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病気や事故の「不運」を統計学で考える…『それはあくまで偶然です』本文試し読み

統計学者は、「宝くじで1等当選するよりも、その帰り道に交通事故に遭う確率のほうが高い」と指摘するのに、なぜ私たちは自分にとって都合の良い「運」に期待したり、起こりそうにもない不運について心配したりしてしまうのでしょうか?
数学者であり、即興コメディアンやミュージシャンとしての顔も持つ著者がその疑問を解き明かす『それはあくまで偶然です』(ジェフリー・S・ローゼンタール、石田基広監修、柴田裕之訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)から、本文を抜粋して公開します。
予期もしなかった重病や怪我に見舞われるという「不運」を、数学者はどう捉えるのか見てみると――

『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』ジェフリー・S・ローゼンタール、柴田裕之訳、石田基広監修、早川書房
『それはあくまで偶然です 運と迷信の統計学』

統計学における「運/不運」とは?

ありそうもないことを称えよ

宝くじでジャックポット〔大当たり〕を勝ち取ることなど、どれほどありそうにないかを〔統計学の観点から〕人に伝えるのは、ちっとも面白くない。大当たりを願って、大金についてあれこれ夢見て、何に使おうかと考え、抽選の日が近づくにつれて、興奮してくる人々がいる。そこへ私がやって来て、当たる確率が極端に低いことを指摘して、楽しみに水を差すわけだから。

それでも、私の視点には良いところもある。悪いことのうちにも、やはりとてもありそうにないことがたくさんあるからだ。それは良いことではないか!

飛行機を例に取ろう。私は以前、飛行機に乗るとき多少不安になった。気流の乱れがあるたびに、肘掛けをぎゅっと握り、窓の外を見て、まだ翼がついているかどうか確かめたものだ。けれど、もうそんなことはない。それはなぜか? 確率のおかげだ!

毎年、ごく一部の飛行機が墜落することは確かだ。悲惨な事故になり、多くの人が亡くなることもありうる。そんなときは、たいてい大きな見出しがつき、ニュースでしきりに報じられ、多くの人が心配する。とはいえ、アメリカだけでも毎年のべ10億人近くが飛行機に乗る。そして、そのほぼ全員が、たいした問題もなく無事に目的地に着く。実際、民間のフライトでは、死亡事故は500万回に1回しか起こらないと推定されている。そして、どの便に乗っていても、亡くなる確率は3000万分の1ほどでしかない。乗客にとっては、とてもありがたい確率だ。

要するに、次に飛行機に乗ったときには運良く●●●生き延びることはほぼ間違いなく、心配する理由はない(心配したければ、到着の遅れ●●を心配すればいい。5回に1回以上の割合で遅れるから)。

住宅への侵入や子供の誘拐、突然の爆発、テロ攻撃など、恐ろしい見出しになる事件についても、同じことが言える。どれもひどい悲劇だ。けれど、なぜそれがニュースになるかと言えば、ほんとうに稀だからにほかならない。そのような悲惨な出来事の犠牲になりえた●●●●無数の人のうち、実際にそこまで不運な目に遭う人はほんのわずかしかいない。残りの人は、運良く安全無事に日々の暮らしを送り続ける。ありそうもないことというのは、私たちの味方なのだ。

この本を書いているときに、ハイキング仲間に、美しいロッキー山脈でハイキングするのを断られたと友人がぼやいているのを耳にした。なぜ断られたのか? クマに襲われるのが怖かったからだという! クマによる襲撃はきわめて稀なので、ほんとうは心配する価値がないのに、とその友人は言っていた。そのとおりだ。あの無敵のハイイログマでさえ、運の力にはかなわないだろう。

核のニアミス

私たちの世界には現在1万を超える核兵器があり、かつては6万4000以上あった――知られているかぎりだけでも。そのどれもが、とても恐ろしい。けれど、1961年には、2発の核弾頭がそのなかでも最も恐ろしいものになりかけた。この2発のせいで、何百万もの命が奪われることもありえた。そしてそれらの命がかろうじて救われたのは、そう、幸運●●のおかげにほかならない。

1961年1月24日火曜日。ノースカロライナ州東部のゴールズバラ近くを飛んでいた1機のB52爆撃機が、右の翼から燃料漏れを起こし、不安定になった。機は空中分解して墜落したけれど、搭乗員は無事脱出した。一つだけ問題があった。この爆撃機は、2発の核爆弾を搭載しており、そのそれぞれが数メガトン級の爆発力を持っていた。これは、1945年に広島と長崎であれほど多くの人命を奪った爆弾の何百倍もの威力だ。

爆弾の1発は、パラシュートで落下し、野原に生えた木に引っかかっているところを発見された。間一髪で爆発するところだった。6つの安全用の連動装置のうち、5つまでもが解除されていた証拠を目にしたと、2人の専門家が主張しており(じつは、4つの連動装置のうちの3つだったと言う人もいる)、残るわずか1つの装置が爆発を防いだのだった。もう1発はパラシュートなしで地面に落ち、のちに、ぬかるんだ、泥沼のような状態の土の中でばらばらになっているところを発見された。回収チームの1人は、爆弾の7つの起爆ステップのうち、6つまでがすでに起動していたと回想している。

詳細の一部は今なおあやふやなままだけれど、それらの説明に強く異を唱えるある核兵器管理者さえもが、最近になって機密扱いを解かれた1969年の覚書の中で、「単純なダイナモ技術の低電圧スイッチが、合衆国と一大惨事とのあいだに立ちはだかった」と明言している。

要するに、爆弾は2発とも、もう少しで起爆し、大爆発を起こして死の灰を降らせ、何百万もの人の命を奪うところだったのだ。もしどちらかの爆弾が起爆していたら、外国による攻撃だと誤解され、本格的な核戦争を引き起こしていたかもしれない。どちらの爆弾も、おそらく安全装置のほとんどが無効になっており、想像を絶する規模の爆発を生み出す一歩手前まで行っていた。

では、そのどこに運が入り込む余地があるのか? それはまあ、どちらの核爆弾も起爆のためにはいくつもの手順を踏まなければならなかったのは幸運●●だった。不運にも、そのうちの多くが起動してしまったとはいえ、それでも全部●●が起動する可能性は依然として低かった。

その一方で、グローバルに考えてみると、地球上には何千何万発も核爆弾があるのだから、「下手な鉄砲も……」の効果で、この種の核の事故が起こる機会は多く、いつかそのような事故が起こる可能性は増す。これではろくに安心できない。

けっきょく、1961年のあの運命の日に、あの爆弾が両方とも起爆しなかったのは、ほんとうに、ほんとうに、運が良かっただけにすぎないのだろう。

安心させてくれる運?

運が私たちを守ってくれていることや、犯罪の発生率は、世間で言われているよりも低い場合が多いことについて私が書いたり話したりしても、誰もが喜んでくれるわけではない。たとえば、ある批評家は次のように書いている。

「マスメディアは犯罪の発生率が急上昇していると頻繁に声を上げるものの、(ローゼンタールは)冷静に数字を眺めながら、それが間違いであることを指摘する。だが、数字のところで歯切れが悪くなる。なぜなら、定量分析は冷たいという印象を与え、犠牲者の家族にはほとんど慰めにならないからだ」

これを読んだ私は、「歯切れが悪くなる」という言葉に、当然、気分が良くなかった。とはいえ、それより重要なのだけれど、この種の批評のせいで、私は「冷たい」分析や犠牲者の「慰めになる」といった点について、考えざるをえなくなった。人を慰めるのが定量分析の役割なのだろうか? もしそうなら、どうすれば慰められるのか?

ある意味では、その批評家のコメントは馬鹿げて見える。もちろんどんな統計も、重罪の被害者の家族をほんとうに慰めることなどとうていできない。たとえば、誰かの子供が殺害されたなら、統計分析は遺族にとっていったい何の助けになりうるというのか?

犯罪の発生率が一般に下がっていることを指摘しようが、じつは上がっているという誤った主張をしようが、その子供が亡くなったことに変わりはない。しいて言えば、定量分析によって犠牲者への敬意を示す最善の方法は、正確かつ正直に事実を報告することに違いない。私たちにほんとうに達成することが望めるのは、せいぜいそれぐらいだろう。

けれど、そのコメントにはうなずけるところもある。重大な犯罪や命にかかわる事故、テロ攻撃、破壊的な戦争などを通して、運が深刻なまでにネガティブな形で襲いかかってくると、きちんと手順を踏んで行なう分析では不十分なのかもしれない。安心させたり慰めたりする方法を探すことが、ほんとうに大切なのかもしれない。けれど、どうやって?

意外な献辞

私は確率やランダム性についての講演をしているおかげで、これまでさまざまな人に出会い、彼らの視点を知ることができた。そのなかでも、とりわけ印象に残っている出会いが一つある。

あるとき私は、高校の体育館で開かれた科学教育支援の催しで800人近い聴衆を前に、一般向けの講演をした。世論調査や宝くじ、殺人の発生率、カジノの利益、ゲーム戦略、偶然の一致などの背後にある確率を取り上げた。講演の後、ロビーに案内され、私の本の愛読者たちに会って、ランダム性について束の間、言葉を交わした。それから、主催者が、この催しの常連だという、いかにも優しそうな高齢の夫婦を紹介してくれた。

ここまでは、何の問題もなかった。ところが、それから思いがけない展開になった。主催者の説明によると、この夫婦は、最近癌で息子を亡くしたという。これは想像を絶するほど悲劇的な状況だ。それにもかかわらず、その夫婦はすぐに言い添えた。息子は最後の日々に、なんと、よりによって確率に関する私の著述を読んで、おおいに慰められていました、と! 読むことで、自分の癌が、その、ランダムだとわかったのだそうだ。

それは、罰ではなかった。彼の過失ではなかった。彼がしたことや、しなかったことのせいではなかった。彼が悪い人間だったからでも、死んで当然だったからでもなかった。そうではなくて、ただのランダムな(そして、とても、とても悪い)にすぎなかった。

私はこれを聞いて、たまげてしまった。亡くしたばかりの子供について、親にどう話していいのか見当もつかなかった。確率の考察が彼らの役に立つとは、思ってもみなかった。

それなのに、現に役に立ったのだ。ランダム性が、ずっと彼らの味方だったとは。運について考えることで、この一家は信じ難いほどつらい時期をどうにか乗り切ることができたのだ。驚いた!

私はこの夫婦に、息子のために本に献辞を書いてくれるようにとさえ頼まれた。こんなことは初めてだったし、その後もない。私はぎこちない思いで、彼の感動的な話と勇気に感謝する、短い言葉をしたためた。私は死後の生を信じてはいないけれど、この不運な若者と彼の体験に、不思議で特別なつながりをたしかに感じた。彼の記憶と勇気が永遠に生き続けますように。

私はこの話のおかげで、運はさらに別の形でも私たちを守れることに気づいた。つまり、何かが私たちの過失ではないとき、そうと気づく助けとなりうるのだ。私たちは、自分の不運には特別な意味がないと悟ることができれば、その不運について自分を責めるのをやめられるかもしれない。好ましくない状況のもたらすものに取り組まなくてはならないことに変わりはないとはいえ、少なくとも、過失を問われることはないから。

この続きは▶本書でご確認ください

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