【アガサ・クリスティー賞大賞受賞作】睦月準也『マリアを運べ』冒頭試し読み公開!
第14回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作、睦月準也『マリアを運べ』が刊行されました。「無茶振り的な期待と可能性を感じさせる新人(法月綸太郎氏)」「『深夜プラス1』を思わせる設定でおもしろい(杉江松恋氏)」「シンプルな筋書きですが、飽かせず読ませる力量(鴻巣友季子氏)」と最終選考委員からの絶賛を受けて大賞を受賞した本作。その冒頭2章を無料で公開いたします。
■内容紹介
17歳、無免許の運び屋・風子のもとに持ち込まれた新たな依頼は、東亜理科大医生物学研究所の研究員・志麻百合子が持ち出した開発中の医薬品と研究データを運ぶことだった。一度走った道を映像として覚えられる風子は、スバルのフォレスターに志麻を同乗させて長野県の諏訪を目指すが、道中で正体不明の一団の襲撃を受ける。卓越した運転技術で危地を脱した風子は、顔見知りの殺し屋・仁に護衛を依頼する。それぞれに暗い過去を抱えた三人の思いが交差するなか、志麻の口から語られた医薬品の正体は、この世界を根底から覆しかねないものだった……。ヤクザや某国のスパイなど様々な妨害工作をかわし、風子たちは諏訪湖にたどり着けるのか。そして、志麻に隠された本当の目的とは。第14回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作。
『マリアを運べ』
1
深夜の海底トンネルを抜けて車体の下に暗い東京湾が広がったとき、着信が入った。
「海の下か?」
ダッシュボードに取り付けたスマートフォンから聞き慣れた声が響いた。事務所の電灯に照らされた青白い社長の顔が浮かぶ。
「上」
と、風子は言った。
「三時間で戻れるな」
「なんで」
「急ぎの仕事だ」
いい予感がしなかった。
「いい予感しないね」そう言った。
「したことあるのか?」社長が嘲るように言った。「どうすんだ? やるのかやらねえのか、とっとと決めやがれ」
別に迷ったこともなかった。
「ゼロヨンイチゴー」返した。「そっち、着くの」
返事もなく、そこで電話は切れた。
静まり返った高滝湖パーキングエリアの奥端に車を停め、エンジンを切った。
午前二時とあってあたりは墨を塗ったように暗い。陽が落ちる頃から降り始めた十一月の雨が、それにうっすらと陰鬱さと重みを与えていた。
〝タカタキ〟は、東南アジアの裏社会ではちょっと知られた言葉らしい。映画だと埠頭なんかで取引が行われているけど、現実は違う。トイレしかないような、小さくて寂れた深夜のパーキングエリアがよく使われる。ここもその一つだ。
駐車スペースにあるのは風子の車だけだった。周囲は深い闇に覆われ、フロントガラスに落ちる雨音だけが耳に届いた。
ややあって、ルームミラーに小さな光が映った。
ヘッドライトを灯した黒いワンボックスカーが入ってきて白い光が暗闇を裂き、落下する雨粒と屋外トイレの外壁を照らした。漆黒の車体が、風子の乗るスバル・フォレスターの右隣に静かに停まった。
束の間の静寂が訪れたあと、相手の助手席の窓ガラスがゆっくりと下にスライドした。
どこの国かはわからなかったが、浅黒い顔をしたアジア人の男が顔を向けていた。前にも見た顔だった。むこうもこっちを見て、風子を覚えている様子でほんのわずか唇を歪めた。
ドアが開いてその男が降りると同時に、運転席と後部座席からも黒い服装で身を固めた男たちが次々と降りてきた。
風子がロックを解除すると、四人の男たちがフォレスターのバックドアを開け、いくつかある黒いナイロン製のボストンバッグの中身を確認し始めた。
一人が知らない言語でなにやら言って、他の誰かがそれに返した。日本語と違って早口で抑揚がある。男たちの口調には緊張感が感じられた。否が応でもこっちまでそれが漂う。
しばらくして確認を終え、男たちがワンボックスカーに荷物を移していった。中身に不備は無かったようだった。バッグに何が入っているのかを、風子は知らない。知らされないことは多いし、特に知りたいとも思わなかった。
いつもと同じように、作業には五分とかからなかった。風子が運転席に座ったままルームミラーで手際のいい動きを眺めていると、やがてバックドアが閉められ、雨に濡れた男たちが自分たちの車に戻っていった。
助手席に座っていた男は風子の隣で一旦立ち止まり、一度だけ皮肉っぽく笑みを浮かべた。窓ガラス越しに不自然なほど白い歯が目立つ。いったいどんなふうに歯を磨いているんだろう、と思っている間にその男も車に乗り込んだ。間髪をいれずワンボックスが勢いよくバックし、向きを変えてパーキングエリアからものすごいスピードで出て行った。
男たちの車両が見えなくなると風子はエンジンをかけ、車を発進させた。圏央道を少し走って次の市原鶴舞インターチェンジですぐに降り、下道をUターンして再び東京湾アクアラインを渡った。
東京に戻ったのは四時前だった。
雨はやんでいた。燃料を補給して新宿に着くと、花園神社の裏手にある月極駐車場に車を停めた。そこから角を曲がってすぐの八階建て雑居ビルのエレベーターに乗り、五階で降りて何も看板がかかっていない部屋のインターホンを押した。
ややあって、白いシャツに黒のスラックスを穿いた針金のように細くて背の高い男が扉を開けた。最近店に入った、二十代前半くらいのボーイだった。目が合ってもむこうは何も言わなかった。こっちも言わない。一面赤い壁紙に小さなキャンドルライトが灯っただけの薄暗い部屋に入ると、いつもする甘ったるい香水の匂いが鼻腔を突いた。並んだ間仕切りの向こうで女たちのあえぎ声が響く中を進み、黒い塗装の扉を開けた。
一転して役所のような殺風景な部屋が眼前に現れ、窓際の専用机に社長が座っていた。昼も夜もない生活のためか四十半ばにしては艶を失って渇いた肌は、蛍光灯のざらついた照明を浴びてさらに不健康に映った。そのうえ一日の大半は機嫌が悪いせいで濃い眉の間には慢性的な皺が刻まれていた。物心ついた頃から見てきた故か、深さで加減が知れる。いまの機嫌はまずまずといったところだろう。
机の前の地味な応接用ソファーには、濃い茶色のサングラスをかけた女が座っていた。齢はおそらく四十くらい。薄緑色のハイネックニットの上にダークグレーのジャケットを羽織り、ベージュのチノパンツを穿いていた。靴はオーソドックスな形のスニーカー。店の新人だろうか。整った顔立ちではあった。その齢でどこまで客を取れるのかは疑わしかったが。
事務所にいるのは二人だけだった。女の足元には革製のボストンバッグと、縦横高さがそれぞれ三十~五十センチ程度のショルダーベルトがついた保冷ケースのようなものが置かれてあった。
風子は勝手知ったる部屋の中を進むと、並んだスチール机の椅子のひとつに腰掛けた。それからいつもそうするように、スタジャンのポケットに手を入れた。その間、女は膝の上で両手を握り締めたままずっと風子に視線を向けていた。しばらく静寂が続き、スマホをいじっていた社長が顔を上げて言った。
「こいつが運びます」
女がサングラスを外し、風子の顔を穴が開くようにじっと見た。アーモンド型の形のいい目だった。風子もポケットに両手を突っ込んだまま相手を見た。
戸惑いを浮かべつつ、女が言った。
「高校生くらいにしか見えないのだけど」
社長がおかしそうに笑った。「高校なんて上等なものには行ってませんがね」
女が眉を顰めた。
「幾つなの?」
「十七」
風子が言うと、女が不可思議そうに眉を持ち上げた。
「十七? 私の認識違いでなければ、この国では成年にならないと免許を取得できないはずだけど?」
「無免」
「からかっているの?」女が怒気を含んだ声で言った。
なだめるように社長が言った。
「十六の頃から同業連中の三倍は走らせているんで、こう見えて経験値はありますよ。それに、免許のことを気にしているなら見当違いだ。だってこいつに運ばせているものは法律にばっちり触れるものばかりですからね、警察が関わった時点で免許がどうこうなんて次元じゃない」
「運んでいる途中に交通違反で止められたら?」
「一応、偽造免許証は持たせているし、そもそも切符切られるような素人じみたヘマはしませんよ。もっとタフな違反ならやりますがね」
静かな沈黙が訪れた。社長が続けた。
「俺はむしろこいつのことを利用できると思ってるんですがね。こんな小娘が闇の運び屋だなんて、誰も思わないでしょ?」
「どうして──」
社長が笑って女の言葉を遮った。
「どうしてこんな子が、でしょ?──うちで使ってた運び屋の娘なんですよ。取引の帰りに深夜のパーキングエリアのトイレで赤ん坊が泣いているのをその男が見つけてね、そりゃ放っておいたらそのまま冷たくなってたろうけど、警察に関わるのが面倒なのもあって結局引き取っちまった。まあ、ろくに学校も行ってないしお世辞にもまともに育てたとは言えないけど、少なくとも人生ってものは与えた」
女は硬い表情をして黙っていた。社長が淡々と続けた。
「ところが、こいつが十五のときにその運び屋が事故で突然逝っちまってね──赤子の頃から知っちゃあいるが、施すほどこっちもお人好しじゃないんで店で働かせてやろうと思ったら、父親の仕事を自分もやると言いやがった。まあそういうわけで、お国の赦しが出るまではこっそり走らせてるってわけなんです。もっともこのとおり愛想もないし、そっちじゃ客もついてなかっただろうから良かったかもしれませんがね。それに、表社会もそうですが裏も慢性的に運び手が足りてなくてね、生まれが悪かろうが多少若かろうが使えるものはなんでも使ってやろうってわけなんですよ」
社長が話を終えると、女が嘆息混じりに言った。
「〝特別〟な運び屋と言っていたのは、そういう意味だったのね」
社長がわけありげにほんの少し笑みを浮かべ、それから含みを持たせた声で言った。
「それだけじゃないですがね」
「どういうこと?」女が眉間に皺を寄せた。
社長が手を振った。
「いえ、なんでもありません──でも、あなただってこいつのことをどうこう言えないのでは? いまや、同類でしょう?」
女の顔がわずかに強張った。なんのことかわからず風子が怪訝な顔を向けると、社長が愉快そうに唇を歪めて言った。
「新種のバイオ医薬品でしたっけ?──この先生、勤め先からつい数時間前にその薬とデータを盗み出したんだと」
風子は思わず女を見た。それから足元のケースに目をやった。
社長が風子に携帯を投げて寄越した。『東亜理科大医生物学研究所』とあるウェブサイトのページが表示され、研究員の顔写真が並んでいた。「志麻百合子」という名前の下に、目の前の女の顔があった。
社長が嘲るように続けた。
「やりたてほやほやの犯罪者──報道が出るのも時間の問題だと思いますよ。こう言っちゃなんだが、あんた見てくれがいいから注目浴びちまうでしょうね。世間なんてそんなもんだ。なんにせよ、のんびりしていられないんじゃないですか?」
女は唇を噛んでしばらく黙っていたあと、風子をまっすぐ見返して言った。
「成功させる自信はあるのかしら?」
「いつもと同じようにやるだけだけど」
「暢気なことを言わないで。失敗は許されないのよ」
「したことないから、わからない」
女は睨むように風子を見据えていた。それから諦めた様子で息を吐いた。
「たしかに選り好みできる状況ではないわね──すぐに発てるのかしら?」
社長が風子に目をやった。風子が言った。
「目的地は」
「長野の諏訪だ」
「リミット」
「明日の午前五時。遅れるわけにいかない」
女が先に答えた。社長が鼻で笑うように言った。
「遅れるわけはありませんよ。期限までまる一日ある。諏訪なんてせいぜい三時間の距離だ」社長が風子に顔を向けた。
「いい予感しないなんて偉そうにほざいてたが、受けて良かったろ? 時間はたっぷりあるし、危ない相手との取引でもない。こんな楽な案件、そうはねえ」
風子が黙っていると、社長が満足そうにぱん、と手を叩き、声のボリュームを上げた。
「契約成立だ──積み荷は盗んだ薬とデータ。目的地は諏訪。期限は明日の午前五時。報酬は半金前払い、残金は到着後。追加、加工等の荷物の改変は不可。特別な事情や都合による出費は別途──何か問題は?」
「私も同乗すると伝えてあったはずだけど」女が硬い声で返した。
「聞いてますよ。他は?」
女が首を振った。それから風子をまっすぐ見つめて、言った。
「必ず運んで」
切羽詰まった、そして澄んだ光を湛えた眼差しだった。依頼人のそんな表情を見るのは初めてだった。
数秒その目を見返してから、風子は鍵を手に立ち上がった。
2
午前四時二十二分、新宿を出発した。
初台インターから首都高速新宿線に乗って、高井戸から中央自動車道に入った。あとは諏訪に向かって西に進むだけだった。未明特有の濃い闇に包まれた無機質な高速道路を走って調布に差し掛かった頃、後部座席から声がした。
「到着予定は?」
「七時くらい」風子は答えた。
「渋滞は?」
「下りだから大丈夫」
「諏訪に行ったことは?」
「どうかな」
ミラーの向こうで志麻が眉を寄せた。
はぐらかしたか、からかっているとでも思ったのだろう。そうではなかったが、その言葉の意味を説明するのが面倒だったので、かわりに聞いた。
「具体的に、諏訪のどこなの」
「近づいたら言う」
志麻が答えた。どうやらこちらを完全には信じていないらしい。当然と言えば当然だったが。
しばらく走った。前方やサイドミラーを何度か確認する。ルームミラーに目をやると、志麻が微かに顔を歪めていた。
「足?」
ミラー越しに後ろに言った。志麻がこちらを向いた。
「さっき、引きずってたけど。怪我?」
ややあって、硬い声で答えが返ってきた。
「新宿に向かう途中で、濡れた階段に足を滑らせて痛めたの──でも、余計なことは考えなくていい。自分の仕事だけして」
「黒か紺か濃いグレー。たぶん、セダン」
志麻が顔をしかめた。
「なに?」
「黒か紺かグレーの車体、たぶんセダン型。暗くてはっきりした色と車種はわからない」
「なにを言ってるの?」
「さっきからずっと、百メートルくらい後ろにぴったりついて来てるんだよね。必ず二台か三台、あいだに他の車挟みながら。心当たりある?」
志麻が身体を捻ってリアウインドウを覗いた。しばらくして姿勢を戻し、ルームミラー越しに風子を見た。
「警察?」
「違うと思う。警察車両じゃないし、一定の距離を置いたまま近づいてこない。警察なら捕らえようとするはずだから」
「間違いないの?」
「こっちがスピード落とすとむこうも落ちるし、上げると上がる」
「偶然ってことは?」
「無い」
「どうしてわかる?」
「それが私の仕事」
しばし黙していてから、志麻が言った。
「試しに、道を変えられる?」
風子は溜め息をついた。本当にこっちを信じていない。標識を見上げた。八王子インターの手前だった。
そのままインターを過ぎ、料金所を通過した。この先に圏央道へ分岐する八王子ジャンクションがある。予定ではこのまま中央道を進むつもりだった。
名前のとおり、中央道は東京から愛知まで日本のど真ん中を走る高速道路。東京からまっすぐ西へ向かい、甲府から南アルプスを避けるように北上、ちょうど長野県のほぼ中心に位置する諏訪からまた南下して愛知へ向かう。つまり、中央道に乗っていれば諏訪までは一本。
一方の圏央道は、首都圏をぐるっと円形に回っている。八王子がちょうど円の西端あたり。そこから北へ時計回りに行くと埼玉と茨城を経由して千葉まで至り、逆に南へ行けば神奈川南部に通じる。
「圏央道に乗り換えることはできる」
ミラー越しに志麻が頷くのが見えた。
「燃料費とか通行料金とか余分にかかってくるけど」一応、言った。
「必要ならどんな出費もいとわない。無事に運ぶことを優先して」
依頼主の言質を取って圏央道に入り、神奈川方面へ向かった。カーブを抜け、直線になったところで黒い車体がサイドミラーに映った。
「ちゃんとついて来たけど」
志麻はしばらく黙っていた。それから言った。
「この道はどこへ向かうの」
「このまま行くと湘南。途中、海老名で東名への接続がある」
またしばらく沈黙が続いた。志麻が考えているのがわかった。本当は自分でも道順など色々調べたいのだろうが、警察に探知されるから志麻は自らの携帯電話の電源を切っていた。
厚木インターを過ぎた。次が海老名インター、そのすぐ先が東名高速へと分岐する海老名ジャンクション。
言おうとすると、志麻が先に口を開いた。
「とりあえず西へ向かいましょう、東名に乗って」
「いいけど、同じ状況が続くだけだと思う」
「どうすればいい?」
「撒くしかないんじゃない」
一拍の間があり、志麻が言った。
「やって」
風子は考えた。
速度を一気に上げて振り切ろうとしても無駄だろう。どこかサービスエリアに入って駐車している他の車に紛れるという方法もあったが、この時間帯ではそれが可能なほどの車量は期待できない。入ったところでちらほら停まっている程度が関の山。丸見えだ。
「一度降りる」風子は言った。
「高速を出るということ?」
「他に方法はないと思う」
志麻はわずかに逡巡したあと、言った。
「任せる」
風子はウインカーを出し、ハンドルを切った。
車体を左車線に移す。海老名インターを過ぎ、ジャンクションが視界に入った。サイドミラーに目をやる。黒いセダン。予想どおりむこうも同じ車線に移ってきた。
アクセルを踏んだ。ミラーに映る相手の車体の大きさは変わらない。同じように速度を上げてきている。間違いなく、こっちが気づいていることにむこうも気づいただろう。
ジャンクションを名古屋方面に進み、またすぐに分岐に差し掛かった。右が東名、左が小田原厚木道路。
左、小田原厚木道路に入った。
この道は、警察が速度違反を取り締まる〝ネズミ捕り〟ポイントとして聞いていた。たしかにカーブが無くて走りやすいし、見通しが良いからつい飛ばしたくなる。この時間に警察が張っていることは考えにくかったが、風子は制限速度を保って左車線を走り続けた。ミラーや周囲に常に目を配る。仕事で走るのは初めての道だった。
でも──。
そのまま走り続け、料金所を通過した。相手もしっかりついて来ている。風子は標識を確認した。次のインターは大磯というところらしい。
「次で降りる」
「知ってる場所なの」
「そうみたい」
志麻が困惑した声を出した。
「そうみたいってどういう──」
風子がハンドルを切ったのと志麻が黙ったのが同時だった。本線を外れ、インターを出る。サイドミラーに相手の姿はない。でも間違いなく速度を上げて追ってくるはずだった。予想どおり、出口の手前でミラーに小さく黒い車体が映った。
出口を通過した。T字路が現れた。
やっぱり、と風子は思った。
私は、ここを知っている。
「どっちなの?」
「右。行くとたぶん狭い二車線の道に出て、しばらく走るとたしか山道がある。そこへ行く」
「たぶんとか、たしかってあなたさっきから何を言ってるの?」
志麻の言葉を無視して右折した。それほど広くはない二車線の道路に出た。その道を西に向かって走った。
十五分ほど、後ろにしっかりとついて来る黒いセダンと一緒に走っていたとき、左前方に見えた脇道に風子の脳が反応した。
瞬間、ウインカーを出さずに風子は左に折れた。曲がりくねった山道だった。一本一本の樹は細いが密集していて景色は窺えない。闇の濃度が一段と増した。そこをひたすら走った。
何度か分岐路があった。その度、風子はあたりをつけて進んだ。後部座席の依頼主はもう何も言ってこなかった。風子が集中しているのを感じているのだろう。直線がないのでミラーに相手の車も映ってこなくなった。
十分ほど右に曲がったり左に曲がったりを繰り返すと、やや開(ひら)けた丘のような場所に出た。フェンスに囲まれた変電設備のような大きな箱があるだけの、車五、六台ぶんくらいのスペースだった。
思ったとおり、向こうに下り道が見えた。風子は車を停め、エンジンを切った。降りてあたりを確認した。
志麻も足をかばいながら降りてきて、風子の隣に立った。同じようにあたりを窺う。
「追ってきてる?」
風子は首を振った。
「撒いたと思う。あれだけの分岐をこっちと同じ方向に曲がれるはずはないし」
「それでどうするの?」
「そっちから下れるはず。降りるとたぶんさっきの道にまた出て、そのまま西に進んでどこかから高速に戻る」
「さっきから、はず、とかたぶん、とかずいぶんといい加減ね」
「私が走ったわけじゃないから」
それだけ言うと、風子は踵を返して車に戻った。
運転席に座り、怪訝そうな顔をした志麻も後ろに座ったのを確認すると一度耳を澄ませ、近くに走行音が聞こえないことを確かめてからエンジンをかけた。それから道を下り始めた。
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