所有権の驚くべき真実を解き明かす! 『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』序章試し読み
リクライニングシートの攻防から土地争い、環境問題、はたまた戦争まで……「僕のもの!」「私のもの!」で世界は回っていると説くのがいま話題の新刊『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』(マイケル・ヘラー&ジェームズ・ザルツマン、村井章子訳、早川書房)。
早い者勝ちか? それとも労働の報いであるべきか? 「所有権」の驚くべき真実を解き明かす本書序章を、特別に全文試し読み公開します。
序章 誰が・何を・なぜ
「それ、私の!」この原始的な叫びは子供が最初に覚える単語の一つだ(注1)。子供たちはお砂場でのバケツを巡る英雄的な戦いでこの叫びを繰り返す。大人になると、所有権は誰も文句のつけられない当然の権利となる。何かを所有するとはどういうことか、誰でも知っている。たとえば新しく買った家、みんなに切り分けた後のパイの最後の一切れは、自分のものだ。これ以上わかりやすいことはない。
だがじつは、所有ということについて大方の人が持っている知識の大半は誤りである。
所有権のルールが実際にどんなものかを知ったら、自分がこれまで漠然と抱いていた所有権のイメージの裏でドラマが繰り広げられていることがわかるだろう。政府も企業もふつうの個人も、「誰が・何を・なぜ」所有するかのルールをのべつ変えている。そのたびに勝者と敗者が生まれる。歴史はそれを繰り返してきた。その根本にあるのは、人間社会の工夫である。食べ物や水であれ、金銀財宝であれ、あるいは結婚相手であれ、何によらず希少資源を巡って人間は対立する。それをいかに裁き、のべつ殺し合わずに済むようにするためにはどうしたらいいか、人間社会は苦慮してきた。
エデンの園の物語でさえ、所有権に帰結する。神はアダムとエヴァに知恵の木とその果実は神だけのものだと示唆した。「園の中央にある木の実は、取って食べてはいけない、触れてもいけない」と。だがアダムとエヴァは木の実を取って食べ、楽園を追放される。こうして人類の歴史が始まり、以来ずっと所有権争いが続いてきた。
ニー・ディフェンダー騒動
ジェームズ・ビーチは大柄な男で、身長は180センチ以上ある(注2)。ニューアーク発デンバー行きのユナイテッド航空機に乗り込んだビーチは、離陸後すぐに前席の背中についているテーブルを出し、ニー・ディフェンダーを取り付けた。これは「座席のリクライニングを防いで膝を守る」というかんたんなプラスチック製の固定具で、21.95ドルで販売されている。これをテーブルの支持部に取り付けると、前の座席はリクライニングができなくなるという仕掛けだ。ニー・ディフェンダーの販売サイトには「座席のリクライニングができないようにするので、あなたはもう膝を縮こめなくてよい」とある(注3)。ニー・ディフェンダーでスペースを確保したビーチはおもむろにノートPCを取り出した。
ニー・ディフェンダーは宣伝文句に違わず、前の座席のリクライニングを完全に不可能にした。前の座席の乗客は「背もたれを倒してくつろぎ、空の旅を楽しもうとした」が、背もたれはびくともしない。彼女は客室乗務員を呼び、乗務員はビーチに固定具を外すよう頼んだ。だがビーチは従おうとしない。激怒した女性は背もたれを激しく叩き、その勢いでニー・ディフェンダーが外れ、ビーチのノートPCは落ちそうになった。ビーチはすばやく背もたれを押し返してニー・ディフェンダーを再び装着する。女性は自分の飲み物をつかむといきなりビーチにぶちまけた。そこから先のことははっきりしない。ともかくも機長の判断で同機は行き先を変更してシカゴに緊急着陸し、二人を降ろしてからデンバーに向かった。デンバーには1時間38分遅れで到着している。
同じような騒動が頻発している(注4)。最近の出来事は動画で拡散された。ニューオーリンズ発ノースカロライナ行きのアメリカン航空機に搭乗したウェンディ・ウィリアムズは、さっそく座席をリクライニングした。ところが後ろの席の男性客は最後尾だったため、リクライニングができない。イラついた彼は、ヒステリーのメトロノームよろしくウィリアムズの背もたれを何度も押し返した。高高度で起きたこの悶着をウィリアムズは逐一撮影してアップロードし、ネット上で大いに話題になったものである。
こうした出来事が起こるたびにネット社会は盛り上がり、ひとりよがりの意見が飛び交う。誰もが自分こそは正しいルールを知っていると確信しているらしい。人気のトーク番組のホストを務めるエレン・デジェネレスは、リクライニング側に同情的だ。「誰かの座席を押していいのは、自分の膝が先に押されたときだけよ(注5)」。デルタ航空のCEOエドワード・バスティアンは反対の立場である。「望ましいのはリクライニングしていいか、事前に相手に聞くことだ」という(注6)。たしかにウィリアムズは事前に確認しなかった。
では、いったい誰が正しいのか?
ウィリアムズの言い分は単純そのものだ。自分の座席のアームレストには押ボタンが付いており、リクライニングできるようになっている。よって、自分の座席には背もたれを傾けるだけのスペースが許容されている。だからリクライニングのための空間は自分のものだというのだ。この主張の根拠は「付属」である(注7)。「あきらかに自分のものとわかっているものに付属するものはすべて自分のものだ」というこの言い分は古くから申し立てられてきたものの一つであり、数千年昔まで遡ることができる。
一方のビーチの言い分も「自分のものに付属するもの」ではあるが、ウィリアムズとは違う形だった。彼が拠りどころにしたのは、中世イングランドに伝わる「土地の所有権は、上は天国、下は地獄までおよぶ」という格言である。ビーチは、自分の座席の背もたれと前の座席の背もたれの間の垂直空間は、上部の荷物棚からカーペットの敷かれた足元にいたるまですべて自分の領域だと考えた。よって、この領域を侵すものは何であれ不法侵入であり、秩序を乱す闖入者である。
付属という根拠は、読者は聞いたことがないかもしれないが、じつはいたるところで耳にする。テキサスの土地所有者が地下に埋まっていた石油やガスを採掘できるのも、農場主が地下水を汲み上げてセントラルバレー一帯の地盤沈下を引き起こすのも、アラスカ州がベーリング海での漁獲量を制限するのも、この理屈に依拠している。「付属している」と主張することによって、二次元の座席や土地や領土が、三次元空間で希少資源を支配することになる。
だがビーチやウィリアムズの騒ぎで主張されたのはそれだけではない。どのフライトでも離陸時には座席の背もたれが「完全にまっすぐな位置に固定」してあるか、客室乗務員が見て回って確認する。その時点では、ビーチは自分の前の空間を独り占めすることができた。そして彼は先に固定具を取り付けた。所有権に関してもう一つの原始的で本能的な主張は、早い者勝ちというものである。子供たちは公園でこう叫ぶ。「ボクが先だったもん!」。大人はそれをお腹の中で叫ぶ。それからもう一つ思い出してほしい。ビーチはニー・ディフェンダーを取り付けてノートPCを開いた時点で、リクライニング空間を物理的に占有していた。この占有は九分の勝ち という主張も所有権に関してひんぱんに耳にする。
以上のようにリクライニングを巡る騒動は、付属(attachment)、早い者勝ち(first-in-time)、占有(possession)という所有権に関する三通りの主張を際立たせる結果となった。
インターネット上でニー・ディフェンダー問題の意見を募ったところ、はじめは大半の人が「わかりきっている」、「議論の余地などない」という態度だったが、私たちがさらに踏み込み、何通りかの主張を列挙して賛成・反対を送信するよう頼んだところ、意見はビーチ派とウィリアムズ派にみごとに割れ、どちらも反対側の意見を頭からはねつけた。
2020年にUSAトゥデイ紙が行った世論調査によると、半数が「リクライニングできるならする」と答え、半数が「何の断りもなくそんなことはしない」と答えた(注8)。だからこそウィリアムズは自分の座席が押し返される様子を動画に撮って投稿したのだし、ビーチは何の遠慮もなく前の座席がリクライニングできないようにしたのである。「私のものに手を出すな!」というわけだ。
なぜこのようなあさましい争いが今日多発するのか。かつてはリクライニングでこんな騒ぎが起きることはなかった。なぜならごく最近まで、座席の前後間隔はもっと広かったからである。リクライニングをするにも、テーブルを下ろして仕事をするにも、十分な空間が確保されていた。だから、リクライニングをするときのすこしばかりのくさび形の空間が誰のものかなど、誰も気にしなかったのである。だが航空会社はどんどんシートピッチを狭めてきた。さほど遠くない昔には90センチ近くあったのに、いまは80センチを下回っている。航空機によっては71センチしかないケースもある。
航空会社にしてみれば死活問題だ。1列につき3センチ縮めれば、全体で6席よけいに売ることができる。利益を増やすために航空会社はより多くの乗客を詰め込もうとした。その一方で人間の体格は年々よくなっているうえ、テーブルは軽食ではなく高価なコンピュータを支えなければならなくなる。それに、乗客にとっては命のかかる問題でもあった。パンデミックのときなど、間隔が3センチ縮まるたびに感染の確率は高くなるのだから。
ニー・ディフェンダーを発明したアイラ・ゴールドマン(彼のウェブサイトは騒動後にページビューが500倍に跳ね上がった)は、問題をこう簡潔に分析している。「航空会社は、Aに足を伸ばす空間を売る。Aの前の席のBには背もたれをリクライニングする空間を売る。つまり彼らは、一つの同じ空間を二人の人間に売っているのだ(注9)」。
そんなことをしていいのだろうか。
法律はこの点に関して沈黙している。連邦航空局(FAA)は2018年に航空機内の座席規制を求める要望を却下し、各社に委ねた。そこで航空会社は、どの便でも同じ空間を二度売るという荒技に出る。彼らには戦略的曖昧さという秘密兵器があった。これは要するに、くさび形のリクライニング空間の所有権を意図的にぼやかしておくという高度な技である。
ほとんどの航空会社はルールを決めている。リクライニング・ボタンが付いている席の乗客は、リクライニングしてよい。しかしそのことをわざわざはっきり言ったりはしない。客室乗務員はリクライニングできますなどとアナウンスしないし、よほどのことがない限りリクライニングをやめてくださいとも言わない。
この曖昧さは、航空会社にとって好ましい方向に働く。というのも、所有権がどうなっているのかはっきりしない場合(そういうケースは読者が思うより多い)、乗客は常識に従い礼儀正しくふるまうからだ。航空会社は長い間このエチケットを頼りにリクライニング空間に関する曖昧さを浸透させてきた。デルタ航空のバスティアンが支持したのもまさにこれである。要するに航空会社は争いの決着を乗客に任せたわけだ。そこで乗客は、日々繰り返されるちょっとした小競り合い、たとえば共有のアームレスト上で肘があたった場合や頭上の荷物棚に収まりきらない場合などに、うまく決着をつけなければならなくなった。こうした場合に金銭で決着をつけることはまずない(それでもある調査によると、後ろの客に飲み物かスナックをおごってもらった場合、前の客の四分の三はリクライニングを控えるという(注10)。
航空会社がシートピッチを詰めるにつれて、リクライニング空間を巡る暗黙のルールはたびたび破られるようになる。空間がどちらのものかについて共通の理解が存在しなくなり、空間の希少性が高まったことも相俟って見解の相違が鮮明になると、相手の見方はとうてい容認できないと双方が考えるようになった。このようにすでに存在した諍いの種を、ニー・ディフェンダーは顕在化させたと言える。ゴールドマンは所有権に関する曖昧さを商機と捉えて画期的な商品を開発したわけだが、しかし一方的に前の座席をロックする行為は礼儀に反する点が問題である。なんだか黙って人のものを取り上げるような感じがする。
ニー・ディフェンダーはくだらないアイデア商品に見えるかもしれないが、そこには現代社会においてイノベーションを牽引する偉大な要因の一つが働いている(注11) 。価値のある資源が希少になると、人間は一段と激しくそれを争うようになり、自分に都合のいい所有権の解釈を相手に押し付けようとする。そこに起業家はチャンスを見つけるという成り行きだ。
アメリカでは1800年代に西部で所有権争いが展開された。農民対カウボーイの争いである。かつての西部では自由放牧が行われており、広大な大地を牛は自由に移動し、カウボーイが追い立てていた。しかし農民の西部移住が進むと、困ったことが起きる。大量の牛を市場に売りに出すとき、牛たちがしばしば農地を横切るのだ。農家の側にはこれを防ぐ手立てが何もなかった。「不法侵入禁止」の立て札を出したところで牛には読めないし、草原地帯には木がなく、柵を作るのは金がかかりすぎる。というわけでカウボーイたちは牛を追い立てながら他人の土地を遠慮なく踏み越えて鉄道の駅に行ったものだった。
そうこうするうちに、1874年にジョセフ・グリデンが画期的な発明をする。「当代最高の発明」と言われた有刺鉄線である(注12)。有刺鉄線はニー・ディフェンダーと同じく単純なものだが、牛の侵入を防ぎ、農場の境界をはっきりと示すうえで絶大な効果を発揮した。しかも安価である。グリデン有刺鉄線は「空気より軽く、ウィスキーより強く、ゴミより安い」という謳い文句で売られた。カウボーイたちは態度を硬化させ、有刺鉄線を切断する行為におよぶ。果ては銃が持ち出され、死者も出るという物騒な事態になった。1883年にあるカウボーイは「タマネギやジャガイモを育てているところでマスタングの仔馬を調教し四歳の牛を追い立てるなんて、じつに気色が悪い」と憤慨したものだ。だがこの戦いは農家の勝利に終わることになった。
グリデンの発明はグレートプレーンズをすっかり様変わりさせた(注13)。移住してきた農民たちは作物をがっちり守れるようになる。育てた牛を市場に運ぶ手段のない小さな牧場主は廃業し、カウボーイたちは大牧場に雇われるようになった。多くのネイティブアメリカンにとって、「悪魔の綱」と呼ばれた有刺鉄線は放浪生活の終焉を意味した。有刺鉄線は「不法侵入禁止」という形で所有権を主張する必須のツールとなったのである。この立入禁止の類の所有権の主張は、今日でもアメリカにおける生活の多くの場でみられる。
所有権を主張するための効果的な新技術の出現は、往々にして痛ましい結果を招く。グレートプレーンズでは死者を出すような境界争いを、高度一万メートルではすこぶる見苦しいリクライニング騒動を引き起こした。有刺鉄線が農民にとって牛を締め出す有効な手段となったように、ニー・ディフェンダーは乗客にとって前席のリクライニングを防ぐ安上がりな手段となった。どちらも、諍いの対象となった希少資源の所有権について、自分に都合のいい理屈を相手に押し付けるうえで絶大な効果があり、古い慣習を退場させ、新しいルールはどうあるべきかを巡って激しい議論を巻き起こすことになる。
だが有刺鉄線とニー・ディフェンダーには大きな違いもある。前者は農家の間に普及したのに対し、後者は航空会社に禁止された。航空会社は、リクライニング空間を二度売るやり方を続けることにしたらしい。
これとまったく同種の所有権問題が今日ではインターネットで勃発している。こちらはあまり目につかないが、飛行機の座席などよりはるかに重大だ。私たちのクリックストリーム、つまりウェブサイト上でのクリックの履歴は、プライベートな生活を逐一暴露する。何を買ったか、何をフォローしたか、どこに住んでいるか、誰に投票したか、等々。クリックストリームは自分のものだと思う人が多いだろう。
だが世界の大半の国でその所有権は明確に定義されていない。フェイスブック(Facebook)、グーグル(Google)をはじめとするいわゆるビッグテック(および暗躍するスパイ機関)は、所有権を主張して鍔迫り合いを演じている。彼らのトラッカー(情報追跡プログラム)は仮想の座席をリクライニングさせて私たちのプライベート空間に侵入してくる。そしてクリックの履歴に基づいて気味が悪いほど正確にプロフィールを構成し、それを活用して巨額の広告料収入を得るのである。
オンライン行動の管理に関して所有権の帰属をどう考えるべきかということは、現代における最重要問題の一つだ。欧州連合(EU)やカリフォルニア州などごく一部の地域では、市民にニー・ディフェンダーのインターネット版を与える試みが行われている。だが効果のほどは不透明だ。そもそもデータの所有権に関しては、これといった原則がまだ定まっていない。クリックストリームやニー・ディフェンダーにしても、また人々が希少資源の所有権を主張して目に見えない戦場で競っている諸々のことにしても、答えは出ていないのである。
「私の!」と「いや私の!」という争いの大半は視界に入らないところで起きており、まれにニー・ディフェンダーのような代物が登場して世間に醜態をさらすことになる。このようなときに得をするのは、所有権とは実際にどう役に立つかを知っている人間である。
《バナー下に記事は続きます》
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ある夜、マンハッタンのバーにたむろしていたジェナ・ウォータムと友人たちは、今晩これから何をしようか、という話になった。するとみんな、ケーブルテレビ局HBOの人気ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のシーズンプレミア(そのシーズンの第1回)を見たいという。しかしこの番組をストリーミング再生するには、サブスクリプション契約をしなければならない。ウォータムの友人の一人(マイケルとしよう)は契約していたが、みんなもう家に帰って自分の部屋で見たかった。
この問題は、かんたんに解決できる。ログインに必要な情報をマイケルから教えてもらってアクセスすればいいのだ。ウォータム自身、「メキシコ料理店で一度会ったことがあるだけのニュージャージーから来た男」にログインパスワードを教えてもらったことがあるという(注14) 。
この手の話はめずらしくも何ともない。他人のアカウントを使って人気の配信サービスの番組をストリーミング再生することは、いまや日常茶飯事だ。ただし、ウォータムはニューヨーク・タイムズ紙の記者だった。サブスクリプション契約者限定の番組を他人のパスワードで見ることがどんな意味を持つのか、彼女はよく考えなかったのだろう。あろうことか、その晩の愉快な(人によっては厚かましいというだろう)出来事を公表してしまったのである。
ウォータムは(タイムズ紙も)知らなかったが、これで彼女はコンピュータ詐欺・不正利用防止法(CFAA)違反を公然と認めたことになる。この連邦犯罪の処罰は、最長で懲役一年だ。たとえ他人のパスワードでログインすることが広く行われているとしても、HBOは利用規約でこれを明確に禁じている。フォーブス誌の記者がウォータムを弁護して、あれは「合法」だと言ったが、その認識はまちがいだ(注15)。CFAAに照らせばウォータムはまず確実に有罪である。だが、誰も気にしていないようだ──HBO以外は。
他人のパスワードを使って大勢の人が視聴していることを、みんな知っている。授業で「この中にコンテンツを不法にストリーミング再生したことのある人はいますか」と質問したら、学生(法学部の学生も)のほぼ全員が手を挙げるだろう。その半数は、自分のやっていることが違法とは知らなかったと弁解する(ほんとうだろうか)。残り半分は違法と知りつつやった、ということになる。これはれっきとした盗みである。こんなことを野放しにしておいてよいのだろうか。
まず一つ言えるのは、ストリーミング再生をしても盗みを働いているとは感じないことだ。パスワードを共有することは、店から『ゲーム・オブ・スローンズ』のDVDを盗むこととはまったく別だと感じられる。ウォータムと友人がDVDを万引きし、あとになってそのことをメディアで自慢するとは考えられない。
違法な再生と万引きの違いは捕まる可能性に帰結するのかもしれないが、それだけではないはずだ。というのもHBOは誰がコンテンツを再生したか、かんたんに突き止められるのである。現にアメリカレコード協会は、音楽ファイル共有サイトのナップスター(Napster)経由で誰が音楽をダウンロードしたかを特定し、一人ひとりを相手取って数百万ドルの損害賠償訴訟を起こしている(ナップスターも提訴され敗訴した)。だからHBOにしても、誰が再生したか容易に特定できる。だがHBOは見て見ぬふりをした。
私たちは子供の頃から他人のものをとってはいけないと教えられて育った。この教えは、脳の最も原始的な部分に根付いた本能と一致する。ブルドッグも鳥もクマも他の個体の縄張りに足を踏み入れてはいけないことを知っている。だが人間の本能は、無形物、たとえばアイデアについてはそうは感じないらしい。ある調査によると、「私の!」という言葉を小さな子供が発したとき、大人は「おもちゃか食べ物を誰かに取られたのだろうと考える。創作したジョークやお話や歌をとられたとはまず考えない」という(注16)。おそらくストリーミングも脳の最も原始的な部分を刺激しないのだろう。パスワードの共有が法的にも倫理的にも悪いことだと感じられないのはこのためかもしれない。
コンテンツの所有者にとってはとんでもないことだ。彼らはデジタルデータについての人々の感じ方を変えさせ、有形物と同じように扱わせようと努力してきた。かくしてDVDの冒頭にはインターポールからの不気味な警告が現れ、どの映画も最初に「著作権侵害は犯罪です」という表示が出る。だがさして効果を上げているとは言えない。「知的財産権」という言葉ですら、じつは戦いの一部をなしている。有形資産についての人間の直観的な所有権感覚に無形資産であるコンテンツも含めたいという顧客の要望に応えようと、著作権・特許・商標専門の弁護士たちがこの言葉を作り上げたのだ(注17)。弁護士たちは、原始的な本能が著作権を財産とみなさないことをよく知っていた。
コンテンツの所有者と利用者が繰り広げるバトルは、基本的には所有権争いである。デジタル財は無料で共有できるようにすべきなのか。たとえばコンサートで聴いたメロディを友人に歌って聞かせるように。それともデジタル財もマグカップやバイクと同じく財産であって、たとえかんたんに盗めるとしても法律や慣習や道徳で禁じるべきなのだろうか。いまのところ、どちらの側にも言い分があって決着はついていない。
コンテンツ所有者の言い分にはどんな根拠があるのだろうか。はっきり言えるのは、ニー・ディフェンダー騒動の際の直観的な根拠、すなわち付属、早い者勝ち、占有とは違うということだ。HBOは、やはり直観的に正当化できる別の根拠を持ち出してきた。それは、労働が所有権を正当化する、というものである。つまり、自分が蒔いた種は自分で収穫するということだ。
労働に報いるのはじつにもって正当だと感じられることが多い(注18)。だがこの主張は必ず争いの一方の側の肩を持つことになる。ファッション業界はこの主張に対する反例の代表格だ。ファッションデザイナーはみな互いの創作をコピーし合ってきた。オリジナルデザインに費やされた労働の成果は保護されない。デザインを真似るのは盗みではなく完全に合法である。現代の経済には、シェフのレシピ、スポーツの監督が編み出す戦術や技、コメディアンのネタなど数々の創造的な領域に小さな真空地帯があり、そこでは労働に所有権を与えて報いるよりも、活発な競争と自由なイノベーションを促すほうが重要だとされている。言い換えれば、他人が蒔いた種を収穫することが認められる。ファッションデザイナーの団体は自分が蒔いた種は自分だけが収穫できるようルールの変更を議会に毎年陳情しているが、これまでのところ成功していない。
対照的に音楽業界は、ロビー活動にかけてファッション業界より上手だ。彼らは音楽著作権の法制化に成功し、デジタル空間の楽曲も音楽業界の所有慣行に従わせている。音楽業界は法律を盾にとって、少なく見積もっても三万人以上を訴えるか、和解するか、訴えると脅してきた。大手レーベルにとってはまことに残念なことに、こうした活動は違法なダウンロードにとどめを刺すには至っていない。むしろ世論を敵に回す結果となっている。
HBOはこうした経緯を見守り、教訓を学んだ。テック系のブログサイト、テッククランチ(TechCrunch)によると、HBOの認識は「ストリーミング再生のためのアカウント共有はグレーゾーンである」らしい(注19)。そこで彼らは戦略的曖昧さを容認することにした。まさかと思うかもしれないが、盗みを奨励したのである。HBOの経営陣は、あなた(およびあなたの家族や友人)が無許可のストリーミングを平気でやっていることをちゃんと知っている。だが彼らは、これから顧客になってくれるかもしれない人たちを罪人同然に扱うようなことはしない。現にHBOはウォータムと友人たちを番組に出演させている。
HBOのCEOリチャード・プレプラーは、著作権侵害を後押しするようなこの戦略について、「これは次世代の視聴者を獲得するためのすばらしいマーケティング手法だ」と誇らしげに語っている(注20)。パスワードの共有によって「HBOのブランドをより多くの人が知るようになり、大好きになってくれることを期待している」というのである。インターネット上の発言では、プレプラーはこう付け加えている。「われわれのビジネスで重要なのは、できるだけ多くのファンを獲得することだ。製品、ブランド、番組をできるだけ多くの人の目に触れさせることによって、われわれはこの目的を達成しようとしている」。
競争相手も常識破りのHBOのこのアプローチに気づいており、ある程度まで追随している。たとえばネットフリックスのCEOリード・ヘイスティングスも「ネットフリックスをシェアするのは大歓迎だ。それは好ましいことであって、禁止したいことじゃない」と話している(注21)。ただしネットフリックスの場合、アカウントの使用は一度に一台のデバイスに限られる。
HBOとネットフリックスにとって、戦略の決め手となるのはウォータムのような若い視聴者である。彼らは悪いことをしていると(ちょっとだけ)知ってはいる。プレプラーもヘイスティングスも、こうした若い視聴者が、正規のサブスクリプション契約をたとえ今はしていなくても、とにかく番組や作品に熱中し病みつきになってくれることを願っている。そうなったら、彼らが長じて給料をもらうようになった暁には正規料金を払うようになってくれるのではないか、違法行為から足を洗ってくれるのではないか、と期待しているわけだ。
この長期戦略の成否はまだはっきりしない。プレプラーもヘイスティングスも、「知的財産は財産である」という所有権に関する自分たちの主張に若い視聴者が納得してくれることを期待している。そのためにコンテンツ盗みに寛容な姿勢で臨んでいる──すくなくとも今のところは。
所有権に関する影のルール
本書では、すでに取り上げた飛行機の座席のリクライニングや配信サービスのパスワード共有のほか、キッチンカー、赤ちゃんの市場が存在しない理由など、日々の生活からさまざまな難問や不可解な現象を論じていく。本書の目的は、モノの所有のあり方がそうした難問とどう関わっているのかを解き明かすことにある。難問には、アメリカの貴族制への回帰から気候変動にいたるまで、幅広い問題が含まれる。本書の終わりに近づく頃には、読者はいくつかの基本的な理解を踏まえ、自分を取り巻く世界を新しい視点から見ることができるだろう。
所有権を考える旅に乗り出す前に、この本を書くにいたった理由らしきものをお話ししておきたい。著者である私たちは二人とも長いこと、そう、25年以上も大学で教えてきた。どちらもそう不出来ではなかったと思う。どちらも学生から「年間最優秀教授」に選ばれたことがあり、長い間に輩出した弁護士、実業家、環境運動家は5000人以上にのぼる。そんな私たちにとって最もうれしい瞬間は、思いがけない発見で学生たちの目が輝くときである。たとえば、所有権は厳然と定まったものではなく設計次第で人々の行動を変えられること、複雑な世界を導いているのは少数の単純な原則であることに気づくときがそうだ。
本書には、教員としてまた研究者としての私たちの研究のエッセンスが詰まっている。読者は高い授業料を払わずともそれを知ることができる。これから本書で論じることの前触れとして、以下ではニー・ディフェンダーとパスワード共有のケースを改めて取り上げ、所有権に関してぜひ知っておいてほしい3つのポイントを示しておくことにする。
その1:所有権を主張するときによく持ち出される根拠は全部まちがっている
「私の!」と主張するときによく持ち出される古い格言にはどんなものがあるか、ここでちょっと考えてみてほしい。私たちは子供のときからずっと、所有権とは何か、どんなときにこれは自分のものだと主張できるのかを学習してきた。そして本書を読めばおわかりいただけるように、希少資源の最初の所有者になるときに根拠として持ち出されるものは、ここに挙げる6つの格言で網羅されている。
・早い者勝ち
・占有は九分の勝ち
・自分が蒔いた種は自分で収穫する
・私の家は私の城
・私の身体は私のもの
・家族のものだから私のもの
ドローンを飛ばすときまたは自宅のプライバシーを主張するとき、腎臓の売買に賛成または反対するとき、列に並んで順番が来るのを待つときまたは押しのけて前へ出るとき、あなたは否応なくこの6項目のどれかを持ち出して権利を主張することになる。
だがじつに衝撃的なことだが、これらはのべつ申し立てられるにもかかわらず、どれ一つとして完全には正しくない。なぜまちがっているのかと言えば、根本的なところで所有権を二元論で見ているからだ。オンかオフに切り替わるスイッチのように、私たちは「私の」か「私のではない」のどちらかしかないと感じがちだ。この単純な見方はわかりやすくはあるが、正しくない。所有権を巡る係争が増えている今日では、いま挙げた6つの格言はむしろ遅い者勝ち、占有は一分の勝ち、他人が蒔いた種を収穫する、等々という具合に変化してきているのである。
かつてのアメリカでは、所有権争いの多くが二元論でうまく説明できた。ほぼ全面的な農業経済だったため、争いの大半は有形資産を巡って起きたからである。たとえば農地、家畜、そしてじつに非人道的なことだが奴隷などだ。奴隷はアメリカの歴史において倫理と正義の重大問題というだけでなく、所有権争いの主な対象でもあった。人間は自由なのか、それとも誰かの財産なのか。
20世紀になると、所有権に関する議論は単純な二元論では片付けられなくなる。私有財産と公権力の介入との間の曖昧な境界が激しい議論の的になった。食堂の主人は別の人種の注文に応じることを強制されるべきなのか。地主は自分の土地に何を建てるか制限されるべきなのか。患者は科学研究用に切除された細胞の所有権を主張できるのか。
今日では議論の対象が再び変化している。係争の多くが個人所有者対個人所有者、つまり「私の!」対「私の!」の対決になってきたためだ。この新しい世界では、六つの古い根拠はこれまで以上に誤解を招くようになっている。
もしあなたがKindle で読むために購入ボタンをクリックしたら、自分はその本のデータを所有したのだと考えるだろう。それはもっともではある。何と言っても占有は九分の勝ちなのだから。だがアマゾンの見方は違う。アマゾンからすれば、あなたが所有したのはきわめて限定的な使用許諾(ライセンス)に過ぎない。アマゾンはあなたのデバイスからただちにデータを消去できるし、実際にそうしたこともある。企業は所有権を自分たちに都合よく設計することができる。これは、企業が持ち合わせている能力のうち過小評価されているものの一つだ。所有権というものは融通無碍であるとアマゾンは気づいた。すこしばかり足したり引いたりすることはきわめて容易だ。多くの人は電子書籍もハードカバーと同じように所有できるのだと、つまりオンラインでもオフラインでも所有権は同じだと考えていることを、アマゾンはちゃんと知っている(このことは調査で判明している(注22))。だが実際には同じではない。だから、読み放題サービスのKindle Unlimited を解約すると、ダウンロードした本が読めなくなってあわてることになる。
残念ながら、お客様は常に正しいわけではない。お客様が自分の所有物だと思い込んでいるものと実際に所有しているものとの違いは広がる一方なのである。
その2:所有権争いとは六通りのストーリーのバトルである
あなたが持っているものの大半は、誰かから買ったかもらったものだろう。だがその誰かの所有権は何に由来するのか。最初の所有者まで遡ると、その人はさきほど挙げた6つの根拠のどれかを主張するにちがいない。どんなものについても、誰もが必ずそうしている。
ストーリーを巡るバトルは、選挙運動中の候補者たちのバトルにそっくりだ。どちらも周囲の支持と信頼を勝ち得ようと戦いを繰り広げる。どれももっともらしく聞こえるのは、どうすれば所有権を主張できるかという強力な直観に根ざしているからだ。しかしこれらの直観は相矛盾する。だから重要なのは6通りの根拠をよく理解し、所有権を設計する手段と知識を身につけることだ。そうすれば、自分の都合のいいように説得力のあるストーリーを練り上げることができる。
背の高い乗客は「膝を守る権利」を主張するだろう。だがこの主張は、疲れ切った乗客が叫ぶ「リクライニングする権利」と衝突する。航空会社がどちらか一方に味方することは容易だ。リクライニングに関するルールを座席の後ろに表示するか、搭乗券に印刷して注意を促し、乗客を従わせればよい。あるいはすべてのシートをある角度に固定してしまってもいいだろう。現に格安航空会社の一部はそうしている。
だが現時点では大半の航空会社は戦略的曖昧さを選んでおり、エコノミークラスの座席間隔を詰めつつ、リクライニング空間を二度売っている。ほとんどの航空会社がニー・ディフェンダーを禁止し苛立った乗客同士のやり合いに任せているのはこのためだ。乗客は、騒動になって互いに対立する主張を言い立てることが航空会社の得になると気づいていない。航空会社にしてみれば、ちっぽけなリクライニング空間を巡る不快な争いにうんざりした乗客が、足をゆっくり伸ばせて口論の起きないビジネスクラスなどを利用するようになり、利益の多い市場が拡大することが望ましい(注23)。このように所有権の設計に長けている企業は、意図的な曖昧さが経済価値を生むことを知っている。
以上が、リクライニング騒動の背後にある真のストーリーである。
パスワード共有にしてもクリックストリームにしても、同じことだ。現時点ではデジタルコンテンツとユーザーデータは誰のものかという問題が、あたかも所有権に関してまったく新しいテーマであるかのように政治家の注意を引き、訴訟になり、雑誌や書籍で取り上げられている。だがどこにも目新しい点などない。ニー・ディフェンダー騒動のオンライン版というだけである。私たちは、データトラッカーがデジタル空間の膝に侵入してくるのを阻止すべきなのだろうか。
あらゆる所有権争いは、結局のところ対立するストーリーのせめぎ合いに帰結する。争いの当事者は自分が優位に立てるような理屈を選び、所有権を自分の見方に合わせて都合よくねじ曲げようと試みる。だがだまされてはいけない。所有権争いを規定する正当で自然な論理など存在しない。ただし、争いを解決しうる選択肢には優劣がある。そしてあなたが選べる立場にない場合、誰かがあなたに代わって選ぶことになるのだ。
その3:所有権は日々の生活の多くの場面をリモートコントロールしている
所有権に関するルールは、想像しうるすべての場面で勝ち組と負け組を作ることになる。アメリカには相乗りを奨励するためのカープール・レーンというものがある。ここは通常、バス、バイクのほか1台に2人以上乗った乗用車だけが通行できる。あなたはきっとラッシュアワーにカープール・レーンをすいすい走りたいだろう。誰かもう一人乗せれば、あるいは地域によっては電気自動車を運転していれば、カープール・レーンを走行できる。あなたは飛行機に優先搭乗したいだろうか。その航空会社のステータスの高い会員になるか、ファーストクラスのチケットを買えば優先搭乗できる。ラッシュアワーの道路でも空港でも「早い者勝ち」は通用しない。
貴重な希少資源の所有者は、強力なリモートコントロールを行っている。彼らは、利用者を自分の狙い通りに行動させるようなルール作りを常に試みる。それは、利益を最大化しトラブルを最小化することが目的だ。所有権の定義をちょっとばかり変えることによって、気づかないようにそっと、しかし有無を言わせず利用者の行動を導き、所有する希少資源を最大限に活用する。このリモートコントロールはなかなか効果的だ。所有権の概念が日常の行動に深く根を下ろしているため、ルールが多少変わったところで誰も気づきもしないからだ。
政府は追越車線をカープール・レーンに変更することによって、渋滞解消あるいは大気汚染抑制に効果のある行動をとるよう促す。HBOはパスワードの共有を一時的に容認することによってファンを増やし、将来サブスクリプション契約をしてくれる予備軍を確保する。
所有権を設計することは、人々の行動を知らないうちに決定的に操作するソーシャルエンジニアリングの一手法だと考えるとよい。さしたる衝突もなく日常生活を送れる状況では、所有権それ自体は面倒なものではない。しかし希少資源の所有者が意図的に自分の行動を操ろうとしていると気づいたら、あなたはそのリモートコントロールを逆手にとって自分に有利になるようにすることも、公共の利益に寄与できるようにすることも可能だ。
なぜ所有権を、なぜいま問題にするのか
最近では、日々の判断に困るちょっとした問題の理解を助けてくれる有意義な本が数多く出版されている。現代の経済学に興味を感じたら、ぜひスティーヴン・D・レヴィットとスティーヴン・J・ダブナーの『ヤバい経済学』(邦訳・東洋経済新報社)を読んでほしい。嘘や犯罪から育児、スポーツにいたるあらゆる事柄に新鮮な視点を示してくれる。心理学寄りの知識が欲しい読者には、リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンの『実践 行動経済学』(邦訳・日経BP)がおすすめだ。健康、富、幸福に関してよりよい判断をするにはどうしたらいいかがわかってくるだろう。経済学と心理学はすばらしい思考の道具であり多くのことを説明してくれるが、多くのまちがいも犯す。どちらの学問も所有権をすでに定まっているもののように扱うことは、その一つである。だが実際には、所有権には明確に定まっていることなど何もない。
本書の以下の章では、人々の日常生活を支配している所有権の設計を解き明かす出発点として、「私の!」と叫ぶときによく持ち出される言い分や直観的主張を一つひとつ取り上げて検討していく。その途中で時々次のような問題を出すので、どうか考えてみてほしい。
これらの質問の答えは、人々のモノの所有のあり方に隠されている。読者は本書を通じて、消費者あるいは起業家あるいは市民としての生活に深く関わるこうした問題とその答えを学ぶことになる。これは私のものでこれは私のものではないという線引きは自然になされる不変のものだ、と読者は思っていたかもしれない。だが実際には、その線を引いているのは政府や企業や他の誰かだ。みんなが欲しがる希少資源をどうコントロールするか、彼らの決めた選択の結果として、私のものかどうかが決まるのである。
ロッキングチェア
それではここで、問題である。
バー・マクダウェルは1973年にニューヨーク州北部の町で亡くなった。遺言により、愛用のロッキングチェアは成人している二人の子供アーサーとミルドレッドに残された。おんぼろの古い椅子に金銭的価値はない。だが子供たちはその椅子が好きだったし、二人とも欲しがった。ではどう分けるか。その点について遺言は何も言っていない。そこでアーサーは父親の家へ行くと椅子を持ち帰った。ミルドレッドは自分も欲しいと言ったが、アーサーは拒絶する。するとアメリカではありがちなことだが、ミルドレッドが裁判に訴えた。そこで私たちがこの事案を知ったわけである。そう、これは実際に起きたことだ(注24)。
読者は自分が裁判官だと想像してほしい。ニューヨーク州の州法は、こうした場合にどうすべきか何も定めていない。類似の判例もない。となれば、あなたが判断しなければならない。子供は2人で椅子は1脚だ。自分ならどうするか、しばし考えてほしい。こういう場合の選択肢をいくつか思いつくままに列挙してみた。
・コイン投げで決める。
・最初に手にしたアーサーのものにする。
・最初に訴えたミルドレッドのものにする。
・オークションにかける。そうすれば、片方は椅子を、もう片方は現金を手にできる。
・子供たちが和解するまで待つ。
・椅子をノコギリで半分に切断し、1人ずつに分ける。
・1日おき、あるいは1年おきで交代で使う。
・椅子を燃やしてケリをつける。
どうだろう、あなたならどれを選ぶだろうか。どれを選ぶにしても、その選択は所有権についてあなたが持っている直観や欲求を示す手がかりとなる。
コイン投げで決めるのは最も公平なように見える。だがふしぎなことに、この方法は裁判官や陪審員に明確に禁じられている。それも、禁止行為のかなり上位に位置付けられているのだ。コイントスは遊びの順番を決めるときなどには有効で、実際サッカーの試合はコイントスでキックオフをするチームを決める(注25)。だが裁判でこれはだめだ。裁判官としてのあなたは、どちらの側を選ぶか、確たる理由を示さなければならない。たとえどっちもどっちだと心の中では思ったにしても。
早い者勝ちは、ものごとの決め方として魅力的ではある。だがこの場合に当てはまるだろうか。先に椅子を取ったのはアーサーだが、先に訴えたのはミルドレッドだ。どちらも道徳的にみて報いるべき立派な行動とは言い難い。アーサーが物理的に占有したことも、アーサーに椅子を与える根拠になるとは思えない。オークションは争いを手っ取り早く解決できるかもしれないが、これでは家族の思いを大切にすべき場面で単純に裕福なほうが勝つことになる。和解するまで椅子をどちらにも渡さないという方法は、親の立場に立ってみればなかなかよさそうに見える。だがこれでは、相手が根負けするまで強情に粘ったほうが勝つことになるだろう。ノコギリで切断するのは、知恵者ソロモンのごときひねりの利いた解決だという以外、これを選ぶ理由はないだろう。
交代で使うという解決はもっともらしいし、実際の裁判でもこの判決が下された。子供たちは互いに相手が死ぬまで、6カ月ごとに相手の家に椅子を送り届ける、と決められたのである。大いに結構。ただし、つまらぬ内輪揉めをしている2人の当事者をこれからずっと裁判所の監視下に置かなければならない。どちらかが乱暴に扱ってジョイントが緩み、修理が必要になったらどちらが負担するのか。ミルドレッドがアーサーへ椅子を送る期日に遅れたらどうするのか。送ったり戻したりする面倒と費用は、たとえば離婚した両親の子供といったケースであれば正当化できるかもしれない。だがこれは子供ではなく椅子に過ぎない。それに交代で使う解決は、椅子を運ぶという時間の浪費をする余裕のある子供のほうに有利になる。
では、椅子を燃やしてしまうという解決はどうだろうか。これは、子供たちに無用の争いをするなという教訓を与える効果はあるだろうし、くだらぬことで揉める二人を裁判所から遠ざける効果もある。裁判所の貴重な時間を無駄にするな、というわけだ。だがこれは、アーサーとミルドレッドにとっては辛い結末だろう。
つまり、こういうことだ。「誰が・何を・なぜ」を決めるのはたいへんなことであり、しかもどうしても決めなければならない。誰か第三者に、たとえば裁判官や議員に、代わりに決めてもらうことは可能だ。だがそれはまさに、誰かにリモートコントロールを委ねることになる。所有者、消費者、市民として、あなたは自分で決めることだって可能である。偶然か理性か、時間かお金か、速さか裏付けか、正義か効率か、報奨か懲罰か──あなたならどちらを選ぶだろうか。
所有権を巡るあらゆる選択において、あなたは否応なく、自分の根深い価値観をはからずも表現することになる。
「私の!」を解決する方策とは? この続きは本書でご確認ください(電子書籍も同時発売中)。
紹介した書籍の概要
『Mine! 私たちを支配する「所有」のルール』
著者:マイケル・ヘラー&ジェームズ・ザルツマン
訳者:村井章子
出版社:早川書房
発売日:2024年3月21日
本体価格:2,100円(税抜)
著者略歴
マイケル・ヘラー
コロンビア大学ロースクールのローレンス・A・ウィーン不動産法担当教授。所有権に関する世界的権威の一人。著書に『グリッドロック経済』など。
ジェームズ・ザルツマン
カリフォルニア大学ロサンゼルス校ロースクールとカリフォルニア大学サンタバーバラ校環境学大学院で、環境法学特別教授を務める。
訳者略歴
村井章子
翻訳者。上智大学文学部卒業。主な訳書に、カーネマン他『NOISE』、カーネマン『ファスト&スロー』、ノーマン『アダム・スミス 共感の経済学』、ギャディス『大戦略論』(以上、早川書房)など。