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夢の新薬を追い求めた天才たちの競争、友情、確執、駆け引き……『新薬の狩人たち』訳者あとがき

ドナルド・R・キルシュ&オギ・オーガス新薬の狩人たちが早川書房より6月5日(火)に発売となります。創薬研究の第一線で35年にわたり活躍する著者が、先人たちの挑戦の歴史をつづる注目の科学ノンフィクションです。

翻訳は、企業で医薬品の研究開発に携わった経歴を持つ寺町朋子さん。巻末解説は、同じくかつて製薬企業に勤め、現在はサイエンスライターとして活躍する佐藤健太郎さん(『炭素文明論』『医薬品クライシス』『世界史を変えた薬』)に執筆いただきました。最強の布陣で贈る本作より、「訳者あとがき」を先行公開します。

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訳者あとがき 「夢の新薬」を追い求めて

生きているあいだに一度も薬と縁がないという人は、おそらくいまい。命を救ったり苦しみを和らげたりと、私たちの暮らしに欠かせない薬。そのような薬の恩恵を受けられるのは、古今の非凡な新薬の狩人(ドラッグハンター)──現代の言葉では新薬探索研究者──が果敢な挑戦をしてきたからにほかならない。本書新薬の狩人たち──成功率0.1%の探求(原題はThe Drug Hunters:The Improbable Quest to Discover New Medicines)は、ベテランのドラッグハンターである著者が、偉大なドラッグハンターたちに焦点を当てながら新薬探索の歴史を綴ったものだ。

薬はどうやって生まれるのだろう? 昔は、植物の根や葉を手当たり次第に口にする試行錯誤が頼りだった。むろん、薬はそう簡単には見つからなかった。では、科学技術が高度に進んだ現代はどうかといえば、創薬の中心的なプロセスは相変わらず試行錯誤──膨大な数の化合物のスクリーニングだ。そのため、新薬の探索はやはりきわめて難しく、「難易度」は有人月面着陸や原子爆弾の設計よりはるかに高いと著者は述べる。しかも、スクリーニングを経てようやく新薬候補が見出されても、それの人間における本当の作用は、臨床試験で人間が実際に試してみるまでわからない。というわけで、総じて創薬は失敗のリスクが高い。新薬開発には10年以上の期間、1000億円規模の費用がかかり、新薬候補が製品化される確率は約3万分の1といわれている。

では、創薬の難しさをドラッグハンターの立場で見ると、どうだろうか。本書によれば、ドラッグハンターが提案した創薬プロジェクトのうち経営陣から資金が提供されるのが5パーセント、そのなかで新薬発売にこぎつけるのは2パーセント。つまり、ドラッグハンターが薬で人間の健康を改善できる見込みはわずか0.1パーセントしかない──本書のサブタイトルはこの数値に由来する。高度な教育を受けて最先端の研究所で働くドラッグハンターの大多数が、全キャリアを通じて新薬を一つも世に送り出せない。ドラッグハンターたちは、そんな厳しい闘いに挑んでいるのだ。

本書ではまずイントロダクションで、新薬探索における試行錯誤の比喩として、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの小説「バベルの図書館」が引き合いに出される。ボルヘスは次のような架空の図書館を思い描いた。無数の六角形の部屋があらゆる方向に無限に連なり、各部屋の棚には、ランダムな文字の組み合わせからなる本がぎっしりと並んでいる。本の中身は一冊ずつちがい、ほとんどはナンセンスだ。しかし、判読できて叡智に満ちた本もごくまれにあり、司書たちがそれらを探して館内をさすらう。ただし、ほとんどの者は、一生かかってもそのような本にめぐりあえない。

製薬企業は、さまざまな構造の化合物からなるコレクションをもっている。それは「化合物ライブラリー」と呼ばれ、大手のライブラリーには数百万種類もの化合物が含まれている。著者は、化合物ライブラリーからスクリーニングによって新薬の種が見出されることを、バベルの図書館(ライブラリー)で無数の無意味な本から価値ある本が偶然取り出されることに重ね合わせ、ドラッグハンターを司書になぞらえる。

さて、第1章から第5章では、錬金術が盛んだったルネサンス期から近代科学の発展とともに変遷してきた20世紀はじめまでの新薬探索の歴史が示される。かつては、ほとんどの薬が植物から見つかった(これは漢字の「薬」に草冠が使われていることにも表れている)。植物由来の薬からは、最古の部類の薬としてアヘン、次にマラリア治療薬(キニーネ)が取り上げられる。続いて、薬の大量製造時代の先駆けとなった吸入麻酔薬(エーテル)、合成化学による鎮痛薬(アスピリン)、初の設計された薬である梅毒治療薬(サルバルサン)が紹介される。第4章では、ロシュ社やノバルティス社、メルク社といった世界に名だたる製薬企業の多くが、スイスやドイツを流れるライン川沿いにある理由が明かされる。

第6章から第9章では、抗菌薬(スルファニルアミド)のシロップ剤が多くの死者を出した事件を機に、やりたい放題だった薬の開発に規制がかけられるようになった経緯や、近代薬理学の誕生、微生物由来の抗菌薬(ペニシリン)やバイオ医薬品第一号(インスリン)の開発秘話が語られる。

第10章以降の終盤では、疫学研究をもとに開発された高血圧治療薬(チアジド系利尿薬、β遮断薬、ACE阻害薬)、大手製薬企業以外で見出された経口避妊薬(ピル)、まぐれ当たりで生まれた統合失調症治療薬(クロルプロマジン)、抗うつ薬(イミプラミン)の開発物語などを経て、ドラッグハンターの今後が展望される。巻末の原注も大変充実しており、ミートゥードラッグ、アルコールと薬のちがい、薬の虚偽表示問題、開発続行/中止の決断、サリドマイド禍、ノーベル賞に絡む裏話、抗精神病薬開発の難しさなど、多彩なトピックスが盛りこまれている。理解を深めたい読者には、ぜひ本文とあわせて一読をお勧めしたい。

本書に登場する薬をざっとあげたが、著者がドラッグハンターのありのままを伝えたいと意気ごんだだけあり、本書には新薬の探索をめぐる人間ドラマが生き生きと描かれている。たとえば、第3章に麻酔薬としてのエーテルの物語がある。現代人には麻酔なしの手術などとても想像できないが、手術用麻酔薬が生まれてからまだ150年ほどしか経っていない。本書では、手術で初めてエーテルが使われたときの息詰まる場面が切り取られており、麻酔薬が当時の人びとをいかに驚嘆させたのかがよく伝わってくる。

後半では、糖尿病の治療薬インスリンをイヌから初めて抽出したフレデリック・バンティングの物語が目を引く(第9章)。仕事上の不運が重なったせいで、彼は周囲の人間を、自分の手柄を横取りしようとする邪魔者と見なすようになった。そんなバンティングの屈折した人生が浮き彫りにされる。もう一つ、ピルにも触れておきたい(第11章)。ピルの使用率は、日本では欧米にくらべて低いが、ピルは女性の機会を拡大し、社会や経済に大きな影響を与えた。この章では、型破りな一匹狼の化学者や女性解放運動家などの風変わりな面々が織りなした異色のコラボレーションが描き出されており、読み応えがある。

創薬は、人を助けることに結びつく尊い仕事だ。とはいえ、成功が莫大な利益につながる可能性もあることから、その過程では競争、確執、駆け引き、金目当ての思惑、一か八かの賭けなど、いろいろな要素が交錯する。著者はドラッグハンターについて、プロのポーカープレイヤーに似ており、勝負を有利に運べる知識や技術を備えているが運に翻弄されると形容している。その言葉どおり、本書では驚きの展開にいくつも出会えるだろう。

また、業界を内側から知っている著者ならではの記述も読みどころだ。本書には、ドラッグハンターの体を張った取り組みや倫理基準を逸脱した大胆すぎる行動に加えて、著者自身の体験も織り交ぜられている。その一つが、巨額の費用がかかる臨床試験の前に、新薬候補をみずからが服用してみたというエピソードだ(訳者は企業で新薬探索部門にいたころ、同様の話を耳にしたことがある。あくまでも、根も葉もない噂のレベルだったが)。著者は巨大製薬企業の研究姿勢に対する警鐘も差し挟んでおり、命を助けることでビジネスをする、裏を返せば、薬に対するニーズはあっても儲からない分野には手を出したがらないという製薬業界の皮肉な側面も垣間見える。

さて、本書に登場する薬のなかには、活躍中の日本人ドラッグハンターと関係の深いものも多い。2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智(おおむら・さとし)北里大学特別栄誉教授は、微生物由来の有用な物質を数多く発見し、抗寄生虫薬・抗菌薬を実用化して毎年数億人を救っている(第8章)。ガン免疫療法として脚光を浴びている抗体医薬「オプジーボ」の生みの親は本庶佑(ほんじょ・たすく)京都大学名誉教授だ(第9章)。「スタチン系」と呼ばれるコレステロール低下薬を最初に発見した遠藤章(えんどう・あきら)氏(イントロダクション)、高血圧治療薬のカンデサルタン(アンジオテンシンⅡ受容体拮抗薬)の合成研究を牽引した仲建彦(なか・たけひこ)氏(第10章)など、企業に所属する研究者も多くいる。

創薬の基盤となる医学や科学の進歩は目覚ましく、iPS細胞、ゲノム編集、人工知能(AI)など、創薬への応用が見こまれる技術が注目を集めている。そのような新技術によって、創薬の合理化や効率化は進むはずだ。それでも著者が指摘するように、新薬の探索でドラッグハンターの創造性が大きな鍵を握るのはまちがいないだろう。生活習慣病向けの薬はひととおり出そろったともいわれるが、ガンやアルツハイマー病をはじめ、治療薬が待ち望まれている病気はたくさんある。現在、研究に邁進しているドラッグハンターたちの成果が見えてくるのは10年以上先かもしれないが、画期的な薬が生み出されることを期待したい。

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[著者紹介]
ドナルド・R・キルシュ(Donald R. Kirsch)
35年以上の経歴をもつ新薬研究者(ドラッグハンター)。ラトガース大学で生化学の学士号を、プリンストン大学で生物学の修士号と博士号を取得。スクイブ社(現ブリストル・マイヤーズ・スクイブ)、アメリカン・サイアナミッド社、ワイス社(ともに現ファイザー)、カンブリア・ファーマシューティカルズ社で抗感染症薬や抗真菌薬、抗ガン剤の開発や機能ゲノミクス研究に携わる。これまでに医薬品関連の特許を24件取得、50本を超える論文を執筆している。現在はバイオ/製薬業界コンサルタントとして活躍するほか、ハーバード大学エクステンション・スクールで新薬探索の講義を担当する。

オギ・オーガス(Ogi Ogas)
サイエンスライター。《ウォール・ストリート・ジャーナル》紙や《ボストン・グローブ》紙、《ワイアード》誌などに寄稿。著書に『性欲の科学』(サイ・ガダムとの共著)など。

[訳者略歴]
寺町朋子(てらまち・ともこ)
翻訳家。京都大学薬学部卒業。企業で医薬品の研究開発に携わり、科学書出版社勤務を経て現在にいたる。訳書にハート『ドラッグと分断社会アメリカ』、ホルト『世界はなぜ「ある」のか?』(以上早川書房刊)、シルバータウン『なぜ老いるのか、なぜ死ぬのか、進化論でわかる』ほか多数。

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ドナルド・R・キルシュ&オギ・オーガス『新薬の狩人たち――成功率0.1%の探求』(寺町朋子訳、本体2,000円+税)は早川書房より6月5日(火)発売です。

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