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声優・斉藤壮馬も絶賛した直木賞候補作! 小川哲『嘘と正典』より、「魔術師」全篇公開

『地図と拳』も話題を呼んでいる小川哲氏による初の短篇集であり、第162回直木賞候補作にも選ばれた『噓と正典』が文庫化しました。帯推薦は声優の斉藤壮馬さん。本書の発売を記念して、各界が絶賛する収録作「魔術師」を無料公開します。


魔術師


「私の師匠であるマックス・ウォルトンは、ロサンジェルスの小さなパブではじめて会ったときにこう言いました。『マジシャンにはやってはいけないことが三つある。お前は知っているか?』と──」

 観客席を映していたカメラがステージを向く。照明が少しずつ明るくなり、暗闇がぼんやりと白く光る。ステージの中央には、タキシードを着てシルクハットをかぶった竹村理道たけむらりどうが立っている。年齢と しの割には老けているように見えるが、それでもまだ十分に男前だ。自分に注目が集まったとわかると、彼は不敵に微笑んで観客席を眺めまわした。この視線だ。いつもこの視線に心臓が高鳴ってしまう。彼の視線は何かの電波を発するみたいに、人々の頭を麻痺させる。それは最大の武器だった。その武器のおかげで、彼は日本マジック界の頂点に立った。そしてそれだけでなく、幾人もの女性を惑わせて数億円もの金を借り、最終的に自らの人生を破壊してしまった。

「──私は正直に『わかりません』と答えました。なぜなら、当時の私は『やってはいけないこと』など存在してはならないと思っていたからです。『やってはいけないこと』を決めてしまうことが、むしろマジックの可能性を狭めているのではないか。ステージの上ではあらゆる現象が起こり得るのではないか、と」

 タイミングはバッチリだ。理道が指を鳴らした瞬間、ステージ全体が明るくなり、彼の後ろに黒く巨大な装置が置いてあったことがわかる。装置の中央には筒状のガラスがついていて、その上下から複雑に伸びた配線が横の機械に接続されている。機械の上には大きなモニターが吊るされていた。

 一九九六年六月五日十九時十二分。

 モニターの下部には意味ありげな赤い文字で、時刻がただ映しだされているだけ。

 十二分が十三分に変わる。

「マックス・ウォルトンは一つ目に、『マジックを演じる前に、説明してはいけない』と言いました。どういう意味でしょうか? そうですね、私は今から鳩を出します」

 理道はかぶっていたシルクハットを取り、そこから次々に五羽の白い鳩を出していった。それはマジックではなく、芋掘りのようだった。理道は出した鳩を淡々とステージに放っていく。観客たちはどういう反応をすればいいのかわからず静まり返ったままだ。静寂の中に、誰かが咳きこむ音が虚しく響く。

「わかりましたか? 鳩を出します、と宣言してから鳩を出しても、誰も驚きません」

 ステージの袖から大きな羽根で覆われた、派手な衣装を着たアシスタントの女性が歩いてきて、ゆっくりとした手つきで理道が出した鳩を回収した。女性は捕まえた鳩を一羽ずつ羽根の間にしまっていった。最後の鳩が見えなくなると、理道は小さく会釈をして、ふたたび観客席を眺めまわして微笑んだ。

 何かが起こる。そんな空気が漂う。

 理道は背中から宝石で装飾された杖を出し、アシスタントに向かって杖を持った右手を伸ばした。

 その瞬間、アシスタントの女性が消えた。

 観客席から驚きの声が漏れる。

「このように、何も言わずに突然何かの現象を起こすことで人々は驚くのです。マックス・ウォルトンは正しかった」

 すぐに大きな拍手が生まれた。

 二十二年前の僕も、最前列で拍手に加わっていたはずだ。僕はまだ十歳だった。隣に座っていた年の離れた姉は拍手に加わらず、僕の耳元で小さく「マスコット・モスね」とつぶやいた。「こんなことで拍手なんてしなくていいのに」

 今、僕は自宅のリビングで理道の最終公演の映像を見ている。それはつまり、コマ送りにすれば、彼がどのようにして女性を消したのか一目瞭然だということだ。三十二歳になった僕は「マスコット・モス」の意味も知っているし、理道がアシスタントを消した手段もわかっている。仕組みは思いのほか複雑だ。アシスタントが鳩を回収している間に、彼女の衣装を針金とチューブで支える。すべての鳩を回収し終えると、理道が派手な杖を出す。そのとき、実は彼女は鳩と一緒にこっそりステージ下へ消えていて、理道の前には衣装だけが残っているのだが、大げさな衣装のせいで観客席からはわかりづらくなっている。理道が抜け殻になった衣装に杖で魔法をかける。衣装が小さな隙間から一瞬にしてステージ下に引きこまれ、アシスタントが消えたように見える。

消える美女マスコット・モス」の完成だ。

「マジシャンがやってはいけないことの二つ目は、『同じマジックを繰り返してはいけない』で、三つ目は『タネ明かしをしてはいけない』です」

 理道は胸元から出したシルクのハンカチを斜め上に放り投げた。ハンカチは遠くへ飛んでいき、天井の近くで舞台袖に入ると鳥のように会場中を飛びまわりはじめ、最後に理道の手元に戻った。静寂ののち、観客席から驚きの声と拍手が聞こえた。

 ハンカチが鳥に変わったからではない。理道がいつの間にかグレーの作業服姿になっていたからだ。

 拍手が止んでから、理道は再び別のハンカチを取りだし、先ほどと同じように投げた。しかしハンカチの行き先を見る者は誰もいなかった。理道の後ろにかがんで現れたアシスタントが彼の背中を強く引くと、作業服の下から先ほどまでと同じタキシードが現れた。アシスタントはそのまま幕の後ろへ戻り、理道の手にハンカチが戻ってくる。観客席から大きなため息が漏れた。

「これで、マックス・ウォルトンの正しさがわかりましたか?」

 観客席から笑い声が聞こえる。

「『繰り返さない』と『明かさない』です。この二つは似ています。マジックとは基本的に、仕掛けを知ってしまえばつまらないものばかりです。同じマジックを繰り返せば、タネを見破られる危険性が高まります。ましてや自分からタネ明かしを行うなど、もってのほかです──以上が『マジシャンがやってはいけない三つのこと』です。これはマックス・ウォルトンが考えついたものではなく、ハワード・サーストンという偉大なマジシャンの言葉として、一般的に『サーストンの三原則』と呼ばれています。この三原則をはじめて聞いたとき、駆け出しマジシャンだった私は、こんなものはマジシャンの理想を制限する無駄な掟だと感じました。先ほども述べましたが、マジックにはすべてが可能だと信じていたんです。何かを消すことも、何かを出すことも。みなさんの願望を叶えることも、大きな傷跡を癒すことも。『やってはいけないこと』を打ち破るのもまた、マジックでしょう。ですが、それからしばらくして、プロのマジシャンになった私は、『サーストンの三原則』の正しさを理解しました。それは間違いなく、セオリーとして従うべき掟でした。その正しさは、今みなさんにお見せした通りです。『説明しない』『繰り返さない』『明かさない』の三つは、私だけでなく、すべてのマジシャンが守るべき掟とされています。そして、この禁忌タブーを破ったステージは失敗する運命にあるのです」

 マジックは演出がすべてなの──理道と同じようにプロのマジシャンになった姉は、僕が文化祭で披露したステージを見てそう言った。

 当時高校生だった僕は、文化祭の奇術ステージで電磁石コイルを使うことに決めた。僕は「今から浮きます」と宣言し、ステージ下に隠しておいた磁石の力で少しだけ宙に浮いた。それなりに反応はよかったが、後ろで見ていた姉は眉間に皺を寄せていた。

 家に帰ると、姉はありきたりな「電磁石」というタネを、素晴らしい演出で傑作に変えた伝説のマジシャン、ロベール・ウーダンの話を始めた。アルジェリアの呪術師と魔術勝負をすることになったウーダンは、マジックに電磁石を使うことに決めたが、彼は電磁石の力を逆に使ったのだ。彼は金属の仕込まれた小さな箱を軽々と持ち上げてから、力の強そうな部族民の男をステージに呼んだ。ウーダンは男に向かって「力を奪う魔法をかけます」と杖を振った。男は箱を持ち上げようとしたが、電磁石の力でびくともしない。小さな箱を持ち上げようとしてバランスを崩した男を見て、部族民たちに笑いが広がった。マジシャンが呪術師に勝利した瞬間だった。

 マジックは演出がすべてだ。

 今の僕はそれをよく知っている。もちろん技術や仕掛けも大事だが、それが活きるかどうかは演出にかかっている。上手に演出すれば市販のマジック品でも人々は驚くし、演出が下手だとどれだけ高度な技術があってもショーは台無しになる。「今から浮きます」と言って自分を浮かすだけだった僕の舞台を、プロの姉がどういう風に見ていたのか、今だったらわかる。僕は、自分を浮かすために必要な演出をしなければならなかった。

「ですが、ここ最近、私は再び考え方を変えました」

 理道が険しい顔をする。「何年もステージをしているうちに、まだ若造だったころの自分の声が、心の底から沸き上がってきたのです。やはり、マジックではすべてが可能なのではないか。ステージで奇跡を起こすことができるのではないか。大昔、まだ何も知らなかったころの私が正しくて、なまじ知識を得た私は間違っていたのではないか。さあ、紳士淑女のみなさま。今宵、私はサーストンの禁忌に挑戦します──」

 丁寧に「サーストンの三原則」の意味と価値を説明してから、理道はそう宣言した。

「──つまり、説明し、繰り返し、タネ明かしをします。なぜならその行為が、私のマジックを成立させるために必要な手順だからです。しかもその上で、みなさまに、歴史上実演された、すべてのマジックを上回る驚きを与えると宣言します。私はマジックに挑戦します。そして私は、|何も持たずアメリカへ渡ったころの過去の自分に挑戦します」

 ステージが暗転する。モニターに十九時四十分という赤い文字が不気味に浮かんでいる。

 見事な演出だった。

 観客にまず、マジックの原理を理解させる。その上で、その原理に挑戦すると宣言する。理道は今からマジックをするのではない。マジックを超えた何かをするのだ。

 この演出のポイントは、実際のところ「サーストンの三原則」がマジシャンの禁忌でもなんでもない点にある。「今からコインにタバコを貫通させます」と、次に起こる現象を説明してからマジックを行うマジシャンもいるし、似たようなマジックをタネだけ変えながら、何度も繰り返す演目もある。

 まだステージは暗転したままだ。

 スタッフが撮ったこの公演映像を、いったい何度見返しただろうか。

 肝心の「歴史上実演された、すべてのマジックを上回る」マジックは、この段階では「巨大な装置」の伏線が敷かれただけだ。だが、この時点で僕を含む観客は、すでに理道の「演出」という魔法マジックにかかっている。存在しない「禁忌」が存在するように思わされ、それに挑戦するマジシャンとして理道がこれから何をするのか期待している。

 もちろん僕は、このあとどんなマジックが実演されるのか知っている。当時劇場でも観たし、映像でも繰り返し見た。

 だが実を言うと、僕がもっとも感動したマジックは、このオープニングそのものだった。理道はタネを蒔き、観客に魔法をかけ、これ以上ないほど周到に、これから起こす奇跡の準備をしたのだ。

 空前絶後のマジックを最高の状態で見せる──ただそれだけのために。

 *

  ウィキペディアによると、竹村理道の父──つまり僕の祖父──はアメリカ進駐軍相手の舞台で、フーディーニの演目「中国の水牢」の最中に事故死したことになっているが、これは誤りである。出典は悪評高い理道自身の回顧録だ。この本は彼のステージと同様、虚飾や誇張、ミスディレクションだらけなので、真偽には特に注意しなければならない。実のところ、理道の父は飲酒運転をして対向車線のトラックに突っこんで死んだ。残された母はそれから五年後、三十一歳の若さで自殺している。八歳の理道と六歳の弟は札幌に住む叔父の一家に預けられることになった。

 どちらにせよ、実の父が進駐軍向けのマジックをやっていたことが彼の人生を変えた事実は間違いないだろう。理道は高校中退後、十七歳の若さで単身ロサンジェルスへと旅立つ。

「バンブー・リドーという名前で小さな酒場や路上に立って、マジックで日銭を稼ぐんだ。宿の見つけ方は簡単だった。レモンの中から観客が選んだトランプが出てくるマジックがあるだろう? そのトランプに『今夜の宿がありません』って書いておくんだ。そうするとみんな大爆笑して、誰かが宿を提供してくれるのさ。そんなことを毎日繰り返してたよ」

 回顧録のこの記述は嘘か誇張だと思われる。理道の弟は、ロサンジェルスにあった彼の下宿先に、叔父が多額の仕送りをしていたと証言している。だが十八歳のとき、小さな舞台でマックス・ウォルトンと知り合ったという記述は事実だろう。翌年のウォルトン一座の全国ツアーに理道の名前がある。

 ウォルトン一座への所属は二年しか続かなかった。出演料をめぐって口論になったらしいが、これに関する真偽のほどは不明だ。とにかく理道は二十歳で日本に帰ってきて、デパートでマジック用品の実演販売を始めた。デパートの販売員だった母とはそのころに知り合ったようだ。二人は二年後に結婚し、翌年には姉が生まれている。

 実演販売を続けながら、理道は小さな劇場やパブでステージをこなしていた。背が高くて見た目もよく、独特の低い声は劇場でもよく通った。技術もあり、四つ玉にはかなり定評があったが、マジシャンとしての知名度は低かった。そんな理道の人生は、一九七三年、二十七歳の彼が三越劇場で行われた奇術大会で優勝したことをきっかけに大きく変わる。

 奇術大会を見ていたテレビ局のディレクターが、理道に番組出演のオファーを出したのだ。それを受けた理道はテレビで「八つ玉(四つの玉を出し入れするスライハンドを、両手で同時に行うという高度なマジック)」を披露して話題になる。じっとテレビカメラを見つめながら、ゆっくりと一つ目の玉を出す。その玉が消えたと思ったら、次の瞬間には二つに増えている。二つは四つになり、四つが八つになる。

 理道はその後もテレビ出演を続け、一躍マジック界のスターとなっていく。特番で東京タワーを消し、縛られた状態で茨城県の袋田の滝から落ちて蘇った。当時のマジックブームの中心には、間違いなく理道がいた。

 売れっ子マジシャンとなった理道は、積年の夢を叶えようと決める。それは「リドー魔術団」の結成だった。ウォルトンの弟子だった時代から、理道は自分の一座を持ちたいと考えていたようだ。

 だが、魔術団の運営には莫大な金がかかった。それまで、ほとんど道具を使わないスライハンドマジックを中心に舞台に出ていた理道は、魔術団の運営にどれくらい金がかかるかわかっていなかったのだろう。舞台に設置する大道具や仕掛け、宣伝の費用やポスターの印刷代、団員に支払う給与などで、テレビで稼いだ彼の貯金はあっという間になくなった。理道は札幌に住む叔父の自宅を抵当にして借金をしたが、その金もすぐに尽きた(叔父夫婦はそれ以来、借家暮らしをすることになる)。

 そのあたりから理道の生活は歪んでいく。売れ残った東京公演のチケットを一括購入してくれた女性と交際を始めたのを機に、複数のパトロンと付き合うようになる。彼の交友関係が派手になっていくのはこのころだ。彼には金を稼ぐ才能はなかったが、天才的な演出力、演技力があった。金を借りるために、理道は「自分が儲かっている」という演出を始めた。理道にとって、借金もまたステージだったのだ。高級車を何台も買い、大きなダイヤモンドのついた腕時計を巻いた。そうして借りた金を返すためにまた金を借り、困ったときは女性のパトロンを頼った。

 そのころに理道は回顧録を出版し、翌年には自ら監督と主演を務めて映画を撮る。この映画は完全に駄作で、彼の借金はさらに膨らんだ。

 映画の公開から一年後の一九八五年──理道が三十九歳の年──リドー魔術団は給料の不払いから解散し、彼と僕の母は離婚し、そして離婚後に僕が生まれた。

 その年、理道は一度死んだのだ。

 *

 「私はこれまでに、数多くの過ちを犯してきました。そのうちのいくつかはみなさまもご存じでしょう──」

 巨大な装置の中央にあるガラスの円筒の前に立った理道がそう口にする。観客席に緊張が走る。

「──ここ最近、私はずっと考えていました。|もう一度、自分の人生をやり直すことはできないだろうか、と。私はそのために、タイムマシンを作ることに決めたのです。そうです。みなさまが目にしているこの巨大な装置は、タイムマシンなのです! この中に入り、時刻を設定すれば、私は過去の好きな時間に飛ぶことができます──」

 観客席にどよめきが広がるが、理道は気にせず続ける。「──先ほど私はマジシャンの禁忌を冒すと言いました。まず、これから何が起こるか説明しましょう、、、、、、、。これから私はタイムマシンで過去へ飛び、それが嘘ではないという証拠をみなさまにお見せします。そして、私は過去への旅を何度か繰り返します、、、、、、。それらの奇跡のタネ、、、、、は、すべてこのタイムマシンにあります」

 *

  生まれる前に両親が離婚してしまっていたので、僕は父である理道のことをよく知らなかった。

 離婚後、母は理道と出会ったデパートの販売員に復帰した。十六歳年上の姉は、高校卒業後にマジック用品の実演販売を始め、休日はマジックバーや小さな劇場でショーをする生活だった。若いころの理道と同じだ──そう指摘すると姉は不機嫌になった。

 肝心の理道は離婚とともに姿を消した。

 しばらくワイドショーが彼の行方について騒ぎたてた。パトロンの女が匿っているという噂もあったし、暴力団と揉めて殺されたという噂もあった。海外へ逃亡したという噂もあれば、別名でまだマジシャンを続けているという噂もあった。タチの悪い借金取りが毎日のように自宅に来たせいで、僕たち一家は何度も引越しを繰り返したらしいが、幼かったので覚えていない。姉が理道を嫌いになったのは引越しと借金取りのせいらしい。離婚するまでは、姉は理道によく懐いていたと聞く。

 時は経ち、理道に代わって新しい若手のマジシャンたちがテレビに出るようになった。テレビで堂々と「竹村理道がすごいのは顔だけ」と口にするマジシャンもいた。ひとつの時代が終わったのだ。

 それからしばらくすると、今度は誰も理道の話をしなくなった。理道は過去の人になった。テレビでもてはやされ、自費で映画を撮って失敗し、借金をして消えていった。それは魔術団で彼が好んだ消失マジックとは違っていた。単に、人々の記憶から消えつつあったのだ。

 理道の娘であることを隠して活動していた姉は、スライハンドの技術で少しずつ仕事を広げ、企業の宴会や、デパートでのショーに出演するようになった。二十二歳で姉は実演販売を辞め、プロのマジシャンとして生きていくことに決めた。マジシャンとして姉の収入が安定し、実家の近くで一人暮らしを始めたころ、母はデパートの上司と再婚した。

 僕は九歳だった。

 行方不明になっていた理道から手紙が届いたのはそのころだ。僕はおぼろげながら、その日のことを覚えている。

 小学校から帰宅すると、玄関で母が手紙を持ったまま呆然と立ち尽くしていた。母の脇をすり抜け、僕は居間にランドセルを置いた。母はまだ動かなかった。僕が何か声をかけ、ようやく母は我に返った。夕方になると姉がやってきて、母から手紙を受け取った。読み終わると姉は手紙を破り、そのままゴミ箱へ捨てた。

「『迷惑をかけてすまなかった。俺は生まれ変わった。借金は返した。もう一度やり直したい』たしか、そんな内容だったよ」

 それから数年後に、僕があの日の手紙のことを聞くと、姉はそう答えた。「ああ、そういえば、ショーのチケットが入ってた。『もしその気があるなら、ぜひ観にきてほしい』って。行くわけないのに」

「どうして破り捨てたの?」

「覚えてないけど、再婚相手のお父さんに見せるわけにはいかないと思ったからじゃないかな。あ、もしかしたら腹が立ったからかも」

 とにかく、竹村理道は復活した。

 小さな劇場で行われた初回の公演は、かつてのファンで満席になった。評判はよかった。タイムマシンを使った今までにない新しいショーだという噂だった。次の公演は全五回で、それなりに大きな劇場だったが、発売日にチケットはすべて完売した。

 姉と僕はその最終公演を観にいった。

「ひとりのマジシャンとして気になったの。同業者の間でも、とても評判がよかったから」

 大人になってから僕が、理道のショーを観にいった理由について聞くと、姉はそう答えた。「もちろんあいつからもらったチケットじゃない。知り合いのマジシャンが手に入れていて、余ったからって譲ってくれたの。二枚あったんだけど、お母さんは『行きたくない』って言うから、仕方なくあんたを連れてったってわけ」

 二十二年も前の話だ。本当のところはわからないが、僕は姉が自分で買ったのではないかと疑っている。

 ともかく僕は、理道が姉に、公演前に、、、、仕掛けたマジックについて覚えている。

 僕たちが劇場へ行くと、入り口のあたりで若い女性に「ちょっと待ってください」と声をかけられた。

「どうかしましたか?」

 姉が怪訝そうに聞くと、女性は「突然すみません」と頭を下げた。「公演のスタッフをしている若林です。理道さんから、今日の公演にあなたたちが来るはずだと聞いていたんです。最前列をお二人分用意してあるので、そこで観てください」

「結構です」と姉は断った。理道に最終公演へやってくることを見透かされて、不機嫌になっているように見えた。

 若林という女性は険しい表情の姉に「実は、理道さんから言伝があるんです」と言った。「『私のマジックの仕掛けを見破って、恥をかかせたくないか?』とのことです」

「はあ?」

 見事に理道のマジックにかかってしまった姉は、「絶対に見破ってやる」と意気込み、僕と二人で最前列に座ることを決めたのだった。

 *

 「タイムマシン」を使った理道の最初のマジックは、観客席にいた男性をステージに上げるところから始まった。

 理道は男性に「何か私物を貸してください」と頼んだ。「ハンカチなどを持っていませんか?」

 男性は首を振り、それからポケットを探したが、財布しか出てこなかった。

「財布は少し危ないですね」と理道は困った顔をした。「わかりました。それなら、今あなたが着ている水玉のシャツはどうでしょうか?」

 突然の提案に戸惑いながら、男性はシャツを脱いで渡した。理道はそれを受け取ると、男性を客席に帰した。

「今、私は一枚のシャツを受け取りました。これを持ってタイムマシンに乗り、過去に戻りたいと思います」

 理道が水玉のシャツを大きく広げると、後ろの大型モニターにシャツを掲げた彼が映された。シャツをピンクの袋に入れ、理道は「タイムマシン」と呼ぶガラスの円筒に入る。

 すぐにステージの照明が落とされた。

 巨大な装置の中央、ガラスの中にいる理道だけが明るく浮かびあがっている。モニターに彼の姿が映った。彼が円筒の中にあるつまみを回すと、モニターの下部に映っていた現在時刻を示していた時計が巻き戻されていった。

 二十時七分、六分、五分、四分……

 十九時三十分、十八時、十七時、十五時……。

 十二時。

 時刻がその日の正午に設定されると、理道はつまみの横についていたスイッチを押した。それと同時に、巨大な装置から伸びていた配線がオレンジ色に点滅し、チッチッチッチッチ、と時計が時を刻む音がした。ガラスの円筒内で爆発が起こり、白煙とともに理道の姿が消え、すべての照明が消えた。

 そして、観客席から突然悲鳴が聞こえた。

 理道が消えて、悲鳴が聞こえるまでにたった十七秒。

 劇場で観たときは数秒ほどにしか感じなかったが、映像で正確に測ると十七秒だった。だがそれは、照明が消えてから悲鳴が聞こえるまでの時間で、理道の姿が見えなくなってからだと五十三秒になる。

 スポットライトが悲鳴の聞こえた一角に当てられる。

 深々と野球帽をかぶったジーンズ姿の男が立ち上がった。男はそのままステージに上がり、帽子を客席に投げた。

 理道だった。

 観客席はざわついている。理道が何をしたのか、いまいち理解できていないからだ。アシスタントからマイクを受け取ると、理道は右手に持っていた手持ちカメラを掲げた。

「私がタイムトラベルをした証拠として、過去で映像を撮ってきました」

 理道はモニターの下に、カメラから出したビデオテープを入れた。

 映像は、カメラを自分に向けた理道の顔のアップから始まった。「タイムマシン」の中で消えたときと同じシルクハットに、同じタキシードを着ている。

「現在、一九九六年六月五日十二時、つまり今日の正午です。タイムマシンに乗って、昼に戻って来ました」

 理道が劇場の入り口を映す。劇場前の時計は十二時を指している。外では日が照っており、映像を撮ったのが正午であることは間違いないように思える。

 理道が自分の右手を映し、彼がピンク色の袋を持っていることがわかる。そこには男性から受け取った水玉のシャツが入っているのだろうか。しかし、そのシャツは先ほどステージで受け取ったもので、昼の時点で彼が手にしているはずがない。

 理道はそのまま劇場の中に入り、ステージの裏手から天井裏に上がった。公演の準備をしていたスタッフに挨拶し、天井から吊るしてあった箱をたぐり寄せる。箱の中に袋の中身を入れたところで、映像が一度途切れる。

 観客席から再び驚きの悲鳴が上がる。

 映像にあった箱は、今もまだ劇場内の同じ場所に吊るされていたのだ。スポットライトが天井に当たる。その箱は、その日の公演中もずっとそこにあった。

 悲鳴が終わらないまま、映像が再開する。

 今度はかなり時間が進んでいる。

 すでに公演が始まっているようだ。ちょうど、ステージ上に立った理道が、淡々と鳩を出しているあたりだった。カメラはステージの様子をひとしきり映してから、突然向きを手前に変えた。

 先ほどより大きな悲鳴が上がった。

 モニターに、野球帽をかぶった理道が映しだされたのだ。

 つまり、この公演中ずっと、劇場内に理道は二人存在していたことになる。一人はタイムマシンに乗る前の理道で、もう一人はタイムマシンに乗って正午に戻ったあとの理道だ。観客席にいた理道は、野球帽姿でステージを撮影していたのだ。

 驚きの悲鳴が止まないうちに、ステージ上の理道が「天井の箱に注目してください」と言う。

 観客が一斉に真上を見る。

 箱が開き、そこから水玉のシャツがひらひらと落ちてきた。

「どうですか? これでこのタイムマシンが本物であると信じる気になりましたか?」

 *

 「シャツのトリックは簡単だよ」

 公演が終わったあと、姉はそう言った。「『タイムマシン』の中からステージ裏に消えたあと、アシスタントにシャツを渡して、天井の箱に入れてもらえばいい」

「でも、理道は正午の時点でシャツを持ってたよ」

「あの時点でシャツは持っていなかった。簡単な心理トリックね。袋には何も入っていなかったの。ステージで男性からシャツを預かって消えてから、アシスタントにシャツを渡しただけ」

「でも、客席の理道がステージ上の理道の公演を映している映像は? 理道はずっと、公演中あの席に座ってたんだよ」

「あの演出はなかなかオリジナリティがあってよかったと思う。でもそんなに難しくはないよ。映像内でステージにいる理道は偽者。要は、あらかじめ客席にエキストラを入れて映像を撮っておいたの。どのみち客席側は暗くて、画面にはほとんど映らないし」

「客席から理道が登場したのは?」

「マジシャンが大きな音を出すときは、かならず何かの意味がある。『タイムマシン』の中が爆発したあと、円筒からステージ下に飛び降りたってわけ。爆発音は円筒下の舞台装置が開閉する音を消すためのダミー。理道はそのあと裏手で衣装を替えて、通用口から通路を通って客席に座ったのね。野球帽をかぶった理道の座っていた席がスタッフ用のドアから近かったでしょ? 多分、あのあたりの席には仕込みの客が座ってて、スタッフ用のドアからこっそり席についた理道が、あたかも公演の最初からいたような演技をしたってわけ。これははっきりと断言できないけど、仕込みの客は悲鳴のタイミングを少し間違えたんじゃないかな。スポットライトが当たる前に悲鳴が聞こえたから」

 姉は正しかった。

 映像で確認すれば、悲鳴がスポットライトに先行しているのがわかる。

 爆発音から理道が客席に再登場するまではわずか五十三秒だ。その間に「タイムマシン」から消え、水玉のシャツをアシスタントに渡し、衣装を替えて野球帽をかぶり、カメラを受け取り、客席まで移動する。かなりの手際が必要になることは間違いない。

 客席に座って野球帽をかぶった理道がステージ上の理道を撮っている映像も、詳しく見ればそれが事前に撮られていた仕込みだとわかる。映像内のステージと、実際のステージには決定的な違いがあった。

 咳の音だ。

 実際の公演では、鳩を出したあと静まり返った観客席で、誰かが咳きこむ音が聞こえていた。だが、理道が用意した偽の公演映像にはその音がない。

 理道は自らの鳩出しによって観客席が静まり返ることを予測していた。だからこそ、あの場面を選んだのだろう。どんな人が客席にいようが、静寂には違いがない。だが、咳までは予測できなかった。それが動かぬ証拠だ。最初のマジックで、理道はタイムトラベルをしなかった。

「問題は、次のマジックね」

 姉はそう言って首を傾げた。「あれが、もし私の思いついた仕掛けだとしたら……正確には、タイムマシンが偽物だという前提で考えたとき、唯一合理的なトリックだとしたら……」

「したら?」

「竹村理道は天才だよ。マジシャン史上、最大の天才。こんな仕掛けを思いついて、かつそれを実行するなんて、天才かつ狂ってないと無理。もし彼が天才じゃないのなら……」

「のなら?」

 その次の姉の言葉を、僕は死ぬまで忘れないだろう。

「タイムマシンが本物だった。ただそれだけ」

 *

  理道は宣言通りマジックの説明、、をして、そして同じマジックを繰り返した、、、、、

「今回は最終公演なので、私なりに無茶をしたいと思います。今回は特別です。昨日までの公演とは違い、過去最大のタイムトラベルを実施します。今日、この公演にいらっしゃった紳士淑女のみなさまは幸運です。とある事情から、このマジックは一生に何度もできるものではないからです」

 理道はそう説明をしてから、再び「タイムマシン」の円筒内に入った。前回と同様につまみを握り、ひねっていく。

 一九九六年六月五日、二十時四十九分。

 理道が円筒に入った時刻を示す時計が巻き戻っていく。

 二十時四十八分、四十七分……。

 十九時、十六時、十二時、八時、〇時……。

 六月四日、六月三日、五月三十日、三月三日……。

 観客席から悲鳴が漏れる。モニターに映しだされた時刻が、加速度的に巻き戻される。

 一九九五年、一九九四年、一九九三年、一九八五年……。

 僕が生まれた年を超え、なおも時間が巻き戻る。

 一九七七年。

 そこで時計がようやく止まる。

 叫び声に近い悲鳴の中、理道がスイッチを押す。先ほどと同じ演出がなされるが、今度は次の理道、、、、がなかなか登場しない。

 劇場は数分間、暗闇に包まれたままだ。だんだんと観客の声も聞こえなくなってくる。

 しばらくの静寂ののち、ステージの脇からタキシード姿の白髪の男性が登場する。

 男性が中央に立ち、右手のカメラを掲げると、その意味がわかった観客から大きな悲鳴が聞こえた。

 モニターが白髪の男性を映す。そこには老人となった理道の姿があった。

「今回のマジックは長かった」

 老人の理道はそう口にした。「十九年ですから。このタイムマシンの欠点は、過去に戻ることはできても、未来に飛ぶことができない点にあります。私はただ、十九年の時が経つのを待つしかありませんでした」

 理道はカメラからビデオテープを取りだし、モニターの下に入れた。

「私がタイムマシンで十九年前に渡った証拠がここにあります。それをご覧に入れましょう」

 切り替わったモニターには東京駅の景色が映されているが、新幹線の形が今と違うし、人々の服装や髪型も過去のものに見える。ホームの向こうから歩いてきた初老の男性が「珍しいもの持ってるね」とカメラに向かって言う。「それ、カメラか?」

「そうです」と理道の声。「今日は何年の何月何日ですか?」

「ああ? そりゃ九月六日、火曜日午前十一時だよ」

「何年ですか?」

「昭和五十二年。変なこと聞くなあ」と、男性がにっこり笑う。「どこの出身だ?」

「実は未来からやってきたんですよ」

「いや、さっきの新幹線はひかり、、、だぞ。みらい、、、じゃない」

 カメラが男性の持っている新聞に寄る。一九七七年九月六日の日付と、本塁打世界新記録の王貞治に国民栄誉賞を与える、という一面記事が見える。理道が──少なくともこのビデオの撮影者が──十九年前にいるのは間違いなさそうだ。

 そのとき、突然カメラが下を向く。

 何かを見つけたのだろうか。撮影者が小走りになり、ホームの地面を映したカメラが激しく上下に揺れる。

「あの──」

 撮影者が声をかける。カメラは下を向いたままだ。「──竹村理道さん、ですよね?」

「そうだが……」

 男が、聞き覚えのある声で返事をする。

「私は未来のあなたです」

 また、二人の理道、、、、、だ。

 だが今度の二人目は、十九年前の理道、、、、、、、だった。

 *

  公演以来、姉は理道の演目「タイムマシン」の研究に夢中になった。理道の指示でスタッフが公演の撮影をしていたことは、彼女にとって幸運だった。いや幸運などではない。それすらも理道のマジックの一部だったのだろう。

 新しい発見があるたび、姉は僕にそれを話した。そのおかげで、僕も「タイムマシン」についてかなり詳しくなったつもりだ。オープニングの演出にすべての肝があること。最初の「タイムトラベル」は周到なフェイクであること。次の十九年の「タイムトラベル」は、理道が天才であるか、あるいは「タイムマシン」が本物であるか、そのどちらかしかありえないこと。

「タイムマシンが本物だったという説は、やっぱり私は信じない」

 はじめ、姉はそう主張していた。「だから私も十九年後には、理道の『タイムマシン』を再演できるはず」

 僕はそのとき、姉が「タイムマシン」を再演するということの意味をよくわかっていなかった。マジシャンとしての彼女と、姉としての彼女を別のものとして考えていたのだ。「タイムトラベル」はただの旅行ではなかった。そして、ただのマジックでもなかった。

 *

 「──八歳のとき、弟を近所の東台公園に置いたまま帰宅して、母さんに怒られた。すぐに公園に戻ったら弟がいなくなっていて焦った。心配した母さんもやってきて、二人で公園中を捜し回ったんだ。たしか、この話は誰にもしていない」

 どこか静かなところへ移動したようだ。映像はなく、音声だけが聞こえる。特徴的な理道の低い声だ。内容から、過去へタイムトラベルした方の理道だとわかる。

「それで、弟はどこにいた?」

 過去の理道が聞く。

「それが、覚えていないんだ。覚えているのは、その翌日に母さんが自殺したことだけ」

「その通りだ」ともうひとりの理道が同意する。「俺も覚えていない。翌日母さんが死んだとき、俺が弟を公園に置き去りにしたせいで母さんは死んでしまったのだと後悔した。ああ、結局弟はどこにいたんだろうか。今となってはわかったところで意味はないが」

「一度、弟に直接聞こうと思った。電話をしようか迷ったが、できなかった。私はずっと、弟に嫌われていたから」

「そうだ。その通り。電話しようと思ってやめたことがあった。どうしてそんなことを知っている?」

「それは、私が君の未来の姿だからだ」

 話し相手の理道はまだ三十一歳だ。奇術大会で優勝し、テレビで人気になり、魔術団を結成しようと準備をしている。姉は八歳で、僕はまだ生まれていない。「わかった。君の勝ちだ。俺にはどういうタネなのか、まったく想像もつかない」

「タネはない。タイムマシンを発明しただけだ」

「どっちでもいい。とにかく、さしあたって、、、、、、君が未来の俺だと認めよう。カメラを回していいよ。映像が必要なんだろう?」

 映像が復活する。十九年前の、まだ若い理道がこちらを見ている。

「そうだ、映像が必要だ」

 撮影者はカメラを回転させ、自分の顔を映す。間違いなく、五十歳の理道だ。理道が過去の理道と話している。そうとしか見えない。

「そうだな、では、この先の十九年で世界がどうなるのか教えてくれ」

 三十一歳の理道が聞く。

「チェルノブイリで原発事故が起こる。飛行機が何回か墜落する。昭和天皇が崩御して、平成という時代が始まる」

「どういう字だ?」

「平和の平に、成金の成だ」

「なるほど。冷戦はどうなる?」

「ソ連が崩壊して、冷戦は終わるよ」

 ふむふむ、と過去の理道がうなずく。「ちなみに、十九年後の俺は、何をしている、、、、、、、、、、、、、、?」

「マジシャンをしている。芸能人じゃない」

「君が俺ならわかっているはずだが、テレビの仕事は魔術団結成のためにやっている。芸能人になりたかったわけじゃない」

「そのはずだったが、君は──つまり俺は、来年プロデューサーから映画主演の話をされて心が揺らぐ」

「映画だって? 本当か?」

「本当だ。そして映画は失敗する。ちなみに、魔術団も失敗だ。解散し、家族を失い、借金だけが残る。それが俺の、あるいは君の人生だ」

「信じられないな」

「だが、事実だ」

 カメラの前の理道は腕を組み、何かを考えはじめる。しばらくそうしてから彼は「おかしいな」とつぶやいた。「俺は君から聞いて、映画や魔術団が失敗すると知っているし、家族に逃げられるとも知っている。そしてこれまでの経緯から、その予言をある程度信用している。だが、もしタイムマシンが本物なら、君のところにも十九年前、未来の俺がやってきたのではないか? 君は失敗するとわかっていて映画を撮ったのか? 返せない金を借りたのか? すべてわかっていて家族に逃げられたのか?」

「いや」と撮影者の理道が答える。「私のところには誰も来なかった。正確に言うと、私と君は別の並行世界、、、、にいるらしい。私の世界の私を救いにきた私はいなかった。君は幸運だ。私が救いにきたのだから。失敗する映画を撮る必要もないし、家族を失う心配もない」

 *

  姉の解説はこうだ──十九年前の時点で、理道はすでにこのマジックの準備を始めている。日付がわかるよう新聞などを映しながら東京駅を撮影し、三十一歳の時点で自分のインタビューを撮影、録音しておく。十九年後の理道と会話をしているように見せるため、会話に適度な間を開けておく。後から自分の音声を乗せて、カメラを回転させたあとの五十歳の顔を撮影し、二つの映像をコマ単位で組み合わせる。それによって、二人の理道が会話する映像が完成する。この技術自体はありふれている。テレビで仕事をしていた理道なら知っていて当然だ。

 驚くべきは「映画も魔術団も失敗する」という発言だ。理道は十九年前の時点ですでに、何もかもがうまくいかなくなることを知っていた。あるいは、そうなるかもしれないと予期していた。そうでなければ、あのインタビューを十九年前に撮ることができた理由がわからない。

 理道はたった一度のマジックのために、自らの人生を台無しにしたのだ。いや、人生を台無しにすることで、たった一度のマジックを成功させたのだ。常人に、そんなことができるだろうか。

「十九年前の理道の映像が合成だったという可能性は?」

「その可能性も考えたけど、口の動きまで合わせるのは技術的に無理」

「なるほど」

「このマジックの仕掛けは彼が三十一歳のときから始まってるの。十九年前に『タイムマシン』の計画をした。そして、十九年かけて予言の通りになるように自分の人生を失敗させた、、、、、。成功は狙ってできるとは限らないけど、失敗ならかならず成功する、、、、、、、、、、、、

「あるいは、本物のタイムマシンを開発した」

 僕がそう付け足すと、姉は首を振った。「違う。それはマジックじゃない。それに、もしタイムマシンが本物だとすれば、大きな矛盾が生じる」

「矛盾?」

「理道の『タイムマシン』は片道切符だった。だからこそ、過去に飛んだあと、ステージに再登場したとき、十九年が経過して老人になっていた。それに加えて、理道は『タイムマシン』が並行世界に飛んだのだと主張していた。そうだとしたら、一度並行世界に飛んだあと、理道はどうやってこの世界、、、、に戻ってきたの? 映像内の若い理道は、この世界で何をしているの?」

「どういうこと? 並行世界だの、この世界だの、僕には難しくてわからない」

「わからないなら別にいいんだけど。とにかく矛盾があるってこと」

 僕は「矛盾」に関する姉の説明を、未だに理解していない。

 考えようとすると頭がこんがらかってしまうのだ。何度か、わかったような気がしたことがあったが、次の日には何がどうわかったのかわからなくなる。二十年以上経っても、よくわからずにいる。

 あの公演から随分と時が経った。

 姉は今もマジシャンをしているが、僕は郵便局員になった。休日なんかに五歳の娘の前で、高校時代に部活で学んだ簡単なマジックを見せるくらいで、マジックとは距離を置いていた。リングをつなげたり、コインにタバコを貫通させたり、選んだトランプを当てたり、そういうありふれたやつをやるだけだ。

 僕はDVDに焼いた公演のビデオの再生を止めて、劇場に向かうため、自宅を出る準備をした。

 半年前から──もっというと二十二年前から、この日を楽しみに、そして何より恐れていた。

 今日、ついに姉が理道の「タイムマシン」を再演するのだ。

 *

  驚きではなく、悲鳴だった。泣きはじめる観客もいた。ステージ上には十九歳加齢して、すっかり老人になった理道がいた。

「紳士淑女のみなさん、どうか悲しまないでください。私の開発したタイムマシンは片道切符なので、私は十九年間、このときを待たねばいけませんでした。十九年、それは長い時間でした。ですが、私はあの世界、、、、の竹村理道を救ってきたのです。彼はきっと、私のような過ちは犯さないでしょう。家族を大事にし、マジシャンとして幸福な人生を歩むでしょう」

 そこからの三十分は伝説となっている。

 観客席から嗚咽の混じった悲鳴が聞こえる中、老人となった理道は三度目のタイムトラベルを開始する。

 モニターに表示された行き先は四十二年前、彼の母が自殺した日の前日だった。

 観客たちは堪えきれず「やめろ!」と叫ぶ。老人の彼が四十二年の片道タイムトラベルをすれば、もう戻ってこられないことは明白だったからだ。

 理道は「弟を見つけて、母を助けてきます」と口にして、不敵に笑い、観客席を眺めまわした。

 この視線だ。この視線で、彼はすべてを手にし、すべてを失ったのだ。

 そして、永遠に消えようとしていた。

 理道がスイッチを押し、四十二年の旅が始まった。

 爆発音とともに、理道はどこかに消えてしまった。

 そしてそのまま、二度と現れなかった。

 *

  警察が正式に捜査を始めたのは公演の三日後だった。

 理道が消えた。それはマジックの中の出来事ではなく、現実の出来事だった。公演スタッフの証言によると、二度目の十九年前へのタイムトラベルから、すでに台本を逸脱していたらしい。彼がどうやって十九年前の映像を手に入れたのか、本当に四十二年前に行ってしまったのか、知っている者は──少なくとも知っていると証言する者は、誰もいなかった。

 公演前に最前列のチケットをくれた若林という女性が、理道の消失から一カ月後に、公演の様子を収めたビデオのダビングをくれた。姉は一週間仕事を休み、そのビデオを見続けた。

 理道の「タイムマシン」が本物だったのか、日本中で話題になった。公演から二十二年が経った今でも、何年かに一度話題が再燃する。メタマテリアルやら重力場理論やらを専門としている科学者や、宇宙人と会ったことがあると主張する怪しげなタレントが、理道の公演映像を分析しながらタイムトラベルの可能性を論じていたりする。

 理道は今も見つかっていない。生きた姿も、死体も見つかっていないし、手がかりすらない。

 ただひとり、ずっと姉だけが理道の幻影を追い続けていた。そして今日、姉は彼に追いついた。

 ステージの脇から老婆が登場し、劇場内に悲鳴が響く。

 姉の「タイムマシン」再演は終盤に差しかかっていた。

 姉は理道のステージを完璧に再現した。劇場で、映像で何度も見ていた僕にはよくわかる。二度目のタイムトラベルで姉は二十二年前に飛び、理道の公演らしきもの、、、、、と、その後の彼女のインタビューを撮影した。再びステージに戻ってきた姉は、すっかり老婆の姿になっていた。特殊メイクの技術が進歩しているという話は聞いたことがあったが、姉の老婆メイクはどこからどう見ても本物にしか見えなかった。背中も少し曲がっているし、声も嗄れている。この日のために二十二年間を費やしただけのことはある。

 そう、これは特殊メイクなのだ。

 姉が本当にタイムトラベルをした可能性はない。なぜならこの「タイムマシン」には矛盾があるからだ。僕はよくわかっていないが、姉はずっとそう言っていた。

「紳士淑女のみなさま」

 ステージ上の姉が言う。「私は竹村理道というマジシャンが消えてから二十二年間、彼の最後のマジックについて考え続けてきました。そして、ようやく彼のマジックを解き明かして今日をむかえました。今の私には断言できます。彼は天才でした。だから、彼に『タイムマシン』を演じさせてはならないのです。彼を助けるため、私はもう一度タイムトラベルをします。そして、『タイムマシン』の初演を防ぐために、三十一歳の彼と会ってきます」

 観客席から誰かの泣き声が聞こえる。

 止まらなくなった嫌な汗が、僕の頬を伝う。

「タイムマシン」に入った姉が一九七七年に時刻を設定し、「行ってきます」と口にする。

 僕は隣に座った母と一緒になって「やめて!」と叫んでいた。他の観客も一緒だ。劇場内の全員が、タイムトラベルを防ごうと必死になっていた。

 ダメだ、姉さん、タイムマシンを起動してはならない。それが本物であっても、偽物であっても。

 姉はにっこりと微笑んでスイッチを押し、爆発音とともに姿を消した。


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