アガサ_クリスティ完全攻略_完全版_

GWにこそ読みたい! “あまりにも面白くて驚いた”、旅情感じるクリスティーの傑作『ナイルに死す』

1冊でクリスティー100作を網羅した傑作評論集でありガイドブックアガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕(霜月蒼、クリスティー文庫)が発売になりました! その中から、ゴールデンウィークにこそ読みたい、「旅」をあつかったクリスティーの名作の評論を試し読み掲載します。

ナイルに死す』Death on the Nile,1937

★ ★ ★ ★ ☆

豪華、豪壮、豪奢、ゴージャス!

【おはなし】
 結婚して間もない大富豪の美女リネットは夫サイモンとエジプト旅行に出た。彼女は親友だったジャクリーンのストーカー行為に頭を痛めていた│なぜならサイモンは以前、ジャクリーンの恋人だったからだ。
旅先で名探偵エルキュール・ポアロと出会ったリネット夫妻だったが、エジプトにまでジャクリーンは姿を現し、二人にまといつく。
 彼ら三人が醸し出す不穏な空気を憂慮していたポアロだったが、やがてナイル川を往く観光船の上で、その空気がついに殺人として発火する!

                 ***
 クリスティーの代表作との誉れ高い『ナイルに死す』。その名は昔から聞いていた。幼少時に映画版《ナイル殺人事件》がゴージャスな大作として頻繁にCMで流されるのをTVで見た記憶も鮮やかだ。だが、じっさい『ナイルに死す』はどういうふうに面白いミステリなのだろう? それはずっと謎のままだった。誰も語ってくれないのである。ただただ「名作」で「代表作」で「旅情」だと連呼されるばかりであって、そもそも「旅先系ミステリ」が好きじゃない私は、じゃあ読まなくてもいいか、という気分でスルーしていたのである。だいたい事件発生まで二百ページ以上もかかると聞くから、きっと延々とどうでもいい「旅情」の描写を読まされるのに違いない。などと思っていた。クリスティー全作攻略は昔からの懸案だったのだが、それを二十年も先延ばしにしてきたのは、正直、『ナイルに死す』を読むのに気のりがしなかったせいなのだ。
 だがついに覚悟を決めて読んだ。これは修行であると言い聞かせて。そしてびっくりしたのだ。
 あまりに面白いので。
 これは傑作である。代表作にふさわしい威容もある。物語としてゴージャスだ。名作。クリスティーはスゴい作家だ。読みもしないで本作を馬鹿にしていたおれは死んだほうがいいと思う。
 さきほど「ミステリ的にどうなのか誰も語らない」と不満を述べたわけだが、それはある意味しかたないことである。本作は、殺人事件発生までの二百ページの物語の面白さが物を言う作品だからだ。
 この二百ページで主に語られるのはリネットとジャクリーンとサイモンの三角関係と、それをめぐるナイル川ツアーの面々のドラマである。定型といえば定型の三角関係。しかし「定型」になりえたというのは、それが物語として不変に面白いからである。そんな強い物語を、クリスティーが傑出したストーリーテリングの技術で綴っているのだから、これはもうたいへんに面白くなって当然だ。
 たしかにこの二百ページは何の犯罪も怪奇現象も起こらない人間ドラマである。けれど、われわれは『ナイルに死す』がミステリであると知って読みはじめるわけであり、ゆえに「きっとこの三角関係が起爆剤となって殺人事件が近々に発生するはずだ」とつねに考えながら読み進める。この三人のなかの誰が死ぬのか。この三人の誰かが誰かを殺すのか。誰であってもおかしくない。しかもクリスティーのことだ、そこさえ裏切ってくるかもしれない……。
 そんなふうに、「来るべき死/破局」が、三角関係の物語を水平線の向こうから牽引する動力源になってもいるのだ。だから猛烈にページターニングな物語になっている。
 で、結局ミステリとしてどうなのか?
 いわゆる「殺人トリック」は、誰にでも実行可能なリアルなもの。つまり特段の独創性も驚きもない。だから「『ナイルに死す』はミステリとしてどうか?」という問いにシンプルに答えることはむずかしい。しかし、それでもなお、『ナイルに死す』はミステリとして面白い。
 この「トリック」は、これほどのヴォリュームのミステリ作品を支えるには小品にすぎる。けれども本作の驚愕のポイントはそこになく、じつは「事件発生までの二百ページ」のなかにひそまされているのである。これ以上はネタバレになりそうなので自粛するが、序盤の「二百ページ」で描かれる人間ドラマこそが驚愕のキモである、と言っておこう。
 この「二百ページ」内にとどまらず、本作にはクリスティー一流の華麗な伏線やダブル・ミーニングの手がかりが大量に仕込まれている。こうした手がかりがメインの事件の真相につながってくるわけだが、『ナイルに死す』が特異なのは、これらがメインの事件以外の複数の策謀にも回収される点だ。つまり殺人の起こった船は、単なる事件現場ではなく、複数の策謀が錯綜する場なのである。「ナイル川上の船=『ナイルに死す』という作品」は、輻輳(ふくそう)する多数の「策謀の線」で成り立つ綿飴のようなもので、そのなかを、メインの「殺人」の謀議が一本の銀線のように貫いている格好になっている。この長い長いミステリには、多数の謎と解決が詰めこまれているのである。
『ナイルに死す』は、いわゆる「クリスティーの名作」−−アクロイド殺し』『オリエント急行の殺人』『ABC殺人事件などなど−−とは異質の作品だ。ひとつの発想に基づくひとつのトリックで全体を支えるのではなく、メインの謎=事件を、多数の謎によって装飾し、それを「物語自体として面白い」ストーリーに載せた作品。これが『ナイルに死す』なのである。だから「ミステリ的に要するにどうよ?」と問われるとすっきりした答えを返すことができないのだ。
 室内楽のシンプルな美しさではなく、交響曲のゴージャスな美しさ、とでも言えばいいだろうか。
 思えば『ナイルに死す』を前にした私の忌避感は、「アガサ・クリスティー」という作家への忌避感と同じものだったろう。ミステリとしての面白さをわかりやすく伝えることがむずかしく、すでに読んだ者たちが、「ミステリ」の周囲にある装飾についてのみ語るほかないような作品/作家。しかし読めば、そこには曰く言い難い面白さが厳然としてある。傑作『ナイルに死す』とは、クリスティーそのものであるのかもしれない。

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アガサ・クリスティー完全攻略〔決定版〕

英国ミステリの女王、アガサ・クリスティー。作品数が多いゆえに、どれから読んでいいかわからない。有名作品以外も読んでみたい——そんな要望にミステリ評論家の著者が応え、一冊でクリスティー100作を網羅した傑作評論集にしてブックガイド。『ポアロとグリーンショアの阿房宮』の評論を特別収録。第68回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、第15回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)受賞作。解説:杉江松恋

霜月蒼(しもつき・あおい)

1971年、東京都生まれ。慶應義塾大学法学部法律学科卒業。大学在学中は慶應義塾大学推理小説同好会に在籍。現在はミステリ評論家として活動している。共著に『バカミスの世界 史上空前のミステリガイド』(小山正編)、『名探偵ベスト101』(村上貴史編)、『ジム・トンプスン最強読本』(小鷹信光ほか著)がある。「翻訳ミステリー大賞シンジケート」にウェブ連載された「アガサ・クリスティー攻略作戦」を書籍化した本作で、第68回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、第15回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)を受賞。

ありがとうございます!今日のおすすめは『ザリガニの鳴くところ』です。
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