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サンデル教授「君は自分の力で最初に生まれたのかい?」ハーバード白熱教室・能力主義篇①

ハーバード大生のマイクは、自分の努力が報いられる「能力主義」のシステムが理想だと言うが……。

ハーバード白熱教室・能力主義篇①(全2回)
勝者に課せられるもの

サンデル 今日は、分配の正義[分配的正義、distributive justice]の問題に取り組みたい。私たちはどんな原理に従って、富や権力、機会を分配するべきか。ジョン・ロールズはこの問いに詳しく答えている。今日はその答えを検討しよう。
 前回私たちは、その取っかかりとしてロールズのある考え方を学んだ。
「正義の原理は、仮設的契約から最もうまく導かれる」というものだ。肝心なのは、その仮設的契約は、ロールズが「無知のベール」(veil of ignorance)と呼ぶものの背後にある平等な原初状態の下で実現されるということだ。ここまではいいかな。
 では、次に進もう。ロールズの言う「無知のベール」の背後で人々が選ぶ原理とは何だろうか。
 まず彼は、いくつかほかの可能性を検討した。功利主義はどうだろうか。功利主義の原理は最大多数の最大幸福だが、原初状態にある人々は、功利主義による統治を選ぶだろうか。
「いや、選ばないだろう」とロールズは言う。なぜなら、無知のベールの背後では、一度ベールが上がり実際の生活が始まれば、私たち一人一人が尊厳を持ち、尊重されたいと願うことを誰もが知っているからだ。
 たとえ少数派の一員になっても、抑圧されたくはない。だから私たちは、功利主義を拒否し、代わりに第一の平等な基本的自由原理である「平等な基本的自由」を採用することに合意するのだ。
 言論の自由、結社の自由、宗教の自由、良心の自由といった、基本的権利だ。
 私たちは、多数派が圧政をふるう中で、抑圧され、さげすまれる少数派の一員にはなりたくない。誰も、そんなリスクを取りたがる人はいない。だからロールズは、功利主義は拒否されると考えた。
 彼はこう書いている。「功利主義は、人格の違いを忘れる、あるいは重要視しないという間違いを犯している」
 原初状態では、私たちはそのことを認識し、功利主義を拒否するのだ。私たちは自らの基本的権利と自由を、いかなる経済的便益とも交換しない。これが第一の原理だ。
 第二の原理は、社会的、経済的な不平等に関係する。
 私たちは[無知のベールを取ってみたら]金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのか分からないということを思い出してほしい。金持ちの家に生まれるのか、貧しい家に生まれるのか、それは誰にも分からない。だから、最初はこう考えるかもしれない。「そうだな、念のため、所得と富を平等に分配することを要求しよう。そのほうが確実だ」
 しかし、もし不幸なことに、私たちが最下層に陥る結果となったとしても、 もっと良くなるやり方があることに気が付くだろう。
 もっと良いやり方とは、ロールズが「格差原理」(difference principle)と呼ぶ、条件付きの平等の原理に同意することだ。
「格差原理」とは、最も恵まれない人々の便益になるような社会的・経済的不平等だけが認められるという原理だ。つまり、私たちは、すべての所得や富の不平等を拒否するわけではなく、ある部分を認めるというわけだ。ロールズの原理によれば、その基準となるのは、特に最下層にいる人たちの便益になるかどうかということだ。無知のベールの背後では、最も恵まれない人たちの便益になるような不平等だけが正義にかなう、とロールズは論じた。
 以前、マイケル・ジョーダンは1年に3100万ドルを稼ぎ、ビル・ゲイツには何百億ドルもの資産があるという話をした。
 格差原理の下では、この不平等は許されるだろうか。その格差によって、最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合にのみ許される。それはどんなシステムか。
 ある仕事に適した人を呼び込むためには、現実的には何らかのインセンティブをつけなければならない。そして、最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人たちの便益になるかもしれない。
 だからロールズは、格差原理が無知のベールの背後で選ばれると言っているのだ。無知のベールの背後でこれら二つの原理が選ばれるというロールズの主張を、君たちはどう考えるだろうか。この意見に反対の人、考えを聞かせてほしい。そこのバルコニーの君。どうぞ。

マイク 先生の議論は、政策や正義を、下から、つまり最下層の目線から議論して決めることを前提としていますが、なぜ上からではないのでしょうか。

サンデル 君の名前は?

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マイク マイクです。

サンデル マイク、いい質問だ。では、自分を無知のベールの背後に置いて、思考実験をしてみよう。君はどんな原理を選ぶだろうか。考えてみてほしい。

マイク ハーバードも、上昇志向を勧める一つの例だと思います。僕は、生まれたときは自分がどの程度頭がよくなるのか分からなかったけれど、この場所に辿りつけるよう頑張ってきました。ハーバードが、何の資格もない1600人を無作為に受け入れるとしたら、勉強は無意味になってしまいます。

サンデル それで、君はどんな原理を選ぶ?

マイク 僕だったら、能力ベースの原理を選びます。自分の努力に応じて報いられるシステムがいいと思います。

サンデル では君は、無知のベールの背後で、人々が努力に応じて報いられる能力ベースのシステムを選ぶんだね。結構だ。君。どうぞ。

ケイト 一つ疑問があります。その能力ベースというのは、みんなが平等なレベルからスタートすることを前提としていて、そこからどこに辿りつくかによって、報いられるということでしょうか。教育が始まったときに、その人がどれほど有利な状態にあったかは、無視するということでしょうか。

マイク 誰もが平等なレベルからスタートできるわけではないと言いたいのでしょうが、僕はそうは思いません。能力に報いるシステムは、誰にとっても最善のものだと思います。上位2%に属する人も下位2%に属する人もいますが、結局のところ、それは、生まれながらの違いではありません。努力に報いることが、最下層のレベルを押し上げるのです。

ケイト でも、ここに辿りつくまでの過程で、明らかに有利な条件下にいた人もいるはずです。そういった人の努力に、なぜ報いなければならないのでしょうか。私と同じだけ努力した人にみな、この大学に来ることができる、同じだけのチャンスがあったとは思えません。

サンデル なるほど。君の名前は?

ケイト ケイトです。

サンデル ケイト、つまり君は、こう考えているんだね? トップスクールに入る能力は、裕福な家庭の出身であることや、家庭環境に恵まれていること、あるいは、社会的、文化的、経済的に優位であることに、大きく左右されると。

ケイト 特に経済的な意味で言いましたが、そのとおりです。

サンデル 以前こんな調査を行なった人がいた。アメリカの優秀な大学、146校の学生を対象に統計を取り、彼らの経済的なバックグラウンドを調べようとしたのだ。
 その中で、家族の所得が下から25%に属する学生は、どのくらいいたと思う? 分かるかな。
 最も優秀な大学では、貧しい家庭出身の学生は、たった3%しかいなかった。70%以上が、裕福な家庭出身だったのだ。
 ではもう一歩進んで、マイクの意見について考えてみよう。
 ロールズは、彼の正義の原理、特に格差原理を支持するために、一つではなく、二つの議論を挙げている。
 一つ目は、無知のベールの背後で何が選ばれるのか、という公式の議論だ。この議論に対し、「人々は賭けに出るのではないか」「無知のベールが上がったとき、トップにいるかもしれないと期待して、ギャンブルをするのではないか」と異議を唱える者もいる。これがロールズに突きつけられてきた一つの挑戦だ。
 しかしロールズは、この原初状態の議論を支える二つ目の議論も持っている。それは、端的に道徳的な議論でこのようなものだ。「所得や富、あるいは機会の分配は、自分の功績(credit)だと主張できないものに、基づくべきではない。それは道徳的観点から、恣意(し い)的な要素に基づくべきではないのだ」
 ロールズは、正義論に挑んでくるいくつかの説を検討することにより、これを説明した。彼はまず、今日ではほとんどの人が拒否するだろう、封建(ほうけん)的貴族社会について述べた。封建的貴族社会において、一人一人が与えられる将来性は、何が間違っているだろうか。
 ロールズは言った。「明らかに間違っているのは、人間の将来が生まれによって決まる点だ。高貴な家に生まれるか、農家に生まれるか、奴隷に生まれるか、それで決まってしまう。上昇することはない。どこに行きつくか、どんな機会があるかは君の行ないとは関係ない。それは、道徳的に見て、恣意的なものだ」
 だから、封建的貴族社会に対して、人々は歴史の中でこう反論してきた。
「キャリアは才能に対して開かれたものであるべきだ。生まれにかかわらず、形式的な機会の平等が与えられるべきだ。すべての人に、社会のあらゆる仕事に就くための努力をする自由があるべきだ」
 つまり、もし君が求人を出し、応募した人がその仕事に精一杯取り組むのであれば、その結果は正義にかなっているということだ。これは、多かれ少なかれ、リバタリアニズム的なシステムである。
 これについて、ロールズはどう考えるか。彼は、これは進歩だと言う。生まれによって将来が決まらない点は進歩だ。しかし彼は、形式的には機会が均等に与えられるとしても、このようなリバタリアン的な考え方だけでは十分ではないと言う。
 誰もが競争に参加できるとしても、人によってスタートラインが異なるのであれば、その競争は公正だとは言えないからだ。このシステムが明らかに正義に反しているのは、道徳的観点から見て、恣意的な要素の影響を受けるからだと彼は言う。
 それは、良い教育を受けたかどうか、君を応援して勤労倫理を養い、機会を与えてくれる家庭で育ったかどうかといったことだ。これは、「公正な機会均等」(fair equality of opportunity)システムへの移行を示している。
 そして、これがまさにマイクの主張したシステムで、私たちが能力ベースのシステム、能力主義システムと呼ぶものだ。公正な能力主義(meritocracy)の社会では、競争が始まる前に、皆が同じスタート地点に立つような制度を作り上げる。
 それは、平等な教育の機会であり、たとえば、就学前教育プログラムでは、家庭環境にかかわらず、すべての子どもに、真に公正な機会が与えられるように、貧しい地域の学校を支援する。誰もが同じスタート地点からスタートするのだ。
 では、ロールズは能力主義システムをどう考えるか。
「このシステムでさえも、自然の巡りあわせという道徳的な恣意性を修正するには十分ではない」と彼は言う。というのは、皆を同じスタート地点に連れてきて競争を始めたら、誰が勝つだろうか。
 たとえばランナーの場合、誰が勝つだろう。一番足の速い人だ。しかし、速く走る才能にたまたま恵まれたのは、彼らの功績なのだろうか。
 ロールズはこう言っている。皆を同じスタート地点に立たせた場合、能力主義の原理は、社会の偶然性の影響を排除することはできるかもしれないが、「それは依然として、富と所得の分配が、自然が分配した能力と才能によって決定されることを許容している」
 だから、所得と富の分配における道徳的な恣意性を排除する原理は、マイクのお気に入りの能力主義システムを超える必要がある、と彼は考えた。
 さあ、どうやってそれを超えるか。皆を同じスタート地点に立たせても、足の速い人とそうでない人がいる事実がまだ気になるのなら、どうすればいいか。より平等主義的な批判者は、足の速い人にハンディキャップを与えるしかないと言う。鉛の靴を履かせるのだ。しかしそれは避けたい。競争の本質を台無しにしてしまうからだ。
 ロールズは、能力主義の概念を超えたいのなら、皆の水準を一定にする必要はないと言う。才能ある者が、その才能を使うことは認める、あるいは奨励さえするが、その才能を発揮した結果得られる果実の権利を手にする際の条件を、変えればいいと言うのだ。
 そして、それがまさに格差原理である。人々が遺伝子の巡りあわせという幸運によって便益を享受することは「それが最も恵まれない人の便益になる」という条件の下でのみ許される。
 だから、たとえばマイケル・ジョーダンは稼ぎの大部分を、ほかの人たちを助けるために税金として支払うシステムの下においてのみ、3100万ドルを稼ぐことが許される。
 ビル・ゲイツも同じだ。何十憶ドルも稼ぐことができるが、自分が、道徳的にそれだけの価値に値すると考えてはいけないのだ。
「恵まれた者は、恵まれない者の状況を改善するという条件でのみ、その幸運から便益を得ることが許される」
 これが格差原理で、道徳的な恣意性から来る議論だ。ロールズは、もし君が、道徳的観点から見て、恣意的な要素に基づく分配に問題があると感じるなら、貴族社会を拒否して自由市場を支持することも、能力主義システムに満足することもないだろう、と主張した。
 運良く才能に恵まれた人がその才能を発揮することで、最下層の人を含むすべての人が恩恵を受けるシステムを作り上げる。この議論に説得力はあるだろうか。ロールズのこの議論には説得力がないと思う人、意見を聞かせてほしい。どうぞ。

眼鏡のケイト 平等主義者の主張は、才能のある人が稼いだものの一部は分配されてしまうことを知っているのに、それでも一生懸命働くだろうと考えるもので、ずいぶん楽観的だと思います。能力のある人が、才能を最大限に発揮することができるシステムは、能力主義システムだけだと思います。

サンデル なるほど。君の名前は?

眼鏡のケイト ケイトです。

サンデル ケイト、それからマイクにも聞きたい。能力主義システムの下では公正に機会が与えられるとしても、一部の人はたまたま優れた才能に恵まれたというだけで、分不相応の報酬を受け取っている。そのことをどう思う?

眼鏡のケイト 才能というのは、明らかに恣意的な要素だと思いますが、それを正そうとするのには弊害があると思います。そうすることで……。

サンデル インセンティブが減るから?

眼鏡のケイト はい、そうです。

サンデル マイク、どう思う?

マイク この教室に座っている僕たちは皆、「君たちは何も作り出していないくせに、受けるに値しない名誉を受けている」と言われているようなものです。足の速い男が競走で走ることで、社会全体が悪影響を受けるという考えに、僕たちは嫌悪感を抱くべきです。一番才能に恵まれた人が速く走ることで、僕らももっと速く走れるかもしれないし、僕の後ろの人や、さらにその後ろの人も、もっと速く走れるかもしれません。

サンデル 分かった。マイク、君はさっき努力について話したが、成功するために一生懸命働いた人には、その努力に見合った報酬を得る価値があると考えているんだね? それが、君の弁護の背景にある考え方だ。

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マイク もちろんです。マイケル・ジョーダンをここに連れてきて、なぜ3100万ドル稼ぐのか訊いてみれば、トップに立つまでに彼がどれだけ努力したか分かると思います。違った角度から見れば、僕たちも基本的には少数派を抑圧する多数派です。

サンデル ありがとう。努力か。君は……(パラパラと拍手)賛同者がいるようだね。

マイク そんなに多くはないですけど(一同笑)。

サンデル 努力。ロールズはそれに対しこう答えた。
 ある人が強い勤労倫理を持って、根気強く頑張り努力したとしても、その努力すら、幸運な家庭の状況により生じるものであるから、私たちは自分の功績だとは主張できない。
 さあ、ここで……(拍手)。ちょっと待って。ここで一つテストをしてみよう。
 経済的な差による違いはとても大きいが、とりあえずそれは脇に置いておこう。心理学者は、生まれた順番によって、勤労倫理や頑張り、努力の大きさは変わると言う。
 では、君たちの中で、自分は一人目の子どもだという人は、手を挙げて(大半が手を挙げる。一同笑)。
 私もだ。マイク、君も手を挙げていたね(一同笑)。
 能力主義の概念では、努力は報いられるべきだという。しかし、努力や頑張り、勤労倫理などが生まれた順番によって左右されるのであれば、それは自分の功績ではないというロールズの言い分は、正しいように思える。マイク、君は自分の力で最初に生まれたのかい?(マイク、首を振る)
 もちろんそうではないだろう。そこでロールズは問う。道徳的な観点から見たとき、人生における所得と富と機会が、恣意的な要素に基づいていていいのだろうか。
 これはロールズが、市場社会に突きつけた挑戦だが、同時に、このような場所にいる私たちへの挑戦でもある。この続きは、次回考えよう(拍手)。

(ハーバード白熱教室・能力主義篇②に続く)

*マイケル・サンデル『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(下)』NHK「ハーバード白熱教室」制作チーム・小林正弥・杉田晶子訳より抜粋


この講義のテーマである「能力主義(メリトクラシー)」の問題にサンデル教授が真正面から挑んだ『実力も運のうち 能力主義は正義か?』が早川書房より4/14(水)に発売! 試し読み記事が2万PVを突破し大きな話題を呼んでいます。

100万部突破の『これからの「正義」の話をしよう』、『それをお金で買いますか』に続くサンデル教授の新たなる主著、ぜひお読みください。


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