
【試し読み】J.オースティン作品のカップルたちが嵐の館で推理合戦!『『高慢と偏見』殺人事件』【2月6日発売】
ジェイン・オースティン作品のカップルが総出演するパスティーシュ・ミステリ『『高慢と偏見』殺人事件』が2月6日に発売します。
発売に先駆け、冒頭部分を一部公開いたします。

クローディア・グレイ(著)/不二淑子(訳)
2025年2月4日発売予定/ポケット版
本体価格:2,700円(+税)/ISBN:978-4-15-002012-5
登場人物
『エマ』より
ジョージ・ナイトリー……資産家。54,5歳。ドンウェルアビーの主人
エマ・ナイトリー…………ジョージの妻。38歳
ジョン・ナイトリー………弁護士。ジョージの弟
イザベラ・ナイトリー……エマの姉。ジョンの妻
フランク・チャーチル……ハイベリー村の治安判事
グレース・チャーチル……フランクの娘
『高慢と偏見』より
フィッツウィリアム・ダーシー……資産家。49歳。ナイトリー氏とは学生時代の友人
エリザベス・ダーシー……フィッツウィリアムの妻。42歳
ジョナサン・ダーシー……フィッツウィリアムとエリザベスの息子。
20歳。オックスフォードの学生
ジョージ・ウィッカム……投資の斡旋人。49歳。先代ダーシー氏の財産管理人の息子
リディア・ウィッカム……エリザベスの妹。ジョージの妻
スザンナ・ウィッカム……ジョージとリディアの娘
『マンスフィールド・パーク』より
エドマンド・バートラム……牧師。28歳。ナイトリー氏の親戚
ファニー・バートラム………エドマンドの妻。22歳
ウィリアム・プライス………ファニーの兄。海軍士官
『分別と多感』より
クリストファー・ブランドン大佐……陸軍大佐。38歳。エマの遠縁
マリアン・ブランドン………クリストファーの妻。19歳
ジョン・ウィロビー…………マリアンが17~18歳のときに出会った青年
イライザ………………………クリストファーの昔の恋人。故人
『説得』より
フレデリック・ウェントワース……海軍大佐。37歳。エマの実家、ハートフィールドの賃借人
アン・ウェントワース……フレデリックの妻。33歳
『ノーサンガー・アビー』より
ヘンリー・ティルニー……聖職者。44~45歳
キャサリン・ティルニー……ヘンリーの妻。37歳。小説家。エマとバースで出会い親しくなった
ジュリエット・ティルニー……ヘンリーとキャサリンの娘。17歳
著者まえがき
『『高慢と偏見』殺人事件』の舞台は、摂政時代(1811年~1820年)のまさに末期、1820年に設定されている。ジェイン・オースティンの著作は、数年のうちに立て続けに出版されたが、最初の三作品については、執筆後何年も経ってからようやく出版に至った。このため、彼女の執筆期間が摂政時代――礼儀作法やファッションが変化した時代――のほぼ全体と重なるという事実がわかりにくくなっている。各作品の舞台の設定が先にくるのか後にくるのかは、作中の手がかりから類推するしかない。ただし、唯一『説得』だけは、舞台が1814年から1815年だと特定できる。
わたしは日付が特定されていないことを逆手に取り、『説得』以外の各作品について、主要な出来事が起こった時期を次のように決めた。
『高慢と偏見』 1797年~1798年
『ノーサンガー・アビー』 1800年
『エマ』 1803年~1804年
『マンスフィールド・パーク』 1816年
『分別と多感』 1818年~1819年
この設定には、少しばかりズルも混じっている――『エマ』の時期はおそらくこれよりも遅く、『分別と多感』はこれよりも早いという明確な手がかりがあるのだ――が、それほど大きなものではない。(上記六作品の主要登場人物の初出時には、本作中における推定年齢を付記した)
また、わたしのお気に入りのオースティン映像化作品のひとつである、1995年の映画『いつか晴れた日に』(『分別と多感』原作映画の邦題)から、原作にはどういうわけか出てこない重要なディテールを引用した――ブランドン大佐の名前だ。『『高慢と偏見』殺人事件』では、この映画と同様に、大佐はクリストファーと呼ばれ、同様にわかりやすくするため、彼の被後見人はベスと呼ばれている。
わたしはいくつかの箇所で、ロマの人々/旅人たちを指す語として〝ジプシー〟を使った。これは摂政時代のイングランドで使用されていたことばであり、おそらく登場人物たちが知っていた唯一の用語と思われる。このわずかな短い単語が過度に人を傷つけるものではなく、本書の内容が有害な固定観念を反映しないことを願っている。
プロローグ
1820年6月
ドンウェルアビーのナイトリー夫妻の結婚は、ふたりをよく知る人にとっては驚きだったが、よく知らない人にとっては少しも驚くべきことではなかった。
「でも、あのふたりはいつも反りが合わなかったのに」その当時、新婦の姉、イザベラ――気配りのできる穏やかな口調の人物――は、手紙で結婚の知らせを知るやいなや、腑に落ちないとでもいうように言ったものだった。
「それを言うなら、いつも喧嘩ばかりしていた、だろう」と、イザベラの夫はぶっきらぼうに返答した。彼は新婦の義兄になっただけでなく、新郎の弟でもあったので、長いあいだふたりの口論を観察してきた。しかも、いささか憤慨しながら。
ふたりはどちらも正しかった――部分的には。エマ・ウッドハウスとジョージ・ナイトリーは、いろんなことで言い争っていた。紳士がパーティで踊る必要があるかどうか、パーティに馬ではなく馬車に乗って到着するほうが礼儀正しいかどうか、そして何より、周囲の人々の結婚に至る見込みについて。エマは希望的観測によってしばしば判断を誤ったが、最終的には、もっともありえそうもない縁を結ぶことをためらわなかった――彼女自身の縁を。
一方、ハイベリー村の一般の人々は、それほど驚いたわけではなかった。ナイトリー氏はこの教区で一番裕福で立派な独身男性であり、エマ・ウッドハウスは一番裕福で魅力的な独身女性だった。そんな男女が恋に落ちることはよくあるらしい。その法則が、ほかの土地と同様にハイベリーでも立証されたからといって、どうして衝撃を受けたりするだろう?
誰もが同意するのは――もし問われれば――ナイトリー夫妻の結婚生活が幸福なことだろう。夫妻はもう十六年間、夫婦として暮らしてきた。エマ・ナイトリー[三十八歳]は夫とのあいだにすばらしい子どもをふたり――結婚二周年にヘンリエッタという娘を、その五年後にオリヴァーという息子を――授かった。いまでは一家はドンウェルアビーに居を定め、家庭円満を絵に描いたようだった……ただし、本日をのぞいて。
「なぜ一家の主が自分の屋敷に客人を招いてはならないんだ?」エマの夫、ジョージ・ナイトリー[五十四、五歳]は食器棚のまえで自分の皿に朝食を盛りながら言った。「ダーシーとぼくはオックスフォードですばらしい友人同士だったし、彼は相当な資産家でもある。そんなダーシーと細君が、なぜドンウェルで歓迎されないなんてことになる?」
「まあ! そんなことちっとも言っていませんわ」エマは不機嫌そうに答えた。「ダーシーご夫妻をこの家で歓迎するつもりがないということではないんです。ほかのお客さまがいらっしゃる時期に、あなたがご夫妻を招いたことに文句を言っているんです!」
「ドンウェルでは、全員に寝床と屋根を提供することすらできないのか? 客人で満室になったら破産するほど、ぼくたちは困窮しているのか?」
エマは夫を非難がましい眼で見た――ずっと昔に、当の夫の顔を見て学んだ眼つきで。「わたしが言いたいのは、一度にそんなにたくさんのお客さまをお迎えしたら、きちんとしたおもてなしが難しくなるってことですわ」
ナイトリーはため息をついた。「それなら、きみのほうこそ、招くべきじゃなかったんじゃないのか。遠縁の男とか――」
「でも、ブランドンは最近結婚したばかりで、とっても魅力的な若いお嫁さんをもらったんですって。ぜひともそのお嫁さんに会っておくべきでしょう?」
「あるいは、きみがバースで親しくなった、あの突飛な女性小説家の娘とか――」
「キャサリン・ティルニーも彼女が書いた本も、ちっとも突飛なんかじゃありません。完璧に立派な女性で、聖職者の奥さまなのよ。でも娘さんのジュリエットは、グロスターシャーでは新しい方と知り合う機会に恵まれないんですって――若い娘さんは、もっと広い世界でいろんな方と知り合うべきだもの」
「あるいは、われわれの賃借人とか。賃借人を自宅に滞在させるなんて誰が思いつく?」
これには確かな根拠があるとエマにはわかっていた。「ハートフィールドの惨状を聞いたら誰だって、わたしたちには、修繕が終わるまで借り主のご夫婦にまともな居場所を提供する義務があると言うはずですわ!」
(エマの亡き老父は、晩年、屋敷に手を加えることを、たとえ安全のために必要な修繕であっても、一切拒んでいたのだった。)
これについては、ナイトリーは少し考えてから言った。「その件については、きみの言い分もわかる。大きな修繕は一カ所だけだし――」
「吹き抜けの階段が崩れたんですよ」エマは胸のまえで腕を組んで強調した。わざわざ強調するほどの主張でもなかったが。
ゆっくりとナイトリーはうなずいた。「この夏はただでさえ暑くて、これ以上の不快さは耐えられるものではないからね。賃借人夫妻はもう充分いろいろ耐えているだろう。それにウェントワース大佐も夫人も、どちらも感じがいいし知的だ。あの夫妻とさらにお近づきになれるのは楽しみだよ」
こういう瞬間に、エマが機を逃すことはなかった。「それに、ご親戚を招待したのはどなただったかしら?」
「たしかにいつでも来てくれとは言ったが。まさかバートラムが奥方を連れて、いま会いにくるとは予想もしなかったんだよ」
いくつか得点を獲得したエマは、先へ進むのがもっとも賢明だと考えた。彼女はいつまでも困難を嘆いたりする人ではなく、挑戦を楽しむ人だった。「わたしたちは最善を尽くさなくてはなりませんわ。少人数のお客さま向けのおもてなしではなく、ちゃんとしたハウスパーティを開きましょう。それがぴったりですもの」
「たとえ〝ぴったり〟ではないとしても」ナイトリーは言った。「ハウスパーティならできるだろうし、最善を尽くすしかないね」
*
エマとナイトリーの結婚が一部の人々にとって驚きだったとすれば、エリザベス・ベネットとフィッツウィリアム・ダーシーの婚約発表は、あらゆる人々の度肝を抜いた。
当時、エリザベスの地元では、ダーシーは高慢で不愉快な男であり、おのれの富と領地に心酔するあまり、社交の場でめったに口を利こうとすらしない人物として知られていた。同様に、ダーシーの周囲でも、エリザベス・ベネットは有力な血縁もなく、たいした持参金もない田舎娘にすぎず、良い結婚を望むべくもないことはよく知られていた。
もしジョージ・ウィッカム氏がいなければ、エリザベスとダーシーが互いの本質を――自分自身の本質でさえも――知ることはおそらくなかっただろう。ふたりが二十二年の幸せな結婚生活を送ることもきっとなかっただろう。
〝正確には〟エリザベス・ダーシー[四十二歳]は思った。〝二十一年の幸せな結婚生活ね〟この一年はそこには含まれていなかった。
彼女は寝台に腰かけ、メイドが広げていったドレスを見つめた。黄色のドレス、エリザベスの好きな色だ。だからこそ、このドレスが選ばれたにちがいない。その色合いは、黒、灰色、薄紫色から、もう少し明るい色に移行させようという試みだった。
〝もう八カ月になるのよ〟彼女は自分に言い聞かせた。〝喪に服すのも、そろそろ終わりにしないと〟
心のなかでそうつぶやいて、立ちあがる。しかしながら、メイドを呼ぶ間|《ま》もなく、フィッツウィリアム・ダーシー[四十九歳]がはいってきた。
彼の見た目は以前とほとんど変わらなかった。男性の装いは、喪に服しているときも喪が明けたあとも、それほどちがいがない。エリザベスの夫の場合、ほぼ同じだった。ときおり、夫が昨年の冬の悲劇にまったく影響を受けていないように思えることすらあった。
一方、エリザベスは、かつての陽気で活発な人間から、自分自身の影に変身してしまったように感じていた。受け身で、実体がなく、暗いものに。
エリザベスとダーシーが、もはや互いに話すことがほとんどなくなってしまったのも無理はない。
「まだ支度はできていないんだな」ダーシーが言った。ほかの多くの夫が発していたら、これは辛辣なことばだっただろう。が、ダーシーの口から出た場合、たんに事実を述べたにすぎず、非難の意は含まれていない。「もし出発を明日にしたほうがよければ――」
「だめ、だめ」エリザベスは言い張った。「あちらにはもう手紙が届いているはずよ。遅れて到着したら失礼になるわ」承諾しなければよかったと彼女は思った――自宅から何週間も離れて、知らない人だらけのハウスパーティに参加するだなんて! そのときは実に望ましい気分転換に思えたのだ。自分自身の殻を抜けだして、一度も訪れたことのない州を見て、新しい人々と知り合いになる機会になるだろう、と。(エリザベスは、新しい知人とは一般的にふたつのカテゴリーに分かれると感じていた――知る価値のある人々と、つねに愉しみを与えてくれる人々に。)いざそのときが来てみれば、旅支度をするだけで億劫に感じられた。実際に訪問したら、どれほどひどい気分になるのだろう?
ダーシーの視線がドレスに注がれていた。エリザベスだけでなく、夫もまたその色に込められた意味を理解していた。ダーシーは彼女の眼を見ないまま、つぶやいた。「昔からずっと、黄色いドレスを着たあなたを美しいと思っている」
ふたりの結婚生活を覆う冬の雪のような厳しい冷たさの下で、夫はまだ彼女の愛したダーシーだった。エリザベスは微笑んだ。かつて毎日笑っていた彼女にとって、いまの笑みはぎこちなく感じられたが、喜ばしいものだった。「じゃあ、あなたのために着てあげるわ」
夫が返した眼差しに浮かぶやさしさは、エリザベスを希望のようなもので満たした。ダーシーがまた口を開いて何か言おうとしたとき、彼女ははやる思いで身を乗りだした――が、聞こえてきたのは、ドアを叩く音、それから蝶番が軋む音だった。
「母上?」長男のジョナサンがはいってきた。「ああ、すみません。お邪魔するつもりはなかったのです」
「邪魔なんかしていないわ」エリザベスはやさしく言った。「あなたが邪魔になることなんてないのよ」
正直なところ、彼女は夫の態度が急変したことをすでに残念に感じていた――打ち解けたものから形式ばったものに、親密なものからよそよそしいものに。ダーシーは一歩さがった。まるで他人を部屋に入れるとでもいうように。ジョナサンは父親からそんな反応を引きだしたのだ。
あるいは、ダーシーが息子からそんな反応を引きだしたのだろうか?
一度ならず、エリザベスは不思議に思ったものだった。どうして自分は、この堅物の夫のほうが……堅苦しくなく――おおらかで、ざっくばらんな人柄に――見えてしまうような息子を産むことができたのだろう、と。昔から彼女は、自分の活発さが夫を穏やかにし、機嫌を上向かせているとわかっていた。ふたりの性質は、子どもたちのなかで混ざり合い、同じ効果を生むものと無邪気に信じていた。実際には、下の息子たち――マシューとジェームズ――は、ときどき彼女の陽気さをすべて(ジェームズの場合は二倍かもしれない)受け継いでいるように見えた。
ところがジョナサンは――もちろん、彼は賢くて礼儀正しく、孝行息子であり寛大な兄であり、家族の自慢の種である。ペムバリーにある細密な肖像画が真実を示しているなら、ジョナサンは父親の若い頃に瓜ふたつで、つまり非常にハンサムな若者だ。出会ったばかりの頃、エリザベスがものすごく嫌っていたフィッツウィリアム・ダーシーの堅苦しさ――も、同時に受け継いでいる。ただし、ジョナサンの場合、その特徴が公的な人格の大部分を占めており、父親という手本から学ぶことがないのではないかとエリザベスは恐れていた。
〝あなただってお母さまにもお父さまにもほとんど性格が似ていないじゃない〟エリザベスはたまに自分に言い聞かせた。〝それなのに、どうして長男の振る舞いに驚きつづけているの?〟
ときおりエリザベスは、何かが――あるいは誰かが――最終的にジョナサンを変えてくれないだろうかと願っていた。かつてエリザベスが彼の父親を変えたように。しかしそれから、とても正直で嘘偽りなく、ありのままの自分でいる息子のことを思い、彼の性格を変える必要があるかもしれないという考えが嫌になった。むしろ世間のほうを息子のために変えてやれたらいいのに。そうすれば世間は彼女の知るジョナサンを見てくれるだろうに。
しかし、世間はそう簡単には変わらなかった。
ジョナサンは言った。「従者がぼくのトランクを馬車に運び込みたいと言っています。そのまえに、父上と母上に、ほんとうにぼくが一緒に行くべきとお考えかどうか、お聞きしておいたほうがいいと思ったのです」
「もちろんあなたも一緒に行くべきよ」エリザベスは息子を急き立てた。旅をすること、新しい人々に会うこと――きっとそれは息子にもっとゆったりした態度を身につけさせ、他者への理解を深める助けになるにちがいない。ペムバリーでの暮らしは、それ以外の世界が同じように壮大なわけではないという事実について、ある種の健忘症を引き起こしかねないところがある。「あなたと一緒に旅をするのをずっと愉しみにしていたのよ」
ジョナサンはわずかに頭をさげた。「ペムバリーが心配なのです。ニワトコの花が醸造用に届けられるので、家族の誰かが、台帳をつけるためにここに残るべきではないかと――」
「アボット氏がしっかり管理してくれている」ダーシーは少し厳しい口調で言った。「その件は、この数年、彼の管理を信頼してきた。もしおまえがアボット氏を監督するために残れば、それは不信の表れであり、したがって、最大の侮辱だと彼は受け止めるだろう」
「ぼ――ぼくは考えが至りませんでした」ジョナサンは言った。エリザベスは息子の頬が悔しさで赤らんだことに気づいた。「アボット氏を中傷するつもりはなかったのです」
ダーシーは音を立てた。立場の低い人が立てた音なら、ため息に聞こえただろう。「もちろんわかっている。だが、おまえのことばで思いだしたよ。出発前にもう一度、アボット氏と話しておこう。おまえも一緒に来なさい。彼がどれほど私たちに尽くしてくれているか、もっとよく知っておくべきだろう」
ジョナサンは目立った動きはしなかったが、エリザベスには息子に影が差したのがわかった。長男は正しいことをしようと懸命に努力し、父親と社会に設定された期待に応えようとしていた……が、頭はいいのに、いつもどこか理解が足りないところがあるようだった。
父親と息子は部屋から出ていった。エリザベスがダーシーと分かち合った一瞬の親密さも、父子と一緒に去っていった。
*
「大丈夫かい?」エドマンド・バートラム[二十八歳]は、この三時間で三度目の質問をした。「暑さが厳しいね。もし疲れているようなら、近くの宿に立ち寄ろう」
彼の妻、ファニー・バートラム[二十二歳]は首を横に振った。彼女は自分のせいでほかの人に面倒をかけるのが好きではなかった。「いいえ、ちっとも。わたしはまったく問題ありません」
「転んで頭がぱっくり割れたとしても、きみはそう言うだろうね」
ファニーは夫のためになんとか明るく振る舞った。「それだと、わたしには感覚がないことになりませんか?」
「そう言われるとぐうの音も出ないな。一本取られたよ」エドマンドは端正な笑みを小さく浮かべた。
彼女は馬車の窓の外を見つめつづけた。ファニーは森や野原、木や花といった自然界に、つねに最大の安らぎを見いだしてきた。いつもなら見慣れない葉を観察することに、強すぎるほどの好奇心を抱いただろうが、今日は夢中になれなかった。恐怖がその爪で彼女を捕らえ、離そうとしなかった。
ファニーは昔からずっと恐れを抱いてきた。幼い頃、混沌とした生家から裕福な親戚、トーマス・バートラム准男爵夫妻のもとに引き取られた。伯母夫妻の立派な屋敷と礼儀作法はファニーを怯えさせ、生来の物静かさは完全な沈黙に変えられた。そんな彼女にほんとうに親切にしてくれたのはただひとり、従兄のエドマンドだけだった。
ふたりがおとなに成長するにつれ、ファニーの彼に対する深い感謝は愛に熟した。エドマンドの彼女に対する関心と称賛はちがった。そうはならずに、彼は活発な新しい隣人、メアリー・クロフォードという女性の魅力に囚われた。ファニーがどれほど嫉妬し悔しがっても、メアリーが聡明で、機知に富み、音楽の才に恵まれ、ときにファニー自身を深く思いやってくれる事実を隠せるわけではなかった。しかし、メアリーの才気あふれる輝きの裏側に、しかるべき道徳心が備わっていないことは、ファニーには明らかだった。
エドマンドにはそれが見えていなかった。彼は何カ月もメアリーの欠点に気づかぬまま、無視すべきでないものに目をつむっていて、ファニーの気持ちはさらに落ち込んだ。メアリーが本性を現したのは、エドマンドとメアリーが婚約寸前まで進んでから――実際に彼の口に求婚のことばがのぼってから――のことだった。そしてそのあと……
ファニーが完全に理解できなかったのは、〝そのあと〟のことだった。その年のうちに、エドマンドはメアリー・クロフォードへの心酔から立ち直り、ファニーに求婚するまでになった。ファニーはしあわせの涙を浮かべて彼を受け入れた。しかし彼女は、喜びの絶頂期でさえ、エドマンドがメアリーにしたように自分に求愛したことは一度もないことに気づいていた。彼の顔にはついぞ浮かんだことがなかったのだ――まぎれもなく恋をしていると世間に知らしめずにはいられない、喜びと傷つきやすさが入り混じったあの表情が。ふたりの日常生活にはほとんど変化がなかった。ある日、ファニーは彼の従妹だったが、次の日には、彼の妻になり、かつてマンスフィールドパークで一緒に暮らしていたように、牧師館で彼と一緒に暮らしはじめたのだった。
(彼女が口に出せず、考えることすらほとんどできなかった最大のちがいは、ふたりが夜に同じ寝台で寝たことだ。そこで起こったことは……悦びであり、ファニーはそれを否定できなかった。が、それはいまでも彼女にとって謎のままだった。暗闇に属するもの。なんらかの理由で、神が夫と妻のあいだに定めたもの。ファニーはその理由を理解しようとはしなかった。)
たしかに、それ以上を望むことはまちがっている。エドマンドは彼女の夫であり、彼女が口にすることを自分に許さなかった望みを叶えてくれた。ふたりの暮らしは質素だが快適だった。神はまだふたりに子どもを授けておらず、結婚して四年も経つとそれは気がかりだったが、それでもファニーは、いつかは祈りが叶えられると穏やかに確信しながら、教会で膝をついていた。エドマンドに愛されていることは疑わなかった。
しかし、ファニーがエドマンドを愛するように、彼が自分を愛しているとは思わなかった。
いま、ファニーを苦しめている問題と向き合うには、それほど深く、それほど強い愛がまさに必要なのだ。
エドマンドがまた話しかけてきた。「きみはずいぶん静かだね」
頭を垂れて、ファニーはうなずいた。「そういう性格なんです」ときおり、もっと暗い気分のときには考えることもあった――エドマンドはメアリー・クロフォードとの機転の利いた会話を恋しく思うことがあるのだろうか、と。メアリーの話は、ときに思いやりに欠けていたり不道徳だったりもしたが、どんなときも興味深かった。
「そのとおりだけど、それが真実のすべてではないよ、ファニー」エドマンドがやさしく叱った。「ここ数週間、何かが重くきみにのしかかっているようだね?」
「いいえ、ちっとも」
「妻は夫に対して誠実でなければならない」エドマンドの声は聖職者の説教じみた調子になっていた――彼の職業を考えれば、驚くことではない。「夫婦の神聖な絆は、それ以下であってはならない」
信心深いファニーは、ふだんは夫の説教を愉しんでいた。しかし今日、彼女の眼には涙が浮かんだ。「ほんとうに元気です。わたしを疑わないでください」
「ぼくは誰よりもきみを信頼している」エドマンドは朗らかに言った。「いいだろう、ファニー。いまのところは、もう尋ねるのはやめておくよ」
いまのところは。そのことばは、まるで一語ずつ鞭打つように、ファニーの心を打ちつけた――あるいは、兄ウィリアムから届いた悩ましい手紙の一通に書かれた生々しい描写を読んで、鞭打ちの痛みを想像したときのように。エドマンドはまた尋ねてくるだろう。彼に知らせなければならないが、知らせるわけにはいかない。どうすれば夫と兄の両方に誠実でいられるのだろう?
ウィリアムの最新の手紙は、エドマンドの足下に押し込まれた彼女の旅行鞄のなかにあり、痛ましいほどその存在を主張していた――まるで馬車に同乗し、ファニーを見つめ、彼女の一語一句を裁こうとする第三者のように。
*
「ええ、そのほうがいいわ」マリアン・ブランドン[十九歳]は、開けたばかりの馬車の窓から新鮮な空気をありがたく吸い込みながら言った。「夏の旅ってうんざりするもの。道が埃っぽくなくて運がよかったわ」
彼女の夫、ブランドン大佐[三十八歳]は、妻の世話をしようとするときによく見せる、深刻で心配そうな表情を浮かべていた。「陽射しを不快には思わないということだろうか?」
マリアンがブランドンの言わんとすることを理解するのに、少し時間がかかった。「わたしはほかの人みたいに、夏に日焼けした人をあざ笑うようなみっともないことはしないわ。上品とは言えないんだろうけれど、新鮮な空気と自然を愛する気持ちの表れだし、わたしにとって、新鮮な空気や自然はとても心地のいいものなんだもの。そんなわたしが、どうして日焼けを心配しなければならないの?」マリアンはそこではっとした。ふたりはまだ新婚夫婦なのだ。「でも、あなたは日焼けしすぎた女性のこと、すごくお嫌いなのかしら?」
「私もあなたと同じように感じている。おのずと湧き出る感情は、抑圧されるべきではない」クリストファー・ブランドンは同意した。夫の声には温かみがこもっているのだろうか? マリアンにその判別がつけばいいのだが。「私のために自分を抑えないでほしい」
マリアンにはそんなつもりは毛頭なかった。彼女はただ、夫が物事をどう感じているのか知りたいだけだった、たとえば……たとえば、世の中のどんなことでも。ただし、マリアン自身のことはのぞいて。
結婚して五カ月、夫は心を閉ざしたままだった。壁を巡らせて。マリアンから遠く離れて。これは彼女のあらゆる結婚観に反していたし、ましてや深い愛にも反していた。夜には寝台でともに過ごす男性が、どうして彼女に心を開いて、遠慮なく話すことができないのか? かつてのマリアンなら、そんなことはありえないと思い込んでいたはずだ。
とはいえ、マリアンの愛についての信念は、そのあまりに多くが、ありうるかぎり最悪の形で打ち砕かれてきた。
ほんの二年足らずまえ、マリアンはウィロビーという青年に出会った。ハンサムで、颯爽として、詩や芸術に情熱的で――まるで物語の主人公のように、マリアンのあらゆる理想を体現しているような人だった。ところがその後、ウィロビーが若い女性をもてあそび、妊娠させていたことが判明した。しかもその相手は、ブランドン大佐が後見人として面倒を見ていた女性だった。ウィロビーはそのことで叔母から相続権を奪われ、結局、五万ポンドという多額の財産を持つ別の花嫁のために、マリアンとの理想の愛を捨てたのだった。
マリアンの心は打ち砕かれた。さらに悪いことに、おのれの傷心に溺れるあまり、体を衰弱させた。その後、高熱を出したときには、病と闘う力は残されていなかった。マリアンの病状は悪化した。それどころか、あまりに重篤で、死にかけたほどだった。
姉のエリナーはいつも、さまざまな出来事から学ぶようにとマリアンを諭していた。マリアンはその闘病から、ふたつの貴重なことを学んだ。ひとつは、自分のためにも家族のためにも、感情を抑制しなければならないこと。それから、ブランドン大佐は、年が離れていて物静かな人だけれど、完全に信頼できる人だとみずから証明したこと。
信頼は愛に変化しないのか? マリアンとしては変化するよう願うしかなかった。
エリナーはついにマリアンに影響を及ぼすようになった。つまり、マリアンがブランドンの求婚を受け入れる決断をしたのは、現実的な要因が働いたからだった。ブランドン大佐は立派な地位があり、人柄も良かった。友人から尊敬され、マリアンの家族からも慕われていた。そんな夫がいれば、つねに敬意を払って親切に扱われるだろう。心から安心できることの価値は、あまりに過小評価されているとマリアンは思った。
それでも彼女はずっと昔から誓いを立てていた――たんに富を得るためだけに自分を売るような結婚は絶対にしない、と。その誓いどおり、マリアンがブランドンの求婚を受け入れたのは、妻が夫に対して抱くべき感情を彼に感じはじめてからのことだった。
マリアンはもはや、ブランドンの年齢(三十七歳、彼女よりも丸十八歳も年上)にも、彼の堅実で寡黙な性格(彼女の性格とは全然ちがう)にも、なんのためらいも抱いていなかった。しかし、最初に恋に落ちたのはブランドン自身にというより、彼の自分に対する愛ゆえだったことは、マリアンはまだ意識していた。あれほど心のこもった、無欲な献身の対象となること。あれほどやさしく守られ、見返りをほとんど期待されないこと。そんな愛に、誰が引き寄せられずにいられるだろう? それがブランドンの愛であり――その熱情は、深く埋もれていたとしても、灰のなかで赤々と輝く燠のように本物だった――まさにこれこそが、マリアンをブランドンの妻になるように促したものだった。
より深い理解と親密さが、いずれ目覚めるだろうと彼女は感じていた。実際、ブランドンに対する彼女の愛情は、日に日に増していた。
ところが、結婚して五カ月が経っても、ブランドンはまだ彼女に心を閉ざしていた。
子どもの頃、鍵のかかったドアがあれば、マリアンはいつも体当たりしたものだった。鍵のかかった心は、ずっと難しいと思い知らされていた。
*
〝節約〟ということばは、つましさと倹約という称賛に値する資質を示唆している。とはいえ、それはまた、いかに罪はなくとも称賛されることはけっしてない、境遇の転落をも示唆している。ウェントワース大佐夫妻が陥ったのはそういう窮地だった。
夫妻の二万五千ポンドの財産が、ほぼ一夜にして消えてしまったのである。
アン・ウェントワース[三十三歳]のほうが、その損失を深刻に受け止めたと想像する向きもあっただろう。ウォルター・エリオット准男爵の次女として、アンは若い頃から豪奢な暮らしに慣れていた。しかしながら、彼女は華美なものを好むわけではなく、子ども時代を過ごした優美な内装のケリンチ邸よりも、船乗りたちの質素な家でのほうがしあわせを感じていた。海軍の男性と結婚してからは、夫とともに海上で数年を過ごしたが、窮乏を感じたことはなかった。それに船長の居室は、豪華だと思う人はいないにせよ、若い夫婦にとって快適で心地良いものだった。
状況の変化に強く失望したのは、フレデリック・ウェントワース大佐[三十七歳]のほうだった。彼の富は受け継いだものではなく、国家に対する勇敢な貢献を通して得られたものだった。それを得たことは彼の最大の誇りであり、それを失ったことは最大の恥辱となった。
その恥辱が不当に与えられたものだけに、痛みはいっそう強かった。本来であれば、その恥辱は別の人間――慙愧の念をまるで感じないらしい人物――が負うべきものだった。
そんなわけで、仮住まいの階段が崩れたことは、アンにとっては小さな不便だったが、ウェントワースにとっては侮辱だった。
「安全でない家を――目と鼻の先で崩れかねない家を――人に貸すとは!」ウェントワースは、ひとりしかいない下男が馬車に荷物を積み込むあいだ、腹を立てていた。「けしからん。良識のある人間なら、そんな状態の家を貸したりするものか」
アンは答えた。「良識のある人なら、知らなかったと考えるほうが説明がつくことを、悪意のせいにはしないんじゃないかしら」
ウェントワースは意気消沈してうなだれた。「そうだな、この屋敷には二年間誰も住んでいなかったという話だった。ナイトリー氏は知らなかったんだろう。だけど、階段が崩れたとき、あなたが階段にいたらどうなっていたかと思ったら――」
「いなかったわ」アンはきっぱりと言いながら、夫の腕にやさしく手を添えた。夫はまたアンを失望させたり、傷つけたりするのではないかと考えるだけで耐えられないのだと、彼女にはわかっていた。
咎を負うべきは別の人間だったのだが……
「あなたが助かったこと、神に感謝するよ、アン」ウェントワースは、多くの感情をにじませた低い声で言った。「あなたなしでは、どうやって耐えればいいのかわからない」
「わからなくていいのよ」彼女は約束した。「運命が許すかぎり、わたしはあなたのそばにいるから」
そのことばは、アンが思うほど慰めにはならなかった。ときに運命がいかに残酷なものなのか、ふたりともよく知っていたのだ。
*
「あなたに新しい服を買ってあげられたらよかったのに」キャサリン・ティルニー[三十七歳]は、娘の外套のリボンを結びながら言った。「でも、とっても素敵に見えるわよ」
「ありがとう、お母さま」ジュリエットは答えた。
十七歳になったばかりのジュリエット・ティルニーは、この一年でぐっと見た目に気を遣うようになった。幼い頃は、どちらかというとおてんばで、男の子の遊びに夢中になったり木登りが好きだったりした。父親のヘンリー・ティルニー[四十四、五歳]は、それを見て舌打ちすることもあったが、母親のほうは、自分も若い頃はまったく同じだったといつも話していた。では、そんな母親は、娘ざかりの頃に、綿モスリンの生地やダンス――そして、ハンサムな若い聖職者――に興味を持ったりはしなかったのだろうか?
実のところ、ジュリエットはまだ男の子の遊びが好きだったし、もしドレスでも許されるなら、木登りも続けていただろう。母親とは――これに関しては多くのおとなたちとも――ちがって、キャサリンはどうして自分が、モスリン、ダンス、そして白熱するボウルズの試合(芝生の上でボウルを転がして標的を倒す、イギリス発祥のスポーツ)を好きになれないのかわからなかった。おそらく、ジュリエットがもう少しおとなになれば、その答は――ほかの皆にとって自明であるように――おのずと明らかになるのだろう。
この訪問に行かされるのは、世間で多くの経験を積むためだけでなく、いずれ有望な青年を紹介してくれそうな知人を作るためでもあることを、ジュリエットは重々理解していた。少なくとも、母親が一度ならず読みあげたナイトリー夫人からの手紙によれば、ジュリエットはとても興味深い人々と出会うことになりそうだった。海軍の艦長――ゾクゾクするような響きだ。西インド諸島で任務についていた陸軍大佐は、広い世界のことをたくさん教えてくれそうだ。教区牧師というのはさほど興味を掻き立てられない。つまるところ、ジュリエットは聖職者の娘だったので。しかし、その分はダーシー氏の存在が補填した。ダーシー氏の所有するペムバリーは壮大な領地で、その名声はグロスターシャーにまで広まっていた。
そしてもちろん、彼らの奥方たちも。ジュリエットは彼女たちに会うのも愉しみだった。興味深い男性は興味深い女性と結婚する傾向がある。そうでない場合には――ジュリエットは学んでいた――その男性は経歴ほど興味深い人物ではないことを示唆している。
「サリー」ティルニー夫人は考え込むように言った。「そのあたりには生け垣があるのかどうか教えてちょうだいね」
風景についての質問が意味することはひとつしかない。「お母さま、サリーを小説の舞台にするつもりなの?」ジュリエットは尋ねた。
「かもしれないわ」ティルニー夫人は、ある土地について書くまえに、まずはその場所を事細かに想像するのが常だった。
ジュリエットは笑った。彼女は母親の無限の想像力に敬服しており、ほんの小さな火花からアイデアが燃えあがるさまを目の当たりにするたび、何度でも驚嘆せずにはいられなかった。「じゃあ、わたしは調査員ってこと? お母さまの次の大冒険を構築するための?」
ティルニー夫人は娘の頬に手を添えた。「次の冒険は、あなたのものであってほしいわ」
*
ついに流刑となったナポレオン・ボナパルトは、それまでの五年間セントヘレナ島に封じ込められていた。英国中、さらには欧州全土も、ナポレオンのエルバ島脱出を忘れていなかったが、今回はあのような復活劇はなさそうだった。かつての偉大なるナポレオンは年を取り、健康状態は悪化しつづけていると報告された。かくして、多くの国々に深い傷痕を残した戦争は終了した。
もちろん、ほかの戦争は起こりうるだろう。すぐにでも起こるかもしれない。しかし、それはかつてと同様、既知の支配者一族間の戦争であり、古くから定められた領土をめぐる抗争になるだろう。もう二度と、ボナパルトの軍事行動のような衝撃的な紛争が起こることはないはずだ。
英国海軍は、国家の栄光と世界の勝利を証明した。海上のブリタニアには誰も挑むことはできない――それは疑いの余地なく実証された。欧州では、英国陸軍の勝利が称えられた。しかしながら、戦争で名をあげることのなかった部隊があった。義勇隊である。ナポレオンはイングランド侵攻の兵力を動員できなかった。あるいは、少なくとも侵攻の機会は得られなかった。ナポレオンの侵攻から国を守るべく、義勇隊に参加した何千人もの若者たちは、軍服を着て、訓練を受け、称賛され、それ以外はほとんど不便を感じずに過ごした。そんな若者のなかには、侵攻されなかったことをただ感謝する者もいた。一方、戦争の恐ろしさをあまり意識せず、名誉に強く飢えていた者たちは、平和をとても残念に思った。
もっとも残念がったのは、強欲な者たちだ。戦時中は、財産を築きたい一般庶民が、平時なら手の届かないような褒美を得られることもあった。
しかし、意志あらば、財産はどんなときでも築くことができる。ジョージ・ウィッカム[四十九歳]はそのことを学んでいた。
ウィッカムはチョッキを撫でつけ、片手で髪を掻きあげた。いまでは髪に白いものが交じり、チョッキの胴回りが少しきつくなってはいたが、それでもまだ堂々たる風采の男だった。そのことは、いまだ女性たちから投げかけられる興味津々な視線から、彼にもわかっていた……たとえいまではその女性たちの年齢があがり、視線を向けられる回数が減っていたとしても。もし再婚するなら、以前よりも有利な条件で結婚できるだろう。とはいえウィッカムは、もはや金のために結婚する必要はない。ついに彼は富の味を知り、もう二度と富なしに生きるつもりはなかった。
実のところ、最新の投機的事業は、ウィッカムにさらに数百ポンドをもたらすかもしれなかった――サリーのナイトリー夫妻とやらが、ほんとうに家族を愛しているのであれば。
第1章
〝ここはノーサンガーとはちがう〟ジュリエットは思った。馬車が、これから数週間過ごすことになる大きな屋敷に近づくにつれ、興奮が高まってきた。〝ドンウェルは本物の修道院よ!〟
崩れかけた塔やゴシック様式の庇はなかったが、ドンウェルアビーは、ジュリエットの伯父の屋敷よりもその古さを誇っていた。馬車を曳く馬が速足で駆け、正面玄関が近づくにつれ、ジュリエットの大きく見開かれた眼は、ステンドグラスの窓、いかつく古めかしい木々、近くにある礼拝堂、そして見方によってはガーゴイルに見えなくもない露出した岩を捉えた。
彼女は深く息を吸い、心を落ち着けた。熱中したり空想したりするのは後回しだ。まずは好印象を与えなければならない――従順で、物静かで、礼儀正しく、たしなみがあると思われるように。ジュリエットは自分が実際にそれに当てはまるのかどうかわからなかったが、そう見える必要があった。そうでなければ、誰も自分のことを知りたいとは思ってくれないだろう。家庭教師はしょっちゅうそう説明していた。説明してくれなかったのは、人を惹きつけるために自分を偽ってなんになるのかという点だった。いったん親しくなれば、猫をかぶっていたことに気づかれるだろう。そんなことをしたら元も子もないようにジュリエットには思われた。
もしそのことを両親に尋ねたら、父親はばかなことを言うんじゃないとジュリエットをたしなめることだろう。母親はいつもの心得顔で、暗にこう伝えるはずだ――〝世の中はばかばかしいところなのよ、おチビちゃん。あなたにできることをしなさいな〟。
ジュリエットはこの訪問をできるかぎり満喫するつもりだった。彼女は初めての本物の冒険をずっと待ち望んでいたのだ。
新しい知人ほど、顔ぶれが固定された地域の社交界を活気づけるものはない。新参者の家族はあれこれと調べられる定めにある。その男性は性格や人柄、財産を評価され、晩餐会や舞踏会に誘われ、既婚者なら配偶者を――いれば子どもたちも――紹介させられ、独身なら良縁を勧められることになる。新参者は、聞いたことのある人々には効果が失われた悲しい身の上話に、新鮮な共感を示しながら耳を傾けてくれる。陳腐になった冗談に、もう一度笑ってくれる。さらに、その男性自身の身の上話をしてくれるかもしれない。
とはいえ、新参者になるほうは、必ずしも愉しいことではない。一度に大勢の人々に紹介され、最初は名前や境遇を正確に覚えるのに四苦八苦する。つねに観察され――そのことに気づかないわけにはいかない。注目されてうまくやれる人もいるが、当惑する人もいる。
もっとも当惑するのはどういう場面か? 参加者のほぼ全員が互いにとって新参者である集まりだ。誰もが品定めの対象となり、誰ひとり完全にくつろぐことができない。最初の数台の馬車が到着するやいなや、ドンウェルのハウスパーティはそんな状態になった。とはいえ、模範的な女主人であるエマ・ナイトリーは、最初の人脈形成をスムーズに促した。
「おふたりとも、とっても詩がお好きなんですってね」エマは言った。「それに小説も。わたし自身は読書家ではないんですけれど――読みたい本のリストばかりたまってしまって」
マリアンは鼻で笑いそうになるのをこらえた。義兄になったエドワードを愛するようになってから、立派な魂の持ち主であっても、詩に対する感受性を備えているとはかぎらないと学んでいたからだ。しかしながら集った人々のあいだを縫って歩くエマを見ながら、マリアンはこう言わずにはいられなかった。「当世でもっとも偉大な小説や詩の題名を見て、興味を惹かれるものがひとつも見つからないなんて、わたしには理解できませんわ」
「わたしもそう思います」ジュリエットは同意した。少し熱を込めすぎたかもしれない。「わたしなんて、半日ずっと本を読んでいることもあるくらいです。母はわたしを叱らなくてはと口では言いますが、そんな母も、わたしの年頃には同じように本ばかり読んでいたらしくて――ほんとうのことを言えば、母はいまでもそうなんです」ジュリエットはブランドン夫人を好きになりたかったし、彼女に好かれたかった。ふたりは集まった女性たちのなかで一番年齢が近く、二歳しか離れていなかった。(ナイトリー夫人にはジュリエットと年の近い娘がいたが、ナイトリー家の子どもたちは家族の友人とブライトンを訪問中だった。)そんなわけでジュリエットは、この集まりでブランドン夫人に特別な友人になってほしかった。ブランドン夫人はとても美しくて上品だが、ジュリエットが軽蔑するような堅苦しく形式ばった感じはしなかった。彼女のなかには、ジュリエットの知り合いにはめったに見られない、炎が宿っていた。
ブランドン夫人の眼に好奇心がきらめいた。「あなたのお母さまご自身も作家だとうかがったわ。そして、もし内表紙に〝ある婦人によって〟と書かれているなら、お母さまの本の何冊かはわたしのお気に入りよ」
そのとおりだと勢い込んで言えたら、どんなによかっただろう。しかし礼儀作法では、女性は自分が著者であることも、自分の母親が著者であることも、認めることは許されなかった。ジュリエットには不必要かつ不愉快な決まりごとに思えたが、両親はそれに従うよう彼女をしつけていた。「まあ、わたしからはなんとも申しあげられなくて」
それでも、ジュリエットは誇らしい気持ちで頬が染まったことを感じ、ブランドン夫人もきっとそれに気づいたにちがいないと思った。
ブランドン夫人の笑みが深まった。「ともかく、あなたのお母さまは詩的でセンスあるものがお好きなんでしょうね。そうでなければ、娘さんにジュリエットと名づけたりするかしら? とても素敵なお名前ね」
「ありがとうございます」ジュリエットという変わった名前は、ときおり不愉快な批評を受けることもあった。聖書的でなく伝統的でもないため、怪しまれることもあった。それにキャピュレット嬢(『ロミオとジュリエット』のヒロイン、ジュリエットのこと )は、若い女性の理想像とは考えられていなかった。しかし、ブランドン夫人の賛辞は心からのように聞こえたので、ジュリエットは続けた。「わたしの妹はテオドシア(ギリシア語起源の名前。「神の贈り物」の意 )、末の弟はアルビオン(「白い国」を意味するイングランドの雅称 )というんです」
「なんてすばらしいの」ブランドン夫人の顔が喜びでぱっと輝き、ジュリエットはふたりがもう友人になったとわかった。
客間の反対側では、初対面の人々の紹介が続けられていた。「ブランドン大佐、あなたは何年か陸軍にいらしたのよね?」ブランドンがうなずくと、エマの笑顔がやわらいだ。「まあ! それならぜひ、わが家を借りてくださっている、ウェントワース海軍大佐とお話ししてくださいな」
ブランドンとウェントワースは、民間人には解釈できない視線を交わして、軍隊に所属したことのない人々にありがちな誤解を互いに確認し合った。一般人はよく荒唐無稽な思い込みをしていた――陸軍に服務するのも海軍に服務するのも、一方の勤務地が陸上で、もう一方が海上であることをのぞけば、まったく同じであるというような。
実際には、ちがいはたくさんあった。たとえば、海軍上層部の階級はおもに功績によって決められた。一方、陸軍将校は能力よりも富によって選ばれた。つまり、多くの陸軍将校は海軍軍人を、その地位をすこぶる鼻にかける成りあがりと見くだしているということだった。それはまた、多くの海軍軍人が陸軍将校を……まあ、もっとも丁寧なことばで言えば、〝でくのぼう〟と決めてかかっているということでもあった。
ブランドンもウェントワースも、そんな決めつけはしなかった。ブランドンは人の性格を見抜く鋭敏な判断力を持っていた。ウェントワースは、第一印象による判断力は必ずしも正しいわけではなかったが、相手の眼に良識を見ればそれとわかった。
「次はいつ海に出る予定ですか?」ブランドンは尋ねた。
海軍軍人に尋ねるにはごく普通の質問だったので、ウェントワースの口元が引き結ばれたのも、その声にわずかな尖りがあったのも、ブランドンには予想外だった。ウェントワースは答えた。「当分は家族と自宅で過ごしたかったのですが、現在の状況では許されそうにありません」
もし若き日のウェントワースがイングランドから離れたくないと望んでいたら、彼の運命が好転することはなかったはずだ。どんな状況がウェントワースを悩ませているのか。海軍将校のなかには、戦争で勝ち取った船荷を失った者がいることを、ブランドンは知っていた。船荷の奪い合いもあったし、公正な標的とみなされていた船が、のちに航行権を持つ船舶だと判明することもあった。その手の問題は何年もまえに解決したものとブランドンは思っていた――が、海軍軍人にしかわからない事情があるのだろう。
「いまのところは、もっと満足のいく形で問題を解決できればと願っています」ウェントワースのことばは、希望にあふれた男のようには聞こえなかったが、一語一語に断固たる決意が込められていた。「もし失敗したら……相応の値打ちのある次のインド諸島行きの船に乗らねばならず、妻と子どもは一年以上ふたりだけで過ごさなくてはなりません」
ブランドンは自分の新妻、マリアンをちらりと見た。彼女は年若いティルニー嬢と愉しそうに話しており、その笑顔は暖炉の炎よりも暖かく思えた。ブランドンは心から愛する人と別れなければならない残酷さを知っていた。
「私はインド諸島で数年服務しました」ブランドンは言った。深く同情してはいても、礼儀正しく助言することしかできなかった。ただの助言でも、何もないよりはマシだろう。「もし貴殿がまだインド諸島に行かれたことがなければ、どんな質問でも喜んでお答えしますよ」
ウェントワースはゆがんだ笑みを浮かべた。「実は、いくつかお尋ねしたいことがあります」
「ご主人からうかがったんだけれど、あなたは海軍にお兄さまがいらっしゃるそうね?」女主人からじっと見つめられて、年若いファニー・バートラムはとっさにうつむいた。「ウェントワース夫人のご主人も海軍なのよ。しかも、艦長なの!」
ファニーは思わず顔をあげた。兄のウィリアムにつながることならなんでも、たとえほんのわずかなことでも、彼女の注意を全面的に惹きつける――とくにいまは。しかし、まさかアン・ウェントワースの顔に心のこもった同情が即座に浮かぶとは、夢にも思っていなかった。
「お兄さまはどちらの海にいらっしゃるの?」アンはそっと尋ねた。「最近、連絡はありましたか?」
「ええ、ありました」ファニーは慌てて答えた。「ウィリアムはとても律儀に手紙をくれるのです。ティベリウス号に乗っている大尉で、セントヘレナ近海を警備しています」
アンの微笑みは彼女の瞳のように穏やかだった。「あのコルシカ島人(ナポレオン一世のこと)が息をしているかぎり、あの近海には船が必要ですものね――でも、お兄さまは海軍士官として可能なかぎり安全だと信じています」
ウィリアムはどんな戦いにも劣らぬ大きな危険に直面していた。少なくとも戦いなら、それを生き延びれば、また安全になれるのだが……
ファニーの眼に涙が浮かび、アンはファニーの手を握った。「具合が悪いのね。葡萄酒を持ってきましょうか」
気遣うのではなく、気遣われることは、ファニーの性質に反していた。葡萄酒もそれほど嗜むわけではなかったが、それでアン・ウェントワースの洞察力の鋭そうな視線をいっとき逸らすことができるのなら――「ええ、お願いします。なんてご親切なのでしょう」
アンの表情には、ファニーが申し出を受けたほんとうの理由を察していると思わせる何かがあった。アンはさらりと言った。「あたりまえのことよ。零分ちょうどになったら、葡萄酒を持って戻ってくるわね」マントルピースの上の優美な金色の置時計によれば、零分ちょうどには、まだゆうに五分はあった。葡萄酒を取りにいくのに必要な時間よりもずっと長い。慈悲深いことに、アンはファニーにひとりになれる貴重な時間を与えてくれているようだった。
理解されることは、なんと心地良いものなのだろう!
ファニーは初対面の人にはいつも内気だった。しかしながら、アン・ウェントワースは誠実で思いやりのある人のように思えた。このハウスパーティ――大勢の見知らぬ人々の集まりであり、したがってファニーにとっては恐ろしいもの――のなかに、友人になれるかもしれない人がひとりいたことに、彼女は感謝した。
それでも、すべてを打ち明けられる相手となると、ファニーには誰ひとりいなかった。
全般的に見て、このパーティに参加した女性たちは、労せずして会話することができていた。個人的な趣味が一致しないときには、家族が話題となった。エマ・ナイトリーは、わが子たちの遊びや空想の話に新たな笑いの種を見つけて披露した。アン・ウェントワースが、ひとり娘――ペイシェンスという名の少女で、現在はアパークロスの親戚と過ごしている――について話すとき、その声はさらに柔らかくなった。ファニー・バートラムはそんな子どもたちの話を熱心に聞いており、ジュリエットは、もしかしてファニーは身ごもっているのかしらと思った。この一年で流行りのドレスのウエストラインは徐々にさがっていたが、それでも妊娠中の女性には数カ月の謎めいた期間が残されていた。
マリアン・ブランドンがいなければ、ジュリエットは既婚女性の悩みを中心とした会話から取り残されたように感じていたことだろう。独身女性も結婚したばかりの新妻も、子どもを持つことや、まだ生まれていない子どもを生活の中心に据えることは期待されていない。ジュリエットとマリアンは礼儀正しく耳を傾け、ほかの女性たちとも丁重に会話をしたが、ふたりだけでドレスについて話すこともできた。(マリアンは結婚式のために衣装をあつらえたばかりだった。また、ジュリエットの父親が――ふたりが出会ったどんな女性よりも――モスリンに一家言あると聞いて、とてもおもしろがった。)紅茶を飲みながら、誰もが微笑んでいた。そう、女性たちにとって、このハウスパーティは上々の滑り出しだった。
男性陣はそれほど幸先が良くはなかった。誰ひとりとしてほかの誰かを嫌っているわけではなかったが、会話の話題に事欠いていた。
「このあたりは、すばらしい狩場でしょうね、ナイトリーさん」ブランドンが言った。紳士ならばほとんど誰もが、そのとおりだと同意するか、ほかにもっといい狩場があると説明したことだろう。
ところが、ナイトリーは首を横に振った。「それがですね、大佐。私は狩猟を趣味にしたことは一度もないんですよ。勢子(狩猟の場で獲物を駆り立てる人)や犬の費用を節約できるし、まあ、それでも一匹飼ってはいるんですが」彼は暖炉のまえでうたた寝している小さな白黒の雑種犬を見て、やさしく笑みを浮かべた。「ピエールは長々と昼寝をしたり、愉快なときに尻尾を振ったりして、食い扶持を稼いでいるんですよ」
それを聞いて、やさしさを重んじるブランドン大佐は小さな笑みを浮かべたが、さして感傷的でないエドマンド・バートラムとウェントワース大佐は、困惑の表情を浮かべただけだった。
ほかの話題も、同様に刺激に欠けるものだった。バートラムは自分の説教について敬虔に語り、ほかの面々は理屈としては感服したものの、福音主義的な熱意をひねり出すことはできなかった。ウェントワースは、誰ひとり熱心な釣り好きがいないことに失望した。会話は途切れ、沈黙は気まずさを覚えるほど長く続いた。
ハウスパーティは一カ月ほど続くことになっていた。ナイトリーは心のなかで、そのあいだに客人たちが何か話題を見つけてくれますようにと願った。
それから、ナイトリーの眼はエマに留まった。彼女はアン・ウェントワースとさも愉しそうに笑っていた。彼の妻はどんなことだろうと、たやすくこなす方法を見つけだす。たいていそうだった。エマの魅力に抗える人はほとんどいない。ナイトリーはそのことを重々承知していた。なぜなら、抗おうとした経験があるからだ。その結果、彼は哀れな敗北の笑みを浮かべ、エマは結婚指輪をはめることになったのだった。
正餐(当時は一日二食で、ディナーは午後三~四時頃に取られることが多かった)の席ではもう少し話題が増えるだろうとナイトリーは思った。それがせいぜい白いスープへの賛辞でしかなかったとしても。しかしながら、食事の少しまえに、もっと歓迎すべき形で救済がもたらされた。屋敷の外の車道から馬車の車輪の音が聞こえた瞬間、ナイトリーは顔を輝かせた。
その直後、執事が客間にはいってきて告げた。「ペムバリーのダーシーご夫妻と、ジョナサン・ダーシーさまがご到着されました」
ナイトリーがオックスフォード時代以降にダーシーと会ったのは三度だけで、この十年は一度も会っていなかった。ダーシーのこめかみに白いものが細く交じり、目尻にわずかな小皺があることに気づいたとき、ナイトリーは一瞬、驚いた。〝あたりまえだろう〟心のなかでつぶやいた。〝それについては、おまえは二倍の驚きを与えてるぞ〟(ナイトリーはときどき、若い頃に普及していた髪粉かつらを懐かしく思うことがある。その粉は当時の年配者たちの白髪や抜け毛をエレガントかつ完全に隠していた。)
加齢による変化も、ナイトリーの顔からおなじみの笑顔を消し去ることはできなかったようだ。「ダーシー! やあ、きみ。無事に着いてよかった」
「天候が変わりつつあるようだな」ダーシーは窓のひとつにちらりと眼をやった。黒い雲に覆われかけた空が見えている。とはいえ、彼もまた、笑みを浮かべていた。「会えてうれしいよ、ナイトリー。もちろん、私の妻のことは覚えているだろう」
ナイトリーはエリザベス・ダーシーのことをよく覚えていた。ふたりが結婚した直後に、一度だけ会ったことがある。当初、彼はダーシーが家柄や財産を気にせずに結婚したことに驚いた――きわめて分別のある男にしては無分別な結婚相手だった。しかしながら、ダーシー夫人と初めて短い会話を交わしたあと、ナイトリーは完全に理解した。そう、たしかに彼女は美しかったが、美しさは彼女の魅力のなかでは末尾に位置していた。彼女の快活さは、ダーシーの陰気さと完璧にバランスが取れており、その強い個性は、豊かな機知と同様に明るく輝いていた。
エリザベスの顔はこれだけの年月を経ても美しいままだったが、きらめくような生気が色褪せたように見えた。礼儀正しい挨拶の奥にはなんの感情も込められていなかった。まるで彼女の心はまったく別のところにあり、ただ形だけですませているようにナイトリーには思えた。エリザベスは夫と眼を合わせることがなかった。ダーシーと妻のあいだに何か問題でもあったのだろうか?
〝いや、おそらく旅の疲れだろう、無理もないことだ〟ナイトリーは自分をたしなめた。〝おまえさん、エマと同じくらい想像を膨らませているぞ〟
そしていま、彼は旧友の息子と会う喜びを味わっていた。「きみも一緒に来てくれてとてもうれしいよ、若きダーシー君」
ジョナサンは体をこわばらせて直立姿勢を取った。ものすごくカチコチに。従僕でも、もっと楽な姿勢を取るだろう。「恐れ多くも奥さまからご招待いただいたからには、サー、お断りするわけにはまいりません」
ダーシー一家を招待する顛末は、ナイトリーには知らされていなかった。彼の視線は即座に、若きティルニー嬢に注がれた。黒髪で可憐な彼女は、部屋にはいってくる人からもっともよく見える位置に置かれた椅子に座っていた。ナイトリーの眼が妻の眼を捕らえると、妻はほんの少しうなずいてみせた――本心を知られることを恐れもせずに。
〝また縁結びをするつもりか〟ナイトリーは思った。〝おいおい、エマ!〟
「もちろん、もっと多くの若い方たちと知り合ってもらいたかったんだけれど」ナイトリー夫人は、ジュリエットの耳元でつぶやいた。パーティの参加者たちがいよいよ正餐に向かう準備を始めたときのことだった。「でも、ジョナサン・ダーシーは最高の青年だという噂よ。勉強熱心で、広大な領地の相続人だし――かなりハンサムじゃなくて?」
「ええ、かなり」ジュリエットがそう言うと、ナイトリー夫人から満面の笑みが返ってきた。まるでジュリエットが何かおもしろいことでも言ったかのように。
実際に、ジョナサン・ダーシーがハンサムだというのは、芝生が緑だというのとほとんど変わらないくらい顕著なことだった。背が高く、髪はジュリエットと同様に黒く、物腰は貴族のよう。そんな彼をハンサムじゃないと思う人なんているのだろうか?
ジュリエットは、そんな高貴な相手との結婚を望んでいるのかどうか、自分でもわからなかった。彼女にはわずかな持参金しかなかったし、そのことを謝罪しながら一生を終えたくはない。それでも、礼儀作法として、ジョナサンが正餐のために自分をエスコートしなければならないと気づいたとき、ジュリエットは期待に胸を躍らせた。きっと頬までピンクに染まっていたにちがいない。
食堂に向かう来客たちの流れの最後尾に加わり、ふたりは位置についた。ジョナサンがジュリエットの隣りに立ち――なんて背が高いのだろう!――腕を曲げ、彼女が手を添えられるようにした。彼の前腕は、洗練された上着の生地越しにでも、筋肉質で引き締まっているのがわかった。それまでの人生で出会った男性たちには、そんな感触に気づいたことはなかった。
「フェンシングをなさるんですか、ダーシーさん?」ジュリエットは思い切って尋ねた。
ジョナサンは明らかに驚いた様子で、ジュリエットのほうに半分顔を向けた。「なんでしょうか?」
「わたしはただ――」ジュリエットは、鍛えあげられた腕に興味があると認めることは絶対にできないとわかっていた。「若い紳士のあいだでは、一般的な趣味ですから……」
ジョナサンの美しく鋭い顔立ちは、大理石から彫り出されたかのようだった。「正餐の会話は、正餐の最中にするものではないのですか?」
ジュリエットはさっと顔の向きを変えて前方をまっすぐ見つめた。先ほどピンクに染まった頬が、憤りの赤みを隠してくれることを願った。なんて堅物なのか! しかも、礼儀知らずの堅物だ。堅物というのは、少なくとも礼儀作法には注意を払うものではないのか? それが彼らの唯一の長所なのに。
〝この人は、自分のことをほかの客人よりも上だと思ってるんだわ〟ジュリエットは思った。〝少なくとも、わたしよりは上だと〟
よくわかった。ナイトリー夫人が何を意図していたにせよ、ジュリエットは夫を見つけるためにドンウェルアビーに来たわけではない。世の中のことをもっと学ぶために来たのだ。これまでのところ、若い男性はとてもハンサムであると同時に、非常に無礼にもなりうるということを学んだ。
ジョナサンは誤った思い込みをしていた。
彼にはしょっちゅうそういうことがあった。ときどき、家族以外の人々はまったく別の種族ではないかと思えることもあった――大プリニウス(古代ローマの将軍・博物学者。大百科全書『博物誌』㊲巻を編み、古代科学知識を集大成した)が『博物誌』に描いた、足がうしろ向きに生えた滑稽な人間のように。母親と父親、弟たちとなら――ペムバリーの使用人たちとでさえ――それほど会話に苦労はしないのに、ほかの人間との会話がこんなにも難しいのはなぜなのだろう?
幼い頃は、顔なじみの愛する人々だけに囲まれて過ごした。そのなかには、彼を溺愛する年配の使用人たちや、近くの町、ラムトンの少数の人々も含まれていた。人と会話をするには、まず誰かに紹介してもらう必要があるが、子ども時代の家庭という温かな聖域では、紹介が必要な見知らぬ人はほとんどいなかった。いずれその聖域を離れ、学校に行かなければならないことに、ジョナサンは漠然とした不安を感じていたが、父親はそうした不安を抱くのはごく普通のことだとジョナサンを安心させた。父親によれば、学校の仲間は兄弟と変わらぬほど親しくなれるということだった。
ところが、実際には、学校は苦痛の種となった。見慣れない顔、新しいスラング、不明確な上下関係――そのすべてが彼を当惑させ、不安にさせるために存在するかのようだった。それを察したほかの生徒たちは、ジョナサンには際限なく責め苦を与えてもかまわないと考えた。彼はできるかぎり頭を低くし、教師――ジョナサンがどう関わればいいのか理解できる唯一の人物――に認めてもらえるように勉学に励んだ。
両親は、翌年には状況がよくなるはずだと言った。そして、大学ではもっとよくなるだろう、と。実際にオックスフォードでは多少はよくなった。最悪だったいじめが、大学では幼稚と考えられるようになったのが大きかった。しかし、ジョナサンは相も変わらず見知らぬ人々とどう話せばいいのかわからないままだった。
だからこそ、ルールが重要だった。
社交界にはルールがある。規則は確実で堅固で不変のものだ。ジョナサンが独学で身につけたダンスのステップと同じように。そう、他人はジョナサンのことを……堅苦しいと、あるいは冷たいと思うかもしれない――もし彼がその境界からはみ出した会話を頑なに拒否したら。でも、ばかげているとは思われない。他人は彼を誤っていると言うことはできない。ルールに従っているかぎり、ジョナサンは安全なのだ。
彼はティルニー嬢――かなり美しい若い女性――と良い形で知り合うべく、ルールに頼った。そのルールは、彼女がジョナサンの腕を取る瞬間をやりすごす手助けにもなった。彼は知らない人に触れられるのが好きではなかったが、少なくとも、これは予想されていたことであり、接触に備えて心の準備をすることができた。ところが、ふたりが接触したとたん、ティルニー嬢はルールを逸脱し、ジョナサンを狼狽させたのだった。彼は慣習的な時機と表現手段という安全地帯に、ふたりをそっと戻そうとした。ところが、ティルニー嬢の頬の赤みから判断するに、ジョナサンは彼女を怒らせたようだった。誰かを怒らせてしまう恐怖よりも悪いことはただひとつ、すでに誰かを怒らせてしまったという自覚である。こんな状態で、いったいどうやって食事が終わるまで乗り切ればいいのだろう?
一回の食事だけではない。ジョナサンは自分に釘を刺した。一カ月だ。しかも見知らぬ人々に囲まれながら。ここに来るまえは、同じ年頃の若者ではなく、両親と同年代の人々と過ごすほうがやりやすいかもしれないと思っていた。昔からおとなと関わるほうが気楽にできたからだ。しかし、これまでのところ、彼はいつもどおり惨めに感じていた。これから始まる長い時間――緊張を強いられるおしゃべり、じわじわと迫る恐怖、胃の締めつけのせいで消化できない美味しい食べ物――を、憂鬱な気持ちで迎えることになった。
会話とは両隣りの席の人となされるものである。全員に向けられた少数の発言をのぞき、テーブルを挟んで行なわれることはない。そんなわけで、ジョナサンは非常におしゃべりな人たちのあいだに坐りたいと願った。経験上、おしゃべりな人が相手なら、うなずいたり、たまに同意のことばをつぶやいたりするだけですむと気づいていた。不思議なことに、両親に向かって、ジョナサンのことをこの上なく好意的に評してくれるのは、そんなおしゃべりな人々だった。両親はその賛辞をジョナサンに伝えて、今後もそれと同じことを――彼が何をしたにせよ――するようにしなさいと暗に勧めた。ジョナサンは、その賛辞の矛盾について両親に説明していなかった。というのも、まず彼自身その点を理解していなかったからだ。往々にして人間とは、人に話を聞いてもらうことほどには、人の話を聞くことを好まないようである。
残念ながら、ジョナサンはこの日の夕食では、穏やかに話すウェントワース夫人と取り澄まして無口なバートラム夫人のあいだに坐ることになった。長く気まずい食事の時間になりそうだった。
ところが、最初に蓋つきの鉢入りスープがテーブルに並べられるやいなや、執事があたふたした様子で姿を現した。「ナイトリーさま――紳士がおひとり、お会いしたいといらしておりまして、サー」
ナイトリーが眉根を寄せたのも無理はない。「ずいぶんとめずらしいことだな、グリーン」
「おっしゃるとおりです、サー」執事はこのまま話を進めるよりは炎に包まれたほうがましとでもいうような顔をしていたが、背後をちらちらと見るそぶりから、執事には選択の余地がほとんどないらしいとわかった。「そう申しあげましたが、どうしてもとおっしゃるのです」
「いかにも、そのとおり」男性の声がして、暗闇から謎めいた人影が食堂の敷居まで進み出た。「どうしてもとお願いしましてね」その人物は執事が戻ってくるのを待ちもせず、強引にはいり込んでいた。ただならぬ無礼な行為だ。ジョナサンはちらりと父親を見た。父親もまた、ジョナサンに負けないくらい無礼を嫌っている。
ところが、父親の顔には侮蔑も不愉快さも浮かんでいなかった。父親は……激怒していた。一方、母親の顔は真っ青になっていて、ジョナサンは母親が気を失ってしまうのではないかと思った。
その男性ははっきり見えるほどまえに出てきた。ジョナサンの父親と同じくらいの年齢で、華やかな――華やかさを通り越して、けばけばしいほどの――衣服に身を包んでいた。顔には陰気な笑みをかすかに浮かべている。ジョナサンは隣りの席のアン・ウェントワースがテーブル越しに夫の注意を惹こうとしていることに気づいた。彼女の夫、ウェントワース大佐は、彼自身の憤怒の熱でかっとなっているように見えた。
気のせいだろうか。ジョナサンは思った。どうもこの男性は……どことなく見覚えがあるような?
男性が笑みを深めた。「おやおや。このテーブルは知人に事欠かないようだ。またお会いすることになるとは、なんたる幸運でしょうか」
何人かが驚いてあたりを見まわしたが、ジョナサンの父親は軽く頭をさげ、純氷のような口調で言った。「ごきげんよう、ウィッカムさん」
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