シンパサイザー

【今年必読の一冊】日経新聞、読売新聞に書評掲載! 話題のスパイ・サスペンスにしてピュリッツァー賞受賞長篇『シンパサイザー』、訳者あとがきを特別公開

ピュリッツァー賞、アメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)最優秀新人賞をはじめ、文学賞八冠に輝いた驚異の大作、ヴィエト・タン・ウェン『シンパサイザー』。訳者の上岡伸雄・学習院大学教授による「訳者あとがき」を特別公開します。


【注意:終盤のストーリー展開に触れる部分があります】

 アメリカの現代文学や文化を研究してきた者として、ヴェトナム戦争には高い関心を抱いてきたつもりだが、よく考えれば私のおもな情報源はアメリカ人の目を通したヴェトナム戦争の表象だった。ティム・オブライエンやトバイアス・ウルフといった帰還兵の著作、そしてオリヴァー・ストーンをはじめとする監督たちによるヴェトナム戦争映画。その後、ラン・カオやリン・ディンといったヴェトナム系アメリカ人の作家が活躍するようになり、ようやくヴェトナム側の物語が知られるようになってきたが、それ以前のアメリカ文学や映画において、個人としてのヴェトナム人に目を向けた作品、ヴェトナム人の心情にまで深く踏み込んだ作品は非常に少なかったと言える。

 本書の作者、ヴェトナム系アメリカ人のヴィエト・タン・ウェンは、少年時代、そのことに居心地の悪い思いをしたという。『地獄の黙示録』や『プラトーン』といったヴェトナム戦争映画を観ていて、ヴェトナム人が殺されると、アメリカ人の観客が喝采する。しかしウェンは、自分が殺される側の人間だと意識せずにいられなかった。こうした映画で描かれるヴェトナムは、両親から聞くヴェトナムの話ともかなり違うように思われた。ヴェトナム戦争の実態をヴェトナム人側から描きたい。長じて文学研究者となったウェンはそういう思いを持ち続けた。それを実現させたのが本書、『シンパサイザー』である。

 語り手でもある主人公の設定がまず心憎い。南ヴェトナムの秘密警察に入り込んだ北ヴェトナムのスパイ、いわゆるモグラ。秘密警察の長官である「将軍」に部下として仕えながら、秘密警察の活動を北ヴェトナムに知らせている。彼はフランスの宣教師がヴェトナム人の少女に産ませた私生児であり、語学の天才で、英語をネイティブなみに操る。こうしたことから主人公のアイデンティティの曖昧さ、物事を見るときの二重性が生じると同時に、スパイ小説としても評価されるほどのスリリングなストーリーが生まれたのだ。

 物語の始まりは1975年4月、ヴェトナム戦争終結直前のサイゴン。北ヴェトナム軍が間近に迫り、将軍はサイゴンを脱出する決意を固める。主人公は将軍一家がアメリカに渡るための手配を整えつつ、スパイとしての上司であるマンにそのことを報告。マンからは将軍と一緒にアメリカに渡り、今後も将軍の動向を報告するようにと指示を受ける。主人公は親友のボンとその妻子もアメリカに渡れるように手配するが、ボンの妻子はサイゴンを出るときの銃撃戦で死んでしまう。傷心のボンとともにアメリカに渡った主人公は、以前留学していた大学の事務職を得、日系アメリカ人の恋人ができるとともに、ヴェトナム戦争映画の製作に関わることにもなる。さらに将軍によるヴェトナムへの反攻計画に巻き込まれ……。

 こうした物語から浮かび上がってくるのは、言うまでもなくヴェトナム人側から見たヴェトナムであり、ヴェトナム戦争である。ヴェトナムは長く中国、フランス、日本などに支配されてきた国で、第二次世界大戦後、ようやくホー・チ・ミンがヴェトナム民主共和国の独立を宣言した。しかし、それを望まないフランスとアメリカによって南ヴェトナムが無理に作り出され、アメリカの物質的援助によって生かされてきたのだ。その終わりを予感する南ヴェトナムの人々の絶望、アメリカに裏切られたという思い、アメリカ的物質主義の味を占めてしまった退廃的な文化。主人公は共産主義こそヴェトナムを救う道だと信じるようになったわけだが、アメリカ文化にも惹かれているし、間近に暮らす南ヴェトナムの人々にもシンパシーを感じている。タイトルは共産党の同調者という意味だけでなく、両サイドにシンパシーを抱いてしまう彼の性格も表わしているのだ。そして、物語の後半では、北ヴェトナムの理想が劣化していったことも生々しく描き出す。複雑なプロットを紡ぎつつ、物事の裏に潜むさまざまな意味を現前させる描写力、言葉の力。作者の力量は並々ならぬものがある。

 タイトルに二重の意味が込められているように、本書は両義的な言葉に満ちており、作者が類まれな言語感覚の持ち主であることを示している。知性のない情報将校とか、独創的とは言えない原罪といった洒落が随所にあるほか、フリー(自由/無料)、センテンス(判決/文章)など、二重の意味を持つ言葉が効果的に使われる。また、私生児(bastard)でモグラ(mole)である主人公は、こうした言葉の複数の意味についてもたびたび考察する。ヴェトナム人に関して偏見たっぷりの論考をする博士の名がリチャード・ヘッドなのは、Richardの愛称がDickであるため、dickhead(愚か者)という意味が込められており、強烈な皮肉となっている。

 こうした両義的な言葉の極めつきがrepresentであろう。マルクスは、抑圧された階級はリプリゼントされないと言ったのだが、これは代表者を出せないという意味でありながら、表現されないという意味にも解され得る。ヴェトナム人を見てみれば、彼らを表現するのは欧米人による映画や小説ばかり。これでヴェトナム人が正しく表現されるはずがない。主人公はアメリカ人の監督によるヴェトナム戦争映画製作に関わり、ヴェトナム人が正しく表現されるように意見を言うのだが、監督が象徴するアメリカの商業主義にはねのけられる(ちなみに、この監督はフランシス・フォード・コッポラがモデルで、映画『地獄の黙示録』が作られたときのエピソードが活用されている)。主人公の正しい表現を求める格闘は、そのまま作者の人生における格闘と重なっているのだ。

 表現の問題もさることながら、本書が突きつけるのは道徳的なジレンマの問題である。主人公は南ヴェトナムの人々の信頼を勝ち得るために、しばしば道徳的に際どい選択を迫られ、自己の信念や倫理観に反する悪に手を染めることになる。彼はどうすべきだったのか、読者はいろいろと考えさせられるはずだ。そして主人公は、最後には北ヴェトナムの再教育キャンプに送られ、自分が信じてきた革命の実態も見せつけられる。彼が最後にたどり着く境地も、いわば両義的な言葉。「独立と自由以上に大切なものは何もない(Nothing is more precious than independence and freedom.)」というホー・チ・ミンのスローガンが、「〝何もない〟が独立と自由以上に大切である」という意味に変わってしまう。こうした大きな真理の虚構性に気づいてしまったわけだが、これは決して虚無ではない。むしろその虚構性を受け入れたうえでの生き方を模索しているのである。作者は続篇で主人公のその後の人生を描く予定だというが、彼がどのように生きていくのか、その続篇が待ち遠しくてならない。

 いずれにしても、本書の魅力と価値はいくら語っても語り尽くせないものがある。ヴェトナム人の側から、このスケールでヴェトナム戦争を描いたという貴重さはもちろん、ユーモアに溢れた文章やエピソードの面白さ、失われたヴェトナムへの郷愁、語り手である主人公の人物像(私生児として育った辛さや母への愛)など、枚挙にいとまがない。間違いなく言えるのは、『シンパサイザー』が多様な側面を持つ傑作である、ということだ。多くの日本の読者がこの小説を(小説として)楽しみつつ、ヴェトナム戦争について──いや、戦争そのものについて、あるいは人間そのものについて──深く考えるきっかけにしていただけたら、訳者としては望外の幸せである。

 ここで作者のヴィエト・タン・ウェンについて簡単に解説しておこう。ウェンは1971年、ヴェトナムのバンメトート生まれ。北ヴェトナムが南ヴェトナムを掌握した75年、彼は家族とともにボートでグアムへ渡り、そこからアメリカに逃れた(このときの記憶はほとんどないという)。1978年からはカリフォルニア州のサンノゼで暮らし、両親は食料品店経営で生計を立て、彼と兄とを大学に送った。彼はカリフォルニア大学バークレー校で英文学と民族研究を学び、英文学で博士号を取得。南カリフォルニア大学でアメリカ研究と民族の教職を得て、現在も教えている。研究者としては、アジア系アメリカ文学の研究書があるほか、昨年、Nothing Ever Diesという本を出版。これはヴェトナム戦争の記憶と表象をめぐる論考であり、全米図書賞の候補に残るなど、高い評価を受けた。

 小説家としては、2015年に出版した本書『シンパサイザー』がデビュー作。アメリカでベストセラーになるとともに、すでに数カ国語に訳され、世界じゅうで注目を集めている。本書で、いわゆる主流文学作品に贈られるピュリッツァー賞と、推理小説に贈られるアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)最優秀新人賞を同時受賞したというのも、いかにこの作品が文学としての深さと面白さを兼ね備えているかの証左と言えるだろう。続いて今年2月、短篇集のThe Refugeesを出版。13歳のときにボートピープルとしてヴェトナムを脱出し、船中で2歳年上の兄を失った女性が兄の幽霊に憑かれる物語、“Black-Eyed Women”(黒い目の女)をはじめとして、ヴェトナムからの移民経験に基づいた作品が中心である。どれも異なる文化の衝突が大きなテーマであるとともに、一人ひとりの人生が切なく心に迫ってくる秀作揃い。ウェンはいままさに脂が乗った作家である。

 翻訳の出版に当たって最も感謝したいのも、作者のヴィエト・タン・ウェン氏である。2017年3月、訳者はロサンゼルスにウェン氏を訪ね、シルヴァーレイクのカフェでインタビューさせていただいた。ウェン氏は多忙ななか時間を割き、こちらの質問ににこやかに答えてくれて、楽しい一時間弱を過ごすことができた(なお、姓のNguyenは通常「グエン」と表記されるが、アメリカではもっぱら「ウェン」と発音されるとのことで、今回の表記もそれにならった)。ウェン氏によれば、両親はカトリック教徒の反共主義者だったが、彼自身は子供の頃から懐疑主義者だったとのこと。宗教に対してもイデオロギーに対してもアンビヴァレントな目を持ち続け、自分で確かめたいと研究の道に進んだことが、この傑作を生む原動力になったのだ。続篇となる長篇第二作では、同じ主人公のヴェトナム脱出後を描くことになるそうだが、ピュリッツァー賞受賞後はイベントやインタビューで忙しく、なかなか執筆に時間が取れないと嘆いていた。ウェン氏が執筆に専念され、さらに傑作を生み出し続けることを、訳者としても願ってやまない。

2017年7月17日


【単行本・文庫同時発売! 好評発売中】
『シンパサイザー』
ヴィエト・タン・ウェン、上岡伸雄訳、2017年8月24日発売

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