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一切皆苦からイグジットせよ! 暗黒啓蒙、進化心理学、『なぜ今、仏教なのか』

By 早川書房ノンフィクション編集部

本稿はロバート・ライト『なぜ今、仏教なのかーー瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』文庫化のお知らせであり、Exit(出口・離脱)、Evolutionary psychology(進化心理学)、Enlightenment(啓蒙・悟り)の3つの観点から、暗黒啓蒙と仏教の思想的交点を見出す試みである。

1.Exit

哲学者・ブロガーのニック・ランドが2012年に発表したテクスト「The Dark Enlightenment(暗黒啓蒙)」(邦訳は『暗黒の啓蒙書』五井健太郎訳、講談社)は、「Neo-reactionaries head for the exit(新反動主義者は出口〈イグジット〉へと向かう)」と題したパートで幕を開ける。

リバタリアンたちはだんだんと、人が「彼らに注意を向ける」かどうかを気にかけるのをやめはじめている――彼らはすでに、まったく別のものを探しはじめている。そのまったく別のなにかとはすなわち、出口〈イグジット〉である。(前掲書、pp. 25-26)

民主主義と自由はもはや両立できない(ピーター・ティール)。資本主義を極限まで推し進め、その外部へと――。

ニック・ランドの「加速主義」はニーチェが述べた「プロセスを加速させること」というフレーズにその源流を見ることができるが、ニーチェは古代インド思想や仏教から多大な影響を受けていたことが知られている。

『スッタ』の確乎たる結句のひとつを、つまり「犀の角のように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、ときには強く僕の心に迫ってくるのだ。ことに病気でベッドに寝ているときなどはね。ーー1875年、友人ゲルスドルフに宛てた書簡(『ニーチェ書簡集1』塚越敏訳、ちくま学芸文庫、p.290)

「犀の角のように、ただ独り歩め」とは誰あろう、ブッダの言葉である。

仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳、岩波文庫、p.17-22「犀の角」より)

究極のリバタリアン!

思えばブッダの果たした「解脱」とは、一切皆苦と輪廻転生からのイグジットに他ならない。

2.Evolutionary psychology

腐っても啓蒙と言うべきなのか、暗黒啓蒙(の影響下にあるオルタナ右翼、白人至上主義者、新反動主義者)は「人間の生物学的多様性(Human Biological Diversity)」という「科学的根拠」にもとづき「平等」や「友愛」を破壊しようとする。

この点について、五井健太郎氏は『暗黒の啓蒙書』の訳者解説において「いちおういっておくがこれは、科学的なデータをかさにきてひとを差別する科学的人種主義そのものだ。さすがに馬鹿馬鹿しく、「くたばれ」としか言いようがない」と厳しく断じている。

ここで想起されるのは、ハーバード大学教授を務める著名な進化心理学者であり『Enlightenment Now』(邦訳は『21世紀の啓蒙』橘明美訳、草思社×News Picks Publishing)の著者としても知られるスティーブン・ピンカーに対して、差別を助長しているとしてアメリカ言語学会フェローからの除名を求める請願運動が起こされた一件だ(経緯と背景について、以下に挙げる記事が参考になる)。

請願の公開書簡には、2020年7月20日現在629名の署名が集まっている。今回の除名騒動はジョージ・フロイド殺害事件を受けたBLM(Black Lives Matter)の波及によるものと思われるが、書簡内でも触れられているように、ピンカーの議論が「科学的人種差別主義」にあたるとの指摘はこれまでにもなされてきた(たとえば以下のガーディアン紙記事)。

批評家の綿野恵太氏は、ピンカーの用いるレトリックについて次のように整理している。

問題なのは、「コスト」と「便益」を対比させる典型的なロジックである。ピンカーは「である」から「すべし」を導くことを巧妙に避けつつ、「コスト」と「便益」といった「効率性」を強調することで、何をいおうとしているのだろうか。科学的なエビデンスによれば、男女には置き換え不可能な差異がある。「そして、否、それだけのことである」というわけだ。ピンカーらはこの言い落としによって、あらゆる人間が自由で平等であるという「市民」という理念が「空虚」であることを暴露しようとしている。(綿野恵太『「差別はいけない」とみんないうけれど。』平凡社、p. 202)

このような意味で、「暗黒啓蒙」と「啓蒙」は実に紙一重である。そしてその要因は、進化心理学に内在している。

『Why Buddhism Is True: The Science and Philosophy of Meditation and Enlightenment』(邦訳は『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』熊谷淳子訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)を著した科学ジャーナリストのロバート・ライトもまた、進化心理学の隘路にはまり込んだ一人だ。

イエスは言った。「わたしは道であり、真理であり、命である」(『聖書 新共同訳』)。そう、進化心理学で私は真実を見つけたと感じた。しかし、どうやら道は見つけなかったらしい。このことは、イエスが言ったべつのことばについても考えるきっかけになった──「真理はあなたたちを自由にする」(同前)。私は人間の性質についての基本的な真実を見つけたと思ったし、自分がいかにさまざまな錯覚にとらわれているか、かつてないほど明晰に見えてもいたが、この真実はとらわれの身から抜けだす切り札にはならなかった。(ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』熊谷淳子訳、p. 28)

ライトが言っているのは暗黒啓蒙が持ち出す「人種間の生物学的差異」とはまた別の「真実」(私たち人間が「自然選択の奴隷」であること)ではあるが、綿野氏が指摘する「である」と「すべし」の問題をここにも見ることができる。進化心理学が明かす人間の本性=「真実(である)」に対し、どのような「道(すべし)」を取るのか? 啓蒙(Enlightenment)か、暗黒啓蒙(Dark Enlightenment)か?

3.Enlightenment

ライトが見つけた「道」は、悟り(Enlightment)だった。

もしかすると、ブッダの教えの多くは、現代の心理学と本質的に同じことをいっているのではないか。それに、瞑想はかなりの部分、科学とはべつの形で真実を正しく理解する方法ではないか。それだけでなく、もしかしたら真実について実際に策を講じる方法ではないか。(前掲書、p. 29)

ライトによれば、啓蒙主義のはるか以前から、仏教は「無我」や「空(くう)」の概念でヒトと世界のありようを正しくとらえてきた。脳科学、心理学、認知科学などが近年明らかにしてきた自由意志や認知バイアスに関する知見が、ブッダの説いた教えと見事に合致するというのだ。

マインドフルネス瞑想によって私たちの脳にもたらされる驚くべき変容、やがて訪れる「悟り」の境地、そして解脱という〈イグジット〉へ――

ライトが自らの思考と実体験をまとめたのが『なぜ今、仏教なのか』で、同書は刊行されるやニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ね、Amazon.comではノンフィクション全体のベストセラーランキング1位に輝いた。

なぜ今、仏教なのか

本書の冒頭で「(進化心理学的な)真実に目覚める」ことが映画『マトリックス』の「赤い薬(レッドピル)を飲む」という表現でたとえられていることは、われわれにとって見逃せない。「レッドピル」とは、オルタナ右翼がリベラル社会の欺瞞を告発するための符丁として好んで用いるミームだからだ(木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義――現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』星海社新書、p. 200)。なぜライトはわざわざそんな言葉を持ち出したのか、と思われるかもしれないが、それは話が逆だ。ライトの著書『モラル・アニマル』は、ジャン・ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』などとともにウォシャウスキー姉妹に『マトリックス』のインスピレーションをもたらした一冊なのである(『なぜ今、仏教なのか』p. 16)。オルタナ右翼に先立つ伏流として進化心理学とロバート・ライトを位置づけるほうが正確だろう。

だが当のライトは、暗黒啓蒙ではなく仏教を選んだ。あなたはどうか? 選択は委ねられている。

『なぜ今、仏教なのか――瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』
ロバート・ライト/熊谷淳子訳
ハヤカワ・ノンフィクション文庫
本体1,080円+税
2020年8月5日発売予定


ありがとうございます!今日のおすすめは『わたしを離さないで』です。
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