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親子で売国! 全米を震撼させた「ニコルソン父子事件」とは? ①〈父・ジム編〉『スパイの血脈』5月9日発売

コロラド州フレモント郡、ADXフローレンス刑務所。
米国一厳重な警備で知られ、「脱獄不可能」「収監されたが最後、二度と空を見ることはできない」「人格が徐々に崩壊していく」などと恐れられる、通称“ロッキー山脈のアルカトラズ”。

外界から隔絶されたこの場所に、ひとりの男が服役している。
男の名はジム・ニコルソン。
スパイ罪で有罪判決を受けたCIA局員のなかで、最も高い職位にあった人物。
祖国を二度裏切ってつかまった、米国唯一のスパイ。
服役中に外国政府のスパイとして有罪判決を受けた、史上唯一のアメリカ人。
――最愛の息子を共謀者に仕立て上げた男。

ジム・ニコルソン。CIAの公式写真。©CENTRAL INTELLIGENCE AGENCY

ジム・ニコルソンは1980年にCIAに入局した。

当時29歳。陸軍を退役し、次の職を探していた。飲料品メーカーやアルミニウムのメーカーと一緒に履歴書を送った。子供のころ、ジェームズ・ボンドに憧れていたのだ。CIAから音沙汰はなく、最初にオファーのあった蝋燭メーカーで働きはじめる。あきらめかけていたところに、面接の知らせが届いた。

入局後、ジムはめきめきと頭角を現していく。

最初の配属先は、マルコス政権下のマニラだった。アキノ氏暗殺に抗議するデモ隊に紛れ込み、反米分子の情報を探る任務についた。バディとの息の合った仕事ぶりから“バットマン”の愛称で呼ばれた。「有望な新人という評判をとっていた」当時のマニラ支局長、ノーブ・ギャレットは言う。「切れ者で、働き者だ、と」

その後も東京やバンコクなどアジア各地の支局を渡り歩き、1990年にはブカレスト支局長に。エリートコースをまい進するジムだったが、一方で家庭生活は早々に破綻していた。妻ローラ、長男ジェレミ、長女スター、末の息子ネイサンを家に残し、情報提供者を求めて夜の街に繰り出す毎日。愛人をつくった。ローラもまた仕返しとばかりに、飼い犬の往診にやってくる若い獣医と関係を持つ。1992年7月、二人は離婚届を提出し、泥沼の離婚調停が始まった。

これがすべての引き金だった。まもなく、ジムにある考えが浮かぶ。

ジムは現金の束と引き換えに祖国の機密情報を売る自分を想像した――その金があれば、かかえているさまざまな問題を解決できる。離婚調停中のローラの訴えを清算できるし、子供たちの養育権も得られるだろう。(『スパイの血脈』より)

1994年6月、当時クアラルンプールで副支局長を務めていたジムは、ロシアのSVR(対外情報局)幹部ユーリー・P・ヴラソフと対面する機会を得る。ソ連崩壊を背景に、情報機関同士の対話を目的として開かれた会談だった。もう心は決まった。ずっと頭から離れないあの考えを、今こそ「腹を割って」話すのだ。

「2万5000ドル必要なんだ」ジムは言った。
  ヴラソフはしばらく動かず、話を咀嚼していた。髪は灰色で、仕立てのいいスーツを着たこの男は、巧みに英語を操る。
「なんの問題もない」ヴラソフは言った。(『スパイの血脈』より)

突然の二重スパイ志願に、ヴラソフが即答したのはなぜか?

ジムはこの時点で、米ヴァージニア州にあるCIAの秘密訓練所「ファーム」への異動が告げられていた。ジムに訓練生の名簿を流させれば、世界に散らばるCIAスパイの身元を手に入れたも同然――ヴラソフにとって、ジムの申し出は願ってもない幸運だったのだ。

こうしてジムは祖国への忠誠をあっさりと捨てた。訓練生名簿をはじめとする機密情報を次々と盗み出し、ロシアのスパイに売り渡していく。だが間もなく、FBIがその動きを察知した。CIAの協力のもと、ジムが統括する部署の職員としてスパイを送り込む。目には目を、歯には歯を、スパイにはスパイを。決死の作戦で集められた動かぬ証拠の数々により、1996年11月16日、ついにジムは逮捕される。

売国奴に下された罰は、23年7か月の実刑判決。

逮捕の瞬間。ダレス国際空港にて。©FEDERAL BUREAU OF INVESTIGATION

しかし、話はこれで終わらない。

オレゴン州シェリダンの連邦刑務所に収監されたジムは、9年後、思いもよらない手段で売国行為を再開する。

次回〈息子・ネイサン編〉、5月8日(月)更新予定。

この文章は、『スパイの血脈――父子はなぜアメリカを売ったのか?』(ブライアン・デンソン/国弘喜美代訳)の紹介記事です。本書は早川書房より5月9日(火)に発売されます。

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