ソーシャルディスタンスを生んだのは13歳の少女だった! マイケル・ルイス『最悪の予感 パンデミックとの戦い』プロローグ
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ソーシャルディスタンスを生んだのは13歳の少女だった! マイケル・ルイス『最悪の予感 パンデミックとの戦い』プロローグ

『マネー・ボール』著者、マイケル・ルイスによるコロナ禍の物語『最悪の予感 パンデミックとの戦い』(中山宥訳)がいよいよ7月8日(木)に刊行されます。刊行に先立ち、本記事では「プロローグ」を全文公開します。コミュニティのなかで病原体はどうやって移動するのか? 感染拡大を遅らせる方法は? 2003年に13歳の少女が科学研究コンテストのために考案したのは、2020年以降のコロナ禍でいま誰もがみな遂行している「ある方法」だった――。

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プロローグ グラス越しの景色

 13歳のローラ・グラスは、ニューメキシコ州アルバカーキのジェファーソン・ミドルスクールで8年生になるころ、父親が仕事をするようすを背中越しに眺めていた。父親のボブ・グラスは、1940年代なかばに設立されたサンディア国立研究所の科学者だ。この研究所の使命は、プルトニウムやウランの製造を除いて、核兵器に関するあらゆる事柄を解明することにある。たとえば、過去には、パイロットを死なせずに水爆を投下する方法を算出した。ボブ・グラスが着任した1980年代なかばには、国家安全保障の世界で誰も解決できずにいるトップシークレット扱いの問題を持ち込むべき場として、すでに高い評価を確立していた。この研究所には、何を措いても自分の心の赴くままに行動する人々が集まっている。まさにボブ・グラスのような人々が……。父親の背中越しに研究作業を眺めるローラは、いま何を見ているのかさっぱりわからないときもあった。しかし、一回も退屈しなかった。

 2003年のある日、ローラの目の前で、モニターの画面じゅうを緑の小さな点が動きまわっていた。ランダムな動きのように思えたが、しばらく見つめるうち、緑ではなく赤の点もいくつかあり、赤い点がぶつかると、緑の点が赤くなることに気づいた。「これは、エージェント・ベース・モデルと呼ばれるものなんだ」と父親が説明してくれた。「点の一つひとつが人間だと思ってごらん。地球上にはすごくおおぜいの人間がいる。そのひとりが、きみだ。人間にはいろんな種類があって、みんないろんなスケジュールを抱えている。そういう人間がお互いにどんなふうに影響を与えるかについては、一定のルールがあるんだ。父さんはいま、それぞれの人にある種のスケジュールを与えてから、自由に行動させ、何が起こるかを観察しているんだよ……」

 ボブ・グラスがこのタイプのモデリングを気に入った理由の一つは、説明のしやすさにある。モデルは抽象的だが、抽象化されているのは身近なものだ。それぞれの点が一つの存在──つまり、ひとりの人間、一片の情報など、さまざまな事物を表現している。緑の点が赤に変わるとき、それは、噂が広まるさまを表わすこともあれば、交通渋滞や暴動の発生、種の絶滅などを表わすこともある。「これをもとに話し始めると、誰でもすぐ理解してくれます」とボブ・グラスは言う。

 このモデルは現実世界を大ざっぱに描いているにすぎないが、詳細すぎる描写では霞んでしまう現実世界の特徴を把握しやすい。そのうえ、研究所に入って以来、ボブ・グラスの身のまわりを日常的に飛び交う複雑な質問にも、このモデルを使うと答えやすかった。そうした質問のほとんどが、国家的な災害を防ぐことにまつわる内容だ。ちょうど当時、ニューヨーク連邦準備銀行は、ボブ・グラスの力を借りて、国内の金融システムの一角で起こった動作不良がほかの金融システムにどう波及するかを研究中だった。また、エネルギー省も、ボブ・グラスの協力を得て、電力網の小さな不具合が全米規模の連鎖的な停電を引き起こす恐れがあるかどうかを見極めようとしていた。人間の話ではなく、たとえば金銭の流れの話となると、スクリーン上の小さな点と現実の世界とのつながりが、たいていの人にとっては理解しづらくなる。しかし、ボブ・グラスは違う。「これこそが科学の核心なんです」と熱を込めて主張する。「科学はすべてモデリングです。どんな科学も、自然を抽象化しています。問題は、それが有用な抽象化であるかどうかです」。ボブ・グラスにとって「有用」とは、問題解決に役立つことをさす。

 その当時、娘のローラ・グラスは自分なりの問題を抱えていた。毎年恒例の科学研究コンテストが近づいていたのだ。参加しないという選択肢はあり得なかった。科学は父親との大切な絆であり、ローラと姉妹ふたりが毎年、科学研究コンテストで競い合うことがグラス家の暗黙のルールになっていた。ローラ自身もそれがいつも楽しみだった。「父といっしょにできる科学は、学校でやる科学とはぜんぜん違っていました」とローラは語る。「学校の科学はいつも苦手でしたね」。父親とともに触れる科学は、素敵な新しい疑問を見つけ、その答えを見つけるための手段だった。どんな疑問なのかは重要ではない。父親は分野間の境界を気にせず、すべての科学を一つの同じものととらえていた。ローラは父親に相談しながら、ときには確率とコイン投げをめぐるプロジェクトを、ときには植物の種(しゅ)による光合成の違いについてのプロジェクトを進めた。コンテストの争いは年々激しくなる一方だった。「中学生になると、競争のレベルが上がるんです」とローラは説明する。

 父親のパソコン画面を見ながら、ローラは「まるで、赤い点が緑の点に何かを感染させているみたい」と思った。ちょうど、歴史の授業で中世の黒死病について学んでいるところだった。

「わたしは心を奪われました。信じられません。ヨーロッパの人口の三分の一が犠牲になったんですから」。ローラは父親に尋ねた。このモデルを使って、疫病がどんなふうに広がるかを調べられないだろうか、と。父親はそれまでそんなことを考えもしなかった。「困ったな、どうやって手伝えばいいんだろう、と弱りましたよ」とボブ・グラスは振り返る。父親が手伝うことは最初から前提になっていた。ほかの父親が「リトルリーグ・パパ」であるように、ボブ・グラスは「科学パパ」なのだ。もっとも、ほかの父親がわが子の野球の試合を見守るのと、娘の科学プロジェクトを見守るのとでは、少々わけが違うけれど……。

 父娘はさっそく科学研究コンテスト向けの新しいプロジェクトに没頭した。最初の年は、モデルにまだ改善の余地が残った。黒死病という疫病を2004年のニューメキシコ州アルバカーキに当てはめるのは、やや的外れの感をぬぐえなかった。ローラが住む地域の人口は一万人で、学区の人口の何分の一かにすぎない。また、ローラが「感染の世界」と名付けた場所では、感染者とすれ違うだけで疫病がうつる設定になっていて、現実的ではなかった。図表を貼った発泡スチロールのパネルボードの横に立ち、審査員からの質問攻めにさらされたローラは、自分の研究の限界を誰よりも痛感した。「審査員たちはさかんに、この状況はどれくらい現実に近いのか、これをどう応用するつもりなのか、と訊くんです」とローラは言う。それでも、そのコンテストで疫学を扱った子供はただひとりだった。ローラのプロジェクトは州大会へ進出することになった。帰宅して、ローラは父親に言った。「本物にしましょう」

 本物にするためには、もっと説得力のある病原体が必要だった。「『黒死病はやめるわ』と父に言いました。『現代の世界にある何かがいい。インフルエンザとか、そのたぐい』」。どんな病原体を選ぶにしろ、詳しく学ぶ必要があった。その病原体が作用する社会についても、もっとよく知らなければいけない。「娘はわたしのところに来て、こう言ったんです」とボブ・グラスは語る。「『お父さん、すれ違っただけで病気がうつるなんて、あんまりまともじゃないわ。それともう一つ、人間ってこんなふうにただ歩いてるわけじゃないでしょ。人付き合いってものがある。ここにいろんな人間関係を組み込まなきゃ』」。父親が見守るなか、2004年のあいだじゅう、一四歳のローラはアンケートを作成し、自分の学区内の何百人もの住民に回答を求めた。労働者、教師、両親、祖父母、高校生、中学生、未就学児……。「まずは、同級生に質問しました」とローラは話す。「どれくらいの頻度でハグやキスをするか? 何人とするか? 隣り合わせで座る知人はどのくらいいるか? 何分間、隣に座り続けるか? そのあと、同級生の親たちにも同様の質問を投げかけました」。ローラは、アンケート結果をもとに社会的ネットワークと人の移動のようすをマッピングし、さらに、ネットワークとネットワークの相互作用をマッピングした。そのうえで、それぞれが何人の相手と、病原体に空気感染しかねない近距離で過ごしたかを数えた。

 ローラはこのプロジェクトに熱中し、父親も非常に興味をそそられた。ローラがのめり込めばのめり込むほど、父親ものめり込んだ。「娘を大学院生のように扱いました。『さて、ここまでの成果を見せてほしい。それから、これがわたしの疑問点のリストだ』といった調子です」とボブ・グラスは話す。娘を手伝うためには、コンピュータモデルをさらに改良しなければならず、自身の力を超えたレベルまで進化させる必要があった。ボブ・グラスが出会ったことのある最も優秀なプログラマーは、サンディア国立研究所のウォルト・バイエラーだった。「うちの研究所は本当に風変わりなんです」とボブは語る。「ロスアラモス研究所は、いわば血統書付きの人だらけですが、うちは、手を尽くして、とにかく優れた人物を集めています。血統書なんて気にしません」。ボブ・グラスは、ふつうの人が思い浮かべる秀才そのものだが、そのボブが思い浮かべる秀才こそ、ウォルトだった。娘の科学研究コンテスト向けプロジェクトを手伝ってほしいとウォルトに頼むのは、素人がその場しのぎでつくったバスケットボールチームにNBAのレブロン・ジェームズを引き入れるようなものだ。しかし、ウォルトは話に乗ってくれた。

 モデルには、リアルな社会的相互作用を組み込む必要があった。潜伏期間を考慮して、感染しているが他人には感染させないという時期も設けなければいけない。また、無症状でありながら感染力を持つ人もいないとおかしい。死亡したり免疫ができたりした人をネットワークから排除する必要もある。感染者の社会的行動や、誰かと接触したときに病気をうつす確率についても配慮しなければならない。父と娘は、みずからの生活の実態を考えたすえ、「いかなる社会的相互作用においても、子供同士で病気が伝染する可能性は、成人同士に比べて二倍」という意見で一致した。また、モデルをわかりやすくするため、省いた要素もある。「このモデルに大学生は入れませんでした」とボブ・グラスは付け加える。「“一夜かぎりの関係”だとか、そのたぐいは抜きです」

 ボブ・グラスは真剣に興味を持ち始めた。科学プロジェクトというよりも、工学プロジェクトのように感じられた。コミュニティのなかで病気がどんなふうに移動するかを解明できれば、感染拡大を遅らせる方法、さらには阻止する方法が見つかるかもしれない。しかし、どうすれば解明できるのか? ボブ・グラスは、感染症やその流行の歴史に関して、片っ端から文献を読みあさった。やがて手にしたのが『グレート・インフルエンザ』──歴史学者のジョン・バリーが、1918年のインフルエンザの流行について書いた本──だった。「なんと、5000万人も死亡したそうです」とボブは言う。「まったく知りませんでした。大変だ、これは重大な問題だぞ、と思い始めました」

 父も娘も、現実世界の病気の話題に敏感になった。その2004年の秋、イギリスのリバプールにある一つのワクチン製造工場が汚染により操業休止となっただけで、アメリカでインフルエンザワクチンの供給量が半減した、とのニュースを知り、ふたりは色めき立った。ワクチンの数が足りない。では、誰が接種を受けるべきか? 当時のアメリカ政府の方針は、「最も死亡リスクの高い、高齢者にワクチンを投与する」だった。それではいけない、とローラは思った。ボブ・グラスはこう回想する。「『さかんに社会的な交流をして、感染を拡大させているのは、若い人たちなのよ』と娘が言い出したんです。『若者に投与したほうがいいんじゃない?』」。父娘はコンピュータに向かい、モデル内の若者たちにワクチンを投与して、病気を媒介する能力をなくした。すると案の定、高齢者は感染しなかった。ボブ・グラスは、感染症の専門家や疫学者ならこの点をすでに理解しているのではないかと思い、文献を探した。「ところが、これを示唆した論文は一つしかありませんでした」

 やがて、アルバカーキ高校の1年生になったローラは、ニューメキシコ州の科学研究コンテストで最優秀賞を受賞した。続いて、世界各国の2000人の子供たちとともに、アリゾナ州フェニックスでの国際大会に臨むことになった。いまや、ローラが立ち向かう問題は、ただ一つに絞り込まれていた。「インフルエンザはつねに変異している。もし、適切なワクチンが間に合わない場合、わたしたちはどうすればいいのか?」。かたや父親は、伝染病やその対策について過去に書かれた文献すべてに、少なくともひととおり目を通し終えた。5000万人の犠牲者を出した1918年の感染症の原因が、ある鳥の体内にあるウイルスのわずかな突然変異だったことを知った。一方、昨今の季節性インフルエンザも、2005年の時点までに、すでに何度か同様の突然変異を遂げていた。「わたしたちの前に、生死に関わる地球規模の問題が迫りつつある」とボブ・グラスはのちに記している。にもかかわらず、専門家たちは「致死性の高い突然変異が起きた場合、そのあと何カ月間かは、感染者を隔離し、ワクチンの完成を待つよりほか、命を救うためにできることはほとんどない」との基本的な認識で一致していた。ボブ・グラスが娘とつくったモデルによると、ひとりにワクチンを投与することと、その人物を社会的ネットワークから排除することには、何の違いもない。どちらであれ、他者に病気をうつす能力を失うことになる。だが、専門家はこぞって、ワクチンの生産と配布をいかに迅速に行なうかを議論していた。「最も効率的、かつ最も破壊的でない方法で、社会的ネットワークから人を排除するにはどうすればいいか」を模索している者はいないらしかった。「わたしは急に怖くなりました」とボブ・グラスは言う。「自分たちに何ができるか、誰ひとり理解しようとしていないのです」

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マイケル・ルイス『最悪の予感――パンデミックとの戦い』(中山宥訳、四六判並製単行本、定価2310円)は現在予約受付中です。

|| 著者紹介 ||
マイケル・ルイス(Michael Lewis)
1960年ルイジアナ州ニューオーリンズ生まれ。プリンストン大学で美術史の学士号、ロンドン・スクール・オブエコノミクスで経済学の修士号を得たあと、ソロモン・ブラザーズに入社。債権セールスマンとしての3年間の経験をもとに執筆した『ライアーズ・ポーカー』で作家デビューした。ブラッド・ピット主演で映画化された『マネー・ボール』をはじめ、『世紀の空売り』『フラッシュ・ボーイズ』『かくて行動経済学は生まれり』などベストセラー多数しており、著書累計は1000万部を超える。

|| 訳者略歴 ||
中山宥
(なかやま・ゆう)
翻訳家。1964年生まれ。訳書にルイス『マネー・ボール〔完全版〕』、チャンギージー『〈脳と文明〉の暗号』(以上ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、デフォー『新訳 ペスト』、ウィンズロウ『失踪』など多数。

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