そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第31章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第31章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

31

 新宿署に着いてからの一時間は瞬く間に過ぎた。私は仰木弁護士に電話して事態を告げ、依頼人への連絡を頼んだ。それから佐伯と一緒に医務室へ連れていかれ、警察医の治療を受けているあいだに、佐伯が錦織警部の略式の訊問に答えて、いくつかの疑問を明らかにするのを聞いた。
 狙撃事件の真犯人と見ている人物はまさに諏訪雅之であること。そして、怪文書事件の実行者は曽根善衛らであり、その背後にいる依頼者は〈東神グループ〉の会長・神谷惣一郎であり、彼らのパイプ役を務めたのが長谷川秘書であること。首謀者を突きとめる目的で一億円を要求して、神谷・長谷川・曽根の三者が大金の引き渡しのために東神ビルの地下駐車場で密会するのを目撃したこと。その密会現場を盗み撮りした証拠フィルムの入ったカメラがマークⅡのダッシュボードに入っていたこと。佐伯の誘拐は、彼が更科頼子とのベンツでの話し合いを終えてマンションに戻り、一億円受取りのボディガード兼証人の仕事を依頼するために渡辺探偵事務所に電話を入れようとしていた矢先に起こったこと。宅急便の配達を装った野間徹郎及び曽根善衛・桂木利江の三人に不意を衝かれた形で侵入され、その夜に袋詰めのような状態で監禁場所に運ばれたこと。しかし、狙撃事件については、監禁以前は怪文書と同じく神谷会長が首謀者に違いないと思い込んでいたが、証拠といえるものはなく、監禁後の曽根らの反応を見ているうちに自信がなくなってきたこと──などだった。
 錦織が諏訪雅之の立ち回り先を訊ねると、佐伯は、彼の住居は何度も突きとめようと試みたが不首尾に終わり、他には自分のマンション以外に心当たりがないと答えた。医務室のベッドに横になって点滴を受けながら、自分は狙撃事件の容疑を別にすれば、何故か諏訪雅之にはそれほど悪感情を抱くことができなかったと述べた。そして最後に、名緒子と共に兄のように信頼していた神谷会長がこういうことになったことが何よりも残念だ、と付け加えた。
 佐伯の証言で、神谷会長と長谷川秘書に対する緊急逮捕の指令が出された。〈中野YSビル〉から連行されて来たのは、曽根善衛とその妻、野間徹郎とその内縁の妻・溝口敬子母子の計五名だった。曽根善衛は怪文書発行の依頼者を問い詰められたとき、最初のうちはある資産家の女性であると証言して、暗に更科頼子が依頼主であるかのように匂わせようとした。しかし、東神電鉄を馘になったときの恨みを指摘され、YSビルの地下室の隠し金庫から発見された神谷・長谷川・曽根本人の密会写真のネガを突きつけられて、ようやく神谷惣一郎が依頼者であることを認めた。そのネガのフィルムは、佐伯誘拐のときに使ったマークⅡで手に入れたもので、自分たちが単なる従犯にすぎない証拠として保管しておいたと答えた。彼がもっと有効な利用法を考えていたことは誰の眼にも明らかだった。隠し金庫からは現金一億円も発見された。
 中野署から乗り込んで来た、偽刑事・伊原勇吉殺人事件の担当者たちは意気込んで犯行現場の居住者である佐伯直樹の訊問に取りかかった。しかし、佐伯は殺人のあった四日前からすでに監禁状態にあって、その殺人に関しては何も知らず、被害者の写真を見ても全く見知らぬ人物だと証言したので、彼らはすっかり意気沮喪してしまった。佐伯誘拐の日時は、曽根善衛らの証言とも一致していて、疑問の余地はなかった。
 一時過ぎに、長谷川秘書が東京駅の〈国際観光ホテル〉で逮捕された。ホテルの電話予約をするのを自分の妻に盗み聴きされていたのだ。長谷川はホテルのフロントを通して、翌日の大阪発‐香港行の航空券を予約しており、かなり多額の現金を所持していた。その場で訊問した担当官の話では、長谷川は神谷会長の行方は知らないと答えた。ただ、退社直前に神谷会長に呼ばれ、怪文書関係の証拠物件の湮滅を指示されたと証言した。その場は指示通りに行動するふりをしておいたが、その時はすでに高跳びする決心をしていたのだと言った。自分はもともと佐伯の監禁には反対で、それ以来事態は悪くなる一方なので、数日前から逃亡の機会を狙っていたのだそうだ。すでに東神本社の会長室や神谷惣一郎の自宅の家宅捜査を開始していた係官たちが、長谷川の証言によって怪文書に関する二、三の証拠物件を押収したということだった。
 一方、神谷会長は十時過ぎに向坂晃司邸のパーティ会場を辞去したところまでは確認されたが、それ以後の足取りはまったく不明だった。
 慌ただしい動きを続けている新宿署二階の捜査課の前の廊下で、私は田島主任が持って来てくれた紙コップのコーヒーをすすりながら、最後の一本になったタバコを喫っていた。錦織警部が捜査課のドアから足早やに出て来て、ついて来いと言った。彼は階段を降りて、一階の廊下を佐伯と私が最初に収容された医務室のある方角へ向かった。
「佐伯氏は今夜自宅へ帰れるのか」と、私は訊いた。
「中野のマンションは中野署の再捜査が始まったから駄目だ。それ以外ならどこへでも」声がいつの間にか元の不機嫌さを取り戻していた。
「おれの仕事は終わった」と、私は言った。「佐伯夫人が現われたら、おれも帰る」
 医務室の前には、制服警官が一名立っていた。私たちは中へ入った。警察医らの姿はもうなかった。仕切りの奥の部屋の二つあるベッドの一つに佐伯直樹が横になっていた。彼は私たちに気づいてすぐに起き上がり、ベッドのへりに腰を掛けた。錦織は木の丸椅子に腰をおろし、私はもう一つのベッドに寄りかかった。
「どうしました?」と、佐伯が訊ねた。
「厄介なことになった。海部雅美がわれわれの監視を振り切って行方をくらました。調布のバーを出て、千歳烏山のアパートに帰る途中で、まんまと出し抜かれてしまった」
 私は、錦織の強い視線を感じながら、ベッドサイドの棚に置いてあるアルミの灰皿でタバコを消した。
「外部の人間で、彼女を監視していたことを知っていたのは、探偵、おまえだけだ。何か余計な手出しをしたんじゃないだろうな?」
 私は返事をしなかった。佐伯が私の考えていたことを口にした。「諏訪雅之の指図ですか。海部雅美というのは、諏訪が同棲していたという女性でしたね?」
 錦織はうなずいた。「それに、神谷惣一郎の行方もまったく分からん。今夜のうちに、二人にもう一度だけ訊いておく。諏訪雅之、海部雅美、神谷惣一郎、この三人の行方について何か手掛りになるようなことは知らないのか」
 錦織は佐伯と私を交互に見た。佐伯も私も、首を横に振った。錦織は悪態をついて、よれよれのネクタイを抜き取り、丸めて上衣のポケットに入れた。
 医務室のドアが開いて、仕切りの脇から田島主任が顔をのぞかせた。「佐伯さんの奥さんと弁護士が見えました」
「入ってもらってくれ」と、錦織が言った。錦織と私は、仕切りの外へ出た。
 佐伯名緒子と仰木弁護士が部屋に入って来た。名緒子はブルーのモヘアのコートを着て、濃紺のハンドバッグを抱いていた。仰木は相変わらずの服装と書類鞄だった。
「ご主人は仕切りの向こうです。どうぞ」と、錦織は言って、先に部屋を出て行った。
「沢崎さん……」と、名緒子が言った。そして、私の怪我に気づいた。「その腕はどうなさったんですの?」
「大したことはありません。話は明日にしましょう。ご主人にお会いなさい」私は錦織のあとを追った。
 仰木も気をきかして一緒について来た。「佐伯君のことは名緒子さんのご両親に代わってお礼を言う。しかし、署長に挨拶しに行って聞いたばかりだが、神谷会長が大変なことになったな」
 私は黙ってうなずいた。それから、外の廊下でタバコに火をつけている錦織のところへ行った。
「佐伯氏のマンションで発見された射殺体から剔出された弾について教えてくれ」
「9ミリのパラベラム弾だ」
「ルガーに使用される実包だな。向坂知事の肺から剔出された弾とは一致しないのか」
「しなかったそうだ」
「あのマンションの数カ所に落ちていた血痕は、あの死体のものだったのか」
「どうして、その血痕のことを知っている?」
「よしてくれ。もう、そんなことを詮索している時でもあるまい」
「偉そうな口をきくな。言っておくが、警察はおまえなんかに借りはないぞ。いいな」
「誰がそんなことを言っている。質問の答えは?」
「別の人間の血だ」と、錦織がしぶしぶ答えた。
「ということは、諏訪雅之が撃たれた可能性もある」
「ない。諏訪が八年前に右手の指をなくしたときに治療した診療所の記録に彼の血液型があった。あの血痕は彼のものでもない」
「すると、あの偽刑事が撃たれたとき、あの部屋には諏訪以外の人間がいたことになる」
「そういうことだ」
 私は錦織からタバコを一本もらった。フィルターをちぎり取ってから言った。「おれは帰るよ。どうやら、体力の限界だ」
「供述書に署名はしたのか」と、錦織が訊いた。
「明日にしてくれ」私は痛む左腕を押さえて、その場をあとにした。

 新宿署の玄関に出ると、予報に反して小雨が降り出していた。もっとも、あれはすでに昨日の予報だった。コートを忘れて来たのに気づいて、捜査課の田島主任のデスクに取りに戻った。デスクの主は留守だった。調書を取られたときに坐った椅子の背からコートを取って、何げなく田島のデスクの上に眼をやった。溝口宏の転落死現場である日野市浅川付近の略図の入った捜査報告書のページが開いてあった。コートに腕を通しながら拾い読みすると、当夜の回収状況がざっと分かった。逃走車の転落は夕刻の六時半、溝口の遺体が引き揚げられたのが八時少し前、車両の引き揚げには手間取って夜中の十二時近くまでかかっている。破損した運転席のドアから流出した拳銃その他の遺留品は、夜明けを待って再開された翌朝五時の捜索で回収されていた。私はコートを着終わると、刑事たちの注意を惹かないうちに捜査課を出た。再び一階へ降りて来たとき、受付のそばの公衆電話が眼に入った。私は錦織にもらったタバコに火をつけて、受話器を取った。
 依頼された仕事はすでに終わっていた。佐伯直樹誘拐と怪文書事件以外は未解決だったが、もはや探偵の出る幕ではなかった。私はこの世で一つだけ諳記している女の電話番号を思い出そうとした。疲れているせいか、なかなか数字が出て来なかった。それで気がついたのだが、もし私の身に諏訪雅之と同じことが起こったとすると、私はその番号で電話に出るはずの女には二度と逢えないだろう……。
 どうやら、自分で思っている以上に私は疲れているようだった。私は頭を振って電話のダイヤルをまわした。
「こちらは、電話サービスのT・A・Sでございます」アルバイトのオペレーターの声だった。探偵の習性というのは哀しいものだ。
「渡辺探偵事務所の沢崎だ。十時以降に何か電話が入っていないか」
「お待ち下さい。十一時にXYZの〝X氏〟から──」
「それはもういいよ。他には?」
「十二時に、コウヤソウイチロウ様から、〝世田谷の砧公園の北にある〈国際映像〉のスタジオ跡に至急おいで乞う〟、以上です」
 私は受話器を叩きつけると、新宿署の玄関を出て小雨の中を駐車場のブルーバードまで走った。途中で消えてしまったタバコを吐き棄てて、ブルーバードに乗り込んだ。駐車場を出るときに擦れ違った明るいグリーンの軽自動車の運転席で、辰巳玲子の幸せそうな顔を見たような気がした。

次章へつづく

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