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これは世にも珍しい、車とつがうドラゴンの物語だ——三方行成「竜とダイヤモンド」お試し版

4月23日はドラゴン退治で有名な聖ジョージの祝祭日であり、ネットでは「ドラゴンの日」とする文化もあるとか。そんな日にぴったりな、竜と車をテーマに繰り広げられるドラゴンカーセックス感動ファンタジイ「竜とダイヤモンド」のお試し版をお届けします。(三方行成『流れよわが涙、と孔明は言った』収録)

◆ ◆ ◆

 いい写真だろ?
 その写真だよ。鹿人がいて、坊っちゃんがいる。みんなして車に乗って、後ろには竜がまたがってるやつ。みんないい笑顔じゃないか。写真ってのはこうでなくっちゃな。不思議な光景と素敵な笑顔。こりゃ一体何があったんだろうと考えさせずにはおかない。そうやって写真は歴史を伝えていくもんなのさ。
 おっと、そんなにびっくりしなくてもいいだろう。鹿人を見るのは初めてかい? 最近では新大陸じゃなくても珍しくないもんだがね。
 あんたとおなじさ。客だよ。ここの主人とは旧知の仲だ。
 ご明察。その写ってるのが俺だ。言っとくが鹿人の方だよ。ずいぶん昔の話、俺がまだ泥棒やってたころだ。いろいろあった締めくくりがこの写真ってわけだ。
 ハハハ、真に受けたか? 作り話に決まってるだろ。何しろひとりは法に触れてて、もうひとりは国の歴史に名前が載ってる。おまけにダイヤでぎっしりの秘密の谷まで出てくる。いまやこの国の誇りになった竜のびっくりエピソードは言うに及ばずだ。名前も伏せて委細もおあずけ、おとぎ話と断ってはじめて語れる物語さ。
 何だいその顔は。聞きたいのかい? そうでもない?
 まあいいから聞けって。あんたの答えがどうであれ、どのみち俺は語りたい。おとぎ話はそういうもんだ。
 さあさ、楽しいお話のはじまり始まり。
 こいつは世にも珍しい、車とつがうドラゴンの物語だ。

◆ ◆ ◆

 昔々、今となってはいろんな罪が時効を迎えるほど昔のこと、首府に一人の鹿人がおりました。
 引き締まった体躯、すらりと伸びた脚。助走もなしに人の背よりも高く跳び、見事な枝角を揺らして逃げる怪盗がいると思ってくれ。その名もなんと──。
 やめとくか。こっ恥ずかしい呼び名も他人事なら気にならないもんだが、何しろこれは俺のことなんでね。
 鹿人には向かない職業がある。鹿撃ち猟師が筆頭として泥棒は二番目だろうな。何しろ目立つ。女ならまだしも男は救いようがない。どんな間抜けな目撃者だって頭から生えてる角は見逃さない。
 けれども俺は捕まらなかった。事あるごとにタブロイド紙を賑わせ、官憲にはにらまれながら、毎日のほほんと暮らしてた。毎回毎回、鉄壁のアリバイがあったからな。
 簡単に言えば、俺の活躍は全部ウソだったのさ。
 その日、俺は編集長と密会していた。場所はそうさな、紳士のクラブとでも言っておこうか。
 密会したのは一つには打ち合わせのため。一応、表向きの身分として記者の籍も用意してあった。だが実際には次のでっち上げの準備だ。鹿人の泥棒なんかもともとあった盗みに目撃者をとってつけただけの無責任なもんさ。記事の埋め草になりゃそれでいい。気楽なもんだ。
 そうとも、泥棒なんかいないんだ──それならどんなに幸せだったことか。だがその一方で、俺は確実に盗みを重ねていた。編集長にやらされてたんだ。不本意ながらな。
 俺が盗んでいたのは「秘密」だ。公にされれば身の破滅になるようなスキャンダルの証拠品。三文新聞の編集長が欲しがる理由に説明はいらないよな。
 その日の品は竜をあしらったタイピンだった。どこで見つかったか公表されれば持ち主は青ざめること請け合いだ。編集長は満足そうにしまいこんで俺を見た。
「お前はほんとにいい子だな、俺の子鹿ちゃん」
「これで終いだ」
「考えとくよ」
 うなずくしかない。俺もちょっとやそっとじゃ引き返せないぐらいどっぷり浸かってた。泥棒働きをしているのは適材適所でたっぷり稼げば老後の資金も安泰というやつだ。経験がなかったわけでもないしな。新大陸にいたころは手癖も悪かったもんだ。恥ずかしい話さ。
 やりたくてやってたわけじゃないさ。言い訳ぐらいはさせてくれ。
 いつもならここで俺が席を蹴って次の仕事はまた来週、てなもんだが、この日の俺は覚悟を決めていた。
 次の仕事で終わらせる。
 大それた目標は秘策あってこそ。ふんぞり返った編集長の前に、俺はいくつかの塊を転がしてやった。
 何だと思う? ダイヤさ。カット前の原石、異教の神殿で女神像の目玉役だって務まりそうな大きさ。さすがの編集長も目をむいてたよ。
「どこでこれを」
「こいつで最後にさせてくれ」
「誰から盗んだ? ええ? 言えよ、俺の可愛い子鹿ちゃん」
 そこで俺はもう一つの品を出した。名刺だ。
 誰のだと思う? それこそこのお話のもうひとりの主人公さ。坊っちゃんのご登場だ。

 とんでもない美形の紳士がいると思ってくれ。スーツをりゅうと着こなしてさっそうと歩く美男子。微笑めば花も恥じ入り鳥は落ち、ご婦人方は甘美なる夢のなかで行方不明。そういう坊っちゃんだ。
 といっても、俺が最初に見かけた時は歩いていなかったし、微笑むどころでもなかった。坊っちゃんはごみごみした下町を必死の形相で駆け抜けていた。
「泥棒!」
 俺を見かけた第一声がこれだった。ご慧眼には恐れ入ったがそいつは俺の早合点、「あいつを捕まえてくれ!」と先を走る小男を指さした。小男はネズミみたいな面構えで人間にしちゃまあまあの逃げ足、だが俺から逃げられるほどじゃない。鹿人は脚が速いんだ。
 前に躍り出て、転ばせて、大事そうに抱え込んでた革袋を取り上げてやると、小男はそのへんの路地に姿を消して俺の人生からも退場した。追いついてきた坊っちゃんに革袋を返してやった。
「気をつけな」
「ありがとう、恩に着るよ、優しい鹿人さん」
 この時の坊っちゃんの笑顔は今でも時々夢に出てきて、翌朝は人間の言い方で言うとバラ色の気分で目覚めることになるよ。
「大事なものなのか」
「実を言うとダイヤモンドなんだ」坊っちゃんは中身を手のひらにあけて数え、形のいい眉をひそめた。
「一つ足りないな。いつのまに」
「そうと知ってりゃ逃さなかったんだが」
「君のせいじゃない。感謝している。それにしても弱ったな」
「サツに届けたらどうだ」
 すると坊っちゃんの瞳が憂いを帯びた。「警察はちょっとね」
「やばい品か?」
「不名誉な品ではあるな。盗まれたことが公になれば私はちょっと大変だ」
「なるほどね」
 そこで俺は名乗った。新聞記者の名前のほうさ。盗品の売買には少々勘があると匂わせて協力を申し出た。坊っちゃんはあっさり信じて名刺もくれて、滞在先まで教えてくれた。当時は建前はともかく、本音じゃ異人種なんか人間のうちに入れない奴らのほうが多数派だったが、坊っちゃんは俺を見下さなかった。角を触らせてくれと頼まれたのには閉口したがね。
 さて坊っちゃんが角を曲がって姿を消すと、俺はポケットに手を突っ込んでダイヤの感触を確かめた。言っただろ、俺は泥棒。これぐらい一瞬の早業だ。

 事情を語り終えると、編集長は「決まりだ」と言った。
 悪巧みは実にあっさりまとまった。「不名誉な品」がキーワードだ。盗まれても警察に届けられないダイヤを持ち歩くような坊っちゃんにはきっと何かの秘密がある。金庫いっぱいのダイヤを引きずり出せる。最低でも革袋のぶんはいただける。
 思ったとおり、編集長はよだれを垂らしたさ。名刺の名前には心当たりがなさそうだったが、それこそブンヤの腕の見せ所だ。
「期待してるよ、子鹿ちゃん」

 二日ほど焦らして、俺は坊っちゃんのもとへ乗り込んだ。
 坊っちゃんはそれはもう感謝感激雨あられだった。そこで取材させてくれと持ちかけた。坊っちゃんは渋るかと思ったが、あっさり快諾した。拍子抜けだったよ。
 結局はもったいなくもご邸宅へのご帰還にあわせての招待と相成った。首府から列車を乗り継ぎ、ど田舎の駅に降り立った。
 そのころには、坊っちゃんがさる伯爵様の関係者だと知ってた。
『爵位を持ってるわけじゃない』編集長はそう言ってた。『貴族名鑑を調べた。名刺の名前は跡取り息子のものだが大戦で死んでいる。伯爵本人は後添いも取らず死に体だ。そいつの正体はなんとも言えん。用心しろよ』

「ようこそ」
 坊っちゃんの言葉で俺は我に返った。坊っちゃんはトランクに腰掛けて背伸びをしていて、地上で休憩している天使に見えた。
「もう少しで我が家だ」
「迎えが来るんですか?」
「あらたまらなくてもいいじゃないか。取材だってことは一旦忘れたまえよ。君はうちの客なんだ」
「じゃあお言葉に甘えて──ここからは馬かな?」
「車だよ。私が運転する」坊っちゃんはにかっと笑った。「得意なんだ」
 荷物をお運び申し上げると、坊っちゃんは駅前に捨ててあった鉄くずにすたすた近づいていって乗り込んだ。
 鉄くずじゃなくて車だった。
 一応エンジンも掛かったし、座席も幌もあって、フロントガラスはなかった。こんな車に居残ってるようじゃ自分のキャリアはお先真っ暗だと気づいたんだろうな。腰が引けたが、ゴーグルで準備万端の坊っちゃんが「さあどうぞ」なんて俺のゴーグルまで差し出してくるもんだから乗るしかない。それでも、荷物を積み込んだらそこで息絶えるんじゃないかとびくびくものだった。リア部分なんかショットガンで撃たれたような有様だった。
「高級車とはいえないな」
「財政的事情でね」
 計画に暗雲が立ち込めてきたのがわかるか? 坊っちゃんのポケットには原石がごまんと収まってる。金貨が詰まってるのとおんなじだ。だのに財政的事情?
 俺は陰鬱な気分を押し殺した。
「さ、つかまってくれ。飛ばすから」
 幸い、内装は外見ほどには痛めつけられてなかった。角を押し込むのに苦労していると、坊っちゃんが幌をあげてくれた。俺がどうにか落ち着くと、坊っちゃんがアクセルを踏んだ。
 車に乗ったことはあるか? 俺はあると思ってたが、坊っちゃんの車に乗って考えが変わった。走行中は会話がずいぶん弾んだもんだ。
「ぶつかる!」
「ハッハッハ」
「前を見ろ! 前だ!」
「だいじょうぶだよ」
「ブレーキ!」
「事故を起こしたことは一度もないんだ」
「あああああ!」
「君は面白いね。車に乗るのは初めてかい?」
 坊っちゃんは運転が得意なんじゃなくて飛ばすのが得意だった。幸い対向車も通行人もいなかった。人っ子一人見かけない田園地帯を、俺たちは飛ぶように通り過ぎていった。車がボロな理由が明らかになってきた。少なくとも、俺はわかったつもりでいた。だが本当は、別に坊っちゃんがのべつ幕なしに事故を起こしているわけじゃなかったんだ。
 と、道の向こうに土煙が見えた。
 さすがに対向車が来ればスピードを落とす──と思うだろ? 坊っちゃんは違った。なぜか顔が険しくなって踏んだのはアクセル。「つかまってくれ」ときた。つかまってたさ。人生でこんなにもなにかにつかまってたことはなかったし、つかまってるのにこんなに心もとなかったのも初めてだった。
「何だよ、なんなんだ説明してくれ」
 坊っちゃんは俺を見た。その時ばかりは「前を見ろ」なんて言えなかった。坊っちゃんはまるでいたずらを企んでいるようにみえた。
「竜だよ」

◆ ◆ ◆

 あんたはどうだい? あるかい、竜を見たことは。
 今でこそ竜の繁殖技術は確立されてる。ちょっと大きな動物園じゃ竜は象やらパンダやらとならんで見ものの一つだ。だがあの時は、文明国にいる竜はあいつ一頭だけだった。
 記憶の隅には引っかかっていた。植民地で見つかった竜が女王陛下に献上されたとかなんとか。だがまさかこんなど田舎の道を向こうから走ってくるとは予想もしていなかった。鱗に、長い首、牙も見えて、大きさときたら牛より二回りはデカい。おとぎ話に出てくる姿そのままの生き物が土煙をあげて迫ってきたら、竜が襲ってきたと思うしかない。
 俺は悲鳴を上げた。坊っちゃんはアクセルを踏んだ。それに気づいた俺はまた悲鳴を上げた。
「ブレーキだろ!」
「大声出さないでくれ」
 俺たちは槍を構えた騎士みたいに竜めがけて突っ込んでいった。きっと中世の騎士は坊っちゃんと同じぐらい頭がおかしかったんだろうな。俺は違った。こんなボロ車を棺桶に死ぬのはまっぴらだった。だからできることをやった。横からハンドルを奪おうとした。
「ちょっと、何を」
 坊っちゃんは大いに抵抗したし、俺は角で坊っちゃんの目を突きそうになった。押し合いへし合い、合間にはお互いの顔をしげしげ眺めて「何考えてんだこいつ」と思う一幕だってあった。竜はどんどん距離を詰めてきた。俺はせめてもの助けにとホーンを鳴らした。反応は激烈だった。「止めろ!」ハンドルを奪われそうになっても大してあわてていなかった坊っちゃんが血相を変えた。理由は俺にもすぐわかった。竜が加速したからだ。
 コントロールを失う直前、俺と坊っちゃんのどちらかがブレーキのことを思い出して踏んだ。車は竜にぶつかって止まった。衝撃は予想より少なかった。頭を打たずにすんだという意味さ。
「みょんみー」と竜が鳴いた。
 あいつの鳴き声を初めて耳にしたのはこのときだ。猫みたいな声だと思ったよ。まあ、当たらずとも遠からずさ。

 俺たちは車から這い出した。
 車はちょっと凹むぐらいですんでいた。それは竜も同じだった。尻もちをついてキョロキョロして元気いっぱい。「みょんみー」とくる。交通事故被害者が加害者に寄せるご意見にしてはなかなか好意的な響きだった。竜は俺たちにちらりと目を向けるとあいさつはすんだと思ったらしく、後は車に頬ずりしだした。俺たちは二人ながらに尻もちをついたまま竜を見ていた。
 埃を払い落として立ち上がったのは坊っちゃんの方だった。あろうことか、坊っちゃんは俺をにらんだ。
「運転席でもみ合うのは行く手に竜が立ちはだかっていないときにしてくれないか」
「知ってるか? 車にはブレーキってもんがあるんだ」
「すり抜ける予定だった。一度も失敗したことはないんだ。だいたい竜相手にホーン鳴らすなんて何を考えてるんだ。常識がなさすぎる」
 坊っちゃんは常識についてもうひとくさり講義したそうだったが、これみよがしに肩をすくめて止めた。竜に近づき、車とじゃれてるのを無造作に手で押しのけた。
「みょんみー」
 竜はあっさり引っ込んだ。まるでご主人様のご機嫌を伺う犬みたいだった。竜は後ずさり、かと思うと車の後部にのしかかって、坊っちゃんにちらりと目をやってまた後ずさった。坊っちゃんは何事もなかったかのように車に乗りこみ、エンジンを掛けようとしてあきらめて、車の耐久性についてブツブツ言った。その横顔を見ているうちに、つい言葉が出た。
「なあ、どうして男のなりをしてるんだ」
 もみ合ったときにわかった。坊っちゃんの顔に苛立ちが見えた。まずい質問をしたことはわかっていた。どうしようもない時はあるもんだ。
 坊っちゃんは冷たい目で俺を見て、どんな辛辣なことを言ってやろうか悩んでる様子だった。だが結局やめて、かわりにぱっと笑った。どんな氷もとろかす笑顔というやつだ。
「紹介させてくれ。竜だ。文明国でただ一頭しかいない。ちょっとしたアクシデントはあったが、本当はすごく優しくて行儀のいい子で──」
 そうして、竜に「ああ」と言った。
 竜が車を押していた。
 後ろ脚で立ち上がり、車にのしかかるようにして体重をかけた。猫車と同じ要領で車が進みだした。車はそれはもうぎしぎし、傍で眺めてた俺の心臓も同じ音を立てたが坊っちゃんときたらため息をつくだけで、「君は歩く?」とくる。仕方なく乗りこんだ。竜の腹に角が引っかかりそうだったが、歩いてついていくわけにもいかないもんな。
 竜は「みょんみー」なんて間抜けな鳴き声をあげながらまあまあ器用に車を押した。坊っちゃんがハンドルを握り、俺たちは牧歌的な速度で田舎道をぎしぎし進んでいった。さしあたって安全運転ではあった。そのうち俺はこらえられなくなって笑いだした。坊っちゃんも笑った。
「言うのが遅れたが、助けてくれてありがとう。君は命の恩人だ」
「どういたしまして」
「みょんみー」と竜が鳴いた。

 ポーチで出迎えてくれたのは一匹の猫だった。竜が「みょんみー」とあいさつすると猫も「んなー」。荷物を全部下ろすと、猫がボンネットに飛び乗ってきて寝た。竜は車を押しながら「みょんみー」とどこかへ行った。世にも奇妙な光景だった。
 屋敷は屋敷に見えた。車が車に見えたのと同程度には、だ。玄関ホールは立派だった。雨漏り用のバケツは見なかったことにした。使用人は一人も出てこなかった。薄暗い応接間に通されて、腰を下ろすときには椅子の埃をはらった。
「散らかってて悪いね。さて、お茶は出せないが、貧乏貴族の取材に来られた記者さんには興味深いお話ならできるよ」
 坊っちゃんが出したのはダイヤだった。喉から手が出そうだったが、顔に出すほど素直じゃない。それに、気になることは他にもあった。
「むしろ、あの竜について聞きたいね」
 坊っちゃんは微笑んだ。「ついてきてくれ」

「あれはうちで飼ってるんだ。私はあの子と一緒に大きくなったようなものだよ」
 屋敷には部屋がごまんとあったが、大半はこの世での役割を終えたような雰囲気をかもしだしていた。坊っちゃんの部屋は例外だ。
 図書室兼私設の博物館といった趣だった。世界各地の地図や写真が飾られている。中心に据えられているのは何枚もの竜のスケッチ。全体像も、爪や鱗やあごの拡大図もあった。絵だけみれば、地上で最も強く気高い生き物に見えた。
「研究資料だ」
「竜博士かい?」
 坊っちゃんは取り合わなかった。ダイヤの革袋を取り出し、金庫に手をかけた。俺は目を背けて、坊っちゃんが金庫を閉めるまで待った。
 部屋には他の写真もあった。両親と兄妹の家族、幼い兄妹と一緒に写る卵、猫とじゃれる小さな竜。子供のころから一緒にいるというのは嘘じゃなさそうだった。ぼんやり眺めていると、写真を伏せられた。珍しいもんだ。家族写真を見せつけてエピソードを聞かせるのが残虐行為だと知っているわけだ。
「さて」と坊っちゃんが言った。「ダイヤの話と竜の話、どちらを先に聞きたいかな?」
「竜かな」
「ならこれを見るといい」
 坊っちゃんが壁の写真を指さした。俺の目は釘付けになった。谷底を見下ろす写真だ。ぶれてぼやけて逆光で、だが撮影者は力を尽くしていた。写真には竜が写っていた。何頭もの竜が宙を舞って、撮影者に興味を示し始めていた。それでも大事なものはちゃんと写っていた。谷のあらゆる場所で光り輝く結晶。もちろん水晶や氷の可能性だってあったが、俺の目は見たものを信じた。
「ダイヤモンドの谷だよ。竜の生息地だ。私の祖父が探検隊に出資していてね」
 坊っちゃんの声はすこし奇妙だった。虫歯があるのに気づいたような。
「東方や南洋亜大陸にも似たような場所があるらしい。これは植民地で撮られたもの。あの竜もこのそばで見つかったんだ。卵だったけどね」
「あのダイヤもそこから来たのか?」
 坊っちゃんの虫歯が二本になった。そこで質問を変えた。
「どうして売らない? 金がないんだろう?」
 すると坊っちゃんは袖口の埃を払って眉をちょっとあげて、ぱっと微笑んだ。
「泊まっていってくれるね? 人を迎えるのは久しぶりなんだ。使用人には暇を出したが、一人だけ残ってくれている。彼女の料理は最高だよ」
 確かに最高だった。これからすることを考えると、気がとがめる味がしたがね。

 その晩、俺はダイヤを盗み出した。
 金庫を破る必要もなかった。坊っちゃんがダイヤルを回すとき、俺は礼儀正しく横をむいているふりをしていた。だが鹿の目は顔の横についていて視野は広い。番号はばっちり見えていたんだ。
 結局、秘密は探れなかった。ならダイヤをいただいてあとは忘れるしかない。
 外は月明かりがさしていた。逃げるにはどうしたって足が必要だ。俺は屋敷の周りをめぐって車を探した。
 するとどこからともなく「みょんみー」という声が聞こえた。
 竜だ。出くわして嬉しい相手じゃない。さっさと身をひるがえし、するとちょうど車が目の前にあった。あっさりエンジンも掛かった。事故車にしては悪くない。
 さあとっととおさらば──という段になって、俺はためらった。その家のパンと塩とを口にしておきながら裏切るのは大いに気が引けて、かなりぐずぐずしてた。
 すると「みょんみー」と鳴き声が聞こえた。
 やばい、と思ったときには衝撃が来た。
 俺は車に轢かれたことはないが、竜にぶつかった経験なら先刻したばかり、そこへ車に乗ったまま竜に敷かれる体験が加わった。車は揺さぶられるし、竜の牙だの爪だのは嫌でも目に入った。俺はすばやく決断した。命からがら飛び出して振り返った。
 そうしたら、月明かりの下で竜が車を犯してた。
 適当な四足の生き物ならなんでも、オスがメスにのしかかる。この場合はのしかかってるほうが竜で、のしかかられているほうが車だった。
「みょんみー」と竜は鳴いていた。「みょんみ、みょんみー!」感極まった猫みたいな声をあげながら、車相手に押したり引いたりやっていた。
 ぼんやり見守ったさ。生命の神秘だからな。だがしばらくすると怒りが湧いてきた。人んちの玄関先で交尾してる猫に対して湧き上がるような怒りだ。
「止めろこの野郎!」
 熊よりでかい動物を怒鳴りつけるなんて命知らずだろう。だがその時の俺は必死だった。体は罪悪感でかっかして、頭はキュウリみたいに冷えきっていた。田園地帯を駅まで走って逃走手段は早朝の鈍行列車で手を打つ、そんな算段をしながらも、口では竜に食って掛かっていた。竜の性欲ごときでおじゃんにされてたまるかと思った。
「そいつがメスに見えるか! 恥を知れ!」
 竜の巨体に飛びつき、けとばし、車から引き剥がそうとした。
 すると竜が俺を見て、何を思ったのか車から離れて伏せた。
 俺はグズグズしなかった。車の損傷を確かめ、だがそこで何かが光ってるのに気づいた。テール部分に更に穴が増えていた。何かが穴の中で光っていた。
 きれいだった。竜のことも、逃げてる途中だってことも一瞬忘れたよ。

「金庫の中身を知らないかい」
 振り返ると坊っちゃんがいた。肩を怒らせた坊っちゃんは天使のようだった。罪人にお仕置きする怒りの天使だ。
「お客人を疑うのは気が引けるんだが、何しろ容疑者は限られるんだ」
「なんでここにダイヤがある?」
「君が盗んだから」
「そうじゃなくてこの、車に埋まってるやつ──」
 そこで理解が閃いた。竜がギコギコやるとダイヤが出現していた。それにあのダイヤモンドの谷。竜あるところにダイヤありだ、つまり──。
「もしかしてダイヤはそいつが出してるのか? なんていうか、体から?」
 坊っちゃんは答えなかった。それが答えになった。
「実を言うと君のことは知ってた。新聞で」
 悪いことはするもんじゃない。それがたとえ新聞のでっち上げに付き合ってるだけでもだ。坊っちゃんは顔をそらした。盗んだほうと盗まれたほうの間柄はどうしたって気まずい空気になるもんだ。
 そんな気まずい空気を打破したのは竜だった。
「みょんみ!」
 気がついたときには、竜は車にまたのしかかっていた。高尚なやり取りに退屈したんだろう。竜は我慢が似合う生き物じゃないものな。それとも、いたたまれない雰囲気をほぐそうとしたのか。誰にもわかるもんじゃない。
「みょんみー!」ぎこぎこばこばこ車が揺れた。「みょんみ、みょみ!」
「止めろ!」「ダメだ!」
 俺と坊っちゃん、二人ながらに思いは一つだ。だが竜は止めなかった。生命というやつはこれだから困る。場所も時間も関係なしだ。
 そのうち竜は満足してどこかへ消えた。坊っちゃんが俺に笑顔を向けた。不思議な笑みだった。月の女神が夜道を急ぐ村人をもてあそぶような、そんな顔だ。
「ねえ、君はどうして泥棒になったんだい」
 理由ぐらいあるさ。だがその場で答えるには長すぎた。坊っちゃんもどうしても答えてほしいわけではなさそうだった。坊っちゃんは笑って、こう言った。
「ダイヤを盗んでくれないか、私の代わりに」
 何を言っているのかわからなかった。ただ、えらくゾクゾクしたよ。

◆ ◆ ◆

続きは書籍版でお楽しみください。

 『流れよわが涙、と孔明は言った』
三方行成/ハヤカワ文庫JA


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