銀河疾走百合SF、すべての始まり。「ツインスター・サイクロン・ランナウェイ」短篇版【8/31まで公開】
『老ヴォールの惑星』『天冥の標』など、宇宙SFの名手として知られる小川一水先生の最新SFシリーズ『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ』。最新3巻が6月20日に発売され、電子書籍版では1・2巻が8月31日(木)まで読み放題、7月12日まで半額セール中となっています。
それにあわせて、8月31日(水)までの期間限定で、百合SFアンソロジー『アステリズムに花束を』に収録された、本作のプロトタイプである短篇版を全文公開します。遠未来、凝り固まった宇宙を爆走する女漁師達の物語。
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1
ガス惑星の景観は毎日変わる。動物の姿や人の顔、食べ物やドレスの形へと、水素雲は千変万化に移ろう。テラはいつも想像をかき立てられる。
今日の眺めはカルガモの親子だ。くちばしみたいな高層雲を突き出した、高さ一〇万メートルの巨大柱状雲が行儀よく並んでいる。ひときわ大きなお母さんガモと、いち、に、さん、し……十二羽の子ガモたちだ。
四番目の子ガモの背中に、チカリと昏魚が光った。
テラ・テルテは叫んだ。
「いた! いました昏魚! 距離三千! ダイオードさん!」
「どこ」
「四女の背中! あそこの! カルガモの!」
「カルガモって何」
「あっカルガモってアースエイジの、純地球生物の鳥類で、いえ分類はどうでもいいんですけど映画に出てくる、あっそうそうちょうど大巡鳥みたいな」
「わからない、マーカー出してください」
相棒のそっけない物言いに、テラはがっくりと肩を落とす。またやらかした。自分はいつもこんな調子で、他人にはわからないたとえ話をして、相手を苛立たせる。
そのせいで、作り話のテラという不名誉な呼び名を奉られている。
今回の相手と組むのは初めてだ。それもちょっと普通ではない組み合わせだ。港で出くわした知り合いからは変な目で見られたし──というか遊びで漁に出るなとはっきり言われたし──自分でも間違ったことをしている気がすごくする。
だからこそ、うまくやってのけたかったのに。
しょんぼりしながら前方を見つめていると、ふと気になることがあった。柱状雲の形が変に思える。変というか、整い過ぎている。
柱状雲ってあんなにきっちりしてたっけ……?
「あの、マーカーを」いぶかしげな声。「……不調ですか、テラさん」
はっと我に返ると、足元の前席ピットにいるペアのダイオードが振り向いていた。
彼女の舶用盛装は銀と黒で、ボディラインの出るスキンスーツ型に作ってきた。薄い胸や尻の線はくっきりと見て取れるし、細い二の腕や白い内腿はあらわになっている。レースのヘッドカバーに包んだ銀髪が肩下まで流れ、ひそめた眉が細くて涼しい。睫毛は日陰ができそうなほどに濃い。
その姿は飛び抜けて大胆で美しい。今朝、待ち合わせて乗船した瞬間に、テラは自分の平凡なヴィクトリアン型ロングドレスを後悔した。
今も後部ピットで見惚れていたテラは、聞かれてあわてて返事をする。
「あっはいすぐ今! 今出します!」
長い人差し指で彼方を差す。ガイドレーザーがまっすぐに伸びて目標を示した。
昏魚たちがいた。ちらちらと紺色にきらめいて見える生物の群れ。一頭一頭はまだ解像できないけれど、生き生きと動くものが集まっているのは離れていてもわかる。
テラは食い入るように見つめる。昏魚、暗い金属的な色味をした鉄質黒雲母の鱗のせいでそう呼ばれているけれど、昔の地球にいた魚類とは縁もゆかりもない生き物だ。ガス惑星の上層と中層の大気を動飛行している各種生物のことであり、その体は深層で摂取してきたらしい炭素、珪素、ゲルマニウムなどの炭素族元素や、窒素、酸素、塩素のほか各種の重要元素で構成されている。
地面のないこの惑星を巡るサーキュラーズに、多くの恵みをもたらしてくれる獲物の群れだ。唯一の欠点は、煮ても焼いても人間には食べられないことである。
「あれか……カタクチかな」
遠方を見晴るかしたダイオードがうなずいた。二つのピットは本当は船の別々の位置にあって、物理的に独立しているけれど(その理由は誰だってわかる)、映像的には前後くっついているかのように処理されており、テラが指したものはダイオードにも見える。
テラはでかいおっぱいのせいで見づらいVUIパネルを胸の上まで持ち上げて、十指でこちょこちょつつき回し、魚群諸元と彼我運動条件をどうにかこうにか弾き出した。しばらくじっとにらんでから、漁獲戦術計画を二本立て、ファイルを前席ピットへ投げて送る。
「戦術です!」腕利きとはとても言えないデコンパだが、なんだかんだで十回以上出たことはあるから、仕事の段取りぐらいは理解している。「柱状雲上流で高度方向の幟群をやっているので、あの昏魚はカタクチに見えると思います。カタクチだったら風上を向いてほとんど動かないので、ビームトロールで下流上方から俯角でかぶせていこう、そういう流れに、普通はなると思います」
「なんですか、その言い方……」ダイオードがアルトの声を不審に曇らせる。「カタクチ『に見える』って何。あれはカタクチじゃないんですか。私もそう思ったけど」
「カタクチじゃないです」テラは断言する。「というか、あそこ柱状雲じゃないんです。だから魚も、カタクチじゃない」
「は?」
ダークブルーの瞳が、初めて驚きに開かれた。
「何? 柱状雲じゃない?」
「たまたま真横から見ているから柱に見えるだけなんですよ。位置取りの問題です。あれ接近したら多分こう見えます──」テラは二本目の漁獲戦術計画を開き、側面図をぐりっと回して予測平面図を示す。「鰭状雲です。風上に対して柱じゃなくて板になってますよ、きっと」
「鰭状雲!?」
ダイオードが声を上げて、戦術計画と前方の実景を何度も見比べた。目を凝らして、うなずく。
「そうだ、あれ、鰭状雲だ……よく気づきましたね」
「はい、なんかリズムが変だったので!」
「リズム」
ちらりと振り向いたダイオードに、テラはうなずく。
「リズムです。十三本がトントントントン、って並んでる。でも柱状雲はカルマン渦だからタントンタントン、って並ぶはずなんですよね。一個おき。滑らかにならない」
「タントンタン」
ダイオードがおうむ返しに繰り返した。テラはあわてて手を振って話を戻した。
「すみません、いいです。つまり言いたいのは、あれは鰭状雲なんで、昏魚はカタクチじゃなくて、真横から見て立群に見える群れ。つまり長幕群を作るタイプの獲物だってことで──うわわっ!」
話が終わらないうちに船がグンと加速し始めたので、テラは後ろへのけぞってしまった。あわてて「あの!」と声をかける。
「いいですか!?」
「何が」
「魚種!」
「長幕群なんでしょう」考える必要があるのか、と言わんばかりのそっけなさ。「長幕群って、要するにロープみたいな細長い群れがたまたま上下に扁平になったもの。ロープ状の長幕群といったらナミノリクチしかいない」
テラは黙った。自分の見立てと同じだった。それほど難しい推理ではないが、似た候補は他に三つほどあるはずだった。
「そしてナミノリクチだったら──」ダイオードは続ける。「カタクチと違って高速で回遊している。つまり今あそこで動かないように見えている群れは、こっちへまっすぐ向かっているか、向こうへまっすぐ遠ざかってる」
「後者だと思います! どんどん見えづらくなってるので!」
「それ」
短いひと言に含まれる、かすかな成分を感じた、と思うか思わないかのうちに鋭い挑戦が来た。
「〝追い網は丸坊主〟。どうしますか」
魚群を追いかける形での漁は不利、という意味のことわざだ。網は、魚の行く手に打つものだ。現在の位置関係は、端的に言ってものすごく悪い。
「曳いて追うのは論外、でも抜けばバレる」
船が網を広げると、空気抵抗で速度が落ちるので、群れに逃げられてしまう。かといって、いったん回りこんでから待ち伏せしようにも、追い抜くときに気づかれて、群れがバラバラに散ってしまう可能性が高い。
「トロールで下から刺し上げるしかないかな。一刺しで二ハイ、なんとか三刺し」
「それでもいいですけど、あの──」ダイオードの言葉を遮り、テラは唇を舐めて言った。「群れのすぐ下をかすめて、全速で直進してもらえますか。巻き網やりたいので」
ダイオードが目を剥いた。三歳児を見るような目だ。
「巻き網」
「はい」
「回遊魚相手に」
「はい」
「群れ、バレますけど」
「大丈夫です」
「へー、どうぞ」
アホみたいな提案があっさりと通った。それに力を得て、さらに甘えてみた。
「キューまで透かしで引っ張って、キューで十パイ負荷入れますけど、いいですかね……」
「バカじゃないですか? 好きにすれば」
これも通った。とうとう露骨な罵倒が来たけれど。
「ふへへ、へ、じゃやります。へへ」
テラは武者震いし始めた。まともなところがひとつもない会話だった。通常、ナミノリは刺し網とか流し網で獲るし、寝言以外で負荷十パイなどと抜かすやつはいない。
今までの婚約者たちだったら呆れ返るに違いない、それどころか他にやってる人間を見たことがないような網打ちを、本当にやることになってしまった。
大気の薄い超高層をすっ飛んでいた船が、立ち並ぶ鰭状雲を前方に臨みながら、圏界面を切り裂いて大気圏上層に突入した。
そう、ここはばかでかいガス惑星ファット・ビーチ・ボールの大気圏内で、宇宙空間とは比べ物にならないほど濃密な気体分子に満ちており、なんなら風も嵐も吹いている。水素とヘリウムとホウ素粉と硫黄と、そのほか絶対に人体に無害ではない気体が時速三〇〇〇キロで渦を巻く大魔境だ。もしブリキ缶みたいな恒星船や惑星船でのこのこ降りてきたら、ボロボロにやすり掛けされてインテイクには粉が詰まり、四千気圧の深淵にブチ落ちておうちへ帰れなくなる。
だから、そこで漁をする巡航国民は、礎柱船に乗ってくる。
礎柱船は変形する。船体のほとんどが全質量可換粘土で出来ている。太陽発電中の扁平型から、真空航行中での全長二〇〇メートルの円柱型、そして現在、大気圏突入時の砲弾型まで、好き勝手に形を変える質量一七万五〇〇〇トンの粘土棒。
それをいじくるのがデコンパだ。
魚群までの距離が五〇〇キロを割った。テラは目を閉じ、深呼吸する。ろくろを回す人のように、胸の前で両手を構え、力を抜いて体液性ジェルの中に浮かぶ。
精神脱圧。想像を大きく、くっきりと描く。自分の体を包む船体を、広げて、伸ばして、編み上げて、まるで自分の手足のように、自在に揺らし綾なしていく。
「到達十秒前」
ダイオードが言った。後頭部一次視覚野への刺激投射ですべてが見える。全周三六〇度の光学と、そのほか多周波を重複させた映像だ。すでに魚群が解像できる。
昏魚の姿は紡錘形、剣型、鳥型、ロープ型、袋型、網型などさまざまだ。こいつらは──バターナイフみたいな銀色の剣型。確かにナミノリクチだ。こちらに尾を向けて一散に逃げていく。
その数はわからない、横断面で二百匹はいそうだけれど。奥行きは千、二千かも。
「五、四、三、二、一、リーチ」
ごうっ、と群れに追いついた。前髪を剃り上げそうな近さで魚群が頭上をかっ飛び去る。それはもちろん錯覚で、百メートルはマージンを取っているはずだが、でも、ほんとにそうか? 礎柱船、背中で群れを削ってないか?
そんな刺激に揺らがされることなく、テラは仕事を始めている。
船体の右と左から抵抗板を一枚ずつ分離。超音速の航行風に叩かれてあっという間に遠ざかる。そいつに強靭な呼び綱をつないである。ボードに曳かせて、網を編み出す。
そう、デコンパは網を編む──格納してあるものを引き出すのではなく、船体粘土を材料にして、そのとき行う漁に合わせて、その場で網を形成するのだ。目にもとまらぬ紡織速度。
ピンク色の礎柱船の後ろ半分が、真っ白なレース布のように細かくほどけて広がっていく。
頭上に翼のような波しぶき。長幕群を形成する昏魚が、駆け抜ける礎柱船に驚いて左右へ跳ねていく。銀の帯を刃物で切り裂いていくような光景だ。あるいはジッパーを一気に開いていくような。
深い脱圧状態の中で、爽快な光景ににやにやと微笑むテラの耳に、ペアの独り言が届く。
「舵が軽い……まだ刺してないのか」
その通り、まだ魚を獲っていない。透かしている、網をひろびろと展開しているだけだ。普通の曳航漁業で用いるトロール網ではない。テラがこの場に即して考えだした、前例のない巻き網だ。
それも、もうすぐ出来上がる。
「展網完了します、キューで昇りインメルマンよろしく、十、九、八」
「なるほどね」
今度は、ダイオードが舌なめずりする気配がした。
舵取りの仕事の時間だった。
「三、二、一、キュー」
「んふ!」
ズシン、と衝撃が襲いかかった。ダイオードが鼻を鳴らす。デコンパによる漁網形成展張が終了し、牽引が始まったのだ。ツイスタが全制御をハンドル開始。
礎柱船は上昇しながら旋転し、元来た方角へ戻り始めた。──その尻から、強靭な主綱を引いている。
四角い広場のように展開した網の上で、バラバラに逃げ散ったナミノリのほとんどが深みへ逃げようとしている。つまり、網全体に、まんべんなく、自分から頭を突っこんでいる。
その四隅に結びつけられたオッターボードが主綱に巻き上げられていく。
全質量が礎柱船にかかる。船尾の熱核エンジンが爆光を放つ。テラはデコンプから浮かび上がりながら、負荷の巨大さに気が気でない。
「だ、だいじょぶですか、重さ……」
「十パイ獲るって言いましたね」
船の下では、パンパンに膨らんだ網の中で、昏魚の魚体がざわざわと蠢いている。後方にごうごうと噴射を続けるエンジンの光で、雲海がはるかかなたまで赤金色に照り輝いている。構造/燃料共用のAMC粘土が、とてつもない勢いで減っていく。どうも見たことのない光景だと思ったら、このツイスタはノズルを十八個も出していた。十杯すなわち本船質量に等しい漁獲を本気で支えるつもりだったらしい。この高度での惑星重力は二Gに近いので、静止するだけで三十五万トン重を噴射する計算だ。
船底と船尾に生成した十八個のノズルに推力を配分する計算とは、どんなものなのだろう。網の中の昏魚は風に揺さぶられるせいもあって、半流体として渦を巻き、高サイクルの制御を要求している。想像力とは無縁の、ただ力学にのみ従う、そして決して力学に逆らえないその仕事は、テラのもっとも苦手な役割だった。それを簡単だというサーキュラーズのほうが少ないだろう。男であってもだし、ましてや女では稀有──。
自席を囲んだ扇型の仮想スロットル群を、ダイオードは十指でツイ・ツイとはじき回している。メタルブーツの爪先でコツコツとリズム。ポルカをやるピアノ弾きのように軽やかで楽しげだ。
テラも、仲間も、誰も見たことのない「女ツイスタ」の、それが姿だった。
それでも確かに、一ミリの押し引きで一万トン重の推力を加減しているという緊張は、小さな頬の引きつった口の端に窺えた。
その横顔から、耳を疑うような言葉が流れて来た。
「自重で十ギガニュートン食われてる。テラさん、自分が何やったかわかってますか」
「え?」
「何バイ獲ったかっつってんですよ」
計算しなくてもわかった。テラの広げた網は、期待をはるかに超える大量の獲物を抱えこんでしまった。
「十一とか十二とか──」「十八パイですよ、テラ・テルテさん」
振り向いた彼女の瞳は、油膜が張ったようにぎらぎらと潤んでいた。
「あなた、最高です」
言うと同時に親指を立て、ギッと首を掻き切る仕草をした。
「なんでーーーーーーーーーーーっ!?」
全量投棄のコマンドを受けて、主綱は切断、網が落ちる。
反動で礎柱船はパーンと吹っ飛んでいき、テラの悲鳴をくるくるとまき散らす。
2
三十一万五千トンの法外な漁獲を一体なぜかぶん投げてしまう相棒を、テラが選ばずに済んだかもしれなかったのが三日前だった。
「おば様、ただいま……」
「テラ! どうだった? ローズ氏のハメット家」
エンデヴァ氏の氏族船にある族用ビアホール、「ワールド・エンド・ボード」。よそ行きのフォーマルドレス姿で、大荷物を両手にぶら下げてよろよろ入ってきたテラに、伯母のモラが椅子から腰を浮かせて呼びかける。
ふらふらに疲れ切って丸テーブル席にやってきたテラは、そのままバタンと突っ伏して、白ハンカチをひらひら振った。
「だめでした~」
「だめだったかー! ハメットの三男坊だよね? あの象みたいな、て言っちゃ悪いけど、でかいけど優しそうな坊ちゃん。合わなかった?」
「はいぃ、私の船で試し打ちに出たんですけど、二回やって、君の網は僕には難しすぎるって言われちゃって……だめでした」
「そっかぁ……」
「あっもちろん、あちら様が下手だったわけじゃないんです、袖網八枚開いた私が悪いんです」
「袖網を八枚も? そりゃあすいぶん多いね。どうして?」
尋ねたのはモラの夫のルボールで、モラ本人はしかつめらしく首を横に振っている。テラは愛想笑いしながら答える。
「えと、なんていうか、考えてると勝手に……昏魚があっちに流れてるな、こっちにも、そっちにもだなって思うと、自然に網が変形しちゃうんです」
「普通に、何も考えずに、袋網と袖網二枚のトロールにしちゃえない?」
「ですよね。あはは……」
「その、何も考えないっていうのが、この子には難しいの。どうしてってのはナシね。そういうふうにできている、としか言えない」
横から説明を挟んだモラが、それじゃあさ、と風向きを変えるかのように言う。
「あんたから見て、向こうの坊ちゃんはどうだった? ちょっとは素敵な感じだった?」
「あ、はい、よかったと思いますよ」
「思いますぅ?」ぐぐっ、とまったく優しくない笑顔をモラが突きつける。「他人事みたいに言わない。旦那様になるかもしれなかった相手よ。本当に添い遂げたかった?」
「ちょ、おば様、こわいです……」手のひらで防ぎながら肩を縮めて、テラはつぶやいた。「私の好みって、あまり関係ないですよね」
「なくはないよ」顔を寄せたモラが、小声でささやいた。「言ってみ? あたしらだけの話にするから」
「うー……じゃあ、独り言ってことにしてほしいですけど」
「うんうん」
「その、ピンとは来なかったなあと。こういうと失礼ですけど、礎柱船のツイスタとしての、気力っていうか覇気っていうか、やるぞっていう感じがもう少しあっていただけたらな……って」
「そいつはむしろ長老会の喜びそうな話ね。本心?」
「ですよ。あ、でも、おば様。無理に私より背の高い方を選んでくださらなくてもいいです。私、大きいお相手より、むしろ可愛いほうが」
「え、そうだったの?」
「はい。ごめんなさい……」
苦笑したテラの、あごの高さにモラの目がある。座ってなおその高さであり、立てば同年代の女子平均より、こぶし三つ分の高みにそびえるのがテラだった。これが理由で二十四歳になる現在まで、色恋の経験はあまりない。
申し訳なさがる大きなテラを見上げたモラは、盛大に嘆息した。
「そっかあ、しまったなあ、あたしの見立て、大体外れてんじゃん……!」
「君は早とちりだからね」
夫妻の嘆きのあとに、沈黙がテーブルを覆った。
お見合いが失敗したというのは、あまり軽い話ではない。サーキュラーズはガス惑星から水揚げされる昏魚を原料として、全ての工業資材を製造し、外貨を稼いでいる。一氏族あたりの保有漁船はどこでもだいたい十隻前後でしかなく、テラの礎柱船もその一隻だ。
つまり、彼女が片付くかどうかに、エンデヴァ氏二万人の食いぶち、一ヵ月分と少々がかかっている。
テラは言葉もない。ビアホールのテーブルに伏せた顔を横向けて、窓の外の宇宙空間を眺める。赤と白とピンクの綿菓子のようなガス惑星が、窓の右手をゆっくり巡っている。左手にはドッキング中の船の、X字型をした漆黒の巨大翼がそそり立っている。祭りのたびに訪れる、系外交易船の一部だ。
大巡鳥は貴重な客だ。広域人類の各種商品をFBB系にもたらし、離郷者と買い取ったAMC粘土を運んでいく。サーキュラーズの大いなる関心の的であるのだが、今のテラはそれを見て別のことを考えていた。
この鳥を見るのも三度目か。
つまりお見合いを始めてから足掛け四年だ。
やがてモラが威勢のいい声を上げた。
「まあ、しゃあないわ! ダメだったもんは! 全然合わないのにくっついたり、好き合ったのに引き裂かれちゃうよりはずっとマシだよね。次のチャンスに期待しよう。ヘーイウェイター、大ジョッキ三つ!」
「あっ、おば様。ここ私が持ちます」
「何言ってんの、出戻った当日に人に奢るなんて悲しい飲みがあるか! 座っとけ!」
ビールライクのジョッキをカチ合わせて、やけ呑みを始めながら、テラはほとほと感謝する。八年前に両親が事故で亡くなって以来、この伯母には世話になりっぱなしだ。それにくわえて、一ヵ月の大会議のあいだに二度も見合いの口を見つけて来てくれた。
並の娘ならどこにでも嫁に出せようけども、テラは親譲りの礎柱船に乗るオーナー・デコンパだ。となればその夫はツイスタ以外にはありえない。しかしやもめでもない限り元々ツイスタである男はいないから、独身の男に他種船から機種転換してもらわねばならない。けれど家格や年齢の釣り合う男は限られる。現存するサーキュラーズ十六氏族の中から、適当な相手を探してくるのは、大変な苦労だったろう。
ましてやテラは、作り話の陰口を叩かれる女だ。デコンパに求められるのはツイスタの命じるとおりに網を作ることであって、袖網八本のサカダコみたいなへんてこな道具を勝手にひねり出すことではない。モラは売りこみの口上にもほとほと困ったに違いない。
エンデヴァ氏特産の香ばしいビーフライクステーキとポテトライクマッシュをばくついて、四杯目のジョッキをごふごふ空けながら、隣のモラが肩を押す。
「しかし向こうももったいないことしたよな、あんたさ、あんた、器量はいいのにな! 器量と体は!」
「別にそんなことないですし……あのっ、ちょっと、おば様! そっちも大きいだけなので!」
「だけって言うな、これはだけじゃない! とってもありがたい肉だ、自覚しろ!」
モラがとうとう、だぷん、と両手でテラの胸を持ち上げた。テラは単にでかいだけではなく肉がある。なんでこの乳でそのゆるい脳なんだと中等生の同期に言われたこともある。それによれば、人がこのサイズの脂肪を持ったら、もっとはるかに戦略的な応用を考えるのが普通なのだそうだった。そう言われてもテラは困る。おっぱいに誘引されたらしい男性はどれも話が合わなかった。それだけでなくこの付属物はしばしば手作業の邪魔になり、宇宙服の着脱を阻害することもあった。嬉しかった記憶はあまりない。
「うう、これだけのものを無駄にぶら下げてるだけなんて、損失だ……」
「そうだね、立派だねえ」
酔っぱらって姪を揉み続けるモラの手を、ルボールがそっと引き剥がす。そんな夫妻に苦笑しながら、テラは随想する。
──もうちょい真面目に考えなきゃなあ。
漁にはどうしても出なくちゃいけない。出なくても自分一人なら映像庫の配信司の仕事で食っていけるけど、それでは氏族が食っていけない。礎柱船を遊ばせていると、エンデヴァの長老会が困り果てるし、まかり間違ったら船を取り上げられる。
それだけは避けたい。父と母の遺産である礎柱船(観光船なんかじゃなくこっちで衛星旅行へ行ってれば墜落なんかしなかったのに!)を没収されるのは絶対いやだ。だからなんとか、見つけるのだ。大漁にならなくてもいいから、自分の網を曳いてくれる男を。見つけて礎柱船に乗ってもらって、漁と暮らしをともにして──。
すん、と火に水をかけたみたいに食欲が消えて、テラは表情を忘れる。いつも妄想がこのあたりまで来ると、なぜか気持ちが乗らなくなるのが常だった。漁のうまい(そしてやさしくて頼れて顔のいい)男と結婚して礎柱船に乗れたら、それは理想的な人生であるはずなのに。
それ以外の人生なんかあり得ないのだ。サーキュラーズの女にとって。
「……おば様、もう一度だけ紹介してもらえませんか? いえ、もう時間がないから、どこかの氏族に私が飛びこみで行ってきても──」
覚悟を決めてそう言い始めたとき。
焦ったような声が横から飛びこんできた。
「お見合いでしたら、待ってもらえませんか」
テラは振り向いた。一人の少女が立っていた。
ヘッドカバーで押さえた銀髪、銀紫のフォーマルミニドレス、ロウソクみたいにつるつるの脚。青い瞳と、両手で引きずるでかいトランク。細身で小柄な人形じみた佇まい。
テラたちと、その周りのビアホールの客は全員、ふんわり金髪と若葉色のドレス姿を基調とした、エンデヴァ氏特有のざっくりどっしりした田舎風のいで立ちに身を包んでいる。その中で、少女だけが根底から異なる存在感を放っていた。
異氏族に違いなかった。であれば、のんびり話している場合ではない。ルボールが大時計に目をやって言った。
「君は異氏族だね。もうじきパージの時間だよ。あと……二十分もすれば船団解体だ。大丈夫かい?」
大会議は二年に一度。ガス惑星ファット・ビーチ・ボールをバラバラに巡る十六の氏族が、位相と軌道傾斜角と昇降点経度を合わせて、わざわざ一堂に会する祭典だ。百年一日の長老会が全体会議をやる最中に、若者は商売とケンカとコンサートとダンス、何よりも結婚するべく駆けずり回る。誰もがとても真剣だ。なぜなら三十日目の深夜二十四時に、全船団が解体してしまうから。
別れた船団はまた別の軌道傾斜角を取る。理由は単純、漁場の分散のためだ。そして次の大会議までは、直径十五万キロの広大なファット・ビーチ・ボールを別々に巡り続けるのだ。
そのパージまで、あと半時間。古い言い方をするなら、この少女は列車が汽笛を鳴らすプラットホームに立っているわけだった。
「大丈夫です」
そうだとは思えないひと言を平然と吐くと、少女は進み出てテラの横に立った。こちらの髪のてっぺんから胸の舳先までゆっくりと眺める。──テラはふと、花か木の皮を燃やしたような、甘い植物的な煙の匂いを嗅ぎ取った。
少女が言った。
「やっと見つけた。テラ・インターコンチネンタル・エンデヴァさんですね。紹介はありませんけど、失礼します」
「……はい」
本名で呼ばれたテラは、少しだけためらってから、うなずいた。テラ・テルテのほうが通りがいいはずだが、そう呼んでこないということは礼儀をわきまえている。少しぐらいなら話してもいい。
けれども少女の次の言葉は、不快であるとかないとかを越えて不可解としか言いようのないものだった。
「私に、あなたの礎柱船を操縦させてもらえませんか?」
「は?」「え?」「んお?」
テラとルボールの目が点になり、彼にもたれていたモラまで酔眼を開けた。
続く三秒間で、脳内で火山みたいに各種妄想が噴き上げ、テラは眉毛の先まで真っ赤になった。
「えっあの操縦!? あなたが? 私を? どうやって? 女の子ですよね?」
「はい。──あ」
白い手ではたと口を押さえた少女が、テラよりずっと控えめに頬を染めて、誤解です、と言った。
「すみません、今のは結婚してほしいって意味じゃありません。ただ、昨日六十度帯あたりで誰かがリンゴエビに仕掛けた、婚約打ちを見たんです。あれがテラさんだって聞いたので」
「あれ見たんですか……」
「はい。いえ、ご破談になったっていうのは聞きましたけど、恥じらわないでください。私、あれはすごいと思ったんです。それで──」
「はふえ!?」
声が出た。やにわに手をぎゅっと握られた。アイスバーみたいに冷たく細い指。少女が銀のまつげの下の瞳の奥を覗けそうなぐらい、顔を近づけた。腰かけているテラが、ほとんど見上げる必要もない背丈。
「組んでほしくて。私、ツイスタなんです」
「女の子ですよね!?」
「それはもう、はいって言いました」
ぶっきらぼうとか、無遠慮とかいうのが相応しい口調なのに、テラはいやだと思えなかった。ツイスタなのに女である、いや、女のくせにツイスタをやるなんて、と驚く余裕もどこかへ行った。グイグイ迫る少女の押しと、何よりも雪のように白い顔に、すっかり捕獲されていた。
「名乗ります。通名ダイオード、DIE-Over-Doseです。当分そう呼んでください。測候・船長の母に生まれて十八年、もう九千五百時間飛んでます。資格も腕もあるんです。ただ、飛ばせる船を除いては」
「ダイオード? 九千五百時間!? ああ、でもーっと、漁獲!」反論しなくてはならず、テラは懸命に理由を探し出す。「漁獲はどう分けるんですか? うちはエンデヴァ氏ですけど、あなたは? 半額をどこの氏族に入れれば?」
「要りません。ただ、飛びたいんです」
潔い、という言葉の見本がここにあった。「えええ……」とテラは口を開ける。
とうとうモラ伯母が迎え討とうとした。
「でも、テラは結婚するんだよ! 探しているのは男なんだ!」
「はい、どこかの氏族に飛びこみに、でしたね」
毛ほども動ぜずうなずくと、少女は左手の甲をコンと指で突いた。ミニセルの画面に時刻が光る。
ボーーーーーーーーーーーーーーッ
「パ」「あ」「時間ー!」
全船団パージの時刻を告げる汽笛が、酒場と船全体に響き渡った。
「次のお見合いは二年後です。私は、明日から乗れます」
全高一四八センチの「自信」と題された彫像が、そこにあった。
それがしかし、少しだけ傾いた。
「でも──もし、あなたがおいやなら、けっこうです。テラさん」
「あっ、はい」けっこうなんだ、こんなに押すのに。「ダイオードさん……ですっけ」
「はい」
「もしいやだって言ったら、どうするんですか」
「その場合はこの船で二年間、お皿でも洗って帰るしかないですね」
他人事のように首をかしげる少女の姿に、ずるい、とテラは思ったのだった。
3
地球の雲の十倍もある雄大な積乱雲の向こうに、地球の太陽よりだいぶ小さな夕日が沈む。テラの礎柱船はその夕日を斜め前方に見て高空を飛んでいく。
礎柱船が衛星軌道上の氏族船を離れて惑星へ降下すると、自転によって日の出の方角へ連れ去られてしまう。その場で再び上昇しても氏族船には戻れない。だから自転と反対方向のベクトルを少し加えて、つまり夕日に近づく形で大気圏を飛び出せば、惑星を一周してきた氏族船と再会できるというわけだった。
礎柱船の腹はいくらか膨れている。網で獲った昏魚を格納したのだ。といっても六時間前に豪快な方法でごっそり捕らえたナミノリクチではない。そのあとで、別の漁場でごく無難にピラートロールを流して獲ったアマサバが五ハイ半、九万六千トンあまりだ。
平凡すぎるほど、平凡な漁獲だった。
ということは、不満な漁獲だった。
テラにしてみれば。
「なーんーでー、これだけなんですかぁ……」
後部ピットで膝を抱えて、テラはぶちぶち文句を言っている。
「あんなにたくさん獲れたのに」
三十一万五千トンの昏魚といったら、二ヵ月分の漁獲にあたる。それを直接食べることはできないが、AMC粘土に加工することで、サーキュラーズの暮らしを全面的に下支えする役に立つ。持ち帰ったらみんなに褒めちぎられて、氏族はとても潤っただろう。そういうことを成し遂げたツイスタとデコンパを、何度も見てきた。
ダイオードは取り合ってくれない。
「コンテナきちんと出してください。違う、推測じゃなくて実測。フルエレメントで!」
あの全量投棄のすぐあとで、帰ったら説明しますからと言われて、それっきりだ。アマサバ漁のあいだも、それが終わって帰る段になっても、ひたすら操縦に集中している。
彼女に要求されて、テラは天空に目を走らせる。そこにはずっと後方から追いついてくる氏族船の予測未来軌道が投影されているが、それではダメだとダイオードは言っている。仕方なく、航法衛星からちゃんと実信号を取って、軌道要素を並べてターゲットコンテナとして投影した。
「はい。これでいいですか」
「待って、乗せます」
ドッ、と後ろから濁流にぶつかられたかのような大加速が始まった。二十万トン以上が軌道速度を目指す。同時に側方へゴッ、ゴッ、と蹴りつけるような衝撃が響く。進路修正インパルスと加速度と重力が、緩衝用体液性ジェルに浮かぶ二人の体を揺さぶる。
「いいかな……よし。ランデブー軌道取れました。ふう!」
鋭く尖らされた船首ノーズコーンが高空を切り裂いていく。前部ピットのダイオードが、バックレストにもたれてコポリと息を吐くのを、テラは後ろから頬杖を突いて見ていた。
「帰還まで手動でやるんですね。あ、再突入もだったか」
「ええ」
「……それも、やりたいから、なの?」
うちへ帰るだけなら船が勝手にやってくれるはずだ。だがダイオードは首を横に振った。
「いろいろ派手にやったから、もうあまり推進剤の余裕がないですよね。オートより精度出したくて、手でやりました」
「そうなの──」
「逆に聞きますけど」ダイオードが振り向いた。「手動リエントリとランデブーのできないツイスタって、どう思います?」
「それはちょっと──頼りない、かな。でも、そんな人いるの?」
「いますよ」
呆れ顔で言われてしまった。
なんとなくにらみ合いのようになる。息苦しい。いやだなと目を逸らすと、ダイオードが言い募った。
「テラさん。いろいろ納得できないのはわかります。でも、私はツイスタです。ツイスタにしかわからないことがあるんです。しばらく待ってもらえませんか」
「それは聞きましたけど……」
待たなきゃいけない理由が知りたい。話してもわからない相手だと思われているのだとしたら、寂しい。
だけど訊くのが得意ではない。
するとダイオードの口調が変わった。
「テラさん」
ピットごとぐるりと回転してこちらを向く。正面、同じ高さで顔を寄せる。眼差しよりも、首元の素肌に直接巻かれた、剣型の凜々しいネイキッドタイにテラは目を奪われた。
「私、下手でしたか」
「えっ」
「テラさんから見て、どうでしたか。その、気力というか覇気というか、やるぞって感じは、あったと思いますか。自分で言うのもなんだけど、それなりの水準には達していたと思います。私だったら合格でしたか?」
訴えるようにそう言ってから、ツイスタとして、と少し語気を緩めた。
「え、えーっと……」勢いに驚いた。「それって私がボードで飲んでた時に言ったことですよね。聞いてました?」
「あっ、すみません」ダイオードの背がピンと伸びる。「立ち聞きするつもりじゃなかったんですが、つい見てて。結果的には」
「いいけど。水準、水準ね」考えることなんかあるわけがない。ハメット家の三男坊はテラの網に面食らって、直進もできずにぐるぐる回るだけだった。「達してた、と思いますよ。ていうかあなたってそんなレベルじゃ──」
「ですか」ほっ、と軽く胸を押さえて、「でしたら、それに免じてお願いします」
言うだけ言って、ふんすと口を閉ざした。ペアを申しこんだときと同じ、押しの一手という感じだった。
テラはあることに気づいて、不思議な気持ちになる。
──この子、中身は違う。
見た目はものすごくクールなのに。そうじゃない、ひどく張り詰めてる。なんだろう。何かを望んでいるのはわかるんだけど。
これまではツイスタになってくださいと、自分が頼む側だったので、逆にやらせてほしいと頼む人の気持ちは、ちょっとわからなかった。ただ、不満の気持ちはだいぶ薄れた。
──私もこれぐらいのときには、大人に話しても通じないと思ってたな。
「うふ」
「はい?」
「いえ、わかりました。あなたにお任せします、ダイオードさん」
言ってから小首をかしげて、言い直した。
「ダイさんって呼んで、いいです? 長いので」
「DIE?」たちまち少女の片眉が跳ね上がる。「それだと、ただ死ぬんですけど」
「そのダイなの? ダイアナとかダイヤモンドみたいでいいと思ったんですけど……」
何気なく言ってみる。と、ふわっとダイオードの鼻の頭が温まった。
ぐるりとピットをむこうに向けて、とげとげしい言葉を投げてくる。
「そんなに呼びたければどうぞ。所詮はただの呼び名ですし」
「はい、ダイさん」
もう返事はなく、代わりにガツンと船が一段、加速した。
二十分で周回軌道に出る。巨大な円盤型のエンデヴァ氏氏族船「アイダホ」が、後方から悠然と近づいてきた。最接近距離は五〇〇メートルが理想であるのに対して、ダイオードが取った進路では五四五メートルの予想がはじき出され、おおおとテラは感嘆する。全行程消費推進剤は九万二千五百トン。漁獲が九万六千トンなので差し引き利得は三千五百トン。ささやかながら確かに黒字である。
初回にしては上出来じゃん、とテラは気持ちを切り換えていた。
遠点噴射後、「アイダホ」中心にそびえる漁獲検収塔にアプローチして、映像通信で係官と対面するまでは。
「え? 得分返上? いやそういうことはできませんが、あなたはどちらの……あれ、デコンパさん?」
「ツイスタです」
「どこに? あれ? インターコンチネンタル家の船だよね。テラちゃんは?」
「私、一緒に乗ってますけど……」
「だから、私がツイスタです」
同氏族の顔見知りの係官に向かって手を上げたテラの横から、ダイオードが硬い無表情で言った。流れ作業的に仕事をこなそうとしていた係官の顔が、険しくなる。
「女同士はダメだよ。テラちゃん、こういうのはやらないことになってるんだよ。何、この子と下へ降りたの? わっ、獲ってきちゃった? ああー、これはねえー」
「あのあの、五ハイ半です。ちょっぴりだけど、ちゃんと黒字で──」
「いや黒字とかね、そういうことじゃなくて。黒字なのはいいけど、いや、それもあまりよくないんだよね。つまり……知らない? 中航生の時に習ったでしょ?」
「えーっと、習ったかな、習ってないかも……」
それに、親代わりのモラ夫妻も何も言わなかった。もっともモラたちは礎柱船乗りではないので、漁の法規に詳しい理由もない。
「習ったよ、忘れてるね。これは互酬系違反になるんだよ」
顔をしかめながら係官が話してくれたのは、こういうことだった。
ツイスタとデコンパは夫婦であるのが常だ。夫婦の仲は、たいていの場合、嫁入りか婿入りによって、二つの氏族の男女が築き上げるものである。これは二つの要請があるために、このように営まれている。
第一の要請は血の混ぜ合い。いわゆる遺伝的多様性の確保だ。二年のあいだひとつの船で暮らす一氏族、二万人のあいだでもし同族婚姻を続けると、血統が偏ってしまう。だから、大会議を催して、十六氏族三十万人の中から、できるだけ広く新たな血を求めることになっている。
第二の要請は暮らしの安定。いわゆる互酬による所得の再分配だ。十六の氏族が分散して独立採算で暮らしていると、二年のあいだには富めるところと貧しいところが出てくる。漁獲は一様ではないからどうしてもそうなる。それでは対立が起きてしまうから、できるだけ獲物を分配することになっている。礎柱船の男女が漁獲を半分ずつ得るのはこのためだ。
漁獲を半分得るといっても、嫁入り婿入りしてきた側は、遠くの実家へ昏魚を送りつける方法がない。だからその分は相当する貨幣の形で積み立てることになる。礎柱船の稼ぎの半分は、常に外貨の形で蓄積される。そして大会議の年に各種取引の決済に使われる。十六氏族すべてがそのように助け合うことで、全体としての安定が保たれる仕組みになっているのだ。
「そういうことになってるのは知ってますけど……」
「テラちゃん、何度も出戻ってるもんね」
「うっわ、それ言う人なんですか。ひっど」
テラが係官にドン引きしてみせていると、ダイオードが割りこんだ。
「今の場合は、私が自発的に得分返上を申し出ています。あなた方エンデヴァ氏の漁獲が増えるだけ。問題はないはずです」
「うん、あのね、あなたはまだ仕組みがよくわかってないのね。ていうのは、あなたにはそういうことをする権利はないんです」係官が、無知な子供に言い聞かせる口調で話す。「うちだって自分たちが全取り出来たらいいと思うけど、でもそうすると、あなたの所属する氏族の取り分がなくなる。つまり、うちがそちらから奪っちゃうことになるのね。これはあなたがどう言ってるかに関係なく、そう見なされるということです。そういう規則になっている。なぜかというと、そこで個人の裁量を許していると、必ず結託して溜めこんだり、よそから巻き上げたりする者が出てくるからね。サーキュラーズの社会が不安定になってしまう。だから、漁をしてきたら、必ず二人で平等に分配しなければならない。これは大会議で厳しく決まっていることです」
そもそも大会議が開催される最大の目的が、氏族間の利益分配だった。最も貧しかった氏族に、次の二年で最も豊かだと見こまれる軌道に入る権利が与えられる。この相談が機能しているから、サーキュラーズは三〇三年やって来られたのだ。
「だからまず、得分返上ってのが認められません。ダイオードさんは、自分の氏族の収入のために、漁獲を半分得る義務があるんです。はい、本名をどうぞ」
「本名……」
「言わないと受け取れませんよ」
譲歩の余地なし、という澄まし顔で係官は顎を上げる。ダイオードはうつむいて歯噛みしている。
その様子をはらはらしながら見ていたテラは、意を決して、彼女の横にピットを寄せた。
「いいですよ」
「──え?」
「どうしても言いたくなかったら、言わなくても。何か理由があるんでしょ?」
ダイオードがぽかんと口を開け、「でも」と言い返した。
「言わないと、持ち帰った分も投棄……」
「まーいいですって」テラは片手でパタパタ仰ぐ。「だって、今回は利益のことは考えてませんでしたから。これまでうまくいった試しがないですもん。漁の形が取れればいいなと思ってたぐらいで」
「……そうなんですか」
「そうなんです。でもね、今回は実際、すごくうまく行きましたし、何より……あなたのこと、ちょっといいなと思いましたから」
にやっと笑いかける。
「あなたがしたいようにして、いいですよ。ペア漁はダメみたいだけど、お友達になりましょ?」
ダイオードの瞳が揺れたように見えた。
少女は係官に向き直ると、一息に述べた。
「通名ダイオード、本名カンナ・イシドーロー・ゲンドー、ゲンドー氏イシドーロー家の人間ですが『フヨー』には伝えないでください。それでも差し支えないはずです」
「はい、ゲンドー氏ね」手元をつついて、そっけなく係官が言う。「でもゲンドー氏への入金情報はすぐ氏族船へ行きますよ」
「名前は隠せるでしょ」
「そういうのはできます。調べればすぐわかるから、たいして意味はありませんがね」
「ダイさんはゲンドー氏の人だったんですね」
テラは少しだけ驚く。それは、現存十六氏族のうちでもっとも他との交流が少ない、謎めいた氏族の名だった。
「これでテラさんと漁ができますか」
ダイオードは係官を睨みつけている。係官はこめかみを指で掻いて、「夫婦でなきゃダメですし、私がどうこうできる問題じゃないんですよ」とぶつぶつ言っていたが、やがて面倒くさそうに顔を上げた。
「まあ、漁じゃないって言うなら、船で昇り降りできるんじゃないですか。航管のほうの管轄だけど」
「漁じゃない?」
「私用。つまり遊びってことね。もちろん漁じゃなければ、氏族の衛星とかドックとかの使用に料金かかってくるし、剤類も一般価格で購入となるけど──」
「それで構いま!」
言い終える前にダイオードが心配そうに振り向いた。テラはそっとうなずいた。
「いいですよ?」
「せん!」
「該当部署で頼んでください。はい、アマサバ九万六千トン検収!」
付き合いきれん、という顔で係官がぐるりとVUIにサインした。
4
予感がしたので、下船後のシャワーは大急ぎで浴びた。フィッシャーマンズ・ワーフの到着棟から気密油の匂いが漂う港湾環路へ飛び出すと、思った通り、行き交う船乗りたちのあいだにばかでかいトランクが見えた。いや、トランクを背負った少女の後姿が。一人で微重力通路を飛んでいこうとしている。
「ダイさん、待って!」
呼びかけると、小柄な人影がはっと振り向いた。その拍子に背中のトランクがガンと壁に跳ね返り、反動で空中に跳ね出してしまう。くるくる回っていったかと思うと、重いトランクを手でさっと体から離して、自転速度を殺したのはさすがツイスタだった。角運動量保存則が脊髄に書いてある。しかし、手間取っているあいだにテラが追いついた。
「待ってください」
ダイオードを壁の手すりに引き戻す。微重力下の体さばきは苦手だが、手すりがあればなんとかなる。体の大きなテラに捕まったダイオードは、罠にかかった小動物みたいに、首をすくめて見上げる。
「……早かったですね」
「急ぎましたから。ダイさんこそちょっぱやですね?」
「……」
少女は目を逸らす。大胆極まりなかったデッキドレスから街服に着替えているが、髪はまだ湿っている。ピット内で身を包んでいた体液性ジェルをシャワーで流してから、乾かす間も惜しんで飛び出して来たのだろう。
いやがって逃げようとしているなら、引き留めるつもりはなかった。
でも多分、そうじゃない、とテラは感じていた。
「お話ししませんか、ごはんでも食べながら」片手を差し出す。「今日のことと、明日からのこと。話さなきゃいけないですよね、私たち。ていうか、一人でどこ行くつもりだったの?」
「別に……ホテルへ帰って寝ようかと」
「あれれ。さすがにそれはなくないです? 普通は漁が終わったらご馳走ですよ、ツイスタとデコンパは」
「でもそういう空気じゃないでしょう」
「じゃあどういう空気なんですか?」
「やらかしまくった最悪の空気」
お、とテラは変化を見てとる。うつむいたままのダイオードの口調が、じわり、と湿った。
「偉ぶって昏魚捨てたのに剤類切れかけて、任せろって言ったのに揉めて、通名出してたのに不様に本名バレて、おまけに役人にテラさんいじられて。あんなのひ、ひどくて、どのツラ、下げ」
「わわー、とととと」
嗚咽し始めてしまったので、あわててハンカチを顔に近づけて、肩を抱いた。
「ごはんに行きましょう! 静かなとこありますから、ね?」
こくりと頭が動いた。
円盤船放射軸を「ワールド・エンド・ボード」まで降りて、顔見知りのウェイターにチップをはずんだ。二歩先がガラス越しの宇宙になった、文字通り世界の終わりの飛びこみ台みたいな離れ席にダイオードを座らせて、自分は向かいでなく隣に陣取った。テーブルのサプラーから適当にいろいろ取り出して勧める。
「ほらダイさん、シャンパン。サーモン! 甘いほうがいい? コーヒー?」
「無理です無理、あの!」
ダイオードが片手で押し戻し、顔を隠したまま言う。
「私、今わりと頭ぐしゃぐしゃで! 食べるどころじゃないです!」
「って感じですよね」あっさり皿とグラスを引っこめて、テラはテンションを落とす。「糸、切れちゃいました? もう三日、いや四日目だし」
「糸って」
「気持ちの糸。──トランクひとつで氏族船乗り換えて他人の船に無理やり押しかけて、あり得ない漁をしてカリッカリの手動操船して、お役人に全部ダメにされかけてなんとか凌ぎましたよね。これ、十八歳で一気に全部やり抜いたのって、ずいぶんすごいし大変なことですよ」
ハンカチが下がってダイオードのぽかんとした顔が現れると、テラは年上の余裕で微笑んだ。
「切れていいですよ。がんばったですね」
「ふ……ううううう」
長い睫毛が震え出し、陶器細工のような整った顔が、赤く染まってくしゅくしゅつぶれた。
「はい、おつかれさま」
テラが背中をぽんと叩くと、少女は今度こそ本格的に声を上げ──る寸前。がきっと歯を食いしばって耐えた。
「んぐううううう……!」
「お?」
ダイオードは片手で強固に両目を隠して、その下でやたらと目を拭う。ハンカチはべしょべしょだが頑なに口を開けようとしない。すごい意地だ、とテラは感心した。
その背は本当に細くて震えている。髪が冷たいので、頭から肩の下までゆっくりとくり返し撫でた。テラに姉はいたが妹はいない。こんな感じなんだろうな、と思う。
「まあね、いろいろありましたけど。成功でしたよ、今日は。獲れたし事故もケンカもなかったし。むしろ大成功。逃げたりすることありません。ね?」
「……ううぐん」
背中を撫でるうちに、小さな頭が鼻先に来た。頭髪からあの甘い植物性の煙香がする。すい、と脳髄をそちらへ引かれて、何も考えずに肩を抱き寄せた。それに応じてダイオードが安らいだ様子で胸にもたれ、ふーっと深く息を吐く。
溶けたように互いの重みを支え合う数十秒。──の後に、ふとダイオードがまた背筋を伸ばしたので、二人の間に空気が入った。
「あ、すみません、くっついて……」
「え? いえ、全然」
テラは笑い流してみせたが、むしろ自分に驚いていた。彼女と寄り添うのがひどく温かくて心地よかったから。ほとんど会ったばかりの相手をそんなふうに感じたことは、今までなかった。何が起こったのか、少し混乱した。
大きく息を吸って頭をはっきりさせた。そう、相談だ。今日のことを、振り返る。
「うん、落ち着いたかな。大丈夫です?」
「は、はい……」
ダイオードはぎくしゃくとうなずく。顔には赤みが残っている。氏族によって平均的パーソナルスペースの大きさは違う。さわって悪かったかなと思いつつ、テラは尋ね始めた。
「ダイさんはどうしてそんなにがんばってるのか、聞いてもいいですか? 今日のいろいろをやろうとした理由は」
「はい──そろそろ話さなきゃですよね。きちんと」
ようやく座り直したダイオードが、テーブルの品々にもちらりと目をやったので、食べましょうかとテラが誘って、酒食に手を付け始めた。
「氏族のことから話します。うちは、さっきバレたみたいにゲンドーなんですけど、あそこ、女はD転させられることになったんです」
「D転?」
「デコンパへの配置転換です。船乗りの女そのものがほとんどいなくなってて、乗るならデコンパやれって。私、母が普通に舵取りしてたので、自分も当然舵取りをやるつもりだったんですけど、そういうのはなくなった、ツイスタになれないことになったって。それで愕然として」
「まあ、うちのエンデヴァでも女ツイスタはないですけどね」
「ないとしても、強制的にデコンパやらされたりってします?」
「それは……ないかな。なっても精神脱圧ができなきゃ、網作れないから、無理やりはないです。女が船を飛ばしたければ、連絡艇とか観測艇とか乗れって感じですかね」
「でしょう。でも、ゲンドーはD転させるんです。最悪、航法だけできればいい、定型の袋網ならオートで作れるからって……」
「それはちょっとひどいですね」
フォークを止めて顔をしかめた。
テラはデコンプが大好きだ。網を作れない人の気持ちはわからない。でも何かが苦手だという人の気持ちはわかる。テラは運動が苦手だからだ。
五十万トンを手足のように振り回すツイスタには、なれないし、なりたくない。それを無理にやらされたら、とても困るし、いやだろう。
「……だから、家出してきたんですね? 名前も変えて?」
「そういうアレです。無断脱船者です」それでなくても前菜しかつついていなかったダイオードが、いっそう申し訳なさそうに肩を縮めた。「そのあとで、大会議中にヌエル氏とブリット氏にも寄りました。どこかで飛べないかと」
「おお?」テラは興味を抱く。「どうなりました? そこでは」
「詐欺扱いと、お腹扱いでした」
「──あおー……」
最初の氏族では後部オートでの漁を一度許されたものの、正規のペアよりも多量の漁獲を得たのでトリックの疑いをかけられた。二度目の氏族では逆にツイスタもデコンパも足りていたので、船に乗らずに子を作れと言われた。
「どちらもちょっと、耐えられませんでした」
「そりゃいやんなりますよう。私でもきっとなります。私よりひどいですね、私の場合は変な網作っちゃうから破談になったわけで、言ってみれば自業自得だ」
「自業自得ではないと思います」
いやに冴えた瞳でテラを見つめたものの、すぐ、弱々しい微笑みになった。だいぶ泡が抜けてしまったシャンパンライクをぐっと飲み干す。
「そういう、いわくが三つも四つもついてる人間なんですけど、続きも話していいですか」
「続きって、ああ」付き合ってワインライクをかぱんと一杯空け、テラはうなずく。「三十一万トンを投げ捨てたり、手動にこだわったり、ですか。あれもそういうののせい?」
「です。やり過ぎると疎まれる。手落ちがあるとつけこまれる。だから手柄は捨てるし、ミスは防ぐ。そうしなければならないって学びました」
「え、待って、じゃあ任せろって言ったのもそれですよね。どうなる予定だったの?」
「取り分渡すって言えば通るかなと。ブリット氏の役人、どうも賄賂をせびってたくさいんですよね。気づくのが遅すぎたけど」
「ふがあ!」
二杯目のワインライクを噴き出しそうになった。口に入れる寸前でよかった。
「賄賂を要求? 裁断会ものじゃないですか!」
「証拠はないですよ、勘です。それで今度こそ乗り切ろうと思って、ここでは払うつもりだったんですけど。ここはまた別の意味でダメでしたね……」
「そうですね、さすがに汚職はないですけどね」口をゆがめた。苦笑するしかないような話だった。「ツイスタが女の子だとああなるんですねえ。知らなかったな」
苦笑しながら二杯目をやっつけ、サプラーが時間をかけて刷った、上等なロブスターライクボイルを取り出してぼっきり折ったりしていると、隣がまたうつむいているのに気づいた。
「すみません……そんなこんなの厄介者で」
彼女は彼女で二杯目を空にしている。酔うとへこむタイプのようだ。
「ダイさんダイさん」トトトと肘をつつく。「落ちこまない。事情は大体わかりましたけど、大丈夫ですよ」
「大丈夫って、話聞いてました? 私、無断脱船者ですよ!?」ダイオードが立ち上がる。「奪還隊が来るかもしれないし、戻ったらきっと制限級に──」
「奪還隊? ゲンドー氏ってそういうの出すんですか、えっぐ」白いエビ肉をタルタルライクソースにベタ漬けしてもぐもぐ食べながら、テラはことさらに軽く笑ってみせる。「まあエンデヴァにいれば心配はないと思いますけど」
「そんな、どこに行っても必ず見つけ出すって──!」
「うちではよその奪還隊に人間をさらわれたなんて聞いたこともないです。ダイさんその隊、見たことあります?」
ぽかんと口を開けたダイオードが、すとんと椅子にへたりこんだ。
「……嘘?」
「ゲンドー氏が嘘ついてるかどうかはわかりませんけど、氏族船から氏族船へ飛ぶのってものすごく推進剤食いますよね。それに他の氏族船に押し入るのは族域不可侵原則に反してますし。ないんじゃないかなー」
呆然としているダイオードに、エビの分け前を押して寄越しながら、テラはやにわにきっぱりと言った。「ダイさん!」
「はい?」
「明日からのことを決めましょう。私のほうはだんだんダイさんのことがわかってきました。二人組の許可の件も、さっきビットさんのところで、あっ検収さんのことですけど、一応片付きました。割り増しになるって言われましたけど、そんなもんがっぽり獲ればいいだけの話です。そして私たち、がっぽり獲れたはずでした。これはけっこう、やってけるんじゃありません?」
「でも、獲り過ぎたら、また」
「だったら、少なめにがっぽり獲りましょう」
いたずらっぽく笑ってそう言ってから、まだ聞いていないことを思い出した。
「ダイさんは私に何か不満、あります? いえ、変な網しか作れませんけど」
「不満?」弱気そうだったダイオードの顔が、皮肉を言うみたいに歪んだ。「今のところひとっつもないですね」
「え、え?」
一瞬戸惑ったものの、肯定だと受け取って続ける。
「あと、なんかホテル泊まってるって言いませんでした? それ大会議終わったからメチャ高ですよね? よかったらうちへ来ませんか。部屋あるので」
ダイオードがさらに眉をひそめた。苦いものでも食べたかのような顔で「部屋?」とつぶやく。
「部屋です」
「本気ですか」
「ですけど?」
「死んでも入ります」
「はい。え、え?」
先ほどから微妙に反応がおかしい。顔と言葉がズレている。テラが見つめ直すと、ダイオードは唐突にもりもり食べ始めた。ようやく食欲が戻ったようだった。
不意に少女がまっすぐ見つめ返した。
「聞きますけど──なにがなんでも漁をしなきゃいけないから、ですよね?」
「はい?」テラは瞬きする。「そう、ですけど?」
「わかりました、畜生」
うなずくと少女はサプラーから三杯目のシャンパンライクを引っこ抜いて一息で飲んだ。
「んんん?」
テラは彼女の横顔を見つめる。
ダイオードは酒に頬を染めて無視している。
船持ちのテラの家は一人暮らしにしては広く、その一部屋をあてがわれたダイオードは一二〇パーセントの礼儀正しさで家賃を支払う旨を宣言し、引き換えにプライバシーの厳守を要求した。その防御線をテラは笑顔を盾に踏み越えて漁の前後の会食を提案し、例のいやそうな顔と引き換えに承諾の返事を引き出した。それにより、漁のある日は一緒に、そうでない日は別々に行動するという基本パターンが確立した。
本格的にペア漁を始めると成績は急カーブで上昇し、九十日間で二二九万五〇〇〇トンも獲って三〇四年度第一クォータリ優良漁師の三位に並んでしまったので、各界に物議を醸した。漁業界は非漁業者である二人組の乱脈な操業に苦言を呈し、経済界はバランスシートの変動を警戒しつつ新式漁法の可能性を探り始め、科学界はいまだ謎の多い昏魚の生態系を解き明かす機会に沸き立ち、長老会は二人を称えて配偶者を斡旋した。
「称えてこれなんですよねえ、長老会は」
夕食後のひと時、自宅の暖炉前で憩いながら、テラは長老会が送って寄越した釣書を空中に展開して、面白そうに笑う。
「アイス氏、ヘラス氏、ザンダス氏。すごい、有名どころの顔のいい男の人がメニュー状態。獲れるとわかると、こっちから出向かなくても長老会が旦那さん探してくれるんですねー。……しかしこれ次の大会議がある再来年までキープしてもらえるってことなのかな。あ、これがいわゆる婚約ってやつ?」
「楽しそうですね」
「楽しくないですか?」
テラは隣を見る。ダイオードがソファの端に膝を抱えて座っている。彼女にも釣書は届いているはずだが、テラと違って一通も開いていない。メタン炉の青い光だけが退屈そうな顔を照らしている。
「……楽しくないみたいですね」
「もうちょっと逆方向に強い気分ですね」ぼそぼそとダイオードが言う。「つまり、早く死んでほしいという」
「言いますねー。ダイさんてめちゃくちゃ男の人嫌いですよね」
「まあ」うなずいてから、申し訳程度に首を横に振る。「すみません。テラさんが楽しんでるのに」
「んー、楽しんでいるというより、皆さん、あっちゅまに手の平返すんだなーという乾いた笑いですね。どっちかというと引いてるみたいな」
ダイオードがこちらに顔を向けた。
「引いてるんですか。テラさん、お見合いしてましたよね。それもかなり熱心に」
「ええ、あのころは早く片付きたかったもんですから。回数こなせば理想の旦那さんに出会えるかなと」
「……あのころは? 今は?」
「今は、ちょっと変わりまして」
そう言うとテラは、手を伸ばしてダイオードの二の腕を引く。ころんと転がってきた体を、胸に引き寄せる。
「旦那さんよりこっちのほうがいいかなーと」
引っぱられてぽふんと斜めに頭をもたせかけたダイオードは、きょとんとしてからテラをにらむ。
「おちょくってるならやめてもらえますか。これ比較の軸が全然違いますよね」
「比較というか、小さくて可愛くてなんか変ないい匂いがするので?」
「変て。変て! これ母の燻香なんですが!?」
あらそうなんですかと頭を撫で始めたテラを、やめてくださいやめろと邪険に押し戻して、ダイオードは立ち上がりずかずかと部屋を出ていく。あーすみません、とテラは情けない声を上げる。
しかし二分も経たないうちにキッチンから酒精入り紅茶類の香りがして、笑みを取り戻す。
「──避けても仕方ないのでマジな話をしますが、漁業界その他のうるさいゴタゴタは私がここにいるから全部起こってるって自覚はあります。わずらわしくなったらすっぱり出ていくので、いついかなる時でもためらわずに言ってくださいね」
持ってきたトレイのカップから立ち昇る湯気越しに、ダイオードが冷たい目を向ける。氏族船がガス惑星の夜側を通過しているときの寒気の中で、温かい飲料はいいものだ。そういうものを用意して来ながら、こういうことを全部口に出すダイオードに向かって、テラは変わらぬ笑顔を向ける。
「だいじょぶ、わずらわしくないです。安心して。そしてそれを渡して?」
無表情にテラをじっと見つめてから、ダイオードがカップを差し出す。
「わかりました。どうぞ」
「ありがと」
並んで腰を下ろしてカップを手で包みながら、テラはほんわりと考える。三ヵ月のあいだ繰り返してきたこの種のやり取りは、結局ああいう意味なんだろうか。以前は考えたことのなかった、そういう意味なんだろうか。
六つ年下の少女と本音を、まだ交わせそうで交わせない。それをやり取りするのが楽しみでもあり怖くもあって、つまるところ今とても関係がいい。なんならずっとこのままでもいい。
そんな日々がいつまで続くんだろうと思いながら漁に出た九十三日目に事故が起きた。
網にクロスジイカがかかって、テラは遭難した。
5
「テラさ」フスッ、という感じでダイオードの姿と声が途絶えた。
「えっ」
全周が青黒い雨だ。その暗い景色がひゅるひゅると上に流れ始め、体感重力が大きく弱まったので、テラは落下が始まったのを理解した。
大型の昏魚、クロスジイカを狙って操業中だ。礎柱船で飛んでいる時にペアが消えたということは、二つの可能性があった。
一、なんらかの理由でペアが瞬間的に死亡した。
二、なんらかの理由で礎柱船が物理的に二分割された。
一を考え始めたとたん、頭の中に不吉なエグい想像がどっとあふれ返って、テラは吐いたり泣いたりしそうになった。実例はある。昏魚が密集しすぎた群れに反航で突っこんでしまってピットが潰れたとか、大気深層からまれに上昇してくる巨大な噴出物が運悪く直撃して、礎柱船がこなごなになったとかだ。ガス惑星の大気圏は、可住固体惑星のそよ風の吹く空ではない。
ダイオードがすでに一センチ角以上の大きさで存在していない、あるいはダイオードが三十八リットルのジュースになってAMC粘土に混ざりこんでいる等の恐ろしい想像に襲われて、テラは頭が真っ白になりかけた。
──っと待った、その前に!
すんでのところで理性を保って、船体外周に各波長のアンテナを作り直し、無線で識別波を打った。通常なら絶対使わない信号書式、自船から自船への呼び出し信号だ。
インターコンチネンタルより、インターコンチネンタル。応答せよ。
二秒もかけずVUIに小さな星のマークが回転した。音声パケット受信。
『テラさん、テラさん!』
テラは心からほっとした。
ここで返事があったということは、可能性二に当たる事故が起きたということだ。礎柱船はテラとダイオードのあいだのどこかで、まっぷたつになったのだ。まさにそういうときのために、礎柱船の操縦槽は最初から物理的に二分割されている。一人がやられても、もう一人が生き延びて、飛行を維持できるようにだ。それが役に立ったらしかった。
なぜ、どの部分でまっぷたつになったのかは、まだわからない。
『テラさん、生きてますか』
「生きてまーす。泣く寸前でしたけど。負傷はなし、落下中。何が起きたかわかる?」
『泣いてたら怒りますよ。イカパンチです』
「え?」
『ちょっと、説明は後にしましょう。こっちは無事で落下もしてないので、救助に入ります。今すぐ開傘してください。すでにメイデイは打ちました』
緊張を冷静に抑えこんでいる口調で、ダイオードが言った。あっはい、とテラも平静に応じる。ガス惑星の大気圏は底なし穴だが、一分や二分で人間を殺すほどせっかちでもない。上層だけでも厚さ百キロある──大気抵抗を存分に利用すれば、底まで一時間、二時間という時間を稼げる。しかもその下には分厚い中層が続く。
テラは礎柱船に滑空形状への変形を命じた。これはプリセットがあって、乗員がわずかでもその意思を示せば実行されることになっている。
ばさりと翼が開き、ぐっと体重が増したが、事故前と同じほどではなかった。状況を読み取ったテラは顔をしかめる。揚力が足りていない。沈降が続いている。
「あんまり止まらないです」
『はい、レーダーに出ました──が、小っさ! お風呂か!』
「ですね。これってピットだけになってますね、私」
昏魚の鱗と同じ、黒っぽい超塩基性岩粉が溶けこんだ雨が、前後左右の全周に降り続く、限りなく真っ暗に近い雲の谷間。そこを時速八十キロでゆっくりと落ちていく、たかだかバスルームていどの操縦槽が、テラのいる場所だった。
『そうでなければいいと思ってました』ダイオードが打ち明ける口調で言った。『実は、網の中のクロスジイカの触腕が、ちょうどテラさんのピットを打撃して、はじき出しちゃったみたいです』
「は?」テラは間の抜けた声を上げる。「なんですかそれ。そんなことあります?」
『イカパンチで礎柱船が損傷を受けることは全然普通でしょう。よくエンジンとかやられるじゃないですか』
「エンジンやボードがやられたってのは聞くけど、ピットを正確に狙うなんて……」
クロスジイカは大型の昏魚だ。小さくても十五メートル、成長した個体では六十メートルにもなる紡錘形の生物で、先端の眼球をぎょろつかせ、筋肉質の触手を何本も引きずりながら、十頭ほどの群れを作って浮沈子のように上下動している。
そいつをさっき、テラの網で捕まえたところだった。知能はないとされている。
『偶然かそれとも狙ったのかは、わかりませんしどうでもいいです。大事なのはあなたに粘土があるかどうかです』
「粘土ねえ」
AMC粘土は、礎柱船の燃料でありエンジンであり、電池であり電線であるほかに、翼と耐圧装甲にもなるという素敵な材料だ。
テラが船機に尋ねると、VUIが警告混じりに報告した。
「あとバケツ三杯分ぐらいかなあ」
ピットの周囲にこびりついている分だけ、ということだ。
『──急ぎます』
ダイオードが少し早口になった。
状況は悪かった。
この時点で彼我の距離は五キロメートルほどだが、岩屑を含む真っ黒な雨が視界を妨げており、すでに目視とライダーでは互いを捉えられなくなっていた。のみならず、ミリ波や赤外等の長波長探査手段も通じづらく、位置確認が困難になりつつあった。
十七万五千トンの初期質量の八割をいまだに保持する、礎柱船本体のダイオードが旋回して降下に入っていた。しかし間の悪いことに、二人は礎柱船の形を、アースエイジのエイのように極めて扁平に変形させていた。漁の獲物のクロスジイカが非常に大きく上下動する生物なので、それが上がってくるのを上空で待ち構えるために平たくなったのだが、誰でも容易に想像できるように、この形は急降下にはまったく向いていない。
ダイオードは船体を左右へ交互に傾け、大昔の空戦技術でいう木の葉落としをやって高度を削っていったが、それではほぼ垂直に落下するピットになかなか追いつけなかった。ではと空気抵抗の少ない形状に変形しようにも、それをやれるデコンパのほうが下方の雲中にいるのだ。
テラはテラで、さまざまな減速手段を試みてはいた。グライダー形状から始めて、クラゲ型になってみたり、二重反転翼を形成して回したり。ノズルを作って噴射するというのもやろうとした。というか、それは一番最初に考えた。しかしノズルで質量を噴いてしまったら後がないし、それでも一応試してみたら、外部気圧がどんどん高まっているせいで噴射効率がかなり落ちており──反動推進の原理は真空中で最高効率を得るので──無駄以外の何物でもないという結論になって、取りやめた。
最終的には、粘土を布と紐へ変形させて、最も軽い滑空手段、パラフォイルを作り出したが、これでも時速五十キロまで落とすのがせいぜいだった。しかも下へ降りるほど風は強まっており、パラフォイルはしばしば型崩れし、なんとか立て直しても、どちらともわからない水平方向へとどんどん流されていった。
「ふーむん、これはちょっとアレですね、難しいことになってきましたね」
テラは舌を巻いて言う。草色と山吹色のふんわりしたビクトリアンスタイルのデッキドレスに包んだ身を、二立方メートルの生存空間に満たした体液性ジェルにゆったりと浮かべている。その外には、絵具箱の暗いほうの十色をごちゃまぜにぶちまけたような数十気圧の濁流が渦を巻き、絶え間なくピットを揺さぶっている。
『テラさん、アーム出せます? 十ミリの棒材ぐらいでいいので』
ダイオードのアルトが届く。事故発生からずっと変わらない、落ち着いた声だ。
「何するんです?」
『網を撃ちます。着弾予測でネットを開くので、なんでもいいから振り回して引っかかってください』
「一本釣りですね、おっけー」
発射キューが来た。極細ケーブルを引きずった二百発の高密度シンカーが真上から落ちてくる。それはピットの百メートル上まで来たら破裂して網を開く予定のおもりである、とテラのVUIには表示されたが、到達時刻になっても実際に届くことはなかった。テラのずっと上空で暴風に流されて散らばってしまったらしかった。
それとも、ダイオードがまるで見当違いのところへ撃っているのか。
『フェイル。もう一度いきます』
「はーい、お願い」
発射キュー、数分の待ち時間、そして表示されないHITの文字。
不協和音のチャイムが鳴って、外部百気圧が知らされた。ピットは五百気圧まで、礎柱船は二千気圧まで耐えられるので、圧壊の危険はまだ全くない。時間はたっぷりある。
そう、テラはずっと自分に言い聞かせていた。
ダイオードが言った。
『テラさん、何か次の方法は思いつきますか』
「他の船はまだなんですよね?」
『衛星経由で返事はもらってます。六時間後にビジャヤ氏の礎柱船が来てくれるそうです』
「再浮上さえできれば拾ってもらえそうですね」
そしてピットさえ拾ってもらえれば、大部分がAMC粘土である礎柱船は容易に復元できるから、それをあてにして思い切った手を打つことも考えられた。
「うん、じゃあ……一応言ってみるけど、ダイさんは精神脱圧できます?」
『うまくないです。一般妄想具現試験、八点でした』テラは百点満点を取ったことがある。『もちろん、選択肢に入れてます。でも、船がうまく変形せずに割れちゃう可能性が大きいです』
「割れたらまずいですねー。じゃあ、扁平形状のままで強めに動力降下」
『実はもうやってます』
VUIに転送された推進出力は四ギガニュートンだった。
テラはここで初めてどっと冷や汗を流した。大気圏内降下で出していい数字じゃない。何をやっているかというと、強度比が近い比喩を用いるなら、もろい発泡スチロールの薄板を足で蹴って、無理やり水中へ沈めているような行為だ。
『こいつの制御がなかなかアレで。集中しなくちゃで。ちょっと精神脱圧とは正反対のことやってますね』
「ダイさん、それだめ、それはストップ! 推力落として!」
『なんでそんなこと言うんです?』
「船主だからです!」テラは強く言い渡した。「一ギガまでにしてください! 舵取りのアカウント止めますよ!」
『代替案が出るまではいやです』ダイオードも即答した。『こうしてないと追いかけられないんです』
二人とも一度も口に出していないことがあった。
彼我の距離だ。それは通信ラグの計測で明白なのだが、すでに二十キロメートルを越えていた。縮まらず引き離されているのだ。
息詰まるような沈黙に続いて、とうとう二人がきっぱりと宣言した。
『先に言っておきますけど、一人では絶対帰りません』
「それはダメです、二人とも死んだら最悪なのであなた一人でも帰ってください」
そして地獄の縁の罵倒大会が幕を開けた。
『なんで最悪なんですか、心中いいじゃないですか、心中しますよ私。テラさん抜きで帰るぐらいなら無理でも下まで追っかけますよ。アカウント止めたらどんな手を使っても爆破しますからねこの船』
「馬鹿言うんじゃないですよダイさんは生きて帰るの、その船をエンデヴァに持って帰っていろんなことをするの! モラ伯母さんたちやピットさんによろしくって伝えて、長老会とか求婚者の人とかに挨拶して、それからその船を最高にうまく飛ばしてエンデヴァに魚を水揚げしまくらなきゃいけないの!」
『はー何言ってんですかもうすでにブレブレじゃないですか。アカウント止めるのかくれるのかはっきりしてくださいよ、というよりそれもう本心のほうがブレてますよね。綺麗ごと並べて私を生きて返さなきゃいけないってただの義務感で言ってますよね。本心はどうなんだ本心は!』
「本心とかやめてくださいよ、今そんなのぶちまけたらパニクッて救助も何もなくなるでしょ!? 本心、本心とか知るか、この状況でそんなん言えるかばーか! 帰れ帰れ!」
『あのですね、これあなたに期待してもいいと思ってるから言うんですけど、私があなた見捨てて一人で帰ったら、死ぬほどつらいし後悔します。ドラマなんかじゃ立ち直りますけど、私は無理ですね絶対立ち直れない自信がある。下手すりゃ後追い自殺しますよ。それぐらいは私アレですよ。そんなのいやですよね? 私をつらい目に遭わせたくないですよね? そう思ってると思っていいですよね?』
「くっ……わかる、それわかる、逆なら絶対私もつらい……ずるいですよ、ダイさんそんなのずーるーい!」
『ほらわかってる、わかってるテラさん最高ですし絶対見捨てるとかできないですよ、できるわけないでしょばか! ふかふかおっぱい! いいからそこで泣きながら待っててくださいよ絶対助けに行くから!』
「今おっぱいって言いましたね!?」
『おっ──待って。待っくだしゃ』
「いえ本音でしょ。一番欲しいもの出ましたよね」驚きすぎて冷静になった。「ですよね、うん。いやだってこれダイさんずっと我慢してましたよね。私がぎゅーしてすりすりするたびに。ガーッてなって知らんぷーいして、耐えてましたよね。これは相当手ごわいぞーって思ってました。それで、いつか本音引っぱり出そうと思ってましたけど」深々とうなずく。「出ましたねー今ここで出るとはね」
『待ってほんっと待ってください!』一度も聞いたことのない、悲鳴のような声が飛び出した。『そうじゃなくて! ほんとそうじゃないです、私その胸とかじゃなくてテラさんの全部が──! はあ』
観念したのかなんなのか、いきなり声のトーンが落ちた。
『いつ。バレてたの』
「えっはあ、ボードでダイさんが泣いた夜ですかね」
『……ほぼほぼ、最初からですね』
なんだか打ちのめされた様子でダイオードが黙ってしまった。テラも黙り、予想もしなかった成り行きで口論が途切れた。
数十秒の沈黙の後、ダイオードが『えーっと……』と、普段のように物憂げな、わずらわしげな口調で言った。
『代替案、湧きましたけど』
「あ、はい」テラは緊張して詰めていた息を、ほっと吐く。「なんですか」
『イカを放ちます』
「は?」
『クロスジイカ、まだ積んでるんですけど、リリースしてみます。どうもこいつやっぱり、テラさんのピットを狙ったと思うんですよね。放したら追いかけていくかも。それで位置の特定ができる』
「イカ、沈降速度はものすごく速いですよね? 追い付けるんですか?」
『デコンプします。落下形態に』
テラはごくりと唾を呑んだ。一か八かの賭けだった。
『精密な成形は無理でも、落ちるだけの形ならやれると思います。うまく追い付いたら、テラさんにまともな形に戻してもらいます』
「うまくいかなかったらダイさん真っ逆さまですよ。船がばきばきのコチコチに割れて、私より先に深層へ落っこっちゃいますよ? 四千気圧に圧し潰されて……ううう」
『怖がらせないでください、リラックスしなきゃデコンプできないでしょう!』
「よく知ってます。怖いですよね?」
『──怖く、ないです』
すうっ、とジェルを深く吸いこむ音が聞こえた。
『テラさん助かるかもしれないのに、怖いなんて一ミリも思わないです』
笑みが浮かんでしまった。笑みというよりも、緩みだった。
「ダイさん」
『はい』
「嬉しいです、すごく。──私の負け」
『やった』
「来てくださいな、ごほうびあげます」
『了解、全部もらいます。精神脱圧開始、アンテナいったん溶けます』
VUIの星のマークが暗転した。
テラは、ほーっと胸の底から息を吐いて体を伸ばした。その途端にザアッ! と強烈な豪雨がピットを薙ぎ、耐え切れなくなったパラフォイルが音もなく吹きちぎられた。
浮遊感。自由落下に近い終端速度での降下が始まった。
くるくる回って落下するちっぽけなピットの中で、横へ流れ下へ流れときには逆巻く激しい嵐を、テラは静穏に眺める。過去、この荒々しい大気の奥の光景を、これほど落ち着いて眺めた者はいない、というほどゆったりと。
この嵐の奥に、もうひとつの星がある。
サーキュラーズがこの惑星に到着した三百年前の観測によれば、分厚い気体でできたFBBの深層では、およそ三千五百万年前に衝突した別の固体惑星が、ずっと回遊し続けている。アイアンボールと名付けられたその惑星が多種の元素を供給し、深層をかき乱し続けているために、FBBにはさまざまな構造や生命が生まれ、上層まで吹き上げられるようになったという。
おかげで昏魚がたくさん獲れる。だから自分たちはこの星で暮らせる。すてきですね、ありがたいことですね、というのが、巡航国民の誰もが初等巡航生で習うことだ。
でもテラは不満だった。この世界が狭かった。
広域文明からかけ離れた、人口たかだか三十万の小さな世界。因習に縛られた古い氏族社会。お見合いし、結婚し、子供を産まされる人生。──それ以外にないと信じこみつつ、それ以外のことをしたいと思ってきた。礎柱船を意地でも持ち続けたのもそのためだ。どこか別の星へ行けるかもしれないという漠然とした希望。実際には礎柱船にそこまでの性能はないのだけれど。
性能がないどころか、生まれた星の底へと沈みつつある。これほど無意味な最期もないはずだった。
新しい別の星が、そばに来てくれるのでなければ。
とても不思議な気持ちだった。究極のどん詰まりなのに無窮に開けている。喉に刃を当てられているよりも恐ろしい事態なのに、感じたこともないほど嬉しい。
心が、いまだかつてないほど安らかに開いた。
精神脱圧。テラのピットの外殻がざわめく。ほんの一リットルほど残っていただけのAMC粘土が、細く長く伸びて広がる。ミクロン単位の太さで、キロメートル単位の長繊維として。
嵐の中へ流され捲られはためいた、ほんの差し渡し五百メートルほどのその網が、二人の運命を左右した。
チッ、と網の端に何かが接触した。かと思うとズシンとピットが突き上げられる。二人用のテーブルぐらいある鉱物質の眼球がぐりぐりと中を覗きこむ。テラは悲鳴を上げかけて、気づく。
──クロスジイカ!
次の瞬間には暴風の上から転がり落ちてきた巨大で不格好な粘土塊が、イカを跳ね飛ばしてピットを呑みこんだ。
「ダイさん!」
「着い、た?」
瞬時に情報系統が同期。真隣に前部ピットが投影されるが、濁っている。映像ではなく体液性ジェルが粘濁物に汚染されており、その中に透けて見えるダイオードは顔が真っ青で吐瀉物まみれだ。
「ごめ、さ、頭痛す、て」
こちらを目にすると同時に、頭を抱えてうずくまってしまった。テラは他の何よりも先に船体内で自分の後部ピットを物理移動、前部ピットに密着させて隔壁を開放する。
「ダイさん!」
どっと入り混じったジェルの中で彼女を手元へ引き入れた。
VUIの操船ログを読む。ダイオードの狙いは大外れだった。想像構築の不完全さによって、AMC粘土が一貫性のある構造を実現することに失敗。船体は前半と後半と中央の三つに破断。船体が自己像を失ったために、ダイオードは体性感覚喪失から空間識失調へとつながる、一連のデコンプ失敗症状に襲われた。
結果として、ほぼガラクタと化した一番小さな二千トンの破片の中で、イカに引きずられて転がり落ちてきた。そのまま深淵に墜落しなかったのは、偶然の幸運が働いたからにすぎない。
ある一点でイカがいきなり曲がった──広がっていた繊維を触知したのだ。そのおかげで、テラのピットにたどりつけた。
「テラさ、いいです」ダイオードが身をもがいて、押し離そうとする。「汚れ、ジェル」
「うーるーさーいー、ばか!」
ぎゅうっと思い切り年下の少女を抱きしめると、自分のシートに座らせて、テラはくるりと宙に指を回す。ザッとピット内の体液性ジェルが更新されて、溺れかけていた少女に冷たく涼しい酸素を与えた。その顔を手で拭ってから、テラはピットに正立する。
VUIを四段も展開。構造も成分もぐちゃぐちゃになった礎柱船の現状を把握し、残骸の形をそのまま正確に思い浮かべる。
「ダイさん!」
「はい……?」
「こう、やるんです、精神脱圧は!」
二千トンを柔らかく溶かした。流して滑らかに組み替える。全質量を縦一本に連ねて、底面に巨大なノズルを開き、ノーズコーンを鋭く尖らせて、天頂のかすかな青みを狙う。
固体ロケットブースター。それ一本では軌道まで上がれないが、長大な弾道軌道に乗ることはできる。やがて来る救助船と、十分ランデブーできるはずだった。
はず、だ。テラは作れるが、飛ばせない。
「ね?」
振り向いて微笑むと、ダイオードがシートで顔を覆って丸まっていた。
「ダイさん?」
「……った」
「え?」
「うまく、いった。ほんとに追いついた」
しゃくりあげる。顔をくしゃくしゃにして、子供のように目をこすって。
テラは息を吸い、深く吐いた。笑い出したくなるのをこらえて、寄り添って腰かけた。
「ほら、まだ早いですよダイさん。点火して、飛ばしてくれないと」
「だって、だって」
「全部もらうのはどうなったんです?」
ぱちっと音を立ててまぶたを開き、ダイオードがテラを見つめた。
「そうでした」
「ええ」
「もらっていいんですよね?」
「ええ──たぶん」頬は、少し熱くなった。「一応、大人ですし」
少女が一瞬息を詰めた。
かと思うと両腕をテラの首に巻いてキスをした。小さく熱い唇の感触に、え、とテラが棒立ちになった次の瞬間には、顔を離して立ち上がっている。
「起動します」
「あっ……はい」
ダイオードは手を振って自分のVUIを開き、動翼を風に当てて飛行特性をつかむ。初めて目にする獣を躾けるようなものなのに、二千トンの機首を軽く撫でつけただけで、いともあっさりと正しい方角へ向ける。
いつものように大きな才能の一端を見せたツイスタが、ふともう一度、肩越しに暗い青の瞳を向けた。
「そういう、ことですけど、本当にいいですか」
ささやきかける唇を見て、ぞくっ、とテラは背筋を震わせる。きっとこの子は、よくないと言われたことがある。
であれば自分は、これから何度もこう言わなければいけないんだろう。
「いいですよ。ほんとのほんとに」
あは、ダイオードの顔が泣き笑いに崩れかけた。
コッコッと爪先が床に鳴り、流星の軌跡を描くように片手が振られる。
爆光が深淵を蹴る。
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