人喰観音

【閲覧注意】「かんにんして、獣はかんにんして……」恐ろしく、やがて哀しき書き下ろしホラー長篇『人喰観音』「飴色聖母」本文公開

※【閲覧注意】この作品には残虐な表現、猟奇的な描写が含まれています

第10回「幽」文学賞大賞をやみ窓で受賞した篠たまきさん。第2長篇となる人喰観音作中の「飴色聖母」のエピソード、前半部分を公開いたします。

『人喰観音』「飴色聖母」

   一

 春の軟風が、すぅ、と奈江の鼻先をなでた。温められた土の湿度。草の葉が吹く成長の息吹。それらが空気の流れに入り混じり、乾いた肌に心地良い。
 黒ずんだポンプ井戸を押すと、排出口に巻き付けた花亀甲の手ぬぐいが水圧で丸く膨らんだ。粗い生地で勢いを弱められた地下水が手のひらを濡らすと冷たさが肌を刺す。骨と皮の間に薄い肉が挟まっただけの手だから、春の水までもが凍みるのか。
「奈江さん、奈江さん」式台に腰かけた奥様のおっとりとした声が呼びかける。「あのね、今日はずいぶん暖かいの。だから井戸のお水がいっそう冷たく感じるだけなの」
 思いを読んだかのような語りかけ。いつものことだ。最初は驚いたけれど、今は奥様のもの柔らかな言葉運びに、ただ心が解きほぐされるだけだ。
「先だってまで雪が残ってございましたからねえ」
 奈江は応じる。言葉尻を捉えられることもない。田舎風の下手な丁寧言葉を揶揄されることもない。あばずれの石女だの、いわくつきだのとなじられたりもしない。だからここでは何かに怯えたりせず、素直な言葉が口からこぼれてくるのだ。
 えんじ色の鼻緒を白い足指に喰い込ませた奥様が、ふらり、ふらり、と漂うような足さばきで歩み寄り、ポンプの脇にしゃがみ込んだ。椀型に組んだ手に水を掬って、こくこくと喉を鳴らして飲むと、紅い唇から透明な地下水がこぼれて、無造作にほぐされた髪を濡らす。
「奥様、奥様、生水ではなく、湯冷ましを召し上がってくださいまし」
 水滴の転がる頬や唇から視線を引き剥がしてたしなめると、井戸端の奥様は真っ黒な瞳で奈江を見上げて呟いた。
「昨日まで旦那様のご実家に呼ばれていたの。あたし、生き神様のお役目で疲れちゃった」
 奥様の気まぐれにはもう馴れた。縁側で裾を乱したまま昼寝をしたり、庭池に素足をひたして水を跳ね上げたり、庭の万両や南天の実を口に入れてみたり、そんな良家の妻女に似合わない行いに慌てたりは、もうしない。
「井戸のお水がね、とってもきれいなの。だから飲みたくなっちゃったの」
 ふっくらとした頬と唇に、左右に大きく切れた杏仁形の瞳。奈江の育った寒村に祀られた観音様によく似た面差し。だから初めて見た時、懐かしいような、今すぐ救ってもらえるような、そんな感情にふと泣きそうになったのだ。
「すぐにお茶を淹れますですよ。お二人が戻ると聞いて水菓子なども用意しておりますのに」
「水菓子は好き。あと、あたし、生のお肉が欲しいの」
 奥様の言葉に、奈江はひっそりと顔を背けた。この穏やかで優しい奥様は獣の肉を好む。それも血が滴る生肉に白い歯を突き立てて食べたがる。
「肉は頼んでおりますけど」微かに波立つ気持ちを抑えて奈江は答える。「しばらくは届きそうにありませんで。まだ日も高いことですし、今はお茶と水菓子を召し上がってくださいまし」
「スイ、井戸水をじかに飲んでいたら着物が濡れて風邪をひくよ」
 かしこまった洋服から黒鮫小紋の普段着に着替えた旦那様が座敷から声をかける。
 がっしりとしたいかり肩に手足の長い長身だから、少し背伸びをすれば鴨居に頭をぶつけてしまうことだろう。周辺の村落のずんぐりした百姓達とも、滅びた餡泉郷から移り住んで来た華奢な人々とも血筋が全く違う。こういう立派な体格の人が金モールの軍服など着たら映えるのだろうと奈江はいつも思う。
「あたし、風邪なんかひかないの。泰輔ちゃん、わかってるくせに」
 濡れた口元を白い手で拭いながら奥様が答える。お屋敷の奥様なのに旦那様を名前で、それも子供を呼ぶようなちゃん付けで呼ぶ。そして旦那様も咎めようとはしない。
「生水よりも茶を飲もう。土産に持たされた羊羹も落雁もある」
「ご実家のお供え物より奈江さんが用意してくれたものの方が、あたし、美味しいと思うの」
 奥様の淡いわがままに、旦那様は太い眉の下の目を細めて微笑む。
「だったら水菓子にしよう。奈江、皮を剥いて」
「はいはい、すぐに剥きますんで。番茶もお持ちいたします」
「茶くらいは俺が淹れよう」
「そんな、旦那様の手を煩わせるなんて」
 決まりごとのように言い返すけれど、旦那様は男なのに上手にお茶を淹れる。
「餓鬼の頃、離れで婆やの真似をして茶を淹れてたもんだ」と、この強面のくせに気さくな主人は語る。「母屋でやろうもんなら『男が急須に触るもんじゃない』と怒鳴られてたが」と笑って言い添えながら。
 奥様が井戸水に濡れた顎を上げて、水屋の方向から流れる風に小鼻をひくつかせた。
「山で採れた桃色の瓜があるのね?」
「ええ奥様。日暮れ山の嬶様が持って来てくれましたんで」
「桃瓜なら皮は剥かないで、よっつに切ってくれるだけでいいの」
 奥様がしゃがんだまま袂で唇を拭いて立ち上がると、裾が小さく割れて、しっとりと脂の乗ったふくらはぎが陽光の中に晒された。
「冬を越した桃瓜は皮が硬いです。掬って食べなさるなら匙でもおつけしましょうか?」
 形ばかり尋ねてみる。人の歯など決して通らないはずの皮も、口に含んでいられないはずの渋ワタも、しゃくしゃく、しゃくしゃく、と奥様はこともなげに噛みしだくのだけれど。
 瓜のはいった笊を置き、土間の水屋に移りながら、奈江は縁側の気配に五感をそばだてた。硬くてぶ厚い皮に突き立てられる奥様の歯の白さや、舌に絡み付くいがらっぽいワタを肉厚な唇の内側で噛み潰す様を感じ取るために。
 やがて奥様は頬を脹らませたまま旦那様と唇を交わし、唾液に溶けた果実を口移しで与える。皮は身体に良いからと奥様は言う。ワタや種にも滋養がたっぷりだとも聞かせられた。
 この行為が夫婦にとって食事なのか、それとも交歓なのか奈江にはわからない。知らなくてもかまわない。探ろうとも思わない。ここは気苦労の少ない奉公先。二人はとても、とても、良い雇い主。だから細かいことなど問いはしない。奥様が手づかみで生肉を喰らおうが、食事を口移しで与え合おうが気になんかしない。
 親戚の次男は修行先で兄弟子達に殴る蹴るの折檻をされて片目と鼻を潰され、片耳を失った。隣家の姉娘は奉公先の息子達に犯されて、孕んだとたんにふしだら者として暇を取らされた。
 このお屋敷では旦那様も奥様も奈江を殴らない。揶揄されたり、蔑まれたりもしない。もちろん、旦那様にいやらしいことを仕掛けられたりもしない。
 小さいけれども手の込んだ普請の屋敷は、いわくつきで半端者の奈江を静かに雇い続けてくれる。ささやかな庭と池のある敷地は背の高い竹垣に囲まれて、姦しい近隣者の目も遮ってくれる。ここは仄かな桃源郷。そう思いながら奈江は勤め続けているのだ。

「ご夫婦はもう戻って来られたのかね」
 洗濯女のキヨ婆さんが、奈江の身体ごしに庭を覗き込みながら尋ねた。
「ええ、お戻りでございますよ」
 乾いた洗濯物を受け取りながら、細く開いた黒い横張木戸の隙間をさりげなく背中で遮った。背後から庭の小さな池に足を浸した奥様が、ころころと笑う声が漏れて来る。側に旦那様が大きな身体を丸めてしゃがみこみ、椿油の沁みた柘植櫛で奥様の黒髪を梳いているのだろう。
「ああ、忘れそうになっておりました」はしたないと思われかねない声を隠すため、奈江は少し大声で喋る。「奥様のおっしゃっていたことをお伝えしますですよ。杉林の家の嬶様の腹の子は男の子だと。それから炭焼きさんの腹痛はせんぶりなど取り寄せなくても、梅湯を飲んでいれば治って行くとのことで」
 よそ者の屋敷が土地で浮いているのは知っている。ゆるゆると受け入れられているのは奥様の千里眼が重宝されるからだ。
「ほうほう、さすがは名のある奥様だねえ。すぐに杉林の家と炭焼きに伝えんとねえ」
「差し迫った時は私を呼んでくだされば、すぐ奥様にお見立てを取り次ぎますんで」
 ではこれで、とあいさつをしようとした奈江に婆さんは早口に喋りかけた。
「なにしろ街場のお屋敷にも呼ばれるような方だからねえ。ありがたいねえ。いつも地獄の火車みたいな大きい自動車がお迎えに来るくらいだからねえ」
 そのたとえに奈江は悪意のない軽い微笑みで応じた。
 土煙を上げながら機械仕掛けの四輪車が来ると年寄り達は遠巻きにし、男の子達は木に登って眺める。その威光が奥様の託宣に箔をつけている気がしないでもない。
「奈江さんはあの乗り物がおっかなくないのかね?」
 キヨ婆さんがおずおずと尋ねる。
「最初は魂消ましたけど、馴れましたですよ。馬のいらない荷車だと思えばいいんでございます」
 無難な笑みを崩さずに淡々と受け答えする。余計なことは言わず、過剰な愛嬌も見せず、かと言って冷ややかだとは思われないように。
「あんたさんもここのお勤めが長くなってまあ」話好きの洗濯婆さんは来るたびに同じことを繰り返す。「来た時は骨と皮だけだったのに、今はふっくらとして。下女もずいぶんと良いものを食べられるみたいで」
「このあたりでは普通のご飯だと思うでございますよ。里が貧しいから痩せこけていただけで」
 痩せ地の女は滋養がないから孕まないのだと、嫁ぎ先では吐いても喉に飯を詰め込まれていた。実家に戻っても食後の嘔吐がやまなかった。けれどもここで自分の過去など教える必要はない。
 地面の熱を含んだ風が吹き上げ、手うちわで顔をあおいでいたキヨ婆さんが胸元を少しばかりはだけた。たるたるとした乳の根元が剥き出しになると、細い皺を透明な汗がつたい落ちるのが目に入る。子供を幾人も産んだ女の胸乳から、石女と罵られ続けた奈江は今日も視線を逸らした。
「このお家の紫陽花さんはずいぶんと花が赤いなあ」竹塀の内と外にこんもりと茂る手鞠咲きの花を眺めて婆さんは話の矛先を変える。「土の栄養が良いと紫陽花さんは赤くなると言うで。あんたさんも肥えて、紫陽花さんも赤くなって、まあ本当に良いお屋敷のようで」
「良いお勤め先ですかねえ」世間知らずの田舎女の口調で答える。「何しろ私は他の奉公先を知らんでございます。紫陽花さんなんて沢咲きの小さいのしか見たことがなかったですよ」
 曖昧に濁す言葉に対して、婆さんは通常の奉公人がどれほど苦労するものなのかを、今日も滔々と語り始めた。
 いわく、ここいらの娘は十三歳になれば絹糸工場に住み込まされていたものだった。いわく、一日中、立ち仕事をして汗で湿った布団を三交代の三人で使い回し、肺を病めば捨てるように家に戻されていた。そして娘がもらって来た業病をうつされて一家が死に絶えることもあったのだと、毎回のように同じ口調で繰り返す。
 木材問屋に住み込んだ坊主は丸太に手足を潰されて帰って来たとか、蚕の糞を発酵させてこしらえていた黒色火薬で生きたまま黒焦げになった娘がいたとか、婆さんの話は尽きることがない。 知っている。ここより貧しい奈江の田舎には、悲惨な奉公人の話など掃いて捨てるほどあったのだから。
「かんにんして。かんにんして。獣はかんにんして……」
 幼なじみが呪文のように繰り返していた泣き声が蘇る。ぐっしょりと濡れた顔に張りついた狂笑も思い浮かぶ。奉公先で心を壊された娘の無惨な姿は今も時々、悪夢の中に現れるのだ。
「この屋敷で男手はいらんかねえ。うちの三男坊の勤め先を捜しているでなあ」
 悲惨な奉公話の後はお決まりの、身内の売り込みが始まった。
「はあ、旦那様に聞いておきますですよ」
「本当に聞いてくれるかねえ。斧原の家の作男も、川石の料理女の手伝いも、このお屋敷ではみんな断っているんだろうに」
 瘦せ細っていた奈江が、このお屋敷に来てから徐々にふっくらとして頬に血の気を戻していった。近隣に楽な奉公先だと噂が流れ、あちこちから住み込みの相談が絶えないのだ。
「なにせ旦那様と奥様のお二人だけですから、人手も少なくていいそうで」
「まあなあ、確かに洗濯も少なくてのぉ」婆さんが細い垂れ目に好奇心を滲ませ、声を潜めて奈江に聞く。「奥様の汚れ物を見るに月のものがまるでないのう。洗濯が楽といえば楽じゃが、まだ娘みたいな歳なのに痛ましいことで」
「ああ、そういったものは私が洗わされてますんで」
 そっけなく話を打ち切ってはいけない。断言もしてはいけない。否定も肯定もせず、反感をかわず、詮索の心を誘わないように。
 街場の空気を漂わせた訳ありげな夫婦に、遠い僻村から雇い入れられた下女。あちこちに小さな温泉が涌くだけの寂れた農村に、自分達が溶け込み切れずに浮いているのはよくわかる。何かと取沙汰されているのも、奇異の目で見られているのも知っている。だからなるべく温和に、目立たないように、ことさら純朴そうな態度をこしらえて近隣の人々と接するのだ。
 西側の竹塀に絡むのは白紫の鉄線葛。竹塀を挟むように蕾を柔らげているのは餡泉郷の長者が作り上げたという手鞠咲きの紅紫陽花。
「ほんに珍しいくらい赤い紫陽花さんで。この紫陽花さんはなあ、ちぃっと特別な肥があると赤味が強くなると言われててなあ」
 婆さんがまた、羨望を込めて呟いた。
「魚の骨を腐らせて根元に埋めてるんでございますよ」なるべくさらりと言い放つ。話を打ち切りたい、という色をひっそりと織り込みながら。「夕餉のお支度の前にまた煮干しの滓を紫陽花さんの根元に埋めて、それに干したお布団を取り込まなきゃいけませんですかねえ」
 まだ何やら話し足りなそうな洗濯婆さんに奈江は薄く、薄く、微笑みかける。
 自分の容姿のことも表情のこともわかっている。生まれも育ちも貧しい山村だけれど、餡泉郷から移り住んだ華やかな人々の血を濃く受け継いでいる。垢抜けなくても色白で顔立ちは細やかだし、普通に喋っても言葉つきは柔らかい。だから愛嬌顔で微笑むと、人々が少しばかり意のままに動いてくれるのだ。
「雨の前に私も、もう一度洗濯せんならんなあ」
 これ以上の立ち話をあきらめた婆さんが別れのあいさつを口にして、浅黒く萎びたくるぶしで土ぼこりをかき分けるようにして歩き去ってくれた。
 今日の受け答えはこれで良かったのかしら。好感を持たれる程度の愛想はふりまけていたかしら。好奇心を呼び起こしたり、羨望をかきたてたりしていなかったかしら。
「大丈夫なの。奈江さんはとっても礼儀正しい人だから」
 池の縁から奥様の声がかかる。白い足指が庭池に突き入れられ、ぴしゃぴしゃと水しぶきを跳ね上げていた。
「ありがとうございます。それなら良かったでございますよ」
 最初は気味悪いと思った読心が、今はとても心地良い。
「池の水が冷たいから水遊びはもう終わりなの」
 野放図な奥様が池から足を引き抜き、駆け寄った奈江は乾いた手ぬぐいで水滴を拭いた。
「いっぱい遊んだから何だか眠くなったの」
 式台に座布団を丸めて、ころり、と豊かな肢体を投げ出したと思ったら、すぐにすうすうと静かな寝息をたて始めた。奥様はよく眠る。朝餉と昼餉の間にも、おやつの後にも、猫のようにどこにでも横になってはうたた寝を始めるのだ。
「奥座敷のお役目で疲れたんだな。俺の実家では昼寝もさせてもらえず、一日中、生き神様の役割をさせられるんだ。かわいそうに、あれじゃ俺でもへたばるぞ」
 旦那様が大きな手で奥様の黒髪をさする。撫でられるごとに髪の流れが整い、毛艶が増して行くようだ。けれどもその触れ方は、女を撫でるよりは愛しい子猫や子馬をさする手つきに似ていると感じるのは思い過ごしなのだろうか。
「これは夕餉まで起きそうにないな」
「今、掛け物など持ってまいりますですよ」
 奥様が眠っている間、旦那様は薪割りなどをしてくれる。作男を頼めばいいものを、実家の離れで婆やにやらされていたから、力仕事をしないと身体がなまるから、などと言ってきかない。
「午後は時間がありそうだ。奈江、読み書きでも教えようか」
「ありがとうございます。では後で石盤を持って来ますんで」
 奥様の昼寝が長くなれば、旦那様が読み書きやら護身術やらを教えてくれる。退屈しのぎだとも言うし、学があれば任せることが増えるからだとも言う。俺は生き神様のお守り役だから暇なんだ、と自嘲気味の理由を聞かされたこともある。いずれにしても下女にわざわざ学問を授けてくれる奉公先など聞いたこともない。
 この屋敷はとても風変わりで、周囲から見ればきっと少しばかり気味悪く、そして奉公人がふくふくと肥えて行く場所なのだ。
 
 
 火吹き竹に空気を吹き込むと、風呂釜の中の薪が、ぼぅ、と音を立てて燃えた。
 ああ、いけない。少しばかり息を強く入れ過ぎた。お二人がお風呂に入っている間、火加減はとろとろと。お湯が冷めないように、沸き過ぎない程度に加減しなくてはいけないというのに。
 湯殿には嵌め込まれた無双窓。漏れ出る白い湯気に混じって戯れる旦那様と奥様の気配が運ばれて来る。
 お屋敷などと呼んではいるけれど、その昔、どこぞの富豪がこしらえた湯治小屋を改装した小振りな家だ。西側の一角には釜焚きの風呂小屋を据えて、檜の湯殿を据え付けている。
「お風呂が良いお湯加減になりました」
 そう告げに行った時、奥様は牡丹模様の座布団を枕にして、またうたた寝をしていた。
 暖かな夕刻。開け放たれた部屋に弱い西陽が差し込み、室内には障子の陰が灰色に伸びていた。白土の壁には和紙に線描された美しい鬼子母神の絵が数枚。午後の残光が伝説の鬼女をまだらに照らし上げ、そこだけ色づけされた柘榴が赤黒く浮かび上がっていた。
 今夕も、片膝を立てて旦那様が薄茶色に変色した写真を見つめていた。
 何度か盗み見たことがある。映っているのは華奢で細面で色白の、はっとするほど臈長けた麗人だ。丸火鉢に片肘を載せ、もう片手に物憂げに灰ならしをつまんだ美しい人。男物の楊柳浴衣に違和感がないのはすらりとした長身だからだろう。髪が極めて短い断髪らしいのも見て取れた。大きな街では女も髪を切るらしい。あの写真の人もそういった類いの進んだ女人に違いない。
 見るたびに思う。旦那様の心を真に捕らえているのは、穏やかで妖艶な奥様ではなく、まるで霧や霞のような古い写真の姫君なのではないかしら、と。
「旦那様」
 奈江はもう一度、遠慮がちに声をかける。
 呼びかけが初めて耳に届いたかのように旦那様は目をこちらに寄せた。いかつい人差し指と中指を、写真の中の薄い唇にそっと触れさせたまま。
「旦那様、お湯が良い加減になりましたんで」
「ああ、ぼんやりとしていた」旦那様の目が、すぅ、と現世に引き戻されて、障子際の奈江に焦点を結んだ。「ご苦労だね、奈江。それではスイを起こして湯に入ることにするか」
「おあがりになる頃にはお食事のお支度もできますんで。旦那様にはぬるく燗をつけて奥様には冷たい梅酢を」
 暮色の中、古い写真の姫君は螺鈿の文箱の中に納められ、ことり、と玉虫に飾られた蓋で隠された。あの箱の中は黄泉の国。きっとあの麗人はもうこの世にはいない。その姿はいつもあの黒い箱の中。そして旦那様の心の中。ただそれだけだ。
「スイ、風呂が沸いたぞ。一緒に汗を流してさっぱりしよう」
 古い写真を撫でた手をそのまま奥様の丸い肩に置いて静かに揺り起こす。二人の女に触れる、全く違った手つきに奈江はそこはかとない哀しみを感じ取るのだった。
 旦那様の顔には、繊細な指遣いに不似合いな四角い顎と太い眉。大柄で筋肉質で、飛び抜けた美男とは言いにくい。かといって決して醜くもない。木曾義仲か関羽を演らせたら似合いそう、と村の女達が悪気のない陰口をする風貌だ。
「あたし、また眠ってたのね」
 半身を起こすと、解かれた黒髪が市松絣の肩にうねうねと垂れ落ちた。
「泰輔ちゃん、またお写真を見ていたの?」旦那様の分厚い肩に、ちょこんと丸い顎を載せて奥様が囁いた。「あたしにも見せて。懐かしいの」
「風呂から出て、食事を済ませてから見ようか」
「今、見たいの」
「それじゃあ風呂の湯が冷めてしまう。沸かし直しは奈江の手間になるだろう?」
 この気遣いに、最初の頃はひどく戸惑った。風呂が冷めたら焚き直させれば良い。使用人の手間など考えたりしない。それが当たり前のご主人というものだ。
「下女相手に気を遣わないでくださいまし」と、おずおずと言ってみたことがある。
「主人らしくなかったかな」旦那様は武者めいた顔に照れ笑いを浮かべて言った。「餓鬼の頃から余計な仕事を増やすと婆やに叱られてたせいだ」と。
「はあ? 使用人が主家の坊ちゃんを叱る、ですか?」
 寡黙な奈江が思わず声を上げると、旦那様がいかめしげな目尻に皺をよせて、とてもおかしそうに、子供のような表情をこしらえて笑った。
「うん、やっぱり驚くか。いやなあ、俺の実家の離れは鬼婆と呼ばれる腕っぷしの強い婆やが仕切っていてね。そりゃあもう主人より威張ってたもんだ」
「はあ? 威張る、でございますか? 使用人が、ですか?」
「そうね、お強い方だったの」遠くを眺める目つきで奥様も話す。「優しくて、でもとても怖い心根の方だったの」
「俺はたまに拳骨を喰らったが優しかったぞ。料理が上手で、特にお汁粉が美味しかったねえ」「そうそう、律さんのお汁粉、大好きだったの」
 相手が子供でも奉公先の者には服従しなければならない。殴られても犯されても、奉公人は我慢し続けるしかない。そう叩き込まれて育って来た。だから主家の坊ちゃんを叱る婆やの姿が、まるで想像できない。
「さあ、冷めないうちに早く風呂に行こう」奈江の思いを打ち消すように旦那様が声をかけた。「留守中に奈江が新しいぬか袋を作ってくれたそうだ。今夜も俺がスイの背中を流してやる」
「そうね、じゃあお風呂に行くの」
 ゆらりと奥様が立ち上がると、市松絣の色模様が暮色の中に溶け込んでいく。ものの輪郭が曖昧になる刻限。眼前にふうわりと揺れる奥様の、豊かな腰や皮脂をまとった腕に目を吸い寄せられる。なぜこんなにもなめらかな肉付きをしているのだろう。荒れた指先で比べるように自分の腕を撫でると、ごろごろとした骨の感触が硬い。数年前まで、親指と人差し指で作る輪よりも細くなっていた腕。ここに勤めてからずいぶんふくよかになったけれど、以前ほどの丸みは戻って来ない。
「泰輔ちゃん、今度はあたしがぬか袋でこすってあげる」
 湯殿から漏れ聞こえる声と湯音が奈江を現在に引き戻した。
 奥様の甘い笑い声。旦那様の和やかな語りかけ。二人の裸身を濡らした湯が、檜の床に流れ落ちてひっそりと聴覚を浸す。
 湯殿から、ぴたぴた、ぴたぴた、と肌を打ち合う交合の音が始まっても気にしない。旦那様の唇が奥様の全身をしゃぶる音にも心をざわつかせたりはしない。嬌声も睦言も雨音のように聞き流す。
 ただ、お二人が湯船で絡み合っている時は、急に湯を熱くしないように気をつける。細い粗朶を一本ずつくべて、とろとろとした弱い火で追い焚きを続けなくてはいけないのだ。
「次にご実家に行くのはいつかしら。あんまりしょっちゅうだと疲れちゃうの」
 睦み声の合間に奥様が軽く駄々をこねている。
「年にほんの何日かだから、我慢をしてくれよ」
「嫌じゃないの。お役に立てると、とっても嬉しいの。ただ回数が増えるとしんどくて」
 ぱしゃり、と湯の音がする。奥様の白くぬめる背中と腰に、湯に濡れた旦那様の両手が回されたのだ。
「なあスイ、疲れるのはよくわかる。でも、ほんの数日、耐えてくれ」
 いかめしい顔立ちの旦那様が少しばかり情けない声で頼んでいる。
「大丈夫。ちゃんとお勤めするの。だって、あたし、人のお役に立つのが好きなの」
「母屋の連中も偉い商人や町長さんもスイを頼りにしているんだ」
「うふふふ」奥様が笑う。それはきっと声だけで、丸い紅色の唇にくっきりとした笑顔は浮かんでいないに違いないけれど。「だって川から拾ってもらったんだもの。恩返しにお家のお役に立てて本当に嬉しいの。それに、お勤めできないと、あたし、また川に流されて捨てられちゃう」
「誰もスイを捨てたりしない」旦那様の声がくぐもる。きっと、唇を奥様の胸乳に埋めてしまったからだ。「大事な大事な生き神様だ。それにスイがいてくれなければ俺が切ない」
 くすくすと、また奥様が声だけの笑いを漏らす。
「泰輔ちゃんはあたしを通して大事な方に触れているの」
 湯船でもつれ合う音。湯の上を波がうねって浴槽の檜にゆるく当たる。
「生き神様のお役目はあたしの大切なお仕事。でもね、やってくる人達に嘘つきが多くて、時々、苦しいの」
「しょうがないだろう。商家なんてそんなものだ。俺だってスイがいなかったら、どっぷりと商売に漬かってくらしていたはずだ」
 言い争いと呼ぶよりはただ甘ったるいだけの言い交わし。耳をすますと湯の玉が二人の肌を伝う音、足指の間に湯が溜まる気配すら聞き取れそうだ。目を閉じると、焚き口の中で橙色に爆ぜる火の粉が鮮やかな残像となって瞼の裏を打つ。そして、瞳の裏に訪れた暗闇の中、温かな湯船に潜り込んで旦那様と奥様の肌に触れる心地を感じるのだ。
「でもね、泰輔ちゃん、あたし、そのうちいらなくなっちゃうかも知れないの」
 焚き口にしゃがみこんだまま目を見開くと、熾火の橙色が瞳を刺した。
「まさか。スイの人相見がなかったら本家は大混乱だ。俺達がここで何不自由なくくらしていられるのもスイのお陰なんだよ」
「あたしがいなくてもお店は安泰。この先は千里眼も生き神様もいらなくなるかも知れないの」
「人の叛心を見抜けるだけじゃなく、世の流れもスイは見抜けるのか?」
「そうね……、生き神様を頼る臭いが薄くなっているような気がするの……」
 奈江は炎に飲まれる薪に火吹き竹で息を吹く。自分の肺から出た息が火を猛らせて湯を沸かし、その熱が旦那様と奥様の肌に伝わることを思うと熱いような切ないような悦楽に冒される。
 頭の良さそうな旦那様。まだ若いのに世捨て人のように過ごしているのは、神通力があるけれど知恵のない奥様のお守りのためではないかしら。品のない下男やら男娼ではいけない。しっかりとした血縁の男をめあわせて奥様を繋ぎ止めようとしているのではないかしら。
 それは心の中で考えるだけのこと。決して誰にも言いはしない。顔見知りの婆さんにも、力仕事を手伝う村の男衆にも、そして里帰りした時の実家でも、決して口にはしない。長く置いてもらえる使用人は口が堅い。特に訳ありな家では寡黙な下女が重宝される。多少気が利かなくても、愛想が悪くても、それだけで大切にされるのだと教わってきた。
 この穏やかな家に寝起きして五年。殴られたり怒鳴られたりしたことはない。手込めにされることもない。だから空気のような使用人としてここで生き続けていきたいと願うのだ。

   二

 初めてお屋敷に入ったのは夏の終わりの湿った風の吹く日のことだった。
 嫁ぎ先の家族が毒草にあたって大半が死に絶え、やつれ果てた姿で実家に戻っていた奈江に紹介業のマツ姐さんが奉公話を持って来てくれたのだった。
「よそ者夫婦が住みついたお屋敷でね、長く勤めてくれる若い下女を探してるんだよ」
「街場の商家の親戚とかの触れ込みで、そこそこ金はあるみたいだねえ」
 少しばかり怪しげな話だったけれど、出戻り娘を持て余していた親は飛びついた。「長く勤めてくれる若い下女」というのは多分、子供のない後家などを求めてのことだったのだろう。けれども、もう嫁に行けそうにない奈江もその条件に当てはまる。
「あばずれの石女には嫁の口なんか望めんからなあ」
「泣き連れ崩れでいわくつきのお前が住める所なんてないだろうよ」
 初めての奉公に脅える奈江を親達はそう諭した。いや脅すようにして言いくるめた、と表現した方がいいだろうか。
 石女。あばずれ。泣き連れ崩れ。いわくつき。面と向かって言われると、肉の削げた頬の内側で奥歯がきりきりと微かに鳴った。
 奈江が裕福な村に住む行商人と駆け落ちをしたのは十六歳の時。やつれ果て、痩せこけて実家に出戻ったのは二十歳になった頃だった。
 駆け落ちのことを郷里では泣き連れと呼ぶ。親に反対されて連れ添ってもどうせ泣いて別れて戻るはめになるのだからと。絵に描いたような泣き連れに、婚家が中毒死といういわくまでついた。こんな女にはもう嫁の口など来るはずもない。
 若い自分が軽率だったと言われれば否定はしない。相手の男にそれほど惚れていたとも思えない。そもそも色恋の意味すらわかっていなかった。親にも言わずに逃げ出すなど狂気の沙汰だったと今にしてみれば思う。
 十六歳の自分は目の前に持ち上がっていた『奉公』という言葉の恐ろしさから逃れたかった。ただそれだけのために駆け落ちしたような気が、しないでもない。愚かといえば愚かな、あさはかと呼べばあさはかな、幼な過ぎる決断だった。
 確かに婚家の村は豊かで食に不自由はなく、否応なく奉公に出される者などいなかった。けれども泣き連れで乗り込んだ嫁に人々が温和に接するはずもなく、翌年も翌々年も子のできないまま舅姑の冷酷さが増し、やがて苛烈な仕打ちに変わっていったのだった。
 泣き連れなどする前は、ほっそりしていても娘らしい身体つきだった。その奈江が、病持ちと間違われるほどにやつれ果てて実家に戻ったのだ。運悪く繁忙期も終わり、祭りを待つだけの暇な時期だった。それは人々が話題と刺激を渇望する季節。いわくつきの泣き連れ崩れを一目見ようと近隣の者達が家の中を覗き込み、毎日のように親戚連中が顔を見せろとやって来た。身の置き所をなくした奈江が嘔吐すると人々は目を見張り、泣いて逃げれば子供達がおもしろがって追いかけてきた。
 骸骨のような女など、後妻の口もありはしない。どっしりした尻と地面をつかむような太い足の女が重宝される山村で、痩せは病弱か貧困のあかし。
 身の程は知っていた。自分のような女を雇うお屋敷など、まともな場所のはずがない。
 覚悟して面通しに訪れたそのお屋敷は、背の高い竹垣に囲まれた瀟灑な造りの家だった。
 薄明かりの差し込む表座敷。肩幅の広い旦那様にしなだれかかる奥様を見た時、不思議な既視感が湧き上がった。この女の人を見たことがあるような。ひどく懐かしいような。もしかしたら、どこかで守ってもらったことがあるような、そんな記憶が疼いたのだ。
 肩にぬめるような黒髪を垂らした奥様が、真っ黒な目を奈江の方向に向けた。世の明かりを全て吸い込むような漆黒の瞳に、自分もまた呑まれて行きそうな酩酊が心地良かった。
 まだ春も浅い頃のこと。柔らかな湿り気を帯びた空気がたれこめ、障子の中に差し込む光すら淡い桜色を帯びているかのような午後だったと思う。懐かしい顔立ちをした奥様がしなしなと、仏堂の毘沙門様を思わせる旦那様の耳元に囁いた。
「あたし、この子がいいの」と。
 このお屋敷に奉公が決まったいきさつは、たったそれだけだった。
「あの奥様は口寄せができるらしいよ」仲介のマツ姐さんが後で教えてくれた。「陰気でおつむが弱いらしいけど、占いやら人探しもできるらしいからねえ。そういうお人があんたさんを気に入ったんなら、そりゃまあ間違いのない奉公先になるんでないかいねえ」
 山間の谷に建つ奈江の実家では、壁土がほろほろと常にこぼれて、雨が降ると板と茅で葺いた屋根から黒ずんだ染みが伝い落ちていた。お屋敷にいたのは短時間だったけれど、壁にひびひとつ見当たらなかったのが珍しかった。雨染みもなければ、板敷きに割れ目も見つけられなかったのが違和感と言えば違和感だっただろうか。
 あの立派な場所に奉公するのか、と骨と皮ばかりになっていた奈江は考えた。大人しそうな奥様だった。旦那様はいかめしかった。初めてのお屋敷からの帰り道、耳の奥にカヤ姉の啜り泣きと狂笑が蘇った。それでも覚悟は決めていた。あばずれの烙印を押されたいわくつきには拒む道など残されてはいなかったのだから。

 
 故郷の村にも、そこに続く道のあちこちにも救世観音が祀られている。
 里帰りの道すがら、奈江は全ての観音堂に跪き、小さな菓子を供えて祈りを捧げる。実家の村から硫黄谷に続くあたりの観音様は見れば見るほど奥様に似ていると思う。杏仁形の半眼も、ぽってりと肉厚の唇も、くねるような肢体も生き写しと言っていい。
 遠い昔、この近くに救世観音に守られた温泉があった。餡泉郷と呼ばれたその場所には、漉し餡に似た泥と万病に効くという赤い湯が涌いていた。常に富裕な湯治客で賑わい、人々は豊かなくらしを営んでいたと聞く。観音様は誰にも分け隔てなく恩恵を与え、悪人を見つけ出し、病気を治し、失せ物のあり場所を言い当てていたそうだ。
 奈江の記憶の中、慈愛に満ちた観音様が起こした奇跡の数々は炭が爆ぜる音に絡む。
 谷間の寒冷な村だ。初夏になっても夜になれば炭火が欠かせない。ぱちぱちと橙色の熾火が冷気を震わせる囲炉裏端で、歯の欠けた年寄りが観音様の伝説を繰り返していたのだ。
 華やかな温泉の地で住民達が増長すると、優しい観音様はそこから消え失せた。守護をなくした場所に溶岩が流れ、毒の風が吹き込んだのは三代ほど前の頃だったとか。山間の極楽と呼ばれた餡泉郷は誰も住めない地獄ケ原に変わり、人々は山沿いの痩せた土地に散って惨めな小作人になったのだと伝えられている。
「慈悲深い観音様も祀らなきゃあ見放す」と年寄り達はこの昔語りの後に付け加えることを忘れなかった。「人間の主人には間違っても逆らっちゃいかんよ。働かせてくれる主人からは何をされてもおとなしく仕えなきゃいかんのよ」と。
 おとなしく仕える、というのはどの程度まで我慢をすればいいのか。縛られて折檻されたり、酒の席でいやらしいことをされたりくらいは堪えなければいけないのだろう。けれども目を潰されたり、手足を折られたりしたら逃げてもいいのかも知れない。
 そしてまた、奈江は幼なじみの正気を失った泣き笑いを思い出す。
 そのかわいらしい顔をした娘は愚鈍だとか物覚えが悪いとか言われ、十五歳になってもまだ小さな子供とままごとなどして遊んでいた。「カヤ姉といるとのろまがうつる」と言われても、奈江は良く笑う彼女が好きだった。後をついて歩き、木の実をとり、鬼灯を鳴らして聞かせてもらっていたものだ。
 その無邪気な娘は遠い町に奉公に行き、狂女になって戻された。奈江が『奉公』という言葉に地獄に引きずり込まれるような恐怖を感じるようになったのは、あの愛くるしい顔をした少女の哀れで恐ろしい狂態を見せつけられたためだろう。
 いつも救世観音に祈っていたものだ。奉公先で恐ろしい目にあいませんように、正気を失わず足腰が立つままに過ごせますように、と。今は違うことを祈る。あのお屋敷にいつまでもいられますように、旦那様と奥様がいつまでも息災でありますようにと願うだけだ。道すがら祈り、救世観音の顔を奥様に重ね、そして古びて壁土のこぼれる実家に辿り着くのだった。
 

「奉公先はどうなのだねえ」
 母が聞いた。足も腕も農作業に不向きな華奢な造り。滅んだ餡泉郷の血筋が色濃く表れた細腰に色の淡い瞳。温泉の赤湯色と呼ばれる茶色い髪にも、ずいぶん白いものが増えていた。
「丈夫そうになったじゃないか」
 粟粒のこびりついた飯碗から湯を飲みながら兄が言った。彼はこの土地に古くから住んでいた農民の顔立ち。顎幅が広く、地黒で重心が低く、地力を溜められる身体つきだ。
「なんとか勤めてるから」
 なるべく簡素な言い方で奈江は答えた。
 年に数回、盆でも正月でもないのに暇をもらうことができる。旦那様と奥様が実家に呼ばれた後に与えられる有り難いはずの休暇だ。給金は出るし、実家への足代やら持参する土産物までも与えられるから、いわくつきの出戻りが良い奉公先に巡りあったと家の者達は喜んでいる。
「薄気味悪いよそ者屋敷なんだろ?」
「おかしげな行商人が出入りしているらしいが、害はないのか?」
 家族が口々に問いかける。娘の身を案じての意味もあるだろう。けれども微かに滲むのは何かと噂の多いよそ者への好奇心だ。
「勤めやすいお屋敷だから」
 奈江は無難な返答を繰り返す。
「間違っても増長しちゃいかん。給金をくれる主人にはおとなしく仕えなきゃいかん」
 とっくの昔に亡くなった婆様の言葉が、今日も耳の奥にこだました。
「あの屋敷にハイカラな格好の人さらいが来るんだろう?」
「生き肝取りが来て村の子の腹を割いてるって聞いたぞ」
 小さな甥や姪が奈江に聞く。大人がたしなめても子供達はこの手の話を聞きたがるから、わざと大きな声をあげて笑って見せた。
「商売人は来るけど、身元のちゃんとした人ばっかりだねえ」
 寡黙な奈江の笑い声に大人達は怪訝な顔をするけれど、子供達は重ねるようにして問いかけた。
「あそこの夫婦が子供の生き肝を喰うって」
「穂沢の里の赤ん坊が硫黄谷で燻されてあの屋敷に売られたんだぞ」
 また奈江はけらけらと笑う。笑って見せるしか方法はない。
「めずらしい西洋風の食べ物を取り寄せるからね」唇を笑いに固めながら奈江は続けた。「外国人が飲む葡萄汁を生き血と間違えて騒いだって、年寄りが言ってるだろう? あれと一緒だよ」
「でも、臓物が庭一面にぶちまけられてたって噂だぞ」
「ああ、あれはね」今度は虚実を取り混ぜて言葉を選ぶ。「お庭に猪が飛び込んで来て、それを猟師が鉄砲で撃ち殺したことがあったのよ。そりゃあ大騒ぎだったけど、話ってのは際限もなく広がるもんだねえ」
 実際はあの後、奥様が撃ち殺されたばかりの猪の生肉を喰ったのだ。白い歯を赤い肉に突き立てて、紅梅の唇を血に濡らし、くちゃくちゃと音を立てて屠っていたのだ。真っ黒な髪から赤い血が滴っていた。滅多に笑わない奥様が浮かべた笑顔の蠱惑に眩めいて、思い出すと怖れるよりは手をあわせて祈りたい気持ちが湧き上がる。
 縁台に座り込んだ旦那様もまた、うっとりと奥様を見つめていた。それは女房を見る目ではなく、手の届かない天上の女人を眺めるような、あるいははるか彼方に誰か別の人を捜すような遠い、眩し気な、そして切ない眼差しだった。
「そう言えばねえ、街場の金持ちは半生の肉を食べるらしいんだよ」
 まことしとやかな蘊蓄を披露すると、甥や姪が「気持ち悪い」とか「鬼か狼みたいだ」とか、口々に声を上げて嘔吐の真似事をした。
「鍋に牛やら馬やらを入れて醤油と砂糖をかけて食べるんだって」
 奈江は続ける。勤めやすい奉公先だもの。主人夫婦の名誉は守らなくては。変な噂が広まれば自分の居場所がなくなってしまう。
「金持ちのハイカラ料理は不気味だね。お屋敷じゃ食べないからありがたいよ」
 話の匙加減が難しい。評判が上がり過ぎるのも好ましくない。良い奉公先と噂が立ったら、あばずれでもいわくつきでもない下女を売り込みに、紹介料狙いの婆様達が動き出すに違いない。
「でもねえ」控え目な兄嫁が言いにくそうに言葉を挟んだ。「あのお屋敷から時々、血の臭いが流れて来るってさあ」
「あら義姉さん、誰が一体そんなことを?」
 微笑んで聞くと、兄嫁がそっと視線を炉端に落とした。
「義姉さん、教えてよ。そんな臭いがあるんなら下女の不手際だろう」
 父や母の目を気にしてなのか、大人しい義姉はおどおどと口を噤んだままだ。この女も餡泉郷の血を引いたほっそりとした小柄な身体に瓜実顔。子供を何人も産んだ今も、その可憐さは変わらない。
「私がそれで暇を出されたら、またここに置いてくれるかね?」
 兄嫁が、ひくり、と肩を震わせた。小姑が増えるのは避けたい。いわくつきに居着かれるのは好ましくない。丸い瞳に微かな打算がひしめくのが見て取れた。
「季節の変わり目の夜になると……。この春先もそうだったって。お屋敷から獣の血みたいな、臓物のような臭いがするって」
「それは山辺の柏根の衆が言っていたのかね?」
 義姉の親戚筋の名を出すと、つぶらな双眸が肯定するように伏せられた。
 あれらは屋敷の東側に住む。ならば西風が東に流れる夜は気をつけなければいけない。
「ああ、それはねえ」思索を巡らせながら言葉を選ぶ。「西洋の香料だと思うよ」
「香料?」
「旦那様のご実家は街の薬種問屋だろう。この頃はお白粉やら西洋風の匂い水も扱い出したんだって。だから外国から取り寄せた香料を奥様にも試してもらってるんだ」
「そう……」
 兄嫁がか細い声で頷いたけれど、それ以上聞こうとはしなかった。農作業の役に立たない華奢な女は引っ込み思案になる。この女も自分の母も「細い小町は猫背で歩く」と田植え歌で揶揄される類いの細美人だ。
「西洋の香料は、そりゃもう獣臭いんだ」畳み掛けるように喋る。「奥様は占い事もされるからねえ。お考えを聞かれるためにいろんな香料やら材料やらが運び込まれて」
 そう言えば、お屋敷の東の方には先の婚家の親戚筋の家もある。奥歯が、また頬の中で、きりり、と軋る。あれらにくらしを乱されてたまるものか。奇妙な噂を流されたり、せっかく居着いた奉公先を貶されたりしてなるものか。
「西洋の匂い水……、香水とか精油って呼ぶんだっけかねえ」頬いっぱいに笑顔を浮かべて喋り続ける。「あの臭いにはあたしだって逃げ出したくなることがあるくらいなんだ」
 わかっている。生き肝取りが籠に生きた赤ん坊を入れてあのお屋敷を訪れるだとか、色子のような美青年が大八車で娘の死骸を運び込んでいるやらの噂があることを。
 囲炉裏端では子供達が奈江が土産に持って来た瓶詰めの金平糖を齧っている。金平糖がなくなれば丈夫な瓶は高く売られるに違いない。
「一日一個ずつだから」兄嫁がたしなめた。「奈江おばちゃんがお優しい旦那様からいただいたもんだからね」
 お優しい旦那様。厄介ないわくつきを引き取ってくれた方。怒鳴ったり、殴ったりなんか決してしない。奥様がすやすやと昼寝をする横で文字やら護身術やらを教えてくれる。
「女だからと言って弱々しくすることはない」旦那様はよくそうおっしゃる。「外で何かあった時のために喧嘩術は覚えておいた方がいいぞ」と。
 手足の使い方、腰の練り方、竹刀だけではなく鎌やら熊手やらを使った戦い方も教わった。それは旦那様が小さい頃、鬼婆と呼ばれた使用人から伝えられたものだとか。習っても役に立つかどうかはわからない。ただ、旦那様が覚えろとおっしゃるなら従いたい。
 奥様が昼寝する側の庭で、汗を流して組み合い、手足を絡めたまま地面に転がることもある。肌が触れ合い、吐息が混じっても、旦那様に官能めいたものも恋心らしきものも抱かないのはなぜだろう。
 逞しい筋肉に鎧われたお身体。着物に滲む汗からはふと目が眩むような男の臭いが立ち上る。体捌きなどして旦那様の髪が触れた頬に微熱が浮き、開いたままの目に薄く涙が滲む。けれども傍らに奥様の寝息を聞くと、全ての邪念が霧消してしまう。
 自分は決してお二人の間に入ろうと思わない。旦那様が抱きしめるのは奥様、見つめるのはあの文箱の中の姫君だと知っているのだから。
 奥様も二人がもつれあっていても気にしない。時折、浅い眠りから目覚めては、まるで犬や猫のじゃれあいを見るよう眺め、「仲良しだとあたしも嬉しいの」などと言いながら、またくうくうと眠ってしまうのだ。
「奈江は覚えがいい。気迫もある。将来は鬼婆の名を継げるかも知れないぞ」
 旦那様は褒めてくれる。褒められれば嬉しい。教えられるのはおもしろい。
 あのお屋敷には奇妙な噂があるくらいでちょうど良い。その方が寄り付く者が少なくてすむのだから。
「日が暮れる前にちょっと観音様参りに」
 作り笑いにくたびれた奈江は立ち上がる。
「ずいぶん信心深くなったこと」
 母が喜ぶように、それでいてあきれるように呟いた。
「家を離れているからねえ。このあたりの仏様にみんなの無事を祈りたくなるんだよ」
 明るい声を出すけれど、本心は一人になりたいだけのこと。産まれ育った里なのに、ここに戻れば翌日にはあのお屋敷が懐かしくなる。その罰当たりな感情が切なくて、信心を口実にふらふらと外に出てしまうのだ。

 谷の日暮れは早いから山道を登るのも急ぎ足になる。
 坂道で息が続くようになった。目眩も起こさず、足が萎えることもなく、早足で登ることができる。お屋敷でお勤めをさせていただいているお陰だ、と奈江は思う。飢えることも、過食で腹を下すこともなく、食事を吐き戻すこともなく、こうして人並みに太ることができたのだ。
 山を分け入った崖の下に、夏草に埋もれた小さな墓がある。瓜ほどの大きさの石が置かれただけの寂しい墓標だ。
「お屋敷で菓子をもらったんだ」
 桃色の花びらを象った落雁を供えて手をあわせると、空に飛ぶ大きな烏が一声鳴いた。
 この墓の主の享年を、自分は追い越している。幼な顔のまま逝った娘の顔は、記憶の中では自分より少しだけ年嵩に変えられているようだ。
「カヤ姉は甘いのが好きだったね。この菓子は茱萸よりも桑よりもうんと甘いんだよ」
 墓はあいづちなど返さない。ただ、冷えた山の風が首元に吹き出した汗を乾かしただけだった。
 頭上に張り出した楢のざわめきに目を上げると、漆黒の烏が葉陰にとまっている。嫁入り前に死んだ娘の魂は白い鳥になるそうだ。けれどもこの墓の主は、獣に穢されたから真っ黒い烏になるだろうと噂されていた。
 自分が立ち去った後、あの鳥の黒く太い嘴が桃色の菓子を突くのだろうか。
「供え物、鳥が喰うも供養のうち。人に盗られるもまた供養」
 墓の主の母親が墓前で呟いた声を思い出す。
 良く笑う娘だった。のろまだとか愚鈍だとか言われても邪気がなく、小さな子供にまとわりつかれるかわいらしい女だった。けれども奉公から戻った時、獣を見て狂態を示す者に変わり果てていた。
 その時は春。濃緑の葉の間に山桜が咲いていた。彼女は十五で自分はやっつ。大好きなカヤ姉が奉公先から帰ったと聞いて駆けつけて、大喜びで人形遊びをしようと家の外に引き出した。前と同じように草で姉様人形をこしらえ、花を摘んで固めて小手鞠にした。
 異変があったのは大葉子の葉脈で紐を編んでいる時。白い里犬が尾を振りながら奈江に走りよって来た。野良犬でもなく飼い犬でもない、けれども人々から食事をもらい、狸などが出れば追い払う、これといった飼い主もなく住み着いている人懐こい犬だった。
 里犬が、わん、と親し気に吠えた時、カヤ姉が笛の音に似た細い声を上げた。
 走りよった白い毛皮を撫でると、傍らのカヤ姉がべたりと地面に座り込んで失禁した。
「かんにんして、かんにんして。獣はかんにんして……」
 声を上げて泣き出した年上の娘に、幼い奈江はうろたえた。この犬はおとなしいの。野良犬みたいに噛んだり吠えたりしないの。おろおろと言い募る彼女の前で、カヤ姉が涙顔のまま突然けらけらと笑い始め、そして裾を高くまくり上げて下半身を晒け出したのだった。
 四つん這いになった彼女は赤黒く割れた秘所を自らの指で広げ、泣きながら、同時に笑いながら一人で尻を振り始めたのだった。
 物の怪に憑かれたようにしか見えなかった。目を逸らすこともできなかった。幼い奈江はただ震えながら眺め続けるしかなかったのだ。
 理由を聞かされたのは何年後だったろうか。
 物覚えが悪く、叱られても笑っているだけのカヤ姉は、愛らしい顔立ちが災いして奉公先の主人達に目をつけられた。抱きつかれたり、寝間に引き込まれたりするのはしょっちゅうのこと。やがて悪酔いをした男達に酒の席で裸にされて、巨大な猟犬と交わらされたのだ。
「獣はかんにんして……。獣だけはかんにんして……」
 泣いて拒む娘を呼ばれた猟師達が押さえつけ、背後から灰色の犬をのしかからせていった。
 痛い、痛い、と泣き叫びながら犬に犯されるのを、酔った者達が手を叩いて笑いながら見物していたそうだ。見かねた女子衆が彼女を連れて逃げ出したけれども、壊れた心はふとしたはずみにたがが外れ、悪夢のような狂宴を反復するのだった。
 親兄弟は犬嫁と呼ばれ出した娘を持て余し、恥さらしだと物置に隠した。それでも時々、カヤ姉は家を抜け出し、悪趣味な人々に犬をけしかけられて恥態を晒し続けたのだった。子供に石を投げられて山に追われ、崖から落ちて死んだのは十六歳になる前のこと。先祖の墓にも入れてもらえず、落ちて死んだ場所にそのまま埋められた。おざなりな墓標は草に埋もれて、あと数年もたてばその場所すらわからなくなってしまうだろう。
 そう言えば、かわいがっていた赤尾はどこかに埋められたのかしら、と奈江は考える。
 あれはふかふかとした茶色い毛の、真っ黒い鼻をした子犬。婚家にいた奈江に懐いて、呼べばいつでもかけて来た。抱きしめれば頬をなめ、丸い尾をぱたぱたと振ってくれる犬だった。道ばたで出会い、鼻を鳴らしてすり寄られ、子犬の温かさと柔らかさに心を溶かされて納屋にかくまった。
 その赤尾もあっけなく消えた。赤犬を喰うと孕みやすいからと家の者達に殺されて肉汁にされ、奈江の夕餉として出されたのだ。
 犬の肉だと知らされていた訳ではない。だから口に入れた時は、臭みがあると思っただけだった。「唐や高麗ではこの肉を食べると子ができると言うそうだ」と、家の者達が説く呪文めいた言葉が薄気味悪かった。なぜ一人だけその汁をあてがわれたのかもわからなかった。そもそも唐や高麗がどこなのかすら、当時の自分は知りもしなかった。
 翌日、納屋で剥がされた茶色い毛皮を見つけ、軒下に吊るされた肉を見つけ、胃液が枯れるまで嘔吐した。そして奈江は痩せてふらつく足で裏山に毒草を採りに行ったのだ。
「カヤ姉、あたしは奉公先でいじめられていないんだよ」
 頭上の梢がさざめくと、それが墓の主の安堵の声のように感じられた。
「酷い目にあってない。殴られていない。慰み者にもされてない。だからね」奈江は灰色の貧しい墓標を見つめて呟いた。「だから、何を見ても平気。何があっても気にしない。ずっとあのお屋敷でお勤めさせて欲しいんだ」
 あたしが旦那様や奥様を守りたい、そう言いかけて、あまりにもおこがましいかと声を切った。
 梢で烏が一声、甲高く鳴いた。それは墓前に佇む人間に、早く立ち去って人の世に戻れと促しているように聞こえたのだった。
 

 ざわりと道沿いの樹々がゆらめいて、横道から女達が現れた。
 若い女が一人、中年が二人。暗色の着物に背負い籠と腰にさした小鉈。焚き付けの樹皮や山の果実などを採りに来たのだろう。
 しくじった、と奈江は思う。カヤ姉の墓参りなら人の来ない早朝か、あるいは小雨の日にするべきだった。
「あらまあ奈江さん、お久しぶり」
「正月でもないのに遠いお屋敷から里帰りかね」
 口々に声をかけられたから、無愛想にならない程度にあいさつを返した。
 彼女達はその昔、駆け落ちをして嫁いだ先の村の者達だ。
 薄褐色の肌に真っすぐな姿勢。中年女の背が丸くないのは豊かな土地のしるし。貧しく、地を這いずってばかりの土地だと三十歳になる頃には腰が曲がり、背中が猫のように丸くなるのだから。
 それほど高くない山だから女の足でも楽に越えられる。このあたりだけで採れる蔓梨や李を採りに山ふたつほど向こうからも女達が集まって来る場所なのだ。
「奉公先ではうまくやってるらしいねえ」
「少し太ったんでないの?」
 親し気に話しかけられて奈江は曖昧に微笑み返した。
 細い山道だから並んで歩くことはない。足早にやり過ごしたくても、前後を女達に挟まれて追い抜くことも、後ろに下がることもできはしない。
「今度は矢来の家の七回忌だよお」
 前を歩く四十歳過ぎの女が、無遠慮に奈江の嫁ぎ先の名を出した。
「奈江さんも法要に来るのかねえ」
「奉公先でお暇をくれるなら拝みに来ればいいなあ」
「いえ、私は呼ばれないんで……」
 呼ばれる訳がない。呼ばれても困る。あの村で、自分は石女だのあばずれだの疫病神だのと陰口を叩かれている。辛うじて生き残った元の夫は、今は新しい嫁をもらっている。
「食断ちが幸いして無事だった奈江さんだもの。堂々と来るもんだとばっかり思ってたなあ」
 何がおかしいのか、女達が声を揃えて笑った。
「残念だねえ。毒草鍋の話なんぞ聞きたかったのにねえ」
「犬の味なんぞも教えて欲しいもんだけどなあ」
 きりり、と奥歯が、また頬の内側で鳴る。いつまで蒸し返され続けるのだろう。今の自分は遠くのお屋敷に住み込んで、波風もなく生き直しているというのに。
「一人だけ生き残った健蔵も具合がすぐれずにのう」
 駆け落ち相手の名前を聞いても、今は憎悪しか浮かばない。だから消息など聞きたくもない。
「さきおととし、いとこを嫁にしてなあ」
 それも知っている。
「今度も子ができずに分家から養子をもらったんだよ」
 未練などない。あの男だけ死なせそこなったのが、むしろ口惜しい。ただ、自分を石女と罵倒した男が、次の嫁にも子ができずに養子をもらったと聞かされれば、腹の奥で怒りめいたものがくつくつと煮えるのだ。
「奉公先は良いところだってねえ」
「ええまあ」
 突然に話題が変わった。だからあわてておとなし気な声を奈江は出す。
「太って丈夫そうになって」
「肌のつやも良くなったし」
 奈江は答えない。太ったのはわかっている。丈夫になるのも当たり前だ。
「それでもまだちぃっと痩せ過ぎなんでないか?」
「餡泉郷の血筋だからねえ。細くて白くて、別嬪なのが売りなんだよお」
 これ以上、太りたいと思わない。村で重宝されるがっしりと肥えた女になど、なりたくもない。「まあ、あんたも矢来で苦労したから」
 うるさい、と奈江は思う。
「駆け落ち先で痩せこけて、心配しておったから」
 うるさい、と奈江は再び、強く思う。過ぎた後の同情は煩わしい。心をかけるなら今もこの先も見て見ぬ振りに徹してくれないものか。
「でも、髪の毛は黒くならないねえ。温泉の赤湯色のまんまだ」
「なんだか嫁入りしてた頃より、色っぽくなってないかい」
「そりゃ奉公先でたっぷりかわいがられてるからだよ」
 前後からの声が、ただ忌々しい。崖道にしなだれる茅萱や杉菜が、細い鞭のように足を打つ。歩き去りたいけれど前後を挟まれて歩速を上げられない。
 道幅がさらに細くなると右側の林が途切れて、山道の両側に切り立った崖が開けた。左には沢に落ちる崖、右には山頂に続く斜面。この先の山肌に足休めの小さな窪みが掘られている。
「奈江さん、世辞じゃないよ。きれいになったよ」
 背後から若い女の声が絡みつく。あれは駆け落ち相手の幼馴染み。自分がいなければあの家に嫁入りしたかも知れない女。
「それに本当に尻のあたりが丸くなって」
 もうひとつ後ろからの声に、嫌悪が背筋を駆け抜けた。
「奉公先の旦那様の妾になってるんだって?」
「そうそう精力の有り余った旦那様と昼間っぱらから」
「旦那様はそんな方じゃない!」
 否定する奈江の声に女達が示し合わせたように大声で笑った。
「昼過ぎに行くと奈江さんが襟や裾を乱してさあ、顔を火照らせて出て来るって」
「お屋敷近くに嫁入りした者が言ってたよお。昼は奈江さん、夜は奥様がお相手するんだって」
 違う。時々、旦那様から鬼婆様の喧嘩術を教わっているから、と言いかけて、そして誰も信じないだろうと考えて口を噤んだ。
 蔓が簾のように垂れ下がった足休めの窪みが目の前に迫る。女達は休むのだろう。だから自分は歩きすごそう。
「奈江さんねえ、ちょっと休んで喋って行こうよう」
 前の女が奈江の手首を掴んで、強引に足休めの窪みに引き込んだ。
「ごめんしてください。今日は家の手伝いがあって先を急ぐんで」
「しょっちゅう里帰りして手ぶらで山歩きする人が、忙しいもないだろうに」
 自分を取り囲む女達。一人ひとりの名前も顔も、今はもう曖昧だ。けれども彼女達の目に淀む悪意だけははっきりと読み取れる。
「奈江さんが実家に戻ってから、私らの里は嫁いびりと犬喰いで名をあげてねえ」
「おもしろおかしく田植え唄にまでされてさあ、他の村との婚礼がまるでなくなったよ」
 山を吹きおろす風に細かな蔦の葉が揺れ、崖の上から壺型の小花がぽろぽろと落ちて女達の襟元に溜まった。
「奈江さんだけいい目を見てるんだよねえ」
「奉公先でも尻軽なんだよね。石女は好き勝手できて羨ましい」
 答える気はない。むしろ逆らわない方がいい。立った噂は消しようがない。何を言っても無駄だから、黙っている。うまくすれば噂は消える。残るなら聞こえないふりをしてくらすだけだ。
「太ったと思ったけど、腹に子でもいるのかもなあ」
「石女が男を変えたらすぐ孕むって、よく聞く話だから調べてやろうかねえ」
 目の前の女の手が襟元にかかった。胸をはだけて、着物を剥いて、腹を探って笑う気だ。

…………


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