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『死刑にいたる病』映画化決定&最新ミステリ短篇集発売 櫛木理宇『死んでもいい』表題作全文公開

4月16日、櫛木理宇氏の最新ミステリ短篇集死んでもいいが発売になりました。それを記念して表題作「死んでもいい」を全文公開致します。

【あらすじ】「ぼくが殺しておけばよかった」中学三年の不良少年・樋田真俊が何者かに刺殺された事件。彼にいじめを受けていた同級生・河石要は、重要参考人として呼ばれた取り調べでそう告白する。自分の手で復讐を果たしたかったのか、それとも……

死んでもいい

 格子の嵌(は)まった窓の外は、重苦しい曇天だった。取調室のテーブルに、河石要(かわいしかなめ)は両肘を突いて座っていた。
 まぶたをなかば閉じ、組んだ両指に顎をのせた姿勢で待つ。誰を待っているかは、自分でも判然としなかった。
 ふつうに考えれば刑事、いや捜査員だろう。日焼けした中年の捜査員二人に任意同行を求められ、彼はこの警察署へやって来た。とくに不安や焦燥は感じなかった。指で、わずかに眼鏡を持ちあげる。
 クラスメイトの樋田真俊(ひだまさとし)が殺害されたのは、月曜の夜だったという。
 要と真俊は、去年──中学二年の春に同じクラスとなった。二年からの進級はクラス替えがなく、同じ顔ぶれで三年に繰りあがった。
「おまえ、死ぬなよ」
 そう級友にささやかれたのは、三年になってすぐだ。
「頼むから死ぬなよ。自殺も、殺されるのも勘弁な。樋田みたいなやつに目ぇ付けられるなんて災難だろうけど……でも、卒業までの辛抱だ。逃げまわれよ、河石」
 級友の双眸(そうぼう)には怯えが浮いていた。
 あきらかに、要が死ぬことへの怯えではなかった。在校中に事件が起こり、推薦入試に影響が出る可能性を彼は恐れていた。
 ──けれど、現実に死んだのは樋田くんだった。
 樋田真俊に要が〝目を付けられ〟たのは、去年の始業式だ。
「おまえ、放課後ツラぁ貸せよ。校舎裏へ来い」
 顎をしゃくられ、要はおとなしくうなずいた。拒否権などあろうはずもなかった。真俊は校内で名の知れた問題児であり、絶え間なく暴力沙汰を起こしていた。
 要は帰宅する生徒たちを横目に、校舎裏へ向かった。樋田はすでに待ちかまえていた。したたかに要は殴られた。倒れたが引き起こされ、さらに拳を見舞われた。
 口の中に広がる血の味を、要ははじめて知った。反射的に飲みこんでしまう。途端に吐き気が衝きあげた。
 顔をあげると、真俊の肩越しに校庭が見えた。
 桜並木が薄紅の雲のように連なっていた。
 いちめんの花霞(はながすみ)。頬を引き攣らせ、犬歯をむき出して笑った真俊の顔。あざやかな対比は、いまも要の脳裏に焼き付いている。
 その日を皮切りに、要は真俊に毎日呼びだされるようになった。
 真俊は不良の取り巻きを連れていることもあった。だがたいていは一人だった。殴打はむしろ、彼一人のときのほうが苛烈だった。
 場所は校舎裏か、もしくは人気(ひとけ)のない河原でおこなわれた。
 真夏のむっとする草いきれ。アスファルトに揺らめく陽炎。秋には薄
(すすき)が金色の波をつくった。日中なら燃えたつような陽が、夜なら冷えた月が、無言で彼らを見おろしていた。
 最初のうちは、殴る蹴るだった。真俊の拳が頬に、爪先がみぞおちにめりこむ。地べたを這い、苦悶にのたうつ要に、真俊が声をあげて笑う。
 樋田真俊は愉しんでいた。要は確信している。そう──一片の疑いなく、真俊は愉しんでいた。
 やがて真俊は、ナイフを持ち出すようになった。柄(え)にいくつものホールが穿(うが)たれ、スリットから刃が見える細工のバタフライナイフだ。月光を弾いて、夜気の中で銀いろに光っていた。
 真俊はけして要に深手を負わせはしなかった。嬲(なぶ)るように刃を使った。頬や腕の薄皮一枚を狙って切り裂くことも、血を流させることもあった。
 校内では何度か、階段の踊り場から突き落とされた。
 かと思えば、河原で犬をけしかけられた。
 犬に押し倒されたあのときも、要は仰向いた視界に真俊の顔を見た。大型犬が吐く臭い息と、黄みがかった牙。その向こうに、真俊の愉悦の表情があった。牙が要の肩に打ちこまれた瞬間、真俊は箍(たが)のはずれた声で笑った。
 ──いったい誰が、樋田くんを殺したんだろう。
 要は思った。
 ぼくは殺していない。それだけははっきりしている。ならばいったい、どこの誰がやったというのか。
 ──ぼくが、この手で殺したかった。
 誰かに殺されるくらいなら、その前にぼくが。
 要は目を閉じ、唇を噛んだ。
 眼裏には、半月前にネットショップで購めたハンティング用のボウイナイフが浮かんでいた。
 
 自動販売機の取り出し口から、木内(きうち)はコーヒーの紙コップを取り出した。
 ひとくち啜(すす)って顔をしかめる。相変わらずひどい味だ。だが警察署内で糖分とカフェインを摂るには、これ以外の手段がなかった。苦情は多数寄せられているはずなのに、いまだ業者が変わる様子はない。
 ──酒が無理なら、カフェインでも摂らなきゃやってられん。
 子供が殺される事件は昔から苦手だった。刑事課に何年属していようが、慣れることはない。たとえ被害者が、どんなにたちの悪い不良であってもだ。
 樋田真俊。青葉台中学校三年二組、満十五歳。
 彼が刺殺体で発見されたのは、月曜の〇時四十五分頃であった。陸橋の下に転がった死体を、会社帰りの女性が発見したのである。
 どうせ酔っぱらいだろう、といったん通り過ぎかけたが、
「お腹のあたりに血が見えたし、未成年っぽかったから通報しました」
 と彼女は証言した。
 警邏中の巡査が、無線を聞いて駆けつけた。死体のポケットに財布はなかった。身分証明書も見あたらなかった。だが巡査の一人が、被害者の顔を知っていた。
「こいつ、ここらじゃ有名な非行少年だ。おれも何度か補導したぞ」
 十分後、機動捜査隊と所轄の捜査員が到着した。巡査の報告を聞き、捜査員は生安課少年係に連絡を入れた。
 過去の調書から、樋田真俊の名前や学校名が判明したのはさらに一時間のちだ。
 死体の傍らには、凶器とおぼしきボウイナイフが落ちていた。検視の結果、死亡推定時刻は二十一時から二十三時。揉みあった形跡はあるが、刺し傷は二箇所のみだった。うち一創が肝臓を貫いていた。
「死因は外傷性ショック死だろう」と鑑識課員は語った。
 さいわい、ボウイナイフはありふれた品ではなかった。某ミリタリーショップのネット通販限定品で、ブレードの根もとには製造番号が刻印されていた。
 ショップの履歴によれば支払いはクレジットカードである。カードの名義人は「河石七枝(かわいしななえ)」。河石要の、実母の名であった。
 要が真俊のクラスメイトであり、彼にいじめられていたという証言はすぐに集まった。刑事課の誰もが「これは早期解決しそうだ」と確信した。
 捜査員は要の自宅を訪ね、任意同行を求めた。
「某月某日、きみはミリタリーショップでナイフをネット通販したかね?」と尋ねた。
「はい」
 あっさりと要は首を縦にした。
「母のカードで購入しました」
 凶器のナイフに付いていたのは、要と真俊の指紋のみだった。また要は十八時から二十一時まで塾にいたものの、その後の動向は不明であった。
 署へ連行された要は、木内に向かってこう証言した。
「塾から戻ったら、母はまだ帰宅していませんでした。でも帰りが遅くなるのは珍しくないので、食事をとって入浴し、先に寝ました」
「塾からはどうやって帰ったんだ? バスやタクシーなどの交通機関は使ったか」
「自転車です」
「一緒に帰った相手は?」
「いえ。一人でした」
「ではきみの二十一時以降のアリバイは、誰も証明できないことになるぞ? いいのか、それで」
 凶悪犯相手なら木内は一歩も引かない。だがその舌鋒も、さすがに中学生相手では切っ先が鈍った。
 一方、河石要はあくまで無表情だった。
「はい。事実ですから」恬淡(てんたん)と認めた。
「疑われてもしかたないとはわかっています。でも、ぼくは樋田くんを殺していません。犯人がぼくでないことは、ぼくが一番知っています。──こんなことになるなら」
 要は、木内をまっすぐに見て言った。
「こんなことになるなら、ぼくが先に殺しておけばよかったです」
 
 取調室に戻った木内は、ふたたび要と向かい合って座っていた。
 華奢(きゃしゃ)な体躯(たいく)だった。背ばかり高く、手首の骨が尖って見えるほど痩せている。眼鏡の奥の瞳は、伏せたまぶたで隠されていた。こんな言いかたはよくないが、いかにも〝いじめられっ子〟らしい風貌だ。
 ──樋田真俊は、この子とはなにもかも対照的だった。
 金茶に染めた髪。盛りあがった上腕の筋肉。十五歳にして、早くも大人顔負けの体格だった。筋彫りのみとはいえ、左肩に龍の刺青まで入れていた。
「きみは樋田真俊から、毎日のように暴力をふるわれていたらしいじゃないか」
 木内は要に問うた。
「殴る蹴るだけじゃなく、ナイフで切りつけられたり、突き落とされての骨折騒ぎもあったと聞く。病院側は何度か、『通報するか?』ときみに訊いた。しかしその都度きみは拒んだ。なぜだ。いじめがこれ以上エスカレートするのを恐れたのか?」
「はあ」
 要が曖昧な声を発する。木内は目をすがめた。
「はあ、とは?」
「おおよそ、そんな感じです」
「『そんな感じ』じゃわからない、もっと具体的に言ってくれ」
「いじめがこれ以上エスカレートするのを、恐れました」
 要は木内の言葉を抑揚なく繰りかえした。
 木内の神経が、ちりっと波立つ。
 何を質問してもこの調子だ。まったく最近のガキはどうしてこう腑抜けてるんだ。おれの息子だったらぶん殴ってやるところだが、と胸中で吐き出す。
 ──この子でなく、母親の犯行じゃないのか。
 そう言った同僚の声を、木内は脳内で反芻した。
 要の母である河石七枝は、現在も行方不明だ。要の証言によれば、犯行当日は平常どおりの時刻に家を出たという。しかし実際は会社に出勤しておらず、帰宅した形跡もない。
 要の両親が離婚したのは、約十年前だ。 
 原因は夫側の不貞だった。離婚前に取り決めたにもかかわらず、養育費は三回振り込まれただけで滞った。以後は七枝が、働きながら女手ひとつで要を育てあげてきた。
 彼女はみずから残業の多い部署を志望し、
「この残業代がないと、母子二人でとてもやっていけない。片親だからって、子供に不自由させたくないものね。人並みに塾に行かせてやりたいし、持ち物だってほかの子と同じレベルのを持たせてあげなきゃ」
 と、つねづね周囲にこぼしていた。
 また知人の証言によれば、最近の七枝は「様子がおかしかった」らしい。
「息子が大変なことになっている」
「こんなことになるまで、気づかなかった自分が恨めしい」
「でも、いまからでも挽回は遅くない。親としてのつとめを果たさなければ」
 と彼女は涙さえ見せたという。
 ──母一人子一人の家庭だ。さぞ息子への思い入れは強かっただろう。
 木内は胸中でひとりごちた。
 七枝には「父親のぶんまで、自分がわが子を守らねば」という気負いがあったはずだ。息子が毎日執拗ないじめを受けていると知って、どんなに思いつめたかは想像に難くない。
 ──四十代のキャリアウーマンで、しかも母親だ。この覇気のない息子より、よほど肚が据わっていただろうさ。
 写真を見ただけだが、河石七枝は背が高く体格もいい。相手が中年女となれば、真俊とて油断しただろう。
 クレジットカードの明細は名義人のもとへ届く。息子がナイフをネット通販したと、七枝は知っていたはずだ。息子が使う勇気のなかったナイフを、彼女は抽斗(ひきだし)から取り出して、そして──。
 木内はかぶりを振った。
 いや、ナイフを注文したのがほんとうに要とは限らない。七枝自身の意思で購入した可能性とて高い。要は「自分のナイフ」だと認めたが、母子ならかばいあうに決まっている。まだ事件の筋書きを固めるには早い。
 木内はわざとゆっくり足を組んで、
「通信会社から、樋田のスマートフォンの履歴を取り寄せた」
 と要に言った。
「きみのお母さんは先月から数えて四回、樋田真俊のスマホに電話をかけている。事件当夜の六時間前にもだ。用事はなんだろうな。なんだと思う?」
「さあ」
 伏し目のまま要が応える。木内は質問を重ねた。
「きみのお母さんは、樋田の番号をどうやって知ったんだ?」
「それは……たぶん、ぼくのスマホからだと」
「きみのスマートフォンのアドレスから、樋田の番号を知った? へえ。お母さんは、いつもきみの通信履歴をチェックするのか」
「いつもじゃありませんが、たまに」
「過保護なんだな」
「さあ。ふつう程度だと思います」
 のらりくらりと受け答えする要の顔に「ぼくが殺しておけばよかった」と言いはなったときの精気はなかった。
 木内は視線をそらし、ため息を洩らした。
 ──こいつ、自分の母親がやったと知ってるんじゃないのか。
 だからこその、この態度ではないか。
 河石要の成績はかなり上位だ。いじめられるようになってからは下降気味だったが、学年で十位以内から落ちたことはない。つまり頭のよろしいガキということだ。そうでなくとも中学生となれば、大人顔負けに嘘をつく子はすくなくない。
 とはいえ、まだ決めつけるわけにはいかなかった。なぜなら容疑者はほかにもいる。この母子に絞っていい段階ではない。
 木内は前傾姿勢になった。
 要の伏せたまぶたを凝視しつつ、質問を再開する。
「樋田が殺された夜、きみが学校から帰宅したのは何時だった?」
「夕方の四時半ごろでした」
「その時間は正確か?」
「だと思います」
「思います、とは?」
「壁掛けの時計を見ました。それに帰りはいつも、だいたいその時刻なんです」
「誰か証言してくれる人は?」
「いません。母は帰っていませんでしたから」
 すでに何度目かになるやりとりだった。同じ質問を繰りかえして、いつかぼろが出るよう仕向けるのは尋問の定石だ。だが要は、同じ質問へ同じ答えを機械的に返すだけだった。いささかの乱れもない。
「樋田真俊を、きみはどう思っていた?」
「どうって、クラスメイトです」
「さっき『ぼくが殺しておけばよかった』と言ったが、どういう意味だ」
「言葉のままの意味です」
「凶器のナイフはきみのものだと言ったな。なぜ購入しようと思った?」
「ネットサーフィンしていたら、たまたまショップのサイトに行きあたったんです。欲しくなったので買いました」
「なぜ欲しいと思った?」
「きれいだったから。それに護身用というか、お守りになるかなと思いました」
「ほう、護身ね。誰から身を守るためだ?」
「べつに特定の相手じゃありません。ぼくって絡まれやすいんです。道を歩いていても、知らない人に『金を貸せ』とか、しょっちゅう言われるし」
「では、購入したナイフを使ったことは?」
「ありません」
「持ち歩いたことは?」
「それは、何度か」
「どんなときにだ。学校へは持って行ったか?」
「たまに」
「樋田真俊の前でナイフを出したことは?」
「ありません」
「なぜだ。きみは日常的に樋田に殴られていた。護身用だと言うなら、まずはやつから身を守るべきだろうよ。なぜ樋田に対して使わなかった? 脅しのためにすら、見せたことはなかったのか?」
「通用しないと思いました。樋田くんもナイフを持っていたし」
「バタフライナイフだな。樋田のナイフ所持については、同級生からも証言が取れている。だがきみは、それ以上に大きく殺傷能力の高いボウイナイフを手に入れた。樋田のナイフで傷つけられたとき、やりかえしてやろうとは思わなかったのか?」
「思いませんでした」
「なぜだ」
「腕力に差がありすぎるし、使い慣れていないから無駄だと判断しました。樋田くんに対しては、無抵抗でいるほうが楽だったんです。やりかえしたら、かえって長引くでしょう。さっきも言いましたが、ただのお守りのつもりでした」
「ふうん。お守りね」
「そうです」
「でもきみは、そのお守りをいま所持していない。樋田もまた、殺されたとき愛用のバタフライナイフを所持していなかった。彼のナイフの行方について、なにか知っていることは?」
「ありません」
 要は眉ひとつ動かさなかった。この一連の受け答えも、数時間前に交わしたものとそっくり同じだ。
 ──まったく、可愛げのないガキだぜ。
 木内はひっそり舌打ちした。
 事情聴取すべき真俊の関係者は、ほかにも二人いる。兄の樋田隆司(りゅうじ)と、真俊の恋人である西野沙理(にしのさり)だ。
 しかし残念ながら、いまだどちらとも連絡が取れていない、七枝と同じく行方が掴めないからだ。
 ──隆司も沙理も、札付きの不良らしい。こんなのらくらしたモヤシっ子より、おれは悪ガキの扱いのほうが慣れてるんだがな。
 木内は心中で愚痴りつつ顎を撫でた。
 伸びかけた鬚が、掌で不快にざらついた。
 
 要は目を閉じていた。
 まぶたの裏では、きらめく夏の陽がほむら立っていた。
 あれはどこだったろう──。河原ではなかったはずだ。丈の高い草が生い茂り、群生した野茨が腕やうなじを痛がゆく刺した。
 要と真俊だけだった。ほかには誰もいなかった。
 陽射しが痛いほど照りつけていた。なのに、なぜか仄暗かった。どことも知れぬ底に、二人で落ちこんでしまった気がした。
 飲め、と真俊は言った。
 差し出された彼の掌には、翡翠(ひすい)いろの細い小蛇がうねっていた。
 要は首を振って拒んだ。
 真俊の膝が、彼の腹にめりこむ。要は呻いて、草むらに突っ伏した。青くさい雑草の匂いが鼻をついた。
 飲め、と真俊は繰りかえした。生きたまま飲みこむんだ、と。
 要は目を閉じた。もし言われるがまま飲みこんだら、どうなるだろう。胃の中で蛇は暴れるだろうか。胃液で溶かされる前に、腹を食い破って出てこようとするのではないか。
 蛇が自分の腹を食いちぎり、皮膚を突き破るイメージが脳裏に浮かぶ。血にまみれた蛇が、のっそり頭をもたげる想像が。
 いま一度、要は拒絶した。今度は平手で叩かれた。頬が痺れる。熱い。二度、三度と頬を張られた。
 要は真俊を見あげた。
 逆光になった彼の顔は、粘い汗を浮かべていた。腕を振るたび、盛りあがった筋肉とともに筋彫りの龍が蠢動(しゅんどう)する。
 龍は視界の中で歪んでぼやけ、やがて、母の泣き顔に変わった。
 ──母さんは、知ってた。
 樋田真俊の名前も素性も、いつの間にか知っていた。泣きながら問いつめられた。
 もっと早く知っていれば転校させたのに、と詰(なじ)られ、仕事仕事で気づいてやれなくてごめんね、とも謝られた。
 ──母さんが謝る筋合いのことじゃない。
 そう言ったが、母はかぶりを振るばかりだった。
 母が真俊に電話したと知ったのは、数日後のことだ。
 要を校舎裏へ呼びだした真俊は、ものも言わずに殴ってきた。そして彼に向かい、スマートフォンをかざした。
 流れてきたのは母の声だった。彼は、母との通話のやりとりを録音していた。
 すべて聞かせ終わると、ふたたび真俊は要を殴った。己の歯で内頬がざっくり切れた。要は血とともに、「ごめん」と謝罪を吐きだした。
 しかし返答代わりに降ってきたのは、容赦ない渾身の蹴りであった。
 
 セブンスター一本分の休憩をとり、木内は署内へ戻った。
 気が重い。どうにもあのモヤシっ子は調子が狂う。
 ふと、息せき切って廊下を駆けてくるシルエットが見えた。刑事課の後輩だ。
「木内さん、樋田隆司と西野沙理が見つかりました」
「どこでだ。一緒にいたのか」
「いえ。隆司は補導され、下田署に連行されていました。下田の歓楽街で、喧嘩騒ぎを起こしたんだそうです。西野沙理のほうは友達の家で発見されました。二人とも、いまこち
らへ向かわせています」
「そうか」
 木内はうなずき、後輩の肩をかるく叩いた。
 樋田家は父、母、隆司、真俊の四人家族だ。だが話を聞くだに、ひどく複雑な家庭であった。
 まず隆司と真俊は母親が違う。隆司は先々妻が産んだ子で、真俊は先妻の子だ。
 そしていま家にいる〝母〟はどちらの生母でもなく、父が娶
めとった三人目の妻である。歳はまだ二十二歳。十七歳の隆司とは五歳、真俊とは七歳しか離れていない。元風俗嬢だそうで、見るからに派手づくりな女だった。
 ──子供がグレるのも当然……とは、言っちゃいかんか。
 木内は頬を歪めた。
 樋田兄弟の仲は、お世辞にもよくなかったようだ。調べによれば、過去にも何度か金銭トラブルを起こしている。
 身内で金の貸し借りはめずらしくないが、彼らの場合は額が大きい。樋田家の父は子供に金のみ与えておく放任タイプらしく、兄弟は日ごろから羽振りがよかった。貸し借りの総額は、合計で五十万を超えるという。
 一方、恋人の西野沙理も素行のよくない少女である。中学一年から真俊と付き合っていたそうで、中学生にしては長続きしたカップルと言えるだろう。
 沙理は真俊にぞっこん惚れこんでいた。カッターナイフで腕に彼の名を刻みつけては、
「早く結婚して子供を産みたい」
 と公言していたという。だがここ最近はうまくいっておらず、喧嘩ばかりだったとの証言が複数ある。
 隆司との金銭問題。沙理との痴情のもつれ。
 現時点でもっとも疑わしいのは河石母子だ。しかし隆司と沙理の線も、十二分に有り得る。
 木内は、取調室へ戻る足を速めた。
  「河石要のせいだよ。全部あいつのせい。なんであいつじゃなくて、トシちゃんが死ななきゃいけないのよう。ひどい。こんなの絶対許せない」
 沙理はわめき、泣きじゃくるばかりだった。
 聴取は年配の取調官主導でおこなわれた。しかし沙理の供述はほとんど要領を得なかった。毛を逆立てた猫のごとく敵意をむき出しにし、取調官の言葉尻をとらえては食ってかかった。
 木内は窓脇の壁にもたれ、口を挟まず二人のやりとりを聞いた。
「河石要について、どれくらい知ってる? 話したことは?」
 取調官が無難に切り出す。
「あるわけないじゃん」噛みつくように沙理は答えた。
「同じクラスになったこともないよ。あいつがトシちゃんに毎日殴られてたのは知ってる。けど、そんなの学校じゅうで有名だったしさ。あたしなんかより、河石のやつをもっと調べりゃいいじゃない」
 金切り声をあげる少女を、取調官は冷めた目で見つめた。
「樋田は河石要を、そうとうにひどくいじめていたようだね。ナイフで体に傷をつけるまでにエスカレートした、と聞いたが?」
「それはまあ、……そんなこともあったかもね」
 沙理は渋しぶ認めて、
「でも言っとくけど、あたしは『あんなやつにかまうな』って、トシちゃんに何度も言ったんだよ。それにまさか、こんなことになるなんて思わないじゃん……。ほんっと、信じらんない。嘘みたい」
 沙理はぼろぼろと大粒の涙をこぼした。
 溶けたアイラインとマスカラで、目のまわりが真っ黒に染まった。嘘泣きではないようだ。だが、まるきり信用できる涙でもなかった。
「河石要は、樋田を恨んでいた?」
「そうなんじゃない? 知らないよ。なんであたしに訊くの」
「なんでだって? だってきみも、樋田を恨んでいたんじゃないのか」
「──は?」
 沙理の声が一段低くなった。
 顔をあげ、上目づかいに取調官を睨む。
「なんのこと? あんた、なに言ってんのよ」
「きみと樋田は、最近うまくいっていなかったそうだね。複数の証言が取れたよ。二人で会う機会は激減した。家に訪ねて行っても、留守だと追いかえされることが相次いだ。仲間数人に、きみは樋田との仲を何度も愚痴っているね? 『彼が冷たくなった。LINEも既読無視ばっかり。このままあたしを捨てる気なら、殺してやる』と言っていたらしいじゃないか」
「なにそれ、誰かがチクったってわけ? むかつくんだけど」
 気づけば沙理の涙は止まっていた。唸るように言う彼女を取調官は制して、
「無理もないよ、きみは結婚するつもりだったのにな。急に樋田のほうが冷めたんじゃあ、恨みに思って当然だ」
「待ってよ、あたし、恨んでなんかないって!」
 沙理は叫んだ。
「ちょっと倦怠期だっただけよ。そんなの付きあってたら、誰だって普通にあることじゃ
ん。大げさな話にしないでよ」
「まあ聞きなさい。ここに樋田のスマートフォンの通信履歴がある。ここ三箇月というもの、電話をかけ、メールやLINEを送っているのはきみからばかりだね。樋田からきみに電話したのは、たったの四回。対するきみが樋田に電話した回数は、百二十回を超える」
「へえ、それがなに? そんなのなんの証拠にもなんないし」
 沙理は鼻で笑い、パイプ椅子にもたれた。
「まさか河石よりあたしを疑ってるってわけ? 馬っ鹿みたい。トシちゃんはあたしの彼氏なんだよ? 殺すわけないじゃん。結婚するはずだったんだから!」
「そう思っていたのは、きみだけのようだ」
「うるっせえよ! 死ね、ジジイ!」
 顔を真っ赤にして沙理はわめいた。
 取調官はわざとらしく大きなため息をついて、
「樋田の死については、いつ知った」
 と尋ねた。
 沙理が一瞬詰まる。顔をしかめて、声を押し出す。
「先輩から、知らされたの。陸橋の下で、トシちゃんの死体が見つかったってLINEが来て……。嘘だ、って思ったけど、お昼のニュースでやってたから、ほんとだってわかったのよ。みんなも驚いたみたいで、じゃんじゃんLINEが届いてさ。対処できないし、あたしもわけわかんないしで……。頭パンクしそうだったから、電源切ってミカん家に行ったんだ」
「ミカとは友人の名だね? なぜその子の家に行ったのかな」
「だって、うちにいるとママがうるさいもん。ウザいし、あたしの気持ち全然わかってくんないし。それにママ……トシちゃんのこと、あんま好きじゃなかったし」
 そりゃあそうだろう、と木内は思った。
 樋田真俊はどう見ても世の母親受けするタイプではない。顔つきといい風体といい、できるだけわが子から遠ざけたい部類の少年だ。
 取調官がつづけた。
「樋田とはいつからの付き合い?」
「今年で三年目。一年のとき同じクラスになって、付き合いはじめたの。みんなには『長いよね』って言われてる。実際、二年以上つづいてるのって仲間内じゃあたしらだけなの。みんな飽きっぽくてさ、すぐ別れちゃうから」
 沙理は得意げに鼻をうごめかせた。
「彼のことが好きだったんだね?」
「あたりまえでしょ」
 彼女はぐいと左の袖をまくってみせた。
 あらわになった腕は、傷だらけだった。カッターナイフで彫ったあと、墨でも流しこんだらしい。歪んだ相合傘やハートマーク、ローマ字表記の真俊の名がいくつも刻みこまれていた。
「ひどいことを。一生消えないかもしれないぞ。刺青(いれずみ)と変わりないな」
「べつにいいもん。消す必要ないし」
「彼氏のためにそこまでやったというのに、肝心の樋田が冷めてきたんじゃあな。きみはさぞ焦っただろう」
「だっから、しつけえよジジイ! 冷めてねえって言ってんだろ!」
 沙理がヒステリックな罵声を飛ばす。
 その眼前に、取調官はビニール袋に包まれたボウイナイフを差しだした。
「このナイフに見覚えは?」
 沙理が息を呑んだ。
 おや、と木内は思った。いままでと反応が違う。一瞬にして、顔から血の気が引いている。彼女がこのナイフにこれほど反応するとは予想外だった。
 取調官が追及にかかった。
「見覚えがあるんだね?」
「し、らない」
 沙理は顔をそむけた。色を失った唇が震えていた。
 愛する少年の命を奪った凶器に怯えているのか、それともほかにもっと理由があるのか。
木内の目には、後者としか映らなかった。
 取調官が、さらに問いを発しようとしたときだ。
 急に廊下が騒がしくなった。木内と取調官だけでなく、沙理までもが首を向ける。
 ドアがひらいた。顔を覗かせたのは刑事課の後輩だった。半身を乗りだした姿勢で、
「参考人が到着しました」と早口で告げる。
 被害者の異母兄こと樋田隆司が、ようやくお出ましらしい。木内は無言でうなずきかえした。
 ひらいたドアの隙間から、河石要が見えた。廊下を歩いていく。新米の警官に付き添わ
れている。どうやら要の再尋問は、隆司の供述を聞いてからになりそうだ。
 沙理が不貞腐れた顔で、
「……ねえあたし、二日目なんだけどぉ。刑事さんタンポン持ってる? いくらなんでも、トイレくらい行かせてくれるよね?」
 と投げ出すように言った。

  「取引するなら、話してやるよ」
 パイプ椅子にふんぞりかえり、樋田隆司は無造作に言いはなった。
 かなり太っており、異母弟の真俊とはまるで似ていない。背丈は同じくらいだが、真俊より三十キロは重いだろう。金のチェーンネックレスといい刺繍入りのシャツといい、不良少年というよりはヤクザの舎弟じみた身なりであった。
「取引とは?」
 慎重に木内は問いかえした。
 隆司が吐き捨てるように、
「とぼけんな、そっちのほうが詳しいだろ。テレビとかでよくやってるあれだよ、あれ。こっちが自白する代わりに、罪を軽くするとかいうあれ」
 どうやら司法取引のことらしい。海外ドラマでも観たのか、と木内は頬肉を噛んで苦笑をこらえた。
「うーん、そりゃあ自白の内容によるな」
「あ? どういう意味だよ」
「有益な──つまり、こっちにとって役立つ情報なら取引するかもしれない。だがまずは、聞いてみなくちゃ判断できないな。そうだろう?」
「ふん。適当言ってごまかそうとしてんじゃねえよ。おれあもう十七過ぎてる。起訴して、刑事事件ってやつにできるんだろ? それくらい知ってんだ。だから、先に取引してくんなきゃしゃべんねえ。少年院なんて冗談じゃねえよ。別におれだって、やりたくてやったわけじゃねえんだっての」
「ほう。ということは、事故だったのか?」
 木内が水を向ける。
「そうだよ、事故! 事故だったんだよ、わざとじゃねえんだ」
 覿面(てきめん)に隆司が食いついた。
「だいたいさあ、あいつのほうから持ちかけてきた話なんだぜ? はっきり言って、おれはやりたくなかったんだよ。面倒なことになるってわかってたんだ」
「あいつ、とは?」
「真俊だよ、決まってんじゃんか。あいつ、ご丁寧に手袋とナイフまで用意してよ。ほら、狩りとかに使うでっけえナイフだよ。そんで『これでおれの腕か肩を傷つけてくれ。ちゃんとナイフは右手で持てよ? 右利きって設定なんだ』とか、わけのわかんねえこと言いやがって──」
 木内の鼓動がどくりと高鳴った。
 ──真俊が異母兄に頼んだ? 自分を傷つけてくれ、と?
 しかも自分のバタフライナイフではなく、河石要のボウイナイフで?
 はやる気持ちを抑え、木内は平静な声音をつくって問うた。
「いやだったなら、なぜ引き受けたんだ?」
 隆司が鼻を鳴らす。
「十万出すって言うからさ。あいつにちょこっと切りつけて十万なら、安いもんだと思ったんだよ。べつに切るのもいやじゃねえし。普段からくっそ生意気な、気に入らねえやつだからな。……でも」
「でも?」
「土壇場で、その、なんていうか」
 言いよどむ隆司に「どうした」と、辛抱強く木内はうながした。
 隆司が顔をしかめて、
「……十万じゃ割に合わねえ、って言ってやったんだよ。三十万出せ、そんならやってやる、って」
 と言う。
「そしたらあいつ、急に怒り出してよ。『今日は十万しか用意できないんだ。今夜やらなきゃ意味がないんだ』とか、わけわかんねえこと言って掴みかかってきやがったのさ。だからおれのほうも、つい──」
 隆司は頭を掻いて、
「だからさ、わかるだろ? こんなもんどう考えたって事故じゃねえか。いや、正当防衛かな。とにかくおれは刺すつもりなかったんだ。なあ、普通に考えてみろって。あんたなら、たった十万ぽっちで人を殺すかよ?」
 媚びるように、上目で木内をうかがってくる。
 木内は唖然と彼を見かえした。
「なぜだ」
「え?」
「なぜ真俊はおまえに、自分を傷つけてくれなんて依頼をした?」
「さあな。知るかよ、そんなこと」
 隆司は肩をすくめた。そして「ただ働きはいやだから」と、死体から財布を抜いて逃げたことを悪びれず認めた。
「河石七枝の死体が見つかった」
 との報せが入ったのは、その供述から数分後であった。
 
 洗面所で、要は顔を洗いつづけていた。蛇口から流れる冷水をすくい、掌で幾度も顔に叩きつける。
 冷たい、とは思う。でもそれだけだ。
 まるで現実感がない。いま自分が警察にいることも、樋田真俊が死んだという事実も。皮膚の感覚だけでは、とても胸に迫ってこない。実感がない。
「おい、まだか。いいかげんにしろ」
 背後に立つ若い警官が、うんざりと言う。だがその声もひどく遠い。世界のすべてが透明な薄膜の向こうにあるみたいだ。
 いまは脳裏によみがえる声のほうが──過去の記憶のほうが、よほどリアルだ。
 死ねよ──。
 あの日の真俊は言った。
 要に馬乗りになって、あの日、真俊は彼の喉に両手をかけていた。
 要はもがいた。抵抗ではなかった。あらがったところで、跳ねのけられないとわかっていた。圧倒的な体格差であり、体勢だった。意志に反して、手足が断末魔の痙攣(けいれん)を踊ったのだった。
 真俊は録音した母の通話音声を聞かせたあと、要を殴り、蹴り、首を絞めあげた。
 ──樋田くんは、今日ここでぼくを殺す気だ。
 要は確信した。
 覆いかぶさる真俊の双眸には、油膜のような殺意がぎらついていた。
 死ぬ。自分はここで死ぬ。この丈高い雑草に囲まれて、藪(やぶ)の中で人知れず死んでいく。死体はいつ見つけられるだろう。この陽気では、皮膚も肉もじきに腐り落ちてしまうだろうか。
 陽射しがひどく眩しかった。眼球が焦げつきそうだ。うつろにひらいていた目を、要はゆっくり閉じた。本気で死を覚悟した。真俊の汗が一滴二滴と顔にしたたり落ちる。唇に流れこんで、塩辛い。
 しかし要は死ななかった。
 真俊が、彼の喉から手を離したからだ。
 要は激しく咳きこみ、草むらを転がった。酸素が急激に肺へ雪崩こむ。苦しい。息ができない。
 咳きこみながら、嘔吐した。喉が焼けるように痛む。顔中が、よだれと涙と洟でぐしゃぐしゃだ。
 そうして頭上から、真俊のあの声が──。
 
「おい!」
 夢想を警官の声が破った。
 要は手を止め、緩慢に振りかえった。
 警官が苛立たしげに蛇口をひねり、水を止める。静寂が落ちた。
「もういいだろう。戻るぞ」
 警官は顎で廊下を指した。要は白茶けた顔で、うなずいた。
 冷えた廊下へ出る。突き当たりでは、一人の少女が女性警官と言い争っていた。
「違うよ。これじゃないって言ってるじゃん」
「あたし、こんなの絶対使わないからね」
 ごねる少女に、女性警官があからさまに顔をしかめている。要は目をすがめた。少女の横顔に見覚えがあった。
 ──西野、沙理。
 真俊の彼女だ。生理用品らしき箱を手に、女性警官にねちっこく絡んでいる。口調と裏腹な、その倦(う)んだ表情にも馴染みがあった。
 不満の有無にかかわらず、彼女はああやって手あたり次第に因縁を付ける癖があった。多くの場合は真俊を待つ間のことで、標的は若い教師や女子生徒たちだった。そう、沙理にしてみたら、ただの時間つぶし──。
 視線に気づいたか、ふっと沙理が振りむいた。
 要と視線が合う。
 一瞬にして、沙理の顔が歪んだ。
 女性警官を振りはらう。沙理が駆けてくる。迫ってくる彼女の顔を眺めながら、ああそうか、と要は思った。
 今日ばかりは、沙理は樋田くんでなく、ぼくを待っていた。ぼくが洗面所から出てくるまで、時間をかせぐ必要があったんだ。なぜって──。
 沙理が、体ごとぶつかってきた。背後についていた警官さえ、咄
嗟(とっさ)に反応できなかった。
 要の胸に衝撃と、熱い痛みが広がった。
 己の体を要は見おろした。ナイフの柄が、胸から不気味な角度で生えていた。
 女性警官が悲鳴を放った。
 警官たちが慌てて沙理に飛びつく。引き剥がした少女を、彼らが力まかせに床へ押し伏せるのを要はぼんやり見守った。
 要は棒立ちのままだった。
 眼下のシャツが、みるみる赤く染まっていく。くずおれるように、その場に膝をついた。
 バタフライナイフだった。柄にいくつものホールが穿たれ、スリットから刃が見えるデザインだ。真俊が持っていたのと同じ型である。
 沙理は厳重な身体検査はまぬがれたのかな。場違いなほど、要は冷静に考えた。それとも体内にでも隠し持っていたのだろうか。トイレにいたのはそのせいか。
「全部あんたのせいだ!」
 押し伏せられながら、沙理は絶叫した。
「トシちゃん、最初はあたしに頼んだのよ! ちくしょう、馬鹿にしやがって! なんであたしがあんたのために、そんなことしなきゃいけないのよ! だから断ってやったら、
『わかった。それなら金で兄貴に頼む』って……」
 語尾が嗚咽(おえつ)でぼやけた。
「まさか、本気だと思わなかった! 間抜けの隆司なんか、なにやらせたって失敗するに
決まってるのに! 全部あんたのせいよ! あんたのせいで、トシちゃんは死んだんだ! この……この人殺し!」
 その刹那、要はすべてを理解した。
 真俊の体にボウイナイフの刃を突き立てたのが誰か。そしてなぜ彼が死ななければならなかったのかを。
 ──樋田くんと、まともに言葉を交わしたことは、ほとんどなかった。
 だが一目(ひとめ)でわかった。彼にはぼくが、ぼくには彼が必要だと。
 あの日、要の喉から手を離した真俊は呻くように言った。
 ──もう、会えないのか。
 と。
 要は答えられなかった。
 母の七枝は、驚くほど正確に素早く、彼ら二人の関係を理解した。これはただの暴力ではないと。お互いに望んだ濃密な時間なのだと、母親の勘ですぐさま察知した。
 彼女は要のスマートフォンから入手した番号にかけ、真俊に告げた。
「息子には二度とかかわらないで」
「あの子は転校させます」
「あなただって公(おおやけ)にされたくないはずよ。まだ若いんだし、いまなら引き返せる」
 録音された母の声は硬く、かすれていた。
 要は翌週、校舎裏へと真俊を呼び出した。自分から呼び出すのははじめてだった。
 スクールバッグの内ポケットに隠したナイフを、要はちらりと真俊に見せ、
「明後日、塾の帰りに、母の会社へ向かう」
 とだけ言った。
 真俊から、引き離されたくなかった。
 女手一つで育ててくれた母への感謝はある。傷つけたくはなかったが、説得しきれないこともわかっていた。ならば母を、殺すしかなかった。
 真俊は無言で手を伸ばした。スクールバッグからボウイナイフを抜く。代わりに彼は、自分のバタフライナイフを要に手渡した。
 うなずきあい、彼らはそれぞれに帰途をたどった。
 ──樋田くんはあの夜、ぼくのアリバイを作る気だったのか。
 ナイフを交換したのは、凶器の出所をくらますためだ。そこまではわかっていた。だが真俊はさらに一段、保険をかけようとしていたのだ。
 要が入手したナイフで真俊が傷つけられれば、誰もが「いじめられっ子の反撃」だと思うだろう。おまけにナイフに付いているのは、要と真俊の指紋のみである。第三者の目に、要が真俊を刺す動機や機会は十二分にある。
 沙理は真俊の思惑に気づき、拒んだ。代わりに真俊は異母兄に頼んだ。しかし土壇場で怖気づかれたか、もしくは渋られたのだ。
 兄弟は揉み合いになり、ナイフの刃は真俊へと突き立った。
 ──樋田くんは、ぼくのせいで死んだ。
 ぼくが殺したも同然だ。ぼくが死なせた。
 要は微笑んだ。胸にわだかまっていた氷塊が、瞬時に溶けていくのがわかった。
 ほかの誰かに殺させるくらいなら、ぼくが殺したかった。ずっとそう思っていた。だが真実がわかったいま、憂いはなにひとつなかった。
 胸に突き刺さったバタフライナイフを見おろす。
 彼とお揃いを買ったのか。健気なことだ──。要は沙理を見て笑った。
 だが本物の真俊のナイフは、母の死体の傍らにある。母と一緒に発見されるはずだ。こんなナイフ、しょせんは偽物だ。たとえ自分の胸に突き立っていようとも。
 満ち足りて、要は目を閉じた。
 
 木内は要に駆け寄った。
「目を開けろ、おい、しっかりしろ」
 無意識にか、ナイフを引き抜こうとする少年の手を慌てて止めた。
 抜いたなら、間違いなく出血多量で死ぬ。一一九番通報はすでに為されたはずだ。しかし、救急車が間に合うかは危うかった。
「意識をしっかり持て。大丈夫だ、助かるぞ。きっと助かる」
 少年がうすく目を開けた。
 ほっとして木内は「いいぞ、そのまま──」と言いかけた。要の唇がかすかに震え、ひらいた。
「……でも、いい」
「え?」
「……ぃんで、も……いい……」
 うまく聞こえなかった。木内は少年の口に耳を寄せた。
「どうした? なにがいいって?」
 しかし背後から起こった沙理の叫びが、彼らの声をかき消した。
 沙理は怒号とともに、少女とは思えぬ力で警官たちを跳ねのけた。そして要に駆け寄った。
 要めがけて、沙理は両腕を振りおろした。
 その手に握られた見えない刃が、ふたたび要の胸を貫くのを、木内は確かに見たと思った。

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「ぼくが殺しておけばよかった」中学三年の不良少年・樋田真俊が何者かに刺殺された事件。彼にいじめを受けていた同級生・河石要は、重要参考人として呼ばれた取り調べでそう告白する。自分の手で復讐を果たしたかったのか、それとも……少年たちの歪な関係を描いた表題作他、ストーカーの女と盗癖に悩む女の邂逅から起きた悲劇「その一言を」など書き下ろしを含む全六篇を収録。人間の暗部に戦慄する傑作ミステリ短篇集


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