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きっと、あなたのための本──『ザリガニの鳴くところ』レビュー(梅田 蔦屋書店・河出真美)

原書が700万部を突破し、2019年アメリカで最も売れた本となった、ディーリア・オーエンズ『ザリガニの鳴くところ』。いよいよ、本日発売です。
「気になるけど、どんな本かな?」と思っている読者のみなさまのために、梅田 蔦屋書店の洋書コンシェルジュ、河出真美さんによるレビューをお届けいたします。

北上次郎さん(書評家)による「勝手に文庫解説」先行掲載
友廣純さん(翻訳家)による訳者あとがき
本文冒頭試し読み

河出真美(梅田 蔦屋書店洋書コンシェルジュ)

あなたがディーリア・オーエンズ著『ザリガニの鳴くところ』邦訳版を今、手に取っているところだと仮定しよう。この本は美しいイラストに彩られて全国の書店に並んでいるはずだ。なんとなく手に取ってはみたものの、あなたはこの本を読もうかどうか決めかねている。なぜ? 理由はいくつかある。

ディーリア・オーエンズって誰? とあなたは思うだろう。世界的に有名な作家かな?

カズオ・イシグロやマーガレット・アトウッドみたいな文学系、あるいはスティーグ・ラーソンとかユッシ・エーズラ・オールスンみたいなエンタテインメント系? そして「ディーリア・オーエンズ」でグーグル検索をしてみる。あなたの手間を省いてあげよう。一番上に出てくるのは『カラハリ―アフリカ最後の野生に暮らす』という本のアマゾンページだ。日本で出版されたのは1988年で、その年に出版された他の多くの本と同じく、既に品切れだ。野生動物のフィールド・リサーチのためアフリカに向かった2人の若き学生たちの記録であるらしい。

たぶんこれは同姓同名のちがう人の本だな、とあなたは思うかもしれない。だが実は、『カラハリ』は、まちがいなく『ザリガニの鳴くところ』の著者、ディーリア・オーエンズが書いた本なのだ。彼女は先に述べた若き学生たちの1人であり、野生動物の研究者だった。公式ホームページによれば、アフリカで23年間、ライオン、ハイエナ、ゾウなどの研究を続け、アメリカに帰国した後はグリズリーやオオカミなどの保護活動に携わっていたという。研究の成果を『カラハリ』のようなノンフィクションの形で本にしたことはあれど、小説を執筆したことはなかった彼女が2018年、70歳近くになってから初めて出版した小説が『ザリガニの鳴くところ』なのである。

じゃあこれは自然についての本なの? あなたは思うだろう。答えは、ある意味ではイエスだ。物語の大部分は湿地で展開する。瑞々しく描かれたこの美しい土地はこの小説の舞台であるだけでなくもう1人の主人公と言ってもいいだろう。主人公カイアはこの水と緑と動物たちの豊かな世界をよく知っている。彼女にとって湿地は全世界に等しい。慣れ親しんだ家から母が消え、きょうだいたちが消え、暴力的な父親とふたり取り残された後も、湿地は変わらずそこに在った。貝や魚など生活の糧になるものを与えてくれた。恐ろしい孤独に苛まれ、それでも、カモメたちを友として、ボートを自在に操りながら、彼女は湿地で育った。外の世界に助けを求めるべきかもしれないという考えが頭に浮かんでも、彼女はこう言って打ち消す。「だめよ。カモメやサギや、この小屋を置き去りになんてできないわ。わたしの家族はこの湿地だけなんだから」。

そうやって、学校にも通わず、頼ることのできる親も持たずに育ったカイアはやがて、兄の友人だったテイトにその孤独をいやされていく。彼はカイアに読み書きを教える。読むことを覚えたカイアが、幼いころに別れたきりで愛称しか知らなかった家族の本当の名前を知る場面は感動的だ。彼女は本を読むことを覚える。心をいやすように詩を読み始める。そうやって自分の世界を広げてくれたテイトにカイアは惹かれていく。しかし待っていたのは別離だった。ふたたび孤独な生活を余儀なくされたカイアの前に、近くの村の青年チェイスが近づく……

物語の冒頭で明らかにされているのは、チェイスが死んだということだ。彼の死に関わりがあるのでは、と疑いの目を向けられたのはカイアだった。

ストーリーをここまで知っても、これは恋愛小説なのかミステリーなのか、孤独な少女の成長譚なのか、青春小説なのか、どうにもわからない、とあなたは思うかもしれない。この物語はそのすべてである。湿地が、水であり緑であり、貝であり鳥であるように、そのすべてであることが豊かさを生んでいるように、この物語もまた、それらすべての要素を含んでいて、だからこそ豊かな物語になっているのだ。

あなたが今、この本を読むか読まないか、棚に戻すかレジに持って行くかの瀬戸際にいるとしよう。どうかもう少しだけ私の言うことを聞いてほしい。『ザリガニの鳴くところ』という一風変わったタイトルについて、語りたいことがある。このタイトルは原題のWhere the Crawdads Singそのまま(余談だが、この小説のヒットにより、オンライン辞書、メリアム・ウェブスターではcrawdad(ザリガニ)という単語の検索数が1200%増加したという)だが、その意味が「茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きてる場所」(p155)だと語られる場面が作中にある。この物語のタイトルとしてこれ以上にふさわしい言葉はないだろう。カイアにとっての「ザリガニの鳴くところ」はまちがいなく、彼女を育んだ、この荒々しく豊かで美しい、彼女そのもののような湿地であった。ここでしか生きていけないという場所で、あるがままに生きていく。これはその願いを叶えるために戦った1人の人間の物語である。たとえ親きょうだいに捨てられ、学校にも行けず、ひとりぼっちで野生の自然に育った孤独な少女でなくとも、もし彼女と同じ願いを抱く人であるなら、これはきっと、あなたのための本であるはずだ。
 

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ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ
ディーリア・オーエンズ/友廣純訳
四六判並製 本体1900円+税 
早川書房より本日発売

みんなにも読んでほしいですか?

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