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【試し読み】チャーリー・カウフマン監督映画原作『もう終わりにしよう。』不穏さ漂う、会話劇スリラー

 カナダ人作家イアン・リードのスリラー『もう終わりにしよう。』(原題:I'm Thinking of Ending Things)が、7月のハヤカワ・ミステリ文庫より刊行されました。

イアン・リード/坂本あおい訳『もう終わりにしよう。』

カバーイラスト:小幡彩貴/カバーデザイン:早川書房デザイン室

「全編不穏な空気」「ぞわっとするサイコスリラー」「言動がヤバイ」などタイムラインをざわつかせている本作。ついに、チャーリー・カウフマン監督による、Netflixでの映画化作品が公開されました!!

映像公開前に原作を読んでいただいた方からは、「一体これを、どう映像化するのか?!」という声が続出しております。

 映画をみた後に混乱している方、映画の前に原作を読もうか迷っている方に向けて、冒頭部分を公開いたします。続きを読むかは、あなた次第。

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もう終わりにしようと思ってる。
 いったんそんな考えがうかぶと離れない。取りついて、居座って、それで頭がいっぱいになる。自分ではほとんどどうしようもない。本当に。考えは消えてくれない。嫌だろうとなんだろうと、頭にある。食事のとき。ベッドに入るとき。寝ているとき。目を覚ましたとき。つねにある。つねに。
 前から思っていたわけじゃない。考えとしては新しい。でも、同時に古い感じもする。いつ生まれたのだろう? 自分で考えたのではなくて、すでにあった考えを頭に植えつけられたのだとしたら? 語られない考えというのは独自のものではないのだろうか? 自分でもじつは前からわかっていたのかもしれない。どのみちこういう終わりを迎える運命だったのかもしれない。
 前にジェイクは言っていた。「どう行動するかより何を考えているかのほうが、真実や現実に近いことがある。人は好きなことが言えるし、好きなように行動ができるが、考えはごまかせない」
 考えはごまかせない。そして、わたしの考えていることが、これ。
 だから不安になる。心から。わたしたちにどんな結末が訪れるのか、わかっていて当然だったのかもしれない。結末はそもそも最初から書いてあったのかもしれない。

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 道はほぼがらがら。のどかな場所だ。なんにもない。想像していた以上に。見るものはたくさんあるけれど、人はあまりいないし、建物や民家もあまりない。大空。木々。草地。柵。道路に、砂利の路肩。
「コーヒー休憩にする?」
「たぶん平気」わたしは言う。
「最後のチャンスだ。この先は本当に農場しかなくなる」
 今から初めてジェイクの両親に会う。というか、向こうについたら会う。ジェイク。わたしの彼。彼になってそれほど長くはない。今回がふたりの初の遠出、初の長いドライブで、だからこんなふうに懐かしい気持ちになるのはおかしい──ふたりの関係、彼のこと、わたしたちのことで。わたしは今から起こることに胸ふくらませ、わくわくしていいはずだ。でも、そんな気分じゃない。ちっともそうじゃない。
「コーヒーも食べ物もいらない」わたしはあらためて言う。「夕食までお腹をすかせておきたいの」
「いわゆるご馳走は出ないと思うよ。このところ母さんは疲れてるから」
「だけど迷惑じゃないのよね? わたしが訪ねていっても」
「もちろん、喜ぶよ。喜んでるよ。両親はきみに会いたがってる」
「ほんと、家畜小屋しか見あたらない。冗談抜きで」
 ここ何年かで見たより多くの家畜小屋を今回のドライブで見た。もしかしたら人生で見たより多いかもしれない。全部おなじに見える。牛がいて、馬がいて。羊。草地。そして家畜小屋。空はこんなにも広い。
「このあたりの幹線道路には照明がないのね」
「道を照らすほど車が通らないから」彼が言う。「もう気づいてると思うけど」
「夜は真っ暗でしょうね」
「ああ、真っ暗だ」

 実際より長いことジェイクを知っている気がする。実際は……一カ月? 六週間か、たぶん七週間? 正確にわかってるはずなんだけど。とりあえず七週間ということにしておこう。ふたりには本物の結びつきがある。めったにないような強い絆で結ばれている。こんな経験はわたしには初めて。
 ジェイクのほうに体を向けて、シートに左脚を持ちあげてクッション代わりに自分の下に敷く。「それで、わたしのことはどの程度話したの?」
「うちの親に? それなりに」彼は言い、ちらりとこっちを見る。その眼差しが好き。頬がゆるむ。わたしはすごく彼に惹(ひ)かれている。
「何を話したの」
「ジンを飲みすぎるかわいい娘(こ)と出会ったって」
「うちの親は、あなたがだれか知らない」わたしは言う。
 ジェイクはジョークと思って聞いている。でも、ちがう。うちの両親は彼の存在をまったく知らない。ジェイクのことは言ってないし、だれかと知り合った話もしていない。いっさい。何かしら話そうと思ってはいる。その機会は何度かあった。ただ、何かを話すほどの確信が持てなかった。
 ジェイクは物言いたげな顔をして、思いなおす。手をのばして、ラジオの音量をあげる。ほんの少し。音楽を流している局がないか何度か試してみたけれど、見つかったのはカントリー専門の一局だけだった。古い歌だ。ジェイクは小声でハミングしながら曲に合わせて首を動かしている。
「歌を歌うのを初めて聞いた」わたしは言う。「なかなか見事な鼻歌じゃない」
 うちの両親がジェイクのことを知ることは、絶対にないと思う。今も、あとになってからも。ジェイクの実家の農場へと向かう人気(ひとけ)のない田舎の街道を走りながら、わたしはそのことを考えて悲しくなる。自分がわがままで勝手に思える。思っていることをジェイクに伝えるべきだ。だけど、とっても切りだしにくい。不安や迷いを口にしてしまったら、もう後もどりはできない。
 だいたい心は決まってる。終わりにするのはほぼ確実。それを思うと、彼の両親に会うのも気が楽だ。どんな人たちなのか興味があり、ただしその一方で、今はうしろめたさも感じる。ジェイクからすれば、実家の農場を訪ねるのはわたしが積極的な証拠で、この先、付き合いが進展するものと思っているにちがいない。
 彼はすぐそこ、わたしのすぐ横にすわっている。何を考えているんだろう? 彼は何ひとつ知らない。簡単にはいかないだろう。彼を傷つけたくはない。
「どうしてその歌を知ってるの? それに、さっきもこの曲が流れなかった? 二回くらい」
「カントリーの名曲だし、僕は農場育ちだからね。当然知ってるよ」
 すでに二度流れたことについては、否定も肯定もしない。一時間に二度もおなじ曲をくり返す局がある? わたしはラジオはもうあまり聞かなくなった。最近はそんなものなのかもしれない。それがふつうなのかも。わたしには知りようがない。あるいは、この手の古いカントリーはわたしには全部おなじに聞こえるだけかも。

 最後に遠出のドライブをしたときのことを何ひとつ思いだせないのはなぜだろう。いつだったかも憶えてない。わたしは窓の外をながめつつも、とくに何かを見てはいない。車に乗っている人のやるただの暇つぶし。車のなかからだと、何もかもが猛スピードで流れ去る。
 とても残念だと思う。ここの景色についてジェイクは事細かに語って聞かせてくれた。この風景が大好きなのだ。離れるたびに懐かしくなるんだとか。とりわけ草地と空が。美しくてのどかな景色なのはまちがいない。ただし、走ってる車からじゃよくわからない。わたしはがんばってできるかぎりを目におさめようとする。
 母屋の基礎しか残っていない荒れた農場の前を通り過ぎる。十年ほど前に火事で焼けたのだとジェイクが教えてくれる。母屋の奥にはぼろぼろの家畜小屋、前庭には遊具のブランコがある。ただしブランコは新しく見える。古くて錆(さ)びついているわけでもなく、風雨で傷(いた)んでもいない。
「あの新しいブランコはなんでなの?」わたしは尋ねる。
「え?」
「あの火事になった農場の。もうだれも住んでないのに」
「寒かったら言って。寒い?」
「平気」わたしは言う。
 窓のガラスはひんやりと冷たい。頭をあずける。エンジンの振動や道のでこぼこが、ガラスを伝って感じられる。脳への優しいマッサージ。催眠術のよう。
〈電話の人〉について考えないようにしている話は、ジェイクにはしない。〈電話の人〉や留守電のメッセージのことはいっさい考えたくない。今晩は。それに、窓に映る自分を見ないようにしていることも、ジェイクには言いたくない。わたしにとって今日は鏡なしの日。ジェイクと出会った日といっしょで。そうした考えを、わたしは胸にしまっている。
 キャンパスのパブの雑学(トリヴィア)ナイト。わたしたちが会った晚。構内のパブはわたしが入り浸るような場所じゃない。学生じゃないから。もう今は。あそこにいると老けた気分になる。パブで食事をしたことは一度もない。出されるビールは埃っぽい味がする。
 あの夜は、出会いは期待していなかった。わたしは友達とふたりで席にいた。といっても雑学ゲームに真剣に参加していたわけじゃない。ふたりでピッチャーをシェアしながらおしゃべりをしていた。
 キャンパスのパブで会おうと友達が提案したのは、わたしに出会いがあるかもしれないと考えたからだと思う。とくに何も言ってなかったけれど、そんな目論みがあったにちがいない。ジェイクとその仲間はわたしたちの横の席にいた。
 雑学はわたしの興味の対象じゃない。面白くないとは言わない。趣味からははずれるというだけで。わたしはどちらかというと、もっとまったりした場所にいくか、家で過ごしたいタイプだ。家で飲むビールはまちがっても埃っぽくない。
 ジェイクの雑学チームの名前は〈ブレジネフの眉〉だった。「ブレジネフってだれ?」とわたしは質問した。店内は騒々しくて、音楽に負けないように、おたがいほとんど叫ぶようにしてしゃべった。すでに二、三分ほど会話がつづいていた。
「冶金の仕事をしたソ連の技術者だ。停滞の時代。巨大な毛虫を眉毛にくっつけてた」
 そう、それ。ジェイクのチーム名。ウケを狙いつつ、それとなくソ連共産党の知識をひけらかしている。なぜだかわたしはそういうことに無性に腹が立つ。
 チーム名というのはだいたいがそんな調子だ。そうでなければ露骨に性的な含みを持たせるか。べつのあるチームは、〈外出し上等!〉という名前だった。
 わたしは雑学はあまり好きじゃないとジェイクに伝えた。こういう場所での雑学は。彼は言った。「細かすぎてくだらないこともある。やる気のなさを装った妙な塩梅の競争心の共存だ」
 ジェイクはとくに目立つタイプではない。おもに歪(いびつ)さのせいでハンサムに見える。あの晩、最初に目に留まったのはべつの人だった。でも一番興味を引いたのは彼だ。完璧な美しさにはあまりそそられない。チームに答えをあてにされて無理やり引っぱってこられたといった感じで、彼はあまり周囲に溶け込んでいるようには見えなかった。わたしはたちまち気を引かれた。
 ジェイクは長身で、傾いていて、均整が取れていなくて、頬骨がごつごつしている。それに、ほんの少しやつれた感じがする。わたしはひと目で彼の骨ばった頬骨が気に入った。栄養不良気味の見た目を補うように、唇は赤みが濃くて丸みがある。とくに下唇は分厚く肉感的で、ぷっくりしている。髪は短くぼさぼさで、片側が長いのか髪質がちがうのか、頭の左右をべつのヘアスタイルにしているように見えた。髪の毛は汚くもなく、洗いたてでもなかった。
 ひげはきれいに剃ってあり、細縁のメガネをかけ、右のつるに手をあててよく無意識に位置を調整した。人差し指でブリッジを押しあげることもあった。ほかにも気づいた癖がある。何かに集中していると、手の甲のにおいを嗅いだり、嗅がないまでも鼻のそばに持っていったりするのだ。今もよく見かける。服装は、たしかグレーか青の無地のTシャツにジーンズだった。Tシャツは何百回も洗濯したように見えた。彼は頻繁に瞬きした。照れ屋なのがわかった。ひと晩じゅうとなりの席にいながら、向こうからひとことも声をかけてこない可能性もあった。一度、笑いかけてはきたけれど、それで終わり。彼に任せていたら、わたしたちは絶対に知り合わなかった。
 話しかけてくる気配がないので、わたしのほうから言った。
「あなたたち、なかなかやるじゃない」最初にジェイクにかけたのはそんなような言葉だった。
 彼はビールグラスを掲(かか)げた。「おかげさまで仕込んであるからね」
 そんな感じだった。それで和(なご)んだ。わたしたちはもう少し話をした。するとジェイクはいかにも何気なく言った。「僕はクロスワード愛好者(クルシヴァーバリスト)だ」
 わたしは〝へえ〟とか〝そう〟とか、適当に答えた。知らない単語だった。
 ジェイクは自分のチーム名を〈イプセイティ〉にしたかったのだと言った。わたしはその言葉の意味も知らなかった。だから最初はごまかそうかと思った。彼は慎重で控えめながら、妙に賢いのは早くもわかった。がつがつしたところは全然ない。わたしをナンパしようともしなかった。安っぽい口説き文句は、なし。彼はただおしゃべりを楽しんでいた。あまり付き合った経験がないのだろうという感じがした。
「その言葉は知らない気がする」わたしは言った。「さっきのも」よくいる男のように説明がしたいんだと思った。わたしがその言葉を知っていて語彙力で自分に引けを取らないと思うより、そのほうが嬉しいにちがいない。
「イプセイティというのは、基本的には自己性だとか個体性を言い換えた語だ。ラテン語で自己を意味するイプセに由来する」
 ここだけ切り取ると、知識人ぶっていて、講義くさくて嫌味に聞こえるかもしれないけれど、そうじゃなかった。まったく。話しているのがジェイクだと。温厚な雰囲気、感じのいい生まれ持った穏やかさが、彼からは感じられた。
「うちのチームにはいい名前だと思ったんだ。自分たちみたいなのはたくさんいるけど、それでいてほかのどんなチームともちがうところからしてね。それに、ひとつのチーム名でプレイするからこそ、一体としてのアイデンティティが生まれる。ごめん、たぶん意味不明だろうし、きっと退屈だよね」
 わたしたちは笑い、するとその場に、そのパブのなかに、ふたりだけでいるような感覚が生まれた。わたしはビールを飲んだ。ジェイクは面白かった。少なくともユーモアのセンスはあった。わたしほど面白いとまではまだ思わなかった。知り合う男はたいていちがう。
 その夜、あとになって彼は言った。「人間はそもそもあまり面白くないんだ。そこまではね。面白いのはめずらしい」わたしがさっき考えていたことをそっくり知っているかのような口ぶりだった。
「その意見が本当かどうかは、わたしにはわからない」わたしは答えた。〝人間〟についてそんなふうに言いきるのは聞いていて気持ちよかった。ふつふつと奥から沸(わ)きでる自信が抑制の下から感じられた。
 チームメイトとともにそろそろ引きあげようとしているのがわかって、わたしは電話番号を聞くか教えるかしようと思った。その気持ちはすごく強かったのに、どうしてもできなかった。電話することを義務に感じてほしくなかった。当然のことだけれど、自分から電話したい気になってほしかった。心からそう思った。でもわたしは、またそのうちどこかで会うかもしれないと考えることにした。ここは大学町で、大都会とはちがう。きっとばったり会うこともある。結果から言うと、わたしは偶然を待つ必要はなかった。
 たぶん別れの挨拶のときにバッグにそっと入れたにちがいない。家に帰ったあと、それが出てきた。

きみの電話番号がわかればいっしょにおしゃべりできるし、何か面白い話をしてあげるよ。

 メモの一番下には彼の電話番号が書いてあった。
 ベッドに入る前に、〝クルシヴァーバリスト〟の意味を調べた。わたしはひとりで笑い、彼の言葉を信じた。

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──まだ理解できません。どうしてこんなことが起きたのか。
──みんなショックを受けている。
──こんな恐ろしいことはこの地域で起きたためしがない。
──たしかにこんなことはなかった。
──もう何年もここで勤務していますが。
──前代未聞と言っていいだろう。
──ゆうべは眠れなかった。一睡もできなかった。
──わたしもだ。気が休まらなくて。食事も喉を通らなかった。話を伝えたときの妻の顔を見せたかったよ。吐きそうになっていた。
──まったくどうやってやり遂げたのか。あんなのは思いつきでやることじゃない。無理だ。
──とにかくぞっとする。ぞっとするし、おぞましい。
──それで、彼とは知り合いだったんですか? もしかして親しくしていたとか。
──いやいや。親しくはない。親しい人はいなかっただろう。孤独を好むタイプだ。もとからそういう性格だった。自分の殻に閉じこもる。人と打ち解けずにね。わたしより彼をよく知る者もいた。だが……ね。
──常軌(じょうき)を逸(いっ)している。現実とは思えない。
──避けがたい悲劇だが、残念ながらこれはまさしく現実だ。

©︎Iain Reid/©︎Aoi Sakamoto

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つづきは、本書でお楽しみください!

〈イアン・リード〉カナダ・オンタリオ州在住。クイーンズ大学を卒業後、雑誌・新聞等へのコラムの寄稿や、自身のメモワールの出版など、ノンフィクションの分野で活動する。小説デビューとなる本書(2016年)は、優秀なサイコ・サスペンス作品に贈られるシャーリイ・ジャクスン賞の最終候補にもノミネートされ評判を呼び、現在20カ国以上で出版されている。さらに、『マルコヴィッチの穴』『エターナル・サンシャイン』の監督・脚本で知られるチャーリー・カウフマン監督によるNetflixでの映像化が決定。リード自身も共同プロデューサーとして製作に関わっている。近未来の、孤立した農場を舞台にした長篇小説2作目となるFoe(2018年)は、出版前にアノニマス・コンテントに映像化の権利が売れ、各界からの注目度が高い作家である。



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