瀬尾つかさ「ウェイプスウィード」⑤ 『ばあちゃん』の真実
7月5日(木)発売の瀬尾つかさ氏による海洋SF『ウェイプスウィード ヨルの惑星』。第1話の全文公開その5を公開します。(前回はこちら)
シャトルから目的のデータを回収するのは、これまでの行程から比べればとても簡単な作業だった。シャトルのすぐそばまで潜水艇を降ろし、コードを伸ばし、有線で接続して内部の記録装置からデータをコピーする作業に、ケンガセンはおよそ二十分を費す。
シャトル内の状況に関する記録も入手した。コロニーに持ち帰って解析すれば、墜落事故の原因も判明することだろう。
「データ、この場で見る」
「探査機器の生データなんて見ても、なにもわからんよ。もしおれが間違ったデータをコピーしていたとしても、コロニーに戻るまでわからんくらいだ」
「間違えていたら、仕事、なくなる」
「だろうなあ。教授はこのデータに賭けていたから」
ヨルはつかの間押し黙った後、「だったら念のため、シャトルの他のデータもコピーしておくべき」といいだした。
確かに一理ある。潜水艇の記録装置には、まだだいぶ余裕があった。
ケンガセンが念のためのコピーを続ける間、ヨルは彼の膝もとでごそごそしていた。横のモニターを見ると、潜水艇のライトが動いて、壊れたシャトルの船体をじっくりと照らしている。前面が海草の絨毯に埋まり、後ろ半分が白い菌糸にからめとられている様は、まるで蜘蛛の巣に捕えられた昆虫のようである。
「面白いか」
「母さんも」とヨルは呟く。「どこかでこんな風になっている」
ヨルの母が大旋回に呑み込まれたのは、三年前だ。死体がこの森の中に入り込んだとしても、ミセリウトによってとっくに骨まで溶かされた後だろう。
少し考えて、ケンガセンは別の話をすることにした。
「コロニーじゃ何年も、それこそ何十年もこいつの研究をしていた」
「ケンガセン、ウェイプスウィードに興味があった?」
「いや、全然だ。偶然、いまの研究室に配属されて、たまたまこいつの研究を任せられて……ぜんぶ成り行きだな」
「いまも興味がない?」
「しぶしぶ始めたことじゃあったが、気づいたらそのことしか考えられなくなっていたな。いつも研究のことで頭がいっぱいで、恋人に怒られて、フラれて……研究者ってのはそんなものかもしれん」
「それはケンガセンに甲斐性がないだけ」
鋭い指摘は聞き流すことにする。
「なのにここまで接近したのはおれが初めてっていうんだから、そりゃ研究としてどうなんだろうな」
「地球にひとが降りるのは、たいへん」
「そうだな。連邦政府は地球が荒らされることに神経質だし、もちろんコロニーは異質な細菌を持ち込む輩に神経質だ」
そして市民団体も。と苦い気持ちになる。
「おれも、戻ったら徹底的な検査を受けることになるな」
「三年前も」
「あのときはいっさいシャトルの外に出なかった。無人探査機がウェイプスウィードの断片を回収したが、それだって船外のマニピュレータから貨物室へ直行だった。おれの同僚がウェイプスウィードに直接触れたのは、コロニーに戻ってからだよ」
ヨルが慌てた様子で顔をあげた。ケンガセンがその表情をいぶかしむと、短く首を振る。
まあいい。
「ヨルもコロニーとの通信のとき、横にいただろう。アダラクって同僚だ。あいつはおれよりずっと優秀な生物学者でな。シャトルのパイロットでもあったんだが、まあ、今回は事故っちまって、ああして上で再生したわけだ。本当はあいつこそ、地球の生物全般にじかに触れてみたかっただろうにな」
「あのアダラクは……クローン」
「そうだ。こっちだとそのあたりの倫理観が違うのかもしれんが、コロニーだと……おい、どうした」
いまやヨルの顔は、薄暗い照明のもとでもわかるほど、真っ青だった。
「コロニーとの連絡、最後は、いつ」
「昨日の夜だ。今朝は繋がらなかった。通信状態が悪かった」
ヨルが息を呑んだ。
やがて少女は、おおきく深呼吸した。脳にたっぷりと酸素を送って、気を落ち着かせているのだ。震えを止めたヨルは、ゆっくりと首を振った。
なんなんだ、とヨルを問い詰めようとしたとき、軽い電子音が鳴り響いた。シャトルのデータの転送が終了したことを知らせる音だ。ケンガセンの注意が正面モニターに展開されるデータへと移る。
膨大なシャトルのデータのうち、唯一、この場でも簡単に読み取れたのが、周辺地図だった。無数のゾンデが調べ上げた労作である。潜水艇のモニターに展開されたそれは、既知の海図と重ねあわされた。
その地図上に一か所だけ、空白地があった。
ウェイプスウィードの中心に近い場所に、直径二百メートルほどの半円状の不可侵領域がある。そちら方面に向かったゾンデはすべて消息を絶ったため、地図を作成できなかったのだ。
「ここになにがあるのか、調べたいところだが……やめておこう」
好奇心がうずいて仕方がないが、それ以上にいやな予感がした。ウェイプスウィードに入ってからずっと、誰かに見張られているような感覚がある。しかもその感覚は、中心部に近づくにつれ強くなっているように思う。
「ヨル、帰還しよう。だいじょうぶか」
ケンガセンの膝に座った少女は、いつの間にかもとの冷静さを取り戻していた。短くうなずき、慎重に操縦桿を持ち上げる。潜水艇がふわりと浮き上がる感覚と共に、モニターに映し出されたシャトルの船体が沈んでいく。
長居は無用だった。いつウェイプスウィードが暴れ出すか、わかったものではないのだ。ケンガセンには、責任ある大人として、ヨルを村へ連れ帰る義務がある。
いや……正直にいえば、怖い。全身に震えが走る。地図の空白を見たとき、直感した。この消失点について探ってはならない。本能がそう叫んでいた。
だから潜水艇が地図上の空白地に船首を向けたとき、思わず目を瞠った。
「ヨル、なにをしている」
小柄な少女は無言だった。操縦桿をしっかりと握り、正面のモニターを睨んでいる。ケンガセンは彼女のまなざしに、尋常ならざる情念を見た。
「おい、ヨル」
少女は唇を強く噛んで、こみ上げる感情を必死でこらえているようだった。それでも操縦だけは正確さを保っている。潜水艇は菌糸の森をすり抜け、ウェイプスウィードの中心部にますます接近した。菌糸の密度が濃くなる。無理に操縦桿を奪い取ろうとすれば、ヨルはたちどころに操縦を誤り、潜水艇は周囲の菌糸にからめとられてしまうだろう。
だが、このままでいいはずがない。
ケンガセンがためらったのは、数秒だった。おおきく息を吸い、軽く目を閉じる。木星圏ではよく信奉される、万物の精霊の長たる黄色の神に祈った。この年になってそんなものにすがるとは思わなかった、と苦笑いする。
「そこまでだ」
ヨルの腕を力強く掴んだ。
少女は身をかたくした。よほど息を止めていたのか、開いた口が空気を求めて喘ぐような音を発した。手先が滑る。ヨルは操縦桿から手を離した。コントロールを失った潜水艇が、たちまち菌糸の網にひっかかる。船内がおおきく揺れた。
周囲の糸が一斉に意思を持ち、包囲の輪をせばめてくる。見ると菌糸のいくつかには、半分溶けたシャトルのゾンデが張りついていた。
ケンガセンはヨルを見下ろした。少女は唇をきつく噛んで、泣きそうな顔をしていた。
「話してくれないか、ヨル」
「母さん、この先にいる」
「わかっているだろう。ここは三年も死体が残るような場所じゃない」
ヨルは首を振った。
「声がした。母さんは死んでない」
どういうことだ。ケンガセンは首をかしげた。彼女はおかしくなったのか。いや、彼が見る限り、ヨルは極めて正気だ。そうだとすれば……。
「きみのいう『ばあちゃん』がそういっているのか」
ヨルはふたたび首を振った。
「ばあちゃんは帰れっていってる。こっちに来るなって」
ケンガセンは混乱した。ポッドというのがどういう装置で、それがなんの暗喩かは理解しているつもりだ。寿命がきたヨルの祖母は、記憶をデータとして吸い出され、ローカルネット上を生きる電脳体『ばあちゃん』となってあの知識の館からヨルにコンタクトしている……はずではなかったのか。
いや待て、と不意に気づく。どうしてヨルだけがウェイプスウィード内でも『ばあちゃん』とコンタクトできるのかと訊ねたとき、彼女はなんと答えたか。
ウェイプスウィードの内部に中継が存在するのだ。彼女はそういったはずだ。
だがそれが、真実のすべてではなかったら?
「なにをするつもりだった」
「ウェイプスウィードを、殺す」
「バカなことをいうな」
潜水艇に存在する武装など、アンカーとして利用できる銛くらいだ。ひょっとしたらサメくらいなら殺せるかもしれないが、それ以上の生き物を相手にすることなど……。
正面のモニターに、ひときわ巨大な構造物が映っている。菌糸が濃密にからまりあった、高さ五十メートル、全長二百メートル程度のドーム状の構造物が、海底に鎮座していた。ケンガセンにはそれが、白い繭のように見えた。
「あそこになにがある。いや、なにがいるんだ」
ケンガセンの問いを受けても、ヨルは押し黙ったままだった。船体各所にとりつけられたカメラの視界を、白い菌糸が塞いでいく。いまや潜水艇はミセリウトに幾重にも取り巻かれて、身動きができないほど拘束されていた。
「母さんの、仇」
少女は、やっとの思いでその言葉を吐き出した。きつく閉じたまぶたから、涙が頬を伝い落ちた。
「祖母に殺された、といっていたな。きみのいう『ばあちゃん』は、あそこにいるのか」
ケンガセンはモニターの中の白い繭を睨んだ。ウェイプスウィードの中心。おそらくはさまざまな謎を解く鍵が、彼らの目と鼻の先にある。
「いったいどういうシステムなんだ」
だが、いまはそんなことを考えている場合ではない。
「あんなでかいやつをどうやって殺すつもりだった」
「キマの葉、ばらまく」
なるほど、とケンガセンはうなずいた。
「あそこが、頭脳」
ヨルは真剣だった。きっと、この瞬間のためにケンガセンを利用していたのだ。
「タンクにキマの葉の粉末を詰めていたのは、そのためか」
たいした容積のない収納スペースではあるが、潜水艇には予備タンクが存在する。いざというときにはバラストとして使用することもできるのだが、ヨルの勧めにより、今回はその中に大量の粉末状にしたキマの葉を詰め込んでいた。あれを至近距離からばらまけば、たしかにウェイプスウィードの中枢神経を破壊し尽くすことができるかもしれない。
しかし……。
「ダメだ。そんなことはさせられん」
ケンガセンは首を振った。睨むヨルの頭をやさしく撫でる。
「すまんな。だがそれはダメだ。……なあ、ヨル。あれは、いや、こいつらは」
ケンガセンは周囲を見渡した。いまやすべてのカメラを覆い尽くした菌糸は、なおも潜水艇を締め上げている。いくつかのカメラは機能を停止していた。菌糸が分泌する酸性の液体で溶かされたか、あるいはなにか他の不具合が出たか。長くこの場に留まっていれば、いずれはケンガセンとヨルも……。
だが、とケンガセンは思う。それでも殺すことはできない。研究者だからだ。
「きみの『ばあちゃん』は、ウェイプスウィードに操られているんだな」
ヨルは険しい表情でケンガセンを見つめる。胸もとで握られた両手が震えていた。目の前に死が迫っているというのに、怖がっているのではなかった。烈火のごとき怒りを必死にこらえているのだ。
ああ、どうして自分は気づけなかったのだろう。ケンガセンは呻いた。彼女のこの常軌を逸した衝動に、強い怒りに、そして彼女を取り巻く、複雑で、そして想像を絶した世界に。
「そうだ。ウェイプスウィードは、知性を持っている。利用してきみたちとコンタクトを取っていた。いや、そこにある装置を使って、おれたちコロニーの人間ともか。それがいつ頃から行われていたのかはわからないが、ともかくいまの知識の館は、いやきみのいう『ばあちゃん』たちは、ウェイプスウィードの支配下にあって、ウェイプスウィードの意思のもとに動く存在なんだな」
知識の館はウェイプスウィードの中に通信の中継点を持っている。彼女は『ばあちゃん』からそういわれた。ケンガセンもそう思っていた。
逆なのだ。ケンガセンはいまこそ理解した。ウェイプスウィードの中に『ばあちゃん』たちの活動するサーバーが存在するのである。知識の館の中枢は、ウェイプスウィードの中にあるのだ。
(その6へ続く)