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『金融ディストピア カネはなぜ超富裕層に集中するのか』解説試し読み

ウォール街を知り尽くしたジャーナリストによる警世の書『金融ディストピアーーカネはなぜ超富裕層に集中するのか』(ノミ・プリンス、藤井清美訳、早川書房)が12月4日に発売になります。金融市場を牛耳るエリートによって経済的に二極化された世界は一体どこへ向かうのか。地域エコノミストの藻谷浩介さんによる本書の解説を、特別に試し読み公開します!

『金融ディストピア』

解説 藻谷浩介

「金融ディストピア」とは何か。どこか宇宙の彼方のことでも、歴史上の話でも、空想された異世界でもない。われわれが生きている、2020年代のこの人類社会。これこそが金融ディストピアである。

金融ディストピアとネズミ講

金融ディストピアの基本構造は、「ポンジ・スキーム」だ。本書第1章の冒頭に、「われわれはみな楽に手に入るお金をほしがる。しかも大量にだ」という、米国人チャールズ・ポンジの言葉がある。1920年代に一世を風靡ふうびした投資詐欺師である彼の名前は、英語圏ではそのまま一般名詞に使われている。日本語に訳せば「ネズミ講」だ。

高配当の儲け話につられて被害者の出したお金を、仕掛けた側が山分けしてしまい、やがて資金繰りが尽きれば破綻する。これがネズミ講だが、ポンジのように表に出ていた中心人物は処罰されたとしても、裏でそのお金が流れていた先はおとがめなしで、集めたはずの資金はどこかに消え、ほぼ回収できないのが常だ。

そんなポンジの言葉が冒頭にあることで、米国人の読者であれば、「この本は、現代版のネズミ講と、それをはやし立てる現代のポンジたち、さらには裏で儲けている黒幕たちについて書いているのだな」とわかるだろう。中身より先に解説を読んでいる方は、そういう話なのだとご了解の上で、ぜひ本文を読み進めていただきたい。

ところでネズミ講には、繰り返しになるが、ポンジのように表に立って詐欺話を広める者と、だまされてお金を出す被害者と、裏でそのお金が流れる先にいて逃げ得する利得者の、三者がいる。現代版の全地球的ネズミ講である金融ディストピアでは、誰がどれなのか。

米国の類書によくあるように、膨大な情報量を、時系列に沿って、著者の博識のままに流し込んでできている本書には、日本の類書にあるような、わかりやすいまとめや図版がない。そのために、繰り返し書かれていても自分なりに整理して把握するのが難しいところがある。ここで解説者(藻谷)の理解も交えて書けば、以下のようになるだろう。あなたはどこに属するだろうか。

●被害者:世界人口のほぼ全員(自分は利得者側だと勘違いして、結局ツケを回されるプチ富裕層を含む)
●裏にいる利得者:超富裕層
●ポンジ:投資銀行、FRBや先進国の中央銀行、(一部の)マクロ経済学者、投資話をあおる評論家や政治家

本書によれば、世界では17時間に1名、新たな超富裕層が生まれているという。そう聞くと「自分にもチャンスがある」と思うかもしれない。だが365日×24時間=8760時間なので、17時間に1名というのは実数では年間500名に過ぎない。今年世界のどこかで、宝くじで大当たりした人数よりも、これははるかに少ないのである。

ということで金融ディストピアでは、実質的には被害者になる以外の選択肢がない。そんな中でポンジの役回りを買って出ている学者や評論家(日本にも大勢いる)は、もしかするとそれが悔しいので、煽る側に回っているのかもしれない。彼らの立場は、ナチスのユダヤ人収容所にいたユダヤ人看守、といった悲しい存在に似ている。

「自分は、宝くじは買わない。投資にも関心がないので、別に被害者にはなっていない」と思う方がおられるかもしれない。だが、その認識は甘いのではないだろうか。通貨発行当局(中央銀行など)を巻き込んだ投資詐欺である金融ディストピアの世界は、一般のネズミ講と違い、通貨価値の下落かインフレか、あるいはその両方で、投資をしていない人も広範に、お金をむしりとられるように仕上がっているからだ。

金融ディストピアの仕組み

前節の最後に書いた過激な内容の一文が、特段に誇張ではないことを、以下では世界と日本の最近の歴史を振り返って説明してみよう。

金融市場は、投資過熱(バブル)→不良債権の積み上がり→バブル崩壊→不良債権の紙屑化というサイクルを繰り返す性質がある。日本でも、団塊世代の住宅取得の盛り上がった1980年代後半に、不動産担保融資で積みあがった不良債権が、彼らが住宅取得を終えた90年代前半の地価下落と共に紙屑と化し、今に語り継がれる「バブル崩壊」をもたらした。この問題は、先送りの末に結局、無謀な投資をした金融機関を破綻処理や統合で整理しつつ(=そこに投資や預金をしていた企業や個人に損失を与えつつ)、不良債権を償却することで、ようやく落ち着いた。

これに対し世界では、2008年のリーマン・ショックをハイライトに、その前後に金融危機が起きた。日本でもその余波で輸出が一時的に落ち込むなどのマイナスがあったが、バブル崩壊後の不良債権処理で金融機関が健全化していたため、海外諸国で起きたような不良債権問題は生じなかった。

しかしいわゆるサブプライムローン問題などに見舞われた米国の状況は深刻で、ここにおいて米国の中央銀行(FED)は、「金融機関を破綻させ(=そこへの投資家に損をさせ)、不良債権を償却する」という正道(日本がバブル崩壊後の先送りの末に行ったこと)を外れた、「禁断の一手」を使ってしまう。金融緩和というドーピングによって、大手投資銀行(例えばソロモン・ブラザーズやモルガン・スタンレー)や投資ファンドの、破綻を回避したのだ。

これはつまり、自由競争の結果として起きるはずの、失敗者の淘汰を、当局が介入して防いでしまうということだった。ここにおいて金融市場は、自由競争の場から、公費で操作される場へと変質してしまったのである。このあたりの経緯は、本書の最初の方に詳しい。

「金融緩和というドーピング」と書いたが、具体的に何をどうしたのか、単純化して述べよう。中央銀行は、ドルを刷り増しして(世に出回るドルの量を増やして)、金利を下げ(金利はお金の値段なので、お金の供給が増えれば下がる)、株価を上げた(金利が下がれば、利益を求める投資家は株を買う)。金利が下がれば、利払い負担ができずに破綻する債務者は減り、株価が上がれば、投資銀行はその利益で不良債権を償却できるというわけだ。

うまい話のようだが、そのコストは誰が払っているのか? 最初の被害者は、株式投資という博打に手を出さず、利子に期待して預金をしていた、真面目な庶民だ。不良債務を抱えた会社やその関連業界の労働者も、借金が棒引きにならなかった分、リストラ(コストダウン)が厳しく進められて、解雇や賃下げの犠牲となった。銀行やファンドがつぶれてその従業員が整理されるのに比べ、ずっと大きな数の労働者が影響を受けたのである。

だが最大の被害者は、株で儲けた富裕層以外の、すべての消費者だった。成金化した者たちの消費の増加によって物価が上がり(インフレとなり)、不動産価格の高騰で住居費や税金も上がり、生活が苦しくなったからだ。「それなら彼らも株式投資をすればいいではないか」と思うかもしれないが、ルール無用の投機で相場の乱高下するその世界では、手練手管を弄する大資本が、元手の小さな素人からむしりとることが常態化している。

最近になり、インターネットを介して個人投資家が団結し、大手に一泡吹かせる現象(本書第8章)や、当局の管理できない暗号通貨で稼ぐ者たち(本書第9章)も登場しているが、真面目に日々の労働をしている庶民に、金融投資のカジノに身を投じる元手や時間的余裕はない。そんな庶民もしかし、知らない間にインフレを通じてカジノの大口顧客のエサにされ、「計算上は経済が成長しているはずなのに、自分にはまったく実感がない」日々を送るようになったのである。

金融ディストピアに引きずり込まれた日本

そのような状況が日本にも到来したのは、やや時間を置いてからだった。日本をディストピアに巻き込んでしまった「ポンジ」は、「アベノミクス」を進めた故安倍晋三氏と、彼に知恵を付けた一部の学者や経済評論家、そして(結局はウォール街の目論見通りに動いたことになる)安倍氏に、実態とは真逆の日本国の独立自尊を期待して支持していた、「岩盤保守層」なる軽率な人たちである。

前述した米国の金融緩和で、ドルの価値は下がり、民主党政権下の日本は大幅な円高に見舞われた。2011年には1ドルが80円前後となり、輸出企業からは怨嗟の声が高まった。実際にはこの年の日本の輸出は62兆円と、40兆円前後だったバブル期に比べて大幅に多く(ドル換算では史上最高水準だった)、高くても売れる高品質な製品を製造する日本経済にとって、「円高の打撃」というのは言われているほどのものではなかった。むしろ化石燃料を安く輸入できるなどのメリットも大きかったのだが、実態を見ずに本で読んだ理論を振りかざす一部の学者や経済評論家が、「円高だと輸出が減る」と騒ぎ、「日本も対抗して金融緩和をすべきだ」とのキャンペーンを張り始めた。

この流れに乗ったのが、安倍晋三氏だった。12年9月に(自派閥の長だった町村信孝氏や、党員投票では勝っていた石破茂氏を抑えて)自民党総裁選を制し、続く総選挙で大勝して自民党に政権を奪還すると、日銀総裁を白川方明氏から黒田東彦氏へと、白を黒に取り換え、「異次元の金融緩和」を実行させる。彼とその後を引き継いだ菅政権の下で、マネタリーベース(市場に出回る円貨の額)は、実数で500兆円以上、倍率では5倍以上も増加した(12年と21年の比較)。

その結果はどう出たか。元々低かった金利はゼロもしくはマイナスとなり、世界最大の借金王と言われる日本政府の金利負担はミニマムに抑えられた一方で、利殖を求めるお金は株式市場に流れ込んだ。上場株式の時価総額は、実数で500兆円近く、倍率でも3倍近く増加した(同じく12年と21年の比較)。株式の売却益への課税により、政府の税収も史上最高を更新する。円ドル相場も1ドル110円まで戻し(21年の平均)、日本の輸出額も(円ベースでは)過去最高を更新した。

だがこの「アベノミクスの大成功」こそ、ものの見事にポンジ・スキームだったのだ。

株で儲けた大企業や富裕層は、「賃上げや設備投資や国内消費でその利益を国内に還元する」という行動を取らなかった。そのため日本の実体経済は株価のようには成長せず、名目GDPは、実数で53兆円、倍率では1.1倍(年率換算1%)しか増加しなかった(12年と21年の比較)。個人消費(=持ち家の帰属家賃を除く家計最終消費支出)に至っては、12年の232兆円が21年には239兆円と、ほぼ横ばいだった。個人消費=B to C企業の国内売上の合計なので、企業の国内での商売も、異次元金融緩和の恩恵をほぼ受けなかったのである。

「それでも成長は成長」と思う人は、ドル換算した数字を確認してほしい。この間に円安が進んだため、日本のGDPは6.3兆ドルから5.0兆ドルへと、2割も縮んでしまった。個人消費は、2.9兆ドルから2.2兆ドルへと4分の3に縮小し、世界における日本市場の存在感もその分だけ下がった。我々がロシアや中国の経済をルーブルや人民元では見ないように、国々の経済力の比較は常にドルで行われる。「アベノミクスで経済再生」と浮かれる日本のGDPが、ドル換算でどんどん沈んでいったこの10年間の光景というのは、世界から見れば、奇異というか、謎というか、まさに「ガラパゴスの落日」だったのではないか。

円では史上最高を更新した輸出額も、ドルで見れば11年をピークに漸減傾向だ。つまり円安で価格が下がったことは、日本製品の競争力を上げなかったのだ。とはいえ、海外での売上や収益を円に換算する際には、円安の方が見かけの儲けが大きくなる。経済界が円安を歓迎するのは、このような計算上の話であって、実態に即したものではない。

さらに困ったことに、異次元金融緩和の生んだ日米の著しい金利差によって、22年以降は1ドル150円台にまで円安が進んだ。そのため23年の日本の名目GDPは4.2兆ドル、個人消費は1.9兆ドルと、安倍晋三氏が「悪夢の民主党政権」と呼んだ野田首相の時代の3分の2にまで落ち込んでしまった。円では上昇を続けている株価も、ドル換算では21年をピークに落ち込んでいる。国内には「1ドル300円でもOK」と公言する「ポンジ」がいるが、現在のような円安は、海外のマネーゲーマーにとっても歓迎すべき事態ではない。

このような極端な円安は、輸入物価を高騰させる。そのため全国的にインフレが進み始めた。安倍晋三氏を筆頭に一般庶民までもが「デフレ脱却」と唱えていた時期、「インフレのどこが良いのか」と解説者は思っていたが、今の事態になって、考えずにムードに乗ったことに気付いた人も多いのではないだろうか。「賃上げで対抗せよ」と言われても、そもそも外国に支払っている額が増えた分、国全体で見て、賃上げの原資は細っている。しかも高齢化した日本では、国民の過半数は退職高齢者や学生、専業主婦であり、彼らの生活は賃上げに関係なく苦しくなる一方だ。

ということで本来は、金融を引き締め、金利を上げるべきタイミングなのだが、そうすれば株価は下がり、国債の流通価格も目減りする。安倍政権後半に、日銀や年金基金が国債と株式を大量に買い込んでしまっているため、うっかり金利を上げれば深刻な金融危機、年金不足が起きかねない。世界の景気がいずれかのタイミングで悪化し、米国の金利が下がってくるまで様子見を続ける以外に、日銀としても手の打ちようがないのである。

これこそ正にディストピアだ。だが日本では、旧安倍派やそれを支持する旧「岩盤保守層」を筆頭に、アベノミクスへの反省のない有象無象のポンジたちが、未だに現実を理解せず、反省もしていない。彼らの多くは、今度は「積極財政で景気回復」と唱えている。しかし、さらなる国債の発行はさらなる円安を招き、ますます事態を悪化させる。それこそ、日本が没落する方向に賭けて大金を張り込んでいる、ウォール街の一部ハゲタカの思う壺だ。円安=日本の経済価値の下落であるという、経済の根本のわからない者たちが、似非「経済学」を振りかざして日本をどんどんとおとしめていることに、我々一般人は気付かねばならない。

金融ディストピアのこれから

そんなこんなで、いったい日本は、世界は、これからどうなるのか。

本書の第10章で著者は、さらなる事態のエスカレートと、その狭間で苦しむ庶民の増加、フィンテック(金融技術)の爆発的革新、そして現在では想像もつかない地点への着地を予言する。「悲観しつつの楽観」というのだろうか、「行くところまで行くしかない」というそんな達観の陰に、「歴史は最後の審判が下るまで一直線に進んでいく」という、欧米によくある一神教的世界観が見える。

しかし解説者は、そのような直線的な世界観は間違いであって、歴史は手を変え品を変えて繰り返していると考える。そのような循環を脱したければ、循環を生んでいる原因である「煩悩」から、「解脱」するしかない。金融ディストピアの場合に、その形成の燃料となっている煩悩は、個人の優越欲求(相対比較可能な指標で他に勝りたいという欲求)だ。優越欲求だけを過度に肥大化させた個人が、自分の一生涯では消費しようもない額を稼いで貯め込もうとすること、それを「経済成長をもたらす善行」であると奨励することに、諸悪の根源がある。

阿修羅のごとくナンバーワンを目指し続ける優越欲求から解脱し、オンリーワンを目指す自己実現欲求(比較不可能な、かけがえのない存在として、自然体で自己を認め、他者とも認め合いたいという欲求)に生きる人が増えていくことでしか、このディストピアを抜け出す方法はない。

心配はご無用で、日本の田舎を先頭に、世界各地の草の根において、そうした解脱者は増え始めている。10年前(2013年)に刊行した『里山資本主義』(角川新書)以来、今年(2024年)刊行した『誰も言わない日本の「実力」』(毎日新聞出版)に至るまでの著作でも、そのことを繰り返し書いてきた。日本にやって来てその治安の良さや、「好景気」のはずの米国などの他国に比してゴミもホームレスも目立たない様子、まだ残っている社会的連帯感に驚く訪日客も、きっとその中に、ある種のあるべき未来を見ていることだろう。

アップルを創業したスティーブ・ジョブズは2011年、56歳の若さで、膵臓癌すいぞうがんで死去したが、その最後の言葉は、超富裕層に上り詰めた先に彼の至った境地をよく示している。

「人生の終わりには、お金と富などは、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。認証(認められること)や富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。あなたのために、ドライバーを誰か雇うこともできる。お金を作ってもらうこともできる。けれど、あなたの代わりに病気になってくれる人を見つけることはできない」(解説者による要約)。

そういう単純な事実に気付いてカジノの卓を離れる人が増え、中央銀行や政府が鉄火場に燃料を供給するのを止めさせるに至ったときに、この世界は金融ディストピアを解脱することになる。

いつのことになるだろうか。

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著者略歴
ノミ・プリンス
 Nomi Prins
アメリカのジャーナリスト。著書に『中央銀行の罪』『大統領を操るバンカーたち』(以上早川書房刊)など。《ニューヨーク・タイムズ》や《フォーブス》、《ガーディアン》など各紙誌に寄稿し、CNNやBBCなどのテレビ番組にも出演している。過去にリーマン・ブラザーズ、ベアー・スターンズやゴールドマン・サックスに勤務した経験を持つ。

訳者紹介
藤井清美
 Kiyomi Fujii
翻訳家。京都大学文学部卒業。訳書にワプショット『サミュエルソンかフリードマンか』、アッペルバウム『新自由主義の暴走』、プリンス『中央銀行の罪』(以上早川書房刊)、ベルトン『プーチン ロシアを乗っ取ったKGBたち』など多数。

【本書の概要】
『金融ディストピア――カネはなぜ超富裕層に集中するのか』
著者:ノミ・プリンス
訳者:藤井清美
出版社:早川書房
発売日:2024年12月4日
本体価格:4,180円(税抜)