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「言うなれば、疾走するエンターテインメント不条理小説。巻を措く能わずのおもしろさである」――J・M・クッツェー『イエスの学校時代』訳者あとがき(鴻巣友季子)

ノーベル文学賞作家J・M・クッツェーの最新刊『イエスの学校時代』鴻巣友季子訳)は好評発売中です。本作は2016年に刊行の『イエスの幼子時代』の続篇にあたります。本記事では、翻訳者の鴻巣友季子さんによる、著者J・M・クッツェーの作品変遷と本作についての解説を掲載します。

訳者あとがき

 本書は、J・M・クッツェーによる The Schooldays of Jesus(2016年)の全訳である。

『イエスの幼子時代』が終わったところから始まる続篇といえるが、もちろん本書単体で読んで充分に楽しめると思う。

「続篇がうまくいった例しはない」などと『続ドン・キホーテ』からの一文を引用し、自虐めいたエピグラフに仕立てているのも、当然ながら作者ならではの韜晦であろう。訳者としては、ある意味、作者史上もっとも軽快かつ深遠な、会心の新境地だと思う。

 なにしろ、セックスと女性に対するスタンスに大きな変化が見られるのである。アパルトヘイト撤廃後のリアリズム寄り小説群の起点が『恥辱』にあるとするなら、同作はまさにセクシュアルハラスメントおよび、パワーハラスメントを主題としたものであり、主人公デヴィッド(ダビデ)はその罪を認められない哀れな、そして終いにはなにもかも失う50代の中年男だった。

『遅い男』のポール(パウロ)も『恥辱』の10年後(60代)という趣の男性で、交通事故で片足を失うが、やさしい介護士に恋着し、迷惑がられ、それでも財力にものを言わせて絆をつくろうとする一方、出会い系で性欲処理の相手を募って女性の性を消費するという、ドン・デリーロやフィリップ・ロスが描いてきた〝ダイイング・アニマル〟(死にきれない獣=老年の肉欲)をこれでもかというほど情けなく描き、最後はすべて巻き上げられる暗示で終わるという痛々しい小説だった。とはいえ、#me too運動後のいま読むと、批判を買いそうな箇所もいくつかある。

 本書の前作『イエスの幼子時代』のシモンは、本人は40代に見られたいようだが、実年齢は60代ぐらいのようである。終末後の世界とおぼしきゆるやかで不気味なディストピア管理社会に暮らす彼は、好意と善意にあふれたクリーンなこの国になじめず、性懲りもなく性欲をぎらつかせている。

 そんなシモンに納得できないのは、やさしい人々の感情の希薄さだ。みんな、にこにこ、ほのぼのとして、パンと水で生きるような質素な暮らしに満足しているのだ。

 彼ががらりと変わっていくのが、血縁のない男児ダビードをわが子とし、そのわが子に母親を見つけたあたりからだ。どのように見つけたか、その経緯はぜひ前作を読んでいただきたい。シモンはこの女性イネスを加えた三人で奇妙な聖家族をつくりあげていこうとする。そこには、性関係の介在はなく、シモンが女性に露骨な査定や性的なまなざしを向けることもほとんどなくなり、家族と息子──むしろ孫という感覚に近いが──をひたすら守ろうとするけなげな然としてくるのである。たとえるなら、幼い孫を預けられ、しかし妻は仕事も社交も現役で忙しく、ひとりで孫の世話に奮闘している退職後の〝じいじ〟という趣なのだが、このじいじは生活のために、この年で肉体労働に日々しまなくてはならないのだ。なんだか、日本の状況と重なって見えてきはしないか。

 さて、『恥辱』『遅い男』『イエスの幼子時代/学校時代』という小説群の主人公をオーサーサロゲート(作者代理)として読むかどうか、それについてはひとまず措くことにし、本書の解説に入ろう。

 言うなれば、疾走するエンターテインメント不条理小説。巻を措く能わずのおもしろさである。

 特異な才能をしめす6歳のダビードは就学年齢だが、前作で学校の教師のいうことをきかず、寄宿制の特殊学校へ送り込まれた。そこでの脱走事件などを経て、シモン、ダビード、イネスの3人は法の手を振り切って、「ノビージャ」の街を逃れ、「エストレージャ」という小さな町にやってくる。これが本書の冒頭である。果樹農園での住み込み生活が始まり、お嬢さん育ちらしきイネスは、スカーレット・オハラよろしく慣れない手つきで畑仕事をする。後半、ビジネスの世界で思わぬ成功をおさめていくあたりもスカーレット・モチーフである(子育てをしないところも)。

 一方、ダビードは地元の〈ダンスアカデミー〉に入学し、そこで、数字を呼び寄せるダンスレッスンを受けるようになる。天才的な音楽家とダンサーのアローヨ夫妻の教授メソッドは、シモンにはカルト教団の教義のように思えて、理解できないばかりか、受け入れられない。

 しかし、作中には言及がないが、彼らが展開する数と星と音楽の関係はピタゴラスが構想したとされる「天球の音楽」理論を下敷きにしている。

「人は太古の昔から、宇宙のなかに秩序とパターンと意味を見いだそうとしてきた。そして太陽系の惑星たちは、何らかの関係性を隠しもっているのではないかと考えられてきた。いにしえの学者たちは、道を究めた者たちのために天体が歌い奏でるという、精妙で完璧な和音からなる「天球の音楽」に深く思索をめぐらせた。こんにちの私たちは、ケプラー、ニュートン、アインシュタインによる精度の高い法則を手にしている」(星たちのダンス 惑星が描きだす美の世界』ジョン・マルティノー/青木薫訳 ピュタゴラス・ブックス ランダムハウス講談社)

 アローヨはこの天球の音楽を再現し、子どもたちはダンスを通して宇宙の星の動きを表現しているのだ。もう少し専門家の解説を引いておく。

「古代ギリシャより、天体の運行が音を発し、宇宙全体が和声を奏でているという発想があり、これが「天球の音楽」と呼ばれた。〈中略〉耳には気づかれないとされる。こうした発想の根底には宇宙が数の原理に基づき、音楽はこの原理を体現するという西洋の伝統的思想がある」(「現代美術用語辞典ver.2.0」金子智太郎「天球の音楽」項より)

 後年、プラトン、プトレマイオス、アウグスティヌスらがこの理論を受け継いだとされる。

 また、つづけて音楽関係で言うと、アローヨ夫妻の名前、フアン・セバスチャンとアナ・マグダレーナからも推察されるように、本作の音楽の底流にはバッハが流れている。本文中にも註釈をつけたが、夫妻の姓の arroyoはスペイン語で「小川」であり、ドイツ語で「小川」は bach。即ち、フアン・セバスチャン・アローヨはヨハン・セバスチャン・バッハ(音楽家の Bach は小川の bach とは語源が異なるが)であり、後妻のアナ・マグダレーナはバッハの後妻アンナ・マクダレーナと重なることになる。

(加えて、前作に引き続き本作でも、各登場人物の名前は聖書に関連している。「アナ」という名は前作にも出てきたが、クッツェーの作品で最多登場数を誇る女性名で、多くは主人公が性的に惹かれる相手だ。今回のアナは性的欲望を超越しているようである)

 さて、シモン、ダビード、イネスの家族と、アローヨ夫妻、この主役たちの他に、際立った個性のキャラクターがいる。この人物のために、本作は書かれたと言っても過言ではないだろう。美術館の主任兼ダンスアカデミーの〝門番〟(カフカの「掟の門前」を何度もオマージュとして使っているクッツェーにとって、門番は特別な存在である)を自ら務める「ドミトリー」という40代の不気味な男だ。これまで病院などの雑役を転々としてきたというが、これまたその名前が暗示するとおり、ロシア文学の香りのする人物造形ではないか。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の激情家の長男を思わせる。さらに言えば、アローヨ夫妻のアシスタントとして登場する心やさしい「アリョーシャ」という若者が、カラマーゾフ家の三男をさせるのは言うまでもない。

 さて、「彼」はあの人物になぜ手をかけたのか。中盤から物語はいきおいスピーディーに展開し、まるでミステリか法廷小説のようになっていく。「彼」は本当にあの人物と、濃密な性愛を交えた恋愛関係にあったのだろうか? 無骨な〝森番〟と上流夫人が激しい恋に落ちる『チャタレー夫人の恋人』的なモチーフもここには感じられる。作中、無数に使われる passion という単語はさまざまな含意をもつ。その奥深い多義的な含意を表すため、訳語はあえて一つに統一しなかった。そのときどきによって、激情、熱情、情熱、欲望、熱愛、恋愛感情、昂ぶり、熱意などと訳し分け、「パッション」とルビを振った。作中には出てこないが、イエス・キリストの「受難」が語源にあることは言うまでもない。

「彼」は最初から、自分がその人を殺したこと、どのように殺したかは認めており、しかし最後まで解けない謎は「なぜ」なのである。まさにドストエフスキーの『罪と罰』や、カミュの『異邦人』を思わせる人間の心の不可視性と不条理が描かれる。ドミトリーの心は闇であり、文字通り計り知れない。ゆえに、量刑も決められないのだ。

 そう、本作のテーマの一つは、「測ること」もしくは「測れないこと」である。古代ギリシャ哲学のソフィストであるプロタゴラスの言葉「人間は万物の尺度である」をタイトルにかかげる怪しげな講演者が終盤に出てくるが、この人物が論じる「メトロス」という思想家は架空人物のようだ。アローヨの言うように、人は万物を測り、数値化し、数で世界を支配することで、宇宙との直感的な関わりを失い、堕落したのだろうか? テンポの速い展開のなかに、著者独特の哲学問答が織り込まれていく。

 前作から人気のダビード少年は、アローヨ夫妻のもとでダンスを学び、じきに寄宿生となって家を出る。坊やがついに親元を離れるのだ。星のダンスや崇拝するアナ・マグダレーナに夢中になり、あっさり家を出ていくダビード。それに対して子離れできないシモンの姿には哀切があるが、それでも、シモンは坊やのためなら、ヌーディストビーチで全裸になって老体をさらし、重い自転車を漕いでチラシ配りの仕事をこなし、イネスとは倦怠期の夫婦のようになりつつも、なんとか家族の形をたもとうとする。新しいアパレルの仕事にやりがいを見いだし、遅くに帰ってきたイネスに、「食事の支度がまだですまない」と謝るとシモンと、「食べてきたからいい」と軽く言うイネスのやりとりに、これまでのクッツェー作品なら、これは男女が逆であったろうと、ある種の感慨を抱いた。シモンはどこまでいっても、風車に突撃しては跳ね返される、滑稽なドン・キホーテなのだろうか? もちろん、前作に引き続き、セルバンテスの『ドン・キホーテ』の主題やモチーフは本作にも引き継がれている。

 本作では、ダビードの心身の成長もさることながら、さまざまな殻を打ち破っていくシモンの健気な奮闘、初老の男の「成長」ぶりもなかなか感動的だ。最後まで事件の謎は解けないものの、ダビードはわが道をゆき、イネスも天職らしきものを見つける。みんな人生のステージの中央に踊り出ているのに、自分は……と内省するシモンは家族のために尽くしてきた主夫が、自分の人生ってなに? と自問するようでもある。ラストシーンで必死に立とうとする姿に、思わず眼頭を押さえた。
 本作の後には、The Death of Jesus(『イエスの死』)がすでに書かれている。この作品も日本語で紹介できることを願いたい。

 二〇二〇年四月

イエスの学校時代_カバー

(書影はAmazon.co.jpにリンクしています)
『イエスの学校時代』
J・M・クッツェー
鴻巣友季子訳
本体価格 2,300円+税
早川書房


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