でも学べる機械ではない、とピンカーは強く主張していて(ほとんどの著書でこの点を論じている)、わたしももっともだと思う。言語はあちこちに精巧な仕組みが秘められているとの指摘も、非常に説得力がある(ほかの研究者によれば、音楽にも同じような特徴が見られる)。

言語や音楽と、人間の脳とは、うまく噛み合うようにできているのだ。

ただし、やっかいな問題が一つあって、ピンカー自身、著書の一ページ目でそれを暗に認めている。ちょうど先ほど引用した箇所だ。つまり、タコ、ソーダ水、メロドラマのエピソードはどれも文字で記されている。ピンカーの挙げるいろいろな具体例をわたしが理解できるのは、ひとえに文字を読む能力のおかげだ。どの著書をひもとくにしろ、いや本に限らず、わたしがピンカーの説を知って、敬意を表するためには、どんな場合も文字に頼ることになる。

言語や音楽の本能を論じるのに、なぜここで〝読む能力〟を問題にしなければならないのか? じつは、言語や音楽を扱う能力と同じように、文字を読む能力もまた、緻密な仕組みで成り立っているが……それでいて、明らかに、生まれつきの本能ではないからだ。

人間にとって読む能力が本能であるはずはない。なにしろ、文字はごく新しく、数千年前に発明されたばかりだ。ほんの何世代か前まで、人類の大半には読み書きの能力が根づいていなかった。みなさんの祖先だって、五世代もさかのぼれば、たぶん文字を読めなかっただろう。

だから、脳の中に文字を読むためのメカニズムが内蔵されているとは考えにくい。にもかかわらず、読む能力も、言語や音楽の能力とよく似ていて、本能ととくに違わないかたちで身についている。読む能力もやはり驚くほど複雑で、じゅうぶん実用的な手書き文字認識装置はいまだに開発されていないほどだ。なのに、人間はいとも簡単に読む能力を発揮する。生まれてから話し言葉を理解できるようになるまでの年数と、文字を読めるようになるまでの年数には、およそ二倍の開きがあるものの、事前に積み重ねた経験の量をくらべると、読む能力のほうはごくわずかな蓄積しかない時点で身につく。ほかの能力と照らし合わせるなら、たいていの子どもは、シリアル食品に牛乳をかける、おしりをふくといった基本的な動作さえまだじょうずにできないうちに、早くも文字を理解し始める。でんぐり返しをしたり、ジャングルジムに登ったりするなどの、サルが得意な動きもできないのに、文字は読めるのだ。いったん覚えると、あとは苦もなく自然に文字が読めるし、現代の生活には話し言葉よりむしろ書き言葉が多くあふれているようだ。

読むというすばらしい能力を持つわたしたちの脳には、読むこと専用の部位がきちんと備わっている、と論じる学者もいる(「視覚性単語形状領野」と呼ばれる。神経科学者のスタニスラス・ドゥアンヌやローラン・コーエンらがその存在を主張し、ドゥアンヌは最近の著書『Reading in the Brain』の中でも取り上げている)。読む能力は本能なのだとする説を裏づけるかのように、なるほど、文字は世界中ほとんどいたるところに存在する。

今日、ほぼあらゆる人間社会に文字を書くという行為が見られ、しかも大きな共通点がいくつかある(たとえば、アルファベットのような表音文字の場合、ひと文字あたりの画数や、線と線の交差のしかた。拙著『ヒトの目、驚異の進化』第四章参照)。

もし、実際には〝読む本能〟などないのに、あたかもあるように感じられるのなら、言語や音楽についての本能も、じつは幻想にすぎないのかもしれない。言語や音楽が生まれ出る仕組みは、もしかすると、読む能力が生まれる仕組みと同じなのではないか(どんな仕組みかはともかく)。

本を通じて言語の力を実証するには、音声ではなく文字を使うしかない。先ほどのスティーブン・ピンカーもその点に気づいていて、タコ・ソーダ水・メロドラマのくだりのあと、こんなふうに書いている。

たしかに、いま試してもらったことは、読み書きの能力が土台になっている。時や場所が隔たっていても、べつに親しい間柄でなくても、コミュニケーションを図れるのだから、ますますすばらしい。ただ、文字は明らかに添え物にすぎない。言語で意思を疎通するときの真の原動力は、子どものころ習得する話し言葉だ。

文字は「添え物」だとピンカーはいうが、いったい何への添え物なのだろう? 話し言葉と書き言葉は、はっきりと別の機能を持つ。ピンカーも指摘するとおり、音声と違って、文字で書かれたものは空間や時間を越えて伝わっていくことができるのだ。文字のおかげで、言語の力(パワー)は〝スーパーパワー〟になるといってもいい(たとえば、みなさんが本書を読む時点でわたしがもう死んでいたら、みなさんは霊の言葉を読み取っていることになる!)。また、前著『ヒトの目、驚異の進化』に書いたように、文字は、音声の録音(同じく時空を超越するもの)ではできない役割を果たす。すなわち、読む行為のおかげで、人間は適宜、他人の意識に触れて、新しい情報を効率よく取り込むことができ、単純なホモ・サピエンス(訳注:知恵を持つヒト)から、あらゆる用途に向けて〝プログラミング〟できる、いわばホモ・チューリンギピテクス(訳注:数学者アラン・チューリングが定義したような、思考するヒト)へ進化できたのだ。文字にこのような独自の働きがある以上、添え物と片づけるわけにはいかないだろう。なにしろ、歴史の記録も現代の文明も、文字に頼っているのだから。

添え物かどうかの問題はいったんさておき、とにかく人間は文字を読めるようにできているらしい。にもかかわらず、本能ではないと考えられる。そんなことがありうるだろうか?

理にかなった答えは一つ。文字を読むという用途に合わせて脳ができているのではなく、文字のほうが脳の仕組みに合わせてつくられたということだ。文字は長い年月にわたって文化的な淘汰を受けながら、人間の視覚系に適したメカニズムになっている。わたしたちに読む本能があるわけではない。文字が、脳の本能に訴えかけるような性質を備えているのだ(すなわち、人間は、もとから脳内にある機能を使い回して、まったく新しい能力を本能と同じくらい完璧に体得できるらしい。前出のスタニスラス・ドゥアンヌは、これを「神経回路のリサイクル」と呼んでいる)。

「脳の仕組みに合わせて、文化が文字を形成していった」とするこの説を裏づけるため、わたしはいままでの研究や前著『ヒトの目、驚異の進化』でいろいろな証拠を示してきた。簡単にいえば、文字はそれぞれの文化の中で淘汰され、ごく自然に見えるかたちに整えられたと考えられる。おかげで、人間の視覚系は、進化の過程で読む本能を手に入れたわけもし、文化的な淘汰によって、文字が自然な形状になり、人間の視覚系にふさわしく整うとすれば──しかも、ほんの数千年でそれが可能なら──話し言葉や音楽も、何万年、何十万年というあいだに文化の影響を受けて、人間の聴覚系にふさわしく進化し、脳に最適なかたちになった、と想像することもできるのではないか? 文字、話し言葉、音楽がすべて文化の産物で、ただし──人間はどんな物事にでも対応できる構造ではないため字を読む力は、太古からの本能でもなければ、進化の途中で備わった本能でもない。

つまり、文字の場合、そのかたちを決めたのは本能ではない。生来の能力によってではなく文化によって淘汰され、かたちが整えられたのだ。脳が文字に合わせたというよりも、脳に合わせて文字ができあがったため、脳と文字はしっくりと噛み合う。このようなことが可能なのは、ヒトという生物が、昔から持つ脳の機能をうまく利用して新しい用途に対応し、本能と同じくらい自然に使いこなせるからだ。これをわたしは「先天的な脳機能の転用」と呼んでいる。

以上を踏まえて、いよいよ本書の目的を明かすことにしよう。

もし、文化的な淘汰によって、文字が自然な形状になり、人間の視覚系にふさわしく整うとすれば──しかも、ほんの数千年でそれが可能なら──話し言葉や音楽も、何万年、何十万年というあいだに文化の影響を受けて、人間の聴覚系にふさわしく進化し、脳に最適なかたちになった、と想像することもできるのではないか? 文字、話し言葉、音楽がすべて文化の産物で、ただし──人間はどんな物事にでも対応できる構造ではないため――脳に合わせて精巧につくられたテクノロジーだと考えたらどうだろう?

もっと突っ込んでいえば、読み書きが本能に見えるのと同様、音声にかかわる二つの能力──話し言葉と音楽──も、本能のように感じられるものの、じつは言語や音楽など前提にしていない、人間が昔から持つ非常に効率的な脳のメカニズムを転用しているのではないか?

とはいえ、話し言葉や音楽は、いったいどんな本能をどう活かしているのだろうか? それが本書のテーマだ。しかし、話し言葉や音楽について議論する前に、生まれつきの能力をあらたな目的に転用するとはどういうことなのか、もう少し一般的に深く掘り下げてみたい。そのような転用が、文字、話し言葉、音楽のみなもとだとわたしは考えているし、それだけでなく、今日のわたしたちの姿を解き明かす鍵にもなるはずだ。では、そのあたりを第一章で取り上げていこう。

(序章 了)


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