見出し画像

「小田尚稔の演劇」と「小説」 佐々木 敦(悲劇喜劇3月号)

「悲劇喜劇」3月号(2/7発売)では、気鋭の劇作家・小田尚稔の初小説「是でいいのだ」を掲載。佐々木敦氏が小説に寄せたエッセイを公開します。

画像1

(書影をタッチすると、Amazonページにジャンプします。)


「小田尚稔の演劇」と「小説」   佐々木 敦

 小田尚稔はもともと俳優で、悪魔のしるしや栗☆兎ズ(現ウンゲツィーファ)、わっしょいハウスや三条会などに出演していた。見た目も演技態も個性的で、いつのまにか名前を覚えていたが、突然、彼自身が作演出する舞台のアフタートーク出演の依頼が来たときは少々驚いた。たぶんそれ以前に話したりしたことはなかったはずだ。それに最初の作品となると、役者としての彼は何度も観ていたとはいえ、演劇作家としては未知数なので、正直言って「つまらなかったら困るなあ」と思いつつ、それでもとりあえずトークには出ることにしたのだった。
 それが「小田尚稔の演劇」の第一回公演『簡単な生活』で、二〇一五年の夏のことだった。そしてそれは好ましい作品だった。俳優の小田君(ここからは普段の呼び方で書かせていただく)はクセの強い舞台でエキセントリックな役柄を演じることが多かったので、彼自身の作品が良い意味でとても「普通」だったことが却って新鮮だった。ごく普通の人たちの、ごく平凡といって良い物語。作中で作品のテーマと深くかかわる哲学者の書物が引用=朗読されるのだが、小田君が大学時代に哲学を学んでいたこともそのとき知った。トークで彼は僕をスタジオボイスなどのサブカル雑誌でよく読んでいたと言ってオーバーに褒めそやし、反対に自作についてはやたらと自虐的なことばかり言うのが面白かった。
 そんなわけで付き合いが始まったのだが、デビュー作ではまだ「なかなか良いじゃないか」という程度であったのが、二〇一六年春の第二作『凡人の言い訳』には非常に感心した。上演時間百分におよぶ女優のひとり芝居で、観客に向かって淡々と語り続けるスタイルはこの時点で確立された。「小田尚稔の演劇」で小田君は劇作と演出に専念しており、旗揚げ後はほぼ俳優業をやめてしまったので、どうやら彼は本気なんだと思ったし、確かに『凡人の言い訳』は本気の作品だった。だが私の評価が決定的になったのは、今回の初小説の基になった二〇一六年秋の第三作『是でいいのだ』である。俳優は五名、上演時間二時間二十分の長尺をゆったりと使って物語られる「あの日」と、それ以前/以後の幾つかの事情と感情。これは本物だ、と私は思った。
 以後、小田君は『聖地巡礼』(二〇一七年)、『悪について』(同)、『善悪のむこうがわ』(二〇一九年/美術手帖× VOLVO ART PROJECT として)とコンスタントに新作を発表していった。二〇一八年一月には私のプロデュースで滝口悠生の長編小説『高架線』を小田君の脚本演出で演劇化してもらった。また、同年六月にはやはり私がプロデュースした「飴屋法水たち」の『スワン666』に小田君はひさびさに役者として出演した。この頃には演劇作家としてのイメージのほうが強くなっていたので、その怪演ぶりに観客は衝撃を受けたにちがいない。
 さて、これは『高架線』を小田君に演劇化してもらった理由でもあるのだが、私は「小田尚稔の演劇」に「小説的」とでも呼べるような感覚をかねがね抱いていた。彼の演劇は、すべてではないがそのほとんどがモノローグから構成されている。小田君の演劇で俳優=登場人物たちは常に観客に対して自身の境遇や心境を物語る。だがそれは芝居によくあるわざとらしい観客いじりとは全然違っていて、そう、まるで小説の一人称の語りを聞いているみたいなのだ。とはいっても小説ならば文字しかないので何も見えないが、こちらは演劇なので目の前に俳優がいる。だがそもそもこれが現実世界だったら目の前の他人がいきなり喋り出したらおかしな人間としか思わないだろう。だが演劇なので彼女たち彼たちはあれこれそれぞれの物語を物語る。だがそれらは──『悪について』や『善悪のむこうがわ』では少し変わってきたが──特別なところなど特にない、ごくごく普通で平凡な、つまりは物語らしさのほとんどない語りなのだ。そして私はそれをとても「小説」ぽいと思う。
 なのでこのたび、ここにこうして『是でいいのだ』の小説版が発表されるにいたり、私は我が意を得たりという気分でいる。人物設定も物語の大筋も演劇版と変わってはいない。『是でいいのだ』は何度も再演されており、キャストもどんどん変わっている。だがこれは小説なので、登場人物たちは読者の頭のなかでそれぞれの姿かたちで立ち上がることになる。台詞が一人称の語りへとスムーズに変換され、しかしそのことによって少しだけ表情を変えたり陰影を深めたりしながら、私にとってはすでによく見知った『是でいいのだ』の人物たちが「小説」の中の人たちとしてここにいる。途中には小説ならではの仕掛けもあるのだが、それは読んでのお楽しみということで。
 演劇との違いという意味では、この小説では、戯曲とは一箇所、はっきりと変えられているところがある。それは或る有名人にかかわる変更なのだが、私はしたたかに感動してしまった。『是でいいのだ』は三月にまた再演されることになっているが、そこで台詞も変わっているのかどうか、今から私はドキドキしている。(悲劇喜劇3月号より

●小田尚稔『是でいいのだ』試し読みはこちら
●滝口悠生の解説はこちら

●著者略歴
佐々木敦(ささき・あつし)
HEADZ / SCOOL。著書多数。最新刊は『私は小説である』『この映画を視ているのは誰か?』。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!