海の地政学

「海を知りつくした提督の描く海洋地政学」『海の地政学』解説・中西寬(京都大学大学院法学研究科教授)

海の地政学──海軍提督が語る歴史と戦略
ジェイムズ・スタヴリディス/北川知子 訳
ハヤカワ・ノンフィクション文庫 好評発売中

古代地中海世界の覇権をめぐる海戦から、軍拡を続ける現代中国の動向まで――北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官を務めた元米海軍大将が、21世紀の海洋戦略を縦横に語る『海の地政学――海軍提督が語る歴史と戦略』が文庫化されました。新たに収録された、京都大学大学院の中西寛教授による巻末解説を公開します。

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解 説 海を知りつくした提督の描く海洋地政学

京都大学大学院法学研究科教授  
中西 寬
  

 本書の著者、ジェイムズ・スタヴリディスは海軍軍人としても学者としても極めて高い位に到達した珍しい人である。軍人としては海兵隊員の息子として海軍兵学校に入り、退役までの三七年間に世界各地で勤務して四つ星の海軍大将にまで上りつめ、二〇〇九年から一三年まで北大西洋条約機構(NATO)最高司令官を務めた。学者としては国際関係研究で名高いタフツ大学フレッチャー校で若くして修士号と博士号を取得し、退役後にこの母校の校長を五年間務めた。二〇一八年七月をもって退任し、ワシントンDCの民間投資会社顧問に転じたが、校長としての手腕が高く評価されていることは大学のホームページの謝辞などから間違いないようだ。また、著者は時事問題の分析についても能弁かつ筆が立ち、著名な講演動画サイトTEDには彼の海洋戦略についての二〇一二年の講演が今もアップされている。フレッチャー校長時代にはテレビ番組やブログでも活発に発言していた。本文中では「書きたいという欲求によって、私の海軍でのキャリアは必ずしも順調には進まなかった」と謙遜しているけれども(338ページ)、これだけ成功を収めた人物は二世紀半近い米海軍の歴史でも少ないのではなかろうか。

 本書の原題はSea Power: The History and Geopolitics of the World’s Oceans である。世界中の海を意味するたとえとして「七つの海」という言葉があるが、具体的に「七つ」がどの海を指すかは時代と場所によって異なるようである。本書の第1章から第7章では、太平洋、大西洋、インド洋、地中海、南シナ海、カリブ海、北極海について、著者が海軍軍人としての経験やエピソードから書き始めている。これはまさに世界の海を支配してきた米海軍で人生を過ごしてきた著者のような人物でなければ書けない内容である。第9章で著者が参照する米海軍の大先輩で、シーパワーという言葉を作ったマハンは生前の階級は現場でのキャリアは中佐どまりで、それが故に開設された直後の米海軍大学校で教育と研究の道に入ったと言われる。確かに抽象論が多いマハンの議論に比べると、スタヴリディス提督のシーパワー論は、実地での豊富な経験に裏づけられている点で具体的で説得力に富んでいる。

 七つの海を扱った各章は、彼の航海経験とその海洋の歴史とを織り交ぜながら語るスタイルで叙述されている。たとえば第1章では日本人にとっても身近な太平洋の話を扱っている。一七歳の士官候補生として太平洋を巡った経験談から始め、一五世紀に西洋人として初めて太平洋を横断したマゼランや一八世紀に太平洋各地を探検したクックの話を交えながら太平洋に西洋諸国が進出していった様子が早送りで描かれる。なぜ日本や中国が西洋人のように太平洋で活動を広げなかったのかについての著者の考察も興味深い。大きな要因は大西洋と比べて太平洋が広すぎたことである。太平洋横断は技術的に困難が大きかったし、海を越えて日本や中国に侵略してくる存在は例外的だった。日本と似た島国であるイギリスがドーバー海峡の向こうのヨーロッパ大陸と常に交流していたのとは違うのである。結果として日本は豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗以降、海を防壁とみなして自国の安全を優先するようになるし、中国も主な異民族との交流通路は北西の大陸路だったので、海洋交通の開拓に大きな意欲を持たなかったのだ。

 イギリス、ロシア、そしてアメリカが太平洋に本格的に進出したことでアジア諸国もまた太平洋を通じて世界とのつながりを否が応でも意識することになる。中でも日本はいち早く近代化を達成し、清朝中国、ロシアとの海戦を経て太平洋に大きく支配領域を広げた。こうした日本と海洋国家として世界への進出を始めたアメリカとの衝突はたとえ必然ではなかったとしても、両国の賢明な外交なしには回避できなかったであろう。そして両国は第二次世界大戦での衝突後、強固な同盟関係を築いて今日に至る。

 本書の魅力の一つはこうして各章にちりばめられた著者の体験に基づくアメリカ海軍の軍隊生活の生々しい実感であろう。特別の経験を必要とするパナマ海峡を渡る時には、他国に指揮権を委ねることのない米軍の伝統の例外として、現場を知悉したパナマ人パイロットに委ねられる。一九八〇年代、イラン・イラク戦争中のアラビア湾(一九七九年のイラン革命以降、ペルシャ湾を米国ではこう呼んでいる)でのタンカー護衛任務の緊張感もまた、実地を経験した者でなければ書けない描写だろう。

「七つの海」についての各論を終えた第8章に至って、著者は地球全体の海洋を取り巻く問題を解説する。海賊行為、漁業、環境という三問題である。いずれも人類と海の関わりが始まったはるか昔から行われてきた人間の活動に由来する問題だが、技術の発達とともにその影響が拡大し、人類全体にとって深刻な地球規模の問題となっている。こうした問題に対する著者の回答は、国際協力の更なる推進、である。海にはそもそも境界はなく、領海や排他的経済水域といった概念も国家が引いた人工的な線引きに過ぎない。国境を越えた問題に対しては一部の国や集団の努力では解決できず、国際的な協力によって対処する他ないというのは理の当然と言えば当然だろう。

 こうした観点から、著者はアメリカ政府が国連海洋法条約の批准を拒否し続けている姿勢を正面から強く批判している。現在の「海の憲法」とでもいうべき国連海洋法条約は一九七三年の第三次国連海洋会議で交渉が開始され、一九八二年に一度署名されたが途上国の意向が強く反映されすぎているという先進国の反発から発効がとどこおり、一九九四年に採択された補足的な協定によって内容の一部を実質的に修正する形で同年末にようやく発効した。二〇一八年四月の時点で一六八の国・地域が批准している。にもかかわらず、アメリカが国内の一部の反対を乗り越えられず、未だ批准に至っていないことに対して、世界最大の海洋国家である自らの地位と利益に反する事と著者は考えているのであろう。

 改めてふり返ると、著者が海軍軍人として現役で活動した時代は、前半が冷戦時代のソ連海軍との競争、後半が国連海洋法条約が発効し、運用されるようになった時代と重なっている。一九七〇年代にはソ連のセルゲイ・ゴルシコフ提督が提唱した海洋戦略論が西側にも広く紹介され、ソ連による海軍増強政策に対する警戒心が高まった。これに対抗する形でアメリカのレーガン政権は一九八一年、六〇〇隻海軍構想を打ち上げ、東西対決における海洋支配を念頭に置いた「海洋戦略」が採用された。

 ゴルシコフはソ連を海洋国家と定義して「ソ連のマハン」とも呼ばれて注目を集めたが、結局のところ大海軍政策はユーラシア大陸国家であるソ連(そして今日のロシア)の地理に合わなかったようである。ソ連崩壊後、ソ連海軍は一旦は崩壊状態となったものの、現在ではロシア海軍としての再建が進められている。しかし再建された海軍がロシアの国家的命運を左右する存在になるとは思えない。また、最終的には全面核戦争に及ぶ危険をはらんだ米ソ対立においては、海軍の役割は補助的な役割にとどまるものであった。

 これに対して、冷戦終焉後の著者が所属した米海軍の役割は、近年の国際政治論で「リベラルな国際秩序」と呼ばれるようになったアメリカ主導の開放的な国際体制の柱としての海洋の安全確保であったと言えるだろう。

 二〇〇七年には海軍、海兵隊、沿岸警備隊が共同して作成する初めての「統合海洋戦略」を『二一世紀のシーパワーのための協調戦略』として公表した。そこでは、「アメリカのシーパワーは我らの本土と市民を直接攻撃から守り、世界全体での我々の利益を増進するために地球規模で体制されるであろう。我々の安全と繁栄は他国のそれと分かちがたく結びついているので、アメリカの海洋諸兵力は、貿易、金融、情報、法、人民、ガバナンスの相互依存的ネットワークからなる平和的な地球規模のシステムを守り、かつ維持されるために展開されるだろう」と述べられているが、この表現は国際政治の現状を「リベラル国際秩序」として捉えた見方を反映している。国連海洋条約に代表される海洋に関する国際協調の枠組みを重視する著者の見方も大筋で「リベラル国際秩序」の維持こそがアメリカの国益にかなうという同国の主流派外交軍事エリートの立場に含まれると言えよう。

 しかしその著者が「地政学」という言葉を入れ、また最終の第9章では、米海軍の大先輩であり、「シーパワー」概念の創設者であるマハンの著作を具体的に検討して、現代における「シーパワー」のありようを検討していることはそれ自体興味深い。マハンが一八九〇年に公刊したThe Influence of Sea Power Upon History: 1660-1783 は英国海軍を扱った歴史書だが、「シーパワー」という造語と共に世界的に注目され、今日でも海洋における地政学の開祖として尊重されている。しかしマハンに関する多くの研究が指摘するように、マハンの「シーパワー」概念は海軍や商船だけでなく、国家の生産力や植民地と同盟、海洋利用に適した地理や海岸線、更には海洋活動に対する国民の態度など極めて幅広い概念である。他方でマハンは海軍戦略論も論じたが、こちらは海軍力の集中と艦隊決戦を重視する大海軍の建設を説くもので、陸空兵力との共同作戦を説いたコルベットらの戦略論に比べて時代遅れとされてきた。

 にもかかわらず、マハンや海洋の地政学が改めて見直されている背景には、大国間の海軍競争が強まる傾向がはっきりしてきたからであろう。二〇一五年には先に挙げた『二一世紀のシーパワーのための協調戦略』の改定版が公表されたが、その中では中国の海軍戦略についての記述が加わるなど、海軍軍事戦略への関心が高まっていることがうかがわれる。さらに二〇一七年に発足したトランプ政権が同年に公表した『国家安全保障戦略』は中露への警戒心を前面に出している。

 中国が一九八〇年代以来、劉華清提督の下で海軍強化を開始し、今日かなりの海軍力を備えつつあることは間違いない。劉華清もまた「中国のマハン」と呼ばれることがある。中国の海軍力強大化がもたらす海洋秩序への影響には隣国日本としても十分に注意を払わなければならないだろう。ただ、豊富な経験に裏打ちされた著者とともに、七つの海の歴史を振り返る時、ある国がシーパワーと呼べる存在になるか否かは海軍力だけではなく、地理や国力、国民の適性といった諸要素を加味して考えなければならないという点が改めて印象に残る。この点でアメリカが地球規模の海洋国家たりえる唯一の国であることは二〇世紀と同様に二一世紀もほぼ変わらないのではなかろうか。

 もちろんこうした解説者の考えを読者に押しつけるつもりはない。ただ、海に囲まれ、魚料理を愛し、貿易に依存した国家でありながら世界の海洋に関する知識はそれほど普及していない日本人にとって、実践に裏打ちされた広い視野と深い歴史的知識がつまった本書が極めて有益であることは間違いない。

 二〇一八年一〇月

参考文献

麻田貞雄 (監修・翻訳)『アルフレッド・T・マハン (アメリカ古典文庫8)』(研究社、一九七七)
高橋弘道「一九四五年以降のアメリカ海軍の戦略概念──マハンとコルベットの戦略思想を援用して」(立川京一他編著『シー・パワー──その理論と実践』芙蓉書房出版、二〇〇八)
トシ・ヨシハラ、ジェームズ・R・ホームズ(山形浩生訳)『太平洋の赤い星──中国の台頭と海洋覇権への野望』(バジリコ、二〇一四)
“A Cooperative Strategy for 21st Century Seapower” (October 2007)(https://www.hsdl.org/?view&did=479900)
“A Cooperative Strategy for 21st Century Seapower: Forward, Engaged, Ready”(https://www.navy.mil/local/maritime/)

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著者紹介 ジェイムズ・スタヴリディス James Stavridis
アメリカ合衆国海軍大将(退役)。1976年、アナポリスの海軍兵学校を卒業後、35年以上を海軍軍人として過ごす。複数の駆逐艦や空母打撃軍などの指揮を執り、7年にわたり四つ星の海軍大将を務める。2009年から13年まで、米海軍出身者としては初のNATO(北大西洋条約機構)欧州連合軍最高司令官を務めた。退役後、2013年から18年までタフツ大学フレッチャー・スクール学長 。国際安全保障に関する論評を《ニューヨーク・タイムズ》《ワシントン・ポスト》《アトランティック》などに寄稿している。他の著書に The Accidental Admiralがある。

『海の地政学──海軍提督が語る歴史と戦略』
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