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「『悟り』に関する一般の先入見と、瞑想が開く世界の実状とのギャップを埋める記述を、見事に成功させている」『なぜ今、仏教なのか』解説・魚川祐司

なぜ今、仏教なのか

なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学
ロバート・ライト/熊谷淳子訳 

解説:「赤い薬」が飲みたくなる名著
魚川祐司(著述家。『仏教思想のゼロポイント』)

仏教の、とくに「悟り」に関する話題について著作を書いていたりすると、しばしば人から、「私は悟りたくないんです」と言われることがある。「悟り」というのは、言うまでもなく「転迷開悟 (迷いを転じて悟りを開く)」の宗教とされる仏教において、理想とされる境地である。日本人の人口に膾炙するこの言葉は、一般には必ずしも悪い意味では用いられていないし、じっさい私に「悟りたくない」と言った人たちも、他人が「悟る」ぶんには文句はないようだった。ただ、自分がそれをしたいかと言われると、それは御免こうむるというわけである。

この「悟りたくない」という気持ちを、本書に使われている比喩によって言い換えると、「赤い薬は飲みたくない」ということになるだろう。「赤い薬」とは、映画『マトリックス』において、夢の世界にとらわれている主人公のネオに対して、反逆者のリーダーであるモーフィアスが差し出したものだ。作中において、モーフィアスは赤い薬を飲むのか、それとも青い薬を飲むのかという、二つの選択肢をネオに提示する。赤い薬を飲めば妄想の覆いを突きやぶって現実に目覚めることができるが、青い薬を飲めば夢の世界に逆戻りだ。

本書の表現を使って言えば、「妄想ととらわれの人生か、洞察と自由の人生か」(14頁)という選択だが、そのように一般的に問われたならば、多くの人が後者を選んで赤い薬を飲むだろう。もちろん、ネオもそうした。だが、ことが仏教的な「妄想ととらわれ」から脱却し、仏教的な「洞察と自由」を得るという選択になると、この決断はそう簡単ではない。

本書の第1章で紹介されているとおり、「いわゆる西洋仏教の信者」たちは、『マトリックス』を見て、そこでネオのした選択が、西洋文化圏で育った自分たちが仏教を選んだ時にしたことと、同じ性質を持っていると感じた。だから、この映画をきっかけに、(仏教の)「法に帰依する」ことを意味する新しい表現、「赤い薬を飲んだ」が通用するようになったくらいである。

もし仏教の法に帰依して「悟り」へと近づくことが、西洋仏教の信者たちがそう感じたように、「妄想ととらわれの人生」から解放されて「洞察と自由の人生」を選ぶこと、即ち、「赤い薬を飲む」こととシンプルに同種の行為だと信じられるのであれば、私たちの多くが、直ちにそのことを選択するだろう。だが、現実は必ずしもそのとおりにはなっておらず、仏教の「悟り」という「赤い薬」の存在を知ってはいるが、それでも敢えて、「青い薬」のほうを選びたいと思う人(私は悟りたくないんです!)も多くいる。なぜだろうか。

その一つの、そしておそらくは最も大きな原因は、仏教の「悟り」が、「欲望の消滅」を意味していると考えられていることだろう。じっさい、この理解は仏教の開祖であるゴータマ・ブッダの説くところとも一致している。経典には、「悟り」とは「貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)」という、本書(342頁)でも触れられている根源的な煩悩(欲望)が消滅した境地であると、明確に説かれているからだ。

欲望に流されすぎることがよくないことは、誰だって知っている。好きだからといって粉砂糖のかかったドーナツを食べすぎるのは健康に悪いし、欲しいからといって人が置き忘れた財布を盗むのは道徳的に悪いことだ。だが、だからといって欲望を完全に消滅させた境地というのは、本当に望ましいものなのか。あの美味しいお菓子をもう食べたいと思わなくなる人生、あの大好きなパートナーや子供のことをもう特別に愛しいと思わなくなる人生というのは、果たして生きるに値するものなのだろうか。

現代社会で生活する一人の人間としての私には、一部の(あるいは、ひょっとしたら大部分の)人々がそう感じる気持ちも実によくわかる。ただ、同時に仏教の本を書いたり瞑想を実践したりもしてきている個人的な経験からすると、そうした「悟り」に関する先入見は、現実に仏教を行ずることで開けてくる世界からは、いくぶんズレたものであるとも感じる。

本書の優れた特徴の一つは、著者のロバート・ライトが、右のような「普通の現代人としての感覚」をたぶんに共有する人であり、その彼がそれでも敢えて自らの身をもって仏教を実践してきた経験によって、「悟り」に関する一般の先入見と、瞑想が開く世界の実状とのギャップを埋める記述を、見事に成功させていることだろう。

じっさい、著者は「瞑想の道を突き進んでニルヴァーナに近づきすぎ、闘争心がなくなってしまうのはごめんだ。完全な悟りにいたることが、どんな種類の価値判断をするのもやめ、改革を要求するのもやめることなら、私を抜きにしてもらいたい」(410頁)とはっきり書き、自身の目指すところが、全ての欲望を消滅させて世界を平板に見る境地(価値判断の根底にあるのは、欲望に基づいた選り好みだ)ではないことを明示している。つまり本書は、"Why Buddhism Is True(なぜ仏教は正しいのか)"という原題からひょっとしたら想像されるかもしれないような、「世俗からの超越を達成した者が仏教の正しさを高説する」ような種類のものではないということだ。

加えて著者は、自身が仏教の瞑想実践に必ずしも向いた人間ではないことも、謙虚に繰り返し強調している。本人の記述によれば、ライトは粉砂糖をかけたドーナツとチョコレートが大好きな普通の人であり、その上に生来の怒りっぽい傾向と注意欠陥障害も併せ持っているという点において、慈悲と集中力を要求する仏教の実践に適しているとはとても言えない、生まれつきの「だめな瞑想者」(36頁)だ。だが、そのように現代人としての一般的な価値観を共有しており、かつとくに瞑想向きの人間ではなかったとしても(というよりも、むしろそうであるからこそ)、仏教を実践することによって得られるものは非常に大きかった。本書において、著者が一貫して伝えようとしているのはそのことなのである。

本書を読むことで「赤い薬」を飲みたくなる理由は、私の見るところではあと二つある。一つはもちろん、著者が仏教の説く「真実」について、「現代科学、なかでも人類の心が自然選択によってどのように形づくられたかを研究する学問である進化心理学による十分な裏づけ」(431頁)を与えようと腐心している点だ。

このことは、言い換えれば仏教の知見を現代の学問的な言葉によって語り直すということでもある。じっさい、ライトは人間が感覚に惑わされて、「快楽のランニングマシン」に踊らされ続ける実状がブッダには既に見えていたことを確認した上で、「ブッダにも見えなかったのはその根源だ。私たちは自然選択によってつくられ、自然選択の仕事は遺伝子の繁栄を最大限に高めることにつきる」(76頁)と本文で述べる。この指摘に関しては、仏教者のあいだでも、意見の分かれるところではあるだろう。とはいえ、心理学や脳科学の豊富な実験的知見を参照しつつ叙述される、進化心理学の観点からの一貫した「仏教の語り直し」には、自然科学の知的体系を意識しつつ生活せざるを得ない現代人の私たちにとって、やはり一定の説得力がある。

そしてもう一つ、最後に、だが最も強く私が感心させられた本書の優れた特徴は、著者のライトが読者に対して、仏教の瞑想を単なる「いやしの道具」としてのみならず、人間の「世界の見え方」を一変させる、「いやし」というよりはむしろ「精神的」な探求の道として、究極的には提示しようとしていることである。つまり著者は、仏教の実践と哲学を、巷の解説書においてしばしばそう扱われているような、単なるストレス軽減の手段としてよりも、もっと射程の広いものとして、私たちに紹介しようとしているということだ。

もちろん、ライトが本文で注意深く述べているとおり、「現実というもののとらえ方を大きく変化させることのない純粋ないやしや治療の道具として瞑想を利用するのは、まったくなんの問題もない。健康にいいし、おそらく世界のためにもなる」(48頁)。だが、私たちは仏教と実践的に関わることによって、もっと先へと進み、「赤い薬を飲む」ことを選択することもできる。「赤い薬を飲むというのは、知覚する主体と知覚される対象との関係について根本的に問い、現実に対する通常の考え方の基盤を吟味することだ」(48頁)。

このように、自然選択によって形成されたシステムの命ずるままに世界を見ることをやめて、「現実」に対する考え方を根底から変容させることの結果は、著者によれば劇的だ。そのことの詳しい内実は本文に譲るが、ライトは本書の最終章で、「私が本当にいいたいのはこれだ――地球を救済する手段はすぐ手の届くところにある」(411頁)とまで言い切ることになる。その主張の当否を判断するのは、もちろん読者である私たち自身だ。

まとめると本書は、(1)現代人の一人として仏教者でない人々とも感覚を共有する著者が自ら瞑想を実践し、(2)仏教の説く「真理」を科学的な知見を裏づけとしつつ語り直して、(3)さらにその実践と哲学を、究極的には単なる「いやしの道具」としてではなく、むしろ「精神的」な探求の道として、私たちに提示しようとする著作である。

全くの個人的な感慨だが、私は本書を通読して、自分が年少の時にこのような著作が既に日本で翻訳・出版されていれば、もっと早期に仏教の実践に関わりはじめていたのかもしれないと、少々残念にも思った。

では、読者の皆さんはどうだろう。本書を読んで、「赤い薬」を飲みたくなっただろうか?

2018年6月(単行本より再録)

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福岡伸一(生物学者。『生物と無生物のあいだ』)推薦!
「無常は新陳代謝、縁起は相補性、輪廻転生は生態系。仏教思想の本質が、動的平衡の生命観と極めて似ていることに心底驚かされた」

アントニオ・ダマシオ(脳神経学者。『デカルトの誤り』)感嘆!
「刺激的でタメになる、大満足の1冊」(ニューヨーク・タイムズ紙2017/8/7)

ピーター・シンガー(哲学者。『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』)激賞!
「進化心理学に通じた者が仏教をクールな目で見つめると、何が起きるだろう? 答えはこうだ――その人物がロバート・ライトのような傑出した書き手なら、面白くて挑戦的で、人生を変える力を秘めたこの本が生まれる」

マーティン・セリグマン(ポジティブ心理学創始者)待望!
「強靭で批判的な知性を備えた誰かが仏教を明快に解説してくれるのを待っていた。そういう本がここにある。本書は読者を未体験の旅へと連れだす」

なぜ今、仏教なのか_帯

ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(熊谷淳子訳、本体1,080円+税)はハヤカワ・ノンフィクション文庫より8月5日発売です。

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