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【試し読み】あの日の噓は、誰よりも自分自身が覚えている――青春ミステリ連作集 酒井田寛太郎『放課後の嘘つきたち』

11/19刊行の青春ミステリ連作集、酒井田寛太郎『放課後の嘘つきたち』の試し読みを公開します! 高校生たちの、誰にも言えない噓と真実。プロローグと第1篇の途中(全体のおよそ6分の1)までお読みいただけます。

■あらすじはこちらから↓↓

■目次

 プロローグ
 不正と憂鬱
 ゴースト イン ザ ロッカールーム
 ワンラウンド・カフェ
 穏やかで暖かい場所
 エピローグ

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

   プロローグ

 一二歳から一三歳にかけての記憶が曖昧なのは、心が辛い日々を忘れたがっているからだと、かかりつけの医師から言われたことがある。確かに法連寺学園でのことを思い返してみると、ボクシングをやっていたというより、ただひたすら、痛みと恐怖に耐えていたという気がする。練習では監督や上級生からの暴力にただただ怯え、試合では勝ち続けなければひどい目に遭うのだという不安に苛まれていた。辛い練習を乗り切ったあとにも達成感や満足感はなく、今日も生き延びたという束の間の安堵だけが、日々の心の支えだったという気がする。
 ちなみに法連寺学園時代の戦績を思い返すと、当時からほとんど負けなしだった。年上の高校生を一ラウンド目でノックアウトするなんていうのはざらで、スパーリングではプロのOBからダウンを奪ったこともある。数えきれないほどリングに立ったにもかかわらず、どの試合も記憶はおぼろげだった。転校後にカウンセリングで聞かれた時も、闘った相手の顔や名前すら思い出せなかった。常に何かに追い立てられていたという記憶はあるが、実際に何を見て何を聞いたのかと言われると、頭のなかに靄がかかったように判然としない。
 しかし、鮮明に覚えている瞬間もある。
 確か、転校する二週間ほど前──中学二年の夏頃だった。
 サンドバッグを叩いていると、練習場の隅の方からうめき声が聞こえてきた。監督の柳瀬が、床にうずくまっている女子部員の下腹部を蹴り上げているのが見えた。
「あ? 練習メニュー変えろ?」
 うずくまっているのは、本条奈々という一年生だ。すでに何発か頬を叩かれたのか、顔が腫れ上がっていた。
 しかし彼女は、挑むような表情で柳瀬を見上げていた。
「でも、こんな練習したって、強くなれない……」
「へぇ、ずいぶん偉そうなこと言うね。じゃあ、お前は『こんな練習』で鍛えてきた俺に勝てるの?」
 柳瀬は「やってみろよ」と言いながら、身体を丸めている本条を何度も踏みつけた。明らかに顔や腹を狙っていた。さすがに力は加減しているのだろうが、このまま続ければ本条の命に関わるということは、傍から見ている修(しゅう)にも分かった。
 彼女のあまりに苦しそうな表情を見て、修は思わず声を出した。
「監督、それは──」
「あ?」
 思わぬ方向からの制止に、柳瀬は舌打ちする。眉間に皺を寄せて振り返った。彼は、歯向かわれることを何より嫌うのだ。
 鋭い眼光を向けられて、修は息すらできなくなる。数日前、首を絞められて失神したことを思い出した。
 しかし柳瀬は、制止の声を発したのが修だと分かると、途端におかしそうに笑い出した。
「ちょうどいい、ジュニアの強化指定選手になった蔵元(くらもと)にどっちが正しいか決めてもらおうか。とろくさかったお前がここまで来られたのは、誰のおかげだ?」
 修が柳瀬の言うことを聞いているのは、恐ろしいからだった。ただ苦しませるためだけの、拷問のような練習メニューを課す柳瀬の指導方針が正しいと思ったことなど、ただの一度もなかった。
 しかし──。
「……監督です。監督の練習のおかげで、俺は強くなれました」
 それに対して柳瀬がどう答えたのかは、覚えていない。
 ただ、自分の口から出た嘘のざらついた感触と、正しいことを言っているはずの後輩を見捨てたという後ろめたさは、転校して法連寺学園と縁を切り、三年が経ったいまなお、忘れられずにいる。

  ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

   不正と憂鬱

「怒ってる?」と蔵元修はよく聞かれることがある。
 ポーカーフェイスと言えば何やら格好いい感じもするが、要するに仏頂面なのだ。試合中、緊張や負ったダメージを相手に気取られない意味では有利なのだが、コミュニケーションとなるとデメリットしかない。友人たちに連れていかれた漫才ライブでも、地元テーマパークのお化け屋敷でも、「周りが爆笑してるのにくすりともしないで虚空を見つめていた」「オバケを生気のない目でじっとにらんでいて、むしろお前の方が怖かった」と、散々な言われようだった。実際のところ、若手芸人のギャグはけっこうおもしろかったし、お化け屋敷の手の込んだ仕掛けにはそれなりに驚いた覚えがあるのだが、そういった反応がどうも顔に表れにくいらしい。
 しかし、家族の他に一人だけ、その変化に乏とぼしい表情を読み解いて、感情の機微を察してくれるやつがいる。
「──もしかして、何か悩んでる?」
 隣の席に座っている白瀬麻琴(しらせまこと)は、エクセルを器用にいじって各部活の予算執行状況を一覧にしながら、視線だけをちらりと修の方に向けた。
「いや、大したことじゃない」
 口にした瞬間、しまったと思う。それではもう、俺は悩んでいますと言っているようなものではないか。言葉とは裏腹に弱音を吐いてしまったようで、修は何となくばつの悪さを覚えた。身長一八五センチの大男が教室の隅でうじうじ悩んでいても、うっとうしいだけだ。
「怪我のこと?」
 しかも内容まで、見事に一発で言い当てられた。さすがは一〇年来の幼馴染だ。
「まぁ、こればっかりは治るまで待つしかないと分かってるんだが……スポーツ特待生のくせに、試合どころか練習にも出られないっていうのが、どうもな」
 修の悩みとは対照的に、金曜日の昼休みの教室は賑やかだった。「東京」「ライブ」「フェス」などの浮ついた単語が飛び交い、クラスメイトたちはもうすぐ始まる夏休みの予定を話している。
「うん、そうだよね──特待生っていうのも、プレッシャーかかるよね」
 微かすかに波打つ豊かな甘栗色の髪に、いつもどこか眠たそうな、とろんとした目。顔立ちは整っているが、身につけているものに華美なものはなく、制服も校則通りに着ているので、雰囲気としては落ち着いた感じがする。何も知らない人間が麻琴を見たら、印象は一に「穏やかそう」、二に「真面目そう」といったところだろう。そして麻琴の人となりは、見た目の印象を裏切らない。さらに三番目には、「面倒見が良い」というのがくる。頼み事をされたら基本的には断らないし、目の前に困っている人がいれば頼まれなくても進んで助ける。
「桂木先生は、何て?」
「大事を取って、しばらく休めとさ」
 ボクシング部顧問の桂木は、大学時代には国体に出場したこともあるウェルター級の元ボクサーだ。自身が怪我に泣いたためか、無理なトレーニングはさせない方針だった。修は桂木から「いまはとにかく休め」と厳命されているが、暇さえあれば走り込み、寝る間も惜しんでミットを打つような生活を送ってきたから、いざ休めと言われても手持ち無沙汰で仕方なかった。
「私はスポーツのことよく分からないけど……身体を休めるだけじゃなくて、気分転換とかしてみたらどうかな?」
「気分転換、といってもな」
 両腕を組んで、修は天井を見上げた。
 確かに医者からも、音楽を聴くなり映画を観るなり、いったんボクシングのことは忘れて趣味を楽しめと言われた覚えがある。とはいえ修には、これといった趣味がなかった。強しいて言えば格闘技の試合観戦だが、観るとどうしても身体を動かしたくなってしまうので、怪我が治るまでは封印している。
「修、好きなアイドルとかいたっけ?」
「いない」
「観たい映画とか、行きたいライブとか」
「何も思いつかん」
「じゃあ旅行は? 海外はさすがに無理だけど、近場ならお金もかからないし」
「俺、けっこう出不精なんだよ」
「……たまには読書してみるとか? うちの高校の図書室、マンガも置いてあるよ」
「活字は苦手なんだよ。本を読んでるうちに頭が痛くなってくる」
「だ、だったら美味しいものでも食べようよ! 好きな料理とかある?」
「ああ、ささみとか、よく食べるな」
「……それって、プロテイン代わりだよね?」
 麻琴は呆れた表情で「しかも料理じゃなくて食材だし」と呟つぶやいた。
「修の生活って、本当にボクシング中心なんだね」
「というか、ボクシングが生活だった」
「じゃあ、趣味に打ち込むのはちょっと難しいかな……他の方法で気分転換できるといいんだけど」
 麻琴は考え込むように、視線を宙にさまよわせた。流れるようにエクセルを操作していた両手は、いつの間にか止まっている。幼馴染とはいえ、他人のためにこれだけ真剣に考えてくれるのだから、つくづく人の良いやつだと思う。
 麻琴は、昔からこうだった。誰かが困っていると聞けば、隣のクラスでも上の学年でも構わず顔を出して、柔らかい声で「どうしたの?」と訊ねていた。その様子を遠巻きに見て「いい子ぶってる」やら「点数稼ぎしてる」なんていう連中もいたけれど、麻琴は気にする素振りすら見せなかったと思う。優しいだけではなく、芯があるのだ。
「白瀬、色々考えてもらえるのはありがたいんだが、作業を邪魔するのも申し訳ない。そっちを優先させてくれ」
「あ、うん、それは大丈夫……」
 麻琴はそこまで言うと、はっとしたような表情で、ディスプレイに表示されたエクセルシートと修を見比べた。
「修って確か、エクセル使えたよね?」
「ああ、ややこしい関数は分からんが。体重管理とか、食事のカロリー計算とか、試合の記録とかは、エクセルでやってる」
「じゃあ、もし良かったら、なんだけど」
 麻琴は口元をゆるめて、ふふふと笑った。何か妙案を思いついたらしい。
「私のやってる部活連絡会、手伝ってみない?」
「……へ?」
「ずっと家で寝てるよりは、気晴らしになると思うの。それに私としても、いま人手が足りてないから、すごく助かる」
 まさかの提案に面食らった。
 ボクシング部を休んでいる期間中、部活連絡会を臨時で手伝う──考えもしなかったことだ。しかし、よくよく考えてみると、意外にアリという気がしてきた。
 部活をせずに家に帰ったところで、時間を持て余すことは目に見えている。だったら家でじっとしているより、特技──というほどのことでもないが──を生かしてボランティアでもしてみた方が、少なくとも気はまぎれるように思えた。
 それに、しょうもない話ではあるが、「スポーツ特待生のくせに部活を休んでいる」と、「スポーツ特待生が部活を休んでいる間にも学校運営を手伝っている」では、周囲からの見え方もだいぶ違うだろう。こういう時、外野からどう思われようが知らんと開き直れたら楽になるのかもしれないが、修はそこまで超然としていることはできなかった。
「そうだな……俺で良かったら」
「本当!?」
 麻琴は嬉しそうに言った。特徴的なハスキーボイスが、いつもより少しだけ高く、昼休みの教室の一角に響く。
「じゃあ、さっそくなんだけど、今日の放課後からお願いしてもいいかな?」
「ああ」
 修は頷く。
 スケジュールは、確認するまでもなかった。

          *

 放課後。
 修は麻琴に連れられて、部活連絡会の事務室があるというA棟の四階に向かった。
 踊り場を通り抜ける時、一年生の女子生徒とすれ違う。数人で連れだって、きゃっきゃと笑い合いながら一目散に階段を駆け下りていった。
 こういった放課後の平和な光景を見るたびに、修は中学二年の途中まで在籍していた法連寺学園のことを思い出す。
 法連寺学園にいた頃、放課後とは、修練の時間だった。厳しい練習に耐え抜く試練の時間。決して甘えの許されない、刻苦の時。四限、昼休み、五限と、放課後が近づくにつれて憂鬱が増していき、胃のあたりがまるで石でも詰められたように重くなっていくのを、転校して三年が経ったいまでも覚えている。あまりにストレスが大きかったせいか、一つ一つのエピソードは靄がかかったように曖昧なのに、瞬間ごとの苦しさや辛さは、ふとした拍子に思い起こされた。
 世のなかには、こういう自由で楽しい放課後も、確かに存在するのだ。
 その道すがら、廊下を歩いていたたった数分間で、麻琴は何人もの生徒から相談を持ちかけられた。
「麻琴、ごめん! 遠征が増えた関係で、やっぱり予算足りなくなるかも」
「来月、体育館のサブアリーナを押さえたいんですけど、どこと調整すればいいですか?」
「白瀬さん、軽音部の件で、またご近所から苦情がきてるって」
「市役所裏のゲーセンに、うちの制服を着たちょっとやばそうな人たちが集まってるって噂があるんだけど……」
 部活連絡会の役員だから、というのももちろんあるのだろうが、やはり人徳なのだろう。様々な相談事に、麻琴は嫌な顔一つせず、丁寧に答えていた。
「私から誘っておいて、いまさら聞くのもなんだけど」
 さすがの手際の良さで相談を一通りさばき終えると、麻琴は階段を上りながら、修の方を振り返った。
「部活連絡会が普段どんなことやってるのか、想像つく?」
「……いまので、大体イメージはついたよ。部活の予算の割り振りとか、施設の使用スケジュールを調整したりとか、そんな感じだろ?」
「うん、それも仕事の一つだね。でも、予算は部活の規模と実績に応じて大体の枠が決まるし、英印高校は敷地が広くて施設も充実してるから、練習場所ではそんなに揉めないの」
 確かに英印高校は、このN県水島(みずしま)市に広大な土地を有しているマンモス進学校だ。敷地内には一八の校舎と三つの体育館、二つの校庭、全校生徒五〇〇〇人を収容できる多目的ホールなどがあり、ちょっとした大学ぐらいの規模がある。
「だから大変なのは、むしろ突発的なやつかな」
「突発的、っていうと?」
「部活同士のトラブルの仲裁とか、ルールを守らない部活に警告したりとか、そういうの」
「けっこう大変そうだな……」
 ボクシング部もそうだが、英印高校には全国大会常連の運動系の部活がいくつもある。屈強な強面の男子生徒がそろっている部活に乗り込んであれこれ注意するのは、一般の生徒にはかなりの負担だろう。しかし麻琴なら、案外気にせず淡々とやっているという気がした。
「ちなみに組織的な話で言うと、生徒会の下部組織になるの。もともとは生徒会がやっていた仕事らしいんだけど、業務量が増えてきて、一〇年ぐらい前に独立したんだって。ほら、うちって部活動が盛んじゃない?」
「まぁ、全校生徒五〇〇〇人、部活は一〇〇以上だからな……ちなみに仕事は何人で回してるんだ?」
「いまは、私一人。生徒会の人たちにも、たまに手伝ってもらってるけどね」
「──マジか」
 本当に頭が下がる。どうりで、昼休みもノートパソコンとにらめっこしているはずだ。
「というか、なんで白瀬一人なんだ?」
「部活連絡会って、本来は三人で運営するものなの。毎年四月に、『研究系』『芸術系』『運動系』それぞれの部活から代表が一人ずつ選出されるんだけど、今年はまだ、私しか決まってなくて」
 麻琴は生物学研究会に所属しているから、「研究系」の代表ということなのだろう。
「芸術系や運動系の部活の部長さんたちには、早く代表を決めてもらうように、何度もお願いしてるんだけどね」
 麻琴は小さくため息をついた。
「お願いって、もう七月だぞ……」
 とはいえ、大体の事情は想像できた。この英印高校は部活動に対して、単なる課外活動という枠を超えて投資している。主要な部活には一流の指導者を招聘しているし、設備も高校とは思えない最新のものだ。運動系や芸術系の部活動に所属しているのは、中学時代からそれぞれの分野で実績を残してきた本格志向の連中だ。ドラフト候補やインターハイの上位入賞者、海外の有名なコンクールで金賞を獲った音楽家たちがゴロゴロしている。そういう生徒たちにとって、自身の能力向上に直結しないこと──たとえば予算作成や折衝のような雑務は、できるだけ避けたいはずだ。各部活の部長たちが押しつけ合っている間に、七月になってしまったのだろう。修だって、こういう状況になっていなければ、「忙しいから」と断っていたかもしれない。
「こう言うのもなんだが……一人しかいないっていう状況で、お前、よく引き受けたな?」
「部活の先輩から、どうしてもって頼み込まれたの。私はお母さんの関係で、土日のフィールドワークとか展示会準備とかは、基本的に出られないから。平日にできることならやってみようかなって思って」
「そうか……無理するなよ」
 麻琴の家庭環境は少々複雑だ。母親は数年前に交通事故に遭って、重い障害を負った。父親はずいぶん前に離婚して家を出ていったきり、いまはどこにいるのかも分からないという。実質的に、彼女が一人で母親の介護をしていた。平日は訪問介護やデイケアを利用できるが、土日はサービスを行っていないらしい。そのため休日はどうしても、家にいないといけないとのことだった。
 四階の廊下を歩いていくと、麻琴は奥から三番目のドアの前で立ち止まった。ここが部活連絡会の事務室らしい。
 麻琴は鍵を開けて、部屋のなかに入っていく。「どうぞ」とうながされて、修も続いた。
 連絡会の事務室は、通常の教室の四分の一もない小さな部屋だった。しかし圧迫感がないのは、室内に物が少ないのと、西向きの窓から外を見渡せるからだろう。
 窓を開けてみると、梅雨明けの清々しい風と一緒に、校庭でシートノックをしている野球部員たちの荒々しい掛け声が室内に飛び込んできた。どこからか漂ってくる焼けた栗の甘ったるい匂いは、料理研究会の仕業だろうか。すぐ近くに見えるB棟の屋上では、写真部の部員とおぼしき女子生徒が大きな一眼レフのカメラを抱え、英印高校の広大な敷地を俯瞰するように撮影していた。
「普段は格技棟にいるから分からんが……こうして見ると、賑やかな放課後だな」
「うん。私はこの雰囲気、けっこう好きだよ」
 風が思ったより強く、机の上に置いてある書類が飛びそうだったので、修はいったん窓を閉める。そして、あらためて室内を見渡してみた。
 入口から見て右手の壁沿いに机を四脚つなげて並べて、そこにパソコンやプリンター、モニターを置いてある。ここがワークスペースらしい。反対側の壁沿いには、図書室から運んできたような、背の高い書架が三つ。本の数は少なく、ほとんどがバインダーやファイルケースだった。
 そして、ぽっかりと空いた部屋の中央には、応接セットというにはやや小ぶりな、しかしれっきとした革張りのソファが二つ、向かい合って配置されていた。
「すごいな、ソファがあるのか」
「卒業生からの寄付だよ。ジャガーズの長岡選手分かる?」
「ああ、うちの野球部のOBだろ」
 二年連続でリーグMVPを獲得した、若き主砲だ。昨年は日本代表の中軸として世界大会の優勝にも貢献し、自身はもちろんのこと、母校である英印高校の名声を一躍高めた。
「もしかして、長岡選手からの寄付?」
「うん。長岡先輩も、在学中は部活連絡会の役員やってたんだって」
「まじか……」
 一流のアスリートも、高校時代は部活連絡会の役員として予算編成やらスケジュール調整やらをしていたのだ。練習を理由にして雑務を嫌がる自分たち運動系の部員たちが、途端に情けなく思えてきた。
「じゃあ、まずはこれを渡しておくね」
 麻琴は机の引き出しを開けると、鍵を取り出した。そして、修に手渡す。
「扉の鍵か」
「うん。合鍵は人数分しかないから、なくさないようにね」
 錆びてこそいないが、ずいぶんと年季の入った鍵に見えた。おそらく歴代の役員の間で継承されているものなのだろう。「英印高校 部活連絡会事務室」と刻印されている。
「あと、いまから金庫の暗証番号を言うから、メモしてもらっていい?」
「金庫?」
 言われて初めて、書架の隣にいかにも重厚そうな黒塗りの金庫があることに気付いた。
「まとまったお金や、個人情報に関わる書類を扱うこともあるからね」
「しかし、ずいぶんと立派だな……」
 見たところ、本格的な耐火金庫だった。少しの衝撃ではびくともしないだろう。
 言われた数字をスマホにメモしたあと、修は麻琴に訊ねた。
「で、俺は何をやればいい?」
「それじゃあ、今年度の各部活の予算執行実績をまとめてもらってもいいかな? 来年の予算編成の参考にしたいの」
「おう」
「パソコンは、机の上に置いてあるのを使って。ログインIDとパスワードは……」
 そうやって、麻琴にやり方を聞きながら作業を始めようとした時。
 コンコン、とドアがノックされた。乱暴というほどではないが、慣れた感じのする音だった。
「どうぞ、開いてますよ」
 麻琴がドア越しに来訪者に声をかける。
 部屋に入ってきたのは、修もよく知っている人物だった。
「おっ、蔵元もいるのか」
 スーツ姿の男性は、修と麻琴を見比べながら、意外そうに言った。
 浜田悟。日本史の教師で、修や麻琴の所属する二年A組の担任でもある。年齢を聞いたことはないが、四十代の前半だろうか。夏はポロシャツで過ごすことの多い英印高校の教師のなかでは珍しく、いつもきっちりとジャケットを羽織り、ネクタイを結んでいる。今日はグレーのセットアップで、すらりとした長身によく似合っていた。教師というより、都会で働く証券マンといった佇たたずまいだ。実際元商社マンだったが、五年前、母親が病気になったのを機に地元に戻ってきて、母校の教師に転身した経歴の持ち主だった。
「二人してなんだ、デートか?」
「何言ってるんですか」
 修は呆れながら言い返した。修自身はともかく、麻琴にまで変な噂が立っては申し訳ない。
「部活を休んでるんで、連絡会を手伝ってるんですよ」
「休んでるって、怪我か?」
 浜田はからかうような口調をひっこめて、真面目な表情で訊ねる。
「まぁ、そんなところです」
「そうか……焦らずに治せよ。怪我を押して練習して、結局選手生命を縮めたなんていうのは珍しい話じゃない。桂木先生はそんなことはしないと思うが、部の実績のために、選手に無理させる指導者だっているからな」
 浜田は苦々しい表情をしていた。浜田自身は運動系の部活の顧問をしているわけではないが、一部の部活の軍隊のような厳しさにはよく苦言を呈していた。担任として受け持っていた男子生徒が毎日足を引きずりながら練習に向かっているのを見かねて、屈強な男性教師たちが待ち構える体育科職員室に単身抗議に行ったという話を聞いたことがある。
「まぁ、とにかくしっかり休め。高校生に、身体を壊してまでやる必要のあることなんて、一つもないんだから」
「──はい」
 もし法連寺学園に、浜田のような教師が一人でもいたのなら、結果はずいぶんと変わっていたかもしれない。柳瀬の苛烈な指導方針に異を唱え、あんなことが起こる前に、部の体質を変えることができたかもしれない……ふいに、そんな詮ないことを思った。
「それで先生、今日はどうしたんですか?」
「いや、ちょっと白瀬に相談があってな」
 浜田はちらりと麻琴の方を見る。
 相談というのは、てっきり生徒だけが来るものと思っていたので、修は少し驚いた。部活連絡会というのは、修が思う以上に学校中から信頼されている組織なのかもしれない。あるいは、麻琴自身の人望か。
「そういうことなら、浜田先生。まずはソファにどうぞ」
 部屋の入口で立ったままの浜田に、麻琴が気を遣って声をかける。浜田も、「じゃあ、失礼して」と言って革張りのソファに腰掛けた。麻琴も向かいに座る。
「俺は……外した方がいいですよね」
 部活連絡会を手伝いにきたとはいえ、今日が初日なのだ。もし込み入った話なら、いない方が都合がいいのではないかと思った。
「いや、こういうのは蔵元、案外お前向きかもしれない」
 浜田は意外なことを言う。ちらりと麻琴を見ると、小さく頷いて座るよう目でうながした。一体何事だろうと少し不安に思いつつ、修は麻琴の隣に腰掛ける。
「さて──どこから話すかな」
 浜田は視線を宙にさまよわせ、数秒の間を置いた。そして、修と麻琴を交互に見ながら、まるで雑談をするような調子で訊ねる。
「二人とも、この前の日本史の期末テストはどうだった?」
 どんな相談が来るかと身構えていたので、修は拍子抜けした。横に座っている麻琴からも、戸惑うような雰囲気が伝わってくる。
「私は、九二点でした」
「……俺は、五八点だったと思います」
 麻琴は学業優秀だ。家庭の事情のため勉強できる時間は限られているというのに、進学校できっちり成績上位をキープしているのは、すごいことだと思う。
「手応えはどうだった? 難易度とか、制限時間とか」
「難易度、ですか……」
 質問の意図は分からないが、特別難しかったという印象も、簡単だったという記憶もなかった。強いて言うなら、
「普通、だったと思いますけど……」
 問題は教科書に沿って出題されていたし、大まかな歴史の流れをおさえられているかを確認する、オーソドックスなテストだったと思う。形式もいつもと同じマークシートだった。
「だよなぁ……問題が変だったわけじゃないよなぁ」
 浜田はそんなことを言いながら、ため息をついて天井を仰いだ。明るい照明の真下で向かい合うと、心なしか、いつもより少し顔色が悪く見えた。
「この前のテストで、何かあったんですか?」
 麻琴の質問に、浜田は浮かない顔で答えた。
「この前っていうより、これで三回連続だ。それでさすがに、おかしいなと思ってな」
 浜田はそう言いながら、脇に抱えたクラッチバッグのなかから一枚の紙を取り出して机の上に置いた。そこにはエクセルで作成したと思われるグラフがいくつか描かれている。
「まず、こいつを見てくれ」
 浜田は円グラフを指さした。
「これは、前回の期末テストの結果を一〇点刻みで集計したものだ。たとえば、八一点から九〇点までの点数をとったのは受験者の八パーセント、七一点から八〇点までの間は一二パーセントっていうふうに、全体の得点分布が分かるようになっている」
「なるほど」
 しかし、これの一体何が問題なのだろう。得点が集中しているのは六〇点から七〇点のエリアで、それは修の体感と合致している。
「ざっと見た感じ、得点の分布におかしなところはないように見えますけど」
「ああ。全体について言えば、一般的な分布だ」
 こっちも見てくれと、浜田のその下にある円グラフに指先を動かす。
 そちらは、ずいぶんと歪なグラフだった。九〇点から一〇〇点のエリアに、全体の七五パーセントが集中している。
「こっちは、よっぽど簡単なテストだったんですね」
「いや、同じテストだ」
 浜田は腕を組み、眉間に皺を寄せながら、二つ目のグラフをにらみつけている。どうやら、この歪なグラフが、浜田の「相談」の核心らしい。
「ただ、こちらは母集団を変えてある。演劇部に所属している二六人に絞って集計すると、こういう結果になるんだ」
 演劇部──ボクシング部や野球部と並ぶ、英印高校の看板部活だ。芸術系の部活のなかでは、押しも押されもしない花形である。毎年推薦入学者を数多くとっており、卒業生のなかには有名劇団のスターもいる。
 しかし、学業面で演劇部が特別優秀だという話は聞いたことがない。むしろ──自分のことを棚に上げて言うと──部活動に放課後の時間の大半を注ぎ込んでいるぶん、成績上位者は少ないだろうと思われた。
「もちろん、問題は選択式だから、偶然こういう分布になったという可能性もゼロじゃない。ただ、去年の三学期の期末テストから、今年一学期の中間テスト、期末テストと三回連続だ。さすがに何かあると思ってな。しかも、それ以前からの点数の上がり幅が尋常じゃない」
「心を入れ替えて、勉強を頑張った──という可能性もありませんか?」
 麻琴が訊ねる。
「あるいは、みんなで集まってテスト対策をしたのなら、同じヤマを張っていて、それが当たったのかも」
 浜田は苦笑した。どこか疲れたような表情だった。
「俺もそう信じたいんだが、このデータはさすがに看過できない。何らかの不正があったと疑わざるを得ない状況だ。カンニングとか、事前に問題を盗み見たとかな」
 話の成り行きが、ずいぶんと物騒になってきた。
「とはいえ、白瀬の言う通り、あいつらを信じたいっていう気持ちもある。それに、もしこのことを職員会議に上げて正式に調べるとなると、経緯を教育委員会に報告したり、部員一人一人から聞き取りをしたりして、かなりの騒ぎになるだろう。当人たちにとってはコンクール前の大事な時期だし、それは避けたいんだ」
 浜田の言い分は、修にも理解できる。
 危機管理の原則にのっとるなら、疑念が生じた段階で速やかに上に報告するべきだろう。しかし、もし浜田の早とちりだったなら、演劇部をいたずらに混乱させることになるばかりか、幾人ものスターを輩出している英印高校の金看板に傷をつけることになりかねない。
「そこで、だ。ここからが本題なんだが」
 浜田はソファから身を乗り出すと、麻琴、修の順番で、じっと目を合わせた。
「二人には、演劇部に探りを入れてきて欲しい」
「探り、ですか……」
 要するに、演劇部がシロかクロか、感触を確かめてきて欲しいということだろう。
「できれば、首謀者が誰なのか、目星をつけてきてもらえると助かる」
 部活連絡会というのは、そんなことまでやるのか──これまでの具体的な活動内容を知らないのでなんとも言えないが、さすがに一介の生徒の手には余るように思える。ちらりと麻琴の様子をうかがうと、彼女も戸惑っているようだった。
「教師が動くと、どうしても大事になるからな。その点、部活連絡会なら、学業と部活の両立調査とかの名目で自然に聞けるだろう? それに白瀬はみんなからの信頼が厚いから、正直に答えてくれると思う。スパイみたいな真似させて、申し訳ないんだが……」
 浜田は深々と頭を下げた。こう面と向かって教師に頭を下げられると、さすがに居心地の悪さを感じる。
「そうですね、どこまで聞き出せるかは分かりませんけど……やれることはやってみます」
 そう言って、麻琴は請け合った。
 浜田の勢いに押されてしまったような気もするが、ここは新参者の修が口を出す場面ではないだろう。
「助かる。変なこと頼んですまんな」
 浜田は顔を上げると、あらためて礼を言った。心なしか、ほっとしているように見える。
「演劇部は変わり者ぞろいだからな。最初はちょっと取っつきづらいかもしれん。そこは蔵元がサポートしてくれ」
「うす」
 迂遠な言い回しだったが、浜田の言わんとしていることは分かった。
 アンケートという名目で聞きにいったとしても、連中は演劇以外には興味がないから、無視したり追い返そうとしたりしてくる可能性がある。コンクール前なら、ピリピリしているだろうからなおさらだ。麻琴一人だと若干心もとない。神経が図太く、なめられない外見の男がついていった方がいい。その点、修はうってつけだ。浜田が最初に言っていた、「案外お前向きかもしれない」というのは、そういう意味だったのだろう。
「あと、注文ばかりで申し訳ないんだが、一つだけ」
 浜田は、ここが大事と言わんばかりに、ゆっくりとした口調で続けた。
「できるだけ、穏便に頼む。騒ぎになったら意味がないからな。もし演劇部がクロで、首謀者に当たりがついたら、その時点で報告にきてくれ。勇いさみ足になる必要はないからな」
 そこだけは注意してくれと、浜田は念を押した。

          *

 浜田が職員室に戻ったあと、修と麻琴は演劇部の部室がある二階へと向かった。日をあらためても良かったのだが、浜田としてもできるだけ早く結果を知りたいだろうと思い、直行することにした。
 部活動に所属していない生徒たちはすでに下校し、部活をしている生徒たちは活動の真っ最中という時間だ。歩いている人もまばらでがらんとした廊下の床には、窓から射し込む橙色の西日が敷かれている。
「浜田先生、感じの良い人だよな」
 廊下を歩きながら、修は呟いた。
 英印高校は、全国レベルの部活動と有名大学への進学実績、その両者で名前を売っている。しかし、文字通り文武両方に秀でた生徒というのは滅多にいない。必然的に、勉強に長けた生徒には勉強の、運動に長けた生徒には運動の、芸術に長けた生徒には芸術の才能を伸ばしていくというやり方が理にかなう。教師の側もそれをよく分かっていて、運動系の部活に所属している生徒がテストで赤点をとったとしても補習はしないし、逆に成績優秀な生徒がハードな部活に入ろうとすると、勉強面に悪影響が出ることを懸念して全力で止めにかかる。
 しかし浜田の指導は、英印高校の教師にしては珍しくバランスを重視している。将来アスリートになるとしても日々の勉強は無駄にはならないし、勉強が得意な生徒が部活に打ち込んでもいいというのが浜田の考え方だった。たとえスポーツ系の特待生であっても授業中に寝ていたら容赦なく叱る一方で、中学生レベルでつまずいているような場合は粘り強く基礎から教えてくれる。修も入学当初、鎌倉時代と平安時代の順番も怪しかったのに、いまでは定期テストでコンスタントに平均点近くをとれるようになった。
 部員をインターハイで優勝させたり、受け持っている生徒を有名大学に入れる方が評価されるかもしれないが、浜田はそういった分かりやすい結果にとらわれていない。そういうところが、修には好ましかった。
「うん、そうだね。分け隔てのない感じで」
 麻琴も同じ印象を持っていたようで、歩きながら頷く。
「なんで学年主任じゃないんだろうな?」
 いまの学年主任は髪の薄い小柄な男性で、トラブルが起きないかいつもオドオドしているような印象がある。修がスポーツ推薦の合格通知を受け取って挨拶に行った時も、ボクシングという単語を出した瞬間、「スポーツ系の子はもう十分なんだけど……まぁ、とにかく、暴力問題だけはやめてね」と疑うような目で言われた。ボクシングは不良のスポーツ、なんていう先入観は、四十代以上だと案外根強かったりする。
「……生徒から人気のあるぶん、足を引っ張る人もいるらしいから。去年も、変な中傷が流れてたよ」
「ああ、そう言えば、聞いたことあるな……」
 半年ほど前に、浜田が女子生徒と不倫しているという噂が流れた。もっとも、証拠もなく、おもしろ半分のデマだったという結論になったらしいが。どこの世界にも、実力で勝負できないからといって卑怯な手段に訴えるやつはいるものだ。
 そんなやりとりをしているうちに、演劇部の部室に着いた。部室前の廊下では、数人の演劇部員たちが床にブルーシートを広げ、その上で木板を糸鋸で切ったり、ペンキで塗ったりしている。どうやら大道具を作っているらしい。その横では、仰向けに寝そべって腹筋トレーニングをしている者もいる。修の持つ「演劇部」のイメージとはだいぶ違う光景だった。
「日比野さん、お疲れ様」
 麻琴は、木板をヤスリで磨いている女子生徒に話しかけた。こういう時、躊躇なく声をかけることができる彼女を、たまにうらやましく思う。
「あ、マコじゃん。どうしたの?」
 話しかけられた女子生徒は振り向くと、麻琴、修の順番で視線を滑らせる。
 名前は確か、日比野真奈。同じクラスだが、あまり話したことはない。彼女の方も、ボクシング部の筋肉馬鹿がこんなところで何をやっているのかと、若干不審そうな顔だった。しかし、隣に麻琴がいるおかげで警戒はされていないようだ。
「ごめんね、部活中に」
「ううん、構わないよ。マコにはいつも勉強教えてもらってるしね」
 日比野は愛想よく微ほほえ笑む。
「ちょっと部活連絡会の仕事で聞きたいことがあって」
「じゃあ、部長呼んでこよっか?」
「あ、大丈夫!」
 ブルーシートから腰を浮かせた日比野を、麻琴はあわてて引き留める。
「各部活一人ずつから聞いてるだけの簡単なアンケートだから」
「あ、そうなんだ」
「日比野さんにも協力してもらっていいかな? 五分ぐらいなんだけど」
「もちろん」
 麻琴は、メモ帳とボールペンを取り出すと、「得意科目と苦手科目は?」「勉強と部活の両立で頑張ってることは?」「部活のみんなで一緒に勉強することってある?」など、日々の勉強に関する質問を重ねていった。
 その様子を横で見ていた修は、うまいな、と思う。
 いきなり核心の質問に入れば、もし演劇部が不正をしていた場合、間違いなく警戒されてしまう。しかし、こうしてダミーの質問のなかにまぎれこませれば、自然な流れで訊ねることができる。こういうところの器用さは修にはないものだ。
「ちなみに、この前の期末テストで、点数良かったのって何?」
「英語と……日本史かなぁ」
 話題が徐々に本題に近づいてきた。
「日本史はどうやって勉強したの? 日比野さん、部活で忙しいから大変だと思うんだけど」
「日本史はねぇ、ふふ」
 日比野は含みのある笑みを見せる。これは何かあるなと、修は直感した。
 しかし、彼女の口から出てきたのは、思いもよらないものだった。
「日本史の期末テストにはね、法則があるの」
「法則?」
「そっ、法則さえ分かっちゃえば余裕だよ」
 カンニングでも、問題用紙の盗み見でもなく、「法則」。
 メモをとっている麻琴も、表情には出していないが、どこか戸惑っているように見える。
「法則って、どういうこと?」
「うーん、マコは頭いいし、成績良いから、知らなくても大丈夫だと思うけど──」
「──困るなぁ、勝手に人に話しちゃダメって言ったはずだよ」
 突然、気怠げな声が会話に割り込んできた。
 振り向くと、そこには痩身の男子生徒がいた。
「ごめんごめん。友達に聞かれてて、ついね」
 日比野は悪びれた様子もなく、ぺろりと舌を出す。
「君が日本史が苦手だって言うから、特別に教えてあげたんだよ。いまはテスト対策より、演劇の方に集中してもらいたいからね」
 人形のように端整な顔立ちだった。涼しげな切れ長の目に、線で引いたような鼻梁、薄い唇。両耳にピアスを開けていて、髪はなんと銀色に染めていた。容姿自体はかなり派手なのに、不思議と落ち着いた雰囲気がある。しかしそれは、穏やかさではなく、どこか冷たさを感じさせる落ち着きだった。
「念のため聞くけど、この二人以外に、法則のことを教えた?」
「えっと……マッキーと、竜一と、浩介と、玲菜ちゃんと、ノギっちと……六人ぐらいかな」
「ふぅん、本当かい?」
 男子生徒は微笑みを浮かべて、日比野を問いただす。甘さと鋭さの同居した、不思議な表情だった。艶やかなのに、嘘を許さない脅迫者のようなすごみがある。案の定、日比野は「ごめん、演劇部のなかで、二〇人ぐらいには話しちゃった」とバツが悪そうに答えた。
「終わったことは仕方ないけど、あんまり大勢に言っちゃダメだよ?」
「う、うん。ごめんね」
「いや、怒ってるわけじゃないよ。でも、パターンを変えられて困るのは君だからね──さっ、仕事に戻らないと。公演は近いよ」
 男子生徒にうながされると、日比野は麻琴に向かって「ごめん、また今度ね」と呟き、ブルーシートの方へと戻っていった。
 突然の成り行きに、修はしばし唖然としたが、一拍遅れて腹が立ってきた。
 日比野が自分の意思で話さないというなら、仕方ないと納得できる。しかしいまのは完全に、突然割り込んできた銀髪の男子生徒が、日比野の発言を封じたという格好だ。部内でどんな立場にいるのか知らないが、その強引さには反感を覚えた。一体こいつは、何の権利があって麻琴と日比野の会話を打ち切ったのだろうか?
「──おい、そこのお前」
 気付けば、一歩前に出ていた。
 すぐ横にいる麻琴が、「修、いいから」と慌ててたしなめようとする。
 しかし麻琴には悪いが、ここは退くわけにはいかなかった。
 修は小さく息を吸う。
 法連寺学園を去ってから、死に物狂いで練習してきた。インターハイで優勝し、ジュニアの世界タイトルも獲った。
 怯えて何も言えなかったあの時とは、もう違うのだ──。
「二人が話してるのが見えなかったのか?」
「おやおや」
 男子生徒は、芝居がかった仕草で長身の修を見上げると、眉をひそめた。
「日当たりが悪いと思ったら、どうりでね。でくの坊がいた」
「……なんだと?」
 人相が悪いことは自覚している。ほんの少し声を荒らげただけで、脅しているように聞こえてしまうことも知っていた。しかし目の前にいる飄々とした雰囲気の優男は、修の鋭い目つきを前にして、口元に浮かべた薄ら笑いを崩さない。
「しかし残念だね。二年生にはボクの他にもう一人、S特待生がいるって聞いていたけど。まさか、こんな見るに堪えない野蛮人とは」
「S特待……?」
 英印高校には、二年生だけで約一七〇〇人の生徒がいる。そのなかで、入学金・授業料ともに完全免除で入学したS特待生は二人だけだ。
 一人は、高校生離れしたフィジカルを武器にボクシングの中重量級で活躍する蔵元修。
 そしてもう一人は……シェイクスピアの再来とも言われる戯曲家にして、演出、作曲、俳優もこなす神童。英国からの帰国子女で、名前は確か──
「御堂慎司(みどうしんじ)、って聞いたことないかい? まぁ、君は見るからに芸術には縁がなさそうだし、知らないよね」
「初対面だっていうのに、ご挨拶だな」
「ボクはね、運動系の連中が嫌いなんだよ」
 御堂は不快さを隠そうともせずに、低い声に感情を乗せて言い放った。
「いつも群れて、ところかまわず大声を出して、無知や不勉強を勲章みたいに振りかざしてくる君たちが、どうにも我慢ならないんだ」
「奇遇だな。俺も、『ぼくたちはゲイジュツカです』っていうツラしてふんぞりかえってる、偉ぶった青びょうたんが大嫌いなんだよ」
 すると、御堂は「おや」という顔をした。どうやら、そんなふうに切り返されるとは思っていなかったらしい。
「大体、なんだその髪やピアスは? 人と違うことをやれば格好良いとでも思ってるのか?」
 修はルールを守らない人間が嫌いだ。常識というものを無視し、善悪ではなく好悪で物事を判断する人間に本能的な反発を覚える。こういう人間のうち何割かが、虫の居所次第で人を殴りつける、あの男のようになってしまうのだろうとすら思う。
「だからさ、そうやって理解できないものを排斥しようとする態度こそ、文明人として致命的だよねっていう話さ。ちなみに英印高校から推薦入学の打診を受けた時、こっちから出した条件の一つに、ボクの髪型や服装には一切口を出さないっていうのがある。つまり、これは正当な権利だ」
 御堂は鼻先で笑うと、軽蔑するような口調で言い返した。
「ボクはむしろ、全員同じように髪を短く刈り込んで、同質的であることを美徳とする君たちの価値観の方が、よほど不気味だけどね」
「そうやって一生、斜に構えてろ。自分たちは俗な連中とはひと味違うんだっていう、気持ち悪い陶酔感と自己満足だけ抱えて、あとは何も残らんと思うけどな」
「修! お願いだから、ちょっと落ち着いて……」
 浜田には「穏便に」と言われていた。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「言うに事欠いて、自己満足だと? それは君たちだろう。高校生にもなって、球遊びやチャンバラ、殴り合いで勝った負けたと、恥ずかしくないのかい?」
「御堂さん、もっと言ってやってください!」
「お絵かきやごっこ遊びで喜んでる連中に言われたかないね。勝ち負けを追求してこそ、見える景色がある。そこを濁してるお前らは、いつまでたっても自己満足だよ」
「いいぞ蔵元!」
 ……いま、何か聞こえなかったか?
 振り返って、修はぎょっとする。そこには、バスケ部やサッカー部の連中がずらりと控えていた。体育館やグラウンドの順番待ちで校舎内を走っている時に、この騒ぎを聞きつけてやってきたのかもしれない。まるでお祭りのようにはやし立て、「びびってんじゃねーよモヤシ」「芸術とか自己満だろ」と言いたい放題に叫んでいる。
 よくよく周囲を見てみると、運動系だけではなく、軽音部や美術部、文芸部など芸術系の部員たちも大勢集まってきていた。彼らは御堂の後ろに立ち、やはり野次を飛ばしている。「サルは野原に帰れ!」「いつも臭いんだよ、シャワー浴びてから教室に来い」と、こちらも散々な言われようである。まるで修と御堂が、運動系と芸術系の代表として、日頃互いに抱えている鬱憤をぶつけ合っているようだ。
 こうなると、もう引っ込みがつかない。
 修と御堂は無言でにらみあった。しかし表情は対照的だ。修は珍しく眉間に皺を寄せて感情をむき出しに、御堂は冷ややかな薄ら笑いを浮かべて。
 そして、修が口を開き掛けた時──。
「そこまで!」
 鋭い声が、廊下に響き渡る。
 叫んだのは、修と御堂の間に割って入った、麻琴だった。
 麻琴はいつになく険しい表情で、修と御堂を交互に見ながら、子供を叱るように言った。
「特待生だったら、なおさら、みんなのお手本にならないと。そうやって罵り合うのが、一流を目指す格闘家や芸術家の流儀なの?」
 白熱していた廊下が、水をうったように静まりかえる。
 御堂は肩をすくめたあと、両手を上げた。もう敵意なし、の意思表示だろう。
 こうなると、修も矛を収めるしかない。激情がすうっと引いていった。そして、先ほどまでの自分が、練習できないことの不満のはけ口を探して怒鳴っていたように思えて、途端に恥ずかしくなった。

          *

「白瀬、さっきはすまなかった」
「ううん、分かってくれたら、それで」 
 麻琴は柔らかい口調で、首をそっと横に振る。大声を出したことがよほど恥ずかしかったのか、うつむき加減で頬をすこし赤らめていた。
「確かに、ボクも大人げなかったよ。君が止めてくれて助かった」
 御堂はソファに腰掛けると、麻琴に向かって素直に頭を下げる。そのこと自体は殊勝だが、相変わらずの気取った物言いがやはり気にくわない。何が「大人げなかった」だ。
 先ほどの騒動のあと、麻琴は修だけではなく、御堂も事務室に連れて戻ってきた。最初は「なんでこんなやつを」と思ったが、よくよく考えてみると好判断だ。あの場を穏便に収めるには、修と御堂、どちらかが残っていてもいけない。そうでないと、片方が「引き下がった」という形になって禍根を残すことになる。
「しかし、ボクもまだまだだな。あんな安い挑発に乗ってしまうとは」
「挑発? 先に喧嘩ふっかけてきたのはそっちだろ」
「攻撃されたと感じるのは、君に後ろめたさがあるからだよ。文句を垂れる前に、少しは自省したまえ」
「二人とも?」
 麻琴が怖い顔になったので、修は口をつぐんだ。御堂も薄く笑って、「いや、すまない。どうも彼とは相性が悪いね」と肩をすくめる。芝居がかった仕草だが、この男には嫌味なぐらい馴染んで見えた。
「本題に戻ると……そうそう、日本史のテストの『法則』の話だったね」
 そう、修たちはもともと、演劇部の部員たちの日本史の点数が不自然に高いという理由で、探りを入れに行ったのだ。
「御堂くん、『法則』って、どういうこと?」
「くん、はいらないよ。なんなら、慎司って呼んでもらっても」
 女性にはずいぶんと気安く話す男だと思ったが、顔が良いというのは得なもので、こいつが言うと図々しい感じがまるでしない。表情は柔らかく、まるで雑誌の切り抜きのように完璧な笑みだった。
「ちなみに、白瀬さんのファーストネームは?」
「ま、麻琴だけど」
「とりあえず、ボクは一足先に麻琴って呼ばせてもらうね。こっちの方が響きが良いし、君に似合ってる」
 修はげんなりする。そういう歯の浮くような台詞をよく言えるなと思った。
「それで『法則』だけど、単純な話さ。これさえ分かれば、浜田のテストはいっさい勉強しなくても攻略できる」
「浜田先生、な」
 修は御堂をにらむ。
「目上の人には敬称をつける。芸術系の部活ではそんなことも習わないのか?」
「運動系の連中は、つくづく形式が好きだね」
 御堂は薄く笑う。
「もっと言うと、彼は侮られても仕方のない教師だ。浜田の授業は実に表層的だよ。生徒に歴史の語句を暗記させることに終始して、試験も参考書から抜き出してきたようなマークシート形式だ。退屈すぎて、ボクは予習はおろか、復習だって一度もしたことがない。授業そのものが時間の無駄と言えるね。率直に言って程度が低い」
「──よし、御堂。表に出ろ。お前に礼儀ってものを教えてやる」
 修は廊下へとつながる扉を親指で指した。さすがに世話になった人を馬鹿にされるのは、我慢ならない。
「修!」
 麻琴は鋭い声で制すると、御堂の方を向いて言った。
「慎司くんも、挑発するのはやめて」
「そんなつもりはなかったんだが……まぁいいや。確かにこのままだと、話が進まないね」
 確かに、この調子でお互いに突っかかっていたら、話し終えるのに一〇〇年ぐらいかかりそうだ。修はゆっくり息を吐いて、気持ちを落ち着ける。
「浜田は定期考査の一週間前になると、実力テストとかいう名目で、定期考査と同じ形式のテストをやるだろう?」
 御堂はふたたび話し始めた。
「実力テストは必ず五〇問で構成されている。これは定期考査の問題数と一致する。さて、ここからが肝心だ、よく聞きたまえ。この実力テストの正答と、定期考査の正答には、明らかな法則性があるのさ。たとえば、実力テストの一問目の正答が『A』だったとしようか。すると、一週間後の定期考査の一問目の正答は『B』になる。実力テストの二問目が『B』なら、定期考査の二問目の正答は必ず『C』だ。そうやって、実力テストの正答の記号を一つずつずらしていくと、定期考査の正答と完全に一致するんだ」
「……」
 麻琴は、あっけにとられたように呟く。修も同じ気持ちだった。
「ボクはこれを、『一字ずらしの法則』と呼んでいる」
「でも、そんな偶然って」
「偶然であるものか。何せこの法則、ボクが確認した限り、去年の一学期──つまりボクたちが入学して最初に受けた定期考査から、七回連続で成立している」
「七回……」
「ボクはこの『一字ずらしの法則』を、去年の期末テスト前に発見した。もっとも、あんな単純なマークシート試験、法則を使うまでもなかったけどね。日比野のように、助けが必要そうな部員たちと共有させてもらったよ。うちの演劇部は、暗記系の科目は苦手なやつが多いから」
 にわかには信じられない話だった。
 御堂の話が正しいとすれば、演劇部はカンニングや答案の盗み見などに手を染めていたわけではない。もちろん決して褒められたやり方ではないが、不正とは言えないだろう。それどころか、そんな単純な法則に沿って正解の記号を決めていた教師の方にこそ、落ち度があると言えるかもしれない。
「……御堂。お前、適当なこと言ってるんじゃないだろうな?」
「そう思うんだったら、自分で過去問を調べてみるといいさ。ボクは持ってないし、一度も見返したことはないけどね」
 御堂は冷ややかに言う。確かに、過去問を確認すればすぐに分かることだ。嘘ならもっとばれにくい嘘をつくだろう。
「しかし先生は、なんでそんなことを……」
「さあね? 興味ないけど──まぁ、推測はできる」
 御堂は皮肉っぽく口元を歪めた。
「お気に入りの生徒にサービスしてたんじゃないか? ほら、確かあっただろう、女子生徒と不倫したとかいう噂が。あの相手とかに」
「馬鹿言うな」
 修は眉をひそめた。
「浜田先生に限って、そんなことあるはずないだろ。大体その噂は、結局証拠なんて見つからなかったはずだ」
「『やった証拠が見つからない』イコール『やってない証拠』じゃないさ──まぁ、それはいいとして」
 御堂はまっすぐに修を見る。
 いつの間にか茶化すような雰囲気は薄れていた。目の奥にたたえた光には鋭さ、そして夜の川底に揺らぐ黒い水のような陰がある。人形のように整った顔立ちのなかで、その目だけが、日の当たらない場所からのぞき込んでいる他の誰かのもののように思えた。
「蔵元、同じS特待生のよしみだ。世間知らずな君に、一つ教えてあげよう」
「……なんだよ」
「あいつに限ってやるはずないとか、こいつに限って信頼できるとか、そういう思考はナンセンスだよ。聖人だって追い詰められたらパンを盗むし、家の食い扶持がなくなれば親だって子供を殺す。肝心なのは人格より環境さ。『羅生門』は読んだことあるかい?」
「回りくどいな、何が言いたい?」
 修は腕を組みながら言った。
「さっきから君の話を聞いていると、浜田のことをずいぶん信用しているようだね。しかし、他人はしょせん他人さ。どれだけ打ち解けたところで、本当の人格なんていうものは見えやしないよ。むしろ、『自分は相手のことを深く理解している』という傲慢さが、何より人の目を曇らせるのさ」
 御堂はそう言うと、ソファから立ち上がった。そして、「この件についてボクが話せることは、これで全部だ。あとは任せるよ」と言い残して、連絡会事務室から出ていった。

(続きは書籍版でお楽しみください)

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酒井田寛太郎『放課後の嘘つきたち』
2020年11月19日刊行
ハヤカワ文庫JA 本体価格780円+税 
ページ数:368ページ
ISBN:9784150314569
カバーイラスト:佐原ミズ(新海誠『ほしのこえ』コミカライズ、『マイガール』『バス走る』『鉄楽レトラ』『尾かしら付き。』他多数)
カバーデザイン:川谷デザイン(『いなくなれ、群青』『天久鷹央の推理カルテ』他多数)

『放課後の嘘つきたち』あらすじ

英印高校ボクシング部の寡黙なエース・蔵元修は、幼馴染で同級生の白瀬麻琴に誘われ、部活同士のトラブル解決を担う部活連絡会を手伝うことに。カンニング疑惑のある演劇部を探る修は、皮肉屋の部長・御堂慎司が黒幕だと推理するが……陸上部の幽霊騒動や映画研究会の不可解な作品改竄など、よく知るはずの放課後に潜む仄暗い謎と、その謎が呼び起こす修たち自身の噓――高校生たちの成長と再生を綴る青春ミステリ連作集

■著者紹介

酒井田寛太郎(さかいだ かんたろう)
第11回小学館ライトノベル大賞に応募した「翡翠と琥珀」で優秀賞を受賞し、『ジャナ研の憂鬱な事件簿』と改題のうえ2017年に同書でデビュー。著書に〈ジャナ研の憂鬱な事件簿〉シリーズ(小学館ガガガ文庫、全5巻)がある。青春ミステリ期待の新鋭。

担当編集:小野寺真央


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