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2016年9月27日発売 ブルース・スプリングスティーン自伝『ボーン・トゥ・ラン』解説/五十嵐正 先行公開!

解説

音楽評論家/翻訳家  五十嵐 正

2016年のブルース・スプリングスティーンは、昨年末に発表した『ザ・リバー・ボックス〜THE TIES THAT BIND:THE RIVER COLLECTION』という80年のアルバム『ザ・リバ ー』にたくさんの未発表録音と同時期のライヴ映像などを加えた豪華なボックスセットに合わせて、『ザ・リバー・ツアー2016』を1月から開始。まず1月から4月にかけて北米で37回、5月から7月は本国以上の動員と盛り上がりを見せる欧州で28回のコンサートを行なった。そして8月と9月は再び米国に戻り、スタジアム級の大会場ばかり10回のコンサートで締めくくられる。今年前半の興行収入で第1位のツアーとなり、マドンナやビヨンセ、ローリング・ストーンズを上回る大成功を収めている。

その最後の8〜9月のツアーの皮切りとなったのは、地元ニュージャージー州のメットライフ・スタジアムでの3公演で、僕も8月23日と25日の客席にいた。85年の初来日以来、20数回のスプリングスティーン・コンサートを体験してきたが、今回の地元凱旋は感激を新たにする特別なもので、ファンのあいだで伝説となるに違いない夜となった。5万人の観客を相手に、ブルースとEストリート・バンドはなんと4時間に迫る長時間の熱烈なパフォーマンスを披露したのだ。

本書発売時にちょうど67歳となるブルースだが、まるで年々若返っているかのようで、休憩なしの約4時間にも手を抜く瞬間などまったくない。頻繁に観客の中にも入っていき、通路を走りまわるのだから恐れ入る。その超人ぶりを目の当たりにして「ブルース、あなたは宇宙人か何かじゃないの?」と思わず呟いたのは僕だけではなかったのではないか。

ブルース・スプリングスティーンのようなアーティストは他にいない。本当につくづくそう思わされる。これはその鉄人ぶりだけを言っているのではない。確かに、デビューから40数年が経った今もなおスタジアムや巨大アリーナを満杯にし、長時間の全力投球コンサート、それも日ごとにセットリストが大幅に変わる驚きでいっぱいの興奮と感動のパフォーマンスを毎夜つづける熱血ロッカー、スプリングスティーンは凄いのひとことだが、それは彼の1面でしかない。

スタジアムを揺るがし、僕らを理屈抜きで楽しませる躍動的なロックンローラーは同時に、人生と我々の生きる社会について深く考察する思慮深い曲を書くソングライターであり、アコースティックギターの弾き語りでも、人びとの物語を鮮やかに描くことができる。その両方をこれほどの高い水準で兼ね備えるアーティストは、ブルース以外には数少ないし、彼の世代で今もニュー・アルバムをチャートの首位に送りこむ高い人気を保ちながら、その曲が何を歌っているか、何を問いかけているかに人びとが熱心に耳を傾け、それをめぐって会話を誘発する作品をずっと作りつづけている人は他にいない。

そんなブルース・スプリングスティーンは日本でも熱心なファンをたくさん持つが、97年1月の来日以来、20年近く日本に足を踏み入れていないせいもあり、今もなお「ボーン・イン・ザ・USA」の拳を突き上げて熱唱するイメージにとらわれている人もいて、日本ではそのアーティストの本質があまり理解されていないかもしれない。それも仕方がないだろうか。日米の社会の大きな違いもあり、彼にあたる存在が我が国にはいないからだ。

日本での本格的な人気は、ヒット曲「ハングリー・ハート」を含む80年の『ザ・リバー』で始まった。その影響力は大きく、日本のロック界にも主役と絡むサックス奏者を擁する、明らかにEストリート・バンドを模したバンドを率いるアーティストが目に見えて増えた。だが、そういった“日本のスプリングスティーン”たちが表面的なサウンドを真似ても、本質に大きな違いを感じざるをえない。ブルースの作品には世界中のファンの心を打つ普遍性があるにせよ、その基盤には社会階級や地域に根ざす性格が色濃くあるからだ。

彼は40年以上のキャリアでそのソングライティングの幅を広げてきたが、それでもニュージャージー州沿岸地域の労働者階級という出自を忘れることなく、普通の人びとの人生の苦闘への視線と、我々が生きる社会とは誰もが居場所を見つけられる共同体であるべきというヴィジョンを常に持ちつづけている。そして年齢を重ね、やがて家庭を持つようになった自分の人生の歩みに沿った作品を作りつづけてきた。

そんなブルースは実際に社会貢献にも努め、慈善活動にも積極的に取り組む。フードバンクやワールド・ハンガー・イヤーに協力しての内外の飢餓撲滅運動、帰還兵の心身をサポートする団体、癌と闘う若者を支える基金、パーキンソン病治療の研究基金などを長年にわたって支援し、そして9・11からハリケーン・サンディまでの災害からの復興にも積極的に関わってきた。

さらに、本書ではあまり触れられないのだが、近年は直接的な政治活動も行なうようになっている。03年のイラク侵攻に強く反対し、04年の大統領選ではブッシュ再選を阻むべく、多くの人気バンドや有名アーティストと一緒に、そのリーダー格としてジョン・ケリー民主党候補を支援する「ヴォート・フォー・チェンジ」ツアーを行なった。そのときは敗れてしまったが、08年にはオバマ民主党候補の支持を表明し、激戦州の支持集会で歌ったり、ビリー・ジョエルと組んで資金集めのコンサートを行なうなど、全面的に協力した。彼の支援を大歓迎したオバマ候補は集会でブルースの「ザ・ライジング」をテーマソングに使った。そして大統領就任を祝う首都ワシントンDCでのコンサートにも、フォーク音楽界の長老ピート・シーガーらと共に出演した。

そういった行動と彼の作品は言行一致している。「おれの仕事は常にアメリカの現実とアメリカの夢のあいだの距離を測ることだった」というブルースの厳しい視線は祖国の進路を真摯に考えているからこそだ。「おれの音楽の中には愛国心がある。でも、それは批判的に問いかける、しばしば怒りに満ちた類の愛国心なんだ」。そう語るブルースのアルバムは同時代の米国や世界の状況を反映してきた。9・11の同時多発テロ事件に反応した02年の『ザ・ライジング』、厳しいブッシュ政権批判と反イラク戦争のメッセージをこめた07年の『マジック』、そして12年の『レッキング・ボール』では、リーマン・ショックに端を発する世界的な経済危機を背景に、格差社会への怒りと公平な社会への希望が歌われていた。こんなアーティストは残念ながら日本にはちょっと見当たらないだろう。

さて、本書『ボーン・トゥ・ラン』は、ブルースの初めての自伝である。09年のスーパーボウルのハーフタイム・ショー出演の直後から着手して、アルバム制作や長期のツアーで忙しい日々の合間を縫って書き進めた。本人曰くソングライティングと同じような手法で何度も推敲を重ね、7年をかけて完成したという。

ニュージャージー州フリーホールドで、イタリア系の母方とアイルランド系の父方の家族や親戚に囲まれて育った幼い日々から始まり、その半生と音楽キャリアが興味深い逸話満載で語られる。曲間のしゃべりやイヴェントでのスピーチ、インタヴューの受け答えで、話がうまく、愉快だと良く知られているとおり、そのしばしば饒舌な文章はじつに達者で、とてもおもしろい。そして、そのときどきの自分の考えや心境を非常に正直に告白しており、熱心なファンにもたくさんの驚きや発見があるはずだ。

僕個人がとても興味深く思ったのは、ソングライターとしてのブルースが、作品にこめた考えや感情を人生のどんなところからどのように引き出したのかを窺える点だ。僕がインタヴューしたとき、ブルースは「曲を書くときには、自分自身の中に感情的つながりを見つけなくてはならない。自分自身の一部を持ちこまなくてはならない」と語っていた。本書を読めば、具体的に特定の曲の創作の過程について書いている箇所以外でも、彼が告白する恐怖、不安、混乱、疑い、怒りといった様々な感情が、確かに彼の作品の登場人物の心理にも用いられているとわかるはずだ。

多くの読者に大きな衝撃を与えるのは、ブルースが鬱病と長らく闘っているという告白だろう。以前にもインタヴューで語っており、精神科医のカウンセリングを受けている(それ自体は米社会では珍しくない)とは知っていたが、それが80年代前半から今に至るまでの長期にわたるものという認識はなかったので、僕も驚いた。あの熱烈なパフォーマンスを目にすると、鬱病とは想像しがたいし、99年にEストリート・バンドを再結成してからの21世紀のブルースの活動は怒濤の勢いといった感じで、いつ鬱になっている時間があるの? とも思ってしまうが、彼自身が書いているように、忙しさにかまけるのを健康的ではない治療法のひとつに用いてきたのだろう。

そして、その病気は彼だけでなく、父親と祖先にもさかのぼると明かされる。本書でも物語の主要な筋のひとつとなっている息子と父親の困難な関係は、ブルースの作品の重要な主題のひとつで、「独立の日」をはじめ、いくつもの名曲を生んだし、やがて彼自身が父親になることで、その主題はさらに重層的なものになる。それらの曲で描かれていた父親の気難しさは昔気質の頑固さとか、失業で家長の責任を充分に果たせぬ欲求不満ゆえのものと、僕らは考えていたと思うが、実は彼には精神疾患があり、「おれの血管、おれの遺伝子には厄介な猛毒が流れていた」と表現するように、自分もその血筋を引くという不安を抱え、しばしば自分の性格に父の影響を発見するなど、その背景にはいっそう複雑な心理があったことがわかる。

ブルースは80年代後半以降、離婚に終わった最初の結婚、3児をもうけたパティ・スキャルファとの結婚生活を背景に、夫、父親として以前よりも成熟した視点で男女の関係とそれにともなう責務という私的な主題を探っていったが、それは日々の生活の中で不安や迷いに向き合う自分自身との対話から生まれてきたものだったようだ。カウンセラーの助けを得ての「30年にわたる人生最大の冒険のひとつ」と呼ぶ「心理学的な闘い」は「終わりがない」もので、「つねに“1歩進んで2歩さがる”闘い」だと書いているが、「この本の中心にあるのは、おれの努力とマイアーズ医師のおかげでなしとげられたものだ」とあるように、本書はその自分自身との対話という旅を書き留めたものとも言えるだろう。

本書の終盤で、この数年にも鬱に悩まされた時期があったと告白しており、今も本人は苦しい闘いをつづけているようだ。しかし、その一方で彼は音楽活動での大成功は言うに及ばす、3人の子供を立派に成人させるなど、人生でたくさんのものを勝ち取ってきた。そして、何よりも世界中のファンにその音楽を通して喜びと幸せをたっぷり与えてくれている。僕らはそのことに感謝するばかりだ。つまるところ、ブルース・スプリングスティーンは「1足す1を3にする」ことができたのだと思う。

2016年9月

*著者からのメッセージ動画(英語)


*本書を上下巻同時購入された方には、大型ポスター(B2サイズ)を限定特典として差し上げます。各店先着順ですので、品切れの際はご了承ください。セブンネットショッピングではポスターは4つ折りでのご提供となります。

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