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不安症による悪夢のような世界――韓松『無限病院』立原透耶氏・解説掲載

韓松(かん・しょう/ハン・ソン)による初の邦訳長篇、『無限病院』(山田和子=訳)が刊行されました。

本欄では小説家・翻訳家であり、中国SF紹介の第一人者である立原透耶さんによる解説を再録します。

解 説

小説家、翻訳家 立原透耶  

 韓松(かん・しょう/ハン・ソン)は中国SF四天王の一人として名高く、中でも文学性、芸術性の高さではひときわ飛び抜けた存在である。これまでに日本では以下の短篇が翻訳されている。

「水棲人」〈SFマガジン〉2008年9月号、立原透耶訳、翻訳協力:肖爽
「再生レンガ」『中国現代文学 13』中国現代文学翻訳会編、ひつじ書房、2014年9月、上原かおり訳
「セキュリティ・チェック」★〈SFマガジン〉2017年2月号、幹遙子訳
「潜水艇」★『月の光 現代中国SFアンソロジー』ケン・リュウ編、新☆ハヤカワ・SF・シリーズ、2020年3月、中原尚哉訳、ハヤカワ文庫SF2022年11月刊 *文庫化にあたり『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』に改題
「サリンジャーと朝鮮人」★同
「地下鉄の驚くべき変容」『時のきざはし 現代中華SF傑作選』立原透耶編、新紀元社、2020年7月、上原かおり訳
「一九三八年上海の記憶」『中国史SF短篇集 移動迷宮』大恵和実編訳、中央公論新社、2021年6月、林久之訳
「我々は書き続けよう!」〈SFマガジン〉2022年6月号、上原かおり訳
「仏性」『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』立原透耶編、新紀元社、2023年12月、上原かおり訳

 中国語からの翻訳もあれば、英語訳からの重訳もある。重訳ものにはタイトルの後に★をつけた。紹介されているものはすべて短篇で、長篇は本作が初めてということになる。
 翻訳された短篇を見ると、どれも大変「わかりやすい」ものばかりである。韓松の作品は「わかりにくい」ことで有名だが、海外で紹介する際にはどうしてもわかりやすいものが選ばれがちなのかもしれない。
 彼自身は短篇と長篇については次のように述べている。
「短篇は普段の夢のようなもの。長篇は重病になって入院し、高熱を出した時に見るような夢である。とはいえ実は私はどちらも好きではない。しかしこれは自分の意思ではなく、まるで強迫症であるかの如く書いてしまうのである」
 本作をこの長篇に当てはめると、大変よく理解できる発言である。
 実は同僚に「どういうあらすじ?」と聞かれて、大変苦労しながら本作の話の筋を話したところ、一言「不安症による悪夢みたい」。なるほど、おっしゃる通りである、と納得した次第である。

 先ほど韓松の作品には「わかりやすいもの」と「わかりにくいもの」があると書いたが、本作の場合は後者である。同じ長篇で近いうちに出版予定の長篇『紅色海洋』(新紀元社)は、「わかりやすいもの」の方に分類できるかもしれない。
『無限病院』は宇宙に仏陀を探すところから始まり、とある惑星のC市における巨大な病院が舞台の悪夢めいた不条理な世界を描いていく。はじめはひたすら病気と病院、医師と患者を描いているのだが、次第に話が広がり、謎の〈共生者〉が登場したあたりから、舞台は広大な宇宙へと展開していく。
 ホテルのミネラルウォーターを飲んだだけで胃痛になった主人公は、そのために悪夢めいた病院へと連れていかれるのだが、まずこの病院の描写が凄まじい。まるでカフカの『城』を思い起こさせるような世界観である。実際に韓松の作品は中国ではよくカフカを引き合いに出されている。
 病院とは何か、何のために存在しているのか。医者とは、看護師とは? さまざまな謎が主人公に襲いかかるのだが、確たる答えは見出せない。
 迷宮のごとき巨大な病院の中を、主人公はさまよい歩く。時には脱走を試みながら。
 病院の中だけではない。病院の外もまた不可思議な世界である。生きること、それはどういう意味を持つのか。病とは何を意味するのか。
 遺伝子の段階で治療し、完璧なまでに病をなくすはずの病院だが、それならばなぜ退院できないのか。いや、そもそも病は本当に治療されているのか。
 何もかもが曖昧で混乱した中、主人公の長きにわたる混迷の旅の結末は……。
 様々な観点から読み解くことのできる本作だが、一つには「仏教」という観点があることに注意したい。韓松自身は仏教徒であり、短篇「仏性」でも仏教を主としたSFを描いている。ほかにも数多くの作品に仏教要素を登場させており、氏の作品を読み解く上で重要なタームであるのは間違いない。
『中国SF資料之十一』(中国SF研究会・同人誌)では、読書会の記録が掲載されており、「この読書会は、韓松の仏教的要素の入った作品をどう見るかという興味から始まりました」とのこと。「韓松は中国のみならず全人類の社会の近代化に隠されている危険性と暴力性に注目し、中国のSF作家の中で危機感と反省意識が最も高い一人だと言える」(朱力)、「韓松は、中国のSFは、斬新な世界の概念を作り上げる能力がまだ弱い、と分かっていたので、斬新な、永遠に循環する入れ子構造の異世界を、自ら構築して見せた。積極的に異世界を構築する韓松は、その後の中国のSF作家に創作する勇気を与え、中国のSFの斬新で独特な一面を世界に示すことができた」(楊霊琳)、「仏教の要素を取り入れた韓松の作品はほかに「仏性」(2015)や〈医院〉三部作がある。前者ではロボットが悟りを求め、人間がそれをどう見るかということも描かれている。後者では病院と仏教的世界の究極が想像される」(上原かおり)、といった形で、仏教と韓松作品について論じられている。
 しかし『無限病院』の段階では、まだ「仏教」性はそれほど強くないように感じる。実際には三部作が進むにつれて、「仏教」度が色濃くなっていくのである。
 もう一点、個人的に気になっているのは「海」の存在である。長篇『紅色海洋』に登場する海は死と暴力に満ちた「赤い海」である。本作に登場する海もまた「赤い海」なのである。

 海は赤い肉色の溶液で、ねっとりとして、濁っていて、泡だらけだった。生臭い強烈な臭いは、病棟で使われていた消毒剤を思い起こさせた。(本書395ページ)

 韓松の描く海は、決して美しくもなく、また理想的でもない。海が「赤い」のはなぜなのか、「陸」の人間が「海」へと向かうその道行は何を象徴しているのか。
 幾重にもはり巡らせた隠喩の奥深く、そこには果たしてよく言われる「批判精神」が隠れているのか。それとも。一人ひとり、読み方が異なり、意味が変わってくる作品である。
 なお、個人的には〈共生者〉が大変可愛らしいと感じている。少し生意気な口調といい、時に慌てたり狼狽えたりする様もペットのようでなかなかに愛らしい。この〈共生者〉の正体が気になって、ページを捲る手がもどかしかったほどである。

 さて、作者である韓松について少し詳しくご紹介しよう。
 韓松、一九六五年生まれ、重慶出身。武漢大学英文系卒業後、修士課程は新聞学部に進学。文学学士、法学修士号。中国の国営通信社である新華社通信に入社し、現在も勤務している。英語に堪能なばかりか、最近は日本語も独学でマスターし、簡単な会話ならまったく問題がないレベルである。文学をこよなく愛し、日本文学にも造詣が深く、日本文学について語ると次から次へと作家名や作品名が飛び出す。かつて2007年に日本・横浜で世界SF大会(ワールドコン)が開催された際には中国からのゲストとして参加し、憧れていた小松左京氏との対面も果たした。その時の感動は彼のブログに写真とともに詳しく記されている。
 過去にはUFOの研究会に参加していたり、鬼(日本の「鬼」とは異なり、幽霊や妖怪のような存在)についての調査記録を記したり、と不思議なものへの愛好も隠すことはない。
 公には発表できない微妙で繊細な物語もネット上で発表している。例えば『宇宙の果ての本屋』に掲載された「仏性」は「今の中国では発表できない」と言われている作品だが、韓松自身が「日本の読者に一番読んでほしいもの」として自薦した作品でもある。
 中華圏では絶大な人気を誇り、数多くの受賞歴を誇る。例えば初期の代表作「宇宙墓碑」では一九九一年世界華人科幻芸術賞科幻小説首賞(一位)、複数の銀河賞、星雲賞の受賞のほか、首届(第一回)全球華語科幻星雲賞最佳科幻/奇幻作家賞を劉慈欣とともに受賞している。ここ最近では長篇〈地鉄〉シリーズや〈医院〉シリーズが高い評価を得ている(本作はこの〈医院〉シリーズの第一作である)。
 海外での翻訳も進んでおり、本作も英訳からの重訳である。

 個人的に氏と付き合いのある立場から少し書かせていただくと、韓松は非常にシャイな人である。内気ではにかみやで義理堅く、深く物事を考える知性派で、とにかく人がいい。誰かを悪くいうセリフなど聞いたこともない。いつでもニコニコしていて大変穏やかな、愛される人物である。
 2007年に初めて出会った時には、ワールドコンの立食パーティで所在なげに隅っこに座ってご飯を食べていた姿がとても印象的であった(私もその横に座ってボソボソお話をさせてもらった)。
 キティちゃんが好きで、可愛いものが大好きという意外な一面も持っている(彼にファンレターを書く方はそこを意識してください!)。
 こんなにも愛される人物でありながら、運命は非常に残酷である。
 近年、氏は自らのアルツハイマー病を告白している。最近では、同じ病に苦しむ人のためにと、ドキュメンタリーのカメラを入れて日常を撮影している。2024年4月にお会いした時にはこう述べていた。
「SF作家が認知に問題を起こすなんて、なんという悲劇なんだろうか」
 それを聞いた時は、胸が締め付けられて、何も言えなかった。本当にどうしてこんなにも残酷なことが起きるのか、とただただ悔しく思うしかなかった。
 今はまだしっかりとされているため、過去の作品の改訂をしているところだそうで、やりたいことは「日本に行くこと」。日本語で会話をして、いつものように穏やかに微笑んでおられた。なんとか日本にお呼びしたいものである。
 くだくだしい説明はこれくらいにしよう。あとは作品を読んで感じるのみ。
 めくるめく悪夢の世界へようこそ。あなたもきっと韓松世界に魅せられた一人となることだろう。

 2024年8月

『無限病院』
韓 松=著/山田和子=訳
解説:立原透耶
装幀:川名 潤

平凡なビジネスマン・楊偉(ヤン・ウェイ)は、ある日、仕事の出張先であるC市のホテルでミネラルウォーターを飲んだところ、腹痛で倒れてしまう。ホテルの従業員の女性たちに巨大な病院へ連れ込まれるが、外来には大量の患者が詰めかけており、なかなか検査の順番が回ってこない。楊偉は痛みに苦しみながら待つが、やがて病院内ではおそろしいほどに混沌とした状況が広がっていることがわかる。院内で商売をしはじめる者あり、遊ぶ者あり、苦しむ者あり、診断を求めて窓口に殺到している者あり……。楊偉はさまざまな検査を受けるが、なぜか治療はしてもらえない。逃げ出そうとするも、エントランスの外には病院に入ろうとする膨大な人の海が広がっていた。いまや《医療の時代》、すべての人が病んでいる社会だったのだ!
中国SF四天王の一角、韓松が放つ、ダークで不条理なSFエンタテインメント〈医院〉三部作、開幕篇。

本日25日(金)発売のSFマガジンでは、『無限病院』発売にあわせ韓松の短篇「輪廻の車輪」(翻訳=鯨井久志)が掲載されています! こちらもぜひチェックしてみてください!