そして夜は甦る2018

原尞の伝説のデビュー作『そして夜は甦る』全文連載、第9章

ミステリ界の生ける伝説・原尞。
14年間の長き沈黙を破り、ついに2018年3月1日、私立探偵・沢崎シリーズ最新作『それまでの明日』を刊行します。

その刊行を記念して早川書房公式noteにて、シリーズ第1作『そして夜は甦る』を平日の午前0時に1章ずつ公開いたします。連載は、全36回予定。

本日は第9章を公開。

佐伯のマンションから新宿に戻った沢崎は、独自の調査を開始する。

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そして夜は甦る』(原尞)

9

 新宿に戻ったのは四時半だった。私は百人町の裏通りにある写真屋へまわって、佐伯のマンションから持って来たフィルムを現像に出した。何が写っているか分からないフィルムを、普通のDPEに預けるのは賢明ではなかった。その写真屋は少々料金は高いが、盲目なのでたとえ法に触れるようなものが写っているフィルムでも安心して持ち込めるということになっていた。
 当時はまだ一日の半分はしらふだった渡辺と一緒に、私が初めてこの写真屋へ来たのは、確か王貞治が七五五本目か、七五六本目のホームランを打った夜だった。もう八、九年も昔のことで、渡辺が仕事が終わったら〝背番号1〟に祝杯だと言ったのだ。彼はすでに毎晩祝杯をあげる理由にはことかかなくなっていた。それ以来、この写真屋には五十本以上のフィルムを持ち込み、百本分以上の料金を払っていた。
「ここんとこ、お見限りじゃないか」と、写真屋は丸い黒眼鏡をずりあげながら言った。「渡辺の旦那からは相変わらず連絡なしかね?」手錠を掛けられたことのある人間にとっては、アル中の元警官も永久に警官なのだ。
 私は挨拶代わりの質問には答えず、千円札二枚を彼の手に握らせて訊いた。「写真はいつ受け取れる?」
 彼は頭を振った。「あたしだって旦那のことは心配してるんだぜ。フン、あしたなら何時でもいいよ。フィルムには何が写ってるんだ?」
「分かっていれば、こんなところへぼられには来ない」
「それもそうだ」彼は黄色い歯を見せて笑った。「ところで、あんたいくつになった? 左のこめかみに白いものが一本まじっているよ」
「女房をモデルにしたエロ写真のフィルムを持ち込むような連中は、おまえのニセ盲を本当に信じているのか。眼が見えなくても、現像や焼付けができると本気で信じているのか」
「さァ、どうだかね。そう思ってりゃ、写真を取りに来たときすました顔をしていられるのさ」
「労せずして集めたエロ写真のコレクションや、そのコピーで稼いでいることを知ったら、そういう連中も平気な顔ではいられないだろう」
 写真屋は黒眼鏡越しにじっと私を見た。それから、頭を振って悲しそうに言った。「そんなことは百も承知で、連中はフィルムを持ち込むのさ。あんたには、ああいう写真を撮る人間の気持が解ってないんだよ」
「そう、たぶんな。あした写真を取りに来るよ」
 私は車に戻って、五時前に西新宿のはずれにある事務所に帰り着いた。雨は霧雨になり、間もなくあがる気配を見せていたが、あたりはすっかり暗くなっていた。私はデスクの明かりのスイッチをひねって、まず電話応答サービスに電話を入れた。《はい、こちらは電話サービスのT・A・Sでございます……渡辺探偵事務所ですね……お客様には、現在のところ電話は入っておりません……いいえ、どういたしまして。毎度ありがとうございました》
 私は湿っぽくなった上衣を脱ぎ、椅子の背もたれに掛ける前に、ポケットから佐伯直樹宛ての手紙と佐伯の写真を取り出し、デスクの上に置いた。タバコに火をつけてから、佐伯宛ての手紙を手に取った。事務封筒の裏に〈府中第一病院〉と印刷されていた。私は信書隠匿罪に加えて、これから開披罪を犯すところだった。殺人事件の証拠湮滅の可能性も少なからずあった。ずいぶん大胆じゃないか、探偵──罪は愉し、というやつさ。私はデスクの上のハサミを取って、封筒の上端を切り落とした。病院の名前を印刷した便箋に、いやに達筆ぶった読みにくい字の並んだ手紙が出てきた。

 前略 お手紙拝読致しました。貴殿のお問い合せの件に就きましては、早速調査致しましたところ、確かに当病院にて去る七月十四日より同十五日まで入院治療を受けました患者と、貴殿の御友人なる方には共通点が多く、ほゞ同一人に相違ないと拝察致します。しかしながら、お問い合せになった同患者の病状、診断、治療経過などに就きましては本人、または本人の委任状持参の代理人以外には公開できませんので、悪しからず御諒承下さい。ただし、同患者の場合は七月十五日付にて担当医師の許可なく無断退院され、しかも入院時の特殊な事情から同患者のカルテは本人の氏名・住所・年齢・性別等がすべて未記入のままになっております。ひらたく申しますと、当院は同患者がどこの誰なのか全く認知していないわけです。したがって、今申し上げました委任状によるお問い合せにも応じかねることになります。
 なお、お手紙には貴殿の御友人は無断退院時に病室に医療費として金十万円を遺留されたと述べてありますが、非常に遺憾ながら当院はそれを収納いたしておりません。この件に就きましては当院の防犯及び管理問題にも関わることですので、貴殿または、同患者と思われる御友人の当院への御出頭を切にお願いする次第です。
 同患者の医療費および入院費は加入保険不明に就き、合計四万二千三百七十五円となっております。
 さらに以上のような事情により、当院は万やむをえず七月末日付で本件を府中警察署に届け出ておりますので、あらかじめ御諒承願いたいと存じます。
 もし、貴殿または御友人が今月十一月末日までに当院へ御出頭下さって、未払の件その他をすみやかに御処理下されば、当院は貴殿または御友人お立ち会いのもとに府中警察署に連絡し、双方にとりましての最善かつ穏便なる解決に努力する所存であります。
 万一今月末日までに御出頭・御連絡のない場合は、貴殿のお手紙を府中警察署に届け出ざるをえない事態になりますので、何卒宜しくお願い申し上げます。
府中第一病院 庶務課 朝倉  
   十一月二十三日

 そういう文面だった。私は手紙を封筒に戻し、タバコの煙をくゆらせながら、しばらく考え込んだ。佐伯直樹の問い合せの内容が分からないので、要領を得ないことが多かった。しかも、病院の朝倉某は患者の秘密を守る義務を楯に取って、佐伯の問い合せに答えることを拒否している。佐伯が、その病状や治療経過を知りたがった〝友人〟とは誰なのか──勝手な憶測はいくらもできるが、何の役にも立たない。
 私はデスクの一番下の引き出しの鍵を開けて、昨日佐伯のことを訊きに来た海部という男が預けていった封筒を取り出した。〈東京都民銀行〉の名前の入ったその封筒は、封がしてあったわけではないので、そのままで中身を引き出せた。本人が言った通り、手の切れるような一万円札で二十二万円あった。〝ご利用控〟と称する都民銀行のキャッシュ・カードの支払伝票が一緒に入っていた。それによれば、この金は十一月二十二日──先週の金曜日──の十時二十五分に支払われた三十万円の残金ということらしい。預金の残高は百二十万とんで九百七十二円となっている。私は急いでタバコの火を消した。伝票の下の欄に口座番号と並べて預金者の名前が〝カイフマサミ〟とプリントされていた。銀行によって、あるいはその銀行の自動支払機の機種によって、口座番号しかプリントしないものと、この伝票のように名前まで併記するものとがあるのだ。
 私はファイル・ボックスの上から分厚い五十音別の電話帳の〝上〟を持ってきてカイフマサミを探した。ありふれた名前ではないと思ったが、それでも海部正美が四人、海部正己が二人、海部雅美が一人──全部で七人のリストができた。私の探しているカイフマサミが東京都区内に住んでいて電話を持っているという根拠は何もなかったが、たった七回の電話ですむことなら試してみる価値はあった。私は受話器に手を伸ばしてしばらく考えた末、電話をかけるのはもっと遅い時間のほうが効率がいいと判断した。私は電話帳のそのページに七人のリストを挟んだ。
 伝票とお金を封筒に戻し、佐伯直樹宛ての手紙と一緒にデスクの一番下の引き出しに入れた。佐伯のスナップ写真のうちの一枚を上衣のポケットに戻し、もう一枚を引き出しにしまって、鍵をかけた。相変わらず湿っぽい上衣に袖を通して、一本しか残っていないタバコをポケットに押し込んだ。ファイル・ボックスの隣りのロッカーを開けて、ハンガーにぶらさがったコートを取った。それから、食事と食事前に用事を一つ片づけるために、私は事務所をあとにした。腹を立てると腹が減るという俗説があるが、もしそれが本当なら食前にぴったりの用事だった。

次章へつづく

次回は2月15日(木)午前0時更新

※書影はアマゾンにリンクしています。以下の書影は2月下旬から展開予定の、新装版文庫の装幀。

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