そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第34章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行しました。

刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開しています。連載は、全36回予定。

本日は第34章を公開。

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そして夜は甦る』(原尞)

34

 離婚したばかりの二人だけは、沈黙を守っていた。佐伯直樹は何か自分の考えにふけっており、名緒子は初めて聞いた録音テープのことで怪訝な顔をしていた。更科夫妻と弁護士たちが口を開けたときと同じように唐突に口を閉じた。更科氏があくまでも紳士的に訊ねた。「沢崎さん、そんな必要があるんでしょうか。娘たちがすでに離婚した今になって」
「必要がなければ、ご希望に背いてまでこんなことは言い出しません」
 更科氏は視線を移した。「韮塚君、テープの準備がしてあるのですか」弁護士を咎めるような口調だった。
「いや……ええ。実は事務所を出る直前に、彼が電話をよこしたのです。そして、必ずテープを聴くような状況になるから、再生装置と一緒に持って来いと言うんですよ。私は厳重に抗議したんですが──」
「分かりました」と、更科氏は言った。「名緒子、聞いての通りだ。私たちは電話の録音をおまえに聞かせるに忍びなかったので、要点だけを伝えた。あのテープの会話は私も二度と聞きたくないし、佐伯君も人前で再生されるのは不本意だと思う。しかし、あれはおまえに宛てられたものだから、おまえが聞きたければ再生してもらうことにしよう。どうする?」
「そういうものがあったんですの」と、名緒子は熱のない声で言って、佐伯を振り返った。佐伯は相変わらず考えごとに没頭していて、彼女の視線に気づかなかった。彼女は私に視線を移した。「いまさら、そんなテープを聞いても仕方がありませんし、誰もが不愉快な思いをするだけでしょう……」
「何の関係もない事件の犯人にされながら、釈明の機会も与えられずに病院のベッドに横たわっている者に較べれば、さほど不愉快なことではないでしょう」
 佐伯が顔を上げた。「名緒子。電話のテープを再生してもらって、沢崎さんの話を聞いてみよう。ぼくとしても、惣一郎さんを冤罪で裁くようなことは絶対に避けたい」
「でも、沢崎さんは母のことを──」
「わたくしのことは大丈夫よ」と、更科夫人が機械的に言った。「韮塚さん、録音テープをかけて下さい」
 韮塚は更科氏の意向を確かめた上で、ワイン色の革のアタッシュ・ケースからソニーの小型テープレコーダーを取り出した。彼がテープレコーダーのスイッチを入れると、すぐに佐伯と韮塚のぎごちない挨拶が聞こえて来た。
《それで、珍しく私に電話してきたのは、一体どういう風の吹き回しかな。用件を聞こう》
《更科家のお抱え弁護士としてのあなたに用があるんですよ。明日の夜九時に、ぼくは田園調布の更科邸に行きます。名緒子との離婚届を持参します。ぼくの印鑑はすでに押してある。そこで、名緒子にも離婚に同意させて印鑑を押させる。あとは、専門家のあなたにお願いすればいいでしょう? 慰謝料は五千万円──その旨、名緒子に通達していただきたい。必要とあれば──》
「そこまでで結構」と、私は言った。
 韮塚が慌ててテープレコーダーのスイッチを切った。客間の中が静まりかえった。佐伯と名緒子は、私がテープの中のどの言葉を再生させたかったのかを理解したように見えた。更科夫人の顔に危惧の色が濃く浮かんでいた。
「名緒子さん、私の言いたいことはお解りですね」と、私は言った。
「ええ、でも……それにどんな意味があるんですの?」
「まず、気づいたことを言って下さい」
 名緒子は助けを求めるように佐伯と更科夫人を順に見た。しかし、二人は彼女の言葉を待っていた。
「主人は……佐伯は、慰謝料を払えとは言っていませんわ。韮塚さんや母がこれを聞いて、佐伯が慰謝料を要求していると思い込んだのは無理もないけど……佐伯のほうがわたしに五千万円を払ってくれるのだとは、誰も考えてみなかったのかしら」
「そんなことは無理な話ですよ、名緒子さん」と、韮塚が抗議した。「佐伯君が自分が払うんだとはっきり明言していれば別だが……いや、たとえそう聞いたとしても、私は信用しなかったでしょう。第一、彼は五千万円などという大金を持っていますか」
「皆さんは佐伯をご存知ないわ。彼がこういう言い方をするときは──」名緒子は急に口を噤んで、別れた夫を見た。
 佐伯は否定するような気配もなく、苦笑していた。
「探偵さん」と、韮塚が言いつのった。「それについて、先刻隣りの書斎で、更科夫人と佐伯君の間でどんな会話が交わされたかを、きみは知らない。夫人が「更科家としては慰謝料は一文も払うつもりはありません。でも、かつては更科家の一員だった者が生きていくために恥ずかしくないだけの資金が必要とあれば、無利子・無催促で五千万円でも一億円でもお貸しします」という提案をされたとき、彼は「そういうことで結構です。いずれご相談にうかがうかも知れない」と答えている。それでも、きみは佐伯君が五千万円をもらうつもりはなかったって言うのかね?」
「ベンツのときと今では事情が変わったからだ」と、私は言った。「別れる妻に慰謝料を請求する男──これは佐伯さんのイメージに合わない。佐伯さん、あなたは昨夜なぜ辰巳玲子を新宿署にお呼びになったのです?」
 急に話が変わったので、佐伯は面喰らった。「どういうことですか。やけに不粋な質問をなさるんですね。今夜ここでぼくたちが何の手続きをしたのかご存知でしょうに」
「あなたは以前にもたびたび名緒子さんと別れようとして、彼女の辛抱強い反対にあっているが、辰巳玲子のことを持ち出したことは一度もなかった。もし、あなたに別に好きな女性ができたのなら、名緒子さんはいつまでも反対などしていなかったはずだ。にもかかわらず、です。それが急に昨夜のようなことになったのは、ほかにもっとロマンチックならざる、何か急を要する理由があったからではありませんか」
「では、なぜぼくは彼女を呼んだのです?」と、佐伯が反問した。彼はむしろ、私がどこまで知っているのか確かめることを愉しんでいるように見えた。
「あなたは監禁された日の午後二時頃、中野の〈ルナ・パーク〉という喫茶店で彼女に会った。そのとき、あなたは近々大金が入るので、彼女と両親に日頃世話になっているお礼に何かプレゼントをしたいと言っている。手に入る大金の額は五千万円だとも話している。あなたが早急に彼女に会いたかったのは、そのことを口止めしたかったからではありませんか」
 佐伯は微笑した。「沢崎さん、あなたはなかなか想像力の豊かな探偵さんですね。ぼくはそんな話を辰巳玲子にした憶えはないし、彼女もそんな話は聞いたことがないと証言するでしょう。しかし、仮にそうだったとすると、一体どういうことになります?」
「何のことはない」と、韮塚が口を挟んだ。「佐伯君、きみはやはり慰謝料の五千万をもらうつもりだったので、その金が入ることをその女性に漏らし、プレゼントを約束した。それだけのことじゃないか。話の辻褄も金額もぴったり合っている」
「そうも考えられる」と、私は言った。「だが、離婚の慰謝料でほかの女にプレゼントを約束する男──これも佐伯さんのイメージに合わない。佐伯さんは更科邸で五千万円を慰謝料として支払い、辰巳玲子にはそれとは別の五千万円からプレゼントを買ってやるつもりだったのかも知れない」
「仮定の話としても、なかなか裕福になった気分ですよ」と、佐伯は皮肉っぽく言った。
「その仮定が事実なら──」と、仰木弁護士が言った。「佐伯君は合計一億円の金を入手するつもりだったことになる」
「佐伯さんにもう一つお訊きしたいことがある」と、私は言った。「あなたは監禁される前日の夜、記憶を取り戻させるためと称して狙撃事件の容疑者、諏訪雅之を府中・八王子方面に連れ出し、一晩中引きずりまわしている。慎重な彼の注意力をにぶらせて、彼を尾行するつもりだったに違いない。どうしてそんなに急に諏訪の住所を押さえておく必要が生じたのか。それは、曽根善衛たちが一億円と引き換えに、怪文書事件の口止めだけでなく、狙撃者の名前と潜伏先を要求したからだ。あなたがもしその一億円を証拠に曽根善衛と首謀者を告発するつもりなら、何も狙撃者の本当の名前や住所を教える必要はない。警察が彼らを拘束するまでの時間さえ稼げればそれで十分だから。しかし、一億円を自分の物にするためには、狙撃者に関する正確な情報を彼らに与えて、彼らの同類になるほかはなかった」
「それこそ佐伯君のイメージに合わんよ」と、仰木が大きな声を出した。「彼らを脅迫して得た金で、離婚の慰謝料を払い、別の女にプレゼントを買ってやるような、そんな男だと言うのかね、佐伯君が」
「少なくとも、妻からもらった慰謝料で別の女に贈り物をするよりは、ましだ。脅迫であれ何であれ、彼が自分の手で稼ぎ出した金には違いない」
「おれの弟もかなり佐伯君という人間を見損なっているが、探偵さん、あんたはそれ以上だな。一億の金は確かに大金だが、彼にとってはそんな後ろ暗い金を懐中にするより、怪文書事件の真相や狙撃事件の真犯人との接触を公表して、ジャーナリストとしての成功を考えたほうが遙かに意味があるはずだ」
「まァ、待って下さい」と、佐伯が仰木を遮った。「ここまで来たら、沢崎さんの話を最後まで聞きましょう。沢崎さん、もしあなたのおっしゃる通りぼくが一億円を自分の物にするつもりだったとしたら、一体どうなるのです?」
「水曜日の午後、あなたと更科夫人はベンツの中で話し合いをしておられる。そのとき夫人が一番知りたかったことは、あなたが計画通り神谷会長を告発してくれるかどうかだった。だが、直接それを訊くわけにはいかない。取り敢えず、その夜の名緒子さんとの離婚の件を話題にした。慰謝料の五千万円は請求されているものだと思い込んでいたので、名緒子さんの気持を考え、母親として何とかしてやりたいと思っていたのでしょう。夫人は裏でそれ以上の金額を払ってもいいから、娘の前ではそういう要求をしないように頼んだ。そこまでは、たぶん夫人がおっしゃった通りに話が進んだのでしょう。そこから先が実際は少し違っていたのではないですか。佐伯さん、あなたは五千万円の慰謝料は自分がもらうのではなく、払うのだと答えた。夫人は大変なショックを受けたに違いない。その一言で、あなたには神谷会長を告発するつもりがないことが判ったからです。夫人としては、〈東神〉の実権を取り戻すという全く別の目的で一億の金を支払ったのに、あなたはその金を自分の物にした上で、その半分を名緒子さんへの慰謝料として、更科家に突きつけるつもりなのだ。ということは、神谷会長は依然として東神の会長であり続け、しかも会長の弱みを握っていると誤解しているあなたが、今後どういう行動に出るか予測もつかない。夫人の計画は滅茶苦茶になろうとしている……方法は一つしかなかった。佐伯さん、あなたを監禁することです」
 私は更科夫人を振り返った。彼女の顔色が変わっていた。
「そう考えるほうが、あなたの弟さんを首謀者にするよりも筋が通りませんか。彼が首謀者だとすると、最初あまりにも素直に一億円を払おうとしたことも不自然だし、正体を知られて一日半も経ってから佐伯さんを監禁したことに至っては全く不可解です。だが、あなたが首謀者だとすると、一億円の支払いに積極的だった理由も説明がつくし、ベンツでの話し合いの直後に佐伯さんを監禁せざるをえなくなった事情も納得できる」
 更科夫人は不意の闖入者でも見るように私を凝視していた。小刻みに震える唇は堅く閉ざされたままで、ついに反論も抗議の言葉も出なかった。
 仰木弁護士が沈黙を破った。「法廷で検事の巧妙な罠に引っかけられたような気分だが……探偵さんの言うことは本当なのかね?」その問いは佐伯に向けられたものだった。
「ぼくに関することは沢崎さんのおっしゃる通りです」と、佐伯は素直に答えた。「ぼくは惣一郎さんが首謀者であることを信じて疑わなかったので、お義母さんとのベンツでの会話にそんな意味が含まれているとは想像もしなかった。言いわけになるが、一億円を自分の物にしようとしていたことを敢えて隠すつもりはなかった。この邸へ来るまでは、そのことも含めて、なぜ五千万円の慰謝料が払えなくなったか説明するつもりだった。ところが、さっき書斎でお義母さんは先手を打って、ぼくがあたかも慰謝料をもらうつもりだったように振る舞われた。その理由は、ぼくには支払能力がないと見越して、更科家の体面や名緒子の気持を傷つけない離婚の手続きに協力するよう、あんな提案をされたのだと思っていた。ぼくとしては、支払うべき五千万円もないし、昨夜新宿署で名緒子が離婚に同意した以上、そんなことはどうでもよくなった。そして、未遂に終わったぼくの一億円奪取を誰も問題にしないのなら、自分から申告する必要もないだろうと思っていた……しかし、惣一郎さんの容疑が不確かになった今、ぼくが一億円を私しようとしていたことが真相究明の鍵になるとすれば、そのことを隠すつもりはありません。沢崎さんのおっしゃる通りで、ぼくはベンツの中でお義母さんに、慰謝料はぼくが払うのだと高言しました」
 その部屋にいる者はみな更科夫人に視線を注いだ。彼女の動揺は極限に達していた。
「わたくし──」彼女は弾かれたように立ち上がった。「少し気分が悪いので失礼させていただきます」
 更科夫人は心許ない足取りで客間を出て行った。更科氏が「失礼」と言って、妻のあとを追った。
 私はソファから立ち上がり、ルオーの油絵の前に移動した。
「佐伯は罪になるのですか」と、名緒子が仰木弁護士に訊ねた。
「さァ、微妙なところだな。法的には佐伯君の罪は彼の心の中の問題で、物的証拠もないし、いったい誰が彼を告発するのかも分からない。夫人の証言があったとしても、彼が一億円を私するつもりだったのか、証拠とするつもりだったのか、判定はむずかしいところだね。結局、一億円には手も触れとらんのだし……」
「では、母と惣一郎兄さんのことは?」
「どうだろうか。もし、会長がこのまま何も証言せずに息を引き取って──失礼、縁起でもないが──夫人が法廷で争うとすれば、彼女の勝ち目は五分五分というところかな。しかし、会長が元気になって自分は潔白だと主張すれば、夫人はぐっと不利になる」
「母はどうして惣一郎兄さんにこんなことを……」と、名緒子が悲痛な声で言った。部屋の中に、重苦しい空気が漂った。
「ここだけの話だが──」と、仰木が言った。「夫人がお父上と結婚される少し前のことだったと思う。彼女が故・惣之助氏に激しいヒステリーを起こして、「惣一郎が生まれて、お父さんが跡継ぎができたと大喜びをした日には、自分の母は末期癌の症状と、惣一郎の母親への嫉妬に苦しみながら死の床にあった」とくってかかるのを、ドアの外で聞かされたことがある……それがまた、母親の違う惣一郎さんに対する夫人の偽らざる感情だったのかも知れん」
 客間のドアが開いて、更科氏が戻って来た。「仰木弁護士。それに、韮塚君。家内のことで相談があるので、私の書斎へおいで願いたい。私は沢崎さんたちにちょっと話があるので、先にお願いします」
 双子の弁護士は鞄を手に取って、書斎へ通じるドアから出て行った。
「家内の惣一郎君に対する企みには、私が気づいて何とかすべきでした」と、更科氏が力のない声で言った。「沢崎さん。正確な日時までは分かりませんが、この数年のうちに家内が用途不明の多額の出費をしたことが何度かあったと思います。私の記憶では、曽根重役を辞めさせた頃や都知事選挙の公示の頃とほぼ一致しているようです。そして、先週の火曜日に、惣之助氏の骨董や自分の宝石の一部を手放して、一億円の現金を作ったことは確かなのです。私はいずれの場合も、家内の「どうしても断われない寄付の依頼があったから」という返事を鵜呑みにしてしまった……沢崎さん、警察よりも先に私たちに話していただいたことを、深く感謝しています。今夜はこれで失礼させて下さい」
 更科氏は書斎へのドアの前で立ち止まった。「名緒子。お母さんは鎮静剤を服んで横になっているから大丈夫だ」と言い残して、彼は部屋を出た。
 離婚した二人と私だけが客間に残された。私はソファに戻って、三本目のタバコに火をつけた。佐伯もタバコをくわえた。「沢崎さん、諏訪雅之は依然として行方不明なのでしょうか」
 私は、そうだと答えた。
「どうしているのか、今はなぜか無性に彼に会いたい……」
「佐伯さん、差し支えなければ一つ訊きたいことがある」
 彼は私の質問がすでに判っていた。「それは、非常に私的な問題に関わるので、よろしければ勘弁願います」
 名緒子が元の夫を振り返った。彼女の顔にはただならぬ驚きの表情が浮かんでいた。
「是非にとは言わない」と、私は言った。「神谷会長が銃弾を受けた経緯をまだ詳しくはご存知ないだろうが、彼はあなたを救出するつもりで、拳銃を持った男に飛びかかって行ったのです。私が彼以外にあなたを監禁した人物がいるのではないかと考えたのは、それもあった。その行為が、彼のあなたに対する気持を表わしている。ところが、あなたの彼に対する気持は一体どういうものです? 惣一郎氏が首謀者だと思ったとき、彼を告発することを放棄して、脅迫者に成りさがろうとしたのは何故です?」
 名緒子の眼にいきなり涙が溢れた。声を出して泣くことはなかったが、止めどなく涙が流れた。
「彼を兄のように思っていた……これでは理由になりませんか」佐伯は苦しげな表情で言った。
「告発をやめた理由にはなる。だが、脅迫者になる理由にはならない」
 佐伯は別れた妻に言った。「おまえはもう判っているみたいだな……沢崎さんに話しても構わないか」
 名緒子は黙ってうなずいた。
「三年前のことです」と、佐伯が言った。「ぼくが名緒子にプロポーズしたとき、彼女は少し考えさせてくれと答えました。彼女は気づかなかったと思うが、ぼくはかなりショックを受けていたのです。すぐに承諾してもらえるという確信のようなものがあったからです。結局、彼女はそれから五日後に承知してくれました。だが、動揺したぼくはその五日間彼女のあとを尾けまわしていたのです。真ん中の三日目、ぼくは名緒子が惣一郎さんに抱きかかえられるようにして、ある産婦人科の病院を出て来るのを目撃してしまった。新聞記者お得意の手段を使って、念のためにそこで何があったかを調べてみましたが、やはり想像した通りのことでした」
 名緒子は声が漏れないように掌で自分の口をおおった。
「──ぼくはそのことを忘れようとして名緒子との結婚生活を続けてきた。彼女は結婚しようと思えばできた惣一郎さんとではなく、ぼくと結婚してくれたわけですからね。でも、忘れようとすればするほど、かえってそのことにこだわっている自分をどうすることもできなかった。それを知っていたことを彼女に話すのは、今が初めてなのですよ……そして、この事件です。惣一郎さんが首謀者だと思ったときのぼくの気持が解りますか。彼を兄のように思っていたことも事実です。即座に、名緒子がかつて愛した人を告発する気がなくなったことも事実です。だが同時に、この世で最も憎んでいる男を、警察に引き渡す以上に苦しめてやりたいと考えたことも事実なのです……おそらく、そういうことがあったから、彼を首謀者と決めつけてしまったのでしょう」
 佐伯はタバコを消して、立ち上がった。「ぼくはこれで失礼します。今は辰巳玲子のアパートに厄介になっています。逃げも隠れもするつもりはないが、一億円の件で自首するつもりもありません。今は彼女のそばにいることが、ぼくにできる最良のことであるような気がしますから」彼は足音を立てずに、客間を去った。
 私はタバコを消して、名緒子の涙が止まるのを待った。やがて、彼女は放心したような声で言った。「これで、よかったと思うわ。あの人、他人の過ちは許せても、自分の過ちは許せない人だから……」
 私にも事情が解った。「中絶したのは、佐伯氏の子供だったのですね」
 彼女は手の甲を噛んで、うなずいた。そして、私の顔にあらわれた表情を誤解して、低い声で叫んだ。「どうして、そんなことをあの人に言えます!」
 彼女が気を鎮めるまで少し時間がかかった。「佐伯がプロポーズする前の十日ばかりのあいだ、わたしは彼に妊娠していることを話さなければとずっと思い悩んでいましたの。彼がプロポーズしたときに、何故それを言えなかったのか今でも解りません。気がついたら、返事は少し待ってほしいと答えていたのです。その夜一晩中考えて、あの瞬間に言えなかったのなら、もう永久に言えないような気がしました。翌日、わたしは惣一郎兄さんに相談していたのです。もちろん、兄さんは反対しました。おまえが言えなければ、自分が代わりに佐伯君に言ってやるって……わたしは、とっさに妊娠しているのは佐伯の子供ではないと嘘をついたのです。最後には、わたしは惣一郎兄さんを説得していました。子供を堕して普通の身体になって、彼のプロポーズを受けたかったのでしょう。それにしても何故こんなに屈折した反応をしてしまったのか、今でも信じられない気持です。五日目に彼のプロポーズを承諾したときは、これですべてがうまく行くと思いました……でも、やはり間違っていたのですね」 〈世田谷医療センター〉の神谷惣一郎に付き添うと言う名緒子を、私はブルーバードで送り届けた。途中、私たちは探偵料の清算のことを除いて、ほとんど言葉を交わさなかった。病院に着くと、彼女は今朝の私の事務所でのことを何か言おうかと迷ったすえ──私がそのきっかけを与えなかった──何も言わずに玄関へ向かった。
 私は新宿に戻るまで、愛情や真実や思いやりのほうが、憎しみや嘘や裏切りよりも遙かに深く人を傷つけることを考えていた。商売柄、喜びを分かち合えない者たちの離反を見るのは日常茶飯なのだが、苦しみもまた分かち合わなければ癒されず、むしろ増大するものらしい。真実を明らかにするより、敢えてほかの男との関係を疑われることを選んだ女の真情を、私は理解しようとしてみた。絶えずどこからか〝真実は告げられるべきだ〟という声が聞こえたが、私自身そんなことを信じてはいなかった。

次章へつづく

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