見出し画像

【閲覧注意】「女を一人、埋めればいいよ。あのよそ者がいいよぉ」『人喰観音』特別篇「まどい巫女」公開

 ※【閲覧注意】この作品には残虐な表現、猟奇的な描写が含まれています

 書き下ろし怪奇幻想長篇『人喰観音』をお読み下さった読者の方から、「スピンオフが是非読みたい」という熱烈なリクエストを編集部に頂きました。著者の篠たまきさんとご相談をいたしまして、篠さんが温めていたアイデア、とある人物を視点にした一篇を「特別篇 まどい巫女」として書き下ろして頂きました。
 本篇を読了された方はもちろん、未読の方にも楽しんで(慄いて)頂ける内容です。『人喰観音』の世界から広がる、おぞましくも美しいもう一つの物語をご堪能ください。(担当編集


『人喰観音』特別篇「まどい巫女」


 一
 
 
 細い山道は、下るほどに太くなる。
 彼は山の川沿いを歩いて来た。治水のために川の水を溜める、いくつもの木組みの堰の上を渡って越えて来た。
 一足ごとに麓に流れる川の匂いが強まって、藻の臭みが空気に入り混じる。
 葉の黄色くなりかけた雑木の群れを抜けると、葦の根を洗う川水の音が耳に届いた。川魚が吐き出す水の生臭さまでも、彼の明敏な嗅覚が捉え始めていた。
 秋なのに蒸し暑い。けれども彼の象牙のような額にも、細い首筋にも、汗の一玉も浮き上がりはしなかった。このあたりではまだめずらしい洋装の、白シャツの腋にも背中にも、汗染みは見て取れない。
 細い指で額の汗を拭くしぐさを作るのは、人に交じり棲むため彼が身につけた癖だ。
「スイさんやぁ、夕飯のしたくを始めるのはまだだよねぇ」
「ちょっとわたしらのねぇ、話を聞いてくれないかねぇ」
 黄ばんだススキの群れの中に立つ娘が二人、川辺に向かって唄うように声を張っていた。
「はぁい、来ていいの。今ならいっぱいお話しができるの」
 舌足らずな、細い細い声が土手に張りつく船頭小屋から応じ、娘たちがきゃあきゃあと喜びを弾けさせた。
「スイさぁん、山の紅葡萄を持って来たんだよぉ」
「杉菜の茶ももらってきたから、スイさん、お湯と茶碗を出しておくれよぉ」
 甲高い笑声が川草のそよぎに絡んだ。
「嬉しい。あたし、紅葡萄、好きなの。杉菜のお茶も、大好きなの」
 スイと呼ばれた女の声は小さいけれど、朗らかで良く通る。屈託というものがまるでなく、男が聞き入る艶と女に好かれるあどけなさをあわせ持っていた。
 風が吹きそよぎ、彼のまっすぐな黒髪を一筋、二筋と、白い頬の上に乱した。川から山に吹き上げる空気が運ぶ、あの女の肉の匂いがかぐわしい。健やかに育まれた女の体臭が鼻腔に忍び入って、痺れるような喜悦を思い起こさせるのだ。
「早く来て欲しいの。もうお湯が沸いているし、葡萄を盛るお椀も出したの」
 娘たちを誘う声を聞いて、彼は嗤う。
 あの女の形をした生き物が、村の者となれあってひどく平和にくらしている。
 白絹めいた皮膚の中、甘い肉が肥えている様を彼は嗅ぐ。安穏の中に育まれた肉のとろみが口中にねっとりと想起された。
 同族の肉に味蕾が震え、至福の予感に酔いかけた時、がさり、と風下の薮が動いた。瞬間、彼は表情を凍らせて身をすくませる。穏やかな土地にもならず者はいる。自分が稚児めいた美麗な姿なのはわかっている。少しばかり金品を持ち歩いていることも知られている。
 けれども彼の前に現れたのは、老いてやせた、猫背の女が一人だけだった。
「どうも、どうも、今日は良いお天気だのぉ」
 継ぎの当たった着物の老女がもっさりと挨拶をした。虚空に泳ぐ視線。白濁した両目。このみすぼらしい盲目の女は村の口寄せ巫女だ。
「お久しぶりです、時子様。本日はとても良いお天気ですね」
「おや、その声は村を渡って歩く商人さん……、確かはじめ屋さんだったかねぇ?」
 一音、一音を確かめるように女は語尾を引きずる巫女訛で聞いた。
 声にわずかな歓迎の情が混じっている。当たり前だ。彼は礼儀正しい行商人だ。華奢な姿も少年めいた声も人に好かれるようにできている。
「ずいぶんと見なかったねえ。先だって商いに来たのは半年も前の春先だったかのぉ」
「ご無沙汰しておりました。おかわりなくお過ごしのようで」
「何のかわりもないよぉ。今年は日照りもないし、田の虫もおとなしいしなぁ」四角い顔をゆるゆると彼の方に流しながら、巫女は探るように聞いた。「あんたさんは、これから船頭小屋を……、船頭の女房のスイさんを訪ねるのかねぇ?」
 表情も声音も変わらない。けれどもスイという名を呼ぶ時に、女の乾いた肌から敵意の臭いが滲み出た。
「ええ、まず船頭の信次さんに届け物を」淡々と、もの柔らかに彼は応じる。「次に神主様のおられる西の神社に上がるつもりです。その後には時子様の拝み家にもご挨拶を」
 少年めいた声に好意と崇拝を含ませると、皺深い女の頬に薄桃色の喜色がよぎった。
 この声もこの姿も人に、ことさら女に好まれる。気を緩められるのも、受け入れられるのもたやすいことだ。
「わたしに様をつけることはないよぉ」
 時子はすり切れた袖で汗を拭きながら言った。だから彼はさらに優し気に甘やかに言葉を返す。
「時子様は気高い巫女様。敬意を示すのは当たり前。いつも神主様やら名主様のお手前、ご挨拶が後になることを申し訳なく思っているのです」
「わたしは皆が見下げる凡巫女だ」黒ずんだ歯茎を見せて女が自らを貶める。「この頃は言い外してばかりだ。船頭小屋のスイさんの方が何でもきっちり言い当てるから。年寄りの凡巫女は、いらなくされるだけだよぉ」
 自虐に隠し込まれた怨み。声音には現れなくても、苦渋の臭気が陽炎のように肌から立ちのぼっていた。
「時子様は村にとって大切な、大切な、尊い巫女様」屈辱と怨恨の香気を吸いながら、彼は細い少年の声で応じた。「決していらなくなど、なりはいたしません。流れ者の女などとは格が違いましょう」
 時子はただ割れた唇に皮肉めいた笑いを浮かべただけだった。
「スイさぁん、染め物に使う青柿をどこで捜したらいいか教えてちょうだいよぉ」
 高い声を上げながら若い女が一人、土手へと駆け抜けようとした。船頭小屋に向かいかけた娘は、遠くから彼の姿を見つけ、ひどく俊敏に走り寄る先を変えた。
「いつも東の方から来る商人さんじゃあないか」弾けるほどに若々しい声だった。「今、来たところ? ずいぶんと久しぶりだねぇ」
「これは双子杉の家の正代さんではありませんか。少し見ない間にずいぶん姉様らしくなりましたね」
「あら、いやだぁ、おぼえててくれたのかねぇ」
 恥じらう娘の肌は濃い小麦色だ。頬の皮膚が黒ずんでぽろぽろと剥けているのは日差しに炙られ過ぎたせいだろう。
「一度おあいした方を忘れはいたしません。皆様のお顔もお名前も私は全ておぼえております」
 娘の全身から薄らと失望の臭いが放たれた。知ってもらえた喜びを、自分だけが彼の記憶に残っているのではないという落胆が押しのけている。
 今、少女の瞳に映るのは白肌で小柄な青年が一人だけ。傍らの老巫女は空気のように流され、目を向けられることも、挨拶をされることもない。
「商人さんはこれから船頭小屋に行くのかねぇ? だったら私と一緒に行こうよぉ」
 娘は彼の片手を取り、意図的に子どもめいたしぐさをこしらえてしがみついた。まだ幼い瞳に淡い媚態が宿り、こんもりとした胸元に白シャツに包まれた細い肘が当てられた。
「いえ、私は後ほどに。今は村に入るため巫女様にご挨拶しているところですから」
 ふん、と蔑むように娘が鼻を鳴らし、聴覚に優れた巫女が表情も変えず屈辱の臭いを放った。
「時子婆さんよりスイさんの方が当たるんだよ。先に船頭小屋に一緒に行こうよぉ」
「いえ、ご挨拶には順番というものがございます」
「どうして? 二人でスイさんの所に行こうよ。商売のこともスイさんに聞けばいいんだからぁ」
 まとわりつく娘からそっと手を振りほどき、彼はへりくだった声で告げる。
「ご挨拶の順番は守らなければいけません。それが村に入る商人の決まりごと」
「決まりじゃあしょうがないかぁ。でも挨拶なんかさっさと終わらせて船頭小屋に来てね。みんな待ってるからねぇ」
 失望を浮かべはしたものの娘は聞きわけよく、素直に彼の手を自分の胸元から離した。
「正代さぁん、正代さぁん」低い土手の側からスイの甘やかな声が伝わって来た。「甘粥を入れた杉菜茶ができたの。冷めちゃう前に早く来て欲しいの」
 呼ばれた娘は甘粥と聞いたとたんに、きゃあ、と小さな喜びの声を上げた。
 商人さんも甘粥の杉菜茶があるうちに船頭小屋に寄ってねぇ。
 早くしてね、みんなで飲んじゃう前に必ず来てね。必ずだよぉ。
 彼女は早口でまくしたて、ぱたぱたと土埃をまき上げながら走り去って行った。
 一陣の軽風のような娘が消えて、彼はその無邪気さに皮肉めいた笑いを浮かべた。言葉すらかけられなかった老巫女は身に染み込んだ鬱屈を密やかに滲ませるだけだった。
 この匂いも悪くない、と彼は嗅ぐ。長い屈服と抑圧で練り固められた肉の薫りは嫌いではない。そっと歯を立てたなら、心地よく皮膚がしなってくれるに違いない。
 ここは良い肉が育つ場所。冬は雪が降るけれど春から秋は温暖で、くらしぶりは穏やかだ。人の醜味もふんだんに渦巻いている。
 川から吹き上げる風を受けて、老巫女が小鼻をひくり、と蠢かせた。彼の白いシャツに付着した、嗅ぎなれない苔の匂いを怪訝に感じたのだろう。
 だから彼はさりげなく風下に身を移し、穏やかな声で暇を告げた。
「それでは私は神主様のお家に上がります。今日か明日には気高い巫女様の所にも。朱色に熟れたどんぐりが、ぽとぽとと落ちる拝み家のお庭など見せていただきたく思います」
「来たかったらいつでもいいよ。わたしに仏降ろしを頼む者なんかいなくなって、いつだって暇なんだからねぇ」
 川からの柔風が老女の鬱屈した臭気を流し、彼は濃厚なそれを嗅いだ。美しい流れができている。今年は、あの女の肉に良い香味がまぶされる。
 湿りかけた土埃がどよりと道に淀み、麓の雑木が波のようにさざめいた。老女と別れの言葉を交わした後、彼は爪先の丸い洋靴を砂にけぶらせ、ゆっくりと村の方へと歩いて行った。
 
 
 二
 
 
「いつもの商人さんが、来てるの。東の方から訪ねて来てくれたの」
 土間玄関に船頭を迎えたスイが、細い声で伝えている。
 彼女は白い肌をした、ふくよかで大柄な女。どれほど夏の日差しに焼かれても、その肌が黒ずむことはない。ここに住みついて十数年。彼女の容貌は、若く瑞々しいまま老いの影もない。前はスイとそう変わらない歳に見えていた船頭は、今は彼女の父親と間違えられているというのに。
 外の木道を歩み去る船客たちがスイの豊艶な乳と腰に目を吸い寄せられる様を見て、彼はまた、嬉し気に笑う。美しい女。ふくふくとした、人ではない女。人に好まれて、崇拝される容姿で身を鎧い、宿主になる人間に憑いて長い、長い時を生きてきた。
 板張りの小屋の中、むしろ戸を跳ね上げた小窓から入る川風が涼しい。射し入る西陽の中、そこに集まっていた娘たちの匂いがゆっくりと外に押し流されていた。
 囲炉裏わきには紅葡萄と濃い朱色のどんぐりが盛られている。
 スイという名の女はぺたりと床に腰を下ろし、葡萄を蔓ごと頬張ってぶちぶちと音を立てて噛み始めていた。彼女は朱色の固いどんぐりも生のまま口に入れ、ごりごりと口中ですり潰して飲み込んだ。
「あたしと一緒に食べて欲しいの。歩いた後は酸っぱいものがお身体にいいの」
 女が手渡す枝つきの紅葡萄を、彼も珊瑚色の唇の中に押し入れる。
 固く、苦い枝や蔓を前歯で千切って奥歯で噛みしだくと、繊維の苦味と実の酸味が喉に沁みた。
「お前さんたちが……」側に座った船頭が、今日もあきれる。「枝やら蔓やらをぼりぼりとかじるのを見ていると、やはり人とは違うのだと思い知らされてしまうさ」
 村の船頭にしては垢抜けた風情。櫓を操る仕事だから肩やら腕やらに荒々しい筋肉が盛り上がり、川の日差しに晒されて肌も色濃く灼けている。それでも、眼差しも物腰も穏やかで、口調は静かで耳ざわりが良い。
 彼の出自は白い湯気が陽光を遮る、山峡の湯治場だ。豊かな客ばかりの宿で育ったから柔和な物腰が身に染みついて、田舎ぐらしの中でも消し去られることはない。
「あたし、やっぱり人じゃないの?」
 しなだれかかったスイがたずねると、葡萄の汁に染まった唇がぴしゃぴしゃと濡れた音を立てた。
「人だろうが何だろうが、俺はどうでもいいさ」
「ううん、あたし、人の方がいいの」
「人でも人でなくても、俺は気にしなかったさ。そうだろう?」
 見上げるスイの瞳は光彩と瞳孔が全く同じ漆黒で、どこに焦点が結ばれているのかが、いまひとつわからない。
 それは自分も同じ、と彼は思う。だから自分は決して目を見開くことはしない。いつもまぶたを眼に被せて細くして、長い睫毛で人を蠱惑に誘う瞳を隠す。この女のように吸い込むような眼差しで人を見上げたりなど、決してしない。
「そうね、信次さんが気にしないなら、あたし、人じゃなくてもいいの」
「人でなくてもいいけれど、人らしくはするんだよ。でなきゃここでくらしていけないのさ」
「うん、知ってるの。葡萄の蔓をかじったり、どんぐりを生で食べたりしちゃいけないの。信次さんたち二人の前じゃなきゃ、おちょぼ口で葡萄の実だけ食べるの」
 スイが船頭の顔に紅色の果汁に濡れた唇をよせ、その頬に葡萄の汁が付着した。村人の前では控え目な夫婦っぷりを演じているけれど、彼の前でこの二人は睦みごとを隠そうとはしない。放っておけばこのままもつれあって、お互いの身体を探るくらいは始めるだろう。
「信次さんが気にするかどうかの問題ではありません」彼は二人のじゃれあいを遮った。「この女がこの土地で、人として過ごすのは、もう無理があるのですよ」
 スイが船頭にもたれかかったまま、怪訝そうに彼を見つめた。
「信次さん、ここで何年くらしましたか?」
「わかっているさ。船頭の女房は歳を取らないって噂されてるって……」
「温暖な土地に家と、形ばかりの生業を準備いたしました。この女の見た目に相応しい戸籍も見繕いました。できれば冬になるより先に。遅くても春が来る前に」
「あたし、ここが好きなの」唇の中に朱色のどんぐりを差し入れながらスイが訴えた。「みんな優しいの。あたしとお喋りをしたいからって来てくれるから、ずっとここにいたいの」
「それが災厄のもとなのですよ」
 彼が明瞭な声で遮ると、女はごりごりと固いどんぐりを噛み潰しながら、意味がわからないといった風情で船頭の腕に絡みついた。
「スイは気にすることはないさ。それはしかたないからさ」
「口寄せ巫女に恨まれていますよ。巫女の身内の神主が、これが歳を取らないのは人面魚身の化け物を喰ったからだと言いふらし、産婆の実家は物の怪だと触れまわっています」
「村の者のほとんどは、これを水辺の観音様と呼んで好いてくれるさ。ただ、神主だとか名主だとかに嫌われてさ。スイが嗅ぎ当てたことを正直に言い過ぎて、怨みを買ってしまうから」
「これは人ほどに思索は回せない。嘘などと言う高等な話術は苦手な生き物なのです」
「当たるだけに始末が悪いさ。産婆は船頭の女房に頼るなら産の面倒はみないとまで言ったとか」
「あたし、悪いことをしたの? わかることを教えてあげただけなのに?」
 雀のようにさえずる村の女どもから、彼も噂を聞いている。
 跡取り息子を切望する杣頭の家の婆様が、嫁が孕んだ子の性別が知りたいと口寄せ巫女や産婆に詰め寄ったのは何年前の春だったろうか。産婆も神主も、寺の坊主も「生まれてみるまでわからない」と説き、仏降ろしをした凡巫女は「喰うに困った者に施しをすれば山の神さんが願いを聞き入れるかも知れん」と告げた。
 杣の婆様は訴えた。嫁も歳だからこれが最後の産になる。腹の子が女なら養子を取るか婿を取るかを早々に決めなければならないと。けれども腹帯をする前の胎児の性別など、誰に聞いてもわかるはずがない。
 娘たちが「失せ物探しが得意」と噂し始めたスイを、杣の婆様が頼ったのは初夏の頃。
 男児でなければ杣の家が途絶えると繰り返す婆様に、スイはころころと笑いながら、こともなげに言い放った。
「あたし、わかるの。お腹の中にいるのは男の子なの」と。
 数ヶ月後、産まれて来たのは男児だった。杣の家は歓喜し、産婆と神主と坊主と、そして口寄せ巫女が面目を失った。
「だって杣のお嫁さんのおへそやお女陰から、とろとろと男の子の匂いが漏れてたの」
 スイはひとかけらの邪気もなく言い続け、感謝と崇拝を得た。そして当然のように一部の者の根深い敵意を買った。
 老けない女だとか山の狐が化けただとか噂が流された。川に架けようとする橋がいつも秋には流されてしまうのも、船頭とその女房が呪っているためだと言い広められた。
 それでもスイに伺いを立てたがる者は増える一方だ。
「これの見立ては外れることがないからさ」船頭が茶碗の白湯を舐めながら憂いを浮かべた。
「隣村の本巫女も、西洋医学を学んだとか言う町医者も、機嫌を損ねています。面倒が起こる前に住まいを変えるべきでしょう」彼は額にこぼれる髪をかきあげながら勧めた。
「始末が悪いのはさあ、同じことを巫女とスイに聞きに行き『当て比べ』とか言っておもしろがる連中がいることで。霊力のない凡巫女と鼻の利くスイじゃあ勝負などわかっているのにさあ」
 近頃では家業をおぼえず木彫りばかりをしている炭焼きの次男坊が、スイを観音様に見立てた像を刻み始めた。絵心のある連中は、乳も露わな弁天様にスイの顔をすげて描いては酒やら米やらにかえている。
 噂を苦々しく語る時、船頭の信次は日焼けした繊細な顔に苦悩を湛え、スイはほんのりと微笑むだけだった。
 彼は考える。初老の船頭と若い女房。そしてか細い少年にしか見えない自分。知らない者がのぞきこんだら家族と思うかも知れない。女と自分は姉弟に見えるに違いない。
 彼は色白の無表情の中に笑みを隠す。期が、熟れている。ひっそりと安穏に生きた肉に、もうじき刺すような香味が加えられようとしている。
 ふと気がつくと、窓の真下にわだかまっていた日なたが、囲炉裏端まで淡く伸びていた。
 午後がなだからに過ぎて去って、じきに橙色の夕陽が囲炉裏の熾火に重なるのだろう。
「美しい名前の戸籍が手に入りました」彼は舌で葡萄の小枝を弄びながら告げる。「名前は『彗子』。『すいこ』と読みますので、『スイ』と呼び変えやすいかと。歳はまだ十七で、あと十数年は楽に使えましょう。武家が没落して西洋の商船に積まれた娘ですから後腐れもありません」
「いやいや、それは困るさ」船頭が遠い山郷の口調で拒絶した。「その彗子さんが里帰りなどしたら厄介なことになるさ」
 彼は葡萄の枝を噛み千切り、杞憂を吹き消す笑いを漏らして見せた。
「海を渡る船に遊び道具として積まれた女です。人の扱いは受けませんから戻ってくることなど、いえいえ、生きて彼方の国に着きもしないでしょう」
 船頭が嫌悪を滲ませて目を背けたけれど彼は畳み込むように言い放った。
「他人の戸籍で繕わなければ生きにくい。それに川に橋が架かれば信次さんも生業を失います」
「橋なんか架けちゃいけないの」スイが紅く染まった舌でひらひらと唇を舐めながら、めずらしく話に割って入った。「橋なん架けちゃったら川のお水が濁って、美味しいもみじ鱒が捕れなくなっちゃうの。身が黄色い鮎も遠い川下に逃げてしまうの」
「お前がそんなことを言ってしまうから……」信次がスイの髪に指を絡めてため息を漏らした。「俺たちが大水を呼んで橋の方杖を流したと噂されるんださ」
「大丈夫、今年は大水は来ないから、橋造りのお道具が流されたりしないの。でも橋なんか架けたら、川のお魚や貝が食べられなくなっちゃう」
 船頭は眉根を寄せて小屋の奥に据えられた、黒檀の位牌を眺めた。
 戒名も書かれていないそれは、スイに戸籍を取られた『翠子』という女のものだ。元は『みどりこ』と呼ばれたけれど、今は『すいこ』と読ませている。
 南の島の娘が、身分のある者と交わって産んだ子だ。けれども翠子は十八の時、流行り病を患って崖下の病み小屋に捨てられた。人が飯を投げ込むだけの小屋の中、彼女は糞尿にまみれたまま海鳥や鼠に皮膚を毟られ、腹に潜り込んだ蟹に内蔵を荒らされた。どこからともなく沸いた腐り苔で病み小屋が崩れて翠子が死ぬまで、浜の家の者どもは彼女の悲鳴に耳を塞ぎ続けたと言う。
 穢れた病み小屋での死よりは行方知れずの方が、まだ島外に聞こえが良い。だから親族は娘の死を隠し、翠子の戸籍を売り飛ばしたのだった。
「橋の地ならしが進んでいるし、船頭なんてもういらなくなるって、わかってるさ」
「五年前と去年、造りかけの橋が流されたのは船頭が邪魔をしたからだとか、化け物喰いのスイさんが呪いをかけたからだとか言われています」
「老けないと気味悪がられるのも、船頭が橋を喜ばないのも当たり前さ」
「立ち去るなら今のうちに。長く使える若い娘の戸籍はすぐに売れてしまいます。来歴を気にしてためらっているうち、他で買い手がつくかも知れません」
「わかっているさ」湯治場の物悲しい訛で男が呟いた。「彗子さんでいい。因業な戸籍を買って、どこかに二人で流れて行くしかないだろうさ」
「信次さんは聡いお方」彼は薄い唇に朱色のどんぐりを挟んで舌で舐める。「お代の半分はすでにいただいております。残りは二人が他所に落ち着いてから」
 つましく見える船頭だけれど、湯治場の老舗宿を売り払った金がある。この女の形をした者を連れて、一生、さまよいくらすことができるはず。
 明かり窓から忍び入る夕陽が、金色の舌のように囲炉裏端を舐め、そこはかとない薄暮が木陰や軒下に忍び入っていた。
「もうこんなに陽が傾いて」彼はひっそりと別れを告げる。「暮れる前に届け物をもうひとつ。ご挨拶まわりなどもしなくてはいけません」
 円座から、細い腰を上げるとスイが名残惜しそうに、ぱたぱたと別れに絣の袂を振った。
 間口に流れ込む陽光を背負って彼も袂を振りかけ、一瞬、動きを見失って立ち呆けた。
 スイが葡萄の匂いの息を吐きながらけらけらと笑う。
「西洋の服には袂がないの。お別れに袖を振りたくてもできないの」
「洋装は動きやすいのですが」苦笑いをしながら彼は囁き返す。「お別れの時に振る袂がないのが不便なですね」
 袂を振り交わす習わしも、いずれは消えてなくなるのだろう。彼の戸惑う様を船頭がめずらしそうに眺める中、袂のかわりにひらひらと白い手を振って彼は告げた。
「次の新月の後にまた参ります。それまでにはお支度を。お別れしたい方にはご挨拶を」
「誰にも言わないさ。黙って消えて、何年か後には忘れられるだけさ」
 片手で袖を振りながら、スイは葡萄を茎ごと口に含み続ける。この後、スイは船頭に口移しで噛みしだいたどんぐりやら紅葡萄やらを与えるのだろう。女の歯で粉にされ、甘い唾液を混ぜられた果実は今夜も人の男の滋養に変わるのだ。
 烏も雀も橙色の残光の中をねぐらに飛び去り、西陽に蒸された川面から水草の臭気が立ちのぼる。
 半眼にしていた目を大きく見開いて、彼は土手の船頭小屋を振り返った。
 あの小屋は、美味な肉を育む庇護の柵だ。育った苗を苗代から水田に移すように、あの肉を別の場に移す時期が来た。
 彼が歩き始めると革の洋靴が土埃をまき上げて、ズボンの裾に淡いけぶりをこしらえる。背後には朱色に熟れた夕陽。船頭小屋の影が、長く、長く、東の方に伸び続けているのだった。
 

 三
 
 
 弓に似た細い月が、梢の向こうの空に浮く。
 わずかな月光を照り返し、木の葉は夜光虫に似たさざめきを見せていた。
 雨雲がどろどろと流れているけれど、黄色い月の周囲にはまだ達してはいない。
 小づくりな水屋根の下に座って、竹柄杓で水を口に含むのは口寄せ巫女の時子だ。乾いた唇を透明な水に濡らし、見えないはずの両眼を天空の繊月に向けている。
「時子様、こんばんは」
 木陰から声をかけると巫女が、ひくり、と身体を固まらせ、月に向けた視線を地面の近くに泳がせた。
 白濁した両眼はほんのわずかだけ光を捉えている。全盲の方が霊力がありそうだからと、身内の神主に言われて何も見えないふりをし続けてきた。光に顔を向けてはいけない。人の顔あたりの高さに目をやってはいけない。親族から叩き込まれた処世術も、彼の目には滑稽にうつるだけだ。
「おやおや、これは商人さんかのぅ? 目の見える人が歩くには暗い時分だろうに?」
 怪訝と歓迎の感情が、淡い体臭になって萎びた肌から放たれた。
「申し訳ございません」いつも以上にもの柔らかい声を彼は出す。「細い月が美しくて、つい歩き過ぎてしまいました」
 女がふわりと安堵の香りを漏らした。当たり前だ。自分は礼儀正しく、無害なのだから。
 けれども一瞬の間をおいて、待ちわびた男ではないことを知った失望が、ゆるい羞恥を交えて老女の身体からしみ出した。
「巫女様の待ち人ではなかったこと、お詫びいたします」
「何をふざけたことを。わたしが誰を待つというのかねぇ」
 表情も動かさず言い放つ時子の言葉に、彼は細い含み笑いで答えた。
「気高い巫女様でもお心は女人でございます。心待ちにする方がおられたとして不思議がありましょうか」
「不細工な婆をからかうもんじゃあないよ」
 凡巫女が、ことさら乾いた声で笑って見せた。
 彼にはわかる。彼女が待っているのは船頭。スイという女の形の者が宿主にしている男。たぶん巫女自身も気づいていないだろう、心の奥深くに圧された恋情だ。
「あんたさん、神主の所に泊まっているのかのぉ?」
「はい。船頭小屋に寄って、夜は神主様のお屋敷に。巫女様の拝み家へのご挨拶が遅れましたことお詫びいたします」
「役立たずの凡巫女に挨拶なんて律儀なもんだなぁ」
 そっけない言い方だ。でも自分は嫌われていない。声を交わすのも厭われていない。なぜなら彼女を醜いと嘲ったりしないから。行かず後家と見下しもしなければ、凡巫女と蔑んだりもしない。この土地では、その程度の礼儀を守るだけで女にゆるやかな好意を寄せられる。
 もう一人だけ、哀れな凡巫女に礼節のある態度で接する男がいる。山郷の豊かな湯治場で育った船頭だ。顔をあわせれば柔かな物腰で挨拶をし、話しかける時はへりくだる。ただそれだけで、蔑まれ続けた凡巫女にひっそりとした思いを寄せられた。
「今夜は山吹色の細い月が美しい。尊い拝み家とせせらぎを覆う水屋根に映えておりますよ」敬意を含ませて彼は語りかける。「ご挨拶が遅れましたこと、そして夜分に女人が一人の拝み家まで来てしまった無礼を重ねてお詫びいたします」
「女人って、あんたさん」
 時子は黄ばんだ歯を月光に晒して干からびた笑い声を上げた。しゃがれさせた声。意図的に大きく落とした口角。彼女は今、必要以上に年寄りめいたしぐさと声をこしらえている。
「こんな皺だらけの婆ぁを女扱いもないなぁ」
「清らかな巫女様と言っても女人。夜遅くに男が立ち寄るなど本来なら避けること」
 背後から緩い秋風が吹き、彼が衣類に沁ませた香がゆるゆると巫女の方に流れた。女が小鼻を蠢かせる。腐り苔の臭いを消すために香を焚き込んだだけだ。けれども田舎の巫女には薫香に感じられるに違いない。
 しんしんとした秋虫の声がさざ波のように周囲に満ちて、ぽとり、ぽとり、と朱色のどんぐりが水屋根に落ちる。
 ここに実るどんぐりは濃い朱色を帯びている。それは代々ここに住んだ口寄せ巫女の霊気を浴びたからだとも、姦通して谷に投げ捨てられた巫女の怨みを吸ったからだとも伝えられている。
 てらてらと光る実だけれど、あまりに固くて渋いから、鼠も烏も餌にはしない。
「どんぐりの朱色が、きれいださ。少し拾ってもいいですかなあ」
 あれは十数年も前のこと。住みついたばかりの船頭が、彼と拝み家に立ち寄って、朱色のどんぐりを欲しがった。今よりは若かった巫女が、垢抜けた船頭に初めてであった瞬間だった。
「こんな大渋の実が欲しいのか? 鳥も鼠も見向きもせん実だぞ。繋げて数珠にするには弱いぞぉ」
 婆じみた所作を見せる時子に、まだ見習いだった船頭は街場の言葉づかいで応じた。
「固くてもいいんですさ。俺らは歯が丈夫だから。巫女様のお邪魔にならないよう、そっと拾いますからさ」
 あの時、男のやんわりとした語りかけに凡巫女の渋面がほぐれた。そして、女が男に惹かれる気配が周囲に、すぅ、と匂い上がった。もちろんそれは彼にしか嗅ぎ取れないものだったけれど。
 醜ければ醜いと言い、霊力のない凡巫女を蔑む。それが村の習わしだ。けれども富裕な湯治場で育った男は、醜女でも醜女として扱わず、貧しい凡巫女にも物持ちの奥様と変わらない態度で接した。ただそれだけの習性が、この女の心に沁み入って恋慕に変わったのだ。
 けれども遅れてついて来たスイが朱色のどんぐりをぽりぽりとかじり始めた時、巫女は嫉妬を発するより先に恋情を心の殻の中に押し込んだ。
「誰が実をかじっているのかのぉ? 鼠もリスも歯がたたない固さなのに?」
「これは俺の女房ですさ。ちょっと知恵が足りなくて何でも口に入れたがる女で……」
 船頭が慌てて言い繕ったけれど、耳の良い巫女は聞き取っていたはずだ。船頭の女房は、獣も喰わない木の実を楽に噛み潰す女だということを。
「どんぐりの朱色が美しい。私も少し拾ってもいいですか」
 あの時の船頭の声音を思い出し、彼は慇懃に聞いてみる。
「こんな大渋の実が欲しいのかね?」聞き返す巫女の言葉が過去の声に重なった。
「この渋味を好む者が山をいくつか越えた水郷の村にいるのです。すり潰して麹に混ぜると土地の漬け物になじむのだとか」
「物好きもいるんだねえ。こんな屑みたいなどんぐりをなぁ」
「場所が変われば人の好みも変わります。ここでいらないものも、他では値打ちが出たりするのです」
「いらないものがねえ」巫女が萎びた唇から饐えたため息を漏らした。「他に行くと、いらなくされたものが、役に立つのかねえ」
「欲しがられるものは場所によって異なります」
 いらないもの。その言葉が彼女の心を抉るのだ。
 船頭の女房のスイが鋭敏な嗅覚を使って、物ごとを言い当て続けている。
 次の季節の天候、失せ物のあり場所、山から猪が下って来る時期、全て彼女が人々に知らせた。凡巫女の時子が曖昧にするしかなかった事柄も、スイという女が次々と明るみに出してみせる。川向こうの寒村から盗人が流れて来ると言い当てたのは何年前だったろうか。見せ物師が逃がした毒蛇が、石屋の裏にいると嗅ぎ当てたのはつい三年ほど前だったはずだ。
「尊い巫女様もお辛いことを心に抱えていらっしゃるようで」
「尊くなんかないよ。わたしに様なんぞつけなくていいんだよぉ」
「いいえ、あなた様は尊く、美しい巫女様です」
 女が大声で笑った。夜気を裂く物の怪じみた笑いを、巫女は自分の耳で聞き取って、自らを虐げているのだ。
「どうして笑われるのでしょうか?」
「だってわたしが美しいとか言うからだよぉ」
「美しい女人を美しいと言っているだけなのに?」
 途切れることなく秋虫がさざめく中、固いどんぐりが水屋根の上に落ち続けていた。ぽとり、ぽとり、と断続する音が時の流れを曖昧に変えるかのようだ。
「あんたさんは酒を飲み過ぎたのではないのかねぇ」
「いいえ、本当に巫女様はお美しい」
「醜い婆だと言われているよ。目も見えず不器量だから嫁のもらい手もなく、だからここでこうして……」時子は少し言葉を切って、そして続けた。「凡巫女として村に飼われていたんだよぉ」
 弁の立つ神主の身内だから、大した霊力もないのに口寄せ巫女に据えられた。
 先にここに住んでいた巫女は村を追われた。神主と仲違いをした寺の坊主の姪だった。まだ若い女だった。時子より霊力もあったし神や仏を降ろすこともできたのに、坊主が病死したとたん放逐されたのだ。その後は流れ巫女になって身を売りながら、凡巫女すら居着かない荒んだ土地を巡ってのたれ死んだとか。
「失礼ながら巫女様はご自分のお姿をご覧になったことはあるのでしょうか?」
「目なぞ餓鬼の頃から見えていないよ」
 醜いと言われて来た女だ。輪郭は板のように四角くて、鼻は横に広く、鮮度を失った魚のような目をしていると聞かされ続けていたのだろう。自分がどれほど醜いのか、他人はどれほど美しいのかもわかっていない。ただ、鋭敏な耳に、醜女、不細工、といった陰口が、情け容赦なく届けられているだけだ。
「巫女様は醜くなどありません」
 水屋根の下、身を寄せて語りかけると、その口調の強さに老女が軽くたじろいだ。
「巫女様が醜いなどありえません。こんなに美しい光輝を放っておられるのに」
「何をばかなことを……」
「美しいものを美しいと言っているだけのこと」
 細い弓張り月が群雲に覆われて、みっしりとした闇が拝み家の周囲にたれこめた。暗がりの中には、どんぐりが屋根を打つ音と渓流のせせらぎに似た虫の声が響くだけだ。
 巫女の逡巡を彼は明瞭に嗅ぎ取っていた。
 この村の者は自分を醜いと言うけれど、様々な土地を知る商人は美しいと褒める。それならば、と哀れな巫女は思うだろう。賑やかな場所に住んでいたという船頭にも、自分は少しばかり美しく見えているのだろうか、と。
「巫女様の美しさ、そして金色の光輝。ここらの者には見えなくても、街場にいて少しばかり学を与えられた者にははっきりと見えるのです」
 巫女の頬に火照りを帯びた血色が増し、老いた女が娘のような恥じらいにくるまれた。
「わたしには霊力も光輝もないよ」
「尊い巫女様がへりくだる必要はございません」
 しんしんと鳴き続ける秋虫の声と、水屋根にぴしぴしと弾けるどんぐりの打音が眠気にも似た朦朧を誘う。
 女が、しゃがれ声で語り始めた。
「あちこちの村にこんな女がいるんだよ。目が悪くて野良仕事もできないから、霊力なんぞないのに拝み家に置かれて村に養われている女がねぇ」
 死者を呼び戻し、神仏の依代になれる口寄せ巫女だけではない。勘と話術だけを頼りに凡巫女として生きている女も少なくないのだ。
 死んだ身内があの世で恨んでいないかどうか、この嫁取りは吉か凶か、その程度なら霊力がなくてもわかる。噂話に耳を傾けていれば、死者が誰を恨んでいたのか、縁談の相手の評判はどうかくらいは自然と知れて来る。
「そりゃあわからんこともあるよ。そんな時は霊力のある本巫女に聞けと告げるんだよ」
 訪ねる人々の繰り言を黙って聞きくだけのこともある。喋るだけ喋った者は胸のつかえを吐き出し、聞かれたことで救われる。疲れ果てるまで語らせた後で「山の神様はお前さんを許している」とか「先祖さんもあんたの気持ちをわかっているはず」などと、おもむろに肯定してやれば、するりと納得されて拝み代を捧げられ、凡巫女として生かされていた。
「なぜ巫女様はそんなにご自分を貶めるのですか?」
 優しげな、甘やかな声音で、彼は巫女の耳元に吐息めいた言葉を放った。
 次に巫女のやせこけた両肩を細い腕で軽く、軽く包み込む。それは男の抱擁ではない。あどけない童子のすがりつきだ。決して色香を漂わせない。けれども確かに女の心をざわつかせる。
「わたしは人の話を聞くだけの凡巫女……」女は嘆いた。「光輝も霊力もない……」
「これほど皆様に慕われているのに?」
 慕われている? 船頭の女房と当て比べに負けて恥をかき続けているこの自分が?
「慕わなければ、慕わせればいいだけの話」
 巫女の耳たぶから皮一枚ほどの位置に唇を寄せて彼は囁いた。
 次に聞き慣れた湯治場の訛をなぞって、言葉を息に混ぜて巫女の耳に注ぎ入れる。
「尊い巫女様を物憂くさせるのは悪。害悪を取り除くのも巫女様の大切なお役目だと……、俺は、思うさ……」
 巫女の心が、揺れた。肩を抱く彼と、思いを寄せる船頭が重なって、あえかな喜悦が肌の周囲に匂い立った。
 船頭と自分は似ていない。けれども二人は似通っている。凡巫女を蔑まない。醜女と言わない。いかず後家の婆と見下さない。そして、垢抜けた言葉で礼儀正しく話しかける。だから少しだけ船頭の声音としぐさをなぞるだけでいい。それだけで巫女の中で二人がたやすく混じるのだ。
「わたしを物憂くさせるのは悪、かねえ……」
「悪いことだと……、俺は思うさ……」
 首筋や耳元に淀む体臭が巫女の見る幻を伝えていた。耳道をくぐるうち、彼の呟きが船頭の囁きに変えられた。両肩にまとわる少年めいた男が、筋肉の盛り上がった船頭に重なっている。
 屋根に落ち続けるどんぐりは途切れない。虫の音が静まってきたのは、湿度が増したためだろうか。細い月は、濃い雲にくるまれて周囲に濃密な雨の気配がたちこめている。
「当て比べに敗れているのではなくて」彼は指で巫女の頬のうぶ毛に触れながら呟いた。「巫女様が人を導こうとしていないだけ……」
「人を、導く?」
「巫女様のお力は、つまらない物ごとを言い当てるためのものではありません」
 指で肌に触れ、女の口元の皺を一筋一筋を淡くなぞりながら囁く。今、女の皮膚と彼の指紋がかすかな摩擦をこしらえて、巫女の頭部にあわあわとした微熱を運んでいるはずだ。
「お言葉を事実に変えるのがあなた様のお役目なのだと」唇を耳たぶに重ね、巫女の体温を吸いながら彼は吹き込んだ。「なぜ、お察しにならないのでしょうか」
 自分の息は芳しい。人を惑わす薫りを含む。だから巫女の心を惑わせて、その有り様も変えられる。
 今、船頭の声が甘い調べで巫女をかき口説いている。
 女の瞳が濡れていた。何も見えない暗がりの中、その目が確かに愛しい男を捉えていた。
「巫女様を煩わせる者は消せばいい。そうすればあなた様への敬意は蘇り……」本来の声と船頭の言葉の中間あたりを探りながら、彼は囁く。「必ず巫女様のお側に……」
「消せば……? そうしたら、わたしの側に……?」
「ええ、必ずあなた様のお側に。あなた様をいらなくしようとした女を消し去れば……、必ず巫女様のお側に」
 ぱらぱらと梢に当たる雨が起こり、朱色のどんぐりに混じって細かい水滴が屋根を打ち始めた。
 細い月は濃灰色の雨雲に隠れて、もう光を滲ませることもない。
 闇の中で巫女の肌がくゆり立った。目の前にあの男を感じて、なまめいた薫りを放っているのだ。
「巫女様のお役目は導くこと。あなた様こそが村を統べる観音様」
 彼は女の乾いた束ね髪の毛先をゆるく解きほぐした。
「お美しい髪……」
 頭皮をまさぐると巫女の唇が蠢き、かすかな空気の流れで彼はその声を読んだ。
 信次さん、と撫でられた巫女は確かにそう呼んでいた。
「小雨の湿り気を帯びて、髪がこんな香気を放って」
 細い指先が、頭皮にわだかまった皮脂を乗せて老いた髪を梳いてゆく。脂をまとわされた毛先がつるつると滑り出す。
「わたしはこんな婆だし、髪は白髪だよ」
「いいえ、私には天女の黒髪が見えるだけ」
 毛先を一束、唇に挟み、毛先に行き渡った脂を舌で舐める。胸元に浮いた肋骨をそろそろとなぞり上げると巫女の吐息に細い声が混じった。ほんの少しの触れごとなのに、老いたはずの巫女がぞっとするほど女めいた体臭を漏らし始めていた。
「邪魔な者を消してくだされば必ずお側に……。ずっとあなた様のお側に……」
 彼にはわかる。この女は恋情を心に押し込めたことにすら気づいていなかった。感じていたのは、柔らかな物腰で接してくれる男の側に、別の女がいることへの苛立ちだけだ。
「わたしは、どうすれば、邪魔な者を消せるのかねぇ」
「橋を架けるの架けないのとの話があるとか」
「橋……?」わずかな興冷めが潤いかけた皮膚からしみ出した。
「橋を架けるなと言う者を」指を巫女の鎖骨の窪みに当て、少しの切なさをこしらえるために、きゅぅ、と押した。「消せば良いのです。神主も名主も橋が欲しいから、そこに一役買えば巫女様を崇めます。そして、橋が架かれば生業もなくなり……、巫女様のお側に……」
「あんたさんを、信次さんを呼ぶために、何を言えばいいのかねぇ」
「橋を架ける時の習わしがあるでしょう」女の耳にかかる後れ毛を、唇でつまみながら彼は言う。「このあたりでよく行われている、川の神を鎮める儀式を起こしてください。近年、蛮習と呼ばれて隠されて、いらなくされかけた習わしです。巫女様、もうじき川があふれます。それを言い当てて、古くから伝わる儀式を蘇らせるのです」
「川があふれるのかねぇ」夢幻に漂う口調が聞いた。「観音様呼ばわりされるスイさんは、大水は来ないと言っているよぉ」
「大水が出ます。巫女様がそう言えば、川は暴れるものなのです」
「わたしが、言うのかねぇ」
「先ほどより巫女様の光輝が増し、眩しいほどなのが、おわかりになりませんか。水が出る、鎮めの儀式をしろ、と巫女様が告げるのです。いずれ誰もがあなた様のお言葉に従うはず」
 雨音が密になり、虫たちはいつしか鳴き声を止めていた。
 両腕でゆるく抱くと、巫女が船頭を前にした時と同じ体臭を強く放っていた。
「一言、告げるだけ。耳を澄ませば少し上の神主の屋敷にまだ人が起きている気配がわかります。私は巫女様の眷属。彼らをここに呼ばわる役目も引き受けましょう」
「言い比べに負けてばかりの凡巫女の言うことなんぞ聞くものか」
「従います。皆がひれ伏して崇めることでしょう」
 飽和した湿気に潤う唇に、彼は自分の吐息を注いだ。
 女の指が闇間を泳いで彼の首筋を探り当てた。
 生え際を、ひび割れて荒れた指先がなぞる。彼の皮膚に巫女の爪が喰い込んで、細い月とそっくりな弧を刻んだ。
 抱くくらいはしてもいい。けれどもやり過ぎてはいけない。乙女は触れ過ぎれば後ずさる。無垢なまま枯れた女には、唇を軽くあわせて抱きしめるくらいがちょうど良い。
 浮き上がった鎖骨を唇で挟むと、舌先に塩辛い巫女の汗の味がした。
 苦渋ばかりが染みついて、そして一瞬の歓喜が混じり込んだ渋い味だ。
 これはこれで悪くない。歪力で圧された人の肉も美味なもの。一時だけまぶされた陶酔が、まろやかな苦味を引き立てるはずだ。
 これから自分が呼ぶのは神主やら名主やら豪農の主やらだ。あとは恍惚境に陥った凡巫女が教唆することだろう。
 甘い肉に香味を加える儀式を思って彼は身を震わせる。
 これから繰り広げられる狂宴に彼は喜悦し、巫女の中に灯った狂気を嗅ぎ続けていた。
 
 
 四
 
 
 急速に大きくなった雨粒が叩きつける中、彼は濡れそぼった姿で神主の家にかけ込んでみせた。
「巫女様が、お呼びでございます……」
 珊瑚色の唇をひらめかせて息を喘がせると、手拭いを持って駆け寄った女たちが動きを止めて見ほれてくれた。
 短く切り揃えた黒髪から透明な雫が頬に伝い、白シャツは肌に貼りついていた。濡れて震える自分の姿は、否応なしに彼女らの目に焼きついたことだろう。
 白い頬が、雨の冷気で青いほどに透けていたはず。唇の赤味が人々の目に、ことさら映えていたに違いない。
 乾いた手拭いで髪を拭きながら、彼は肩を小刻みに震わせながら繰り返した。
「拝み家の巫女様が、急なお伝えごとがあるとお呼びです」
「大切なお告げが降りて来たと、言っておられました」
 何も知らないよそ者として、ただ真摯な表情で訴えた。
 誰も、なぜ彼が巫女の言葉を運んで来たのかなど問いはしなかった。
 秋の仕事がおおむね終わった頃だ。明日、急いでする仕事はない。手持ち無沙汰な男どもが神社の裏家に集まって濁酒などを舐めている時だったから、ぶつぶつと小言を漏らしながらも皆が拝み家に向かってくれたのだ。
「大水が出るよ。昔から伝わる鎮めの儀式もせずに橋を架けようとするから、竜神様が怒っておられるよ」
 集まった者たちを前に凡巫女が大声で告げたけれど、ほろ酔い加減で雨の中を呼びつけられた彼らは、ただ不機嫌を示すだけだった。視力のない巫女の座敷に灯りはない。人々の手燭も雨で消え、拝み家の座敷には外と同じ闇が詰まっていた。
「時子婆さん、これしきの雨で川があふれるはずはないだろうに。暗くなってから急に呼び出されてもなぁ」名主が面倒そうな声を出した。呑んだ酒が饐えた息になって吐き出されていた。
「しかもまだ降り始め。どこまで降るかなんぞわかりゃあしないしなぁ」百姓頭の一人が同意の声を上げた。着物にこぼした魚鮨の麹が、酸味のある臭気を伝えている。
「スイさんが今年は大雨にならんと言うから、誰も川の心配なんぞしてないぞぉ」酒好きの大工が口をすべらせて、神主に肘で軽く打たれた。
「竜神様の使いが降りて来たんだよ。橋を架けるなら言い伝えられるしきたりを守れと、そうしないと村を流すと告げているんだよぉ」
 一度も人に言い返したことのない巫女が、その夜は朗々とした声を張り上げた。
 この老女は神主の飼い犬だ。男どもを前にして堂々と言い放つなど、ありえない。お告げが外れたから拝み賃を返せと言われれば、頭を下げて金を戻すような凡巫女のはずだ。
「わたしの言うことを信じないなら、皆、戻ればいい。何日か後には何が正しいのか、わかるはずだからねぇ」
 何も見えない暗がりなのに、拝み棚の前で女が笑ったことを全員が悟っていた。そしてこちらに背を向けて座る巫女の気配が、妙になまめかしいと誰もが感じていたはずだ。
 凡巫女のたった一度のお告げで人が動くはずがない。それは彼の思惑のうち。もうじき川はあふれる。その時こそ、巫女の言葉が意味を持つ。今はただ前触れを作っておくだけだ。
「僭越ながら」座敷の隅で彼は細く声を上げた。「時子様のお言葉は真実かと思います。あちこちを巡る私には卓越した巫女様のお力が見えるのです」
 つまらんことを……
 よそ者が何を言うか……
 スイさんの方がきっちり当てるぞ……
 座敷に詰めた男どもが、お互いの顔も見えない中でぞよぞよと喋り交わし、神主があからさまに苛立った。
「信じないならかまわないよ」巫女が鷹揚な口調でたしなめた。「川があふれんと思うなら、今夜は戻れ。後で竜神様にすがりたくなったら、またここに来ればいい」
 拝み家は底冷えがする。急に降り始めた秋雨がほろ酔い人々の体温を奪っていた。だからその夜は全員がすぐにその場を後にした。凡巫女のたわごとにつきあってなどいられないと言う訳だ。
 人々の群れに従いながら、彼は巫女に笑顔を投げかけた。暗闇の中、ほとんど視力のないはずの女が振り向いて、その微笑みを確かに受け止めて婉然と笑い返してくれた。
 人の女はおもしろい。そう彼は思う。干からびて、萎びた女でも、深奥の熾火を焚きつければ、しなやかな艶を帯びる。内側から湧き出す念に従って、枯れた女も力を漲らせてくれる。
 もっと長く生きるなら、この女の肉も良い味に育つはずなのに。彼は嘆く。人の短命が無念だと唇を噛みしめるのは、いつもこんな瞬間なのだ。
 
 
 川があふれたのは、それから少し後のことだった。
 上流から濁流が押し寄せて、河川敷に水があふれ出した。茶色い水が小高く盛られた土手の高さに近づいて、やがて村を浸すのは目に見えていた。
 大水を恐れるほどの雨ではない。本来なら土手を越えるような雨量では決してない。
 河川敷を浸した水に、上流で堰を組んでいた木材がごっそりと混じっていたから、人々は何が起こったのかを悟ったのだった。
 山間をうねる川にはいくつも櫓状の堰がある。
 このあたりでは古くから、木製の堰で流れのあちこちをせき止めて、細かな治水を施してきた。木と木の組み目は苔や芝に泥を練って固め、上下に開閉する水門を操って、必要に応じて放流する。それぞれの堰は小さい。ひとつ壊れたくらいで大事になりはしない。けれど、全てが一度に崩れたから麓には川があふれる水量がなだれ落ちたのだ。
 雨に足止めされて留まっていた彼は、淡々とそれを聞き、「巫女様のお告げが、当たりましたね」と人々に囁き続けただけだった。
 土手の高さに、水がひたひたと迫り、村の主だった者たちが拝み家に集まった。前と同じ顔ぶれに、さらに数名が詰めかけて、みっしりと身を寄せあっていた。
 凡巫女の座敷は拝み棚を設えた一間に土間があるだけの古い家だ。まだ雨漏りまではしていない。けれども、土壁の天井付近には雨水の浸潤が黒雲めいた模様を広げている。
 焼けて黄ばんで、さらに雨の湿気で波打つ畳にぎっしりと男たちが座り込み、重苦しい汗の臭気を充満させていた。
「だから言ったろうよ」
 こちらに背を向けて拝み棚に向かった巫女が張りのある声を上げた。
 おどおどとした小声の女だったはずだ。背中を丸めて、自信なげにお告げをする姿しか見せたことがなかった。
「川があふれると、わたしは言ったよ。今年は大水が来ると、あんた方を呼びつけて、繰り返し言ったろうよ」
 激しい雨音を圧する声に、男どもが肩を竦めて聞き入った。巫女の声が澄み渡っている。ほとんど光を捉えていないはずの双眸に、射すくめるような光が宿っている。
「川の竜神様が怒っているのだよ。だからこれしきの雨で水が土手を越えそうになるんだよ」
 一対の灯明が土壁にちらつき、今夜も床下からしんしんと冷たい湿気が這いあがっている。
 より巨大になった雨粒が板葺きの屋根で太鼓に似た音を響かせ続け、間断なくこぼれ続けていたどんぐりは全ての実がもぎ落とされていた。
「橋の土台もみんな流されたぞ」「また大損を出して、これじゃあ身代を持ち崩すわなぁ」名主と神主が囁き交わしていた。
「川原にためていた馬草もごっそり持って行かれて」「冬場に牛馬がやせてしまう」豪農と呼ばれる者どもが表情を歪めている。
「スイさんが言い外したのぅ」「巫女さんが当て比べに勝ったなぁ」「神社の信用も少しは上がって橋造りもやりやすくなるんでは」ひそひそと神主の腰巾着どもが耳打ちしあっていた。
 黄色い灯明の中に黒い芯が焦げた。年取った凡巫女の顔に濃い陰影が造られ、そこに奇妙な妖艶さが漂っている。
「だからわたしが言っただろう」高々と巫女が声を響かせ、座敷に詰め込まれた男たちが口をつぐんだ。「川があふれると告げただろう。古くから伝わる川鎮めの儀式が要ると、言っていただろうに」
 川鎮め。その言葉に人々がかすかに凍りついた。人々の肌に滲んだ怯みを嗅いで、彼はそっと人目につかない土間の暗がりに身をひそめた。
 華奢で小柄な彼だから、気配を殺せばわずかな陰に隠れることができる。よそ者の姿など見えない方が良いはずだ。守り伝えられたしきたりも、この頃は蛮習と決めつけられている。人々は否応なしに、古来のしきたりを恥じるように変えられたのだ。
「船頭夫婦も小屋を離れたようだなぁ」鍛冶屋が話を変えようとした。
「水が出たら村外れの納屋に住まわせてもらう取り決めだからなぁ」百姓頭の一人がそれに乗った。
 巫女は彼らの声など耳に入れず、ただ雨音を聞き、雨量が弱まる時を待ち続けていた。
 秋風は里から山へと吹き上げる。だからあの女は山の堰の決壊を嗅ぎ当てられなかった。
「川はもっと荒れて、村も、川原も根こそぎ流すのだよ」拝み棚を離れ、薄苔が張った雨戸の前ににじり寄って、巫女が高々と声を上げた。「今のうちに川鎮めの儀式をしてしまうんだよ。大昔の石祠の穴が、今ならまだ開けられる。水が上がって穴が沈む前に終わらせろと竜神様が告げておられるよ」
 雨の打音が少しばかり弱まっているのを、物陰で彼も聞き取っていた。濃い雨雲が流れ去って、今からほんのしばらくは外歩きできるようになるだろう。
「巫女でもない流れ者の言いぐさを真に受けたから、神様が怒って雨を降らせているんだよ」
 雨音に降りこめられた空間に、凡巫女と呼ばれていた女の鬼気を孕んだ声が満ちた。
「巫女さん、巫女さん」名主が権高な物言いをひそめて、遠慮がちに声を発した。「あのですなぁ、少し雨をひそめてもらうのは無理ですかのう。田や畑に水が来ないように」
「巫女様よぉ、橋がこれほどに流れるのは、竜神様が怒っておられるからですかのぉ」おずおずと禿頭の百姓頭もたずねた。
「怒っておられるよ」巫女が異様に良く通る声で言い放った。「こんな大雨が来たのも、何度も橋が流されるのもみんな竜神様が機嫌を損ねておられるから。妄言で村を惑わしたよそ者を差し出さなきゃいけない。昔から伝わるやり方で、鎮めて差し上げなきゃいけないんだよ」
 あなた様をいらなくしようとした女を消し去れば……
 必ず巫女様のお側に……
 あなた様こそが村を統べる観音様……
 彼が囁いた言葉が、今、巫女の中に繰り返されているのがわかる。
「大昔から伝わるやり方で……」ほのかな狂気を漂わせながら、女は艶やかな声を上げた。「鎮めなければならんよ。でないと橋だけじゃなく、村が流されてしまうのだよぉ」
 巫女の鬼気に呑み込まれて、男どもが恐れ戦いて、拝み家全体がどよめきで震えた。
「鎮めるというのは……、昔ながらのやり方というのは……」
 神主が途切れがちな物言いで疑問を口にした。
「お前さん、知っておるだろうよ」
「いや、それは……」
「水を鎮めるのは人柱。雨風を収めるのも人柱。橋や道を通すにはそうしてきただろうに。橋も道も竜神様やら土地神様やらを踏みつけるもの。女を一人、埋めればいいよ。村中を惑わした、あのよそ者がいいよぉ」
 それは野蛮だと言われるぞ……
 人を生け贄にすると投獄すると町の役人が怒鳴っていたし……
 そもそもスイさんは水辺の観音様と言われるくらい慕われている女だし……
 集まった者どもが消え入りそうな声で言い交わす。
「流れ者が観音様を名乗るから竜神様は怒ったのだよ。それとも名主さんの末娘を埋めるかねぇ。あれはめんこい生娘だ。それとも双子杉の家の正代さんがいいかねぇ」
「いや俺の娘は祝言が決まっているから」名主が震え声を上げた。
「うちの正代は奉公が決まって支度金ももらってしまったから」豪農の当主の声も被さった。
 雨がさらに弱まって来た。灯明がふらふらと揺れて、巫女の顔にさらに深い、謎めいた影をこしらえ上げた。
 彼は土間の物陰に座り込み、ひっそりと女の思考が体臭になって放たれるのを嗅ぐ。
 巫女の内奥に塗り込められた理性が呟いていた。あの女がいなくなれば巫女の位置は保たれる。女房を失った男が自分になどなびくはずはない。ただ、あの女がいなくなればいい。寄り添う女がいなくなる。それだけでいい。男の隣が空白であるだけで、醜い老女の自分は救われる。
「早い方がいいのだよ」巫女が謡うように言った。なまめかしい声だった。そして双眸に燐光が煌めいていた。「注連縄も紙垂も榊も、なんもかんも後でもいいそうだ。石祠の穴が水に浸かる前に人柱を埋めてしまわないと、手遅れになるよぉ」
 いや、隣町に巡査が住むようになったし……
 山向こうの校長も蛮習を廃するとか説き回ってるし……
 時々、役人が視察に来るようになったし……
 口ごもる数々の言葉が、わやわやと灯火の揺らぎの中を行き交った。
 だから、彼が物陰から細く、良く通る声を上げた。
「土地に伝わる習わしには、必ず大切な意味があるものです」
 鈴を振るような、と褒められる自分の声。いちいち聞き惚れられると面倒だから、普段は落ち着いた低音で話す。けれども今は意図的に澄んだ、清らかな声音をこしらえた。日に灼けた男たちの中、自分の肌が白く、神々しく浮き上がっているはずだ。
「西洋だとか帝都だとか」彼は皮肉めいた笑いを少しだけ、漏らす。「どこにあるかもわからない場所のやり方に、訳もわからず従うのは愚かなこと。いらないものにされた土地の神々がお怒りになるのも当たり前です」
 彼の声の語尾に、巫女のお告げが朗々と重なった。
「このままだと村を沈めるそうだ。人柱を立てさえすれば水を引かせると竜神様が言っておられるよ。川がおとなしくなったら、橋を架けてもいいと言っておられるよ」
 どより、と座敷に詰まった者どもの空気が動いた。
「神様が降りて来たんだぞぉ」
 誰が言うともなく、拝み家の土間に声が上がった。
「水が土手を越えないようにしなければのぉ」
「早めに竜神様を鎮めなけりゃあなぁ」
 ぼそぼそとした声が徐々に高くなって行く。
「人柱が要るんだな? それも今すぐに立てるんだな?」
 頬を紅潮させた神主が高々と言い放ち、その言葉の重みに皆が一瞬、黙り込んだ。
「人を惑わせた女を捧げるのだよ。そうすれば川も山も鎮まって、何もかもが丸く収まるのだよ」
 巫女の断言がどよめきに終止符を打った。
 座敷の隅から拝み棚に目線を投げると、彼の瞳と巫女の視線が今夜もまた、確かに絡みあった。
 雨音が静まっている。流れ続けた雨雲の切れ間が、今、この村の上空にさしかかったのだ。
「竜神様が少しの間だけ、雨を止めてくれるそうだ。今を逃したら後はないよぉ」
 巫女が甲高く叫んだ。そして、それを合図に男どもがなだれるように拝み家の外に走り出して行った。
「尊い巫女様もご一緒に」
 空になった拝み家の外で、彼は蛇の目をさしかけて老女の手を取った。
 ほんの短い間にしっとりと潤いを増した女の手の平が、吸いつくように彼の手に乗せられる。
 拝み家から踏み出すと、そこには濃い朱色のどんぐりが敷き詰められていた。強雨で一気に落とされた木の実が地面を覆い、雨雲の亀裂からのぞく三日月に濡れ濡れと照らし上げられている。
「巫女様に相応しい緋の毛氈のよう」彼は呟いた。「尊いお方が踏みしめるさざれ石のかわり」
 薄い、淡い月光の中、ほのかに浮かび上がるのは小さく萎びた老婆。けれどもその体臭は、いつか、どこかで嗅いだ貴い女人により近い。
 彼は黒い蛇の目をさしかけて女を小雨から守る。
 黒ずんだ足指の間に草履の縄緒を挟み、巫女が朱色の道をさくさくと歩んで川へと歩き出す。彼は悦びに口角を吊り上げ、眷属の童子のようにただつき従うのだった。
 
 
 五
  
 
 雲の裂け目に細い月が覗く中、灰色の雨がまた降り始めた。肥大する雨粒が黒々とした蛇の目を打つ。
 雨を遮る傘の中、彼は巫女に寄り添って、ひっそりとその狂宴を眺めていた。
 縛られた半裸のスイが、雨の中を担がれて人柱の穴へと運ばれて行く。彼女はぐねぐねと身体をよじらせようとするけれど、黄土色の縛めが白い肌に喰い込むだけだ。
 彼女の口に二本の薪が噛まされていた。黒々とした木肌が、口角を裂くように喰い込んで女の悲鳴を妨げていた。
 女の奥歯がぎりぎりと薪を噛もうとするけれど、丸めた布を詰め込まれた口は閉じることも、上下の歯をあわせることもできはしない。
 スイの歯は獣の歯。人が噛めないものも簡単に喰い切ってしまう。取り押さえられ、縛り上げられる時も男どもの腕や指を何本も噛み千切った。
「その女の口に布を詰めろ。歯と歯が噛みあわさらないようにすればいいんだぁ」
 スイが暴れ狂う中、黒い蛇の目の中から巫女が叫んだ。
 遠い昔、あの女が固い朱色のどんぐりを、こともなげにぼりぼりと噛む音をおぼえていたに違いない。
 水辺の観音様とまで讃えられた女の口に、男たちは汚れた布の塊を詰め込んだ。
 次に閉じられなくなった口に薪を数本、横に叩き込み、外れないように手拭いで縛めた。
 女の真っ黒な瞳から、たらたらと涙が垂れて雨に混じる様に、彼はほくそ笑む。
 長く愛でられて、やわやわと肥えた肉が、今、苦痛に引き締められて味わいを増している。
 大丈夫。少々、痛めつけられてもあの女の回復は早い。人を惹きつけて憑く生き物だから、傷を負っても、内蔵が弱っても、容色だけは死ぬ瞬間まで衰えることはない。
 川の水かさが増している。河川敷の枯れ草は茶色い水草になって揺れている。
 雨滴の間隙をぬって漂う薫りを彼は嗅いだ。全て思惑通りだ。川上から流されて来た木材は、濃密な腐り苔の臭いを含んでいる。
 木に浸食して繊維を溶かし、内側からじくじくと腐食させる苔がある。遠い南の、翠子という名の女がいた島で生まれた植物だ。この苔は病み小屋を倒壊させて翠子を死なせ、その後には全ての家と漁船を朽ちさせて島の村を滅ぼした。
 この近辺に変種の苔を知る者はいない。南国の苔はどれほど大量に植えつけても、この土地では冬の寒気で死に絶える。
 彼は、また嗤う。
 翠子の名を買った女が住みついてから毎年、この苔を運んで来た。先代を名乗っていた時期から、春になれば山中の堰に苔を植え込み続けていた。木材の継ぎ目は苔と泥で埋められ、南国の腐り苔を重ねても、堰職人すら気づかない。
 夏の間、腐り苔は木材の中に深く浸潤して、外に腐食の臭いを漏らしはしない。
 目と手触りだけで育ち具合を調べて、腐り方を確かめて、ありがちな秋の大雨で堰が一度に流される加減を模索した。
 鋭敏な嗅覚で物ごとを言い当て、観音様とまで崇められたスイも、南方の遠い島にしか育たない苔の臭いなど知りもしなかった。
 彼は決して賭けなどしない。物ごとを見据えて、確実に起こる事象を導き出しただけなのだ。
 縛られた女が、おののいている。温和だった村人の豹変に恐怖している。それは肉の味わいを引き立てて、深い味わいと弾む歯触りをこしらえ上げるに違いない。
 大粒な雨滴が川原を打ち続け、女が神輿のように担ぎ去られた後には頭を割られた男の死骸が残されていた。
 あれはスイの宿主だった船頭。
 逆らったのだろう。
 暴れたのだろう。
 全身が赤黒く腫れ上がり、手足は不可思議な方向に折れ曲がり、雨でも洗い切れないほどの血が肌をぬめぬめと飾っていた。
 雨の雫の間隙をぬって、男の血の臭いが流れて来る。
 蛇の目からゆらゆらと歩み出た巫女が、打ち捨てられた死骸に歩みよってひざまずき、男の顔を両手でひたひたと撫でた。
 凡巫女が顔を上げて、蛇の目の方を向く。次に死骸になった船頭を、また撫でて、その臭いを嗅ぐ。そして、もう一度、蛇の目の下の彼に顔を向けて小鼻をひくつかせた。
 色を失った唇が震えていた。恋しい船頭と、蛇の目の中の彼を交互に嗅ぐ彼女の惑乱が、くっきりとした芳香になって流れて来た。
 船頭の頭は鉈で割られたのだろうか。ぱっくりと開いた頭蓋の中に桃色の脳が覗いていた。
 思い出す。船頭が生まれ育った湯治場を、手鞠咲きの紫陽花が彩っていたはずだ。
 雨に洗われて咲く脳は、あの丸い紫陽花にひどく良く似ていないだろうか。
 屈み込んだ巫女が血の気を失った唇を開き、舌をひらひらと垂らして行く。白い殻のように割られた頭蓋骨に青黒い舌が忍び入り、雨と血に飾られた脳を愛し気に舐めた。
 骨張った手が血に濡れた黒髪をかき撫でる。皺めいた指が割れた頭蓋に差し入れられて、紫陽花に似た脳を切な気に掻き乱した。
 彼はまた嗤う。
 愚かさの中に、育まれる肉の味わいを嗅いだから。
 あの巫女は、今もまだ自分の恋情に戸惑い、気づき切れずにいる。
 醜いと嘲られ、視力がないと軽視され、凡巫女と蔑まれて来た。感情を押し込められて、人に言いくるめられて、嘲られた女の心の外側は固い殻になった。
 それは周囲から自分を守り、内側の熾火を外に漏らさないための砦だ。
 心を封じられ続けた女は、内奥に宿った恋心すら硬く圧して生きていた。きっと、今もまだ胸にくすぶる熾火の熱さを、わかっていない。
 巫女が恍惚の眼差しで頭蓋の割れ目に唇と舌を這わせていた。
 愛しいなら腕で抱けばいいものを。着物をはだけて肌を触れればいいものを。あの女は恋しい男に触れたい欲望を、割られた頭蓋の中をまさぐることでしか表せない。
 あの巫女の肉も捨てがたい。
 けれども肉が熟れる前に、人の女は寿命を迎えてしまうことだろう。
 いっそこのまま天女にでもなって芳醇な肉を育んで欲しいと彼は心底、願う。
 猛った男たちが巫女に走り寄るのが見えた。そして、女の恍惚になど目もくれず、死骸の足を掴んで泥の中を引きずって行った。
 強まった雨の中、残された巫女が両手をひらつかせながらそれを追い、ぬかるみに足を取られて転がった。
 人柱の穴に縛られたスイが突き落とされ、続いて脳漿を滴らせた船頭が放り込まれる。
 竜神様は女だけを欲しているのだと、巫女が血を吐くような声で吠えた。けれども、その声は空を裂いた雷に消し去られただけだった。
 男たちが、古くから伝わる人柱の穴を巨大な石で塞いだ。中には何体もの人柱が葬られてきた。石壁の洞に人を投げ込んでは土で埋める。そして石蓋で塞いで上に竜神の小さな祠を乗せる。
 人柱の穴は、どれほど土で埋めてもやがて雨や地下水に洗われて、次に石蓋を開く時には空っぽになっている。人の肉も骨も、中に巣くう虫やら菌やらに喰われて、溶かされて、消えてしまうのだろう。
 彼が濡れた舌で自分の唇を舐めると、珊瑚色の薄皮の上で冷たい雨滴と熱い唾液がとろけあった。
 肉の味わいを思うと、粘度の高い唾が滲み出て止まらない。
 あの女の形をした肉を、何年も安穏に太らせた。今は恐怖で引き締めている。他の土地で肥育する肉たちのように、あの女もあの柔肌の中に濃密な美味を育んでくれることだろう。
 もう少し待とう。ほど良く苦しんだら助け出し、別の宿主にあてがって寝かせよう。もちろん時々の刺激を忘れずに。そして、熟成の時が来たら、練り絹の皮膚にくるまれた赤い肉と桃色の脂に細い犬歯を埋めるのだ。
 巫女が雨に清められて立ち上がり、目を烱々と光らせながら吠えていた。
 理性も懊悩も取り払われた女は、狂巫女となって村を導くはずだ。恋しい男は消えても、人々の敬意と崇拝を浴び続ければやがて生気を帯びるに違いない。
 あの巫女もまた愛おしい。
 もう少し命が長ければいいのに。
 肉が熟れるまで生きてくれればいいのに。
 そうしたら心の底から慈しんで、庇護して、どこかでゆっくりと生かして歯触りの良い肉に育ててあげられる。
 味蕾を溶かす美味を思い、彼は指を数本、口に差し入れた。
 唇と舌が、指を包み込んで蠕動する。隙間から滲み出た唾液が、俗塵を含む雨滴に混じる。
 想起する甘味に歯を噛みしめると、指にぷつぷつと犬歯が刺さり込んだ。快い痛みだった。
 女たちの肉がゆっくりと育つ芳香を嗅ぎながら、彼は朦朧とした歓喜に酔い痴れているのだった。
 
 
…………『人喰観音』本篇も、是非お楽しみください。 


ありがとうございます!今日のおすすめは『三つ編み』です。
44
早川書房の書籍&雑誌コンテンツをお届け。キャンペーン、著者紹介、目録のアップも。公式ホームページは、http://www.hayakawa-online.co.jp/

こちらでもピックアップされています

ハヤカワ国内フィクション
ハヤカワ国内フィクション
  • 247本

ハヤカワ文庫JAや単行本など、国内フィクション作品の試し読み原稿や解説などを公開中。