劉慈欣『三体』刊行記念! 短篇「円」特別公開

7月4日(木)は、2019年最大の話題作、劉慈欣『三体』の刊行日です!(『三体』とは? というかたは、ぜひこちらの記事をご覧ください)そこで、なんと『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』に収録した、『三体』から抜粋した章の改作でもある、劉慈欣の傑作短篇「円」を、ここで全文掲載いたします! いちど読めば、劉慈欣の閃きとスケールの壮大さがすぐにわかるはず!


The Circle
中原尚哉訳

秦の首都咸陽(かんよう)、紀元前二二七年(*注1)

 荊軻(けいか)は、絹布の巻き物の地図を低く長い卓子の上でゆっくりと広げた。
 卓子のむかいにいる秦の政(せい)王は、敵国の山河があきらかになるのを見て、満足げにため息をついた。荊軻は燕王の降伏のしるしを献上するために来ていた。地図に描かれた田野、道路、市街、城砦を見るぶんには落ち着いていた。しかし広大な領土を実際に見たときは、無力感を覚えずにいられなかった。
 荊軻が巻き物を開き終えたとき、きらりと金属が光って、鋭利な短刀があらわれた。正殿の空気が瞬時に凍りついた。
 王の下臣は三丈(約十メートル)以上離れており、そもそも武器をたずさえていなかった。衛兵はさらに遠く、正殿の階段下に控えている。王の安全のための措置だが、刺客には逆に有利だった。
 政王は落ち着きはらっていた。短刀を一瞥して、冷静な目を鋭く荊軻にむけた。注意深い王の目は、短刀のむきを見て取っていた。王のほうにはその柄がむき、刃は刺客自身にむいている。
 荊軻は短刀を手にとった。正殿の全員が息を呑んだ。しかし政王は安堵の息をついた。荊軻の手は切っ先を持ち、王には柄をむけていた。
 荊軻は短刀を捧げ持ち、深く低頭した。
「陛下、これでわたしを殺してください。燕の太子丹(たん)からお命を奪えと命じられました。主君の命令には背けませんが、王を深く敬う気持ちから実行もできません」
 政王は動かなかった。
「陛下、軽く突いていただければけっこうです。この短刀には毒がたっぷり塗られています。すこし刺せば絶息します」
 政王はすわったまま片手を挙げて、正殿へ殺到しようとする衛兵たちを制した。そして表情を変えずに言った。
「殺さずとも安心である。言葉を聞いて、そなたが殺意を持たぬことがわかった」
 荊軻は短剣の柄をさっと右手で包んだ。切っ先は自身の胸にむけたままで、自害する姿勢だ。
 政王は冷たく続けた。
「そなたは学者だ。死ぬのは浪費である。その知と才でわが軍を助けよ。どうしても死にたいなら、まず朕のために事を為してからにせよ」
 そして手を振って荊軻に退出を命じた。
 燕からの刺客は短刀を卓子におき、低頭したまま正殿から退がった。
 政王は立ち上がり、正殿の外に出た。空は青く晴れ渡り、そこに夜が残した淡い夢のように、白い月が浮かんでいた。
 政王は、階段を下りる途中の刺客を呼び止めた。
「荊軻、昼に月が見えることはよくあるのか?」
 刺客の白い式服がまばゆい白光を照り返した。
「太陽と月が同時に空に昇ることはめずらしくありません。月の暦でいうと毎月四日から十二日までは、天気さえよければ昼のいずれかの時間に月が見える可能性があります」
 政王はうなずき、つぶやいた。
「なるほど、めずらしくないわけか」

 二年後に、政王は荊軻を呼んで謁見した。
 荊軻が咸陽の宮殿に到着すると、正殿から三人の官吏が衛兵の手で連れ出されているところだった。職位の記章を剥がされ、冠もない。二人の顔は血まみれで衛兵に引っ立てられて歩いている。三人目はもはや恐怖で歩けず、左右から衛兵にかかえられている。うわごとのようにつぶやいているのは政王への命乞いだ。〝薬〟という言葉も何度か聞こえた。三人とも死罪を宣告されたらしい。
 荊軻が参内すると、政王はなにごともなかったかのように上機嫌だった。連行される三人の官吏をしめして、説明がわりにこう言った。
「徐福(じょふく)が東の海からもどらぬのだ。となると、だれかが責任を負わねばならぬ」
 徐福は方士で、東の海のむこうの三神山へ行って不老不死の霊薬を持ち帰ると主張した。政王は多数の船に三千人の童男童女と、不死の秘術を知る仙人へ贈る宝物を山と積んであたえた。しかし船団は三年前に出港したきり音沙汰がなかった。
 政王は手を振って不愉快な話題を打ち切った。
「そなたはこの二年間にいくつも驚くべき発明をしたな。新式の弓は旧式の倍も飛ぶ。新工夫の発条(ばね)をそなえた戦車は荒れた地形でも減速せずに乗り越える。新たに設計した橋は半分の材料でより頑丈になっている。感心したぞ。どこからそんな発想が出てくるのだ?」
「天の理(ことわり)にしたがえば、為せぬことはありません」
「徐福もおなじことを言ったが」
「陛下、僭越ですが、徐福は詐欺師です。空虚な瞑想をいくらくりかえしても宇宙の秩序は理解できません。あのような輩に天の声は聞こえません」
「天の声とはどのようなものか」
「数学でございます。数字と図形こそ天からこの世に送られる言葉です」
 政王はなるほどとうなずいた。
「おもしろい。では、そなたがいま研究しているのはなんだ」
「陛下のために天の言葉をよりよく理解しようと努めております」
「進捗はあるか?」
「はい、それなりに。宇宙の秘密が詰まった宝物庫の扉のまえに立った気分になることもしばしばです」
「天はどのようにその謎を伝えるのだ? さきほど天の言葉は数字と図形であると申したが」
「とりわけ円です」
 政王の困惑顔を見て、荊軻は筆を所望して許された。そして低い卓子に広げた絹布に円を一個描いた。円規(コンパス)もほかの製図道具も使っていないのに、完璧な円に見えた。
「陛下、人間の手になる物体をのぞいて、自然界で真円を見たことがおありですか?」
 政王はしばし考えた。
「あまりないな。鷹の目をしげしげとのぞきこんで、とても丸いと思ったことはあるが」
「そうですね。ほかにも、ある種の水生動物が産む卵や、水滴と葉がつくる断面などがいい例でしょう。しかし厳密に測ってみると、いずれも真円とはいえません。ここに描いた円もそうです。どれほどきれいな円に見えても、肉眼では判別できない誤差や不完全さがあります。実際には真円ではなく楕円にすぎません。わたしは長らく真円を追い求めてきました。そして、それは地にはなく、天にのみ存在するとわかったのです」
「ほう?」
「陛下、屋外へおいで願えませんか」
 荊軻と政王は正殿の外へ出た。この日も好天で、快晴の空に月と太陽が同時に見えた。荊軻はその空を指さした。
「太陽と満月はいずれも真円です。地上にはない真円が空にはあります。一個ならず二個も。それが空のもっとも重要な性質です。その意味するところはきわめて明確です。天の秘密は円のなかにあるのです」
「しかし円は形として単純すぎるのではないか。直線をのぞけばこれほど複雑さを欠いた形もないぞ」
 政王はそう言ってきびすを返し、正殿にもどった。
 荊軻はあとを追った。
「その単純な外見に深遠な謎が隠れているのです」
 低い卓子にもどると、荊軻はふたたび筆をとって絹布に四角を描いた。
「この四角をご覧ください。長辺は四寸、短辺は二寸です。天の声はこの数字にもあらわれます」
「どのようにだ?」
「長辺と短辺の比は二であると」
「朕をからかっておるのか?」
「滅相もありません。これは単純な例です。次はこれです」
 荊軻はべつの四角を描いた。
「今度は長辺が九寸、短辺が七寸です。ここにはもっと豊かな天の声があらわれています」
「見たところ単純そうだが」
「ちがいます、陛下。この長辺と短辺の比は、一・二八五七一四二八五七一四二八五七一四……となります。〝二八五七一四〟という並びがくりかえすのです。どこまで計算しても正確には決まりません。それでも天の声は明快で、多くの意味が読みとれます」
「おもしろい」
「では次に、天からあたえられたもっとも謎めいた図形である円をご覧いただきましょう」荊軻はさきほどの円に、中心を通る直線を描きいれた。「円周と円の直径の比は三・一四一五九二六とはじまり、数字が無限に続きます。しかし、どこまでいってもくりかえしはあらわれないのです」
「くりかえさないのか?」
「くりかえしません。天と地のあいだをおおう巨大な絹布をご想像ください。円周率の数字を蠅の頭ほどの小さな字で、ここから空の果てまで書いて、またもどって次の行をはじめるとします。そうやっても数字に果てはなく、またくりかえしはあらわれません。陛下、この無限の数列に宇宙の謎があるのです」
 政王の表情は変わらないが、目が輝いた。
「その数字を求めたとして、天の伝言をどう読みとるのだ?」
「方法はいろいろあります。たとえば数字を座標として扱えば、新しい図や形を描けます」
「どんな図になる?」
「わかりません。宇宙の謎を描く絵になるかもしれませんし、論文や、もしかしたら一冊の本になるかもしれません。しかしまず円周率を充分な桁数まで出すことが重要です。おそらく数万桁、あるいは数十万桁まで計算することが、意味を理解するために必須でしょう。現状でわたしが計算したのはやっと百桁ほどで、隠れた意味を探るにはまったくたりません」
「百桁? たったそれだけか?」
「陛下、このわずかな桁数まで計算するのに十年以上かかりました。円周率を計算するには、円に内接する多角形と外接する多角形を求める必要があります。多角形の辺が増えるほど正確になり、桁数も伸びますが、一方で計算の手間が飛躍的に増え、進まなくなるのです」
 政王は円とそれを横断する直線をじっと見た。
「不老不死の秘密もここから発見できるか?」
 荊軻の声は浮き立った。
「もちろんです。生と死は、天が地にあたえた基本則の一つです。ゆえに生と死の謎はこの伝言にふくまれるはずです。不老不死の秘密も同様に」
「ならば円周率を計算せよ。二年で一万桁を計算せよ。さらに五年で十万桁を求めよ」
「それは……不可能です!」
 政王は長い袖を打ち振り、卓子の絹布と墨と筆を床に払い落とした。
「そのために必要なものがあるなら、なんでも申せ」そして荊軻を冷たくにらんだ。「しかしかならず期限までに計算を為し遂げよ」

 五日後に、政王はふたたび荊軻を召し出した。ただし今回は咸陽の宮殿ではなく、王が領地をめぐる行幸の列に呼び寄せた。さっそく政王は計算の進捗を荊軻に尋ねた。
 荊軻は低頭して答えた。
「陛下、この種の計算ができる数学者を全土から集めましたが、八人がやっとでした。わたしをいれて九人です。必要な計算量から推測すると、死ぬまで計算しても、求められる円周率はせいぜい三千桁ほどです。二年ではどうがんばっても三百桁にしかなりません」
 政王はうなずいて、しばらく同道するように荊軻に命じた。行列はやがて高さ二丈ほど(約六メートル)の花崗岩の石碑のもとへ来た。石碑は頂上に穴をうがたれ、牛革をよった太い縄を通して、巨大な振り子のように木製の構造物から吊られている。石碑の平たい底面は、おおむね地面に立った人の頭の高さにある。石の表にはなにも彫られていない。
 政王はこの宙づりの石碑をしめして話した。
「よいか。期限までに計算を為し遂げられれば、これはそなたの偉業をたたえる石碑になる。地面に建てて、数々の業績を彫ればよい。しかしもし計算を終わらせられなかったら、これはそなたの屈辱の碑となろう。その場合も地面に建てるが、そなたをこの下にすわらせてから縄を切る。すなわち墓石となる」
 荊軻は目を上げて、視界を埋めるほど巨大な宙づりの石を見た。雲が流れる空を背景にしているせいで、黒い石塊はよけいに威圧的に見えた。
 荊軻は王にむきなおった。
「この命はかつて陛下にお赦しいただいてあるものです。たとえ期限内に計算を終えようと、陛下のお命を狙った罪は消えません。ゆえに死は恐れません。あと五日、考える猶予をください。それでも妙案が浮かばなければ、従容として石碑の下に座しましょう」

 四日後に、荊軻は謁見を願い出て、即座に許された。円周率の計算は王の頭のなかで最重要の課題になっていたからだ。
「その顔からすると、妙案が浮かんだようだな」
 王は笑みとともに言った。荊軻はすぐに答えた。
「陛下は初めに、必要なものがあるならなんでも申せとおっしゃいました。お約束はいまも変わりませんか?」
「もちろんだ」
「では王の軍隊から三百万の兵をお貸しください」
 数字を聞いても王は驚かなかった。眉をすこし上げただけだ。
「どのような兵だ?」
「現在軍務についている一般兵で充分です」
「知っていると思うが、朕の兵のほとんどは読み書きができぬぞ。二年間で複雑な数学を教えこむのは難しい。まして計算をやりとげるのは無理だ」
「陛下、どれほど愚鈍な兵でも一時間もあれば覚えられることをやらせます。実演してごらんにいれますので、いま兵を三人お貸しください」
「三人だと? それだけでいいのか? 三千人でもすぐに用意できるぞ」
「三人でけっこうです」
 政王は手を振って兵を三人呼んだ。みな若い。秦の兵らしく、機械のように忠実に動く。
「諸君の名は知らない」荊軻は二人の兵の肩を叩いた。「きみたち二人には数字の入力を担当してもらうので、それぞれ〈入力一〉、〈入力二〉と呼ぶ」最後の兵をしめして、「きみには数字の出力を担当してもらう。そこで〈出力〉と呼ぶ」
 そして必要な位置に動かした。
「こうだ。三角形に並べ。頂点に〈出力〉、底辺の両端に〈入力一〉と〈入力二〉が立て」
「楔形攻撃陣形と命じたほうが早いぞ」
 政王はにやりとして荊軻を見た。
 荊軻は六本の旗を用意していた。白三本、黒三本で、三人の兵に白黒一本ずつ持たせた。
「白は数字の零、黒は一をあらわす。よろしい、ではよく聞け。〈出力〉、きみはうしろむきになり、〈入力一〉と〈入力二〉にむきあえ。そして二人がどちらも黒旗を上げたら、きみも黒旗を上げろ。それ以外の場合は白旗を上げろ」
 荊軻は指示をくりかえして、三人の兵によく理解させた。そして大声で命令しはじめた。
「でははじめよう! 〈入力一〉と〈入力二〉はどちらでも好きな旗を上げていい。よし、上げろ! よし。また上げろ! 上げろ!」
〈入力一〉と〈入力二〉は旗を三回上げた。一回目は黒と黒。二回目は白と黒。三回目は黒と白だった。〈出力〉は毎回正確に反応し、黒旗を一回、白旗を二回上げた。
「よくできた。陛下、とても賢い兵たちです」
 政王はわけがわからないという顔だ。
「それくらい、ばかでもできるだろう。いったいこれでなにをやろうというのだ?」
「この三人の兵が構成しているのは計算機構の構成要素の一つで、わたしは論理積門(ANDゲート)と呼んでいます。門(ゲート)への入力がどちらも一なら、出力結果も一です。しかしどちらかの数字が零の場合、すなわち零と一、一と零、零と零のときは、出力結果は零になります」
 荊軻は政王が内容を頭にいれるのを待った。王は気乗りのしないようすで言った。
「まあいい。続けよ」
 荊軻は三人の兵にむきなおった。
「ではべつの要素をつくろう。〈出力〉、きみは〈入力一〉または〈入力二〉が黒旗を上げたら、黒旗を上げろ。出力が真になる場合は三つある。黒と黒、白と黒、黒と白だ。白と白を見たら、きみは白を上げろ。わかったか? よし、きみは優秀だ。ゲートが正確に機能するにはきみが肝心だ。努力すれば報いがあるぞ。ではやってみよう。上げろ! よし、また上げろ! また上げろ! 完璧だ。陛下、この要素は論理和門(ORゲート)というものです。二つの入力のどちらかが一なら、出力も一になります」
 さらに荊軻は三人の兵を使って、否定論理積門(NANDゲート)、否定論理和門(NORゲート)、排他的論理和門(XORゲート)、否定排他的論理和門(XNORゲート)、三状態門(トライステートゲート)をつくった。最後に二人の兵で、もっとも単純な否定門(NOTゲート)をつくった。この場合は、〈出力〉は〈入力〉が上げたのと反対の旗を上げる。
 荊軻は政王にむかって低頭した。
「以上、すべての計算要素を実演しました。三百万の兵が習得すべき技術はこれだけです」
 政王はまったくわからないという顔で言った。
「このように単純で子どもじみた遊びで、どうやって複雑な計算をしようというのだ」
「陛下、この宇宙の複雑なものも、じつは単純な要素の積み重ねでできています。単純な要素を大量に集め、適切に組み立てることで、きわめて複雑な能力を発揮します。三百万の兵がいれば、ただいま実演した門(ゲート)を百万個つくれます。それらを陣形に配置すれば複雑な計算が可能になります。わたしはこの発明を計算陣形と呼んでいます」
「これでどうすれば計算できるのか、まだわからぬ」
「具体的なやり方は複雑です。ご興味がおありなら、あとで詳しくご説明いたします。とりあえず、この計算陣形は数字の考え方と記述の新方式にもとづいていることをご理解ください。この方式で必要な数字は、白旗と黒旗に対応する零と一、この二つだけです。しかしこの零と一であらゆる数字をあらわせます。また計算陣形は単純な要素を使って大きな数字を扱うことで、全体として高速な計算を実行できます」
「三百万はわが軍の全兵力にひとしい。しかし、あたえよう」政王はいわくありげにため息をついた。「急げ。老けこんだ気分だ」

 一年がすぎた。
 ふたたび太陽と月がいっしょに空に昇った快晴の日。政王と荊軻は高い石の壇上に立っていた。背後には王の下臣が並んで控える。壇の下では、秦軍三百万の兵が一辺十里(約五キロメートル)の方陣を組んでいる。午前の光に照らされた兵たちは、三百万の兵馬俑のように微動だにしない。しかしそばへ飛んできた鳥の群れは、殺気を感じ取ってあわてて飛び去った。
 荊軻は王に言った。
「陛下の軍は優秀でございます。きわめて短期間のうちに、かくも複雑な訓練をこなしました」
 政王は長剣の柄に手をおいた。
「全体は複雑でも、一人一人の兵の動作は単純きわまりない。わが軍の日頃の軍事訓練にくらべればなにほどでもない」
「では陛下、大命を拝したく存じます」
 荊軻の声は興奮で震えた。
 政王はうなずいた。衛兵が駆け寄り、王の長剣の柄を持ってあとずさりはじめた。青銅の剣はとても長く、補助なしには鞘から抜けない。衛兵は膝を屈し、抜き身の剣を捧げ持った。政王はその剣を空にかかげて声をあげた。
「計算陣形をつくれ!」
 陣鼓が打ち鳴らされた。壇の四隅におかれた青銅の大釜から轟然と炎が上がる。そのそばに立つ軍人たちが方陣にむかって声をそろえて命じた。
「計算陣形をつくれ!」
 壇の下の方陣でさまざまな色がうごめき、移動しはじめた。複雑で緻密な回路の模様があらわれ、全体に広がっていく。十分後には、軍は百平方里(約二十五平方キロメートル)の計算陣形に整列しなおした。
 荊軻は陣形をしめして解説した。
「陛下、この陣形を〈秦一号〉と名付けました。ご覧ください、中心にあるのは核となる計算要素の集まり、中央処理小陣形です。精鋭の兵たちで構成されています。図面をご参照いただければ、周囲の小陣形もわかります。高速保存(クイックストレージ)小陣形、後入先出記憶(スタックメモリー)小陣形などがあります。そのまわりのきわめて規則的に整列した集団は記憶(メモリー)小陣形です。これを構成するにあたってはさすがに兵が不足しました。しかしさいわいにもこの要素に求められる動作はとても単純なので、それぞれの兵により多くの色の旗を持たせました。これで二十人分の仕事を一人でこなせるようになりました。これによって記憶容量が増加し、円周率の計算手順を走らせるのに必要最小限を満たせました。陣形全体の外周をめぐる無人の通路もご覧ください。あそこでは軽騎兵が命令を運びます。この機構の重要な通信線であり、構成部門間の情報のやりとりをになっています」
 二人の兵が、人の背丈ほどもある大きな巻き物を運んできて、政王のまえで広げた。巻き物が最後まで開くとき、壇上の人々は数年前に宮殿で起きた事件を思い出して息を詰めた。しかしあのときのような短刀はあらわれなかった。広げられた大きな絹布には蠅の頭ほどの小さな記号がびっしりと書かれている。あまりに細かいため、壇の下の計算陣形を見るときとおなじくめまいがしそうだった。
「陛下、円周率計算のためにわたしが開発した手順には序列があります。ご覧ください──」荊軻は壇の下の計算陣形をしめした。「──待機している兵の陣形を、硬件(ハードウェア)と呼びます。対してこの布に書かれているのは、計算陣形にいれる魂のようなもので、軟件(ソフトウェア)と呼びます。硬件(ハードウェア)と軟件(ソフトウェア)の関係は、古琴と楽譜のようなものです」
 政王はうなずいた。
「よろしい。はじめよ」
 荊軻は両手を頭上にかかげて、おごそかに宣した。
「大王陛下の命により、計算陣形を始動する! 機構の自己点検!」
 石の壇から半分下がったところに立つ兵の列が、手旗信号を使って命令を反復した。たちまち三百万の兵による陣形で小旗が打ち振られた。まるで湖面が波立ち、きらめくようだ。
「自己点検完了! 初期化進行を開始! 計算手順を読み込み(ロード)!」
 主通信線の軽騎兵が計算陣形のなかへ駆けこみ、忙しく往復しはじめた。主通路はたちまち逆巻く川のようになった。川は無数の支流に分かれて、部門ごとの小陣形にはいっていく。黒旗と白旗の波が重なって大波となり、陣形全体に広がった。中央処理小陣形がとくに忙しく、まるで着火した木屑のようだ。
 ふいに、燃料がつきたように中央処理小陣形の動きが鈍り、まもなく止まってしまった。そこを起点に周囲にも停滞が広がっていく。まるで湖が凍っていくようだ。ついに計算陣形全体が停止し、ごく一部の要素がちかちかと無限循環の動作をくりかえすだけになった。
「閉塞(ロックアップ)しました!」
 信号担当の将官が報告した。誤作動の原因はすみやかに特定された。中央処理小陣形の状態記憶単位のなかで門(ゲート)の一つが誤った動作をしたのだ。
「機構を再起動(リスタート)!」荊軻は自信を持って命じた。
「待て」政王は剣の柄に手をかけた。「誤作動した門(ゲート)を交代させ、それを構成していた兵らの首を刎ねよ。以後、誤作動には同様の処置をする」
 数人の騎兵が抜刀して方陣に駆けこんだ。不運な三人の兵は殺され、新たな兵が配置された。壇上からは中央処理小陣形にできた三つの血の海がいやおうなく目を引く。
 荊軻は機構を再起動した。今度はうまくいった。十分後には兵たちは円周率計算の手順をこなしはじめた。方陣全体で旗が波打ち、長い演算処理がされていった。
 政王は壮大な眺めをしめした。
「まことに興味深い。一人一人のふるまいは単純そのものだが、集まると複雑な知性があらわれている」
「陛下、これは機械が機械的に動いているだけです。知性ではありません。下々の兵はただの〝零〟です。陛下のような人物がそのまえに立って〝一〟を加えることによって、全体が意味を持つようになります」
 荊軻は卑屈な笑みで答えた。
 政王は尋ねた。
「円周率を一万桁まで出すのにどれほどかかるか?」
「十カ月ほどでしょう。順調に進めばもっと早いかもしれません」
 すると王翦(おうせん)将軍(*注2)が歩み出た。
「陛下、ご用心ください。通常の軍事作戦においてもこのような開けた場所で全軍を一カ所にまとめるのは危険です。ましてこの三百万の兵は丸腰で、持っているのは信号旗のみ。計算陣形は戦闘の構えではないため、攻撃されればきわめて脆弱です。これだけ密集した兵を整然と退却させるには、平時でも丸一日かかりますし、まして攻撃を受けたら退却は不可能です。陛下、敵国から見たこの計算陣形はまさにまな板の上の鯉です」
 政王は答えず、荊軻に目をむけた。荊軻は低頭して言った。
「王将軍のおっしゃるとおりです。この計算を進めるかどうか、慎重にご判断ください」
 荊軻はこれまでになく大胆な挙に出た。顔を上げて、政王に視線をあわせたのだ。政王はすぐにその意味を察した──これまでの成果は〝零〟にひとしいものです。陛下ご自身が不老不死を求め、〝一〟を加えることによってのみ、意味を持つのです……。
「将軍は心配しすぎだ」政王は軽んじるように袖を振った。「韓、魏、趙、楚はすでにわが軍門に降った。残るは燕と斉のみ。しかしいずれも率いるのは愚王だ。民は疲弊し、国は崩壊寸前で、わが国の脅威にはなりえない。放っておいても、円周率の計算が完了するまでにこの二国は自壊し、大国の秦に降伏してくるだろう。ただ将軍の用心にも理はある。計算陣形からやや離れたところに警戒線をもうけ、燕と斉の動向監視をさらに強めるとしよう。これで安全だ」
 長剣を空にかかげて、おごそかに宣した。
「計算はやり遂げる。そう決した」

 計算陣形は一カ月間順調に稼働した。結果は予想以上だった。計算された円周率は二千桁を超えた。兵たちが動作に慣れ、荊軻も計算手順を改良していけば、将来はもっと速度が上がるだろう。三年もあれば十万桁の目標に到達できそうだ。

 計算開始から四十五日目の朝は、濃霧だった。計算陣形は白くかすみ、壇上からは全体がまったく見渡せない。陣形のなかの兵も周囲の五人くらいしか見えなかった。
 しかし計算陣形の稼働は霧程度に影響されないように設計されており、止まることはなかった。霧のなかで大声の命令が飛び、主通信線を駆ける軽騎兵の蹄の音が響く。
 しかし計算陣形の北端の兵の耳には、べつの物音が届きはじめていた。初めは聞こえたり消えたりで、気のせいかとも思えた。しかししだいに音は大きく、連続した轟きになった。まるで霧の奥で遠雷が鳴っているようだ。
 それは何千頭もの馬の蹄の響きだった。強力な騎兵軍団が北から計算陣形に近づいている。頭上にひるがえるのは燕の旗幟。騎兵は隊列を乱さないように速度を控えていた。急ぐ必要はない。
 計算陣形の端まであと一里(約五百メートル)に迫って、ようやく騎兵軍団は突撃を開始した。前衛が陣形に突入したときでも、秦兵は敵の姿がろくに見えていなかった。この序盤の突入で数万人の秦兵が騎馬の蹄にかかって死んだ。
 そのあとの展開は戦闘ではなく、たんなる虐殺だった。燕軍の司令官は戦前から実質的な抵抗はないと予想していた。大量殺戮を効率よく実行するために、騎兵は戟(げき)や矛(ほこ)といった伝統的な武器を使わず、長剣や釘歯棍棒を装備していた。燕の数十万の重装騎兵は死の雲となり、文字どおり鎧袖一触で秦兵を倒していった。
 計算陣形の中心部を警戒させないよう、燕の騎兵は静かに行動した。人ならぬ機械のように殺していった。それでも秦兵の断末魔の叫びは抑えようもなく、霧をついて遠く広く聞こえた。
 ところが計算陣形の秦兵は、外の騒ぎに惑わされず計算要素としての任務に専念するように、死の恐怖とともに訓練されていた。さらに濃霧のせいもあって、計算陣形の大部分は北側からの攻撃に気づかなかった。死の領域は徐々に、着実に陣形を侵食していった。地面は血でぬかるみ、累々たる死体でおおわれる。それでも陣形はあいかわらず計算に没頭していた。ただし、誤りが全体で増えていた。
 騎兵軍団の第一波のうしろには、燕軍の十万以上の弓兵隊が控えていた。長弓で計算陣形の中心部を狙う。たちまち数百万本の矢が嵐のように襲い、ほとんどが的を貫いた。
 ここにいたってようやく計算陣形の隊列は崩れはじめた。敵襲の報は混乱に拍車をかけた。主通信線の軽騎兵は敵出現の情報をもって駆けたが、主通路をふさがれたため、あわてて兵の密集した区画を突っ切ろうとした。そのせいで多数の秦兵が味方の蹄にかかって命を落とした。
 計算陣形の東、南、西側はまだ攻撃されておらず、そのあたりの秦兵は算を乱して逃げはじめた。情報がなく、指揮系統が寸断されているため、退却は遅々として進まず混乱した。目的を失った計算陣形は、まるで濃度と粘度の高いインクのようだった。水に溶けず、縁から細い糸のようににじみ出すだけだ。
 東へ逃げた秦兵は、斉軍の整然たる隊列に行く手をはばまれた。斉軍の司令官はすぐには攻撃させなかった。歩兵も騎兵も堅固な防衛線を守り、逃げてくる秦兵を誘いこめと命じられていた。そして充分に囲いこんでから殺戮をはじめた。
 絶体絶命で戦意もない秦軍にとって、活路は南西しかない。数十万の武器すら持たない男たちが濁流のように平原に流れ出た。しかしまもなくその行く手も第三の敵にはばまれた。匈奴の獰猛な騎兵軍だ。まるで狼が羊の群れを狩るように秦軍を殲滅していった。
 殺戮は正午になっても続いた。強い西風がようやく霧を払い、広い戦場が白日の下にさらされた。
 燕、斉、匈奴の各軍は、あちこちで包囲網をつくって秦軍の残党を追いこんでいた。三軍の騎兵は秦兵にくりかえし突撃し、負傷兵やわずかな逃亡兵は歩兵が掃討した。火で追い立てた雄牛の群れや投石器を使って効率よく残党狩りが進められた。
 日が暮れ、屍山血河の戦場にようやく悲しげな法螺貝が吹き鳴らされた。秦軍の最後の敗残兵は三カ所で包囲されるのみになっていた。
 夜は満月が昇った。冴えざえとした白い月光が地上の殺戮を無機質に照らし、死体の山も血の海も液体のような静謐な光で包んだ。殺戮は夜どおし続き、終わったのはようやく明け方だった。
 大国秦の軍は一兵残らず消えた。

 一カ月後に斉燕連合軍が咸陽に入城し、政王を捕縛した。これにより秦国は滅亡した。
 政王の処刑日に選ばれたのもまた太陽と月が同時に昇る日だった。紺碧の空に雪片のような月が浮かんでいた。
 荊軻のために用意された石碑はまだ空中に吊られていた。政王はその下にすわり、燕の死刑執行人が牛革の綱を切るのを待った。
 処刑見物の野次馬のなかから、荊軻が歩み出た。白ずくめの衣をまとい、政王のまえに出て低頭した。
「陛下」
「そなたの心はつねに燕の刺客だったのだな」政王は顔を上げずに言った。
「はい。しかし、王のお命を頂戴するだけでは不足でした。軍を壊滅させる必要がありました。数年前のあのとき陛下を刺し殺しても、秦は強勢なままでした。明敏な軍師の助言を受け、経験豊富な将軍に率いられる百万もの秦軍は、変わらず燕を滅ぼしうる脅威だったはずです」
 政王は生前最後の問いを発した。
「朕が気づかぬまにあれだけの大軍を送りこむとは、どんな策をもちいたのだ?」
「計算陣形の訓練と試験運用をしている一年間に、燕と斉は三本の隧道(トンネル)を掘ることに専念しました。いずれも全長百里(約五十キロメートル)におよび、騎兵が通れるだけの幅がありました。哨兵に気づかれず、無防備な計算陣形のそばに連合軍を出現させたこの策は、わたしの発案です」
 政王はうなずいた。あとは口をつぐみ、瞑目して死を待った。監吏の命令に従って、死刑執行人が小刀を口にくわえて石碑の架台をよじ登りはじめた。
 政王は隣に気配を感じて、目を開いた。隣には荊軻が座していた。
「冥途へお供します。この巨石が落ちれば、二人分の石碑になるでしょう。陛下とわたしの血と肉がまじり、多少はお慰みになるかと存じます」
「なぜそんなことをする?」政王は冷ややかに訊いた。
「死にたいのではありません。燕王から死刑を命ぜられたのです」
 政王の唇に笑みが浮かび、すぐに風のように消えた。
「そなたは燕のために大事を為し遂げ、燕王以上に勇名をはせた。ゆえに燕王はそなたの野心を恐れた。当然の帰結だな」
「それもありますが、主たる理由はべつにあります。燕独自の計算陣形の創設を燕王に奏上したのです。これが処刑を命ぜられた直接の理由です」
 政王は荊軻にむきなおった。その目には心からの驚きがあらわれている。荊軻は続けた。
「疑われるかもしれませんが、真に燕の国益を思っての提案でした。たしかに秦での計算陣形は陛下の不老不死への執着を利用して国を滅ぼす謀(はかりごと)でした。しかし大発明だったのも事実です。あの演算能力をもってすれば、数学の言葉を理解し、宇宙の謎を解き明かすことが可能でした。新時代が開かれたはずです」
 死刑執行人が架台の頂上に到達し、石碑を吊る縄のまえに立った。小刀を手に最後の命令を待つ。
 遠くのきらびやかな天蓋の下から眺める燕王が、手を振って執行に同意した。監吏は大声で死刑執行を命じた。
 そのとき荊軻は、夢から覚めたようにかっと目を見開いた。
「天啓を得たり! 計算陣形に軍隊は不要。人さえ不要だ。論理積(AND)、否定(NOT)、否定論理積(NAND)、否定論理和(NOR)などの門(ゲート)は、機械部品によって構成しうる。この部品はきわめて小さくできる。これを組み合わせれば機械式の計算陣形ができる! いや、もはや計算陣形の名はそぐわない。計算機械だ! お聞きください、陛下! お待ちを!」
 荊軻は遠くの燕王にむかって叫んだ。
「計算機械です! 計算機械です!」
 死刑執行人が縄を切った。
「計算機械です!」
 三度目に叫んだのが、荊軻の最期の息になった。巨石が落ち、大いなる影が瞬時に世界を閉ざした。政王はみずからの命の終わりを見た。しかし荊軻が見たものは、新時代の幕開けをしめす曙光があえなく消えるさまだった。
(了)

*注1 この物語の舞台は中国の戦国時代で、秦、斉、楚、魏、趙、燕、韓の七国が相争っている。秦の政王はのちに他六国を倒して中国を統一し、秦王朝を開く。政王は、中国の最初の皇帝を意味する始皇帝の名で知られることになる。

*注2 政王が敵の六国を攻めるさいに重用した四人の将軍の一人。史実の王翦は、燕(荊軻の出身地)、趙、楚を滅ぼした。

The Circle(円)by Liu Cixin(劉慈欣)
Copyright © 2013 by Liu Cixin
Licensed by FT Culture (Beijing) Co.Ltd.,
Through Tuttle-Mori Agency, Inc., Tokyo
Translated from English text © 2014 by Liu Cixin and Ken Liu.

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著=劉慈欣(りゅう・じきん/リウ・ツーシン)
訳=大森 望、光吉さくら、ワン・チャイ
監修=立原透耶
装画=富安健一郎/装幀=早川書房デザイン室

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