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【特別掲載】櫛木理宇『氷の致死量』連載第6回【増量試し読み】

映画『死刑にいたる病』の大ヒットを記念して、原作者の櫛木理宇さんによる最新傑作『氷の致死量』の本noteでの試し読みを特別に増量し、10回に分けて掲載いたします。読みだしたら止まらないノンストップ・シリアルキラー・サスペンス。毎日更新していきますので、お付き合いいただければ嬉しいです!(編集部)

『氷の致死量』
櫛木理宇
早川書房/46判並製/定価2090円(税込)


『氷の致死量』

櫛木理宇


第5回「第一章 4」の続き

   

第一章 


 

     5

 

 朝のホームルームを終え、職員室へ戻る。だが席に着く前に、

「鹿原(かばら)先生、すみませんが」

 と低い声に呼びとめられた。

 学年主任の杵鞭(きねむち)であった。ごま塩頭を短く刈り、日に焼けた褐色の腕を半袖シャツから突きだしている。肩幅が広く、胸板が厚い。頭ひとつぶんの高みから、十和子(とわこ)を三白眼で見下ろしてくる。

「はい杵鞭先生。なんでしょう」

「一時限目は授業がありませんよね? ちょっと、一緒に市川(いちかわ)のところへ」

「わかりました」

 十和子はうなずき、抱えた教科書とノートを自席に置いた。代わりに机のスタンドから、『市川用』と書かれた青いファイルを抜く。

 二年C組でありながら、いまだ一度もクラスに顔を出せていない生徒──市川樹里(じゅり)の、個人情報を綴(と)じたファイルであった。

 顔を上げると、杵鞭がかたわらに立って待っていた。

 出会ってから二箇月近く経つというのに、十和子の顔を見なおすたび、いまだ彼は瞳にかるい驚きを浮かべる。やはり似ている、と言いたげな驚きだ。十和子を通して誰を連想しているかは、考えるまでもなかった。

「杵鞭先生、あの、わたしだけでも大丈夫ですよ?」

 そう言ってみる。

 しかし杵鞭は首を横に振り、

「鹿原先生は赴任してきたばかりですからね。目配りするよう、校長からおおせつかっています。それに市川は、去年はわたしの受けもち生徒でした」

 としかつめらしく答えた。

 

 保健室は、校舎一階の西側にある。

 一歩入った途端、消毒液の匂いが鼻を突いた。視界の八割が、シーツとカーテンの白で満たされる。

 個人医院の受付にどこか似たカウンターには、花を生けた一輪挿しや観葉植物の鉢が並んでいた。

 手前に健康相談を受けるためのテーブルセットがあり、壁際にはベッドが四つ。間は薄いカーテンで仕切れるようになっているが、現在、仕切りが閉まっているのは奥のひとつのみであった。

 ──市川樹里の、指定席だ。

 養護教諭がカーテンを引き開ける。

 樹里はベッドに座っていた。制服姿だが、スカートのプリーツは皺くちゃで、リボンタイはよれ曲がっている。

 樹里の眼前には、杵鞭が立った。

「……市川、どうしてあんなことをしたんだ?」

 座って少女と目線を合わせることなく、はるか高みからそう問いかける。

 十和子は杵鞭の隣に立ち、ファイルを胸に抱いて樹里を眺めた。

 がりがりに痩せた少女である。手も足も棒切れのようで、かさついた皮膚が骨に張りついている。手足だけなら老婆とも見まがいそうだ。

 ざんばらに切った髪は、まるで手入れされていない。伸ばしっぱなしの眉は眉間でつながっている。鼻の下の産毛が濃い。目の下に浮いたどす黒い隈(くま)とあいまって、どこかハロウィンの仮装メイクじみて映る。

「答えなさい。どうしてあんなことをした?」

 杵鞭の声に苛立ちが滲(にじ)む。

 いかにも渋しぶ、といったふうに樹里は口をひらいた。

「……したかったから」

「あ?」

「だから、したかったからしたんだよ。それだけ」

 投げ出すような口調だ。

「おまえなあ」杵鞭が声を荒らげた。

「自分がなにをしたかわかってないのか? 小学生じゃないんだぞ。勝手に人の体をさわっていじくりまわすなんて、逮捕されてもおかしくないんだからな。やられた子が、どんなに怖かったと思ってるんだ」

「さわっただけじゃん」

 樹里が唇をとがらせる。

「殴ったり、痛い思いさせたわけじゃねえ。女同士なんだし、ちょっとさわるくらい、いいじゃねえか」

「ふざけるな」

 肩を怒らせる杵鞭を、「先生」と横から養護教諭が止めた。

「杵鞭先生。落ちついてください。大きな声は……」

「ああ。はい──そうですな」

 杵鞭が深呼吸し、苛立ちを逃がそうと目を伏せる。彼の様子をうかがいながらも、十和子は樹里に視線を戻した。

 樹里はそっぽを向き、しきりに爪を噛んでいた。

 暇さえあれば噛んでいるのだろう、十指ともぎりぎりまで短く、いくつかの爪には固まった血がこびりついている。壁を見つめながら爪を噛む樹里は、もはや十和子たちのことなど意識の外といった様子だった。

 市川樹里は、一年生の二学期なかばから保健室登校をつづけている。

 朝の八時に学生寮を出て、まっすぐこの保健室へ向かうのだ。そして下校時間まで、奥のベッドを占領しつづける。もちろん授業はまったく受けられないし、クラスメイトとの交流もない。

 十和子は今日この保健室へ来るまでの道すがら、「市川樹里が今度はなにをしでかしたか」を杵鞭からくどくど聞かされていた。

 被害者は、今朝の朝練で貧血を起こした一年生の女子だそうだ。

 倒れた彼女は樹里の隣のベッドへ寝かされた。そして小一時間ほどして目覚め、気づいた。誰かが自分の下着をずらし、胸やお腹をさわっている──ということに。

 悲鳴を聞いた養護教諭が慌ててカーテンを開けると、蒼白で身を縮こめた一年生の横に、樹里が突っ立っていたという。

 ──違うよ、先生。

 猫背で首を前に突きだした異様な姿勢で、樹里は言った。

 ──べつにおれ、なにもしてねえ。おっぱいとかちょっとさわっただけ。……痛いことなんかしてない。なんも、たいしたことじゃねえって。

 と。

 市川樹里の一人称は「おれ」である。だが性同一性障害というわけではないらしい。

 杵鞭から受けついだ、青いファイルの概要を十和子は思いかえす。自傷癖あり。摂食障害あり。他人との距離感がはかれない。友達がいない。親とうまくいっていない。性的に早熟。問題行動多し──。

「市川さん」

 養護教諭が声をかける。のろのろと、樹里は顔を上げた。

「……わかったよ」

 口から爪を離し、低く声を押し出す。

「もう、しない。これでいいんだろ? ここに来る女には、もうさわんねえよ。……わかったわかった、はいはい。話は済んだだろ、じゃあもう帰って」

「おまえな、いい加減に……」

 眉を吊りあげ、杵鞭が詰め寄る。

 即座に養護教諭が割って入った。

「杵鞭先生、すみません。わたしがあとで言って聞かせますから」

「しかし……」

「大丈夫ですから。市川さんは、言えばわかる子です」

 杵鞭は顔を歪めた。舌打ちせんばかりの顔つきだ。だが養護教諭の顔を立ててか、不満をあらわにしながらも一歩退がった。大きく息をつく。

 十和子はそんな彼らの横で、青いファイルを抱えたまま立ち尽くしていた。

 圧倒的な無力感に打ちのめされていた。

 杵鞭と養護教諭に挟まれてなにもできなかったこと、担任として出番がなかったこと。それもむろんだ。だがその事実だけに絶望したのではない。

 市川樹里がなにを思っていたのか。なぜあんなことをしたのか。単なる興味か、好奇心か。攻撃的な欲求か、それとも性愛なのか。

 ──性愛が動機だとしたら、わたしには彼女を理解できない。

 その事実に、なにより打ちひしがれていた。

──第7回へ続く

〈書誌情報〉
氷の致死量
櫛木理宇
早川書房 四六判並製単行本
定価:2090円(税込)
ページ数:416ページ

内容紹介
聖ヨアキム学院中等部に赴任した英語教師の鹿原十和子(かばら・とわこ)は、自分に似ていたという教師・戸川更紗(とがわ・さらさ)が14年前、学院で何者かに殺害された事件に興味をもつ。更紗は自分と同じアセクシュアル(無性愛者)かもしれないと。一方、街では殺人鬼・八木沼武史(やぎぬま・たけし)が、また一人犠牲者を解体していた。八木沼は亡くなった更紗にいまだ異常な執着を持っている。そして彼の5番目の獲物は、十和子が担任する生徒の母親だった……十和子と八木沼、二人の運命が交錯するとき、驚愕の真実が! 映画「死刑にいたる病」の原作者が放つ傑作シリアルキラー・サスペンス。

〈プロフィール〉
櫛木理宇(くしき・りう)
1972年新潟県生まれ。2012年『ホーンテッド・キャンパス』で第19回日本ホラー小説大賞・読者賞を受賞。同年、『赤と白』で第25回小説すばる新人賞を受賞する。著書に〈ホーンテッド・キャンパス〉シリーズ、『死刑にいたる病』(『チェインドッグ』改題)『死んでもいい』(以上2作ハヤカワ文庫刊)『鵜頭川村事件』『虜囚の犬』『老い蜂』『残酷依存症』などがある。2016年に『ホーンテッド・キャンパス』が映画化、2022年に『死刑にいたる病』が白石和彌監督映画化『鵜頭川村事件』は入江悠監督でドラマ化が決まっている。


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