次代英国ミステリ界の担い手アビール・ムカジー『カルカッタの殺人』訳者あとがき公開!
本年度英国推理作家協会(CWA)賞のショートリストが発表された。ポケミス7月刊『カルカッタの殺人』のシリーズ第3作もノミネートされている。なんとムカジーは、デビュー作である本作でいきなりCWA賞ヒストリカル・ダガー賞に輝き、続くシリーズ2作目もCWA賞ゴールド・ダガー賞、スティール・ダガー賞、ヒストリカル・ダガー賞にそれぞれノミネートされており、次代の英国ミステリ界の担い手と目されている。 歴史とミステリ、そしてキャラクターが、完全な形で融合したこのシリーズ。ここでは、翻訳ミステリ界を代表する翻訳家のひとりである田村義進さんの訳者あとがきを公開し、作品理解を深めて、ぜひお手にとっていただければうれしい。
『カルカッタの殺人』
(ハヤカワ・ミステリ1945)
アビール・ムカジー著/ 田村義進訳
訳者あとがき(田村義進)
インド東部最大の都市コルカタは、2001年まで英語読みでカルカッタと呼びならわされていた。
1919年4月、そのカルカッタに、生きる望みをなかば失ったひとりのイギリス人がやってくる。サム・ウィンダム。年は30代前半。かつてはスコットランド・ヤードの犯罪捜査部で鳴らした敏腕刑事である。1914年の夏、第一次世界大戦が始まると、志願して、フランス北東部の最前線に赴く。ドイツ軍との熾烈な塹壕戦で、仲間たちが次々に死んでいくなか、なんとか3年半もちこたえたが、終戦直前に被弾して生死のふちをさまようことになった。そして、ようやく死地を脱したとき、最愛の妻が流行(はや)りの病で死亡したことを告げられる。それ以来、モルヒネと阿片にのめりこみ、鬱々として淪落の淵に沈んでいた。
そんな折り、かつての上司からインドの警察で働いてみないかという誘いの電報が入る。故国イギリスですべきことは何もなかった。未練もなかった。それで、新天地をめざした。
そこで知りあった最初のインド人が、若い部長刑事サレンドラナート(イギリス人には発音しにくいとのことで、サレンダーノットと呼ばれている)・バネルジー。カルカッタ屈指の名門の出で、ケンブリッジ大学を出ているが、エリートコースを歩むことを拒否して、法執行機関の一員として働くことを決意する。帝国警察の採用試験ではじめて上位3名に入った秀才である。強い正義感を持ち、女性と話をするのが大の苦手というシャイな好青年でもある。
片や、生きるのに倦み疲れた、経験豊富なイギリス人刑事、片や、理想に燃える、新米のインド人刑事。そのふたりがインド帝国警察の上司と部下としてタッグを組む。
そして、いきなり出くわしたのが、イギリス人高級官僚の惨殺死体である。いまにも崩れ落ちそうな荒屋(あばらや)が立ち並ぶインド人居住区の一角で、その男はタキシード姿で喉を掻き切られ、胸を突き刺され、口に血まみれの紙切れを突っこまれていた。
当時のカルカッタの街は、北のインド人街(ブラック・タウン)と、南のイギリス人街(ホワイト・タウン)に二分されていた。そのブラック・タウンで、イギリス人の政府高官が殺害されたのだ。
時まさに帝国主義の時代である。藍やケシの強制栽培により小麦などの畑が激減し、その結果、数十万人規模の餓死者が出る大飢饉がしばしば発生している。また、不公平な関税政策によって、インド国内の地場産業は壊滅状態に陥り、民力は疲弊し、人々は貧窮の極みにある。当然ながら、現地には激しい怒りが渦を巻き、いたるところで反英闘争の烽火(のろし)があがりつつある。そんななか、1919年、植民地政府は悪名高いローラット法を制定し、危険人物と目された者を令状なしで逮捕し、裁判なしで投獄できるようにした。これに対して、インドの愛国者たちは猛反発し、一部の者は暴力的な手段に訴えるのもやむなしと訴えた。カルカッタを含むインドの主要都市には、いつ反政府暴動やテロが発生してもおかしくない緊迫した空気が流れていた。
そのような状況下での、政府高官の殺害事件である。反政府活動家による政治がらみの犯行という見方が出て、それ以外は考えられないとする空気が警察のなかでも外でも支配的になるのは当然の成りゆきだった。
だが、そうそう話は簡単ではない。調べを進めるにつれて、謎は深まるばかりで、すとんと胃の腑に落ちる答えはどうしても見つからない。そうこうしているうちに、筋の通らない奇妙な事件や出来事が頻発しはじめ、事態は混迷の度を増していく。
政府高官の死。深まる謎。憎悪。偏見。差別。非情。友情。淡い恋情。道徳と腐敗。売春宿。阿片窟……
ときはちょうど100年前の1919年、場所は歓喜の街とも宮殿都市とも言われるカルカッタ。案内人はアビール・ムカジー。もちろんX指定やR指定はない。時間制限などという野暮なものもない。心ゆくまでマジカル・ミステリー/ヒストリー・ツアーをご堪能ください。
さて、著者のアビール・ムカジーである。その名前からも察せられるとおり、インド系の移民二世で、ロンドンに生まれ、スコットランド西部で育った。十五歳のとき、友人から薦められたマーティン・クルーズ・スミスの『ゴーリキー・パーク』を読んで、クライム・フィクションの虜になったという。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスを卒業後、20年間、会計士として財務関係の仕事に従事し、現在は妻とふたりの子供とともにロンドンで暮らしている。
イギリスの書評サイト『インデペンデント・ブック・レビュー』によると、小説を書こうという気になったのは、40歳になる直前、〈いわゆる中年の危機の初期段階にあり、会計士としての生活に区切りをつけたかった〉からであり、〈自己のアイデンティティを確立するために、イギリスがインドを支配していた時代を理解しなければならないと思った〉からであるらしい。稿を起こした当初は出版の目途はまったく立っていなかった。執筆の途中、たまたまデイリー・テレグラフ/ハーヴィル・セッカー犯罪小説賞のコンペの広告が目にとまった。それがきっかけとなった。自信などは全然なかったが、ダメ元で応募すると、なんと427作品のなかから選考委員の満場一致で第一席に選ばれた。その知らせを聞いたときには、〈驚きのあまり十分間ショック状態に陥り、妻にその話をすると、やはり同じようにショック状態に陥った〉とのこと。その後、念入りに加筆修正し、ブラッシュアップしたものが、2017年5月にペガサス・ブックス社から刊行される運びとなったのである。
選考委員のひとりは次のように選評を述べている。「応募作品のレベルは思いのほか高かったが、わけても『カルカッタの殺人』は秀逸で、第一席にふさわしい出来ばえだ。美しく綴られ、雰囲気があり、知的である。舞台設定もよく、皮肉たっぷりのセンス・オブ・ユーモアも楽しめる。主人公のウィンダム警部は、ほどなくハーヴィル・セッカー社の書棚で、ヘニング・マンケルのクルト・ヴァランダーやジョー・ネスポのハリー・ホーレらと肩を並べることになるだろう」
ことほどさようにその筋の目利きたちの評価は高く、同年のCWA(英国推理作家協会)賞エンデバー・ヒストリカル・ダガー(歴史ミステリ)賞を受賞。2018年のMWA(アメリカ探偵作家クラブ)賞最優秀長篇賞にノミネートされ、ウォーターストーンズ・スリラー・オブ・ザ・マンス、およびサンデータイムズ・クライムブック・オブ・ザ・マンスにそれぞれ選ばれている。
二作目A Necessary Evil (2018年3月)は、ウィルバー・スミス冒険小説賞を受賞。2018年のCWA賞ゴールド・ダガー賞、スティール・ダガー賞、およびヒストリカル・ダガー賞にそれぞれノミネートされた。
そして、最新作の Smoke and Ashes (2018年6月)。これも高い評価を受け、CWA賞ヒストリカル・ダガー賞にノミネート(発表は2019年10月)。さらにはサンデー・タイムズ紙の▼一九四五年以降のクライム&スリラー・ベスト100▲にアガサ・クリスティーやレイモンド・チャンドラー、フィリップ・カーらとともに選出されるという栄誉にも浴している。
2019年6月